水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#8-2

#8 無力。
 2.闇の再来

 

 

 湖のほとりにそびえる巨木の下で、呻きに似た声が聞こえた。ひときわ大きなメスのリングマが、巨木に支えられ、苦しそうに身を捩っているのだ。湖まで案内してきた、一回り巨大な野生のリングマが、心配そうに彼女を指さしながら、瑞穂の方を見た。瑞穂は、意味ありげに頷くと、目の前で呻く巨体を、まじまじと見つめた。 
 彼女の周りを囲む野生のリングマ達は、皆心配そうに、ひしめき合っている。 
 苦しそうな息づかいで喘いでいるリングマの前に、瑞穂はしゃがみ込み、手をとった。途端に野生のリングマ達が騒ぎ出した。怒っているものもいれば、脅えたように顔を歪める者もいる。牙を剥き出しにして今にも飛びかかろうとする、血気盛んなリングマの姿も、ちらほら見えた。 
 巨木にもたれているメスのリングマを横に寝かせ、布巾で体中に浮き出した汗を、瑞穂は拭い始めた。 
「ガッ!」 
 たまりかねたのか、一匹の若いリングマが爪を振り上げ、瑞穂の顔めがけて振り下ろした。瑞穂は動かなかった。首だけを横にそらして難なく爪をかわすと、メスのリングマの様子を見続ける。 
 ここまで瑞穂を連れてきた首領格のリングマが、瑞穂を切り裂こうとした若いリングマを睨み付けた。 
「グアアッ!」 
 一喝され、血気盛んだった若いリングマは小さくなり、しょぼんと俯いた。 
 ……邪魔をするな……! 首領格のリングマは、そう叫んだのだろう。 
「お姉ちゃん……どういうことなん?」 
 瑞穂のリングマに抱えられながら、ゆかりは横から瑞穂に尋ねた。 
「つまり……このメスのリングマが苦しんでいるから、助けてほしい……ってことだよね?」 
 横目でリングマを見ながら瑞穂は訊いた。リングマは小さく頷く。 
 メスのリングマの呻きが激しくなった。まるで暴れているかのように、のたうっている。息を呑み、瑞穂はメスのリングマの肩の辺りを、強く擦るようにさすった。彼女の呻きが、少しだけ小さくなる。周りで見ていた野生のリングマ達は次々に感嘆の息を吐いた。 
「どないなん? そのリングマの病気……」 
 ゆかりが訊くと、瑞穂は顔を向けた。暗がりでよく見えないが、不安げなのは間違いない。もう一度、メスのリングマに浮いた汗を拭い取ると、瑞穂は答えた。 
「病気じゃなくて、骨盤位だよ」 
「コツバンイ?」 
「逆子のこと」 
「ってことは、このリングマ、妊娠してるんか……」 
 なるほど……と頷いているゆかりを余所に、瑞穂は立ち上がり、すぐ隣のリングマに、囁くように言った。 
「あの……。精神的に負担になると思うから、ここのリングマ達には他の場所に移って欲しいんだけど……」 
 話を聞いて、リングマは頷くと、首領格に叫んで、その旨を伝えた。首領格のリングマは了解し、一同を連れて、渋々と森の深部に姿を隠した。あとに残されたのは、瑞穂とリングマ、苦しげなメスのリングマと、ゆかりだけだ。 
「お姉ちゃん……大丈夫なん?」 
 ゆかりが、暗い顔で訊いてきた。患者の前で許される程度の笑みを浮かべ、瑞穂は白く華奢な腕を、星空へと向けた。 
「まかせて。私は、こう見えても医者なんだから……」

 満月が朝日に吸い込まれるようにして消えていく。 
 辺りに産声が響いた。時が止まったかのような沈黙の後、空気を押し揺るがす、鳴き声が広がった。メスのリングマは、体中の力を振り絞ったようで、ぐったりとしたまま息をはいている。全身に疲労の色が濃かったが、苦しそうではなかった。 
「グァァァッ!」 
 隣にいたリングマが合図を出すと、茂みに潜んでいた野生のリングマ達が一斉に顔を出した。瑞穂の抱いている赤ちゃんヒメグマを認めると、彼らは歓声を上げた。歓喜の叫び声を聞きながら、瑞穂は、ぼんやりと微笑んでいる。 
「やったやん! お姉ちゃん」 
 嬉しそうに、ゆかりが話しかけてきた。瑞穂は、こくりと頷き、その場に座り込んだ。 
「よかった……生まれたね……」 
 それだけ呟き、鳴き続ける赤ちゃんヒメグマリングマに預けると、瑞穂は意識を失い倒れた。ゆかりが慌てて駆け寄り、瑞穂の様子を確かめる。 
「お姉ちゃん!」 
 疲労からか、蒼白になってしまっている瑞穂の顔を覗き込んで、ゆかりは思わず吹き出してしまった。 
 寝息が聞こえたのだ。とても大きな。 
 一晩中、母親リングマと共に戦い続けた瑞穂の体力も、既に限界を超えていた。瑞穂は、体全体に達成感を漲らせたまま眠っている。少女の寝顔は穏やかで、優しさを湛えていた。 
 若い野生のリングマが、眠り続ける瑞穂を、起こさないように、そっと抱きかかえた。柔らかな草むらの上に寝かせられて、瑞穂はその日、一日中、眠り続けた。

 

○●

 眠れぬまま夜が明けた。 
 ゼブルと呼ばれる寝室で、サリエルは少女の、妹の、白いうなじを優しく撫でた。ラツィエルは、ほのかな桃色に染まっている胸を、恥ずかしそうに手で押さえている。 
 抵抗はしなかった。サリエルの細い腕が背中にまわされた。お互い、火照っている。汗が全身に浮いている。燃えていると言ってもいいほど、体の芯が熱を帯びていた。 
 荒い息のまま、サリエルが妹の唇を吸った。虚ろなラツィエルの瞳が、潤んでいる。透明な、透き通った、一筋の涙が妹の頬をつたって、サリエルの胸元を冷たく濡らした。 
 サリエルは驚き、そして冷酷と言ってもいいような表情で、聞いた。 
「なぜ……泣く?」 
「兄上様。抱いてください」 
 表情を変えずに、サリエルは小首を傾げた。妹は――ラツィエルは声も上げずに、涙だけを流し続けている。恥ずかしそうに、頬を赤らめ、細い体躯を隠すように、シーツの中に潜り込んだ。 
 サリエルはシーツごと妹を抱き寄せ、生温い胸の中に顔を押し込む。 
「抱いている……。それを拒んでいるのはお前だろう?」 
「私を、抱いてください」 
 ラツィエルの声は小さかったが、どこか胸に突き刺さるような、芯の強さがあった。冷たく、愁いに満ちていて、まるで―― 
 射水 氷のような。 
 あの女のような。……似ている。似ているのだ。 
 ラツィエルは、氷に似ている。いや、氷がラツィエルに似ているのか? 
 火がついたように、妹をシーツから引きずり出し、サリエルは男としての牙を剥きだした。呻きが聞こえる。誰だ? 妹か、あの女か。どうでもいい。今は、誰の呻きでも構わない。呻きが激しくなる。違う……自分が激しいだけだ。呻きがぼんやりとする意識の中で大きくなっていく。 
 妹か。あの女か。違いはない。 
 どうしても、犯しても、侵しきれない部分があるという意味では、同じなのだ。 
 それは、心の奥底。なついてはくるが、妹は決して自分に心を許してはいないのだ。 
 あの女も、同じだ。絶対に自分の方を向くことのない、冷たい瞳。あの女……。あの女……。 
 快感が、体から吹き出した。息を弾ませながら、サリエルはベッドに横たわる妹を見つめた。妹は、悲しげにサリエルを睨んでいた。涙が溢れている。 
「兄上様は……私を抱いてくださらない。どうして――私を抱いているのに、どうして兄上様は、私以外の女のことを考えているのですか?」 
 サリエルは答えに窮した。 
「お前は、私の妹だ」 
「答えになっていません」 
「お前は、私が恋をしていると言いふらしているようだな?」 
 ラツィエルは顔を上げて言った。瞳の色は変わっていない。 
「言いふらしてなどいません。ただ、レミエルに伝えただけです」 
「それを、言いふらしている、と言うのだ。お前は、私が恋をしていると言うが、お前こそ、私に恋をしているのではないのか?」 
「私は、兄上様のことが好きです。たとえ、あと四日で、兄上様に殺されようとも」 
「では、なぜ私に心を許さない……?」 
 潤んだ目を細め、ラツィエルはか細い声で答えた。 
「私は兄上様に、すべてを許しています。心も、そして体も」 
「心の奥底までか?」 
 妹に、何かを躊躇うような素振りが見えた。 
「それは……ごめんなさい……。私は、兄上様に心の奥底まで許すことができません」 
 涙声に変わった。シーツに顔を埋め、妹は嗚咽した。 
「兄上様は、あと四日で私を殺さなければなりません。私が死ねば、私は兄上様を失ったことになります。寂しいのです。兄上様を失うことを想像すると、たまらなく悲しくなるのです。もし私が兄上様に……兄さんに心の奥底まで許しちゃったら、死ぬのが恐くなっちゃいます……。兄さんは、私を殺さなきゃいけない。それが決まりなの……。恐いよ。死ぬのは。兄さんを、本気で愛しちゃったら、私、死ぬのが恐くなって、私が兄さんを殺しちゃうかもしれない。だって、そっちの方が楽だもん! それなのに……私は兄さんのこと、ずっと考えてるのに、兄さんは、他の女のことを考えてるなんて……酷いよ。私は、その女の代わりなの? 酷いよ。兄さんなんか嫌い。だから、はやく殺して。もうこれ以上、兄さんを想って、死ぬときに兄さんを失うことを想像して、私は苦しみたくないの!」 
 ラツィエルは、兄を突き飛ばし、シーツを羽織ったまま外へと飛び出していった。階段を駆け降りる声が響く。唸るような泣き声が、寝室まで聞こえてきた。 
 ラツィエルと入れ替わりに、レミエルが寝室に入ってきた。全裸のサリエルを見て、レミエルは多少の驚きを隠そうともせずに、言った。 
「さ……サリエル様。決行は、三日後です……。ハルパスを派遣しました」 
 頷くと、サリエルレミエルの皺だらけの顔を見つめた。長い銀髪を、疲れているかのように掻き上げ、次に呟いた。 
「妹は……」 
 小さく息をはき、窓の外の光無き闇の奥を覗く。闇が心の奥に触れた。 
「苦しんでいたんだね……」

 

○●

 太陽の光を浴びて汗を煌めかせ、瑞穂は背伸びをした。ヒメグマと仲間達が遊ぶのを眺めているのだ。 
 あの難産から三日が経った。心配されていた母体の健康状態も良好で、子供であるヒメグマも健康状態に特に問題はなく、元気に育っている。 
 草むらに座りながら、眠そうに目を擦ると、グライガーが近寄ってきて、木の枝を手渡してきた。きょとんと瑞穂は、グライガーを見つめる。遠くでポケモン達と遊んでいるゆかりが、笑いながら大声で言ってきた。 
「お姉ちゃ~ん! その棒、投げてや! 先に取った方が勝ちやねん」 
 微笑みを返して瑞穂は立ち上がると、手渡された木の棒を力一杯、空へ向かって放り投げた。くるくるとまわりながら、木の枝は森の奥へと消えていく。ポケモン達とゆかりは、一斉に木の枝を目指して、走り出した。 
 一息ついて湖の水で顔を洗うと、瑞穂は横になり、生い茂る芝生に身を沈めた。風が凪いでいる。湖の水面は静かに、光っている。 
 麗らかな日差しを浴びて、瑞穂は眩しそうに目を閉じると、そのまま眠りに落ちた。

 闇だ。決して見紛うことのない闇が、眼下に広がっている。 
 死の冷気が頬を撫でた。谷底に溜まった闇が、風に吹かれて二人を……少女とヒメグマを強張らせた。闇の中心に、鮮血が散っている。肉の欠片。充血し、見開いた眼。流れ続ける墨のように黒々とした、血。谷底に横たわる、巨体は間違いなく、あれは―― 
 かつて、母と呼ばれたリングマ。 
 戦慄した。抱いていたヒメグマが、狂ったような叫びをあげ、泣きわめいた。少女を……瑞穂を振り払い、母の亡骸へと向かおうと、四肢をバタつかせている。 
 ヒメグマの手を握りしめ、少女は引きずった。 
「アブないよ。ひめちゃんまで、おちちゃうよぉ」 
 少女はヒメグマを抱き上げ、鮮血にまみれた谷底の屍体を凝視した。破裂している。谷底から落ちたときに破裂したとは、到底思えなかった。 
 誰かに。そう、誰かが。誰が? 誰が殺した? 
 当時は思いも付かなかった考えが、泉のように沸き上がってきた。 
 ……当時? そうだ。これは、夢だ。それも、とびきりの悪夢。 
 現実の過去を振り返り、冷静といってもいい程の落ち着きをもって、瑞穂は考えた。 
 銃声が聞こえていた。住処の前にあった人間達の足跡。あらゆる状況証拠をかき集め、出てきた事実はただ一つ。――人間がリングマを殺した。 
 狂ったように暴れるヒメグマを抱きながら、瑞穂は声も出せないでいた。 
 足音が聞こえてくる。瑞穂は急いで、ヒメグマの口をふさいで、近くの岩場に身を隠した。 
 男だ。不思議な形のライフル銃を肩に抱え、男と男の手下達は谷底を不敵な笑みを浮かべながら眺めている。 
 あいつだ。胸の奥で、音にならぬ声が鳴り響いた。アイツが殺したんだ。殺した男は、谷底に石を蹴り落とすと、背を向け、どこかへと去っていった。 
 忘れるはずがない。男の手の甲には、黒々としたタトゥが光っていたのだから。 
 忘れない。皺だらけ顔をした冷酷な男の邪悪な笑みを、決して忘れない。

 嫌な夢だった。また……悪い夢を見た。 
 照りつける太陽の光を避けるように、巨木からのびる影に身を寄せると、瑞穂はぐったりと、額の汗を拭った。 
 目が覚めたとき、目の前には誰もいなかった。不安になり、立ち上がろうとしたが、できなかった。腰が抜けていた。夢のせいで、腰を抜かしたことなど、初めてだった。誰かを呼ぼうとしたが、声すらでなかった。 
 悪い夢だった。思い出すだけでも、冷たい汗が背筋に滲んでくる。 
 ウエストポーチからハンカチを取りだして、湖の水に浸して、顔にあてた。濡れたハンカチが、火照った頬を優しく冷やしてくれる。気持ちがいい。 
 さっぱりとした顔で、瑞穂は頭を振った。その視線の先に、小さな影を見つけるまでは。 
 瑞穂は目を凝らして、小さな影を見つめた。 
 ヒメグマだった。ヒメグマは近寄ると、泣きはらしている赤い顔を、瑞穂の胸に埋めた。 
 どうしたの? 声に出そうとしたが、瑞穂の口から言葉は発せられなかった。当然かもしれない。夢ではなく、かつて現実に同様のことを体験したときは、2週間、話ができなかったのだ。 
 不吉な予感が、瑞穂の胸を突いた。夢ではなく、かつて現実に同様のことを体験したことがあるのだから。突然、理由もなく泣きわめくヒメグマヒメグマと二人きりの自分。 
 いや、決め付けるのはよくない。ヒメグマの涙にも理由があるかもしれない。杞憂であるかもしれない。 
「ど……どう……したの……? ゆかりお姉さんや、リンお兄さんと遊んでいたんじゃなかったの?」
 喉を詰まらせながら、瑞穂は胸の中で啜り泣くヒメグマに訊いた。ヒメグマは答えない。ただ、悲しげに、哀しげに啜り泣いているだけだ。 
 不安は頂点に達した。 
 ヒメグマを抱きかかえたまま立ち上がり、瑞穂は仲間達が走っていった方向を眺めた。あそこには、ゆかりもいる。自分のポケモン達もいる。野生のリングマ達もいる。 
 落ち着け。落ち着くんだ。森の奥には、ヒメグマの仲間達が大勢いるではないか。 
「そうだよ……それに、ヒメグちゃんのお母さんもいる……」 
 何も心配することなんて無いんだ、と瑞穂は自分に言い聞かせた。 
 胸の中が、ビクリと動いた。そしてヒメグマは、再び火がついたように泣き始めたのだ。 
 何も心配することなんて無い。それじゃ、なんでこの子は泣くの? 
 焦りにも似た、恐怖とも言えない、不気味な感情が心に湧き上がってきた。確かめるように、森の方を見た。そして、次の瞬間、少女は悪夢の続きを見ているような錯覚に襲われた。 
 銃声。 
 何かの爆発するような音で、辺りの空気は震撼した。 
 銃声。銃声。悲鳴。銃声。幾重もの破壊光線が、青空へとのびていく……。 
 森の奥から、信じられない音が、銃声が連続して聞こえてきたのだ。叫び声をあげ、ヒメグマは瑞穂の腕を振りほどき、森へと走っていった。 
 瑞穂も、すぐさま後を追いかけようと走ったが、蹌踉けて転んだ。起きあがったとき、既にヒメグマはいなかった。ふらふらと立ち上がり、瑞穂も森へと駆けていった。 
 駆けながら胸を押さえる。心の奥の不安が、膨張していく。何があった? 確かに森の奥から銃声が響いた。そして、そこには、ゆかりがいる。自分のポケモンがいる。野生のリングマ達、ヒメグマの母親……。 
 生い茂げ、入り組んだ木の枝をかき分け、ひたすら瑞穂は森の中を駆けた。 
 その時、何かがこちらへと、瑞穂の方へと急接近してくる。 
 危ない。そう感じて、瑞穂はとっさに横に跳び、なんとか衝突を避けた。体勢を立て直し、瑞穂は相手を見つめて、息を呑んだ。 
 鉄製の双輪車に跨った男が数人、急停車し、嘲るように瑞穂を睨んでいる。 
「なんだ? お前は……? こんな所で何をしている?」 
 顎を突き立てて、リーダー格の男は瑞穂に訊いた。手下と思しき数人の男が、双輪車のハンドルを握って、身構えている。 
「あの……、そんなことより、今の音……聞こえました? 何があったんです? と……というより、あなた達は、誰なんですか? なんのためにこの森に……。」 
 男達は一斉に笑い出した。リーダー格の男も、長い顎を突き出して、いやらしい笑みを浮かべている。瑞穂は、男の顎の先に黒いタトゥがあるのを見つけて、狼狽した。 
「その……タトゥ……」 
 リーダー格の男が、瑞穂の呟きを聞いて、顎の先端を手で撫でた。 
「このタトゥ……。知ってんのか……このタトゥの秘密を。俺達……いや、我々の正当なる裁きを」 
「なんの……ことです?」 
 小首を傾げ、瑞穂は訊いた。男は答えない。ただ、訝しげに瑞穂を見つめている。ニヤリと笑い、男は双輪車のボタンを押した。双輪車の前面から、施条銃の先端が覗いた。 
 驚いて、瑞穂は数歩、後ずさった。男は、しゃくれた顔をくしゃくしゃにして笑いだす。 
「死ねよ……。お前は、俺達を見ちゃいけなかったんだ」 
 男は、双輪車に内蔵されている施条銃のトリガーを引いた。凶弾が白煙と共に、瑞穂へと放たれる。瑞穂は、悲鳴をあげる暇も与えられなかった。 
 銃声が瑞穂の耳に届いた。だが痛みはなかった。おそるおそる閉じていた目を開く。弾丸が体に達していないことを確かめ、瑞穂は安堵の息をもらした。 
 背後から蹄の音が聞こえてくる。瑞穂は大声で二匹を呼んだ。 
「ナゾちゃん! それにポニちゃんも……!」 
 弾丸はナゾノクサの葉っぱカッターによって、くい止められていた。ポニータに乗ったナゾノクサが、草木をかき分け、瑞穂の元へと駆けつけてきたのだ。 
 ナゾノクサポニータから飛び降りると、休む暇もなく葉っぱカッターを連射した。男は巧みに双輪車を操り、葉っぱカッターを避けていく。チッと舌打ちし、呟いた。 
「くそっ……。のろまなリングマが、ここまで追ってくることはないと思ったが……」 
 手下の男の1人が、声を張り上げた。 
「ハルパス様……! どうしましょう……?」 
「撤退だ! いちいちこんな奴等の相手をしていられるかっ!」 
 リーダー格の男、ハルパスは大声で怒鳴った。その瞬間の隙をついて、ナゾノクサは葉っぱカッターを打ち出す。葉っぱカッターは、高速で回転しながら、ハルパスの脇腹を切り裂いた。 
 ハルパスは怯んだ。上空へジャンプしたナゾノクサを睨み付けると、地面へ唾を吐き捨てた。双輪車を翻し、降り注ぐ葉っぱカッターを避けながら、ハルパスは森の出口へと消えていく。撤退したのだ。
 男達が去ってから、瑞穂はナゾノクサ達に言った。 
「ありがとう……ナゾちゃん。ポニちゃん」 
 ナゾノクサは小さく頷き、ポニータの頭に飛び乗った。小さな瞳で瑞穂を見つめ、彼女は早口で語りはじめる。 
「ナゾ! ナゾナゾゾナゾナゾゾナ!」 
 ……急いで!……大変なことになっているから……。 
 なんとなく、ナゾノクサの言おうとしている意味を感じ取り、瑞穂は頷いた。ポニータに飛び乗り、瑞穂は一目散に野生のリングマ達の元へと駆け始めた。

 

○●

 鮮血が、森の木々を真っ赤に染めていた。辺りを見回し、瑞穂は、血生臭い地面を踏み越え、横たわっている野生のリングマ達に近づいた。 
「そんな……」 
 先程見た悪夢よりも非道い光景が、瑞穂の視界いっぱいに広がっている。眼を背けることは許されなかった。これは、現実なのだ。死んでいる者。傷を負っている者。血を流していない者はいなかった。
 ナゾノクサが呼んでいる。瑞穂はポニータの後を追いかけた。追いかけながら、瑞穂の顔が強張った。ナゾノクサは背中に、ポニータは脇腹に、小さいながらも傷を負っていたのだ。 
 野生のリングマ達の奥に、瑞穂のリングマと、ゆかりが横たわっている。リングマは腰から血を流しており、ゆかりは左の足の太股が激しく裂けていた。 
 泣きながら飛びついてきたグライガーを抱きかかえ、瑞穂は、ゆかりに話しかけた。 
「ユユちゃん。どうしたの? 一体、何があったの?」 
 ゆかりは青ざめ硬直した顔を横に振り、左足の傷を庇うように身を起こした。 
「こわい。こわいよぅ……」 
「うん。うん……そりゃ、そうだよ。その気持ち、わかる」 
「襲ってきたんや。変な男が……。バイクに乗ってきて……。バイクの先っぽが銃になっとって、それでリングマ達を襲ったんや……」 
 瑞穂の足下から血の気が引いてきた。さっきの男だ。突然、双輪車で襲いかかってきた、あの男。瑞穂は男の特徴を思い浮かべた。嫌らしい笑み。突き出した顎。顎の先の黒いタトゥ……。 
「ねぇ、ユユちゃん。その男の人達の中に、顎が長くて、黒いタトゥをした人がいなかった?」 
 血に濡れた左足を見つめながら、ゆかりは驚いたように目を剥いた。出血しているからか、意識が遠のいていくようで、言葉尻がぼやけてきている。 
 腰のウエストポーチから包帯を取りだして、瑞穂は、ゆかりの左足の傷を縛って、止血した。虚ろだが、恐怖に染まった眼を瑞穂の胸元に押しつけながら、ゆかりは呻いた。 
「いた……。顎に、たとぅした男……いたで……。こわいよぅ……こわい……」 
 ゆかりは震えている。瑞穂は、ゆかりを抱き寄せて、訊いた。 
「ねえ、ユユちゃん。ヒメグちゃんは、ここに来た?」 
「来たで……。そのあとな……怒ったように、あの男達を追いかけて行ったんや」 
 瑞穂は、ゆかりの指さした方向を、眺めた。 
 ヒメグマの足では、双輪車に乗った男達に追いつけるはずがない。だけど……。想像して、瑞穂の背筋が凍った。 
 ヒメグマリングマは、嗅覚が非常に発達している。双輪車の男達が、森の途中で休憩でもしていれば、ヒメグマの足でも追いつけるかもしれない。なんといっても、男達のリーダー格であるハルパスという男は、脇腹に傷を負っていたのだし。 
 だが、追いつけるだけだ。双輪車で武装した男達に、子供のヒメグマが勝てるはずがない。 
「ナゾちゃん。ユユちゃんと、グラちゃんをお願い」 
 ゆかりと、グライガーの体ををナゾノクサに預け、瑞穂は立ち上がった。瑞穂の考えを察知したのか、リングマも自分の身を省みずに、立ち上がる。 
 リングマの腰の辺りの傷を見つめながら、瑞穂は訊いた。 
「リンちゃん……大丈夫?」 
 頷き、リングマは咆哮した。出血は酷いが、それほど深い傷ではないようだ。 
 辺りは夕闇に包まれ始めている。瑞穂はリングマと共に、ヒメグマの駆け去った方向に走りだした。
「お願い。リンちゃん……。ヒメグちゃんの匂いを辿って。早く行かないと……」 
 闇が、再び自分達を標的にしたのか。6年前の悲劇が、まざまざと脳裏をかすめていく。銃声。悲鳴。忘れたい、忘れられない過去が、また増えるのか。そんなのは嫌だ。 
(やくそくだよ……、ひめちゃん。もう、泣かないで……) 
 歯を食いしばり、走りながら瑞穂は、冬我の形見である光の粉の詰まった瓶を取りだして、見つめた。 
 冬我くん……私、誰も守れない。 
 冬我くんみたいな、勇気や、力は……私には無いもの。 
(いっしょに、ねよう……。だから、もう、泣いちゃだめだよ……) 
 非力だ。……私は、誰も守れない……役立たずだよ……。 
 ……そんなことはないよ、瑞穂ちゃん。キミは、みんなを包み込む”優しさ”がある……。 
 優しさは、力にはならないよ。 
 ……力なんていらないよ。優しさがあれば、誰だって救うことができる……。 
 私は、冬我くんを救えなかった。冬我くんだけじゃない、誰も救えない。守れない。 
 ……キミのリングマは、瑞穂ちゃんに……キミに救われたんじゃないのかい……? 
 それは……。 
「ガウッ!」 
 リングマの叫び声を聞いて、瑞穂は正気に戻り、前方を見つめた。 
 泣き声が聞こえる。夕闇の奥で、消え入りそうな程の泣き声が聞こえる。 
「ヒメグちゃん!」 
 瑞穂は呼んだ。闇は、幼いヒメグマの体を食い尽くしていた。

 夕闇に照らされ、鮮血にまみれたヒメグマが、木に張り付けにされていた。小さな悲鳴をあげ、瑞穂はヒメグマを木から降ろした。ヒメグマは、既に虫の息である。赤い血がヒメグマの体から滴り落ち、瑞穂の白い腕を真紅に染めていく。 
 瞳が光を失いかけていた。左腕が、無惨にも切り落とされている。斬り落とされている。傷口から骨が覗いた。深い切り傷や、銃で撃たれた痕、殴られた痣が体中にある。 
 瑞穂は、朧気な瞳を地面へと向け、血塗れになって放置されているヒメグマの左腕を拾い上げた。地面は辺り一帯、血に濡れている。ヒメグマの血だけではないようだ。人間の血も、含まれているだろう。すこし見ただけで、瑞穂には、それがわかった。 
 数メートル先には、もみ合ったような争いの跡が残っており、切り裂かれた人間の爪先が転がっている。 
 ヒメグマを、瑞穂は抱きかかえた。だがヒメグマは、瑞穂に、人間に触れられるのを拒否するかのように暴れた。恨みと、怒りと、悲しみに満ちたヒメグマの瞳から目をそらして、瑞穂はリングマに、ヒメグマを預けた。 
「いこう。戻らなきゃ」 
 野生のリングマ達の元へ向かって、瑞穂は駆け出した。リングマも、ヒメグマを抱きかかえながら後を追いかける。背中の方から、ヒメグマの狂ったような叫び声が聞こえてきた。 
 闇だ。再び、襲ってきたんだ。あの時と同じだ。逃げられないんだ……。 
 狂気と殺気に満ちた、ヒメグマの叫び泣きから逃げるように、瑞穂は足を早めた。 
 ……殺してやる。殺してやる……。 
 泣きわめくヒメグマの叫びが大きくなっていく。瑞穂はただ、俯き、走ることしかできなかった。唇を噛みしめ、鮮血のように赤い夕焼けへと、瑞穂は駆け続ける。 
 解放されていく。瑞穂の心の中にある、何かが、解き放たれていく……。 
 だが、今は、どうすることもできない。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。