水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#4-2

#4 狂気。
 2.雲心月性

 

 

『この民に行って言え、 
 あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。 
 見るには見るが、決して認めない。』(『新約聖書 使徒行伝』)

 

○●

 夕焼け空は、何者にも平等だ。平等に紅く染まり、平等に眩しい。しかし、彼らは紅く染まりはするが、眩しくはない。 
 不平等だ。 
 しかたがない、彼らは命が尽きているのだから。 
 不公平だ。 
 目の前に転がっている、真っ二つとなった彼女と、今ここに立ってそれを眺めている私。同じ命なのに、同じ生き物なのに、なぜ私だけが助かったのだろう。 
 傷は痛むが、それほど苦しくはない。どうせ『発作』が始まれば、痛みなど全く感じないのだから。 
 なぜ、私と彼は『発作』を起こすのだろうか。そして元主人の手元の機械から発せられた、怪しい赤い光……。 
 解らないことは沢山あった。 
 あの男は、一体何がしたいんだ……。人間という生き物は、自分の許容を超えるモノに対して、どこまでも残酷になれる。それが狂気。……狂気を持つ人間は、心が驚くほど小さな『臆病者』なのかもしれない。 
 では、あの男は、狂気の持つ破壊の力を、何処へ向けようとしているんだ……なんのために……。 
 頭が痛い。 
 また……、また発作? 
 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……。 
 苦しい。 
 瞳が夕焼け色に染まっている自分が、そこにいた。 
 私は、どこかへ走り出した。どこへ……いくの?

 

○●

「女の子が2人だけで、こんな薄暗い森を歩くのは危険だよ。どうせボクも明日にはヒワダの町に帰るから、一緒に行かない?」 
 ツクシがそう言ってくれたときは、正直、瑞穂は嬉しく思った。別に、この森が怖いというわけではない。暗い森には慣れている。正確には、その後に続く言葉が、瑞穂とゆかりを喜ばせたのだ。 
「食料の事は心配しなくていいよ。いざというときのために、大目に持ってきてあるから」 
 あらかじめ買っておいた食料全てを、瑞穂は34番道路のトイレに忘れてしまっているのだ。 
 ただ、……タダ食いやからちょっと、気が引けるけど……。 
「もちろん、その分のお金はしっかり払うから……」 
 瑞穂のその言葉を聞いたとたん、ゆかりはビックリ仰天、驚いた。その後すぐに開かれた、ヒソヒソ論争は、当然といえば当然だが、瑞穂に軍配が上がった。 
 ……もちろん、ウソやろ? 
 ……ウソなんて、つくわけないじゃない。 
 ……ホンマに払うん? ……もちろん。

「せっかく、タダやったのに……」 
 夕暮れ時、ゆかりは、まだブツブツと文句を言っている。そんなゆかりを全く無視して、瑞穂は薪に使えそうな木を捜して歩いていた。 
 空は鮮やかで気味悪いぐらいのオレンジ色に染まっている。小鳥ポケモンは、もう自分の巣へと帰ってしまったのだろうか、気配すらない。 
「あ、丁度いい木、発見」 
 そう言って、瑞穂は指を前方に指しだした。瑞穂の指さした先には、薪にするのにピッタリな、細い雑木がはえている。 
「でも、お姉ちゃん。こんな木、どないして切るんや?」 
 ふくれっ面のまま、ゆかりは訊いた。どうやら、先程のことが、いまだに不服らしい。 
「それなら大丈夫」 
 そう瑞穂は答えると、腰から二つモンスターボールを取り出して宙へ放り投げた。 
「出てきて、リンちゃん、グラちゃん」 
 パシュという音と共に、リングマグライガーモンスターボールから飛び出してきた。2匹を見比べて、瑞穂は言った。 
「リンちゃん、グラちゃん。お願い、この木をさ、この位の大きさに切って欲しいんだ」 
 身振り手振りで、言いたいことを伝えようとする瑞穂に、リングマグライガーは、こくんと頷いた。早速、リングマはグォォと吠えながら、鋭い爪で木を次々と切り刻んでいく。 
 ザクザクザクッ! みるみる内に雑木は原型を失っていく。 
「凄い……」 
 瑞穂とゆかりは、呆然とリングマの仕事を眺めている。 
 あの時、もしかしたら私、真っ二つになってたかも……。瑞穂の背中を冷たい汗が流れた。 
 が、しかしそれとは対照的に、グライガーの仕事は欠伸が出るほど遅い。 
 もちろん、グライガーグライガーなりに一生懸命やってくれているのだが、懸命にやっているとかいうのとは、それ以前の問題で……、斬れないのだ、木が。手のハサミを何度振り下ろしても、木には少しばかり傷が付くだけ……、これでは斬れるはずがない。 
 グライガーは落ち込み、その場に座り込んでしまった。枯れ葉がパリパリと音をたてた。 
「あ、グラちゃん……」 
 すっかり悄げ込んでしまったグライガーを見て、瑞穂は声を掛けた。 
「リンちゃん、ちょっと……」 
「ガゥ?」 
 呼ばれて、絶好調、得意満面のリングマは瑞穂の方を振り向いた。 
 ……どうしたの?、と顔に書いてある。 
「アレ、作ってくれる?」 
 お安い御用だよ、と言わんばかりにリングマは木を削り、すぐさまソレを作り上げた。 
「なんやの?」ゆかりは、瑞穂に手渡されたソレを見て首を傾げた「木刀、みたいやけど……」 
「そう、木刀だよ」 
 簡易製作木刀を手に握った瑞穂は、グライガーに目で、ちょっと見てて、と合図をした。 
「いい?いくよ」 
「いく、って……なにすんの?」 
 ゆかりの問いには答えず、瑞穂は木刀を目にも止まらぬ速さで振った。 
 シュッ……、という音が一瞬だけ聞こえた。 
 その、あまりの素早さに、ゆかりとグライガーは息を呑んだ。気のせいだろうか、振った瞬間、剣先が蒼白く光ったようにも見えたのだ。 
 ゆかりもグライガーもただただ、唖然とする中で、リングマだけはニヤリと笑っている。 
「……で……」ようやくゆかりの口から言葉が発せられた「だから、どうなん?」 
 木刀を振ってから数秒経っても、瑞穂にも木刀にも変化はない。グライガーも同じ気持ちらしく、……だからどうした……?という気持ちをあらわにしている。 
「すぐにわかるよ」 
 瑞穂はそう言って、リングマと顔を見合わせ、笑った。ますます意味が分からない。 
 ギシッ! 
 突然、雑木の一本に亀裂が入った。 
 ギシギシギシッ……、と音をたて、口をアングリと開けたままのゆかりとグライガーの目の前に、ドスッ! という音響をたてながら、雑木は倒れた。 
 雑木の切り口は、糸鋸で斬ったかのように、滑らかである。 
「これ……お姉ちゃんが斬ったん?」 
 数秒の後、信じられない、といった顔で、ゆかりは瑞穂に訊いた。 
 グライガーに至っては、なにがなんだか解らずに、ひきつった笑みを浮かべている。 
「うん。……影蘭流剣術、奥義『鎌鼬かまいたち)』っていう技なの。この技はね、風……つまり空気を利用してモノを斬ることができる、っていう理論を元に独自に考案された技なんだ。空気を利用するから、力のない私や、グラちゃんでもできる筈だよ」 
「お姉ちゃん、なんでそんな技を……」 
「あ、私ね、剣道が趣味なんだ。前に言わなかったっけ?」 
 ハァ……。ため息をつき、ゆかりは疲れた様子で、隣にいる筈のグライガーを見やった。しかしグライガーは、もう、そこにはいなかった。 
 グライガーは、瑞穂に飛びついていた。 
 ……ねぇ、どうやったら今の技、できるの……? そう訊いているように見える。 
「それはね……」瑞穂は笑いを堪えているようだ「練習あるのみ、だよ」

 

○●

 朔。 
 これまで毎日、闇夜を切り裂いてきた月も、2、3日の休養が必要らしい。気色の悪い夕日が落ちて、何時間ほど経過しただろうか。 
 や……。 
 やめて……。 
(やめて……ください) 
 少女は懇願した。しかし、アイツはけたたましく笑って、少女をその場に引き倒した。 
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……) 
 少女は涙を流しながら懇願した。アイツは耳が張り裂けそうなほどの大声で笑った。 
 アイツは少女の背中を踏みつけた。少女は涙まみれの呻きを発した。 
 ストン、と目の前に、少女の目の前に、小さな黄色い何かが落ちてきた。 
(あぁ、あぁ……)少女は恐怖からか、身を縮ませた(やめて……) 
 バヂン!電撃が発せられ、少女は5m程弾け飛んだ。痛みからか、のたうちまわる少女の腹に、アイツは容赦なく蹴りをいれた。 
(ゲフッ……ううぅ……)少女は口から血を吐いた。痙攣を起こしているように身を震わせて、怯えるような目つきで、相手を見つめた。 
 後頭部を踏みつけられた。グシャ、という音と共に、少女の幼くも美麗な顔が、四散した。 
 バキバキッ。少女の前歯は、粉々に砕け、血涙と混じり口から流れ出た。 
(やめて……) 
 アイツは動くこともままならぬ少女の頬を、思い切り蹴り飛ばした。 
 バギ、と顎の骨が、へし折れる音が聞こえた。

 それが悪夢であると認識するのには、長い時間を要した。氷は、横になりながら、星すらも輝かぬ闇夜の空を睨み付けている。 
 今日は新月であり、月は見えない。 
 たとえ、さっきのが夢であったとしても『現実にあった、過去』を拭い去ることはできないのだ。あれは夢でない。自分の過去が、時を超えて夢という形で再現されたものなのだ。 
 時を司る森の神さまも、ずいぶんと意地悪なことをしてくれる、と氷は思った。現在よりも、氷は過去を恐れていた。違う、過去を憎んでいるのだ。 
 氷の表情は崩れない。だが、少女の全身には、冷たい汗が流れていた。 
「姉さん……」と氷は闇に呟いた。鋭利で静かな普段とは違った、悲しそうな涙声だった。 
「ねぇさん……、わたし、どうしよう……。もう戻れないよ、だって……わたし、人殺しになっちゃた……。」 
 闇しか映っていない瞳から、不覚にも一筋の涙が流れ落ちた。 
 私らしくもない、涙なんて……、と氷は細く白い腕で目を擦った。 
 ……死にたいと思ったときも、どうしようもなく苦しかったときも、姉はいつも慰めてくれた。姉がいなかったなら、支えてくれなかったなら、私は、もう死んでいる。 
 しかし、その姉は、もう現世にはいない。過去の記憶として、おぼろげな状態でのみしか存在しない。 
 そう思うと、余計に悲しくなった。 
 悲しくない、悲しくなんてない。まだ夢を見ている、まだ夢から覚めていないだけ。氷は、そう自分に言い聞かせた。 
 辺りは凍りつきそうなほどに、静まり返っている。どこからか、いい匂いが漂ってきた。旅人が、この森でキャンプでもしているのだろうか。 
「ダメね、煮込みすぎて素材の味が台無し……」 
 そう呟いて氷は目を閉じた。今の自分には、料理を作っても食べてくれる人がいない。もしかしたら、そんな現実を直視したくないだけなのかもしれない。 
 ふと思いついて、目を閉じたまま、氷は自分の首筋を優しく撫でた。首筋には、普通に見ただけでは気付かないような、小さな刻印がなされている。 
 えす。える。すらっしゅ。えいち。えす。えふ。にじゅうさん。はいふん。ぜろ。えす。かっこ。わい。 
 『sl/Hsf23-0s(y)』と刻まれている。 
 ふぅ、と氷は息をはいた。 
 この小さな刻印が、自分の命であり、自分の力でもあるのだ。 
「私は……」と、氷は言いかけた。その時だった。 
 ガサッ。 
 すぐ側の茂みから、物音が聞こえた。氷は起きあがり、目を光らせた。 
 ガササッ。 
 茂みから飛び出してきたのは、青い、一匹のナゾノクサだった。しかし、普通のナゾノクサではなかった。頭には刃物で斬られたような傷があり、そして―― 
 瞳は赤々、ギラギラと光っていた。 
 狂っている、と氷は直感した。 
 急いで立ち上がろうと氷が体を動かすと、ナゾノクサは頭からはっぱカッターを飛ばした。 
 ザシュ、シュゥゥゥ……。 
 はっぱカッターは、氷の肩にグサリと突き刺さった。肩から血が吹き出た。 
「ク……、なに、突然……」 
 そう呟くと同時に、氷は腕でナゾノクサを殴りつけた。ナゾノクサは数メートル程飛ばされ、木にぶつかりその場に倒れた。呻きを上げると同時に、ナゾノクサの頭の傷跡から、体液がドビュッと飛び出した。 
 起きあがり、冷たく自分を睨み付けている氷をにらみ返すと、ナゾノクサは突然、毒の粉を振りまいた。毒の粉は辺りに一帯に散乱し、ナゾノクサの姿を包み隠す。 
「逃げる、つもり、ね……」 
 氷の言葉通り、毒の粉が消える頃には、ナゾノクサはその姿を消していた。 
 なんだったのだろう、今のは。 
 氷は再び横になり、目を閉じた。少なくとも、肩の傷が癒えるまでは、安静にしていなければならない。 
 ヒワダタウンへは、明日の夜までに着けばいい。 
 今は、時が経つのを待つだけだ。 
 そう、今は。

 

○●

 ウバメ湖に沈む、もう一つの太陽も、本当の太陽が沈むと共に姿を消した。ツクシ達は、森の命の源でもある、この綺麗な湖の畔にテントを張ることにしたのだ。 
 空は黒い闇に覆われたが、この薪の火が消えるには、まだ早い。 
 辺りは、ぼんやりと薄く明るく、光っている。 
「きれいな、水海だね」 
 得意料理であるカレーの鍋を掻き回しながら、瑞穂は目の前に広がる湖に心奪われていた。リングマは、瑞穂の言葉に頷きながら、瑞穂の背中を眺めている。 
 抱いたら、気持ちいいんだろうな……、そんな言葉が、リングマの脳裏に浮かんだ。 
 そして、自分がヒメグマの時は、何度となく一緒のベッドで眠っていたことを思い出した。 
 その時は何も感じなかったのに……。 
 でも今なら、なんだか知らないけれど、何かを感じることができる。いや、感じたい。 
 突然、リングマの胸が、激しく鼓動した。体全体が熱くなって、汗が噴き出してくる。 
 なに変なこと考えてるんだろう、ボクは……、と頭の中の妄想を必死で振り払おうと藻掻いた。 
 しかし、モヤモヤとした妄想は、ドンドンとリングマの頭で膨らんでいく。我慢できないよ。 
 荒い息づかいのまま、リングマは瑞穂の無防備な肩に、手を掛けようとした。 
「どうしたの?」 
 気配を察したのか、瑞穂は手を休めて、リングマの方を振り向いた。リングマは驚いて、イタズラが見つかった子供のように、身を縮ませた。 
「リンちゃん?」瑞穂は首を傾げた。「なんか、変だよ」 
 小さく首を振って、なんでもないよ、という意志表示の後、リングマは言った。 
「ガウガウ、グァウ、ガウガガウガウガァ……」 
 ボク、何も変なこと考えてないよ。ボク、変なことは何もしようとしてないよ。ボク、別に、姉さんを、その、あの、じゃなくて……、だから……。 
「ごめん。なんて言いたいのか、よくわからないよ」 
 もし瑞穂が、リングマの言葉の意味を解していたなら、逆に怪しまれたかもしれない。瑞穂は、しばらくの間、狼狽えるリングマの顔を眺めていたが、ふと思いついて辺りを見渡した。 
「あ、そうだ……」 
 リングマは、瑞穂の注意がよそへ行き、ホッとした様子で、どうしたの?と訊いた。 
「グラちゃん、どこにいるんだろう。もうすぐご飯できるのに……」 
 そういえば、先程からグライガーの姿を見かけない。辺りを見回しても、グライガーの姿は、どこにもなかった。 
「どないしたん? 2人とも」 
 瑞穂とリングマが辺りを見回しているところで、メタモンを腕に抱えながら歩いてきたゆかりが声を掛けた。ゆかりのメタモン、その名もメタりんはいつの間にか、すっかりゆかりと仲良しになっていたのだ。 
 瑞穂はメタモンと戯れ合っているゆかりの方を向いて訊いた。 
「ねぇ、ユユちゃん。グラちゃん、どこにいるか知らない?」 
「え~と」ゆかりは、湖とは正反対の方角を指さした。「あっちの方で、なんかやっとったで」 
「なんか、って、なにしてたの?」 
「ほら、夕方に、お姉ちゃんがやっとったやつやん。なんて言うたかな……、あの」 
「影蘭流剣術奥義、鎌鼬、のこと?」 
 瑞穂のその言葉に、ゆかりはポンと手を叩いた。 
「そや! その、カマドウマってやつや」 
かまいたち、なんだけど……」 
「どっちでもええやん。かまどうまでも、かまいたちでも」 
 それもそうだ、と瑞穂は思った。この際、技の名前など、どうでもいいのだ。 
「ユユちゃん、これお願い」 
 そう言うと、瑞穂はゆかりにカレー番を頼んで、駆け出した。 
「おねえちゃん、どこいくん?」 
「グラちゃんを呼んでくる」 
 瑞穂が走り去ってしまうと、ゆかりはカレーを強引にかき混ぜながら呟いた。 
「お姉ちゃんも、大変やな」 
 ……姉さんの『大変』の、4分の1くらいは、キミのせいだけどね……。 
 リングマはほくそ笑み、ゆかりに目を向けた。 
 ゆかりの肩に乗っているメタモンは楽しそうに、ゆかりと戯れ合っている。 
「メタりん、今日は一緒に寝よか?」 
 ゆかりにそう言われて、メタモンは嬉しそうに飛び跳ねた。 
 ……羨ましいな。 
 無意識にリングマは思った。 
 ボクだって……、 
 姉さんと……、 
 戯れ合いたいし、一緒のベッドで眠りたい。 
 それができないのは、リングマにも解っていた。もし瑞穂とリングマが、昔と同じように一緒のベッドで眠ったとしたら、リングマが大きすぎて、瑞穂がベッドから落ちてしまうかもしれないし、寝返りでもリングマが打とうものなら、瑞穂は、プチッという、なんとも可愛らしい音をたてて潰れてしまうかもしれない。戯れ合うにしても、気がついたら瑞穂の体が雑巾のようにネジれてた、なんて恐ろしいことになりかねない。 
 ボクは、なんのために進化したんだろう……。 
 姉さんを守るため? 姉さんにバトルで勝って欲しいから? 
 ……解らない。 
 リングマは逃げるようにゆかりとメタモンから目線をそらし、湖を眺めた。 
(わぁ……暖かい……。ありがとう、リンちゃん) 
 数日前に、初めて瑞穂を抱いた時の感触を、リングマは思い出していた。そういえばボク、姉さんに抱かれたことはあっても、姉さんを抱いたことは一度しかないや。 
(私さ、ダメトレーナーなんだ……。私が悪いの……全部) 
 昔のボクを抱きながら、泣きながら姉さんはそう言っていたっけ。 
 そうじゃ、ない。 
 違うよ。 
 姉さんは、ダメトレーナーなんかじゃない。 
 そう思って、気付いたら、ボクの姿形は変わっていた。でも、今も昔も変わっていないことが一つだけある。 
 ちょっと恥ずかしいけど、ボクが、姉さんを好きなこと―― 
 リングマは、赤らめた顔で、月のない夜空を見上げた。 
 ……あの日は、満月だったっけ……。

 

○●

 なんどやっても上手くいかない。 
 どんなに工夫をしても、成功しない。 
 おいらの技は、どこがいけないんだろう……。 
 グライガーの自慢のハサミは、摩擦で既にボロボロになっていた。痛くないはずがない。『かまいたち』を成功させようとするあまりに、グライガーは焦りすぎているのだ。なんとしてでも、一刻も早く、かまいたちを会得しようとする気持ちで一杯なのだ。 
 ……おいらが、かまいたちを覚えたら、みずほちゃんはきっと誉めてくれる、喜んでくれる……。 
 誉めてくれる、誉めてくれる、誉めてくれるはずだ。きっと……。 
 腕が痛いにもかかわらず、笑みさえ浮かべながら、グライガーは深く深呼吸をした。息を整え、目を閉じて、空気の流れを皮膚で感じ取る。 
 そして腕のハサミを思い切り振る。空気を裂く、乾いた音。 
 目を開いて、前方の杉を睨み付ける。しかし……、何も起こらない。また失敗だ。 
 ハァ……と軽くため息をつくと、またグライガーは深呼吸をした。 
 再び、息を整え、目を閉じて、空気の流れを……。 
「ごはんだよ。グラちゃん」 
 背後から自分を呼ぶ声に、すぐさまグライガーは、目を開けてから振り向いた。瑞穂が、はぁはぁと荒い息をしながら、こちらを見つめている。 
「グラァ~!」 
 了解!の返事と同時に、グライガーは瑞穂の肩に飛び乗った。 
鎌鼬の練習してたんだって?」 
 帰り道、歩きながら瑞穂はグライガーに訊いた。 
「ぐら、ぐらい」 
 ……ちょっと、ぐらいは……。 
 そうなんだ、と瑞穂は呟くと、グライガーの方を見やった。グライガーのハサミは傷だらけで、血が滲んでいる。瑞穂はそれを見た途端、あっ、と声をあげ、息を呑んだ。 
「グラちゃん、ケガしてる……。そこまで頑張ることないのに……」 
 まるで自分がケガをしたかのような表情で瑞穂は言った。 
 クライガーは首を左右に振った。……頑張る! たくさん、たくさん、頑張るの! 
「そう……」瑞穂は感心したような顔をした。「あとで、傷治しのクリーム塗ってあげるね」 
 それを聞いて、グライガーは楽しそうに飛び跳ねた。瑞穂はニコリとしながら、グライガーの頭を撫でた。 
「それだけ元気なら大丈夫だね」 
「グゥ~ライ、ガァ~!」 
 ……おいらは元気だけが、取り柄だもん……。 
 ケラケラと笑うグライガーを見ながら、ふと瑞穂の表情が曇った。 
「でも……、そんなにすぐ鎌鼬はできないと思うよ」 
「ぐらい?」 
 ……なんで……? 
「私はできるまでに、丸々4年もかかったの。リンちゃんは、もう練習して5年目だけど、いまだにできないみたいだし……。焦らない方がいいよ」 
 ……みずほちゃん、わかってないなぁ。 
 リン君でもできないんだ、って……。だから、挑戦のしがいがあるってものなのにさ。 
 漆黒の月を背に、グライガーは高らかに笑って見せた。 
「グラ……ちゃん?」 
 その笑いの意味が分からず、瑞穂は首を傾げるばかりだ。 
「グライガァ~!」 
 ……絶対、成功させてみせるぜ……!

 

○●

 一歩、足を前に出すごとに、体のあちこちが悲鳴をあげる。頭の傷からは、なおもヌルヌルとした体液が流れ続け、締めつけられたように苦しい。耐えられない。これ以上、体を酷使すれば間違いなく、私の命は尽きる。 
 いつもと同じで、発作の最中の記憶はなかった。 
 私は、いつから、どこで、なにを、いつまで……。それらが、すっぽりと抜け落ちているのだ。 
 荒い息をしながら、私はそばにあった杉の木にもたれ、空を見上げた。頼みの綱である月も、今日は黒く、いつもの眩いばかりの光はない。 
 朦朧とする意識の中、ゴゴゴゴ、という音が聞こえてきた。 
 ついに幻聴か……? それとも私の頭が、とうとう体と離れる時が来たのか? 
 しかし、そのどちらでもなかった。 
 離れたのは、私の頭と体ではなく、今、私がもたれかかっている杉の木の幹と根であった。 
 ズドンという音を響かせ倒れた杉の木を見つめながら、私は呆然と立ちつくしている。 
 なにが、あった……? 
 私は震える足を堪えながら、辺りを見回した。誰もいない。何者の気配もない。そんなおかしなことがあるのだろうか……。 
 突然、木が真っ二つになるなんてことが……。普通では、ありえないことだ。理由として考えられることは、ただ一つ。 
 あらかじめ……、この木は真っ二つだったということ……? 
 誰が? なんのためにそんなことを? 
 まったく、今日という日は、解らないことだらけだ。 
 私は、横倒しになっている杉の幹を跳び越え、再び歩き始めた。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。この森の生命を切り尽くしかねないからだ。 
 このまま私は傷を負ったまま、アテのない旅を続けなければならないのだろうか……。 
 いっそ、あの彼女と同じように死ねたら、どれほど楽なことだろうか……。 
 しばらく歩いて……、どれだけ歩いたのかは見当もつかないほど歩いた。疲れ切り、もう頭には思考の欠片すら見当たらない。 
 遠くに、光りが見えた。明るく、柔らかい光が広がっているように見える。その奥に広がっているのは、湖だ……。そう、彼女と私が出会った、あの湖。 
 そこに人間が見えた。いっぴき、にひき……、全部で三匹いる。 
 その中で、人間の一つが、こちらに、私に気がついたのか、こちらの方を見つめている。 
 女の子だ。水色の艶やかな髪を、左右で束ねており、年齢は7,8歳といったところか。柔らかい光りに、その白く滑らかな肌が照らし出されている。 
 ひどく驚いた表情で、女の子は立ち上がり、こちらに近づいてきた。 
 その時、突然、目眩が私を襲った。視界が波打っているのが自分でもわかる。倒れないようにと踏ん張ると、頭から半透明な体液が激しく吹き出した。 
 刻々と目の前が歪んでいく。女の子の幼く可愛らしい顔も、それに合わせて歪んだ。 
 近づいてくる。 
 女の子よりも早く、冷たく泥臭い地面が。 
 ドス、と音が聞こえたと同時に、私の意識は闇に溶けこんでいく。 
 キャ……、という、女の子の凍った悲鳴だけが、耳にこびりついた。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。