水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#13-1

#13 断罪。
  1.終わり無き罪

 

 辺りは干からびていた。
 日の光は、容赦なく降り注いでいる。
 水を失い、木も草も萎れ、黒々とした岩の露出だけが目立つ。荒んだ大地は、まさに荒野と呼ぶに相応しく、生き物の気配さえも消え失せていた。
 焦げるような静寂のなかで、微かな物音が響いた。刃が空気を切り裂き、震わせる音だ。枯草の中央から、波紋を広げるようにして、草木を靡かせている。中には、音の振動に耐えきれず、細切れになる草も少なくなかった。
 彼は、音の波紋の中心に立ち尽くしていた。細く流線型の身体についた研ぎ澄まされた鋏が、小刻みに震えている。この震えが、空気を揺り動かし、辺りへと響かせている。
 その鋭く紅い瞳で、彼はじっと一方向を見つめていた。瞬きすらせず、顔を微動ださせずに。
 視線の先に渦高く積み上げられていたのは、沢山の首の無い屍体。身体の無い首。岩にこびり付いた大量の血の跡。
 それらはすべて乾ききっており、まるでミイラのように萎んでいた。もはやポケモンだったのか、人間だったのかも分からぬ程、原形からは程遠い形へと変化している。だが、身体のない首に張り付いた表情だけは、骨と皮だけになっても、まだ生きていた。まだ、何かを語ろうと口を半開きにしたまま固まっていた。
 彼は、紅い瞳を細めた。瞼の隙間から、細々と光が漏れている。
 風が跳ねた。枯草が一斉に舞い上がり、彼の姿を隠した。やがて、ヒラヒラと舞い落ちていく草の破片。だが、その中に彼の姿は無かった。
 何かを語ろうとしていた屍体の表情は、二つに割れていた。切り裂かれていた。
 治まらぬ風だけが、彼の言葉を響かせている。
「俺は、忘れない――」

 

○●

 屍体の山が眼前に広がっていた。臭いはない。だが、一瞬だけ少女は目をつむり、顔を背けた。止まってしまいそうな自分の鼓動を掌で感じながら、少女はゆっくりと目を開き、屍体の山へ視線をやった。
 それらは完全に干からびていた。何週間もここに放置されていることは容易に想像できた。冷たくて重いものが胸の奥を駆けめぐっている。首筋を伝っていく冷たい汗が、それを増幅させる。
 掠れそうな声で呟く。
「なんなのよ。これ……」
 少女は屍体の山に背を向け、逃げるように立ち去っていった。

 

○●

 同じ頃、彼は眠りについていた。夢を見ていた。忘れられない過去を、掘り起こしていた。
 呻くような、唸るような彼の寝息を聴きながら、老人は紙のように薄い笑みを浮かべ窓の外を眺めていた。
「夢は第2の人生と呼ばれるが、お前の夢は現実よりも現実に近いのだろうな――」
 老人は椅子に座り、細く異様に長い指で彼の瞼に触れた。まるで、まじないでもするかのように。

 

○●

「ここよ、ここ!」
 ミルは自動車ほどの大きさの岩を駆け上り、眼前に広がる枯草の中央を指さした。
「見える? 瑞穂ちゃん」
 瑞穂は息を呑み、無言のままで首を上下に動かした。唇の端を噛みしめ、微かに目を細める。
 黙り込む瑞穂を心配したのか、ゆかりは下から恐る恐る、動かないその表情を覗き込んだ。ゆかりの瞳に映った瑞穂の顔は凍りついていた。今にも崩れてしまうのではないかと疑ってしまうほどに、嫌悪感で歪んでいた。
「お姉ちゃん。何が見えるん?」
「ユユちゃんは、見ない方がいいと思うな」
 ”それ”を目の当たりにしてから、初めて瑞穂が口を開いた。まるで自分自身に呟いているような、小さな声だった。
「また、屍体なん?」ゆかりが訊く。
 先程と同じように瑞穂は頷いた。壊れた機械仕掛けの人形のような、不安定な動きだった。そのまま姉は、本当に壊れてしまうのではないかという危惧を、ゆかりは瑞穂の顔から目をそらすことで握りつぶした。
「屍体なんてもんじゃないよ!」ミルが口を挟む。
「なんて言うかね。もう、腐ってるとか言うレベルじゃなくて……」
「ミルちゃん!」
 瑞穂の強い口調に気圧されるように、ミルは押し黙った。
「もう、そんなに怒んなくてもいいじゃん」
 ミルの言葉を余所に、瑞穂は胸元に手をやりながら、屍体の山を見つめ続けていた。見つめる時間に比例するように、かつての記憶が脳裏に甦ってくる。それと同時に浮かんでくる言葉。不可解で、理不尽なそれは頭の中で何度も何度も反響した。
「リリィとライム――」
 意味不明な瑞穂の呟きに、ミルとゆかりは一様に首を傾げた。
「あん? 何それ」
「お姉ちゃん、何やの? そのリリィとライムっちゅうのは」
 瑞穂は俯いて、首を横に振るだけだった。
「え? いや、なんでもないよ。それより私、これと同じような屍体を、前にも見たことがある」
「そや。たしか、ウバメの森で――」
 屍体の山に背を向け、瑞穂は岩から飛び降りた。ミルもそれに続く。
「とりあえず、いったんポケモンセンターに戻ろう。話はそれから」

 

○●

 彼は目を開いた。
 おもむろに立ち上がり、左右を見渡す。辺りには、電子機器のようなものが無造作に置かれていた。時折、所々が光を発し、独特のビープ音を鳴らす。銀色のボディは赤みを帯びていた。彼の瞳から洩れる光が反射しているのだ。
 一歩、足を踏み出す。タイルでできた床が、冷たく堅い音を辺り一帯に響かせる。
「やっと、お目覚めか?」
 彼が動き出すのを待っていたかのようなタイミングで、声が聞こえた。年老いた男の声だった。
「柊博士か……」
 柊と呼ばれた白髪の老人は、口の端をひきつらせ、笑った。その表情に浮かび上がるのは、醜く刻み込まれた皺と、それらが生み出す陰影だけだった。本来、表情と一緒に滲み出てくるはずの感情は死んでいた。形だけの笑顔。
「お前の最近のデータを参照してわかったのだが、どうも睡眠時間が長くなっている。脳波も不安定な状態のようだが、何かあったのか?」
「いや……問題はない」
「そうか。それならば、いいのだがな」
 彼は、一瞬だけ何かを躊躇うように柊から目を背けた。だが、老人は彼の不自然な素振りを見逃しはしなかった。何故なら、彼の思考から癖にいたるまで、柊は知り尽くしているのだから。
「お前、何を隠してる」
「別に隠しているわけじゃない」
「何だ」
 視線を再び柊へと向けると、彼は呟くような小さな声で言った。
「あいつと会った」
「あいつ? まさか――」
「そうだ。リリィと会った。俺が殺したはずなのに、あいつは生きてた」
 柊はしばらくの間、固まったように動かなかった。老人が思惟しているときのポーズである。硬直が解けたのは、それから2分ほど経過してからだった。
 出し抜けに柊は、彼に問いかけた。
「で、どうするね? お前はもう一度、彼女を殺すのか?」
「当然だ」
 彼の答えには、一片の嘘も迷いも含まれてはいなかった。それが、自分の使命であるかのように。
「それが、俺の甦った理由だから」
「そうだ」
 柊は軽く相槌をつくと、それきり何も言わなかった。もう何も言う必要はなかった。すべては計画通りに進んでいるのだから。

 

○●

 スリバチ山の梺は、避暑地として観光客に人気の場所である。特にこの季節は、豊かな自然と綺麗な空気を求めて、都心部よりかなりの人数が押し寄せる。
 当然、一般の宿泊施設は満員となる。一般の宿泊施設とは異なるポケモンセンターであっても、その例外ではない。沢山の人でセンター内はごった返していた。
 トレーナーのふりをした観光客の間をすり抜けるように歩き、瑞穂はパソコンの前へと座った。検索ホストへ接続し、検索フォームへ文字を入力する。
「ねえ、瑞穂ちゃん」
 隣からぐいとディスプレイを覗き込みながら、ミルは訊いた。
「結局なんなのさ、その”リリィ”ってのは」
「私にもよくわからないよ。ただ、どうもナゾちゃんの本当の名前らしいの」
 理解できん、とばかりにミルは肩を竦めた。
「だからさ、瑞穂ちゃんナゾノクサと、あの屍体がどう関係あるのよ」
「お、お姉ちゃん。声が大きいで」
 ”屍体”という言葉に反応したのか、数人の観光客がぎょっとしたような目つきでミルを見つめていた。怪しむようにまじまじと見つめるものもいる。
 周りの視線を避けるように人々へ背を向け、ミルは少しだけ声を落とした。
「その辺り、ちゃんと説明してくんないとわかんないじゃん」
 瑞穂は画面を凝視しながら、”リリィとライム”の意味について語った。ウバメの森で見つけた無数の屍体とナゾノクサのこと。エンジュシティで突然、襲いかかってきた人間の言葉を話すハッサム――ライムが、ナゾノクサのことをリリィと呼んでいたこと。
「それじゃ、さっきの屍体の山は、そのライムっていう名前のハッサムの仕業なわけ?」
 インタフェイスを操る手を休めずに、瑞穂は頼りなさげな頷きをミルへと返した。
「たぶん。あの切り口は、ウバメの森で見た屍体にあったのと同じだった。そして、エンジュシティで襲ってきたハッサムのものとも」
 ミルは顔を上げ、疑い深げな表情で首を回した。
「それにしても信じらんないな。人間の言葉を話すポケモンなんて」
「でも、本当だって」
 その時、瑞穂の白い脇の下から、ゆかりがひょっこりと顔を出した。
「ウチも信じられへん」
「ユユちゃんまで……」
「大体、信じろっていう方が無理よ。なんか証拠でも見せてくれないと」
 深々と溜息をつき、瑞穂は項垂れた。
「だから今、それを調べてるの」
 そう言うのと同時に、ディスプレイは無数の文字の羅列を表示した。その中で”リリィ・エルリム”の文字だけが、太字で表記されている。ライムと呼ばれたハッサムは、ナゾノクサをその名で呼んでいたのだ。
 瑞穂は抽出された文字の羅列を睨み付けるように見つめた。ゆかりとミルは、そんな瑞穂の横顔を、緊張した面持ちで眺めている。
 息を呑む音がした。瑞穂の指先が止まる。二人は即座に、ディスプレイへと視線を滑らせた。
「人間や。それも女の人――」
 画面には、小柄で細身の少女の写真が映しだされていた。童顔の瑞穂はもとより、ミルよりも年上のように見えるのは、大人びた顔つきのせいだろうか。それとも――と、瑞穂は思った。
 子供とは思えないような、表情のない顔に映りこんだ、悲しげな陰のせいだろうか。
 そんなことを考えながら、低く静かな声で、瑞穂はディスプレイに映しだされた文字を読み上げた。
「リリィ・エルリム、11歳。エルリム家の一人娘……」
 そこまで声に出して言った途端、隣で同じようにディスプレイを見つめていたミルが声をあげた。金切り声に近く、冷静さの欠片も残されていない叫びだった。ややあって、破裂し萎んでいく風船のように、ミルの声が落ちていく。
「う、嘘でしょ、嘘よ……」
「え? どうしたの、ミルちゃん」
 ミルの冷や汗に満ちた表情をチラリと見やり、瑞穂は囁くように訊いた。ミルは答えない。焦点を失った瞳が、文字の羅列を延々と眺めているだけ。
 瑞穂の瞳は、ミルの視線の先を追いかけた。
「高速客船グラシャラボラス号に搭乗。同号の沈没により、現在も行方不明」
 瑞穂は一瞬だけ絶句した。頭の中を整理するように、もう一度、同じことを呟く。
グラシャラボラス号に乗って、行方不明……」
 ゆっくりと顔を動かし、瑞穂はミルを見やった。こめかみに浮いた汗を腕で拭いながら、ミルは視線をあさっての方へ投げた。
「何よ、何がいいたいのさ」
「あ、いや、別に何も――」
「嘘よ。じゃ、なんでそんな遠慮がちに、こっち見るわけ?」
 下唇を噛み、ミルは少しだけ苛立っているようだった。恐らく、船の名前など聴きたくもないし、思い出したくもないのだろう。瑞穂は視線を合わすことなく言葉を返した。
「ごめん。それじゃ訊くけど、知ってる? そのリリィって女の人のこと」
「知るわけ無いじゃん。あの船に、何人乗ってたと思ってるの?」
「え、と、たしか49人だったかな」
「でしょ。そんなに人が乗ってんのに、いちいち覚えてらんないよ」
 苛立ちを紛らわすように溜息をつき、ミルは後ろへ倒れながらソファに横になった。クッションが、ばふんと音をたて、埃を舞い上げる。
「だよね」瑞穂の声には、諦めの色が強く滲んでいた。
「でも、あの顔は――」ミルは呟くと、跳ね上がるような勢いで上半身を起こした。衝撃でクッションが床に落ち、埃をさらに撒き散らす。周りの観光客は、迷惑そうにミルを睨んだ。
 瑞穂とゆかりは思わず、ミルとの関わりを避けるように、画面へと視線を移した。怒りの矛先が、自分達にまで向けられては困るからだ。
「なんとなく、覚えてるよ。名前とかは知らなかったけど、えーとね……」
 足をバタバタさせながら、ミルは天井をじっと見上げた。あの時の、グラシャラボラスで見たことを、強引に隅へと追いやっていた記憶を、無理に思いだそうとしているのだろう。
「うん、確かにいたよ。なんて言うか、お嬢様みたいな綺麗な服を着てた」
「エルリム家は、かなりの名家だったらしいからね。その家の一人娘だったら、当然かも。それよりもさ――」
「でも、なんか暗かったなぁ、その子。なんていうか、ジメジメしてるっていうか、陰湿な感じだった。まぁ、話とかしたわけじゃないんだけどさ、あれは絶対に性格悪いね、うん」
 ミルは、軽い頭から言葉を搾りきるように言い切った。中身の薄いミルの言葉に、瑞穂は少なからず肩を落とした。そういうことを聞きたい訳じゃないよ、と落胆しきった顔は暗に訴えている。
「悪かったわね」
 出し抜けに女の声がした。子供の声だが、瑞穂やミルよりもずっと落ち着いた声だった。
 瑞穂とミルは辺りを見回した。
「誰? 今の声――」
「お姉ちゃん。ここや、ここ」
 ゆかりが声をあげて、床の上を指さしていた。動揺しているのか、指先は震え、言葉の語尾が裏返っている。
 瑞穂はゆかりの指し示す先を見つめ、息を呑んだ。そして、話しかけるように呟く。
「ナゾちゃん、いつからそこに?」
 床の上に立っていたのはナゾノクサだった。すらりと足を伸ばして、紅く光る鋭い目つきで、瑞穂とミルを交互に見つめている。
「しゃ、喋ってる。ポケモンが人間の言葉、喋ってる――」
 ミルは腰を抜かし、そのままソファから転げ落ちた。目の前のナゾノクサを、畏怖の目で矯めつ眇めつ見つめる。その視線を気にもとめずに、ナゾノクサは口を開いた。
「性格が悪くて、悪かったわね」
「ナゾちゃん、あなたは――」瑞穂は言葉に詰まった。
「ただのナゾノクサよ」
ナゾノクサは人間の言葉を喋ったりしないよ」言い切ると、瑞穂は続けた。
「あなたは誰なの?」
 瑞穂の言葉に、ナゾノクサは頷いた。上目遣いに瑞穂を見やり、彼女は周りに聞こえないように、小さな声を発した。
「いいわ。私の名前はリリィ。グラシャラボラスと共に沈んだ、リリィ・エルリムの意志そのものよ」

 

○●

「ねぇママ。あれ、なんていうポケモンなの?」
 物静かな池の畔で、男の子は水面を飛び跳ねるポケモンを指さした。まだ幼稚園児くらいの年頃で、はしゃぎながら隣に座る母親であろう女性へ、愛らしい微笑みを送っている。
 母親は、男の子の問いに答えた。「あれは、トサキントっていうポケモンなのよ」
「ふーん、トサキントかぁ。もっと近くで見たいな」
 男の子はそう言うと、池へと飛び込んだ。母親は慌てて立ち上がり、息子の名を呼んだ。
「駄目よ! そんなことしちゃ」
 母親の声に反応して、男の子は池から顔だけを出した。悪戯っぽく舌をだして、照れたように母親を見上げた。
「ごめんなさいママ。でも、ボクどうしても、ポケモンをもっと近くで見たかったんだ」
 母親は、呆れたように息子から視線を外した。
「もう、困った子ね。それならわざわざ池に入ったりしないで、地上にいるポケモンを観察すればいいじゃない。たとえば、あそこのメリープとか――」
 草原の辺りで草を食べているメリープを指さし、母親は息子へ諭すように言い聞かせた。
「うん。そうする」
 息子は勢い良く頷き、脱力したような緩んだ笑みをつくった。その笑みに、これで機嫌を直してくれるであろうという、子供らしい計算を母親は読みとった。息子の計算を裏切らないそうにと、同じように笑みを返し、先回りをするように、メリープの方へと顔を向ける。
 そこに、メリープはもういなかった。
 母親は息を止めた。張りつめた空気の中では、息をすることすらできなかった。
 足がある。血塗れで、ピクリとも動かない足。そして胴体がある。足と同じように、動かないでいる。だが、上半身は存在しなかった。胴体の上半分が、何かに喰われたかのように、ぱっくりと裂けていた。
 断面から、生臭い血とともに、内臓が溢れてこぼれ落ちていく。ぺちゃ、ぺちゃという湿ったタオルを床に叩きつけるような音が断続的に、先程までメリープだった胴体から聞こえてくる。
 一瞬だけ、びくんと跳ねる胴体。その動きに呼応するかのように真っ赤で長い紐のような臓物が溢れ出て、足もとの草を血で濡らし、腸で押し潰す。
 やがて横倒しになる胴体。もう、跳ねることも動くこともなく、ただ無惨な中身を晒しているだけ。
 母親は一歩、後ずさった。咄嗟の出来事に、理解力と思考が追いつくことはなかった。半狂乱のまま叫び声をあげ、池に浸かっている筈の息子へと向き直る。
 これは残像だ。そうでないのなら、錯覚に違いない。
 母親は、そう自分に言い聞かせた。理解はできなくとも、本能が現実に対する防御方を知っていた。これは残像だ。さっき見た、メリープの屍体の残像が、目に焼き付いているのだ。そうに違いない。間違いない。
 目を擦る。母親の背後に、柔らかい何かが落ちた。擬音で表現するのなら、どちゅ、という音をたてて。体を動かすことなく、母親は目だけで落下物を追いかけた。
 メリープの首と、上半分の胴体だった。ビルの屋上から落とされた粘土のように、へちゃげている。そこに原形は無く、辛うじて以前の形を想定できる理由は、単に近くにもう片方の屍体があるからに過ぎなかった。
「あ、あ……」
 母親の震える声を遮るように、水の弾ける音がした。波紋一つない静かな水面に、何かを投げ入れたような音だった。
 池は真っ赤であるかのように、母親の目には映った。ぷかぷかと浮いているのはメリープの屍体。目に焼き付いて離れないのだ。母親の頭は、そう解釈した。だが、そのメリープは先程の屍体とは違い、上半身はしっかりとくっついていた。そしてなにより、人間の形をしていた。無いのは、首だけ。
 先程まで愛らしい笑顔があった筈の部分から、裂けた首筋から、夥しい鮮血とミルクのような白い泡が吹き出た。鼻をつくような臭いに、母親は思わず顔を背けた。だが、視線を放すことだけはできなかった。池に沈んだ”それ”の正体からは。
 濁った水面に、落下したそれが浮かび上がってきた。笑顔のまま硬直した、息子の頭部が。二度と怒ることも、泣くこともない笑みを見つめながら、母親は吐いた。胃の中に詰まっていた、ヘドロのような不条理と一緒に。
「俺は子供が嫌いだ。ポケモンと同じほどにな」
 男の声が水面から響いた。母親は顔を上げた。ちぎれた息子の頭の上に、鮮血に染まった池と同じ色をしたポケモンが浮遊していた。血に染まった刃を眺めながら、呟いている。赤い眼をしたハッサムが。
「まだだ、この程度では終わらない。このまま終わらせはしない」
 母親だった女は、声も上げずにハッサムから逃げ出した。メリープの屍体を踏みつけ、茂みをかき分け、息を荒げて駆けていく。
 片目で、逃げていく女の背中を見つめ、ハッサムは首を擡げた。
「近くにいるのか? リリィ」
 ハッサムは刃を掲げ、一瞬で振り下ろした。刃の生み出す衝撃波が、水面を真っ二つに引き裂いた。水飛沫が草むらの血を洗い流す。
 男の子の首が跳ねた。笑顔のままで、それでも瞳だけは澱んだように暗く、その部分だけぽっかりと穴があいているようだった。半開きになった口からは、だらりと舌がはみ出ている。
 汚らわしいものでも見るように瞼を潜め、ハッサムは刃で空を斬った。ミキサーにかけるように、徐々に男の子の頭が細切れなっていく。眼球は破裂し、骨は踏みつぶされたビスケットのような粉末になり、脳味噌はピンク色のジュースのようになって、洗い流された草原を、再び汚した。肉片と死臭に覆われた草むらを見下ろすように俯くと、ハッサムは小さく呟いた。
「俺は死ぬつもりはない。リリィ、お前のためにも俺は生き残る。そして、奴等を消す。お前を殺した奴等を――」

 

○●

「リリィの意志、そのもの? それって、どういう意味なの?」
 瑞穂は呆気にとられていた。リリィって言うのは、ナゾちゃんの頭部に埋め込まれた、特殊電波発生装置のことじゃなかったの? それがどうして、グラシャラボラス号の事故で行方不明になった女の子と関係があるの? 訊きたいことが胸に溢れた。だが、それらの疑問を正確かつ体系的に訊ねるほどの要領のよさと冷静さが、今の瑞穂には、どちらも欠けていた。
 困惑している瑞穂の表情を眺め、少女の心の奥底にある疑問を見透かしたかのようにナゾノクサは答えた。
「私はリリィの意志。もっとも、外側はナゾノクサだけど」
「意味わかんないって。もっと、わかりやすく説明してくんない? 大体、何なのよ? リリィの意志ってのは」
 ナゾノクサの言葉を聞き、ミルは反射的に飛び起きた。
「私も詳しいことは知らない。覚えているのは、私はもう死んでいるということ。このナゾノクサの身体を奪って、意識だけが残っているだけ」
 瑞穂は息を呑んだ。乾ききった唇を湿らすように口を閉じ、ミルの横顔を流すように見やる。ミルは眉を潜め、胸元で余った両手をヒラヒラと動かしていた。
「ますますわかんない。もう死んでる、って言っといてあんた生きてるじゃんか」
「違うよ。ミルちゃん」
 不意に瑞穂が呟いた。朴訥とした瑞穂らしくない声色に、ミルは気色ばんだ。
「何が違うのさ」
「ナゾちゃんは、たしかに生きてるけど。リリィって人は、グラシャラボラスと一緒に沈んで、亡くなっているから」
「何が言いたいの?」ミルは小首を傾げた。
「ナゾちゃん……じゃなかった、リリィさん――」
 瑞穂は屈み込み、ナゾノクサに向き合った。ナゾノクサの紅い瞳の輝きを食い入るように見つめる。その視線はナゾノクサへ向けられているのではなかった。眩いほどの赤い光を放つ、瞳だけを見ていた。まるで瞳が、そこから放たれる真紅の輝きが、ナゾノクサの本体であるかのように。
「あなたは、もしかして――」
 そこまで発したところで、瑞穂の言葉は遮られた。突然、辺り一帯に悲鳴が響いた。センター内のすべての人間が、一斉に悲鳴のする方へと顔を向けた。瑞穂は悲鳴を聴いた。女の声だった。狂った声だった。何かに追われているかのように切迫していた。
「私の息子を助けて! お願いだから殺さないで! 殺さないで!」
 叫ぶ女の背後で、窓ガラスが弾けた。欠片が女の身体へと降り注いだ。女は気付いていない。叫ぶこと以外の部分が死んでしまっているかのように、同じことを繰り返した。
「殺さないで! 殺さないで! 息子の首が――」
 女の声が天井へと跳ねた。紅い風が、女を貫いていた。
 天井が女の声に濡れていた。真っ赤な鮮血で濡れていた。その雫が地面へ落ちる前に、女の身体は硝子の破片の上へ倒れた。屍体に押し潰され、硝子がさらに細かく砕けた。
 瑞穂は女の首を目で追いかけた。重力に引かれて落ちていく女の首は、叫び続けているかのように開きっぱなしだった。だが、瑞穂には何も聞こえない。人々の重たく、それでいて一瞬で弾けてしまいそうな沈黙があるだけだった。半開きのまま不気味に鼓動する女の口からは、叫び声の代わりに涎が垂れ流されていた。
 落ちる。床から湿った音がした。女の首を囲むようにして、小さな悲鳴があがった。沈黙が破れた。まるで連鎖的に倒れていくドミノのように、悲鳴は波紋状に広がっていった。
 瑞穂は黙り込んだまま、床の上に転がる女の首を見つめていた。破裂した眼球から流れ出る透明な液体と血が、まるで涙を流しているように、瑞穂には思えた。
 悲鳴が4つ、5つ天井へ跳んだ。鮮血が、まるでシャワーのように人々の頭上に降り注いでいく。錯乱した人々は、センターの外へと我先にと飛び出した。その内の5つ6つの首が、また跳び上がった。
 ミルとゆかりが、悲鳴とも叫び声ともつかぬ声をあげた。
「お、お姉ちゃん。何なん? これは? 何が起こってるん?」
「そんなことより逃げなきゃ! 何やってんのよ、瑞穂ちゃん!」
 一方向を見つめたまま、瑞穂は動かなかった。
「非道い――また殺した」
「何言ってんの!」
「ユユちゃんと、ミルちゃんは逃げて。私は、このまま逃げるわけにはいけないから」
 ミルはいきり立ったように瑞穂の肩を激しく揺さぶった。
「どうしたのよ! 死にたいの?」
「誰だって、死にたくなんかないよ。だから許せない。まるでゴミみたいに人を殺して――」
 室内の装飾品が、紅い残像の旋風によって次々と切り刻まれていく。瑞穂はミルの脇の下をくぐり抜け、旋風へ向かって走り出した。
「お姉ちゃん!?」ゆかりが驚いたような声をあげた。
 ミルは即座に振り返った。駆けていく瑞穂の背中を眺めながら、微かに足が震えるのを確かに彼女は感じていた。瑞穂の肩を掴んで揺さぶった、その刹那に見せた険しい表情。今まで――出会ってからそんなに時間は経っていないけれど――一度も見たことがない、突き刺さるように鋭利な表情。それはミルが瑞穂へと抱いていた印象を破壊するものだったから。
「なによ、あの娘――」
 思わず呟いたミルに、ゆかりが呟き返した。
「お姉ちゃんは、滅多に怒らへんし、変にお人好しやけど」
「けど……なに?」
「時々、めっちゃ恐いときがある。許せへんもんに出会ったときとか。ああなったお姉ちゃんは、誰にも止められへん。わかるやろ?」
 瑞穂は床に転がっていた棒状の装飾品を拾い上げ、旋風を凪ぎ払うように、肉眼で捉えられないほどの速さで振り切った。激しい金属音と空気を揺るがす振動の後、旋風は消えた。纏っていた布を引き剥がされるようにして、それは姿をあらわし、瑞穂は、それの姿を睨むように見つめ、呟いた。
「やっぱり、あなたなんですね――」
 瑞穂の振り下ろした棒を受けとめる、巨大な鋏。紅く、目玉のような模様の鋏を持つポケモン。エンジュシティで瑞穂とナゾノクサを襲ったポケモンだった。ウバメの森でナゾノクサ達を惨殺したと思われるポケモンだった。ライムという名のハッサムだった。
「お前は、リリィと一緒にいた女か」
「だから、なんなんです?」
 ハッサムは何も言わずに、もう片方の鋏を振るった。瑞穂は跳び上がる。空中で反転し、固まったままのミルのすぐ横へと着地した。
 瑞穂は肩を押さえ、手元を見やった。手にしていた棒は切り刻まれていた。服の肩の部分は裂けており、裂け目から覗く白い肌からは、血が滲んでいる。
「邪魔をするな。リリィを出せ」
「リリィさんと、ポニちゃんを傷つけたり、このセンターの人達を殺したりするのと、何の関係があるんです?」
「俺は、ポケモンを殺すための存在だから。人を殺すのは、ただの趣味だ」
ポケモンを殺すため? 趣味? なに言ってんのよ! あんただってポケモンの癖に!」
 ミルが叫いた。ゆかりも、瑞穂とミルの後ろに隠れて、一緒に頷いている。
「俺が――ポケモン? 俺はライムだ。選ばれた者だ」
 瑞穂はボールからリングマを呼び出した。彼が咆哮し終えるのを待つと、瑞穂は二人に訊いた。
「あなた達の意識は、昔、人間だったんですね?」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。