ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#3-2
#3 姉妹。
2.再会は涙の予兆
彼女が見た最期の風景は、透き通った青空だった。
「わぁ……、きれいな……青空だね……」
彼女が呟いた瞬間、自分の背骨が粉々に砕ける音が、耳に響いた。続いて、頭蓋が崩れ、頭皮が弾け、鮮やかなピンク色をした脳味噌が辺りに飛び散り、ズタズタになった後頭部からは、腥血と脳漿がとめどなく吹き出した。
内蔵は、衝撃でグチャグチャに掻き回されて破裂し、体中の穴という穴から、血にまみれた汚物が垂れ流された。
しんと、辺りは静まり返った。彼女の頭に付いていた水玉のリボンが、風に吹かれて何処かへと飛んだ。水晶のように澄んでいた瞳は白く濁り、上目遣いに、路上に立ちすくむ人々を睨み付けていた。
誰かの悲鳴が響いた。静寂は途切れた。彼女の屍体を見つめ続ける人々の中の、何かが決壊した。悲鳴は連鎖的に倒れていくドミノのように、瞬く間に響きわたった。
悲鳴の振動は、汚物に塗れた彼女の体を震わせるのには、十分過ぎた。
同日、午後7時36分。
コガネ中央病院の霊安室の前に、少女は立っていた。少女は微かに天井を見上げて首を振り、腰の方まで伸びた紫色の長髪を振り払っている。その仕種は、子供とは思えない程に妖艶で落ち着き払っていた。
医者と思しき白衣の男が、少女に気付いた。男は眉を潜めた。こんな時間に、こんな場所で女の子が何をしているんだ? 訝るような男の瞳はそう言っていた。監視するように不思議な少女を眺め続け、少女が一向に立ち去る素振りを見せないのを不審に思い、男は話しかけた。
「君さ、ここは子供が遊んで良いような場所じゃないんだ。ここは病院だよ? ほら、ご家族の方はどこ? 迷子なら、そこの階段を降りたところに――」
「家族はいない。誰もいない」
少女は吐き捨てるように呟いた。鈴の音のように、小さく澄んだ声だった。
「誰もいない? 大人をからかうとただじゃすまないぞ。ここは、大人しか入れない場所なんだ。子供がうろうろしちゃ、いけない場所なんだよ!」
男は、少女の言葉を鼻先で笑った。微動だにしない少女の態度に焦れたのか、男は少女の漂白したように白い腕を握り、強く引いた。少女は上目遣いで、睨むような視線を送り続けている。
「ほら、早く出て行くんだよ!」
「うるさい――」
少女の――射水 氷の瞳の色が変わった。男の声が急に途切れた。少女からの視線が、黄色い危険な色を帯びていた。極端に搾られた少女の眼球が、人間のものでは無いように、彼には思えた。男は震える指先で胸と首筋を押さえ、痙攣しながら床に倒れた。
「く? か、身体が痺れる――」
男は唇の端から涎を垂らしながら喘いでいた。必死に顔を上げる。感情を拭い取った無表情な、少女の顔が見えた。幼い顔つきだけに、余計に表情の無さが目立った。
「何だこれは。身体が動かない? 君の仕業か? これは、これは一体なんの真似なんだ!」
男は少女に訊いた。氷は男を無視し、霊安室に入ろうとしていた。男は声を張り上げた。
「待つんだ! そこは、子供が遊ぶような場所じゃない」
男は痺れた身体を堪え、掠れた声で叫ぶ。氷は、男を睨み付けた。
「静かにして」
氷は呟き、麻痺している男の顔を踏みつけた。男の意識は途切れた。男が静かになったのを確認し、氷は霊安室の重い扉を開き、部屋の中へと踏み込んだ。霊安室の中は、消毒液のような異臭に満たされていた。
氷は目を細めて辺りを見回した後、もう一歩、足を踏み込んだ。一歩ずつ、足を前へ進める度に、心臓が緊張で深く鼓動する音が、耳に響いてくる。
一番奥の台座の前で立ち止まり、氷は台座に被せられている緑色のシートを、静かに捲った。
「姉さん――」
氷は、思わず息を呑んだ。緑色のシートの下には、変わり果てた姿の姉が、落下直後の状態そのままで、横たわっていた。
ゆっくりと、氷は姉の腕に触れた。冷たい。
「姉さん、どうして――」
無惨な姉の遺体を前に、氷は呟いた。
「どうして、私を置き去りにして、自分だけ死んじゃうの」
姉は答えない。
「どうして、姉さんが死ななきゃいけないの」
姉は答えない。
氷には、解らなかった。姉が、自分で自分を殺した理由が。自殺した理由が。姉は何故、死ななければならなかったのか。
氷は病院を後にした。既に辺りは暗くなっている。冷たい夜の風が、氷の紫色の長髪を靡かせた。
暗いとは言うものの、街の中央はビルの明かりや店の電飾などで、まだ明るい方だった。この街の路地裏は、時に『闇に堕ちた街』と形容される程、闇に満ちているのだから。
無表情のまま、氷は月を見上げた。居待月は銀色に光っている。その光に誘われるかのように、氷は歩き出した。歩きながら、氷は考えた。姉が死んだ今、これから自分は何をするべきなのか。
どう生きるべきなのか。なんのために生きるべきなのか。
答えは見つからない。いや、正確には、1つだけ見つけていた。漠然とした、行く末は見えていた。だが、それは無視して捨てた。
暫く街をさまよい歩いていると突然、氷の足が止まった。
「………うぅ……」
どこからか、遠くない場所から、女の子が苦しんでいるような声が聞こえてきた。辺りを見回し、その声が路地裏から漏れていることを確認すると、氷は闇に満ちた空間へと入り込んだ。
静まり返った暗い路地裏で、女の子の呻き声だけを頼りに、氷は進んだ。声が近いのを感じ、氷は柱に身を潜めて、声のする方を覗き込んだ。その情景を見て、氷は即座に目を背けた。
そこでは男が2人、水色のツーテールの少女を凌辱して遊んでいた。遊ばれている少女の隣には、同じ年頃と思われる少女の、コマギレになった死体が転がっている。
少女は泣き叫ぶ。小さく白い裸体は恐怖と痛みで震えていた。時折、鳴き声に混じって呻きが聞こえる。男は笑いながら少女の胸を、そして股間を舐めていた。
非道い。これが――人間の本能? 違う。”これ”は異常だ。姉さんも、この女の子のような苦痛を受けた、そうなんだ。だから? だから、死んじゃったの?
自分の姉も、このような愚かな醜い男によって、死に追いつめられたのだろうか。そう思うほど悔しく、憤りを感じ、しまいには殺意すら湧き出た。溜まらなくなり、氷は男達を止めに入ろうと身を乗り出した――その時だった。
闇に閃光が走った。その閃光は、少女を舐め回している男を、遙か虚空へと吹き飛ばした。もう一人の男は、間一髪で閃光を避け、壁をよじ登り、どこかへ走り去ってしまった。
氷は突然のことに驚いた。だが、その驚きを表情に出すことはなく、即座に閃光の発射方向を見やった。2メートル程もある長身の何かが立っていた。太い腕に鋭い爪、閃光を発射したと思われる口からは、煙が出ていた。
巨大な影は、すぐさま男に詰め寄り、鋭い爪で切り裂いた。張り裂けんばかりの絶叫が響いた。それは男を担ぎ上げると、どこかへと投げ飛ばした。激突の音と共に絶叫が途絶えた。
凄まじい情景を目の当たりにしながらも、氷は冷静さを保っていた。
謎の大男と、少女に気付かれないようにしながら、氷は男の投げ飛ばされた場所へ走った。
「た……助けてくれ……」
路地裏の奥。真っ暗な闇に、更に墨を流し込んだかのような場所に、男は倒れたまま呻きを上げていた。暗くてよくは見えないが、男は金髪で無精ヒゲを生やしたており、左の太股にデルビルのようなタトゥが刻まれていた。
男……いや、野獣だ……、自分の姉を死に追いつめた奴と、同じ種類の動物だ……。
氷は、そう思いながら、ゆっくりと男に近づいた。次第に、暗闇から男の身体が鮮明に浮かび上がる。そして、氷は目を細めた。男は、体中に煮立っているような火傷を負っていた。さらに股間からは夥しい出血。服は完全に燃え尽きており、辛うじて生命を維持しているように思えた。
「助けて……助けてくれ……」
涙に歪んだ顔を持ち上げながら、男は氷に懇願した。のたうちまわり、惨めに命乞いの言葉を吐き出し続ける男の顔を蔑むように眺め、氷は吐き捨てるように言った。
「自業自得ね。早く、死ねばいい」
氷の言葉は憎悪に満ちていた。男は顔を醜く歪めて絶叫した。
「助けてくれェ! 頼む! お願いだァ! 俺ハ死ニたくネぇェェェェェェッ!」
惨めだ。惨めすぎる男の叫びに、氷は微笑した。男の絶叫に隠れて、少女は呟く。自業自得……だ、と。
氷は、今まで生きてきた中で、最も心躍っている事に気付いていた。こんなに楽しい事は初めてだ。醜く愚かな輩に、私的な制裁を与える事が、こんなに楽しいなんて――
心の奥底から溢れ出す笑いを、なんとか押し殺しながら、氷は呟いた。
「この街で、二の腕にニドリーノのタトゥがある男を知らない? 教えてくれたら、助けてあげてもいい――」
震え、縺れる舌を必死に操りながら、男は氷の問いに答えた。
「あぁ……、知ってル。裏切リ者だ……。あいつ、俺の事を見捨てて、自分だけ逃げやガったんだ」
「さっきの……、さっき逃げた男……?」
「そうさ、あの野郎……、今度会ったら……」
男は歯軋りしながら、拳を震わせ、冷たい地面を睨み付けていた。
「――で? その男の名前は、なんて言うの?」
「レライエ……、レライエだ」
「レライエ……ね。ありがとう。……ところで……あなた、名前は?」
「サミジマだ。いいから、早く助けてく……」
男の言葉を聞き流し、氷は顔を上げた。恐怖に顔をひきつらせたサミジマの髪を小さな掌で掴み上げる。前へ向けた視線の先に、汚らしく醜い男の顔が映った。
次の瞬間、サミジマの腹に太い杭のようなものが貫通した。背中から内蔵が飛び出て散る。あんぐりとあけられた口からは、汚血が吹きだした。氷は掴んでいた手を離す。男はその場に崩れた。
氷は、微笑を浮かべながら、しばらくサミジマの屍を眺めていた。
どこからかやってきたアーボが、サミジマの死骸に食いついた。骨がバギバギと音をたてる。生臭い肉が、食いちぎられ剥がれ落ちた。後には、生々しい血痕だけが残った。
月に背を向け、立ち去る間際、氷は呟いた。
「馬鹿な男……」
早朝。辺りには白い霧がかかり、どこまでも広がる風景を覆い隠している。
「ねぇ、パパ、どこ行くの──どこ行くのっ?」
大声を発しながら、少女は父に抱きついた。染みついた消毒液の臭いが、ツンと鼻を突き刺す。
父は、少女を抱きかかえ、ゆっくり地面へと降ろした。しばらく少女の顔を見つめた後、背を向け歩き出す。自分の家とは正反対の方向へ。
「パパぁ……、どこ行くの……答えてよ……」
ぴたりと父の足が止まった。そして、少女に背を向けながら言った。
「瑞穂の……、手の届かないところに行くんだ」
それを聞いた少女は、激しく首を横に振り、叫んだ。
「やだぁ! そんなのヤダよう! 私、独りぼっちになるのは嫌だよ……」
「独りぼっちじゃない……、お友達のヒメグマとフシギダネがいるじゃないか」
少女は、家のベッドで眠っているはずの、ヒメグマとフシギダネを思い浮かべた。
「……で、でも……」
そう呟いた少女の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。
「パパは悪くないんでしょ! なんで……、どうしてなの……っ!」
「子供は……知らなくてもいいことだ……」
そう言い放つと、父は全速力で坂道を駆け下りた。まるで疾風のようだった。
「待ってよぉ……。パパ、パパ……!」
後を追いかけようとする少女の足は縺れて、少女はその場に転んだ。
「待って、待って、待ってよぅ……」
父の姿は、深い霧の奥に消えた。少女は泣きながら、父の後ろ姿を眺めることしか出来ない。いつの間にか少女の隣には、心配そうに見つめる、ヒメグマとフシギダネの姿がある。
「ヒメちゃん……、ダネちゃん……。う……、パパが、パパが……」
心臓が、ギリギリと痛む――あの時の痛みとは、違う次元の痛みだった。
少女は、二匹に泣きついた。啜り泣く声だけが、霧の空間に、いつまでも虚しく響いていた。
『昨日、午後3時頃、コガネシティ2-56区、コガネ百貨店の屋上から、身元不明、推定15歳ほどの女性が転落し内蔵破裂で死亡した事件で、コガネ地方警察は、目撃者の証言、現場の状況などから自殺と断定し、女性の身元の確認を急いでおり……』
――イヤな夢、を見た――
ベッドから飛び起きた瑞穂は、荒い息づかいで、辺りを見回した。なんだか懐かしい臭いがする。白一色の狭い部屋にも見覚えがある。
病院……、コガネ中央病院。瑞穂は即座に、ここが何処であるのかを思い出した。
瑞穂の着ている、薄い桃色のパジャマは汗で、ぐっしょりと濡れていた。ベタベタしている。
上半身を起こして、窓から外を眺めた。コガネシティ全景が見える、そして昼の強い日差しが眩しい。
『……41番水道での、高速客船『グラシャラボラス号』の火災事故から、4日が経過しましたが、深い霧のため、依然、捜索は難航しており、乗客・乗員49名の生存は、絶望視されて……』
つけっぱなしになっているテレビから、ニュースが流れている。テレビの横では、リングマとグライガーが、大きな鼾をたてて眠っていた。
リングマもグライガーも、悪夢に魘される瑞穂のことを心配して、深夜中、ずっと起きて見張っていてくれたことなど、瑞穂は知る由もない。
瑞穂がグィと背伸びをすると、真っ白なドアが開いた。ドアから入ってきたのは2人の女性だった。
「あ、起きてたの」
白衣を着て、ルビー色の髪をした、医者らしき女性は、瑞穂に話しかけた。医者とはいうものの、まだ17歳で、所々に幼さが残っている。
「うん」
そう答えた瑞穂が、汗だらけなのをみて、女医は驚いて訊いた。
「すごい汗。どうしたの?」
「ちょっと、イヤな夢を見た」
「そう、大丈夫? 瑞穂ちゃん」
瑞穂は少し微笑んで、首を横にふった。
「大丈夫。私には、リンちゃんと、グラちゃんがいるし。この病院も、ノゾミちゃんがいるから、安心だし……」
瑞穂がそこまで言うと、女医の隣に立っているジュンサーが溜まりかねたように口を開いた。
「あのね……。そういう個人的な会話は、私の話が終わってからにしてくれない?」
キョトンとしながら、瑞穂はジュンサーの方を向いた。
「ごめんなさい。巡査さん」
「警部補よ」
事も無げに自分の階級を訂正すると、コガネ警察署、刑事課強行犯係のジュンサー警部補は事務的な口調で、事件現場を捜索したときの話しをしだした。
「アナタの言っていた場所を探したら、やっぱり遺体が見つかったわ……それもバラバラのね。状況も一致していたし、目撃証言からアナタがその犯人に襲われたのも、間違いないこともわかった。だから、その太股にデルビルタトゥの男は指名手配しておいたわ。捕まるかどうかは、解らないけど……」
「絶対に、捕まえてください……!」
隣で静かに話を聞いていた、女医の桃谷望が、大きな声で言った。
「許せないよ……そんなの。人を殺して、バラバラにするなんて……。瑞穂ちゃんまで、非道い目にあわせて……。絶対に許せない! そうでしょ? 瑞穂ちゃん」
小さく、ゆっくりと瑞穂は頷いた。
「だから、お願いします! 絶対に捕まえてください……!」
望はそう言うと、じっとジュンサーの瞳を見つめた。ジュンサーは望の剣幕に、いささか驚いたようだが、小さく2,3回頷いて言った。
「わかってるわ。こちらも出来るだけ犯人逮捕に努力するつもりよ。でも……、この街の治安の悪さは、普通じゃないから、難しいの……。最近この街、世界標準世界標準、世界標準……って、騒がしいけど、犯罪までグローバルスタンダ-ドにされちゃ、たまんないわよ……。」
「大変……ですね……」
思わず愚痴をこぼすジュンサーを見て、瑞穂は同情心からか、呟いた。
「ありがとう。 まぁ私が言うのも何だけど……、この国のケーサツは、不祥事多いけど、検挙率は先進諸国の中でナンバー1なんだから。心配しなくていいわ。……それよりも、いいの?」
「なにがですか?」
瑞穂は、突然の問いに、首を傾げた。
「カウンセリングよ。 あんな事件に巻き込まれたのに、ホントに大丈夫なの……?」
俯き、何か考えているような仕草の後、瑞穂は言った。
「やっぱり大丈夫です。あの時は、リンちゃんが助けてくれましたし……」
チラリと、瑞穂は横で眠っているリングマを見やった。
「でも……、あんな非道い遺体見たら……。さっきだって魘されていたみたいじゃない」
「さっきのは違うんです。昨日の事件とは関係ない夢で……。それに、人の遺体には、慣れていますから」
「遺体に慣れてる……?」
驚いて、口あんぐりのジュンサーに、すかさず望が説明を加えた。
「あ、その、瑞穂ちゃんは、トキ大の医学部卒なんです。医学部って、あの、解剖実習とか、よくやるんで、だから、遺体には慣れているんです。……だよね……瑞穂ちゃん?」
「あ……。うん、そう……。そうなんです。正確には携帯獣医学部ですけど」
警察関係者に、変な誤解をさせるわけにはいかない、とばかりに瑞穂は、首を縦に振った。
「なんだ……そうなの……。こんなにちっちゃいのに、大卒ねぇ……」
その時、ジュンサーの腰についている携帯電話が、メロディを奏でた。
「ちょっと、ごめんね。……はい、私よ。え? そうよ……、わかった。今行くわ」
話し終わると、ジュンサーは、携帯を元の場所にしまった。
「ちょっと事件が起こったみたいだから、私行かなきゃいけないの。それじゃあね」
そう言うと、ジュンサーは目にもとまらぬ速さで、部屋を飛び出していった。
ジュンサーが去ると、瑞穂は、柔らかく微笑みながら言った。
「……3ヶ月ぶりだね、望ちゃん」
「うん。卒業してから、もうそんなに経つんだ……。ヒメちゃ……じゃなかった、リンちゃんも、大きくなったしね。ミズホちゃんは、どう? なにか変わったことない?」
相変わらず病室には、テレビのニュースと、リングマ、グライガーの鼾だけが響いている。
瑞穂は、しばらく俯いてから、言った。
「なにがなんだか……、わからないくらい……変わった事ばっかりだよ」
「え……?」
テレビから、昨夜起こった、凄惨な殺人事件の報道が聞こえてくる。
『本日未明、コガネシティ2-4ナリ区で発見された、幼女のバラバラ死体は、コガネシティ在住、鋭田 昭吾さんの長女、鋭田 美子ちゃん、9歳であると断定され、コガネ地方警察は、目撃証言から、犯人の指名手配を……』
この街に来るまでの経緯を、瑞穂から聞いた望は、しんみりとした表情になった。
発作……。軽蔑の眼差し、言葉。別れ。喧嘩。いざこざ。決別。涙。危険……。事件。
「そうなんだ……。いろんなことが、あったんだね……」
瑞穂は軽く唇を噛んで、俯いたままだ。
「ねぇ……瑞穂ちゃん。そんなに辛い目にあうんなら、やめちゃえば……? ポケモントレーナーなんて」
それを聞いて、瑞穂はサッと顔を上げて言った。
「それはイヤ……。それに、ソウちゃんを捜さなきゃいけないし……」
「旅は……続けるつもりなんだ……」
こくり、と瑞穂は頷いた。
「ねぇ、なんで、旅なんかするの……? 私にはわからない。瑞穂ちゃんなら、どんな病院やポケモンセンターにも、就職できるのに……」
深いため息をついて、瑞穂は答えた。
「実は……私も、最近なんで旅を……ポケモントレーナーをしてるのかわからなくなってきちゃったんだ……。でもね、辛いことや苦しいことがあっても、リンちゃん達と旅をしてると、なんだか楽しいの……」
「そう……なんだ。……まだ、よくわからないけど……」
「うん……」
ほんの少しばかりの沈黙――
暗い話題を少しでも明るくしようと、望は突然、語調を明るくした。
「そ、それにしても、ビックリしちゃったよ……。瑞穂ちゃんがスッパダカで運ばれてきたときには……」
「う゛……。それは……」
瑞穂の顔が、強張り、そして淡いピンク色に染まった。そして、小さな声で呟いた。
「……ミタ?」
「なにを……?」
「だから……、そのぉ……」
火照った顔を俯かせて、瑞穂は恥ずかしそうに、拳をモジモジさせている。
「あぁ……、そういうこと。しっかりと、見たよ」
「やっぱり……」
「瑞穂ちゃんって、まだまだ子供だね。まだまだ、私のには遠く及ばないよん」
「う゛……ぅぅ。恥ずかしぃ……」
湿った瑞穂のパジャマから、勢いよく湯気が吹き出した。そんな瑞穂を見て、望はクスクスと笑った。
「ふふ……。瑞穂ちゃん自身は、全然昔と変わってないね。その素直なリアクションとかさ」
熱っぽい身体を冷やすかのように、腕を2,3回廻すと、瑞穂は天井を見上げながら呟いた。
「はぁ……。昔と変わってない……か。いつまでも、子供のまんまなのかなぁ……私って」
「でも私は……、そんな瑞穂ちゃん、好きだよ」
ふぅ、と息をはいて、望は口元に笑みを浮かべた。そして言った。
「すこし眠った方がいいね……。瑞穂ちゃん。今、替えのパジャマ、持ってくるから」
「うん……、ありがとう」
望は振り返り、つけっぱなしになっていたテレビのスイッチに手を伸ばした。
『……トキワ・洲先クリニックでの、点滴に不整脈用剤が混入し、お年寄りや幼児などの13人が死亡、20人以上が後遺症害を被った、事件の裁判で、カントー高等裁判所、荻菜裁判長は、森田 條馬被告に、逆転無罪判決を言い渡し……』
ニュースを聞いて、テレビを消そうとしていた望の手が、ピタリと止まった。そして、青ざめた顔を瑞穂の方に向け、言った。
「み……瑞穂ちゃん……」
「あれから……、もう、3年も経つんだ……」
「そう……だね……」
瑞穂と望は、青ざめた顔で、お互いを見つめ合っている。汗で濡れたパジャマを、瑞穂は始めて冷たいと感じていた。
どこまでも流れる、河。沸き立つ湯気は、冷たいシャワーにかき消される。
冷たい。冷たい。冷たい。……しかし、動かなくなった姉の冷たさに比べれば、どれほど生温いだろうか。
しばらくして、氷がタオルを体にまいた姿で、バスルームから出てきた。ベッドに座ると、氷は携帯パソコンのディスプレイを見つめた。
『1件の着信あり』
ディスプレイを徘徊していた矢印は、即座に届いたメールを開く。
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差出人:法雅希 祐介 宛先:yot325@poi.freeways.**.**
件名:*****
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俺だ、法雅希だ。
姉さんが、自殺したそうだな。相変わらず苦労しているみたいだな。
俺も力になってやりたいが、いかんせん、今の状況じゃ身動きがとれない。
それと、お前の姉さんが死んだのは、アイツらには気付かれてない、安心しろ。
例の件は、もう少しだけ時間がかかりそうだ。
それと、パスワードを教えてくれ。でないと回覧できない。
あと、大丈夫なのか? このメールでお前の居場所とかバレたりしないのか?
今コガネシティにいるんだろ?
だったら、今日の午後8時から10分間は、気をつけた方がいいぞ。
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キーボードのキーを叩きながら、氷は疑問に思った。
……今日の午後8時から、なにが起こる?……なにかが?……。
ものの数秒で、差出人への返信を書き終えると、氷は、冷やした牛乳紅茶を一口啜った。
……気をつけた方がいい?……それは、もしかして……。
噂には聞いていた。おそらく今日、決行されるのだろう。その計画が――まだほんの一部であるとは思うが――
窓の外から見える景色から、陰謀の囁きが聞こえたような気がした。
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差出人:雪女 宛先:nori52@ho.tr.ne.**
件名:*****
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ありがとう。例の件は、わかり次第、メールで知らせて。
パスワードは『3745tr』だから。
>このメールでお前の居場所とかバレたりしないのか?
それなら大丈夫。
あの鯖は、元々私が構築したものだから、絶対にバレたりすることはない。
そのためにわざわざ、鯖に穴を開けといたんだもの。
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メールを送信し終えると、氷はベッドに横になった。灰色の天井を眺めながら、ひとり孤独に呟く。
「私は……、こんな風にしか生きることが……できない。残念、だけど……」
太陽が西に傾きつつある頃、氷は短い眠りに落ちた。
空が赤々と染まる頃、瑞穂は短い眠りから覚めた。
大きな欠伸をすると、テレビの横で寝ているハズのリングマ達を見やる。グライガーは、相変わらず鼾をたてて眠っているが、リングマは起きて瑞穂のベッドの隣に座っていた。
「リンちゃん、起きてたんだね」
瑞穂がそう言うと、リングマはぐぅと頷いた。その瞬間、瑞穂のお腹が、ぐぐぅと大きな音をたてる。それを聞いてリングマは笑った。瑞穂も、顔を赤らめながら苦笑した。
「ふふ……。そんなに笑わないでよ、リンちゃん」
ドタドタドタ……。
廊下から、誰かが勢いよく走ってくる音が、響いてくる。
「あれ……。誰の足音だろう……」
意識せず瑞穂がそう呟いたとき、病室のドアが勢いよく開いた。
ドアからは、紺のオーバーオールを着た、7歳くらいの女の子が飛び込んできた。瑞穂は、どこかで見覚えがあることに気付いた。昨日の同時刻、自然公園で瑞穂にビスケットを譲ってくれた、あの女の子だ。
「あ……! キミは……」
「グルゥゥゥゥゥゥゥッ……!」
唖然としている瑞穂の問いかけも、警戒しているリングマの唸り声も、全て無視して、女の子は言った。
「かあさん! あと、どのくらいなん?!」
……沈黙。
その女の子は、百合ゆかりと名乗った。鮮やかなオレンジ色のトレーナーに、オーバーオール。ちょこんと短いポニーテールが黒く輝いている。
驚いた様子をしている瑞穂の『沈黙』という問いに、ゆかりは照れながら、答えた。
「あちゃ。……ごめんなさい! 部屋、違えてもうたみたいや……。ここは……何番室なん?」
「403番室……、だったと思うけど……」
呆然としながら、瑞穂は言った。
「本当は、何番室にいくつもりだったの?」
「303番室……。っちゅうことは、ウチは3階に行かなアカンのに、4階まできてもうたんか。あぁ……、相変わらず間抜けやなぁ、ウチは。」
ゆかりは頭を掻きながら笑った。瑞穂も、それにつられて笑うしかない。苦笑いしながらも、瑞穂は背中で唸っているリングマを気にしていた。昨日、あんな事があったからだろうか。リングマは突然の事で、今にもゆかりに飛びかかりそうだった。
リングマの警戒心を解くために瑞穂は、なおも照れ隠しの笑いを続けているゆかりに話しかけた。
「あのさ……キミ。昨日、自然公園で、私にビスケットくれた子だよね?」
「ん……」
ゆかりは、しばらくまじまじと瑞穂の顔を見つめた。そして驚いたように、大声で言った。
「そや、思い出した!」
「思い出して、くれた?」
「あんときのお姉ちゃんやん! だから、言うたやろ。あんな所で寝とったら、風邪ひくって」
……はい?……。瑞穂は、目を丸くした。
「……大丈夫なん? 入院せなアカンほど、ひどい風邪ひいてしもたんやろ? はぁ……、ウチがもっと早う、お姉ちゃんを起こしとけば、こんなことには……」
ひとりで延々と喋り続けるゆかりをみて、瑞穂は思わず、本当に笑い出した。
「お姉ちゃん……? なんで笑うん?」
笑い終えて、咳き込みながら、瑞穂は答えた。
「違うの……。違うんだもん……」
ゆかりは、きょとんとしながら、首を傾げた。
「変な、お姉ちゃんやな……」
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。