ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#4-3
#4 狂気。
3.光風霽月
『また、上では、天に奇跡を見せ、
下では、地にしるしを、
すなわち、血と火とたちこめる煙とを、
見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日は闇に
月は血に変るであろう。』(『新約聖書 使徒行伝』)
包帯を巻かれたナゾノクサは、疲労からか、ぐっすりと眠っている。頭の傷は深く、放っておけば命すらも危うい状態だったが、幸いなことに、瑞穂の適切な応急処置によって一命を取り留めていた。
「どうしたんだろ……このナゾノクサ。こんな酷いケガして、なにがあったんだろう」
寝入っているナゾノクサを見つめながら、瑞穂は呟いた。ゆかりも、瑞穂の言葉に頷いている
「なんや、刃物かなんかで、斬られたような傷やね」
「うん。傷痕から見て、かなり大きくて鋭いもの……だと思う。少なくとも事故とかじゃなくて、誰かに斬りつけられたんじゃないかな……」
瑞穂はナゾノクサから目をそらし、ゆかりとツクシを見つめた。
「それって……」ツクシは、俯いていた顔を上げた。「例えば、どんな刃物なのかな……?」
訊かれて、少し考えているような仕種の後、瑞穂は口を開いた。
「鎌……かな」
「カマ……?」
ゆかりとツクシは驚きの声をあげた。瑞穂は真面目な顔で、小さく頷く。
「そう、鎌。大鎌と言った方が正しいかもしれないけど……。この切り口や、深さから見たら、たぶん剣みたいな真っ直ぐな刃じゃなくて、すこし普通とは違う、曲がったような刃物だとしか思えないの……」
「でも誰が、そんな……」ゆかりは悲しそうに俯いた。「こんな非道いことしたんやろ」
「そこまでは、わからないよ……」
そう言うと瑞穂は、悲しい気持ちを落ち着けるため、牛乳コーヒーを一口啜った。しかし、こんな気分では、何を飲んでも苦いとしか感じない。
許せない。たとえどんな理由があろうとも、ナゾノクサにここまで酷い傷を負わせた、その張本人は絶対に許せない。一体、誰の仕業なんだろう……、と瑞穂は心の中で問うた。
「人間がやったん……ちゃうかな?」
ふと、ゆかりは顔を上げ、凍りついたような表情で呟いた。それを聞いて、瑞穂もツクシも、同じく凍りついたかのように、動きを止めた。
「人間がやった……って、どういう意味?」
ツクシは、ゆかりの顔を正面から見据えながら、訝しげに訊いた。
「その、まんまの意味やん。……そう言うたら、この森、炭職人がよく木を切りにくる場所やろ? もしかしたら、仕事の邪魔になるからいうて、ナゾノクサを……」
「あの人達は、そんな事、絶対にしない」
熱り立ったように、ツクシは拳を切り株に叩きつけた。そのあまりの剣幕に驚いて、瑞穂は手に持っていたカップを落としてしまった。地面に突っ伏したカップの中から、黒々とした牛乳コーヒーが流れ出る。
「あ、やだ……こぼしちゃった」
瑞穂は土のついたカップを拾い上げ、ゆかりとツクシを見やった。
ツクシはしばらくの間、ゆかりを睨んでいたが、ふと目線を外して項垂れた。
「ごめん。つい興奮しちゃって。……でも、キミの言うことは違う。あの人達は、炭職人の人達は、ポケモンが好きだ。だから、あんな事は絶対にしない」
「それに、炭職人の人なら、大鎌なんか使わないと思うよ」
そう瑞穂は付け加えると、ゆかりの肩に手を添える。突然に怒鳴られたためか、ゆかりの眼には涙が浮かんでいた。
「怒鳴ら、なくても……、ええやん……」
今にも泣きそうな声で一言だけ発すると、ゆかりは湖の方へとそっぽを向いた。湖は涙の色や、とゆかりは苦し紛れに考えた。
嫌な雰囲気になっちゃた……と、瑞穂は背中から汗がでるのを感じた。そのためか、瑞穂はできるだけ明るい声を出した。
「なにかのポケモンにやられた、とは考えられないかな……?」
「……というと?」
「鎌みたいなのを持っているポケモンは、何種類かいるでしょ? 例えば、ストライクとか、カブトプスとか、ハッサムとか……グライガーとか」
途端、グライガーのモンスターボールがピクンと震えた。
……おいら、何か悪いことした……?
中のグライガーが問いかけているような、感じがする。瑞穂は、モンスターボールを軽くさすって、グライガーの問いかけに応えた。
「あ……、もちろん私のグラちゃんは、そんな悪いことはしないけど」
「たしかにポケモンかもしれない。だけど、この森には、そんな大型のポケモンはいないよ。考えられるとしたら、パラスだけど……。パラスじゃ、あんな大きな傷にはならない」
「トレーナーのポケモンかもしれへんやん」
瑞穂とツクシの2人が考え込んでいるところへ、ゆかりが振り向き、口をはさんだ。
ゆかりはツクシの顔を睨みながら、……どや、ウチもなかなか賢いやろ……?というような表情をしている。どうやら、ゆかりは、意地でも自分の思いつきを正解にしたいようだ。
「でも、トレーナーが、ここまでするかな……?」
ゆかりの顔が落胆に沈んだ。お姉ちゃんは、ウチの味方やないの?という寂しげな顔で、ゆかりは眼を背けた。
思わず胸が詰まるのを感じながら、瑞穂は続けた。
「それに、このナゾノクサは、私が近寄っても全然逃げようとしなかった。人間のせいで傷ついたのなら、その時、逃げるなり、攻撃したりするはずだよ。だから、むしろ人間には、慣れているんじゃないかな」
「つまり、このナゾノクサは、トレーナーのポケモン、っていうこと?」
「そこまではわからないけど。野生のナゾノクサじゃないと思う」
突如、あ~じれったい!とばかりに、ゆかりは立ち上がり大声で捲し立てた。
「だからッ! 誰がナゾノクサを傷つけたんか、って訊いてるんや! 野生とか、トレーナーのポケモンとか、関係ないやん!」
「少なくとも、人間のせいじゃない、ってことは確かだけどね」
ツクシがそう言うと、ゆかりは面白くなさそうに腰掛けた。
んなこと、わかっとるわ……、とばかりにフンと鼻息をたてて吐き捨てた。
「どうせ、ウチはアホや」
「そんなに言わなくても……」
瑞穂は頭が痛くなるのを感じながら、声を掛けるも、ゆかりはそっぽを向いたまま答えない。困り果てた様子で、瑞穂はツクシの方をみやった。
ツクシは微動だにせず、何かを考えているように見える。
何を、考えているんだろう……、瑞穂は薪の炎に照らされ映る、ツクシの頬を眺めた。
しばらくして、ツクシは瑞穂の顔を見やった。
どうしたの?というような表情をする瑞穂の瞳は、透き通った栗梅色をしていた。
目が覚めた。
静かに起きあがると、隣には女の子の白い顔が見える。
頭の傷は痛むが、先程よりはだいぶマシになった。
体中が、白い布で覆われている。包帯と呼ばれるものであろうか。
また、私は他人に助けられてしまった。今、自分が生きていることの安堵よりも、後悔の念が先に私を襲った。
このままではいけない。このままでは、この女の子達を巻き込んでしまう。
そう、彼女のように……。
「あ、目が覚めた?」
私に気付いて、女の子は振り向き、声を掛けてきた。
あの時と同じだ。
「……だから町の人達は、その赤い目をした生き物を『紅の刃と蒼い風』と呼んでいたんだ」
女の子の後ろでは、男の子が何かを話している。その言葉に、女の子は振り向いた。
「『紅の刃と蒼い風』……?」
「うん、数日前から、この森に出没して、人を襲うんだ。なんの前触れもなくね。町の人は『森の神様の化身』とかなんとか言って、森に近づかなくなっちゃったんだ。でも炭職人の人は、それだと生活ができないでしょう? 無理して森に入って、危ない目にあってる人もいる。 だから炭職人の人達に頼まれて、調査のためにボクが、この森にやってきたんだ」
「……そうだったんだ」
「でも今日一日、探しても、見つけることはできなかったけど」
すると、男の子の隣に腰掛けている、別の女の子が振り向いた。額に青筋を立てながら、苦い表情をしており、怒っているように見える。
「で、そのなんたらの刃となんたらの風、とやらは、このナゾノクサとなんか関係あるんか?」
「断定はできないけど、刃か風のどちらかに襲われたんじゃないかと思うんだ」
「ホンマか? それ……」
「だから……」
「なんでや、おかしいんちゃうの?」
「あのねぇ……」
2人のチグハグな会話に呆れたように、青髪の女の子はこちらを振り向いた。飲んでね、おいしいよ、とレイシの実のスープを差し出すと、女の子は私の頬を撫でた。一見、冷たそうに見えた、白い手は、暖かく、柔らかい。
そして、女の子は微笑んだ。
騒がしくて、ごめんね。傷、痛む?
私は首を小さく振った。痛くないわけではなかったが、余計な心配を掛けるわけにはいかない。
「このスープ、私がつくったの、熱いから気をつけてね」
言われるままに、私はレイシの実のスープを、一口啜った。
まずい。
味付けが極めて粗雑な上に、過ぎたるは猶及ばざるが如し、煮込みすぎて、素材の味も歯ごたえもあったものではない。一生懸命つくってくれたものであることはよく解るのだが、これはあんまりだ。この女の子は余程、料理のセンスがないのであろう。
スープの鍋の横には、カレーの鍋が置かれている。鍋は、相当にひどい焦げた臭いを発していた。カレーも同様に、煮込みすぎて、カレールーが焦げてしまっているのだ。
後ろで稚児のごとき言い争いをしている男の子と女の子は、このカレーを食べてしまったせいで、気分が悪くなってしまったのではないであろうか……?
「どお? おいしい?」
私は、ぎこちなく頷くしかなかった。女の子を騙すのには気が引けるが、正直に首を振って、落胆させてしまうよりはいいだろう。
「だから、なんでそうやって、決め付けんねん!」
「なんで、そんなに怒るの……?」
「あんたが……、いきなり怒鳴るからやん……」
「それとこれとは……」
「関係、大アリや」
背中で繰り返される問答に呆れているのか、女の子は、頬をポリポリとかいた。
ホントにごめんね、騒がしくて。
そう言うと女の子は、2人の方を振り向いた。
「ねぇ、2人とも……、少し静かにしてくれないかな……。ナゾちゃん、ケガしてるんだよ?」
……ナゾちゃん!?
なんなのだろう。
私の、新しい名前……?
(ねぇ、私の集落で一緒に暮らさない? )
彼女の言葉が、私の脳裏をよぎった。いけない。やっぱり、このままではいけない。私は独りで生きなければならない。この女の子達まで、巻き添えにするわけにはいかない。
(そうだよ、みんな歓迎するはずだよ)
確かに、私は歓迎された。死体の山に。死臭は歓声だった。
呼んでいる。おいで、お嬢さん、あんたはもう、普通に生きることはできない。だから、こっちにくるんだよ、と……。
(何があったのよ。誰か……、返事をして。へんじを……へんじして……よぉ)
聞こえたはずだ。黄泉からの、返事が。
体が引き裂かれようとも、その時までは生きていたはずだ。
そして、訊いたのだ。
(私の体……どこに、いったの?)
どこにもない。彼女が纏うべき『体』は、もう使いものにならなくなっていたはずだ。この女の子にも、そんな苦しみを味わせろというのか? できないよ、そんなこと。
「どこか、痛むの……?」
私の異変に気がつき、女の子は私に手をさしのべようとした。 しかし、私はその手を払い除け、高く遠くに跳び上がった。
「ナゾちゃん……!?」
女の子は驚き、ストンと地面に着地した私を見つめた。言い争いをしていた2人も、何事かとこちらを見やっている。
体が、煮立つような熱さに包まれ始めた。足腰は痙攣を起こしている。
「ナゾちゃん……、どうしたの……」
そう言いながら、女の子はこちらに近づいてくる。
くるな。こっちにくるな……。
湖の水面には、私の顔が映り込んでいた。眼が、眼が赤い……。
私は恐怖に近いモノを感じた。
「発作」が始まろうとしている。
このままでは、この女の子達が……。
「ねぇ、ナゾちゃん?」
くるな……!
私は、女の子から逃げるように駆け出した。
しかし、女の子達は私を追いかけてくる。くるな、くるな、くるな……。
私よ、逃げ切ってくれ。
せめて、私が、私でいるうちに……。
死臭が近づいてくる。黄泉からの歓声が、再び聞こえてきた。
この異臭に、嘘偽りはない。
ウバメ湖から遠く離れた、森の深部は紛れもなく、沢山の死骸に埋もれていた。辺りには酸っぱいような異臭と、腐敗臭が漂っている。
今日が新月だったのは、幸いだった。そうでなければ、月の光は容赦なく、その惨状をあますところなく照らしていただろう。
瑞穂は吐き気を堪えながら、辺りを見回した。
「非道い……ひどいよ……」
足下にも、幾重もの死骸が折り重なるようにして放置されている。その中の一つを手に取り、蒼白な顔をしながら、瑞穂は観察した。
頭部に外傷がひとつ。一太刀で頭から口元まで裂けており、その傷痕からは透明で異臭を発する液体が流れ出た。
「お……お姉ちゃん……怖い……」
酷く怯えた様子で、ゆかりは瑞穂の服の裾を引っ張った。
「見ない方がいいよ……」
ゆかりは、すぐさま瑞穂に胸に抱きついた。震えている。7歳の女の子にはあまりにも強烈な光景なのだから無理もない。
瑞穂はゆかりを抱きながら、亡骸をゆっくりと地面へと戻した。ゆかりのように、目を背けたい感情をなんとか抑えながら、一つ一つの亡骸を目で追っていく。
子を抱きかかえながら、真っ二つに裂けている死骸。
果敢に戦いを挑み、八つ裂きにされ、原型すらもわからなくなった死骸。
逃げようとして足を刈り取られ、のたうちながら息を引き取った死骸。
口へ刃を押し込められ、中身をえぐりだされている死骸。
この惨状を泣きながら見つめ、地面に突っ伏す、二つに分かれた死骸。
死骸、死骸、死骸……。
あるのはただ、それだけだった。
恐怖に震えるゆかりの背中をさすりながら瑞穂は、その場に立ちつくしている。
「ツクシくん……。これ、もしかして、さっき言ってた……」
「『紅の刃と蒼い風』の仕業かもしれない……。やっぱり本当だったんだ」
瑞穂とツクシは、お互いを見つめ合ったままだ。落ち着いたゆかりは顔を上げて、言った。
「でも、どこにもおらへんで」
「このナゾノクサ達……。殺されてから6時間以上は経ってるから、逃げていてもおかしくはないよ」
「それじゃ、さっきのナゾノクサは、ここのナゾノクサ達の生き残り、なのかな?」
「さぁ……、そこまでは……」
さわさわと、森に木々の擦れる音が響いた。瑞穂はすぐさま、音のする方角を見やった。そして、恐れからか目を見開た。
「あ……あ……」
「どないしたん? お姉ちゃん」
「あ……、あれ……!」
指さされた先には、赤い光が、二つ。ギラギラと輝いている。それは、まるで獲物を目の前にした野獣の瞳のように見えた。
ツクシは電灯の明かりを、赤い光へと向けた。赤い瞳の正体を確かめ、瑞穂は驚きの声をあげた。
「な、ナゾちゃん……」
そこには包帯にくるまれたナゾノクサが、殺気を漲らせ、こちらを睨み付けていたのだ。先程と違い、瞳は赤々と光り輝き、その表情は猛獣の如く鋭い。
「ナゾちゃん……。これって、これ、どういうこと……」
瑞穂は唐突に姿をあらわしたナゾノクサに困惑の色を隠しきれない。
目が赤い。それってもしかして、このナゾノクサが『蒼い風』の正体なの?
「これ、なにかの間違いだよ……うん。なにかの間違い、勘違い……だよ」
「お姉ちゃん!危ない!」
ゆかりのとっさの一声で我に返った瑞穂は、目の前に迫った、はっぱカッターをギリギリの所で避けた。もし、ゆかりの一声がなかったなら、瑞穂の鼻から上がスッパリと切り落とされていたところだ。
「ありがとう……。ユユちゃんは、そのまま伏せてて」
背筋がヒヤヒヤするのを感じながら、瑞穂は体勢を立て直した。
「どうしよう」
「どうしようもない」ツクシはナゾノクサの攻撃をいつでも避けられる体勢をとった。「戦うしかないよ」
「でも、ナゾちゃんは、ケガしてるんだよ……?」
「そんな場合? このままじゃ、キミも、この子も、ここのナゾノクサと同じになる。それでもいいの?」
「それは……。」
「あのナゾノクサは、さっきボクの言った『蒼い風』に間違いない。たぶん、ここのナゾノクサ達も、”このナゾノクサ”に殺られたんだ」
「でも……」
瑞穂は釈然としないまま、モンスターボールを手に取った。既にツクシは、モンスターボールを宙へと放っている。
「いけっ! 勇敢なる虫ポケモンの戦士、スピアー!」
ツクシの声が発せられると同時に、モンスターボールの光りの中から、鋭い針が凄い勢いで飛んでいく。しかし鋭い針は、ナゾノクサの残像に突き刺さるだけだ。本体には当たらない。ナゾノクサの動きが、あまりに素速いので、毒針が追いつかないのだ。
毒蜂ポケモンのスピアーは、毒針が当たらないとわかるやいなや、モーター音のような独特な羽音を辺りに響かせながら、ナゾノクサの赤い瞳の光りを追いかけていく。至近距離から攻撃すれば、いくら素速く動こうとも、攻撃をあてることができる、と踏んでいるのだ。
影は動いた。赤い瞳の残像が、幾重にも重なって、闇に浮かび上がっている。ナゾノクサは、肉眼では捉えられないほどの速さで、スピアーと瑞穂達の周りをまわっている。そして、奇怪な呻き声を発しながら、頭部から、はっぱカッターを発射した。
「あたるもんか、スピアー! 高速移動!」
スピアーの羽音が一段と騒がしくなり、それに比例してスピアーの飛ぶ速度が上がっていく。はっぱカッターは、スピアーの残像をすり抜け、空を切って地面に落ちた。畳みかけるように、スピアーは両腕の鋭い毒針をナゾノクサに向けた。
「いまだ、スピアー! ダブルニードル!」
ダブルニードルは、ナゾノクサの脇腹にくい込んだ。ナゾノクサは悲痛な呻きを上げた。頭部の傷からは、体液がまた溢れ出た。
我慢できずに、瑞穂はツクシの左腕をつかんだ。
「もうやめて、ツクシくん。ナゾちゃんが……、ナゾちゃんが死んじゃうよぉ」
放せ!とばかりに、振りほどくと、ツクシは瑞穂を見つけた。
「今しかないんだ。解ってよ……。そうしないと……」
バキィッ!
何かが、折れる音がした。2人は驚いて、スピアーとナゾノクサの方を見やった。
ツクシの表情が強張った。スピアーの左の毒針が、折れてしまっているのだ。このナゾノクサは、単に素速いだけではなかった。力も普通のナゾノクサよりあるのだろう。毒針を折られたスピアーは、フラフラと地面へと墜落し、苦しそうに身を捩っている。
「あぁ!」ツクシは絶望に近い声をあげた「スピアー……!」
ナゾノクサは、そんなスピアーにトドメの溶解液を放とうとしている。
「やめて……、やめてよ……、大切なスピアーなんだ……なにもそこまで……」
頬をひきつらせながら、ツクシは息を詰まらせた。そんなツクシの懇願も虚しく、溶解液はスピアーの左腕をジワジワと溶かしつつある。
「やめてよ……」
ドス!
その瞬間、ナゾノクサの体が宙を舞い、木に激しく激突した。ナゾノクサは、モンスターボールから飛び出したリングマの爆裂パンチを、直接喰らってしまったのだ。
「ああッ! リンちゃん! もっと力を抑えて……。それじゃ、ナゾちゃんが……。それとツクシくん。早く、スピアーを戻して……」
言われるままに、ツクシはスピアーをモンスターボールへと戻した。
フンとリングマは鼻息をたてると、立ち上がりこちらを睨み付けているナゾノクサを見やった。相手のただならぬ殺気に、リングマの本能が敏感に反応した。
……コロス、コロス、コロス……。
あまりの殺気に、リングマですら思わず後ずさった。なんなんだ、こいつは――
「グオァァァァァァッ!」
お前なんかに負けるかッ!とばかりに、リングマは激しく咆哮し、ナゾノクサを睨み返した。口を広げ、手を広げ、叫び声と共に、破壊光線と衝撃波をぶちまけた。
ヴァシュゥゥゥゥッ!
閃光は一息の間もなく森を切り裂き、大地を抉りとり、木々を暗闇へと吹き飛ばした。遅れてやってきた衝撃波によって、枯れ葉が一挙に舞い上がる。
あまりの閃光の眩しさに、目を眩ませながらも、瑞穂は叫んだ。
「リンちゃん! 力を抑えて、ってあれほど言ったのにっ!」
それとなく瑞穂を無視しながら、リングマは漆黒の月をキッと睨み付けた。
……よけた……はかいこうせんをよけるなんて……信じられない……。
「ねぇ……。ナゾちゃんは……?」
こちらに近づこうとする瑞穂を、リングマは慌てて制そうとした、その瞬間だった。
シュッ!
瑞穂の肌白い頬から、鮮血が滲みでた。足下には勢いを失った、はっぱカッターがヒラヒラと舞っている。瑞穂は頬を押さえたまま、呆然と呟いた。尾を引いたように、掌に鮮血が滴る。
「う……うそ……」
あまりに急な出来事に、瑞穂は硬直したままである。その頭上には幾つもの刃物。
リングマは、とっさに瑞穂を突き飛ばした。はっぱカッターはリングマの腕を容赦なく斬りつけた。
「う……、り、リンちゃん!」
傷から赤々とした血が、吹き出す。瑞穂は悲鳴にも似た、叫びを上げた。
ドン!と大地を思い切り踏みつけたリングマの口から、こんどは夜空に向かって閃光が発せられた。辺りには大音響が響き、その場に伏せていたゆかりですらも、数メートルほど吹き飛ばされる。
……また、よけられた……。
リングマは、自分の発した衝撃波に打ちのめされ、その場に仰向けに倒れた。腕からの出血は、時を追うごとにひどくなっていく。破壊光線の連続発射は、リングマの身体に想像以上の負担をかけているのだ。
頬から流れる血を拭おうともせず、瑞穂は倒れたままのリングマに寄り添った。
「リンちゃん、しっかり……しっかりして……」
目には涙が浮かんでいる。頬からの血が、リングマの肩にポタリとたれた。リングマは小さく首を振ると、仰向けのままで、胸に力を込めた。
ハッとした表情で、瑞穂はリングマを見つめた。口から光りが漏れている。リングマは破壊光線を撃つつもりなのだ。
「ダメ!リンちゃん! これ以上、破壊光線を撃ったら、リンちゃんの身体が……」
殺気を感じ取り、リングマは立ち上がると瑞穂に覆い被さった。背中に幾つもの刃物が突き刺さる。それらを取り払うと、空を向き破壊光線の発射態勢をとった。
体に力を込める度に、全身の傷から、鮮血が吹き流れていく。瑞穂の肩を、腕を、リングマの鮮血が染めた。とめどなく、血は滝のように流れていく。
「やめて……やめてよ……。もう、やめてっ……!」
そう叫ぶやいなや、瑞穂はモンスターボールをリングマに押しあてて戻した。放心状態の瑞穂に、幾つものはっぱカッターが襲いかかる。
瑞穂の、か細い二の腕に、パックリとした傷がつき、血が流れ出た。
「くぅっ……」
「瑞穂ちゃん……!」
吹き飛ばされたゆかりを抱き起こしたツクシは、思わず叫んだ。
殺される、と瑞穂は直感した。いつも以上に、自分が小さく、弱々しく思えた。
……私……どうしたらいいの……?
瑞穂はお化けに怯える子供のような声で、呟いた。
……おいらのこと、忘れたの……?
グライガーは、モンスターボール越しに、瑞穂に囁いた。
……ふん。どーせ、おいらは弱っちですよ~だ……
そうじゃないよ。だけど、リンちゃんでも歯が立たなかったのに――
……ほら! みずほちゃん、やっぱりおいらのこと、弱っちだと思ってる……!
あ……ごめん。でも、本当に弱いのは私なの。独りじゃ……なにもできないんだもん……。
おいらだって、独りじゃ、な~んにもできないよ?
そうかな……、と瑞穂は微笑んだ。
おいらを信じてよ。おいらだって、グータラに見えるけど、やるときゃやるよ!
うん。グラちゃんのこと、信じる。ううん、信じてる。
……あ、それと……。
なに?
みんな無事だったらさ、こんどおいらと一緒に、お風呂入ってくれる?
「危ない! 瑞穂ちゃん!」
森に、ツクシの叫びが木霊した。瑞穂の目の前には、鋭利なはっぱカッターが迫ってきていた。その瞬間、瑞穂の胸元から光が湧き出た。そして、はっぱカッターは一瞬の内に、粉々に切り裂かれた。
「お願い、グラちゃん!」
そう叫んで立ち上がった瑞穂の胸元の光から、グライガーが飛び出してきた。
闇に紛れたナゾノクサは、グライガーに標的を変更した。奇声をあげながら、グライガーへ溶解液を打ち出した。
グライガーは目にも止まらぬ速さで、溶解液をさらりと避けた。辺りを見回し、ナゾノクサを探し始める。赤い光は、残像現象によって、いくつも闇に浮かび上がっている。どこだ。どこにいるんだ――
グライガーは瑞穂と顔を合わせた。そして、目で合図をした。瑞穂は驚いたように、瞬きをした。
「グラちゃん……、もしかして、あれをするつもりなの?」
……もちの、ろんろん……!とグライガーは頷く。
「できるの……? それじゃ……っていう作戦は、できる?」
おいらを信じて……。
瑞穂は呆然としているツクシ達の方を向いた。
「ツクシくん。ユユちゃんを連れて逃げて!」
「え……? でも……」
「いいから、早く!」
「う、うん……。」
ゆかりを背負いながら、ツクシは森の奥に、姿を消した。
ツクシ達が逃げ終えるたのを確認すると、瑞穂ははっぱカッターをひょいひょいと避けているグライガーに合図をした。
「グラちゃん! タイミングが大事だよ!」
グライガーは大声を発しながら、滑らかな自慢のハサミを思い切り振り回した。そして急降下すると、ナゾノクサの瞳を凝視し見つけだし、押さえつける。
ナゾノクサは藻掻いた。力のないグライガーでは振りほどかれるのは時間の問題かと思われた。
木々が動いた。そして、倒れてくる。何本もの木々が、ナゾノクサとグライガーめがけて倒れてくる。
グライガーは木にぶつかる直前で飛び上がった。
ドスンッ!
巨木の牢獄が、赤い瞳のナゾノクサを閉じこめた。
闇に、ナゾノクサの虚しい抵抗の音が響いた。
朝の日差しだ。
あ、森の匂いがしない……。
ここは、どこだ。
「凄いよ、グラちゃん! たった数時間で鎌鼬を修得しちゃうなんて」
あの女の子の、喜びに満ちあふれたような声が聞こえてきた。
目を開くのが怖い。
全てが幻かもしれない。女の子も、朝の日差しも……。
恐る恐る目を開くと、そこは灰色の箱の中だった。
グライガーと話していた女の子は、私に気付いて、こちらへと歩み寄ってきた。頬と二の腕には大きな絆創膏が張ってある。
わざと怒ったような顔をつくると、女の子は言った。
「ナゾちゃん! この傷の代償は高くつくよ~、なんてね」
頬をさすりながら、女の子は微笑んだ。
女の子の背中の方で、リングマが体中を包帯に巻かれて眠っている。
そうか……、ここは病院……、ポケモンセンター、か。
眠そうに目を擦ると、女の子は私を抱きかかえた。
「ナゾちゃんって、変わってるよね。 突然、目が赤くなって性格が変わっちゃうんだよね。そうなったときの記憶って、あるの?」
私は、首を振った。覚えていない……。
ふう、と息をはき、女の子はその場に座った。
「ナゾちゃん。今日から、あなたは、私のポケモン……でいいかな?」
私は驚いた。なにを突然言い出すのだ……この女の子は。
「ヒワダタウンのポケモンセンターの設備じゃ、詳しくあなたの体を調べられないんだって。かといって調べないで、このまま森に返すのも危ないし……。だから、トレーナーであり、一応医者でもある私が預かることにしたんだけど……。ナゾちゃんは、それでいい……かな?」
それでいい……かな?と訊きたいのは私の方だ。
こんな危なっかしく、ややこしい私を本気で預かるつもりなのか?
女の子は微笑みながら、黙ってこちらを見つめている。
私は小さく、女の子の腕の中で、頷いた。
女の子の胸がドクンと強く波打つのを、私は間違いなく感じた。
「よかったぁ……。それじゃ、あらためて……。私の名前は、瑞穂っていいます。これからよろしく、ナゾちゃん!」
……みずほ、というのか、この女の子は。
それでいいのか……? 私は再び、みずほに問うた。
答えはない。
いつの間にか、みずほは私を抱きながら、心地よさそうな寝息をたてて、眠っていた。いくら大人びているとは言っても、やはり、まだまだ子供なのだ。こういう幼子には、私のような大人の保護者が必要というものだ。
私は、みずほの、幼く可愛らしい顔を見上げた。
本当に、それでいいのか……?
なぜなら、今、みずほが腕に抱いているのは、愚かな白髪ジジイによって生み出された――
『一欠片の狂気』なのだから。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。