ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#2-4
#2 傷痕。
4.去りゆく勢い
「お姉ちゃん! そんなとこで寝てたら風邪ひくで!」
後ろから関西弁の女の子の声が聞こえてきた。その声は大きく、瑞穂を現実の世界に引き戻すのに充分すぎる程の音量だった。瑞穂は目を覚ました。
後ろを振り向くと、7歳くらいの女の子が、瑞穂を食い入るように見つめていた。黒い髪をポニーテールにしており、紺のオーバーオールを着ている。関西弁の女の子は、人懐こそうな笑みを浮かていた。
「あ……余計なお世話やったかな?」
「そんなことないよ。こんな所で寝てたら、風邪ひいちゃうから。ありがとう」
日は西に傾き、既に夕焼けも終わりに近づいていた。この公園、自然公園に吹く風も、次第に冷たさを増していくばかりだ。
アカネと別れた後、瑞穂はコガネシティ中を探し回ったが、結局リングマを見つけることは出来なかった。もしかしたらと思って、自然公園までやってきたのだが、やはりリングマは影も形も無かった。途方に暮れて、そのまま公園のベンチに座り込んでしまった所までは覚えていた。怪我と疲労のせいで、そのまま眠り込んでしまったのだろう。
その時、瑞穂のお腹が鳴った。女の子は楽しそうに笑った。
「もしかして、お腹空いてるん? そやったら、これあげよか?」
女の子はオーバーオールのポケットから、小袋に包まれたビスケットを取り出して、瑞穂の目の前に差し出した。再び、瑞穂のお腹が鳴る。よく考えたら瑞穂は、昼食を食べていなかった。朝食にしても、すべて吐き出してしまったので、食べていないのと同じだった。
「ほんとに……食べてもいいの?」
今にも噛みつきそうな顔で、瑞穂は訊いた。女の子が頷くと同時に、瑞穂はビスケットを口の中に放り込み、噛み砕くと飲み込んだ。
「ありがとう。私、朝からなにも食べてなかったの」
「そうやったんか。どうりで、食べるの早いわけや――」
女の子は、そこまで言うと、急に慌てたように腕につけた時計を見やった。
「あ。ウチ、もう行かなあかんわ。お姉ちゃん、バイバイやな。」
「そうなんだ……さよなら……」
瑞穂が言い終わる頃には、女の子は既に公園の外に消えていた。
――名前くらい、訊いておけばよかったかな。
独りぼっちになった瑞穂は、強い西日を眩しいと感じながら、心の奥で呟いた。
あんな事、言うつもりなかった――つい、口から出任せ言っちゃっただけなの。『許して』なんていわない。私が悪かったんだから。
お願い。私の身体、切り裂いてもいいから。せめて……一度でいいから、私の前に出てきて欲しい。そして、謝りたいの。「ごめんなさい」って。
考えれば考えるほど、自分がリングマに酷いことを言ったという思いが強くなっていった。ポケモンは、リンちゃんは、人間に、私に都合のいい道具じゃない。ちょっと、思い通りにならなかったからって、「嫌い」だなんて言うなんて。私なんて、ポケモントレーナーになる資格なんかないよ。なんであんな酷いことを、平気で言っちゃったんだろう。それに、どうして、リンちゃんの気持ちに、気付いてあげられなかったんだろう。
日の落ちたコガネシティを駆けながら、瑞穂は自己嫌悪に陥っていた。いつの間にか、辺りは真っ暗になってしまっていた。
空腹も限界に達し、足は痙攣を起こしそうになるほど疲労していた。しかし、どんな状態であろうとも、瑞穂は走るのをやめない。
このまま「さよなら」するのだけは、嫌だった。こんな後味の悪い別れ方だけはしたくなかった。
「リンちゃん……どこ? どこにいるの……?」
走りながら、瑞穂は呼んだ、大切な友達の名を。
「お願い……リンちゃん。でてきて……。私が悪かったから……」
そう呟く度に、心が痛んだ。胸の奥が貫かれるような痛みだった。それこそ、切り裂かれるよりも苦しい痛みだった。
瑞穂の瞳には、涙がたまっていた。今にもこぼれ落ちそうな雫を、少女は必死で我慢していた。だが、我慢にも限界がきた。一粒の涙が、瑞穂の頬をつたっていく。
涙を振り払うかのように、瑞穂は走り続けた。痛いけど、寒いけど、苦しいけれど。そんな身体にムチ打って走り続けた。
「許してもらえるわけないのに、謝ったからって、どうにでもなるわけないのに。どうして――どうして、こんなに焦っているだろう、私は」
いつの間にか瑞穂は、コガネシティの路地裏に入り込んでしまっていた。光りすらも侵入を拒む、闇の世界に迷い込んでしまったことに、まだ瑞穂は気付いていなかった。それだけ、リングマを見つけることに必死になっていたのだから。
突然、瑞穂の足に丸太状の何かが引っかかった。走っていた瑞穂は、そのまま一回転して、地面に背中を打ち付けてしまった。
「痛い! なんなんだろう、今の」
呟きながら瑞穂は、なにが足に引っかかったのかを確かめようと、背中をさすりながら後ろを振り向いた。
「え……? これ……」
硬直した。瑞穂の足には、赤々とした液体がへばりついていた。だが、転んだときに擦り剥いたわけではなかった。
そこにあるのは、胴体だった。頭も、手足も、陰部も、全て切り取られた、胴体だけの屍。無言のまま、押し黙ったまま瑞穂は辺りを見回した。手足があった。横の壁に杭で刺されていた。虫の標本のようだった。
頭と陰部は、どこにも見当たらなかった。屍の大きさや形から判断して、瑞穂とあまり変わらない年齢の女の子のものだと容易に推測できた。
凄惨な死体を目の前に、瑞穂は悲鳴をあげることもできなかった。ただ蒼白な顔で、その場に座り込んで、惨たらしい死体を眺めることしか出来なかった。
「お嬢ちゃん……、何して、遊んでるのかな?」
「おや。見ちゃ駄目なんだよ、それは」
瑞穂の背後から男の声がした。少女は機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく後ろを振り返った。そこには2人の若い男が、嫌らしい笑みを浮かべながら、だらしなく立っていた。
一人は金髪で無精ヒゲを生やしており、もう一人は黒い長髪を靡かせていた。金髪の男の左太股にはデルビルのタトゥがあり、長髪の男は右の二の腕にニドリーノのタトゥがあった。
2人の男が、この街の不良であることは、瑞穂でもすぐにわかった。そして今、瑞穂の背中に触れている冷たい胴体の持ち主が、彼等の仕業によって命を落としたことも。
「あ……、あの……。その……、え……えぇと……」
言うべき言葉が見つからない。瑞穂の声は、かつて感じたことのない恐怖に震えていた。
「お嬢ちゃん、何が言いたいんだ?」
「お兄ちゃん達と、遊びたいのかい? 楽しいよ」
男達は優しく、しかし、その瞳の奥に悪魔の炎を漲らせながら言い放った。その言葉は、瑞穂の足を凍り付かせ、逃げられなくするのに、十分な邪気を含んでいた。
悲鳴もあげられない。ガタガタと震える瑞穂に、男達は少しずつ近づいていく。
「この人……、ですか?」
それだけ言うのがやっとだった。本当なら、この人は何なんですか? どうしてこんなことになってるんですか? と、訊きたかったのだ。
じりじりと、瑞穂に詰め寄りながらも、金髪の男は、瑞穂の問いに答える。
「失敗したんだ。」
そう言うと、男達はゲラゲラと下品に笑った。
「失敗……?」
瑞穂は思わず後ずさる。背中の亡骸は、瑞穂に押されて、ずるずると動いた。
「そう、失敗したんだよ。これさ、俺が遊んでやろうとしたとき『嫌だ!』なんて叫ぶからなぁ、不良品だったんだよ。俺達は、叫ばれると困るのにな」
長髪の男は、腹を抱えて下品に笑い続けた。
「だから、これで叩いてやったんだ。そしたら、動かなくなるしよぉ……ったく、とんだ貧乏くじを引いたぜ」
男の背後には、黒い工具箱が置いてあった。工具箱からは、血が付いたままの、鉈や鋸……金槌などが飛び出ている。これが、あの女の子の身体をバラバラにしたんだ。瑞穂は背筋が凍る音を聞いた。間違いない。あの女の子は、この男の人達に殺されたんだ!
「ぅぅ……きゃあぁ!」
瑞穂は叫び、一目散に逃げ出そうとした。だが、遅かった。肩を掴まれ、少女は顔面を胴体だけの死体に無理矢理押しつけられた。声をだすことはおろか、呼吸も難しい状態にさせられていた。
鼻に、ぬおっと死臭が漂う。両肩は、金髪の男にぐいぐいと押さえつけられていた。激痛が瑞穂を襲う。
「い……痛ぅ……」
「逃げようなんて思うなよ……お嬢ちゃん」
金髪の男は、そう言うと、瑞穂を仰向けにし、着ていた服をビリビリと引きちぎる。そして、グライガーのモンスターボールを遠くに投げ捨てた。
「これみたいに、なりたいのかい?」
金髪の男は、枕のようにされている、胴体を指さして言った。
瑞穂は、恐怖にひきつった顔を、ぶんぶんと横にふる。
「もう、遅いけどな」
「そう、お嬢ちゃんは、みちまった」
「抵抗しなけりゃ……」
「たっぷりと、俺達が楽しんだ後、沈めてやる」
「抵抗すりゃ……」
「沈めた後、俺達が楽しむだけだ」
どちらにしろ結果は、同じだ。
「もっとも……」
「お前みたいな、ロリータ。俺は、興味ないけどな」
精気を失ったかのような顔をしている瑞穂をよそに、2人の男は、なにやらかにやら言いながら、瑞穂の着衣を全てはぎ取った。
父親とリングマと、だれにも秘密の6歳年上の彼氏にしか見せたことのない純白な裸体が、2人の卑しき男達の前にさらされた。
瑞穂は始めて、恐怖を超えた、なにかを感じた。……助けて……だれか……助けて……。恐れと羞恥心からか、瑞穂は思わす、目をつぶった。
「なんでぇ……キズモノか?」
昼間、リングマにつけられた、胸の傷を見て、長髪の男は呟いた。
べろりと、金髪男の舌が瑞穂の胸の傷口を舐め回した。別に痛いわけではなかったが、瑞穂は歯軋りしながら呻いた。
チラリと男の方を見やると、いつのまにか、男の下半身と瑞穂をさえぎるモノは、何もなくなっていた。ただ空気だけが、男の股間の震えを瑞穂に知らせている。
長髪の男は、ニヤニヤしながら、こちらを眺めていた。
「前座は終わりだ……」
瑞穂の体を舐め続けながら男は言うと、黒々とした汚い股間を一気に、少女へと密着させた。
「………うぅ……」
……助けて……。
瑞穂は、泣き叫んだ。少女の股間に生暖かい物が触れた。力がでなかった。全身が火に炙られたように熱かった。覆い被さってくる男の身体は臭く、重たい。
少女は虚しい抵抗を続けた。白い裸体は男の身体の中で必死に藻掻いていた。少女の唇から涎が滴る。細い腕が、萎びたように力なく垂れる。ビクン、ビクンと身体を震わせる瑞穂の表情には、感情の一欠片も残ってはいなかった。茫洋と見開かれた瞳は、自分の中に入り込もうとする、長く太い異物を映しだしている。
「ううぅ……うっぅぅぅ……」
男の異物から溢れる粘液が少女の股間を濡らす。少女は瞳を閉じた。何も見たく無かった。何も聞きたく無かった。何も感じたくなかった。
辺りに、一瞬だけ静寂が走った。
男の気配が、沈黙に紛れて消えた。
異変を感じて、おそるおそる瑞穂は目を開けた。金髪の男はいなかった。見上げると、長髪の男が脂汗をかきながら、瑞穂とはあさっての方を向いて叫んでいた。
「サミジマ! 大丈夫かっ!」
路地裏の奥まで、サミジマという名の、金髪の男は吹き飛ばされていた。サミジマの無防備な下半身に、そして上半身にも、いくつもの火傷が浮き出していた。
この火傷の形に、瑞穂は見覚えがあった。破壊光線の直撃をうけたときの火傷の形。
瑞穂は、サミジマが倒れているのとは正反対の方を向いて呟いた。
「……リン……ちゃん……」
そこにリングマはいた。
リングマは怒りに満ちた表情で、もう一発、こんどは長髪の男の方に向けて破壊光線を発射した。破壊光線独特の、大音響が辺りに響きわたった。
「くそっ!」
長髪の男は、間一髪のところで破壊光線を裂けた。路地裏の壁をよじ登り、どこかへ走り去った。
サミジマは、路地裏の奥で、ぐったりとしたままだった。体中が沸々と煮立つような熱さと痛みは、サミジマの逃げる気力を失わせるのに充分だった。
痛みからか、突然、サミジマは悲痛に泣き叫び始めた。
「あ……アギィィッィ! づ……痛ゥゥッ!」
瑞穂は、男の体中に浮き出た、火傷を目の当たりにして、息を呑んだ。昼間コガネジムで見た破壊光線とは、桁違いの威力であることに気付いたのだ。
激痛にのたうちまわるサミジマは、自分の目の前に巨大な影が伸びているのを見た。まっすぐ闇の中に立つ、リングマの姿だった。男は、このリングマが先程自分を吹き飛ばした破壊光線を放ったことに、即座に気付いた。
「うぁ……ヒ……ヒィ……!」
叫んだサミジマの体は、恐怖のあまり震え始めていた。なま暖かいものが、サミジマの股座から、勢いよく流れ始める。
失禁していた。
臭いたつ空気のなか、リングマは怒りに満ちた瞳で、サミジマを睨み付けた。
こいつが姉さんに、非道いことした男。それを思うと、我慢できなくなる。リングマは鋭い爪が揃った腕を、闇夜に振り上げた。
「た……たすけてくれ……」
掠れた声で男は、リングマに命乞いをした。
ふざけないでよ、姉さんが許しても、僕が許さないよ。もっとも、僕も姉さんのこと傷つけちゃったけど。
姉さん。僕のこと、許してなんかくれないよね。僕だって、姉さんに酷い事しちゃってたんだものねあの傷のせいで、お嫁にいけなくなっちゃたら、姉さん、僕のこと一生、恨むよね。僕が意地を張って、どっか行ったりしなかったら、姉さんこんな目に、あわずにすんだんだものね。
でも――やっぱり嫌だよ。僕は姉さんと一緒に居たい。僕って、すごい自分勝手だよね。
「アギャァァァァァァァ!」
リングマの鋭い爪は振り下ろされた。サミジマの体は勢いよく引き裂かれた。傷口からは大量の血が飛び散り、サミジマはこの世のものとは思えぬ程に絶叫した。
サミジマの足下には、切り離された性器が鮮血にまみれて、だらりと落ちていた。
リングマは、それを見つけて拾い上げた。男の性器は小さく萎んでおり、見窄らしかった。
握り潰した。サミジマの性器は、鈍い音と共に破裂した。リングマはサミジマを担ぎ上げると、遠くへと放り投げた。
「ギャァァァァァ!」
サミジマの絶叫は、そこで途切れた。なにかの落ちた大きな音の直後に。リングマは力を抜き、下唇を軽く噛んだ。
もう、姉さんに、近づかないでよ。僕は、自分で自分をうまく制御できないんだから。
リングマは、冷たくなりかけている瑞穂の体を優しく揺すった。
瑞穂の瞳は焦点を失いかけていた。なにも聞こえていない、なにも見えていない。ただ、男の断末魔のような悲鳴だけは、聞こえていたようだった。
「リンちゃん……あの男の人は……?」
リングマは、首を横にふった。それは「殺してはいない」という意味だった。
冬の冷風に吹かれて、瑞穂の体は段々と暖かみを失っていく。顔色が少しずつだが青白くなっていく。少女は、なにも羽織っていないのだから無理もない。
リングマは、瑞穂の体をそっと腕に抱いた。暖かい。昔は、いつもヒメグマだったときのリングマを抱いて、一緒に寝ていた。その時の暖かみと同じだった。
ベッドの中で2人は、2人だけの秘密をいくつも隠し持っていた。もちろん今でも。なんだか凄く、懐かしかった。
「ありがと。すごく、あったかいよ」
変な気分だった。悲しくないのに、なんだか悲しい。なんでだろう。なにかが、心に引っかかってる。
暫くしてから、瑞穂とリングマは、同時に言った。
「あの……あのね、リンちゃん……」
「がぅ……ぐあ、ぐあ……」
人間である瑞穂には、ポケモンの言葉は分からない。いや、ポケモンに”言葉”という概念があるかどうかすら、明確にはなっていない。ポケモンであるリングマにも、人間の言葉は理解できないはずだ。
だが、そんなことは今の2人にとって関係なかった。どうやっても断ち切れなかった2人の絆であれば、言語の違いなど、簡単に超越できるはずなのだから。
居待月の光の下で、瑞穂とリングマは、お互いの暖かみを感じ取っていた。
「リンちゃん……ごめんなさい。あんなこと言うつもりなんて、全然なかった。ただ、なんだかリンちゃんに馬鹿にされたみたいで悔しかったの。だって私は、リンちゃんに比べたら、背も低いし、力もないし。そう思ったら、また、頭がカッとなっちゃって。あ、何言っても、言い訳みたいに聞こえちゃうよね。なんて言ったらいいんだろう」
なんと言ったらいいのか。言うべき言葉が見つからずに困惑する瑞穂を見つめ、リングマは細々と呟いた。
もう、いいよ、姉さん。
「え……?」
瑞穂は考えてもみなかった、リングマの反応に驚いた。リングマは、瑞穂の体をさらに強く抱きしめた。
それ以外に、なにもいらない。それが、答えだった。瑞穂を強く抱きしめたまま、リングマは悲しげに言った。
僕ってさ、すごい自分勝手だよね。そんな、そんな僕だから、僕はさ、姉さんのこと、見殺しにしようとしたんだよ。『死んじゃえばいい』だなんて思ってたんだよ。
わざと姉さんのこと、怒らせて。しかも、姉さんのこと傷つけて。だから姉さんは、ボクのことを許さないで。姉さん、優しいか。だからボク、調子に乗っちゃったんだ。
だから、ちょっとショックだったかな。嫌い、なんて、姉さんに言われたの初めてだったから。
でも、僕、自分勝手なんだよね、本当は許して欲しいんだ。ごめんなさい。だから、許してください。僕さ、姉さんと、少しだけだけど……離れてみてわかったんだ。
一緒にいたい。ボクは、姉さんと一緒にいたいんだ。
いつしか、リングマは涙声になっていた。
瑞穂は、泣きじゃくるリングマの姿を見たくはなかった。とても、悲しくなるから。
「リンちゃん、約束したよね……?」
……約束……?
「ほら、リンちゃんのママが亡くなってから、リンちゃんずっとずっと泣いてたでしょ……? そのとき、約束したじゃない」
リングマは、思い出した。たしかに、そんな約束をした。
うん、思い出したよ。あの約束だね?……。
「そう、リンちゃんさ、『もう二度と泣かない』って、約束するかわりに」
そこまで言って、青白かった瑞穂の顔が急に紅潮した。
「とっ、とにかくさ、泣いちゃだめだよ、リンちゃん。これ、約束なんだから」
リングマは、こくりと頷いた。その顔は、瑞穂と同じく真っ赤に染まっている。その時、どこからか水玉模様のリボンが、風に吹かれて瑞穂の腕に絡みついた。
「わぁ、可愛いリボン」
瑞穂は、リボンを手に取り、リングマの肩につけた。
「すごくよく似合うよ、リンちゃん。」
瑞穂にそう言われて、リングマは照れて頭を掻いた。危うく、抱きかかえていた瑞穂を落としてしまうところだった。
一瞬の静寂。
なにも邪魔しない、だれにも邪魔されない。
それだけで、充分だった。
リングマは、瑞穂の首筋が湿っているのを感じた。
「姉さん……、泣いたでしょ?」
「う……。そ……そうだよ」
「そんなんだからさ、いつまでたっても『泣き虫』とか、言われて苛められちゃうんだよ」
「だいぶ前の、話じゃない……それって。でも、よく覚えてたね……」
「姉さんだって……覚えてるじゃない」
「夢を見たの。6年前の」
「あ、偶然。ボクも見たんだ。昔の夢」
「リンちゃん……変わったよね」
「うん。でも、姉さん、全然変わってない」
「え……?」
「『泣き虫』なのは、全然変わってないよ」
「あ、ひどい! じゃあ、約束する。『もう二度と泣きません』ってね」
「ほんとに、守れる?」
「大丈夫! そのかわり……」
「そのかわり?」
「もっと、強く抱いてよ……」
硬直。
「あれ、リンちゃん。聞こえなかった? もっと強く抱いてって……さむ……」
瑞穂が「寒いから」と言う前に、なにかちょっと勘違いしている、リングマは、瑞穂をギュッと抱きしめた。そういえば、瑞穂は今、なにも着ていないのだ。
「ありがとう、リンちゃん」
それが、その日、瑞穂の最後の言葉だった。走り疲れたし、ほとんど何も食べてないし、怖い思いしたし。瑞穂の体力は、既に限界を超えていた。
暖かいリングマの腕の中で、瑞穂は眠るように、気を失った。
……約束だよ……。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。