水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#3-2

#3 姉妹。
 2.再会は涙の予兆

 

 

 彼女が見た最期の風景は、透き通った青空だった。 
「わぁ……、きれいな……青空だね……」 
 彼女が呟いた瞬間、自分の背骨が粉々に砕ける音が、耳に響いた。続いて、頭蓋が崩れ、頭皮が弾け、鮮やかなピンク色をした脳味噌が辺りに飛び散り、ズタズタになった後頭部からは、腥血と脳漿がとめどなく吹き出した。 
 内蔵は、衝撃でグチャグチャに掻き回されて破裂し、体中の穴という穴から、血にまみれた汚物が垂れ流された。 
 しんと、辺りは静まり返った。彼女の頭に付いていた水玉のリボンが、風に吹かれて何処かへと飛んだ。水晶のように澄んでいた瞳は白く濁り、上目遣いに、路上に立ちすくむ人々を睨み付けていた。 
 誰かの悲鳴が響いた。静寂は途切れた。彼女の屍体を見つめ続ける人々の中の、何かが決壊した。悲鳴は連鎖的に倒れていくドミノのように、瞬く間に響きわたった。 
 悲鳴の振動は、汚物に塗れた彼女の体を震わせるのには、十分過ぎた。

 

○●

 同日、午後7時36分。 
 コガネ中央病院の霊安室の前に、少女は立っていた。少女は微かに天井を見上げて首を振り、腰の方まで伸びた紫色の長髪を振り払っている。その仕種は、子供とは思えない程に妖艶で落ち着き払っていた。 
 医者と思しき白衣の男が、少女に気付いた。男は眉を潜めた。こんな時間に、こんな場所で女の子が何をしているんだ? 訝るような男の瞳はそう言っていた。監視するように不思議な少女を眺め続け、少女が一向に立ち去る素振りを見せないのを不審に思い、男は話しかけた。 
「君さ、ここは子供が遊んで良いような場所じゃないんだ。ここは病院だよ? ほら、ご家族の方はどこ? 迷子なら、そこの階段を降りたところに――」 
「家族はいない。誰もいない」 
 少女は吐き捨てるように呟いた。鈴の音のように、小さく澄んだ声だった。 
「誰もいない? 大人をからかうとただじゃすまないぞ。ここは、大人しか入れない場所なんだ。子供がうろうろしちゃ、いけない場所なんだよ!」 
 男は、少女の言葉を鼻先で笑った。微動だにしない少女の態度に焦れたのか、男は少女の漂白したように白い腕を握り、強く引いた。少女は上目遣いで、睨むような視線を送り続けている。 
「ほら、早く出て行くんだよ!」 
「うるさい――」 
 少女の――射水 氷の瞳の色が変わった。男の声が急に途切れた。少女からの視線が、黄色い危険な色を帯びていた。極端に搾られた少女の眼球が、人間のものでは無いように、彼には思えた。男は震える指先で胸と首筋を押さえ、痙攣しながら床に倒れた。 
「く? か、身体が痺れる――」 
 男は唇の端から涎を垂らしながら喘いでいた。必死に顔を上げる。感情を拭い取った無表情な、少女の顔が見えた。幼い顔つきだけに、余計に表情の無さが目立った。 
「何だこれは。身体が動かない? 君の仕業か? これは、これは一体なんの真似なんだ!」 
 男は少女に訊いた。氷は男を無視し、霊安室に入ろうとしていた。男は声を張り上げた。 
「待つんだ! そこは、子供が遊ぶような場所じゃない」 
 男は痺れた身体を堪え、掠れた声で叫ぶ。氷は、男を睨み付けた。 
「静かにして」 
 氷は呟き、麻痺している男の顔を踏みつけた。男の意識は途切れた。男が静かになったのを確認し、氷は霊安室の重い扉を開き、部屋の中へと踏み込んだ。霊安室の中は、消毒液のような異臭に満たされていた。 
 氷は目を細めて辺りを見回した後、もう一歩、足を踏み込んだ。一歩ずつ、足を前へ進める度に、心臓が緊張で深く鼓動する音が、耳に響いてくる。 
 一番奥の台座の前で立ち止まり、氷は台座に被せられている緑色のシートを、静かに捲った。 
「姉さん――」 
 氷は、思わず息を呑んだ。緑色のシートの下には、変わり果てた姿の姉が、落下直後の状態そのままで、横たわっていた。 
 ゆっくりと、氷は姉の腕に触れた。冷たい。 
「姉さん、どうして――」 
 無惨な姉の遺体を前に、氷は呟いた。 
「どうして、私を置き去りにして、自分だけ死んじゃうの」 
 姉は答えない。 
「どうして、姉さんが死ななきゃいけないの」 
 姉は答えない。 
 氷には、解らなかった。姉が、自分で自分を殺した理由が。自殺した理由が。姉は何故、死ななければならなかったのか。

 氷は病院を後にした。既に辺りは暗くなっている。冷たい夜の風が、氷の紫色の長髪を靡かせた。 
 暗いとは言うものの、街の中央はビルの明かりや店の電飾などで、まだ明るい方だった。この街の路地裏は、時に『闇に堕ちた街』と形容される程、闇に満ちているのだから。 
 無表情のまま、氷は月を見上げた。居待月は銀色に光っている。その光に誘われるかのように、氷は歩き出した。歩きながら、氷は考えた。姉が死んだ今、これから自分は何をするべきなのか。 
 どう生きるべきなのか。なんのために生きるべきなのか。 
 答えは見つからない。いや、正確には、1つだけ見つけていた。漠然とした、行く末は見えていた。だが、それは無視して捨てた。 
 暫く街をさまよい歩いていると突然、氷の足が止まった。 
「………うぅ……」 
 どこからか、遠くない場所から、女の子が苦しんでいるような声が聞こえてきた。辺りを見回し、その声が路地裏から漏れていることを確認すると、氷は闇に満ちた空間へと入り込んだ。 
 静まり返った暗い路地裏で、女の子の呻き声だけを頼りに、氷は進んだ。声が近いのを感じ、氷は柱に身を潜めて、声のする方を覗き込んだ。その情景を見て、氷は即座に目を背けた。 
 そこでは男が2人、水色のツーテールの少女を凌辱して遊んでいた。遊ばれている少女の隣には、同じ年頃と思われる少女の、コマギレになった死体が転がっている。 
 少女は泣き叫ぶ。小さく白い裸体は恐怖と痛みで震えていた。時折、鳴き声に混じって呻きが聞こえる。男は笑いながら少女の胸を、そして股間を舐めていた。 
 非道い。これが――人間の本能? 違う。”これ”は異常だ。姉さんも、この女の子のような苦痛を受けた、そうなんだ。だから? だから、死んじゃったの? 
 自分の姉も、このような愚かな醜い男によって、死に追いつめられたのだろうか。そう思うほど悔しく、憤りを感じ、しまいには殺意すら湧き出た。溜まらなくなり、氷は男達を止めに入ろうと身を乗り出した――その時だった。 
 闇に閃光が走った。その閃光は、少女を舐め回している男を、遙か虚空へと吹き飛ばした。もう一人の男は、間一髪で閃光を避け、壁をよじ登り、どこかへ走り去ってしまった。 
 氷は突然のことに驚いた。だが、その驚きを表情に出すことはなく、即座に閃光の発射方向を見やった。2メートル程もある長身の何かが立っていた。太い腕に鋭い爪、閃光を発射したと思われる口からは、煙が出ていた。 
 巨大な影は、すぐさま男に詰め寄り、鋭い爪で切り裂いた。張り裂けんばかりの絶叫が響いた。それは男を担ぎ上げると、どこかへと投げ飛ばした。激突の音と共に絶叫が途絶えた。 
 凄まじい情景を目の当たりにしながらも、氷は冷静さを保っていた。 
 謎の大男と、少女に気付かれないようにしながら、氷は男の投げ飛ばされた場所へ走った。

「た……助けてくれ……」 
 路地裏の奥。真っ暗な闇に、更に墨を流し込んだかのような場所に、男は倒れたまま呻きを上げていた。暗くてよくは見えないが、男は金髪で無精ヒゲを生やしたており、左の太股にデルビルのようなタトゥが刻まれていた。 
 男……いや、野獣だ……、自分の姉を死に追いつめた奴と、同じ種類の動物だ……。 
 氷は、そう思いながら、ゆっくりと男に近づいた。次第に、暗闇から男の身体が鮮明に浮かび上がる。そして、氷は目を細めた。男は、体中に煮立っているような火傷を負っていた。さらに股間からは夥しい出血。服は完全に燃え尽きており、辛うじて生命を維持しているように思えた。 
「助けて……助けてくれ……」 
 涙に歪んだ顔を持ち上げながら、男は氷に懇願した。のたうちまわり、惨めに命乞いの言葉を吐き出し続ける男の顔を蔑むように眺め、氷は吐き捨てるように言った。 
「自業自得ね。早く、死ねばいい」 
 氷の言葉は憎悪に満ちていた。男は顔を醜く歪めて絶叫した。 
「助けてくれェ! 頼む! お願いだァ! 俺ハ死ニたくネぇェェェェェェッ!」 
 惨めだ。惨めすぎる男の叫びに、氷は微笑した。男の絶叫に隠れて、少女は呟く。自業自得……だ、と。 
 氷は、今まで生きてきた中で、最も心躍っている事に気付いていた。こんなに楽しい事は初めてだ。醜く愚かな輩に、私的な制裁を与える事が、こんなに楽しいなんて―― 
 心の奥底から溢れ出す笑いを、なんとか押し殺しながら、氷は呟いた。 
「この街で、二の腕にニドリーノのタトゥがある男を知らない? 教えてくれたら、助けてあげてもいい――」 
 震え、縺れる舌を必死に操りながら、男は氷の問いに答えた。 
「あぁ……、知ってル。裏切リ者だ……。あいつ、俺の事を見捨てて、自分だけ逃げやガったんだ」 
「さっきの……、さっき逃げた男……?」 
「そうさ、あの野郎……、今度会ったら……」 
 男は歯軋りしながら、拳を震わせ、冷たい地面を睨み付けていた。 
「――で? その男の名前は、なんて言うの?」 
「レライエ……、レライエだ」 
「レライエ……ね。ありがとう。……ところで……あなた、名前は?」 
「サミジマだ。いいから、早く助けてく……」 
 男の言葉を聞き流し、氷は顔を上げた。恐怖に顔をひきつらせたサミジマの髪を小さな掌で掴み上げる。前へ向けた視線の先に、汚らしく醜い男の顔が映った。 
 次の瞬間、サミジマの腹に太い杭のようなものが貫通した。背中から内蔵が飛び出て散る。あんぐりとあけられた口からは、汚血が吹きだした。氷は掴んでいた手を離す。男はその場に崩れた。 
 氷は、微笑を浮かべながら、しばらくサミジマの屍を眺めていた。 
 どこからかやってきたアーボが、サミジマの死骸に食いついた。骨がバギバギと音をたてる。生臭い肉が、食いちぎられ剥がれ落ちた。後には、生々しい血痕だけが残った。 
 月に背を向け、立ち去る間際、氷は呟いた。 
「馬鹿な男……」

 

○●

 早朝。辺りには白い霧がかかり、どこまでも広がる風景を覆い隠している。 
「ねぇ、パパ、どこ行くの──どこ行くのっ?」 
 大声を発しながら、少女は父に抱きついた。染みついた消毒液の臭いが、ツンと鼻を突き刺す。 
 父は、少女を抱きかかえ、ゆっくり地面へと降ろした。しばらく少女の顔を見つめた後、背を向け歩き出す。自分の家とは正反対の方向へ。 
「パパぁ……、どこ行くの……答えてよ……」 
 ぴたりと父の足が止まった。そして、少女に背を向けながら言った。 
「瑞穂の……、手の届かないところに行くんだ」 
 それを聞いた少女は、激しく首を横に振り、叫んだ。 
「やだぁ! そんなのヤダよう! 私、独りぼっちになるのは嫌だよ……」 
「独りぼっちじゃない……、お友達のヒメグマフシギダネがいるじゃないか」 
 少女は、家のベッドで眠っているはずの、ヒメグマフシギダネを思い浮かべた。 
「……で、でも……」 
 そう呟いた少女の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。 
「パパは悪くないんでしょ! なんで……、どうしてなの……っ!」 
「子供は……知らなくてもいいことだ……」 
 そう言い放つと、父は全速力で坂道を駆け下りた。まるで疾風のようだった。 
「待ってよぉ……。パパ、パパ……!」 
 後を追いかけようとする少女の足は縺れて、少女はその場に転んだ。 
「待って、待って、待ってよぅ……」 
 父の姿は、深い霧の奥に消えた。少女は泣きながら、父の後ろ姿を眺めることしか出来ない。いつの間にか少女の隣には、心配そうに見つめる、ヒメグマフシギダネの姿がある。 
「ヒメちゃん……、ダネちゃん……。う……、パパが、パパが……」 
 心臓が、ギリギリと痛む――あの時の痛みとは、違う次元の痛みだった。 
 少女は、二匹に泣きついた。啜り泣く声だけが、霧の空間に、いつまでも虚しく響いていた。

 

○●

『昨日、午後3時頃、コガネシティ2-56区、コガネ百貨店の屋上から、身元不明、推定15歳ほどの女性が転落し内蔵破裂で死亡した事件で、コガネ地方警察は、目撃者の証言、現場の状況などから自殺と断定し、女性の身元の確認を急いでおり……』 
 ――イヤな夢、を見た―― 
 ベッドから飛び起きた瑞穂は、荒い息づかいで、辺りを見回した。なんだか懐かしい臭いがする。白一色の狭い部屋にも見覚えがある。 
 病院……、コガネ中央病院。瑞穂は即座に、ここが何処であるのかを思い出した。 
 瑞穂の着ている、薄い桃色のパジャマは汗で、ぐっしょりと濡れていた。ベタベタしている。 
 上半身を起こして、窓から外を眺めた。コガネシティ全景が見える、そして昼の強い日差しが眩しい。 
『……41番水道での、高速客船『グラシャラボラス号』の火災事故から、4日が経過しましたが、深い霧のため、依然、捜索は難航しており、乗客・乗員49名の生存は、絶望視されて……』 
 つけっぱなしになっているテレビから、ニュースが流れている。テレビの横では、リングマグライガーが、大きな鼾をたてて眠っていた。 
 リングマグライガーも、悪夢に魘される瑞穂のことを心配して、深夜中、ずっと起きて見張っていてくれたことなど、瑞穂は知る由もない。 
 瑞穂がグィと背伸びをすると、真っ白なドアが開いた。ドアから入ってきたのは2人の女性だった。 
「あ、起きてたの」 
 白衣を着て、ルビー色の髪をした、医者らしき女性は、瑞穂に話しかけた。医者とはいうものの、まだ17歳で、所々に幼さが残っている。 
「うん」 
 そう答えた瑞穂が、汗だらけなのをみて、女医は驚いて訊いた。 
「すごい汗。どうしたの?」 
「ちょっと、イヤな夢を見た」 
「そう、大丈夫? 瑞穂ちゃん」 
 瑞穂は少し微笑んで、首を横にふった。 
「大丈夫。私には、リンちゃんと、グラちゃんがいるし。この病院も、ノゾミちゃんがいるから、安心だし……」 
 瑞穂がそこまで言うと、女医の隣に立っているジュンサーが溜まりかねたように口を開いた。 
「あのね……。そういう個人的な会話は、私の話が終わってからにしてくれない?」 
 キョトンとしながら、瑞穂はジュンサーの方を向いた。 
「ごめんなさい。巡査さん」 
「警部補よ」 
 事も無げに自分の階級を訂正すると、コガネ警察署、刑事課強行犯係のジュンサー警部補は事務的な口調で、事件現場を捜索したときの話しをしだした。 
「アナタの言っていた場所を探したら、やっぱり遺体が見つかったわ……それもバラバラのね。状況も一致していたし、目撃証言からアナタがその犯人に襲われたのも、間違いないこともわかった。だから、その太股にデルビルタトゥの男は指名手配しておいたわ。捕まるかどうかは、解らないけど……」 
「絶対に、捕まえてください……!」 
 隣で静かに話を聞いていた、女医の桃谷望が、大きな声で言った。 
「許せないよ……そんなの。人を殺して、バラバラにするなんて……。瑞穂ちゃんまで、非道い目にあわせて……。絶対に許せない! そうでしょ? 瑞穂ちゃん」 
 小さく、ゆっくりと瑞穂は頷いた。 
「だから、お願いします! 絶対に捕まえてください……!」 
 望はそう言うと、じっとジュンサーの瞳を見つめた。ジュンサーは望の剣幕に、いささか驚いたようだが、小さく2,3回頷いて言った。 
「わかってるわ。こちらも出来るだけ犯人逮捕に努力するつもりよ。でも……、この街の治安の悪さは、普通じゃないから、難しいの……。最近この街、世界標準世界標準、世界標準……って、騒がしいけど、犯罪までグローバルスタンダ-ドにされちゃ、たまんないわよ……。」 
「大変……ですね……」 
 思わず愚痴をこぼすジュンサーを見て、瑞穂は同情心からか、呟いた。 
「ありがとう。 まぁ私が言うのも何だけど……、この国のケーサツは、不祥事多いけど、検挙率は先進諸国の中でナンバー1なんだから。心配しなくていいわ。……それよりも、いいの?」 
「なにがですか?」 
 瑞穂は、突然の問いに、首を傾げた。 
「カウンセリングよ。 あんな事件に巻き込まれたのに、ホントに大丈夫なの……?」 
 俯き、何か考えているような仕草の後、瑞穂は言った。 
「やっぱり大丈夫です。あの時は、リンちゃんが助けてくれましたし……」 
 チラリと、瑞穂は横で眠っているリングマを見やった。 
「でも……、あんな非道い遺体見たら……。さっきだって魘されていたみたいじゃない」 
「さっきのは違うんです。昨日の事件とは関係ない夢で……。それに、人の遺体には、慣れていますから」 
「遺体に慣れてる……?」 
 驚いて、口あんぐりのジュンサーに、すかさず望が説明を加えた。 
「あ、その、瑞穂ちゃんは、トキ大の医学部卒なんです。医学部って、あの、解剖実習とか、よくやるんで、だから、遺体には慣れているんです。……だよね……瑞穂ちゃん?」 
「あ……。うん、そう……。そうなんです。正確には携帯獣医学部ですけど」 
 警察関係者に、変な誤解をさせるわけにはいかない、とばかりに瑞穂は、首を縦に振った。 
「なんだ……そうなの……。こんなにちっちゃいのに、大卒ねぇ……」 
 その時、ジュンサーの腰についている携帯電話が、メロディを奏でた。 
「ちょっと、ごめんね。……はい、私よ。え? そうよ……、わかった。今行くわ」 
 話し終わると、ジュンサーは、携帯を元の場所にしまった。 
「ちょっと事件が起こったみたいだから、私行かなきゃいけないの。それじゃあね」 
 そう言うと、ジュンサーは目にもとまらぬ速さで、部屋を飛び出していった。

 ジュンサーが去ると、瑞穂は、柔らかく微笑みながら言った。 
「……3ヶ月ぶりだね、望ちゃん」 
「うん。卒業してから、もうそんなに経つんだ……。ヒメちゃ……じゃなかった、リンちゃんも、大きくなったしね。ミズホちゃんは、どう? なにか変わったことない?」 
 相変わらず病室には、テレビのニュースと、リングマグライガーの鼾だけが響いている。 
 瑞穂は、しばらく俯いてから、言った。 
「なにがなんだか……、わからないくらい……変わった事ばっかりだよ」 
「え……?」 
 テレビから、昨夜起こった、凄惨な殺人事件の報道が聞こえてくる。 
『本日未明、コガネシティ2-4ナリ区で発見された、幼女のバラバラ死体は、コガネシティ在住、鋭田 昭吾さんの長女、鋭田 美子ちゃん、9歳であると断定され、コガネ地方警察は、目撃証言から、犯人の指名手配を……』 
 この街に来るまでの経緯を、瑞穂から聞いた望は、しんみりとした表情になった。 
 発作……。軽蔑の眼差し、言葉。別れ。喧嘩。いざこざ。決別。涙。危険……。事件。 
「そうなんだ……。いろんなことが、あったんだね……」 
 瑞穂は軽く唇を噛んで、俯いたままだ。 
「ねぇ……瑞穂ちゃん。そんなに辛い目にあうんなら、やめちゃえば……? ポケモントレーナーなんて」 
 それを聞いて、瑞穂はサッと顔を上げて言った。 
「それはイヤ……。それに、ソウちゃんを捜さなきゃいけないし……」 
「旅は……続けるつもりなんだ……」 
 こくり、と瑞穂は頷いた。 
「ねぇ、なんで、旅なんかするの……? 私にはわからない。瑞穂ちゃんなら、どんな病院やポケモンセンターにも、就職できるのに……」 
 深いため息をついて、瑞穂は答えた。 
「実は……私も、最近なんで旅を……ポケモントレーナーをしてるのかわからなくなってきちゃったんだ……。でもね、辛いことや苦しいことがあっても、リンちゃん達と旅をしてると、なんだか楽しいの……」 
「そう……なんだ。……まだ、よくわからないけど……」 
「うん……」 
 ほんの少しばかりの沈黙―― 
 暗い話題を少しでも明るくしようと、望は突然、語調を明るくした。 
「そ、それにしても、ビックリしちゃったよ……。瑞穂ちゃんがスッパダカで運ばれてきたときには……」 
「う゛……。それは……」 
 瑞穂の顔が、強張り、そして淡いピンク色に染まった。そして、小さな声で呟いた。 
「……ミタ?」 
「なにを……?」 
「だから……、そのぉ……」 
 火照った顔を俯かせて、瑞穂は恥ずかしそうに、拳をモジモジさせている。 
「あぁ……、そういうこと。しっかりと、見たよ」 
「やっぱり……」 
「瑞穂ちゃんって、まだまだ子供だね。まだまだ、私のには遠く及ばないよん」 
「う゛……ぅぅ。恥ずかしぃ……」 
 湿った瑞穂のパジャマから、勢いよく湯気が吹き出した。そんな瑞穂を見て、望はクスクスと笑った。 
「ふふ……。瑞穂ちゃん自身は、全然昔と変わってないね。その素直なリアクションとかさ」 
 熱っぽい身体を冷やすかのように、腕を2,3回廻すと、瑞穂は天井を見上げながら呟いた。 
「はぁ……。昔と変わってない……か。いつまでも、子供のまんまなのかなぁ……私って」 
「でも私は……、そんな瑞穂ちゃん、好きだよ」 
 ふぅ、と息をはいて、望は口元に笑みを浮かべた。そして言った。 
「すこし眠った方がいいね……。瑞穂ちゃん。今、替えのパジャマ、持ってくるから」 
「うん……、ありがとう」 
 望は振り返り、つけっぱなしになっていたテレビのスイッチに手を伸ばした。 
『……トキワ・洲先クリニックでの、点滴に不整脈用剤が混入し、お年寄りや幼児などの13人が死亡、20人以上が後遺症害を被った、事件の裁判で、カントー高等裁判所、荻菜裁判長は、森田 條馬被告に、逆転無罪判決を言い渡し……』 
 ニュースを聞いて、テレビを消そうとしていた望の手が、ピタリと止まった。そして、青ざめた顔を瑞穂の方に向け、言った。 
「み……瑞穂ちゃん……」 
「あれから……、もう、3年も経つんだ……」 
「そう……だね……」 
 瑞穂と望は、青ざめた顔で、お互いを見つめ合っている。汗で濡れたパジャマを、瑞穂は始めて冷たいと感じていた。

 

○●

 どこまでも流れる、河。沸き立つ湯気は、冷たいシャワーにかき消される。 
 冷たい。冷たい。冷たい。……しかし、動かなくなった姉の冷たさに比べれば、どれほど生温いだろうか。 
 しばらくして、氷がタオルを体にまいた姿で、バスルームから出てきた。ベッドに座ると、氷は携帯パソコンのディスプレイを見つめた。 
『1件の着信あり』 
 ディスプレイを徘徊していた矢印は、即座に届いたメールを開く。


 ------------------------------------------------------------- 
 差出人:法雅希 祐介 宛先:yot325@poi.freeways.**.** 
 件名:***** 
 ------------------------------------------------------------- 
 俺だ、法雅希だ。 
 姉さんが、自殺したそうだな。相変わらず苦労しているみたいだな。 
 俺も力になってやりたいが、いかんせん、今の状況じゃ身動きがとれない。 
 それと、お前の姉さんが死んだのは、アイツらには気付かれてない、安心しろ。 
 例の件は、もう少しだけ時間がかかりそうだ。 
 それと、パスワードを教えてくれ。でないと回覧できない。 

 あと、大丈夫なのか? このメールでお前の居場所とかバレたりしないのか? 
 今コガネシティにいるんだろ? 
 だったら、今日の午後8時から10分間は、気をつけた方がいいぞ。 
 -------------------------------------------------------------

 キーボードのキーを叩きながら、氷は疑問に思った。 
 ……今日の午後8時から、なにが起こる?……なにかが?……。 
 ものの数秒で、差出人への返信を書き終えると、氷は、冷やした牛乳紅茶を一口啜った。 
 ……気をつけた方がいい?……それは、もしかして……。 
 噂には聞いていた。おそらく今日、決行されるのだろう。その計画が――まだほんの一部であるとは思うが―― 
 窓の外から見える景色から、陰謀の囁きが聞こえたような気がした。


 ------------------------------------------------------------- 
 差出人:雪女 宛先:nori52@ho.tr.ne.** 
 件名:***** 
 ------------------------------------------------------------- 
 ありがとう。例の件は、わかり次第、メールで知らせて。 
 パスワードは『3745tr』だから。 

 >このメールでお前の居場所とかバレたりしないのか? 
 それなら大丈夫。 
 あの鯖は、元々私が構築したものだから、絶対にバレたりすることはない。 
 そのためにわざわざ、鯖に穴を開けといたんだもの。 
 -------------------------------------------------------------

 メールを送信し終えると、氷はベッドに横になった。灰色の天井を眺めながら、ひとり孤独に呟く。 
「私は……、こんな風にしか生きることが……できない。残念、だけど……」 
 太陽が西に傾きつつある頃、氷は短い眠りに落ちた。

 

○●

 空が赤々と染まる頃、瑞穂は短い眠りから覚めた。 
 大きな欠伸をすると、テレビの横で寝ているハズのリングマ達を見やる。グライガーは、相変わらず鼾をたてて眠っているが、リングマは起きて瑞穂のベッドの隣に座っていた。 
「リンちゃん、起きてたんだね」 
 瑞穂がそう言うと、リングマはぐぅと頷いた。その瞬間、瑞穂のお腹が、ぐぐぅと大きな音をたてる。それを聞いてリングマは笑った。瑞穂も、顔を赤らめながら苦笑した。 
「ふふ……。そんなに笑わないでよ、リンちゃん」 
 ドタドタドタ……。 
 廊下から、誰かが勢いよく走ってくる音が、響いてくる。 
「あれ……。誰の足音だろう……」 
 意識せず瑞穂がそう呟いたとき、病室のドアが勢いよく開いた。 
 ドアからは、紺のオーバーオールを着た、7歳くらいの女の子が飛び込んできた。瑞穂は、どこかで見覚えがあることに気付いた。昨日の同時刻、自然公園で瑞穂にビスケットを譲ってくれた、あの女の子だ。 
「あ……! キミは……」 
「グルゥゥゥゥゥゥゥッ……!」 
 唖然としている瑞穂の問いかけも、警戒しているリングマの唸り声も、全て無視して、女の子は言った。 
「かあさん! あと、どのくらいなん?!」 
 ……沈黙。

 その女の子は、百合ゆかりと名乗った。鮮やかなオレンジ色のトレーナーに、オーバーオール。ちょこんと短いポニーテールが黒く輝いている。 
 驚いた様子をしている瑞穂の『沈黙』という問いに、ゆかりは照れながら、答えた。 
「あちゃ。……ごめんなさい! 部屋、違えてもうたみたいや……。ここは……何番室なん?」 
「403番室……、だったと思うけど……」 
 呆然としながら、瑞穂は言った。 
「本当は、何番室にいくつもりだったの?」 
「303番室……。っちゅうことは、ウチは3階に行かなアカンのに、4階まできてもうたんか。あぁ……、相変わらず間抜けやなぁ、ウチは。」 
 ゆかりは頭を掻きながら笑った。瑞穂も、それにつられて笑うしかない。苦笑いしながらも、瑞穂は背中で唸っているリングマを気にしていた。昨日、あんな事があったからだろうか。リングマは突然の事で、今にもゆかりに飛びかかりそうだった。 
 リングマの警戒心を解くために瑞穂は、なおも照れ隠しの笑いを続けているゆかりに話しかけた。 
「あのさ……キミ。昨日、自然公園で、私にビスケットくれた子だよね?」 
「ん……」 
 ゆかりは、しばらくまじまじと瑞穂の顔を見つめた。そして驚いたように、大声で言った。 
「そや、思い出した!」 
「思い出して、くれた?」 
「あんときのお姉ちゃんやん! だから、言うたやろ。あんな所で寝とったら、風邪ひくって」 
 ……はい?……。瑞穂は、目を丸くした。 
「……大丈夫なん? 入院せなアカンほど、ひどい風邪ひいてしもたんやろ? はぁ……、ウチがもっと早う、お姉ちゃんを起こしとけば、こんなことには……」 
 ひとりで延々と喋り続けるゆかりをみて、瑞穂は思わず、本当に笑い出した。 
「お姉ちゃん……? なんで笑うん?」 
 笑い終えて、咳き込みながら、瑞穂は答えた。 
「違うの……。違うんだもん……」 
 ゆかりは、きょとんとしながら、首を傾げた。 
「変な、お姉ちゃんやな……」

 

○●

 

 

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。