ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#6-3
#6 憑依。
3.消失=増殖
~彼らのために 私たち 旅立つ~
「ここです。ここで、私はアンノーンに襲われて、不思議な声を聞いたんです」
瑞穂の声を聞きながら、韮崎は探るように辺りを、遺跡の中を見回していた。辺りの壁は、先程の衝撃で多少崩れており、床に散乱している。
破片を踏んでしまわないように、慎重に足下を見ながら、瑞穂は壁の一点を指さした。
「このあたりから……声が聞こえてきたような気がしたんですけど……」
自信なさげな瑞穂の言葉に、韮崎は小さく頷くと、壁を手でゆっくりと撫でた。
「この辺りか……、特に変わった所は何もないが……」
瑞穂を振り返り「洲先君。グライガーをだしてくれ」
「あ、はい」瑞穂はモンスターボールのボタンを押した。「お願い、グラちゃん」
陰鬱な灯火とは全く違う、眩い光の中からグライガーが飛び出した。
やはり怯えている。潤んだ瞳は、いつもの陽気なグライガーのものとはかけ離れていた。
「ごめんね……グラちゃん。でも、少しだけ、先生と私に協力して。お願い」
グライガーは頷いた。腕に抱いて、グライガーの震えを感じたとき、瑞穂の心は痛んだ。ここまで、ひどく怯えているグライガーを、むりやり出すことはしたくなかった。
「うん……たしかに、なにかを感じているようだ……」
「でも、そんなに怯えるほど、アンノーンは恐ろしいポケモンなんですか……?」
「さっきも言ったとおり、複数集まることで、アンノーンの本来の力が発揮されるのだから……」
韮崎の言葉は、そこで止まった。別の声に、掻き消されたのだ。
たすけて。そう響いた。まるで、永遠に続く山彦のように。
ここからだして。そう聴こえた。まさに壁の中から、頭の芯に響くような声が。
2人は一様に、声のする壁の一点を見つめた。グライガーも同様に。既に荒い息づかいで。
「聞こえました?」瑞穂が訊いた。
「ああ、聞こえた」韮崎は、動揺を抑え、答える。
すぐさまグライガーが金切り声に近い叫び声をあげた。韮崎は後ろを振り向く。そして我が眼を疑った。
「洲先君、後ろだ!」
彼らは来ていた。瑞穂の背後から伸びる影から、無数のアンノーンが溢れている。
韮崎の声に反応して、瑞穂は振り向いた。
「こ、こんなに、たくさん……!」
瑞穂は驚愕と恐怖の入り混じった声をあげ、思わず後ずさった。アンノーン達は、それぞれ奇声を発しながら、瑞穂へ接近し、一斉に取り囲んだ。
「きゃ……! いや……いやぁ……! た……助けてくださ……」
瑞穂は頓狂な叫び声をあげたが、やがてその声も聞こえなくなった。失神したのだろうか。韮崎は、瑞穂の名を懸命にアンノーンの渦へと向かって呼んだ。
だが、瑞穂の返事はない。アンノーンは、中央にある瞳のような部位から、光球を発生させている。
「洲先君! どうしたんだ……返事をしてくれ」
光球は広がり、そして語り始めた。……パパに逢いたい。瑞穂の声だった。
幾つもの光球が瑞穂の声で、それぞれ語った。
寒いよ。痛いよ。怖いよ。恐いよ。どこにいるの? ソウちゃんはどこ?
光球は語り続ける。無数のアンノーンは、瑞穂に群がっていた。黒々とした異形の奥に、水色の髪をした幼い少女が呆然と立ちつくしている。瞳は焦点を失っていた。
これが、洲先瑞穂の意識なのか。韮崎の首筋に、冷たい汗が流れた。
愛してる。好き。憎い。知りたい。嫌だ。思い出したくない。嫌い。好き……。
次から次へと見え隠れする瑞穂の意識を目の当たりにし、韮崎は眼を伏せた。優しさの中に憎悪と苦悩の入り乱れた瑞穂の心を、韮崎は直視したくなかった。澄んで優しげな瞳の奥に、朗らかで可愛らしい笑顔の内面に、瑞穂の深い闇が隠れていたのだと思うと、どうしようもなく、やりきれない、虚脱感に包まれるのだ。
恐い。怖いよ。気持ち悪い。憎い。助けて。大好き。大好き。友達だよね? 愛してる。
瑞穂の心の、光と闇は交錯し、一斉に騒めいている。その時、アンノーン達の中の一体が、人間の、瑞穂の声で、話しているのが聞こえた。
「コノ、にんげん。なかまニナレナイ」
それに答えるようにもう一体のアンノーンが、瑞穂の声のまま、片言で言った。
「ナレナイ。なかまニナレナイ。コレいじょう、コノにんげん二カカワルコト、いみナイ」
「コノにんげん。ワタシタチヲ、ひつようトシテナイ」
「ほか二、なかまハ、イナイノカ……」
アンノーン達は、辺りを見回した。その中を駆ける、紫の閃光には気付かなかった。
縦一閃に青い光が走り、一直線上に漂っていたアンノーンの体が真っ二つに割れた。風圧に押され、アンノーン達はちりちりバラバラに吹き飛ばされた。その先で、グライガーは、怒りの表情でアンノーン達を睨んでいた。
韮崎はすぐさま瑞穂へと駆け寄る。焦点を失った瞳のまま立ちつくす瑞穂は、そのまま前のめりに倒れた。韮崎が抱きかかえなければ、顔を床に打ちつけていたところだ。
「洲先君。大丈夫か? 意識はあるかね?」
その言葉が聞こえたのか、瑞穂の瞳に意識の色が戻った。ゆっくりと韮崎の腕の中から起きあがり、恐れ戦きながら壁の中へと消えていくアンノーンを、見やった。
耳に、かすかに、自分の囁きを感じながら。
「コワシテクレ。ワタシヲ、コワシテクレ」
辺りに静寂が蘇った。アンノーン達は、その姿をどこへともなく隠したのだ。
グライガーと同様、瑞穂は怯えながら韮崎の大きな掌を握りしめる。涙目だった。まだ、あどけなさが残る、白く美しい整った顔を震わせながら、瑞穂は呟く。
「あ……あの、私、いったい……なにが……」
「何もなかったよ。心配することはない」
「でも……、私、今、ものすごく、変な気分なんです」
「変な気分……?」
「さっき、気持ち、よかったんです。怖いくらいに気持ちよくて――不安も、怒りも、恐れも、なにもなくて、すごく心地よかったんです」
瞳に溜まった涙を拭うと、瑞穂は続けた。肩ががくがくと震えている。
「ぱぱがいて、ままがいて、みんな笑ってて……」呻いて「でも、不自然に気持ちがよくて、だから、その分だけ、怖くて……。なんとか、現実に戻ろうとして……」
「賢明な判断だったね。」韮崎は微笑んで「私だったら、とても、そんなことはできないよ。大丈夫、心配することはない。キミには、なにも起こっちゃいない」
蒼白の面持ちで、瑞穂は立ち上がり、グライガーを見やった。グライガーは、壁の一点をひたすら睨み付けている。心なしか、瞳が紫色に染まっているように見える。
「グラちゃん。さっきはありがとう……」瑞穂は顔を上げた。「そこに、なにかあるの?」
頷きを返し、一瞬のうちに、グライガーは遺跡の壁をハサミで打ち砕いた。壁の破片が吹き飛び、大穴が一つ。瑞穂と韮崎は驚愕し、止まった。
「な、なんてことを……貴重な文化遺産を……」
瑞穂は狼狽えた。「ぐ、ぐ……ぐ……グラちゃん……な、な、一体なにを……?」
「グラッ!」と声をあげ、グライガーは穴の中をハサミで示した。
「え……? やっぱり、そこに……なにか、あるの……?」
瑞穂は小さく首を傾げた。グライガーに近づき、穴の中を覗き込んだ。
笑っていた。幸せそうだった。だが、そこは闇に包まれていた。
あッ……。小さな叫びをあげ、瑞穂の動きが止まった。韮崎も不審に思って、穴の中を覗いた。
瑞穂も韮崎も、そしてグライガーも、そこにいる筈のない闇に驚いていた。
「こないでよ……、しつこいね。せっかく、見逃してあげたのに、また来るなんて……」
男の声だった。小柄だが、小太りで、脂ぎった黒い長髪の前髪をしきりに手で払いのけている。黒縁眼鏡の分厚いレンズが、妖しく、怪しく、光っていた。周りには漆黒の霧が、男を包み隠すようにたちこめている。
男の醜い容貌と不気味な雰囲気に、韮崎は身震いした。
小太りの男の周りには、幾つものアンノーンがぐるぐると回っている。
「どうして僕の幸せの邪魔をするの? こんな所になんのようなの? 用がないなら帰ってよ」
血走った眼を見開き、男は言った。見れば見るほど、醜い。
「あの……、ここで、なにをしているんですか……?」
果敢にも瑞穂は訊いた。艶やかな水色の髪が、かさかさと揺れている。男は顎を突き出し、嫌らしい笑みを浮かべた。
「ここで……なにをしているかだって? そうだな……なんと言えばいいのか……」
霧の闇が集まり、黒々とした物体へと、その姿を変えていく。幾つものアンノーンが、いつしか男を守るように、漂っていた。
瑞穂は穴の中に踏み込んで、男を見つめた。韮崎もそれに続く。アンノーンの群れに驚きながらも、瑞穂は再び問う。黒い霧が揺らいだ。
「ここで……なにをしているんですか……?」
「上を……見てみたら……?」
男は不適な顔を上へと向けて、黄色い歯を剥き出しにして笑った。
韮崎は、男の言葉通り、天井を見上げる。韮崎はそのまま言葉を失って、立ちすくんだ。不審げにその様子を見ていた瑞穂の頬を、生暖かい液体がつたっていく。頬を手で拭い、その液体が赤い色をしているのをみて、瑞穂は息を呑んだ。
瑞穂は、恐る恐る上を見た。喉が渇くのを感じた。目眩がした。
女が3人、天井に張り付けられている。皆、目の眩むほど、美しい娘たちだった。茶色い髪をした女が、今にも消え入りそうな小さな声で、しきりに、譫言のように呟いていた。
たすけて、ここから出して。たすけて、ここからだして。……涙は枯れていた。怯え、震え、目を閉じている。現実とも悪夢ともつかぬ、この空間を直視したくない気持ちはよくわかった。
今、生きているのは彼女だけだ。そう思ったと同時に、瑞穂の背筋が冷たく濡れた。
1人は、眠るように死んでいた。腕がだらりと垂れ、その先が黒々と変色し、蛆が湧いている。もう一人は、血走った眼を左右に向けながら死んでいた。首筋が切り裂かれており、いまだに血が滴っている。その首筋には彼女自身の爪痕がくっきりと残り、また彼女の爪は、赤々とした血糊に染められていた。
「狂ったんだよ。その女は……」
瑞穂は、そう呟いた男の顔を睨んだ。韮崎は、ただ口を動かすだけで、何も言葉にならないでいる。
「狂ったから、自分の喉を、爪で掻き切って死んじゃったんだ……バカみたい……」
男は冷たく笑った。
「狂ってるのは――あなたですよ」
断言した。瑞穂は臆することなく、男の醜悪な眼の奥を睨んだまま、動かないでいる。
「これは……なんなんですか……?」
大体の予想はついていた。瑞穂は悟ったのだ。以前、コガネシティで襲われたことのある瑞穂には、男という生き物が、どれほど、どこまで残酷になれるかということを、よく知っている。
瑞穂は、この男の笑いの中に凶々しく歪んだ憎悪を感じ取ったのだ。
「こいつら……笑ったんだよ……」
純粋だった。純粋な憎悪が、男のただでさえ醜い男の面を歪曲させた。
喉の渇きがひどくなってくるのを瑞穂は感じた。奥歯を噛みしめ、男を見つめる。
男は語った。男は休暇を利用して、独りでこの遺跡に旅行に来ていたのだという。そして、そこで、遺跡の中で男は、3人組の美しい女性たちを見つけたのだ。男は独りだった。男に『男』としての本性が走った。男は女性たちに声をかけた。
「あの女ども……僕が話しかけても、無視したんだ……。ちょっと見て呉れがいいからって、調子に乗りやがって。僕のこと、ブサイクって言って、笑ったんだ。笑ったんだよ」
女は男を嘲笑った。なによ、この、ブサイク。寄らないでよ、汚いわねっ!
男は吠えた。
女たちは笑いながら逃げていった。しかし彼女たちの行方を黒い物体が遮った。
「驚いたよ……。なんといっても、自分の思い通りのことができるんだからな」
驚く男の元へ、銀髪の少年があらわれて言ったのだ。「それはね、アンノーンというんだよ」
アンノーンは、キミを選んだ。アンノーンはキミの願いを叶えてくれる。夢のような道具だよ。
のぞみハナンダ。かなエテヤロウ。よくぼう、おまえノナカニアル。すべて、ハキダセ。
「事実、アンノーンは僕の望みを叶えてくれた」
「あなたの……望み……?」
「あの女たちを、僕の手で裁くこと。それ相応の罰を与えること」
そして犯してやる。僕のものにしてやる。奪ってやる。それが僕の幸せ。男の表情から、薄汚れた心が覗く。瑞穂は眼を背けたい衝動をなんとか抑えた。
「そして、僕は、あの女たちに罰を与えた。そして……」
少年の去った後、男は自分と彼女たちだけの世界を望んだ。アンノーンは、その世界を簡単に創り上げた。男は彼女たちを天井に縛り付けることを望んだ。アンノーンが輝き、女たちは天井に縛り付けられた。
許さない。男は思った。アンノーンは、彼女たちを許さなかった。
女たちは怯え続けた。男は、女を、自分の思いのままに傷つけ、犯し「……殺したんだ」
最初の犠牲者は黒い髪をした女だった。男の体を、あまりに彼女が拒絶したので、男が彼女の首を折ったのだ。すぐに彼女は静かになった。
2人目の犠牲者は髪を金色に染めている女だった。日に日に腐敗し蛆が湧き、屍臭を発する最初の犠牲者を見せつけられ、狂ったのだ。訳のわからぬことを叫き散らし、暴れた後、喉を自分の鋭い爪で掻き切った。
血が吹いた。女は血走った瞳を廻して吐いた。舌を噛み切っていたのだ。
瑞穂は黙ったままだった。韮崎は青ざめた顔をしている。
「やっぱり……おかしいですよ。間違ってます、こんなこと……」
その声は怒りに震えていた。瑞穂は拳を握りしめて、掌に滲んだ汗に気付いた。
「おまえに、何がわかる……?」
男は言った。おまえに。何が。わかるんだ? 僕の、俺の、何が、わかるんだ……?
「おまえに、容姿にも何もかもに恵まれたお前達に、俺の気持ちがわかるのか? いや、理解できるはずは無い」
あまりの男の形相に、今まで怯まなかった瑞穂も、思わず後ずさった。男の狂気で、殺気で、瑞穂の表情に恐れの感情が浮いた。男は続ける。
「逃げるのか? 逃げられると思うのか? おまえたちは俺のことを知った。そして俺を否定した。それで本当に、逃げられるとでも思っているのか……?」
韮崎は背後に何者かの気配を感じて振り向いた。出口は消えていた。消したのだ、アンノーンが。
男は口を動かした。声は出ていない。アンノーンの姿が男の足下から次々と浮かび上がる。声が奪われていた。男の声は男の口からは発せられなかった。アンノーンの一体が奇声を発した。
「おまえガ、おれノ、なにヲ、しッテイル……。おれノ、きもちモしラナイクセニ。おれガ、サバイテヤル。コロシテヤル」
アンノーンが一斉に瑞穂を捕らえようと、近づいてきた。光弾が発せられ、瑞穂は横へ飛びついて、それをすんでの所で避けた。床にめり込み、光弾が炸裂した。地面が抉られ、破片が辺りに飛び散った。
「先生は、伏せていてください!」
瑞穂に言われるままに、韮崎はその場にかがみ込むように、伏せた。
それを確認し、瑞穂は胸に抱いていたグライガーを解放し、もう一つ、モンスターボールを投げた。
「グラちゃん……! それに、ナゾちゃんもお願い!」
ボールから光が迸り、ナゾノクサがその姿をあらわすと同時に、アンノーンが真っ二つに割れた。地面に落ちたアンノーンの上に、はっぱカッターがヒラヒラと舞い落ちる。
青い光が空を斬った。断末魔の悲鳴をあげ、アンノーンがバラバラに砕けた。グライガーの鎌鼬が、アンノーンを切り裂いたのだ。
黒い異形は束になって、ナゾノクサを押さえつけようとした。ナゾノクサは黄色い粉末を吹き出して、飛び上がり、痺れているアンノーンへはっぱカッターを発射した。
踊るように舞い上がって、グライガーはハサミを振り、青い光の筋が黒い霧を祓う。瞳が紫の光を帯びてきた、叫び声をあげ、グライガーはハサミを振り回した。
アンノーンは、青い光に包まれて、弾け飛び、砕け、消えていった。
男はあからさまに狼狽していた。額には汗と脂が浮かんでいる。
「そんな……アンノーンが……、ありえない」
ナゾノクサをボールに戻し、グライガーを抱きかかえると、瑞穂は男の顔を直視した。
「すべて……すべてが自分の思い通りになるわけがないんです。もう、こんなこと、やめてください」
激しく頭を振り、男は食い入るような眼で消えていくアンノーンを睨んだ。口元から夥しく涎が溢れている。歯を食いしばり、立っている。痙攣しているように見えた。
「あ……あぅ……。違う。これハ。なにカノマチガイダ! 俺は望んだ。望んだんだ。なぜ、叶えてくれない? 答えてくれ。答えろ、アンノーンっ!」
叫び声をあげ、男は瑞穂の元へと駆け出した。拳を振り上げている。
瑞穂は危険を感じた。男は狂った。自暴自棄になり、自分を殺そうとしている。
男の懐から、鈍く光る刃物が飛び出した。口を開いて、眼をしっかりと瑞穂を睨む。頭のなかには、既に血塗れになって死んでいる、瑞穂の姿が映し出されていた。
「ころシテヤル。ころシテヤル。おれヲひていスルナ! おれヲばかニスルナ! おれノきもチガ、オマエニワカルカ!? しネ、しネ! ころシテヤルッ!」
俺を否定するな……俺を馬鹿にするな……。それが男の究極の望みだった。俺を否定するな。叫いた。狂ったように、叫き立てる。俺を馬鹿にするな。俺を否定するな。俺の望みを叶えてくれ。
しかし、それは男の言葉ではなかった。刃先が光る。瑞穂は身を屈めた。
叫び声が揺らいだ。冷たい音とともに、瑞穂は、そこに無数の意識をみた。
皆、泣いていた。
外は吹雪だった。雪が吹き荒れ、道は白に埋まった。
少年は頬のタトゥを撫でる。鍵型のピアスが、風に吹かれて揺れていた。
「裁かれただろう……? あの男」
「そうね……。でも、あなたが現れなければ、あの男は罪を犯さずにすんだ――」
不快そうな顔で氷は言った。顔を背けている。少年は嗤笑した。辺りが暗くなってきた。夜が始まろうとしているのだ。
「それは、違う」
「何が違うの……?」
「人間は、存在自体が罪なんだ。それに、ボクが現れなくても、誰かが同じ罪を犯す。同じ人間だから」
氷は、もう、何も言わなかった。何を言っても意味のないことを悟ったのだ。
一歩足を踏み出せば、その後は簡単だった。すぐに、2歩目が続いた。少年と氷の距離が少しずつ開いていく。その隙間を埋めるように、雪が降り積もった。
「最後に教えて」氷が言った。歩きながら振り返らずに。「お礼を言いに来るためだけに、ここに来たの?」
「いいや。裁きの準備に来た。お礼は、そのついでさ」
「準備って──あなたは、どうやって人間を裁くつもりなの?」
「ボクが裁くわけじゃない」
言い切って、少年は振り返った。白い闇の中へと、氷は消えていく。
「待って……」少年は言った。嗤ってはいなかった。
氷は止まった。しかし少年の方を見ようとはしなかった。
「ボクに……ついてこないかい……?」
「なんで、そんなこと訊くの……?」
「キミは美しい。それに、いずれキミは、ボクを理解してくれる筈だ。だからボクと……」
氷は再び歩き出した。少年は口を噤んだ。追いかけようともしなかった。
消えていった。あとには沈黙だけが残った。少年は俯いていた。なぜ、あんなことを言ったのか。いつしか氷の不思議な魅力に取り憑かれている自分に気付いた。氷と自分は、どこか共有している部分がある。少年は漠然と考えていた。だから惹かれるのだ。
少年は軽く舌打ちして、空を仰いだ。同時に携帯が鳴った。
「ボクだ……」峻厳な顔つきと態度で、少年は言った。相手は事務的な口調で訊いた。
「いままで、どこに行っておられたのですか……?」
「訊くな、私用だ。……それと、少しばかり面白いことをしてみようと思う」
「『裁き』に関係する内容なのですか?」
「そうだ。僕たち……いや、私たちの理想に少しでも近づくための……」
――理想って、なんだ――?
そこで少年は口ごもった。気を紛らわすために、雪の地面を踏みしめ、歩いた。
「ねえ、レミエル……。ボクは、本当に選ばれた者なんだろうか……」
「何を仰います。先代の御子息のなかで、唯一生き残ったのは、あなた様なのですよ」
「そうだね……ボクは選ばれたんだよね……。それじゃ、今から帰る」
携帯を懐にしまい、少年は胸を押さえた。自分は、いつしか氷に惹かれていた。だから殺せなかったのだ。同じだ。少年は思った。選ばれた者でも、同じなのだ。苦しみは。誰でも――
苦しみの気持ちは同じなのだ。
彼女は泣き続けた。
友人を同時に2人も失い、そして自分自身の命までもが危険に晒されたのだ。悪夢から覚め、母親にしがみつき泣きじゃくる子供のように。彼女の肩はいつまでも震えていた。
彼女は、何も言えないでいる瑞穂と韮崎に泣きながら訊いた。
「私たち……そんなに非道いことしたの? 殺されなきゃならないようなことしたの? 教えて……教えてよ……」
無惨な二つの屍体を前に、瑞穂は息の詰まるような思いで彼女を見つめていた。
彼女はしゃくりあげながら続けた。
「だって……だって……あの時は……」
弁明のしようがなかった。彼女に弁明する権利などなかった。そこで彼女は押し黙った。歪んではいたが、男は正しかった。正しかったが、彼女たちは間違っていた。
男は絶対に許せない。若い彼女たちの命を奪い、それで平然と自分の正当性を主張していた。許せない。しかし、彼女たちが男にした仕打ちが、男にとってどれほど残酷なものであったかを考えると、瑞穂は鬱々とした気分になる。心の迷宮は深く浅く、すれ違い、争いを、憎しみを生む。
彼女は裁かれたのだ。
瑞穂は、二つの屍体と涙の止まらない彼女を乗せて去っていく車を、雪の降る中見送った。辺りは既に真っ暗になっていた。肩に手が掛かるのを感じ、瑞穂は振り返った。韮崎が優しげに立っていた。
「先生……ユユちゃんは……」
「大丈夫。もう、眠っているよ」
「そうですか……」
雪をはらい、韮崎の部屋に入る。戸棚には、3年前に撮った瑞穂の写真が飾ってあった。瑞穂は驚いた様子で、写真をまじまじと見つめている。気付いたのか韮崎が苦笑した。
ゆかりはベッドの上で、眠っていた。柔らかい掌が小さく動いた。そして、寝返りをうつ。
「私……ずっと疑問に思っていたんです」
韮崎が瑞穂を見た。小さく頷く。瑞穂が何を言おうとしているのか、韮崎には解っていた。
「アンノーンが、なんで人間の意識を察知し、それを具現化するのか。どうして、人間の望みを叶えようとするのか。そんな人間にとって都合のいい能力を有していたのか……」
「キミは、その答えがわかったのかい?」
「先生は、だいぶ前から、その可能性を考えていたんですよね……?」
すこし微笑んだだけで、韮崎は何も言わなかった。瑞穂は微笑み返し、続けた。
「アンノーンは、人間が創りだした始めてのポケモン……かもしれないですよね。あれほどの遺跡を造ったり、あんな細かい像を造ることのできる優れた文明です。自分の夢や、望みや、欲望を叶えてくれるような、人間にとって都合のいいポケモンを創りだせても不思議じゃないですよね」
「あくまで、推測だけどね」
「確かに推測ですけど、もし正しいとするとアルフの遺跡は……」
「アンノーンの製造工場……という解釈が成り立つ」
「だから、アンノーンは古代の遺跡でしか見つからないんですね」
アンノーンに襲われたとき感じた快感。あれは、麻薬のようなものだ。瑞穂は思った。自分がいる、夢が具現化され、そこにある。それに飛びつかない人間はいない。
瑞穂は感じた。恐ろしかった。実際に、夢をみた代償は、大きかったようだ。
「しかし古代人の創りだしたアンノーンは完全ではなかったようだね。でなければ、あんな事は起こるまい」
韮崎は言ったが、瑞穂は首を横に振った。
「たぶん、違うと思います。アンノーンは、あれで完全だったんです」
「どうしてだね? あれでは、欠陥品じゃないか」
「たしかに、利用する人間の立場から見れば、明らかにアンノーンは欠陥品です。でも、アンノーンが物体ではなく、機械でもなく、生物であるならば、その能力は有って然るべきだと思います」
「皮肉なものだな……」韮崎は暗い顔で言った。
「アンノーンはポケモンです。道具じゃないんです。生きているんです。古代の人達は、アンノーンを創るべきじゃなかったんです。アンノーンに憑かれて、古代文明は滅び、アンノーンは数千年も孤独であることを強いられた……。間違っていたんです。結局、お互いが苦しい思いをしただけなんです」
瑞穂の頬は火照っていた。悲しみが瞳に浮かんでいるようだった。
「人間はいつの時代も……変わらないものなんだね」
韮崎の言葉も哀しげだった。雪のふる滅びの遺跡を、瑞穂は窓をとおして見つめている。胸の奥には、床に落ちたナイフの音が染みついていた。
あのとき、恐る恐る瑞穂は顔を上げた。男は、既にそこにはいなかった。消えていた。消滅していた。しかし、ただ消滅していたわけではなかった。アンノーンが一体、増えていた。増殖していた。そのアンノーンはくるくると回った後、張り裂けんばかりの奇声を発し、壁の中へと消えていった。
幻はそこで途絶えた。
女の瀕死の体と屍体が天井から落ちてきた。腐敗していた屍体は潰れた。鈍い音をたてていた。哀しみと孤独に満ちた、男のナイフの鋭い音とは対照的だった。
部屋は消えていた。瑞穂たちは回廊に立っているだけだった。もちろん、男はそこにはいない。
あの人はどうなったのだろう。瑞穂は呆然と思い出していた。掌を窓ガラスにつけて考える。ひんやりと冷たい心地よさが瑞穂の体を軽く痺れさせた。
アンノーンは、仲間を欲しがっていたのだ。孤独だったのだ。夢を、欲望を、希望を、望みを叶えるふりをして、その実、その人間の力を奪い、アンノーンへと、仲間へしようとしていたのだ。そして、あの男はアンノーンへと姿を変えさせられた。不幸にも、夢を見た代償だったのだろうか。
アンノーンは人間を欺いていた。仲間が欲しい。孤独は嫌だ――
古代も、現在の人々もアンノーンに喰われていただけなのだ。人間は、アンノーンの幻に酔い。アンノーンは、酔いしれた人間に寄生していたのだ。
そして、ある日、人間の殻を破り、アンノーンは増殖した。
今も、遺跡では男は泣き叫んでいるに違いない。誰もいない。仲間が欲しい。青年が独り、近づいてきた。欲望が見える。憑依した。話しかける。願いを叶えてやる、と……。
後に、この青年は知るだろう。そして叫ぶに違いない。誰もいない。仲間が欲しい。終わらない、永遠に。
「Parasiteか……」瑞穂は呟いた。
隣のベッドから聞こえる、ゆかりの静かな寝息が、一日の終わりを告げている。
今夜は眠れそうにない。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。