水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#4-1

#4 狂気。
 1.月卿雲客

 

 

『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。 
 私は、あなたがたの時代に一つの事をする。 
 それは、人がどんなに説明して聞かせても、 
 あなたがたのとうてい信じないような事なのである。』(『新約聖書 使徒行伝』)

 

○●

 ここは、どこだろう。 
 ただ一つ解るのは、ここが私の本来いるべき場所であるということ、だけだ。 
 少し前から私は、自分が普通ではないことに気付いていた。普通ではなく、特殊なのだけど……。それが私にとってプラスになるのか、マイナスになるのかは、よく解らない。突然、頭が痛くなって、体中が熱くなって……、そして意味不明な声が聞こえてくるのだ。 
(前方、47*68確認。攻撃開始。技、選択。……4。はっぱカッター。発射準備、完了。発射……。) 
 なにがなんだか解らない……。なにがなんだか解らなくなって、気がついたら、とても疲労しているのだ。 
 私の隣には、彼がいた。息をふうふうとはきながら、どこかを見つめている。 
 彼は、最近になって、私と一緒に行動することが多くなった。そして彼も、私と同じで、普通ではない、特殊だった。 
 彼を監察していて、解ったことが一つある。私と彼は、ご主人様に利用されている、ということ―― 
 苦手な小鳥ポケモンの囀りが聞こえる。ざわざわと、風で木々の擦れる、心地よい音が聞こえる。分厚い葉っぱの天井から、少しだけ、一筋の太陽光が差し込んでくる。 
 気持ちがいい。 
 やはり私は、本来ここで住むべきなのだ。そう、この森で。 
「リリィ、ライム……、調子はどうだ?」 
 私と彼から数メートル離れた場所で、ご主人様は訊いた。ご主人様の言葉の、細かいところまではよく解らないが、今までの経験で大体の意味は理解できるつもりだ。リリィというのが私の名前。ライムというのが彼の名前。調子はどうだ?、というのは、私と彼の健康状態もしくは精神状態の善し悪しを訊いているのだろう。 
 私はいつもと同じように、ちょこんと頷いた。それが、体調は良好、という意志表示なのだ。彼も、私と同様に頷いている。 
 ご主人様は、口元に微笑を浮かべながら言った。 
「そうか、それなら、行くがいい……、開始だ」 
 重そうなコートのポケットから何かを取り出したご主人様は、その何かに向かって喋った。 
「そして、滅び去れ……」 
 ご主人様が、普段『キーワード』と呼んでいる、その言葉。意味が分からない……。その言葉に、なんの意味があるのだろうか……。私には理解できない。 
 ご主人様の手の中にある何かが、赤々と輝き始めた。嫌な輝きだと、いつも思う。 
 頭が痛くなってきた。体が熱い。……特殊な者のみが起こす「発作」の前触れ。体を震わせ、必死に「発作」に抵抗しようと試む私は、チラリと隣にいる彼を見やった。 
 彼も私と同様に「発作」を起こしている。体をうねって、体をブルブル震わせて……。 
 頭が……頭が割れそうに痛いよ。ご主人様、助けて。 
 目の前にある風景が、幻のような風景になり、ウネウネと波打つ。 
 痛い。頭が砕けちゃうよ。壊れる? 痛いの……痛いんだってば……。声だよ……、いつもの……、いつものあの声が聞こえてきた……、怖いよ……。 
『前方263m。感知。反応物、不明。接近』 
 私は走り出した。全速力で、全速力を超えて、全速力を遙かに超えて……。燃えるように体が熱い。砕けるように頭が痛い。 
 死ぬ……?私、このままじゃ……死ぬ。

 

○●

「なぁ、お姉ちゃん。そろそろ休憩しようやぁ~」 
 ゆかりは瑞穂に疲れた様子で訴えた。 
 膝はガクガク、かかとはギシギシ、喉はカラカラ、お腹はぺこぺこ。もう体力の限界だ!と言わんばかりに、近くにあった切り株に腰掛けている。 
「そうだね……そろそろ、休憩しようか」 
 そう言って瑞穂も切り株に腰掛けた。しかし本当の所、別段瑞穂は疲れているわけではない。故郷から旅だって3ヶ月、それなりに鍛えられた瑞穂の足腰は、この程度では疲れることを知らないのだ。 
 だが、ゆかりは旅を始めてたったの3日。疲れるのもムリはない。 
 ゴクゴクと水筒の水を飲む、ゆかりの横顔を眺めながら、むしろ瑞穂は凄いと思った。3ヶ月前の自分だったなら、この時点で既に疲労で倒れて、病院へ逆戻りだろう。コガネっ娘ならではのタフさだなぁ、と瑞穂は少しだけ羨ましく思った。 
 沢山の草木が生い茂るウバメの森は、昼でも夜のように薄暗い。それもその筈。木々の葉が、降り注ぐ太陽の光を、独り占めしてしまうからだ。風で葉と葉が擦れて、ザワザワという、森林特有のBGMが常に流れている。小鳥ポケモンの囀りは、さながらサウンドエフェクト、といったところだろうか。 
 瑞穂とゆかりは、ヒワダタウンを目指して、ウバメの森を横切っている最中なのだ。 
「はい、お姉ちゃん」 
 水を飲み終えたゆかりは、そう言って水筒を瑞穂に手渡す。ありがとう、と言って水筒を受け取る瑞穂の白い頬を見つめながら、ゆかりは訊いてみた。 
「なぁ、お姉ちゃん」 
「ん? なぁに?」 
「やっぱりウチ、足手まといやろ? お姉ちゃん、ホンマは休憩せんでも大丈夫なんやろ?」 
 水を飲もうとしていた瑞穂の手が、ピタリと止まった。困ったような顔をしながら、ゆかりの方を向いている。そして、躊躇いがちに瑞穂は言った。 
「ホントは、別に休憩しなくても、私は大丈夫なんだけど……」 
「やっぱり、ウチ、足手まといやよね……」 
 ゆかりがしょげ込むのを見て、瑞穂は首をゆっくりと横にふった。 
「そんなことないよ。逆に凄いと思う。私なんかよりも、全然タフな体してるもの」 
 そう言われて、ゆかりは自分の体、全身をまじまじと見つめた。細く、華奢な瑞穂の足とは対照的に、ゆかりの足はとても丈夫そうである。 
「まあ、タフいうたら、タフやけど……」 
「そのうち、慣れるよ。ユユちゃんは、コガネっ娘だもん」 
「あ、でも、ウチ、元々はトキワシティに住んでたんやで。2年くらい前にコガネに引っ越したんや」 
 瑞穂は意外そうな顔をして、ゆかりの言葉に耳を傾けている。その割にはコガネ弁が上手だな、と感じた。どう聴いても、何年もコガネシティに住んでいたとしか思えなかった。 
 水筒をしまうと、瑞穂は背伸びをしてからリュックを漁った。 
「ちょっと早いけどさ、ついでだから、お昼ご飯にしよう」 
「さんせい! ウチ、歩きすぎてお腹ぺこぺこやったんや」 
 ゆかりはスカスカになっているお腹を、やんわりとさすりながら言った。 
 朝、森にはいる前にコンビニで買った弁当は、リュックサックの中に入れていた筈だ。 
 あれ? 
 ガサゴソとリュックを漁る瑞穂の顔が、段々と蒼白に近くなっていくのを、ゆかりは見た。 
「お姉ちゃん?」 
 そう言われて、瑞穂は今にも泣き出しそうな顔を、ゆかりに向けた。向けた、とはいうものの、その瞳はもはや焦点を失っている。 
 重ねて、ゆかりは訊いた。 
「どないしたん?」 
「ない」 
「はぁ?!」 
「忘れた」 
「お弁当を?」 
「トイレに……、行ったとき、汚いと思って……お弁当だけ、出してたの……。たぶん、その時に……」 
 涙目を擦りながら、瑞穂は茫然自失のまま言った。 
「今、食べ物は?」 
「なっしんぐ」と、瑞穂は、両手をふりふりしながら答えた。 
 ゆかりは頭が真っ白な何かに浸食されるのを、確実に感じていた。続いて、真っ青な何かが。最後は、真っ赤な溶岩だ。 
「お、お、お……」 
 真っ赤な溶岩のせいで、上手く言葉が出てこない。瑞穂は、ただただその言葉を待っているかのように、座り込んでしまっている。 
「お、お姉ちゃんの、アホ~ッ!!」 
 ゆかりの絶叫は、ウバメの森全体に響きわたった。

 

○●

 なに? 今の音……。 
 私はゆっくりと起きあがった。気絶していたんだと思う。そうだ、気を失っていたんだ―― 
 頭の痛みは消えていた。顔がなんだか冷たい。火照った顔に水を浴びせているような……。 
 起きた? 
 私は突然の声に驚いて、辺りを見回した。この森の中心部に位置する湖、ウバメ湖。透き通るような美しい水。太陽光が水に鏡のように反射して、薄暗い森を照らしている。湖の底にある、もう一つの太陽……。そんな表現がよく似合った。 
 彼女……。そこにいたのは彼女だった。光り輝くウバメ湖のほとりに、彼女は立って、こちらを見つめていた。くりくりっとした瞳に、つやつやの肌をしている。その顔からつくり出される微笑みは、同じ女性である私のものとは明らかに違っていた。 
 心の底から温もりが伝わってくるような、優しい微笑みだった。 
 大丈夫だった……? 突然倒れてるから、ビックリしちゃった。 
 彼女はそう言うと、私のすぐ隣に座った。 
 私は彼女に訊いた。あなたが、助けてくれたの?と。 
 チラリとこちらを見やって、彼女は頷いた。そうだよ……、と言いながら。 
 なぜ……? 
 あなた、私と同じみたいだもの。 
 私の問いに、彼女はそう答えた。 
 たしかに、私とあなたは同じ生き物よね。でも、だからといって助ける義理は……。 
 あるよ。 
 彼女は私の言葉を途中で遮ると、立ち上がった。 
 『困ったときはお互い様』って、昔おじいちゃんが教えてくれたの。 
 そう言った彼女は、私に湖の透き通った水を差しだした。 
 飲めば、すぐ元気になるよ。と彼女は言う。 
 ありがとう。 
 私は礼を言い、水を飲み干した。体の中が洗われるようだ。 
 彼女はこちらの方を向くと、興味津々な顔で訊ねた。 
 あなたは、この森の集落の出身じゃないよね。どこから来たの? 
 解らない。私はそれだけ言った。 
 わから……ない?と、彼女は聞き返す。 
 そう、解らない。私が何処から来たのか。私は何処で生まれたのか。 
 私の父や母は誰なのか、何処にいるのか。私は何ものなのか……。何も解らない。 
 ふと横を見ると、彼女は黙ったまま、こちらを見つめている。 
 かわいそう……。彼女は悲しそうな瞳をしながら呟いた。 
 あなた、とってもかわいそう、と。 
 そうね。そう答えるので精一杯だった。一歩、私に詰め寄ると、彼女は言った。 
 ねぇ、私の集落で――私の仲間達と、一緒に暮らさない? 
 あなたと、一緒に?  
 私は息を呑んだ。私と、一緒に暮らす……仲間達と? ――仲間。その言葉が、私の心の奥に、痛いほどに響いていた。 
 そうだよ、みんな歓迎するはずだよ。いこう! 私の集落に! と言って彼女ははしゃいだ。 
 そんな彼女の言葉を聞きながら、私は、悪くない、と思っていた。 
 同じ仲間同士……、ヘンテコなご主人様や、カタブツな彼と一緒に生きるよりは……。 
 ずっと、ずっと楽しいはずだ。 
 ずっと、ずっと楽しい……。 
 ずっと、ずっと……。

 

○●

 広い広いウバメの森を歩きながら、ゆかりはため息混じりに言った。 
「人はパンのみに生きるのではない……かぁ。でも、今はパンがなければ生きられないぃ……」 
「パンが無くても、ご飯があれば生きられるよ」 
 ゆかりの悲痛な言葉を聞いて、瑞穂はゆっくりと応える。そんな瑞穂を見て、ゆかりはムッとした表情で言い返した。 
「んなこと言うても、今はパンもご飯もなんにも食べ物、食べられるもの、なんにも、かんにも、ないやんか!」 
「ごめん……」 
 ゆかりの睨み付けられ、瑞穂はシュンと俯いた。 
 午後2時30分。お昼のご飯、ランチタイムはとっくの前に済んでいなければいけない時間だ。だが、瑞穂が弁当をウバメの森前のトイレに忘れてしまったため、ランチタイムも、ただの休憩時間と化していた。 
 せっかくの楽しみにしてたランチタイムが、中止。 
 ゆかりのお腹は真空状態、瑞穂の心は重荷がドッサリ。 
 どうにも、こうにも、食べ物がない……。 
 ゆかりは、リンゴの芯でも食うで!とばかりに、真空状態の腹をさすりながら、辺りを見回している。 
 お芋の煮込みうどんが食べたい……、なんて思ってられない。 
 私のせいで、ユユちゃんがお腹をすかしている……。心の重荷が、瑞穂には辛かった。 
 そんなわけだから、まさに損なわけで。無駄金使ったゆかりと、落ち込んだ瑞穂の足取りは、次第に遅くなる。いつしか立っているのか歩いているのか、わらないくらいになってしまった。 
 ゆかりは、まだお腹をさすっている。溜息をつくと、掠れるような声で、嫌味を言っているかのように、暗く呟いた。 
「ウチは、お弁当は、いっつも残さず食べとったんやで……」 
 だから、なんなのかな?と訊きたいのを、瑞穂はグッと堪えた。非が自分にあるのは明白だったからだ。第一そんなことで怒るのもバカげているではないか。 
 そもそも『そう言うのも、また一興だ』と言ったからには、それを実践しなければなるまい。 
 こういうのも、楽しいし。でも、少しだけ辛い……かな? あ、少しだけ、じゃないかも……。

「ほんとに……ごめん」 
 すこしばかり暗く、悲しそうな声色で瑞穂は言った。突然そんな口調で謝られても、ゆかりは困ってしまうばかりだ。 
 枯れ葉が一枚、瑞穂とゆかりの間に落ちて、カサリと音をたてた。 
 こうやって、ワガママ言って、いつの間にか相手にされなくなるんだ。ゆかりは、指先をもじもじとさせながら、瑞穂の様子を伺った。自分も、言い過ぎたことを謝ればいいのだ。だが、こっ恥ずかしくてなかなか謝れない。そうしている内に本当に謝りたいと思っても謝れなくなるのだ。 
 ゆかりの姉は、もう、この世にいない。姉が病院の事故だったかミスだったかでで死んでから、ゆかりにはワガママを言って甘えることのできる人がいなくなっいた。 
 父は、姉の死のショックから立ち直れず飲んだくれになり、母といえば、いつの間にかそんな父の言いなりになってしまっていた。 
(ごめんね。父さんがああだから……、ゆかりには、かまってあげられないの……) 
 もう数年前になるだろう、母の言葉が、つい先程のことのように浮かんだ。公園での1人遊びを始めるようになったのはその頃からだったろうか。学校での友達は、ゆかりの性格が明るいためか沢山いた。だが、遊ぶときはいつも1人、孤独だった。友達といると、『甘え』が出てしまうかもしれない……。子供ながらにそんな危惧を抱いていたのだ。そんなわけだから、父が精神病院に入院すると聞いて、ゆかりは小躍りをしたほど嬉しかった。しかし、父がすぐさま精神病院での暴行事件で死に、母は知らぬ間に妊娠していた。そして勝手に死んだ。 
 誰にも甘える暇はなく、ゆかりはここまで来てしまったのだ。 
 ゆかりは考えていた。それなのに、なんで今、こんなに落ち着くんやろう……、と。答えは、簡単な事だった。『お姉さん』は、すぐ隣にいるではないか。 
「お姉ちゃん。これからは気をつけてな……」 
 すこし申し訳ないような感じで、ゆかりは言い。瑞穂はそれに答えた。 
「うん」 
「あ、ちょっち言い過ぎたかな、って思ってる……。ウチ、ワガママ、やろか……?」 
「そうでもないよ」 
「ホンマに?」 
「ホントホント。それに前にも言ったでしょ? こういうのも、また一興だ、って」 
 瑞穂は顔をあげ、森の新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。こうすると、怒りも悲しみも、負の感情が全て洗い流されるように感じる。瑞穂の真似をして、ゆかりも大きく息を吸い込んだ。 
 ふわふわ、とした甘い香りが、ゆかりの鼻の粘膜、そして胃袋さえも刺激した。 
「なぁ、お姉ちゃん……」 
「なぁに?」 
 先程とはうってかわり、すがすがしささえ感じられる瑞穂の顔が、ゆかりに向いた。 
 不思議そうな表情をしながら、ゆかりは訊いた。 
「お姉ちゃん、香水とか使ってるん?」 
「ううん」瑞穂は首を振った。「私みたいなコドモが、香水なんかつけないよ」 
「おしゃまやと思われるもんな」 
「そうだね。」瑞穂は微笑したようだ。口元が緩んでいる。「でも、どうして、そんなこと訊くの?」 
「なんや、甘い香りがすんねん。この香り、胃に響くわぁ~……」 
 そう言われて、瑞穂は眼を閉じ、鼻をヒクつかせた。確かにこの香り、どこかで嗅いだことのある香りだ。どこかで……。 
 別に懐かしいというわけではない。いつか頻繁に嗅いでいた香りだ。 
「確かに……、いい匂い……」 
「やろ? 胃、胃に響くぅ~……」 
 ザッ!そんな音がして瑞穂が目を開くと、そこにゆかりはいなかった。 
「ゆ、ユユちゃん?!」 
 ゆかりは走っていた。香りのする方向へ。 
「どこいくの?」 
「気になるやんか、香りの正体」 
「あぁ、それは……」 
 答えを言う前に、ゆかりは茂みの中へと踏み込んでいってしまった。ご丁寧に「お姉ちゃんも、はよ、おいでや~!」と言ってくれている。 
「ふぅ……」 
 瑞穂はため息をついたが、それはどこか楽しげだった。一人っ子である瑞穂は、なんだか突然、妹ができたみたいな錯覚をおこしていた。 
 家族を失ったもの同士、気が合うだけかもしれないが……。 
「私、半袖にハーフパンツなんだけど……」 
 あの、その格好でこの茂みを通るの? 
「痛そう」 
 ご苦労様です。

 

○●

 なによこれ。 
 集落を前に、彼女は涙混じりの上擦った声で、そう呟いた。 
 私が彼女を見つめると、彼女の唇は震え、そして怯えているように見える。 
 彼女は放心の面持ちで呟いた。なに? 何が起こったの……?と。 
 私は答えなかった。 
 なんとなくではあるが、目の前の風景の意味を理解していたにも関わらずに、だ。 
 酸っぱいような臭いが辺りにたちこめている。木々に阻まれ、それから逃れられた僅かな日光は、これでもか、とばかりに現実を照らし出していた。 
 現実とは、常に残酷な物なのかもしれない。いや、残酷が現実なのだ。そんな残酷――という名の現実――に耐えきれない者が選ぶ路、すなわち逃避行動が、狂気をうむのだ。 
 狂気を持たないと思われている者でも、見えない狂気を隠している。 
 プライドは十分に狂気に成りうるし、テレビアニメに映っている架空の美少女、もしくは黄色く愛らしい架空の生き物を見ながら「萌え萌え~」などとホザいている人間も、間違いなく狂気に侵されている。 
 全く愚かなことだ。架空の創造物に心を奪われるとは……。 
 そんな人間は、本来社会的に抹殺されるのだが、この社会全体が狂気を帯びている今、何も社会には望めない。 
 だからこの世界は狂気に溢れている。 
 そして強すぎるイデオロギーも、また狂気と成りうる。 
 ……私は、そんな人間の持つ『狂気』から生まれたのかもしれない。 
 間違いない、私は、あの男のイデオロギーから生み出された『狂気』なのだ。 
 ツクラレタ、狂気。 
 なんなの、これ。何があったのよ。誰か……、返事をして。へんじを……へんじして……よぉ。 
 そんな彼女の言葉もまた、狂気に侵され始めている。 
 彼女は何かを呟きながら、一歩前へ歩みでた。 
 シャリ、という、葉っぱの心地よい音色も、彼女の耳には届いていない。 
 私も彼女の隣に進み出た。彼女の横顔は艶があり美しかった。恐怖が全面に表れていることを除けば。 
 現実は、正面を向くのと同時に再び、私の前面に飛び込んでくる。 
 なに、簡単な事だ。 
 『みんな死んでいた』 
 それだけだ。ただ、それだけだ。 
 これが現実なのだ、残酷なのだ。それに耐えられない人間は、抹殺されるべきなのだ。それをあの男が拒むが故に、私が生み出された。 
 愚かだ。愚かすぎる。なぜ逃げる、なぜ隠れる、なぜだ……。 
 こんな事をする必要が何処にある! 
 ど、どうしたの……?と、彼女は怯えながら、私に訊いた。 
 なんでもない、と答え、私は彼女の顔を見つめた。 
 間違いない、よ……。 
 なにが、何が『間違いない』の? 
 彼女の小さな呟きを、私は聞き逃さなかった。 
 私の問いに、彼女は薄暗く湿った空を仰ぎ見た。 
 『朱と蒼の死神』……ただの噂だと思ってた。でも、本当にいるなんて……。 
 恐怖からだろうか、彼女は私に寄り添い、話し始めた。 
 この数日ね、遠出した仲間が、沢山、斬り殺されているのが見つかっているの……。 
 赤い剣を持っているのと、青くて目にも止まらない速さで動くのが、別々に目撃されていて、 
 集落のみんなは、『朱と蒼の死神』って、呼んで恐がってた……。 
 私は信じてなかったけど、と彼女は付け加えた。 
 つまり、この有様は、その死神のせいだって言いたいわけね? 
 私がそう言うと、彼女は小刻みに頷いた。 
 そうとしか、考えられないよ。こんな非道い、こんな……。 
 彼女はそう言って泣き崩れた。嗚咽が凄惨な元集落に響く。 
 たしかに、非道い。50程の命が、こうもあっけなく切り刻まれているのだ。 
 これから、どうしよう。 
 傷心の彼女を連れて、私は生きていけるのだろうか? 
 私は、泣き狂う彼女を前に、呆然とそんなことを考えていた。 
 一瞬にして全ての仲間を惨殺されて失った、哀れな彼女の事を……。 
 しかし、それは杞憂に終わった。 
 彼女の泣き声は、鋭い音に掻き消された。彼女は何にも逆らわぬまま、地面に倒れた。私が驚く間もなく、彼女の体は、横に綺麗な切り口で真っ二つに裂けた。 
 ビュババ、シュゥゥゥ……。 
 ヌルヌルとして透明な彼女の体液が、私の顔を濡らした。酸っぱい臭いが鼻を覆った。彼女は、最期の言葉を、私に聞かせてくれた。

 私の体……どこに、いったの?

 彼女は、事切れた。艶やかで綺麗な彼女の顔は、もはやただの亡骸の頭になっていた。その死相は、現実に耐えきれずに、狂ったように歪んでいた。それでも、せめてもの心の救いは、彼女が痛みを感じずに死ねたということだろう。 
 誰が殺った……? 
 私は反射的に、彼女の死骸の周りを見回した。 
 オマエか。 
 私は言った。その先には、彼が立って身構えている。 
 オマエが彼女を殺ったのか。 
 再び私が彼に訊くと、彼はこういった。 
 これが運命だ、と。 
 運命だと……? あの男に良いように利用されるのが運命なのか? 
 ご主人様を、侮辱するな。 
 彼は赤い剣を突き立て、私を睨み付けた。 
 これでいいのか? 
 私は叫んだ。あの男のしようとしていることがオマエには解っているはずだ。こんなことをしていて、なんになるんだ?! 
 彼は高く跳び上がり、私に言った。 
 俺だけは、生き残る、と……。俺は『ライム』だから。生き残る運命にあるから、と……。生き残って、やらなければならないことがあるから、と……。 
 彼の瞳がみるみる赤みを帯びていく。彼の体の色と同じ、血の色に。 
 私は彼の発作を感じ取った。このままでは、殺される。私は逃げようとした。だが、発作状態の彼のスピードについていけるはずがなかった。 
 『朱の死神』の剣は『蒼の死神』の脳天を突き抜けた。 
 死神の正体に今更気がついても、なんの意味もないではないか……。 
 ザクリ、という音と共に、私の視界は闇に消えた。 
 私の体液が、薄暗い森に吹き出した。 
 いつかどこかでみたような、透き通った色をしている。 
 それは同じ味がした、彼女の体液と。

「やったな……ライム。お前が最強だ」 
 ライムの主人は、倒れているリリィを見下ろしながら言った。シワだらけの、その顔は、どこか笑みを浮かべているようにも見える。 
「こいつは使える。私の計画に、ピッタリだ……」 
 男はライムを連れて、足早に薄暗い森から立ち去っていった。

 

○●

 ウバメの森は、ジョウト地方のなかでも、かなりの広さを誇る森である。 
 そんな広い広い森に、幼い子供がポツンと1人、切り株に座っていた。 
 子供の名前はツクシ。一応これでも、ヒワダジムのジムリーダーである。たとえ子供であろうとも、この国では実力さえあれば、ジムリーダーにでもなれるのである。事実、ツクシはヒワダタウンで一番の、ポケモントレーナーなのだ。 
 切り株に腰掛けながら、ツクシはツナマヨネーズのサンドイッチが入った包みを開いていた。 
「やっぱりサンドイッチは、ツナマヨにかぎるよ。あ、いい匂い」 
 サンドイッチから、パンのほのかな香りと、ツナの芳ばしい香りが漂ってきた。ゴクリと唾を飲み込むと、ツクシはサンドイッチを手に取り、口に運んだ。 
「うん、おいしい」 
 もぐもぐと口を動かしながら、ツクシは呟く。 
(おいしいに) 
(決まってる、です) 
(なんと言っても) 
(私達がつくったから、です) 
 ふとツクシの耳に、双子ちゃんのルミとクミの声が聞こえたような気がした。彼女らは、ツクシが森に行くと知って、朝の5時から準備して、このお弁当を作ってくれたのだ。 
「そうだね」 
 誰もいないのを知っていながら、ツクシは森に笑いかけた。 
 その微笑みに答えるかのように、緩やかな風が吹き、森は騒めく。その風に運ばれるように、木々の間から、バタフリーが飛んできた。 
 ツクシは飛んできたバタフリーに目をやり、話しかけた。 
「どう?バタフリー。なにか見つかった?」 
「フリー、フリフリュウ、フリー」 
 バタフリーは、ゆっくりと首を横にふる。ツクシは残念そうにため息をつきながら言った。 
「そう……、やっぱり見つからなかったんだ……」 
 その時だ。 
 ガサガサと、森の木々が激しく騒ぎ始めた。風ではない。風が原因ではなく、もっと直接的な要因ではないか。それは、段々と近づいてくる。そう、すぐ近く。 
 すぐさまツクシとバタフリーは、身を屈めながら、小さな声で言った。 
「何かが、近づいてくる。バタフリー、用心して」 
 音をたてないように頷くと、バタフリーはツクシにすり寄った。 
 ガサガサ。 
 既に『何か』は、目の前にいてもおかしくない程の至近距離にいるはずだ。ツクシとバタフリーは、いつでもその『何か』に飛びかかれるような姿勢をとった。 
 ガサッ! 
 『何か』は茂みから勢いよく飛び出してきた。 
 あり……? 
 誰?この子? 
 茂みから飛び出してきたのは、ツクシの予想とは異なっていた。 
 女の子。ツクシよりもいくらか年下の、活発そうな女の子だ。オレンジ色のトレーナーに、オーバーオール。小さなポニーテールが、頭から角のように生えている。 
「キミ……誰?」 
「あんたこそ、だれなん?」 
 お互いが静止しているところへ、もう一人、女の子が茂みから飛び出してきた。 
 先程の女の子とは違い、どちらかといえば、おとなしそうな印象を受けた。青いポロシャツに、茶色のハーフパンツ。煌めくような水色の髪が、ツインテールになっており、ちょこなんと左右から垂れている。 
「はぁ、やっと追いついた……」 
「キミ……誰?」 
 ツクシは凍り付いたまま、先程と全く同じ質問を繰り返した。 
 はっとした様子で、おとなしそうな方の女の子が答えた。 
「あ、はじめまして。瑞穂っていいます。あの……あなたは?」 
「ツクシ……だけど。で、そっちは?」 
「ウチはゆかり。あ、そや、お姉ちゃん、この辺りからやで香りがでとるんは……」 
「たぶん、そこのバタフリーの『甘い香り』だと思うよ」 
 半ば呆れた様子で、瑞穂はゆかりに言った。 
 自分の名前を言われて、バタフリーはじろじろと瑞穂を見つめた。 
 もっと早く言っておけばよかった、と瑞穂は後悔していた。そうしておけば、こんな所まで走ってくる必要などなかったのだから。幸いだったのは、茂みが全て、シオレナグサだったことだ。そうでなかったなら、瑞穂の足のきめ細かい肌は、ズタズタになっていただろう。 
バタフリーが、どうかしたの?」 
 自分のバタフリーが話題となり、気になったツクシは訊いてみた。 
「あ、なんでもない、こっちのことだから……」 
「あ~ッ!!」 
 ゆかりの大声が、突然辺り一面に響いて、瑞穂の言葉を掻き消した。 
 いい加減、その大声には瑞穂もウンザリしてくる。耳が痛い。 
「どうしたの?」 
 困ったような顔する瑞穂と、驚いたような表情のツクシは、同時に訊いた。 
「おいしそう」 
 うつろな眼で、ゆかりはツクシの膝元にあるサンドイッチの弁当箱を見つめている。食いしばった口元からは、いまにもヨダレがこぼれ落ちそうだ。 
「ほんとだ……おいしそう」 
 瑞穂までも、ゆらゆら揺れながら、サンドイッチに目線がいっている。 
 あ、ヨダレが。 
 たらたらたら……。 
「ねぇ」ツクシは、呆然とそんな2人を眺めた。「まだ沢山あるからさ、よかったら……」 
 ゆかりも瑞穂も、2人とも、ツクシのその言葉を待っていた。 
「食べる……?」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。