ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#9-2
#9 侵蝕。
2.或る計画
暗い部屋。もう、朝になっている筈なのに、薄暗い部屋。
妹は、そこにいた。瑞穂の妹……そう、百合ゆかりが。
うっすらと目を開けて、ゆかりは、すぐに辺りの様子をうかがった。薄暗いのと、頭がぼんやりしているのとで、よく見えなかったが、数人の人影、何か不思議な音をたてている機械などは、確認できる。
「う……うぅ……。ここは……ここは……?」
ゆかりは小さく呻いた。身体に妙な痺れがあるのだ。そして、身動きがとれない。どうして、動かへんの……? 疑問に思って、自分の身体を見つめ、ゆかりは言葉を失った。縛られていたのだ。緑色の、粘着性のゴムテープで、ゆかりは、白いベッドに縛り付けられている。身体が妙に痺れているので、実際に見てみるまで、縛られていることに気付かなかったのだ。
そうだ……! まるで火をつけたように、ゆかりの頭に鮮烈な記憶が甦った。捕らえられたのだ。このビル……このコガネ・パレスの五階に行こうとしたとき、白衣の男によって。
ここは、どこだろう? ゆかりは思った。部屋の広さ、形からして、おそらく、まだコガネ・パレスの一室にいるのだろう。そして、間違いなく、ここは五階だ。四階から微かに聞こえたテープ音が、ここで、はっきり聞こえるからだ。
ゆかりは藻掻いた。だが、どんなに藻掻いても、ゴムテープを断ち切ることはできない。叫び声はあげなかった。自分でも不思議だったが、叫び声をあげる気にはなれなかった。ここは五階なのだ。周りのビルは、廃墟と言ってもよく、誰も住んでいない。だから叫んでも無駄だ。と、ゆかりは、考えていたのだ。以前の自分では、考えられない冷静さだった。
今の自分の冷静さは、瑞穂の冷静さと、とても似ていることに、ゆかりは気付いた。いつの間にか自分は、姉の……瑞穂の影響を受けていたのだ。姉の、瑞穂の穏やかそうな顔が、笑顔が、一瞬だけ脳裏をよぎっていく。
叫び声はあげなくとも、ゆかりは激しく暴れた。汗が全身に滲んでくる。闇に隠れた人影は、ゆかりの方を見ようともしない。何かしきりに囁きあっているだけだ。
そんな時だ。あの男が……白衣の青年が話しかけてきたのは。
「あんまり暴れると、体によくないよ……」
冷ややかに、白衣の青年は言い放った。ゆかりは、青年を睨み付ける。青年は、フッと鼻で軽く笑うと、縛られた、ゆかりの哀れな姿を眺めた。
「そう言えば……私は、名前を名乗っていなかったね……ゆかりちゃん?」
ゆかりは目を剥いて驚いた。どうして知っている? どうして、私の名前を知っているんだ?
「あんた……なんでウチの名前を……」
「調べたんだよ」と、髪を掻き上げ、白衣の青年は呟いた。
「私の名前は、シグレだ。これでもロケット団最高幹部の1人なんだよ」
ロケット団の最高幹部、シグレ……。心の中で、ゆかりは呟いた。
ロケット団……! そうだ、ロケット団なのだ。暗闇に潜んでいる、怪しい人影は、皆ロケット団なのだ。
「あんたら……ここで、何しようとしてるんや?」
できる限りの冷静を装って、ゆかりは、シグレに、溜まっていた疑問を訊いた。シグレはわざとらしく、ゆかりを嘲笑うかのように苦笑した。何故か、その影には疲労の色が濃かった。
「或る計画のため、としか言えないな。まぁ、すぐにわかるさ……」
苦笑しながら、シグレは先程とは反対の腕で、髪を掻き上げた。
あれ……? 相手を睨み付けていたゆかりは、目を見張った。シグレの左腕の手の甲が、爛れていたのだ。酷い火傷の痕のように見える。事故にでも遭ったんだろうか? どんな? どんな事故に? 手の甲が爛れてしまうような、酷い事故に?
じっと、シグレは、自分を睨み付けているゆかりの表情を見つめている。逆に、ゆかりは見ていた。シグレの、こめかみに浮いた汗を。シグレの様子の変化を、ゆかりは見逃すことはなかった。……この人、なんや様子が変やな……。
慌てているように見える。悪戯が見つかったときに、必死で言い繕いをする子供のような――
たわいの無い質問を、シグレは次から次へと、ゆかりに差し向けてきた。好きな食べ物は何か? 家を出て、何をしていたか? 両親はどんな人間だったのか……?
30程度の質疑応答を終え、ゆかりが疲れ果てた頃、シグレは躊躇いがちに、組んでいた腕を解いた。そして訊いた。言葉に、異様な重みを感じて、ゆかりは身構えた。
「君の姉さんは……本当の姉ではないようだが……、名前は、洲先瑞穂と言うんだね?」
「そうやけど……」
あっさりと、ゆかりは答えた。どうして姉の名前を知っているの? などとは思っていなかった。どうせ調べたのだろう。それよりも、シグレの表情が、どうも不自然に見えてならない。
「どんな……洲先瑞穂の、身体的特徴……とかを、言えるかい?」
「うーん……。髪は水色で、色白で、ちっちゃくて……」
ゆかりは、今までと同じように、怖ず怖ずと質問に答える。
シグレの表情は、青ざめていた。怒っているのではない。恐怖に打ちひしがれているように見えた。
「眼が、めっちゃ綺麗で、澄んどって……。そう言えば……心臓が弱いみたいやった……」
怪しみながら、ゆかりは、真っ青になっているシグレの表情を、つぶさに観察した。
首を振り、空咳をしながら、シグレは平静を装い、さらにゆかりに訊ねた。
「もういい。それより君は、妙に落ち着いているが……恐くはないのか?」
意外な質問だった。恐くないと言えば、嘘になる。恐いに決まっているではないか。ゆかりは、恐怖に負けないように、わざと元気を出しているのだ。それに……。
「お姉ちゃんが、助けに来てくれる……。ウチは、そう信じてるんや。あんたなんか、すぐにお姉ちゃんに、ボコボコにされるんや!」
瑞穂が来てくれる。助けに来てくれる。ゆかりは自分に、そう言い聞かせながら、一気に息巻いた。自分に、そう言い聞かせなければ、恐怖で気が狂いそうになるから。結局は、所詮は、気休めに過ぎないのだ。
震えが襲ってきた。瑞穂のことを思い浮かべた途端、急に今、自分が置かれている状況を意識し始めたせいだ。
唇が、思うように動かなくなってきた。息苦しくもなってきた。
……本当に、お姉ちゃんが助けに来るとでも思っているんか? ゆかりは考えていた。違う。来るはずがない。自分のことを、助けにこれる筈などないのだ。そもそも、どうやって、ここまで辿り着くんだ?
いつのまにか、ゆかりは、シグレを直視することすらできなくなっていた。
出し抜けに、彼は……シグレは、ゆかりにわざと聞かせているかのように、呟いた。
「偶然だな……。これは」
「な……なにが、偶然やの……?」
ゆかりは訊いた。シグレの頬が、少しだけひきつった。企みが成功したときのような、笑みに似ていた。数歩、ゆかりの方へと踏み込み、じっと、少女の怯えたような表情を見据えた。
「君のことを調べているうちに、面白い偶然を見つけたからさ」
微笑を浮かべながらも、シグレはどこか落ち着きがなかった。目が据わっている。
「君の『本当の』姉さんのこと……百合ほたる、という名前のようだが……覚えているかい?」
きょとんとした様子で、ゆかりは思い起こした。自分の『本当の』姉のことを。
「覚えとるで。ほたる姉ちゃん……。医療ミスで死んだ……ほたる姉ちゃん……」
「医療ミス……?」シグレは、首を傾げた。「誰が、そんなことを……?」
「母さんが」
なるほど、とシグレは苦笑した。人差し指を一本たてて、諭すように、ゆかりに語りかけた。
「君の姉さんは、馬鹿で責任能力なんて、これっぽっちも感じちゃいない病院の凡ミスで死んだわけじゃない。どういうことだと思う? 真実は違っていたんだ。少なくとも、君にとっての真実は間違っていたんだ」
言い切って、シグレは得意そうに、ちらりとゆかりの方を見やった。当惑しきった表情で、ゆかりは返事もできずにいた。頬に冷たい汗を滲ませながら、シグレは続ける。
「君の姉さんは……殺されたんだよ」
目を見開き、ゆかりは跳び上がった。もっとも、ゴムテープで体を縛られていたため、ガタリと白いベッドが大きな音をたてて、微かに動いただけなのだが。
「どういうことなん? 姉ちゃんが『殺された』って、どういうことなんや? なぁ……」
片手でゆかりを制し、シグレは囁くように、言った。
「3年前の『トキワ総合病院薬物混入事件』を知っているかい?」
当時4歳だった、ゆかりが知っているはずもない。当然、首を振った。
「そうだろうね。君のお母様は、あえて本当のことを言わなかったようだし……。3年前、トキワシティの、とある総合病院で、何者によって点滴に多量の不整脈用剤を混入されるという事件があったんだよ。13人の死者まで出た。結局、犯人は未だに見つかっていないし、その総合病院は、安全管理……特に薬品管理のズサンさを暴露され、評判が下がり、潰れた。君の姉さんはね、その薬物混入事件による、34人の被害者の内の……13人の死者の内の、1人なんだよ」
ゆかりは俯き、驚いていたが、それほどの衝撃は受けていないようだった。事故であろうと、殺されていようと、今、姉が存在しないことに、変わりはないのだから。そんなことを今さら知ったところで、どうしようもないと、ゆかりは思っているのだろう。
だが、シグレが次に発した言葉は、ゆかりに強い衝撃を与えた。
「事件の舞台となった、総合病院の名前は、トキワ・洲先クリニックというんだ」
ゆかりの眉が歪んだ。自ずと導き出されてくる答えに、動じていた。
「それって、まさか……」
「そう、洲先クリニックの院長の名前は、洲先祐司。そして、彼の一人娘の名は、洲先瑞穂――」
沈黙が落ちた。ゆかりは何の言葉も発さずに、宙を見つめている。
「そうさ。洲先瑞穂は、君の姉さんを殺す原因となった病院の院長の娘は、君の『今の』姉さんなんだよ」
ゆかりは何も言わない。いや、何も言えない。
シグレが畳みかけるように呟いていた。興奮からか、恐れからか、声が震えていた。
「すごい偶然じゃないか、これは。……いや、もしかしたら、君の『今の』姉さんは知っているんじゃないのか……?」
ゆかりは、ハッとした様子で、シグレを見上げた。
「それって……どういう……」
「洲先瑞穂は偶然、君と出会った。そして、君の本当の姉さんが、あの事件の被害者であることを知ったんだ。瑞穂は思ったんだろうよ。両親も姉も失った、ゆかりちゃんは可哀相な女の子……それも自分の父親の病院の、安全管理が滅茶苦茶だったのが原因なんだ。可哀相。かわいそう……。私のパパが悪いのにぃ……ってね。だから瑞穂は、この哀れで惨めで、とってもとっても可哀相なゆかりちゃんの、お姉さんを演じてあげようと決めたんじゃないのか? 写真を見たよ。優しそうで、お人好しそうな『お姉さん』じゃないか……」
ゆかりの足先が震えていた。顔面は蒼白で、血の気が引いている。
……ウチがカワイソウやから……姉の役を演じてた……。
してやったり。シグレのニヤつきが、彼の心情を物語っている。
泣いていた。ゆかりは、震えながら、悔しさに身を奮わせながら、泣いていたのだ。そんな。そんな。そんな。瑞穂に限って、そんなことはありえない。だが、見ず知らずの子供の姉を、何の理由もなく演じるなんて、どう考えてもおかしい……。ウチのことが、カワイソウやったから、惨めやったから、哀れやったから……。
頭の中が、白い何かに侵蝕されていくような気がした。頬を涙がつたっていく感覚が、遠く、白い闇の奥へと消えていった。
シグレはニンマリとした。ゆかりに投与した睡眠薬が、いいタイミングで効力を発揮したからだ。手袋をはめ、シグレは薄笑いを浮かべながら、意識を失っているゆかりの首筋に手を回した。手にした小さな四角い機械を、ゆかりの首筋に押しつける。ガチャリ、と音がした。
ふぅ、と息をはき、シグレは舐めるように、ゆかりの全身を見つめる。
ちゃんと喋った。記憶もある。暴走もしない。本人は気付いていない。誘導も上手くいった。
「処置は完了。久々の成功だ……。やっと工面できた」
「はい、これが、ゆかりちゃんの家の住所を書いたメモ」
コガネ中央病院のロビーで桃谷望は、瑞穂に、ゆかりの家の住所を書いたメモを手渡した。
桃谷望は、大学入学以来の瑞穂の親友であり、コガネ中央病院で内科医助手の仕事をしている。
瑞穂は以前、ゆかりの母が、この病院に入院していたことを思い出したのだ。
望からメモを受け取り、瑞穂は、はぁはぁと息を吐きながら、礼を言った。
「ありがとう、望ちゃん。さっそく、行ってみるね」
瑞穂は一礼し、出口に向かって駆けていく。望は声をあげ、少女を遮った。
「ちょっと待って! 瑞穂ちゃん」
どうしたの? 感情を表情に無防備に晒し、瑞穂は振り向いた。小さく小首を傾げている。
「瑞穂ちゃん……疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「そうかなぁ。私は、別に大丈夫だけど……」
不安そうに瑞穂の顔を覗き込みながら、望は呟いた。
「でも、あんまり顔色がよくないわ。だいぶ、無理をしているんじゃないの? 無理は禁物だよ。瑞穂ちゃんは、心臓が弱いんだから。瑞穂ちゃんのお母さんだって……」
軽く唇を噛み、瑞穂は、呟くように望に言った。
「わかってる。私のママは、二十歳で死んじゃったんだっけ……」
瑞穂の母。洲先雪菜は、10年前、瑞穂を産む際に、遺伝性の心疾患で亡くなっている。結婚するまで雪菜は、小学校の教師をしており、当時7歳だった望と一緒に遊んでもらったことがあったので、よく知っているのだ。産まれてきた瑞穂に、雪菜と同じ心疾患があることも知っている。
俯いた瑞穂の肩を、望は優しく掴んだ。小さく、何度も頷いている。
「あのね……。この間、精密検査したでしょ?」
「結果、出たんだ」
「うん。出たよ」
「さっきまでの望ちゃんの話を聞いてると、あんまり良い結果は出なかったんだね?」
首を縦に振り、望は立ち上がった。瑞穂が、望の顔を見つめるためには、見上げなければならなくなった。
「とにかく、無理しちゃ駄目よ」
「無理なんて……してないよ」
「うそ。さっきだって、走ってきたみたいじゃない。顔色は悪いのに、息切れしているし……」
瑞穂は、じっと望の顔を見つめている。つぶらで澄んだ瑞穂の綺麗な瞳に、望は魅入っていた。年齢こそ違っているものの、瑞穂は、母親である雪菜と瓜二つなのだ。
かわいいな……。柔らかそうな白い頬。水色に輝く左右のポニーテール。頼りなさげで華奢な体躯……。
「大丈夫だよ。約束する、無理はしないから」
瑞穂は言った。望は、瑞穂の頭を撫でて、微笑んだ。
「ところで瑞穂ちゃん。大樹くんには会った?」
「え? ううん。明日くらいに会おうと思っているんだけど……。この街にいるんだったよね?」
塚本大樹とは、望と同じく、瑞穂の大学時代の男友達である。6歳も年齢が離れているが、瑞穂との2人の関係は、まるで恋人同士のようだと、昔、望にからかわれたことがある程、仲がよかったのだ。
「でも、今、それどころじゃないの。早くユユちゃんを探さなきゃ……」
もう一度礼を言い、瑞穂は、病院の出口へと駆けていく。望は、手を振りながら、瑞穂を眺め、呟いた。
「頑張るのはいいけど、無理はしないでね……」
望から受け取ったメモには「コガネシティ2-52区、コガネ・パレス402号室」と書かれていた。そして今、11時12分、瑞穂はコガネ・パレスの402号室の中にいる。
見れば見るほど、ゆかりには悪いが、コガネ・パレスはボロボロのビルだった。灰色に濁った壁にはひび割れがあり、歩けば、今にも崩れ落ちそうな程、床が揺れ、埃が舞う。「パレス」とは名ばかりではないか。「宮殿」の名が、聞いて呆れる。
望によれば、コガネ・パレスは数週間前に、とある業者がビルごと買い取り、それ以来、誰も住んでいないそうだ。それだけに、勝手に忍び込むのは、どうかと瑞穂は迷ったが、人の気配がないので、怒られるのを覚悟で入り込んだというわけだ。
忍び込んでみて、不思議に思ったのは、業者が買い取ったというわりに、ほとんど業者の手が加わっていないようなのだ。……何のために、買い取ったんだろう? そもそも、どうして、こんな今にも崩れそうなビルを買い取ったんだか……。首を傾げるしかない。
瑞穂は辺りを見回した。402号室、かつて、ゆかりが家族と一緒に住んでいた部屋。ふと、学習机に目が止まった。ゆかりの机だろう。薄汚れた茶色い学習机は、散らかっていたが、ゆかりなりに整頓されているのかもしれない。「かってにさわるな!」と子供の字で、紙が張ってあるのだ。
思わず、瑞穂は微笑んだ。「かってにさわるな!」とは、いかにもゆかりらしい。紙を手にとって眺めていると、分厚い本が、パサリと落ちてきた。落ちた本を見つめ、瑞穂はかがみ込み、手に取ってみた。赤い表紙に、手書きで「あるばむ」と書かれている。なるほど、アルバムか……。躊躇いがちにページを捲ってみた。ゆかりが知ったら「触るなって、書いとったやろ!」と怒られそうだ。
写真の中で、ゆかりは笑っている。今よりも幼い。幼稚園児くらいの年頃だ。隣にいるのは、母親だろう。葬儀の時に遺影を見たので、覚えていたのだ。子宮破裂の手術中に、ゆかりの母親は、原因不明の停電によって、胎児ともども死んだのだ。
母親の肩に手をかけているのは、おそらく、ゆかりの父親だろう。ゆかりの姉が、つまり彼にとっての娘が、病院の医療ミスで亡くなって以来、酒浸りになり、アル中で精神科の病院に入院させられ、行き過ぎた懲罰によって、命を落とした。殺されたのだ。
そして、ゆかりと仲良く手をつないで微笑んでいる女の子が、姉なのだろう。
「あれ……。この子……」
瑞穂はアルバムの写真の中の女の子に、視線が釘付けになった。どこかで逢ったことがある……?
だいぶ昔だ。トキワシティで……そうだ、あの日だ。手術が成功した日だ。一緒に喜んでくれた。
(よかったね。退院したら、一緒に遊ぼうよ。私、妹がいるんだ……)
名前はなんて言っただろう。思い出した。ほたる……『ほたるちゃん』だ。名字はなんと言っていたっけ……。ゆり。そうだ、百合ほたるちゃんだった。
恐ろしいほどの偶然に気付き、瑞穂は思わず手に持っていたアルバムを落としてしまった。アルバムを拾い上げ、元の場所に戻したとき、体に震えが起こった。
……ユユちゃんは、このことを知っているのだろうか……?
ゆかりは、姉の、百合ほたるの死んだ経緯を、医療ミスと言っていた。恐らく両親が、そう教えたのだろう。感情の高ぶったまま、ゆかりの住んでいた部屋を、一通り見渡し、外に出た。
風が生温い。額に浮いた汗を気にもとめずに、手すりに掴まり、空を見上げる。息を吹き、瑞穂は首を振った。それよりも、今は、消えたゆかりを探し出すことの方が先決なのだ。この残酷と言ってもいい偶然については、ゆかりを探し出した後で話せばいい。
ゆっくりと玄関を振り向いて、瑞穂は考えた。私が来たとき、鍵はかかっていなかった……。
ふと、足もとの植木鉢に目がいった。萎れた草が、惨めに生えている。
「この植木鉢……動かした跡がある……」
植木鉢を動かした部分には、埃が積もっていないのだ。恐らく、つい最近に、何者かが植木鉢を動かしたのだ。誰が? 何のために……?
瑞穂は、すぐに答えを見つけた。……鍵を見つけるために、植木鉢を動かしたんだ……。
子供のために、親が鍵を植木鉢の下に隠しておくことは、よくあることだ。そして、植木鉢の下に鍵が隠してあるのを知っている人物は、もう1人だけ。ゆかり以外にいない。
「やっぱり、ユユちゃんは、ここに来たんだ……」
その時、足音が、瑞穂の耳に届いてきた。階段の方から響いてくる。ゆっくり、ゆっくりと、こちらに、瑞穂のいる方に近づいてくるのだ。瑞穂は振り向き、身構えた。誰かが来る。こっちに向かってやってくる。
間違ってもユユちゃんじゃない、と瑞穂は確信していた。ゆかりは、こんなにゆっくりと階段を上ったりしないからだ。いつも、いつでも、全速力なのだから。
足もとを踏みしめ、息を殺して、足音の主を、瑞穂は待ち構えた。だが、足音は4階を通り過ぎ、上へと移動していく。瑞穂は休む暇もなく、足音を追いかけた。
「待って。待ってください!」
思わず瑞穂は声に出して、相手を呼び止めた。相手の足が止まる。足音が止んだ。上方にいる、足音の主である相手の背中に、瑞穂は見覚えがあった。
「あ……あなたは……」
相手は振り向いた。射水 氷だ。以前、瑞穂が洞窟で出会った、不思議な少女だ。
長い紫色の髪を振り乱して、射水 氷は冷たい虚ろな瞳で、瑞穂を見つめながら訊いた。
「なに……?」
細く、弱々しい声だった。普段、あまり喋ることに馴れていないのだろう。氷も、瑞穂に見覚えがあるようで、驚きながら、しかしそれを表情に出さずに呟いた。
「あなた……、たしか瑞穂……ちゃん……」
「うん、瑞穂。あの、氷ちゃん……だったよね、ここで、何をしてるの?」
瑞穂の問いかけを無視し、氷は五階へ向かうため、階段を上った。無視されたためか、すこしだけ肩を落として、瑞穂は氷の後を追いかけていく。
五階についた。四階と同じように、4つの扉が規則正しく並んでいる。無表情のまま、4つの扉を眺め、氷は苛立ったように呟いた。
「何号室なのよ……」
「へ? 今、なんて……」
言ったの? と氷の隣に立っていた瑞穂が訊く間もなく、爆音が響いた。瑞穂は、口をあんぐりと開けたまま氷を見た。氷は、501号室の扉を、ぶち破っていたのだ。
「あの……氷ちゃん……」
何がしたいの? だが、また訊けなかった。今度は、502号室の扉が、吹き飛んだ。結局、もう一度、別の扉を破壊し、氷と瑞穂は503号室の中へと入った。
「壊して、怒られない?」瑞穂が訊く。
「怒りたければ、怒ればいいわ」
薄暗い部屋の中を、手当たり次第に物色しながら、氷は適当に答えた。一冊の白い冊子に目をやり、手に取り、目を通していく。目を細めて氷は、隣でどぎまぎしている瑞穂を、睨み付けて、訊いた。
「今、何時か、わかる?」
「え?」
一瞬だけ当惑したが、瑞穂は、すぐに腕のポケギアに表示された時刻を読みとった。
「11時……25分だけど」
氷は舌打ちした。思わず、瑞穂は後ずさった。手に持った冊子を懐にしまい込むと、氷はさっさと部屋を出ていく。瑞穂は、慌てて後を追いながら、叫んでいた。
「待って……。ごめん。ちょっと、私の話を聞いて」
足をとめ、氷は瑞穂の方を振り向く。溜息をついたようだが、不気味なほど表情に変化はない。
「時間がないの……」
言われたが、瑞穂は負けじと食いつく。
「歩きながらでも、いいから」
「走りながらよ。それと、五分以内に済ませてね……」
瑞穂は大きく頷いたが、氷が身を翻し、突然駆け出したのを見るや、すぐさま後を追いかけた。ビルを出た。街道を、瑞穂は息を切らせながら走り、氷に、消えたゆかりのことを話し始めた。
ラジオ塔は、嵐の前の静けさに包まれている。だが、彼は……シグレは、そんな安易で低次元な比喩を嫌っていた。
局長室で、時がくるのを待っている間、彼はじっと考えていた。……これから、どうするべきか……。
この計画のために潜り込ませた、偽の局長が心配して話しかけてきた。
「どうしたのです? 何か、考え事をしているようですが?」
シグレは不機嫌そうに振り向くと、黙っていろ! と叱咤した。偽の局長は竦んで、黙り込んでしまう。
ちょうど同時に、計画の実行主任である、一位カヤが局長室に入ってきた。カヤを見て、シグレは、さらに機嫌を悪くした。こんなときに、こんな女の顔など見たくもない。
彼女は実力はあるし、決して不美人なわけでもない。だが、性格が劣悪なのだ。以前、カヤの上にいた幹部など、ノイローゼになり、しまいには胃潰瘍で入院したくらいである。そもそも、シグレの『最高傑作』である、『あの少女』が組織を脱走したのも、カヤが、少女を徹底的に虐め抜いたからなのだ。あの時、少女が自殺しなかったのが、不思議なくらいである。
「あと、15分ね。準備は万端よ」
カヤはそれだけ言い放つと、慇懃に頭を下げ、局長室を後にした。偽の局長は、カヤに怯えていたようで、座り込んだまま震えている。
シグレは、この男が、偽の局長が急に目障りになってきた。重要なことを考えているときに、邪魔な男だ。
カヤを呼びつけ、シグレは不機嫌そうな眉を男へ向けた。偽の局長は、再び震え上がる。以前、上官を殺した疑いをかけられたこともあるカヤは、組織の中で、相当恐れられているのだ。小心者の、偽局長が、怯え震えるのも無理はない。
「目障りになった。消せ」
それだけ命ずると、シグレはカヤから目を背け、窓からコガネシティの街並みを見下ろした。カヤは笑みを浮かべながら、恐れおののく偽の局長に、手を振り上げる。
絶叫が響いた。助けてください。死にたくないです。死にたくないです。……閃光が、彼の言葉を掻き消した。
気がついたときには、カヤの姿は消えていた。偽の局長が、頭から煙をだしている。醜く焦げた顔の穴という穴から、沸騰した血が吹き出した。男は、絶命していたのだ。
ここまでくれば、この男は用済みだったのだ。そう思いながら、シグレは腕を組んだ。左手の甲の、ケロイド状の火傷の痕が目に付いた。窓の外へと視線をそらす。
そう、シグレは考えていたのだ。恐ろしいほどの偶然の奥に潜んだ、危険性を。
生きていた。と、シグレは頭の中で呟いた。生きていたんだ、あの女は……。自殺した筈だった。だが、生きていた。しぶとく、生き残った。34人の中で、唯一、正常なまま生き残ったのに、さらに、まだ生きていたとは……。
まるでゴキブリポケモンのような生命力ではないか。いや、死んだ筈だ。あの女は、確かに死んだ筈なのだ。自宅の庭で、首を吊って、惨めに、哀れに、自殺した筈なのだ。洲先瑞穂は……!
完全に計算が狂った。それもこれも、洲先瑞穂が生きているからだ。死んでいなければならなかったのだ……。
シグレの額に、脂汗が滲んできた。最悪の予測をしてしまったからだ。知っているかもしれない。洲先瑞穂は、『あの秘密』を知っているかもしれない……。いや、それはない。と頭の中で否定した。知っているなら、とっくの昔に行動を起こしているはずだ。洲先瑞穂は『あの秘密』を知らない。だが、危険だ。このまま生かしておくのは危険すぎる。もしも彼女が父の失踪の謎を調べ始めたら、もしも彼女が、あの事件について調べ始めたら……。
やはり、危険だ。洲先瑞穂は。……殺すしかない。
どうやって殺す? 『影の妖星』に殺らせるか? 駄目だ。目立ちすぎる。もっと地味に、怪しまれないように、不可抗力だと思わせるためには……。
窓の外の人影を見つめながら、2人の少女が、ラジオ塔に近づいてくるのが見えた。
「あの子供は……」
洲先瑞穂だ。間違いない。3年前の写真とあまり変わっていない。
シグレは、笑みを堪えることができなかった。隣のソファで眠っている、百合ゆかりの寝顔を見つめ、歯を剥き出しにして笑った。
こいつを使おう。そして、洲s会瑞穂を殺す。なんて私は運がいいんだ……!
『悲劇』の演出家は顔を擡げ、或る計画へのゴーサインを出した。演劇のタイトルは、そう、『妖獣の叫び』と名付けよう。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。