水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-1

#14 愛憎。
  1.閉鎖回廊

 

 啜り泣きが、冷たく暗く湿った部屋に木霊している。
 乾いた血に汚れきった漆黒の壁に、白い掌が触れた。嗚咽が途切れ、部屋全体を震撼させるように激しい悲鳴が辺りに響いた。白い掌は黒い壁を一瞬だけ掴み、そのまま床へと落ちた。鮮血が壁に飛び散ったが、血の色は壁に染み込み、何事もなかったかのように、黒い色のまま表情を変えることは無い。
「殺さないでください、お願いです。お願いです! 殺さないでください!」
 必死に懇願する女の声。その声の持ち主は、細い銀色の鎖に全裸のままで縛られていた。薄暗い部屋に、女の白い裸体だけが浮かび上がっている。だが、女の身体に左腕は付いていなかった。切り落とされていた。
 涙と鼻水に汚れた女の顔に、血飛沫が降り注いでいる。その表情は苦痛に歪み、恐怖に青ざめ、羞恥心に濡れていた。震える唇の端から、止めどなくこぼれ落ちるピンク色の液体は、血の混じった涎だろうか。
 フラッシュが女の全身を包み込み、消えた。カメラを片手に不満そうな顔を隠そうともせず、”それ”は女を蔑むような目つきで眺めた。
「その言葉、もう聞き飽きたの。命乞いならさ、もっとゾクゾクするような言い方できない?」
 女は顔をひきつらせた。口を開いて何かを言おうとしても、声が出なかった。代わりに白っぽく変色した舌がダラリと伸び、涎と茶色い泡が溢れ出てくるだけだった。だが、女は必死に舌をこねくり回し、不明瞭な命乞いの言葉を叫び続けた。
「あう、けでうだあい――お、おね、ねがいです。ころさな、いで。カヤ様、お、おねがいでず!」
 若い女、一位カヤは酷薄な微笑みを浮かべた。金髪を右手で撫でつけながら、カメラを女へ投げつける。カメラは女の顔面を直撃し、折れた女の歯とともに床に転げ落ちた。鮮血の水たまりが、大きな波紋をつくる。
「そうそう、その程度はしてくれなきゃ楽しめない。でも――」
 袖からナイフを取りだして、カヤは女の舌を根本から切り取った。金切り声が、再び部屋を震わせる。
「もう喋らなくてもいいわ。つまらないものは、つまらないから。五月蠅いだけなのは嫌いよ」
 吐き捨てるようにしてカヤは言い放つと、腰のベルトから拳銃を取りだし、女の鼻血に汚れた鼻の穴へ銃口をねじ込んだ。悲鳴を噛み殺し、女は澱んだ瞳で鼻の穴へ入り込んだ銃口の先を見つめた。目尻から流れ出る涙が拳銃を濡らす。
 涙は銃声によって吹き飛ばされた。まるで拳銃が、女の涙を汚らわしく思い、振り払いたいという意志を持っているかのようにタイミング良く。
「くだらない。つまらない――」
 カヤは血塗れの拳銃を床へ放り投げ、女の屍体を睨み付けた。女に顔と呼ばれるものは無く、僅かに残った下顎が首の先端に張り付いているだけだった。頭部の他の部位は四散し、生臭い脳髄と混じり、床に醜い模様を描いていた。
 冷たく濡れたタオルで手を拭いながら、カヤは薄暗い処刑部屋を出た。身体の所々に飛び散った血飛沫を煩わしく思いながらも、そのままタオルを廊下へ投げ捨てる。
「そこら辺に物を捨てるな。ここはお前の家ではない」
 白衣の男が、カヤの後ろから声をかけた。呆れたように足もとを見やり、血に汚れたタオルを拾い上げると、カヤへと押しつける。
「もう殺したのか。ずいぶん早く使い切ったものだな」
 カヤはタオルを摘み上げるようにして受け取り、横目で白衣の男、時雨を見つめた。
「あれで遊んでも、つまらない。もっと可愛くて、やり甲斐のある娘がいい。あの女は叫いてばかりで五月蠅いだけだったから」
「それなら、もっといい玩具を知っている」
 時雨の口許が緩んだ。カヤは眼を細め、興味をそそられたそうに、口の中で舌を回す。
「氷よりも楽しめる? あの娘は最高だったわ」
「そこまでは保証できないが」
 時雨は懐から写真を撮りだし、カヤへと掲げて見せた。写真に写っていたのは、水色のツインテールをした幼い少女の姿だった。
 カヤは小首を傾げた。細めていた瞳を見開き、少女の姿を舐めるように見つめる。以前、どこかで見たことのある、出会ったことのある顔だった。
「どっかで見たことのある顔ね」
「そう、あの忌まわしき女。洲先瑞穂だ」
 写真を持つ手が震えていた。怒りか、興奮か。時雨は緩んでいた口許をひきつらせている。
 少女、瑞穂は写真の中で笑っていた。その雪のように白い身体が、時雨の指を支点として裂けてもなお、笑みは途切れなかった。
 時雨の手の甲に、太い血管が浮き出ていた。彼は二つに裂けた写真を握りつぶし、重い声で囁きかけるように呟いた。
「今度こそ、この娘には本当に死んでもらう」
 カヤは手にしたタオルを壁の隙間にねじ込み、床に散らばった写真の破片を拾い上げた。無邪気な微笑みでも、瞳だけを見れば悲しんでいるように彼女には思えた。
「とりあえず、試してみようか――」
 恐怖に顔を歪める少女の姿を想像するだけで、その無邪気な笑みを粉砕できると考えるだけで、カヤの心は高鳴った。

 

○●

 チョウジタウン北部に位置する大きな池、いかりの湖。
 コイキングが多く生息することで有名な湖であったが、ロケット団によって行われた進化促進電波の実験により、その名は全国的なものとなっていた。
 ロケット団の行った実験、R計画。進化を促進する特殊な電波によって、ポケモンの進化を人為的にコントロールすることにより、最強のポケモン軍団を結成することが当初の目的であった。だが、電波の効力が予想以上に弱く、実用化に難があったこと、そして計画自体がポケモンGメンに察知され、妨害されたことによって計画は途絶えた。
 その後、この計画によって得られたノウハウを基にコガネシティのラジオ塔占拠事件が起こり、再び注目を集めはしたものの、ラジオ塔占拠事件の報道すら飽和しつつある現在、この湖の名は人々の記憶から薄れていく一方だった。
 でも、忘れてはいけないこともある――
 湖の底を見つめ、深い蒼を瞳に焼き付けながら、瑞穂は心の奥底で呟いた。
 人間は、生きていく上で邪魔であったり不要であったりする記憶を封じ込め、削除することで、人間としての機能を保っている。それは理解していた。それでも、これは忘れてはいけない。抹消してはいけないこと。
「ここも、非道いな」
 傷だらけのまま浮かんでいる、幾重ものギャラドスの屍体。湖の澄んだ水に浸っていても尚、その瞳は澱んでいる。最期の力を振り絞って開いたと思われる口から流れ出るのは、腐った内臓の汁と堪えようのない腐臭。
 ミルは口許に手をやり、吐き気を堪えつつ呟いた。
「一体、どうなったらこうも非道くなるのさ。いくらなんでも――」
「副作用だよ」瑞穂は、抑揚のない声で応えた。
「副作用?」
「自然の摂理に逆らった進化の強制はポケモンにとって、もちろんここのコイキング達にとって、死に等しい負担だった。その負担に、耐えきれなかったんだよ」
 萎んでいく気配に気付き、瑞穂は隣に立っている筈のゆかりへと視線を移した。
 ゆかりはしゃがみ込んでいた。俯き、足もとに生える雑草を眺めなている。
 瑞穂は腰を下ろし、小刻みに震えるゆかりの背中を撫でた。
「だから、見ない方が良いって言ったのに」
「そやけど、気になったんやもん」
 青ざめたゆかりの顔を見据え、瑞穂は少女を胸元へと抱き寄せた。
 空が轟音をたてている。巨大な黒いクレーンが、ギャラドスの屍体を引き上げていた。吊り上げられた屍体は、全身から灰色の汁を垂らしている。その姿は汚く惨めで、まるでゴミを捨てるみたいだなと、瑞穂は目を閉じた。ゆかりを抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「もう、帰ろうか。ロケット団について、何か分かるかもしれないと思ったけど、何も無いみたいだし」
「あったのはギャラドスの屍体だけ、か。せめて奴等のアジトの跡でもあれば、瑞穂ちゃんにとって重要な手がかりがあったかもしれないのにさ」
 吊り上げられていたギャラドスの屍体が、トラックの荷台へと降ろされていた。荷台からこぼれ落ちる腐った液体を横目で眺めつつ、瑞穂は悲しげに頷いた。
「そうだね――でも」
 ミルは眉を潜め、瑞穂の顔を覗き込んだ。無表情のまま、凍りついているかのようだった。初めて出会ったときからは想像もできないような冷たく薄青い影を帯びている。
「でも、何さ?」
 訊くと言うよりは見知らぬ人間に道を尋ねるような、おずおずとした言い方でミルは続きを促した。
「私、ちょっとだけ安心してるの」
「安心って、どういう意味さ」
「本当はこんな事、考えたくないんだけど。ソウちゃんがもう殺されてたり、実験の材料にされていたりしたら、その事は知らない方が良いから――何も手がかりが無いって事は、悪いことも知らずにすむから」
「お姉ちゃん――」
 ゆかりが心配そうに、瑞穂を見上げた。
「瑞穂ちゃん。そんなこと無いって! そんなことばっか考えてると、悪くないことでも悪いことになっちゃうじゃないのさ!」
 励ますように、ミルは大きな声を出し、瑞穂の肩を揺さぶった。揺さぶりにまかせるように瑞穂は顔を上げ、軽く微笑んで見せた。
「そうだよね。そうだよ。そんなことばっかり考えてちゃ、駄目だよね」
 自分に言い聞かせているような口調だった。うっすらと青ざめた瑞穂の表情に、不安の色が明確に浮かび上がっている。
 ゆかりは、瑞穂の沈鬱な顔を見上げたまま、彼女の手を握り締める。小指が小刻みに震えていた。
「だけど――」瑞穂は絞り出すような声で「やっぱり無理だよ。そんなこと」
 ミルは横目で屍体の積まれたトラックを見つめ、肩を竦めた。
「そりゃ、こんな非道いことが続いたんだから、気持ちは解るけどさ」
 リリィ――ナゾノクサが死んで以来、瑞穂から笑顔は消えていた。少しでも元気づけようと、ミルが冗談を言い、ゆかりが慰めても逆効果でしかなかった。そんな中で遭遇したギャラドス達の屍体は、瑞穂の心の深い部分に鋭く突き刺さっていた。
 瑞穂は恐る恐るトラックに積み込まれたギャラドスの屍体を見やった。青い筈の表皮は黒ずみ、トラックのエンジンが掛かるのと同時に、澱んだ瞳が顔の窪みからこぼれ落ちた。神経と思しき糸のようなものが、窪みからはみ出ている。
 屍体をすべて回収し、トラックは発車した。呻るエンジン音がそれより更に大きな音に掻き消されるのよりも早く、トラックとその荷台に積み込まれた屍体は、瑞穂達の視界から消えた。
 トラックは一瞬で炎に飲み込まれ、内側から膨れ上がる煙と共に爆発した。荷台に積まれた屍体は爆発の衝撃で細切れとなり、肉片が湖やその周辺へと飛散した。
「な……!」
 ミルが唖然としたまま口を開いた。
 即座に瑞穂は上空を仰ぎ見た。降り注ぐ屍体の肉片に注意しながら、眼を細め、薄青色の空に浮かぶ黒いシルエットを睨み付けるように見据えた。
「爆撃だよ。あの機体から!」
 瑞穂の声につられて、ミルとゆかりは上空に浮かぶ特異な形状をした機体へと振り向いた。
 緑がかった銀色のボディ。流線型の胴体から左右へと拡がっている羽根と、長く伸びたアーム。そのアームの先端に覗く鋭利な爪。生物的なフォルムを持った戦闘機が、逆光の中で不気味に浮かび上がっていた。
「汚らしい――とっとと終わらせて、遊んであげる」
 空中に制止したまま浮遊する機体から、女の声が微かに漏れた。
「その声、まさか」
 聞き覚えのある声に驚いて、瑞穂は言葉を詰まらせた。記憶の裏側で、本能が身の危険を報せるかのように瞬いた。この声の持ち主は危険であると。狂気でも殺意でもない、残酷なほど無邪気な感情が、その鋭く尖った矛先を自分へ向けていると。
「カヤさんですね? ロケット団の、あの」
「お姉ちゃん、カヤってたしか――」ゆかりが瑞穂の背中にピッタリと身を寄せた。
「何のつもりですか? こんな事をして!」
 機体の左右のアームが可動し、先端の鋭い爪を瑞穂達へと向けた。標準を合わせる。
 爪の上部に取り付けられた装置を見つめ、瑞穂は口を閉じた。複数の筒を円上に束ねたような形をしている。鈍く光る機体の中で、漆黒のそれは明らかに浮いた存在だった。
 機関砲だ。そう気付いた瞬間、瑞穂はゆかりとミルを突き飛ばすようにして、草むらへ飛び込んだ。地面がはぜた。筒状の装置から連続して短い炎が吹き出し、先程まで瑞穂達の立っていた場所から土埃が舞った。
「なんなのさ、あれは! あたし達を殺す気?」
 草むらに身を伏せたまま、ミルは叫いた。
「たぶん、そのつもりだと思うよ」
「何のためにさ?」
「どうだろう。ただ、さっきの銃撃は間違いなく私の足もとを狙ってた。最初の爆撃をわざと外したことを考えても、今すぐ殺す気は無いみたいだけど」
 瑞穂は腰からモンスターボールを取り、握り締めた。
「だけど――何?」
「あの人の考えていることは、私には解らない。私には理解できないよ」

 機体は低く静かなエンジン音を響かせながら、瑞穂達の飛び込んだ草むらへと向き直った。
「そんな所に隠れても無駄なのに。あんまりしつこいと、このまま殺してもいいんだけど」
 草むらの中で蠢く影を、強化ガラス越しに見下ろしながらカヤは呟いた。白く大きな掌で機関砲の発射装置を握る。尖ったような冷たい感触に、彼女は思わず口を歪めた。
「でも、まぁ、お楽しみは後に取っておかないとね」
 突如、メインパネルが赤く点滅した。カヤは衝動的にレバーを引き、機体を上昇させた。彼女は軽く舌打ちし、メインパネルに表示された「高密度エネルギー」の文字を見つめた。
 次の瞬間、膨大な熱量を持った破壊光線が空へと伸びた。破壊光線は機体を掠め、遅れて拡がる衝撃波が浮遊する機体を翻弄した。
 草むらに見えるのは、巨大な身体を持つポケモンリングマだった。リングマは鋭い目つきで、機体の方向を見据えていた。怒りに噛みしめた口許から煙が漏れている。
 カヤは顎を上げ、破壊光線を放ったと思われるポケモンを、細い瞳で睨み付けた。
「あの娘、こんなポケモンまで持っていたとはね。少し厄介かも」
 リングマの立っているすぐ後ろの草むらから、瑞穂達が顔を覗かせた。瑞穂は草むらから飛び出し、上空で制止する機体の方向を見やった。
「リンちゃん、岩石封じであの機体の動きを止めて」
 太い腕を地面へと叩きつけ、リングマは岩石封じを繰り出した。激しい地響きとともに、機体の真下からリングマの背丈の倍はあろうかという岩石が突きだし、機体の前後左右を遮った。
 視界を遮られたにも関わらず、カヤの緩んだ口許には笑みが見え隠れしていた。なるほどね、と言いたげに小さく頷き、メインパネルの左下の部分を撫でるように押す。
「ファルゲイルの動きを封じて、破壊光線を当てるつもりだろうけど、無駄なことよ」
 機体は即座に迫撃砲を発射し、眼前に聳える岩石を破壊した。粉々に砕け、落下していく欠片の間から、リングマの巨体と、その口の奥に溜めた破壊光線の光が見える。
「リンちゃん、破壊光線!」
 瑞穂の声に呼応し、リングマは破壊光線の第二波を発射した。地面に衝撃の波紋を広げ、破壊光線は一直線に機体へと伸びた。
Aptitude engine……Preparation of awakening is completed」
 機体から抑揚の無い独特の声が発せられた。同時に機体上部の装甲が斜め上へとスライドした。剥き出しになった機体の隙間から、青白い光が漏れている。
 破壊光線は、機体を飲み込む寸前で止まった。その光景はまるで、水流が突然凍りついて動かなくなってしまったかのようだった。
「な――破壊光線が!」
 瑞穂は狼狽した。少女の動揺を、カヤは嘲笑った。
「だから、無駄だって言ったのよ」
 反発しあう磁石のように、破壊光線が跳ね返った。太い熱線は幾重にも分かれ、地上へ降り注ぐ。反動で動けないでいるリングマの巨体を、細い熱線が次々と切り裂いた。
 焦げ臭い匂いと煙を上げながら、リングマはその場に倒れた。瑞穂はリングマのもとへ駆け寄ろうと走り出す。だが、少女の小さな身体は、熱線の衝撃波に吹き飛ばされ、空中で枯れ葉のように弄ばれた挙げ句、そのまま地面へと叩きつけられた。
 鈍い音がした。軽い血飛沫が上がり、水に濡れた草むらを赤く染めていた。草むらの中で横たわる瑞穂の身体に意識は無かった。次第に白くなっていく幼い顔には、鮮血が滴っている。
「お姉ちゃん!」
 思わずゆかりは叫んだ。立ち上がろうとするゆかりを、ミルが覆い被さるようにして制止した。
「何で邪魔するんや!」
「今行ったら、危ないっての!」
「そやけど! お姉ちゃんが……」
 眼に涙を溜めながら、ゆかりは早口で捲し立てた。興奮と恐怖で唇が震えている。ミルは焦る気持ちを抑え、ゆかりの肩を掴んで何度も揺さぶった。
「ちょっとは落ち着きなって。あの娘がそんな簡単に死ぬわけ無いじゃないのさ」
 浮遊する機体は左右のアームを伸ばし、瑞穂の身体を掴み上げた。血の混じった水滴が、ぽたぽたと少女の衣服から染み出て、焼け焦げた草地にこぼれ落ちた。
 血の気のない真っ白な腕が、アームの隙間から覗いている。機体の揺れに合わせて、振り子のようにぷらぷらと左右に振れていた。アームは瑞穂を掴んだまま上昇し、少女の身体ごと機体の内部へと収納された。
「ま、こんなものか。後は、帰ってからのお楽しみね」
 カヤは呟き、メインパネルを操作した。機体は瞬時に流線型に――高機動航行形態へ変形し、爆音と強烈な衝撃波を辺り一帯に響かせると、空の彼方へ消えた。

 

○●

 エーフィが鳴いた。何かを感じたのか、滑らかな光沢をもつ毛が逆立っていた。紫色の瞳は妖しく輝き、遠くに感じた”それ”を警戒しているようだった。
 もう一度鳴く。物音に敏感な自分の主人を刺激しないようにという配慮を含んだ、小さな声で。
「どうしたの?」
 射水 氷は視線を横へとそらし、エーフィを見据えた。紫の長髪とその妖艶な雰囲気に似つかわしくない可愛らしい黄色のリボンが、微かに靡いた。
 エーフィは立ち上がり、窓の縁へと跳び上がった。何かを知らせようとしているようだった。氷は椅子から腰を上げると、窓ガラス越しに見える風景を眺めた。
 氷は思わず眼を細めた。鈴の音のように高く、落ち着いた声が静寂な部屋に小さな音の波紋を広げた。
「ファルゲイル――」
 ロケットコンツェルンの兵器開発部門が極秘裏に開発していた強襲用垂直離着陸機の名である。特殊エンジンによる疑似カウンター能力を搭載しており、装備の機密保持の為、機体の存在を知る者は組織のほんの一部に過ぎなかった。氷も実物を見たのは初めてである。
 高機動航行形態へと変形し、爆音を響かせながら飛び去っていく機体。その背中を眺めながら、そこから感じる冷たいオーラを感じながら、氷は独りで呟いた。
「あれは確か、あの女が――戻りなさい、エーフィ」
 氷はエーフィを戻し、部屋を出た。階段を降り、ホテルの玄関から空を見上げたときには、既に機体の姿は見えなくなっていた。
 思いの外強い日差しが、氷の目を眩ませた。少女は掌で視界を覆って日差しを遮った。氷は、ゆっくりと歩き始める。日差しを遮っていた掌は口許まで下がり、何かを思惟するかのような姿勢に変わった。
 組織を脱走した直後に、ファルゲイルがカヤの部隊に配備されたことを法柿から知らされていた。誰が搭乗するのかは決まっていなかったが、氷はカヤが乗ると確信していた。派手好きかつ新しい物好きのカヤが、最新式の”玩具”に飛びつかぬ筈がなかったからだ。
 後に、法柿からカヤが搭乗者に決まったという連絡を受けた時、氷は皮肉な自分に気づき、暗い笑みを噛みしめた。誰よりもカヤが憎く、誰よりもカヤを憎んでいながら、誰よりもカヤの性格や癖をよく知っている自分。飼いならされてしまった。あの女のペットとして。玩具として。
 私は、飽きた玩具は壊し、どんな快感にもすぐ退屈してしまうあの女が唯一大切にした玩具だから。
 今更ながらにそれを思い知らされて、惨めさと悔しさが襲った。その夜は、眠れなかった。涙に頬を濡らしながら、布団の中で一晩中、身悶えた。
 だが、それももう終わる。悪夢に怯えるのも、過去に魘されるのも。
「ここで決着を付ける――」
 氷は呟いた。鈴の音のような高く小さな声。少女の静かな気迫に気圧されたかのように、周りの木々がざわめき始めた。震える木々は怯えているように見えた。そこにかつての自分を見ているようで、氷は無意識に瞳を細めた。
「お姉ちゃん! 氷姉ちゃんやろ?」
 聞き慣れない声が、氷を呼んだ。氷は思わず身構え、腰に隠している拳銃へ手を伸ばした。
「やっぱり氷姉ちゃんや!」
 女の子の声だった。声の主は、叫ぶと同時に氷へと飛びついた。子供一人分の重みが、急に氷の身体に加わり、彼女はその重みを支えきれずに蹌踉け、その場に倒れて尻餅をついた。
「お姉ちゃん! 助けて……」
 女の子は、氷のか細い身体を抱きしめながら呟き続けた。顔を胸に押しつけているため、その表情を伺い知ることはできないが、酷く怯えているようだった。氷は痛みを堪えつつ起きあがり、胸の中で強張る少女の姿を見据えた。
「誰――?」
 氷は訊き、女の子を自分から離そうと手を伸ばした。女の子を覆うようにして腕を広げ、その小さな背中に触れる寸前の所で、氷は自分の手の甲が濡れているのに気付いた。抱きつけれたときに雫が付いたのだろう。その雫が女の子の涙であると、氷は即座に気付いた。
「泣いてる? どうして――」
 女の子は、氷の胸に埋めていた顔を上げた。涙に汚れた幼い顔が、潤んで真っ赤になった瞳でじっと氷を凝視している。必死なその眼差しに氷は息を呑み、同時に胸の奥に突き刺さるような胸騒ぎを感じた。
 見覚えのある女の子の顔を見据え、氷は記憶を探った。
「瑞穂ちゃんの――妹?」
「そやで。やっと思い出してくれたん?」
 ゆかりの背中は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、痙攣しているかのように震えていた。怯えている、と氷は悟った。脱力しきり緩んだ目尻から、止めどなく涙がこぼれ落ちている。
「何が、あったの? あの娘――瑞穂ちゃんは?」
「お、瑞穂お姉ちゃんは――」
 吃らせながら、ゆかりは声を絞った。
「連れて、連れて行かれてもうた」
「連れて――いかれた?」
 氷は鈴のような高く静かな声で、ゆかりの言葉を反芻した。その次の瞬間、悪夢のような最悪の想像が脳裏を掠めた。まさか、あの娘――あの女に浚われた?
「ちょっと! 何してるのさ、ゆかりちゃん! いきなり走り出したと思ったら――」
 突然の大声に、氷の想像が意識から遠く離れた。ビクリと身体を震わせたゆかりの様子を感じ、氷は無意識の内に声のする方へと視線を移した。
 背の高い金髪の少女が、怒ったような顔をして立っていた。少女の後ろには、普通よりも一回り大きいリングマの姿が見える。全身に火傷のような傷があり、苦しそうに肩で息をしていた。
 金髪の少女は、ゆかりに抱きつかれている氷の姿を認めると立ち止まった。当惑したように眉を潜め、少女は一言、氷へと訊いた。
「だ、誰さ――あんた」

 

○●

 嫌な臭いがした。
 今まで何度も、同じ臭いを嗅いだ。それでも慣れることはない。初めてこの臭いを嗅いだときのショックは記憶に染みついて、未だに離れることは無い。胸の奥にまでその嫌な臭いが入り込んで、自分を犯してしまいそうな気がして、息を止めた。長くは続かなかった。
 瑞穂は呻くような声を響かせ、息を吐きだした。見開いた瞳には涙が滲み、はぁはぁと喘ぐその口は苦しげに開けられている。
 全身の空気を吐き出し終えても尚、口は開かれたまま、新たな空気を吸い込もうともしなかった。吸い込む気にはなれなかった。あの嫌な臭いを、臭いを含んだ空気を身体の中に取り入れたくは無かった。大きく開かれたまま固定された口許から、嗚咽のような声と涎が滴り落ちた。
 涎の雫が自分の足に落ちた。冷たい、と感じると同時に瑞穂は意識を取り戻した。発作的に息を吸い込み、強い腐臭に咽せた。自分が錯乱していたことに気付いたのは、それから暫く、呆然と暗闇の中を見つめた後だった。
「ここは――?」
 金縛りにあっているかのように身体に自由は無かった。全身が冷水を浴びた後のように寒い。
 口で息をしながら、瑞穂は辺りの様子を伺った。気が付いた直後には真っ暗で何も見えなかったが、時間が経つに連れて目が慣れ、朧気ながらも周囲を確認できるようになった。
 コンクリートの壁に囲まれた小さな部屋だった。何の装飾も施されていない冷え切った壁を見つめ、瑞穂は悪寒に震えた。だが、その寒気は視覚からくるものだけでは無かった。
 壁の隙間から風が吹いた。そのあまりの冷たさに瑞穂は身悶え、顔をしかめた。少しでも風を避けようと身体をずらし、コンクリートの壁に背中を寄せたところで、少女は小さな悲鳴を漏らした。瑞穂は何も羽織っていなかったのだ。
「ここは、どこだろう? たしか、リンちゃんの破壊光線が反射されて――」
 気を失う前の記憶を辿りつつ、瑞穂は身体を捩った。両手首に、痺れるように冷たい何かが絡まっている。瑞穂は、手首に絡まったそれを振りほどこうと腕を動かした。だが、細い腕では堅く絡みついたそれを外すことはできなかた。
 瑞穂は自分の手首を見上げた。鈍い銀色をした鎖が、コンクリートの天井と瑞穂の身体とを繋いでいる。
「どう? 今の気分は」
 暗く締め切った部屋に女の声が響いた。瑞穂は咄嗟に視線を傾け、声のする方を見やった。次の瞬間、強い光が少女の眼を眩ませた。フラッシュが瑞穂の白い裸体を一瞬だけ包み込んだ。
 カヤは微笑みを湛え、瑞穂の真正面に立っていた。女の鋭い瞳が、彼女の手にしたカメラのファインダーを通して、瑞穂に突き刺さった。唇の端を軽く噛み、瑞穂は恥ずかしげに俯いた。
「ここは何処なんですか? それに、何のために私の写真を撮っているんです?」
 カヤと視線を合わせないように注意しながら、瑞穂は小さな声を出した。
「ここは組織の巣よ。で、私の遊び場でもあるわ。写真を取るのは単なる記録の為よ。楽しい記録のね」
 カメラを片手に持ったまま、カヤは楽しげに呟いた。冷たく尖った瞳は更に細くなり、口からは白い歯が覗いた。微かに見える嫌味な笑みを、瑞穂は首を振って視界から追い払った。
「人間の記憶は曖昧なものだけど、こうやって写真に記録しておけば、いつでも取りだして眺めることができるから。いつだって、楽しむことができるから」
「楽しむ?」瑞穂は怪訝そうな声を出した。「楽しむって、何をです?」
「何でそういう下らないこと訊くかな――」
 カヤは左手に持っていたカメラを手放し、蔑むような視線を瑞穂へと向けた。瑞穂は、威圧するような女の視線に押し黙った。カメラが床に落ちる音が響き、それと同時に、はらはらと何枚もの写真がカヤの懐からこぼれて、散らばり落ちた。
「でも、どうしても知りたいって言うのなら教えても良いわ。あんたも何も知らずに死ぬより、これからどうなるのかを知っておいた方が良いかもね」
「私を殺す気ですか?」
 小さいながらも芯のある声で、瑞穂は訊いた。
「それはあんた次第よ。もっとも時雨は殺るつもりみたいだけどね。どう? 死ぬの恐い?」
「別に」
「珍しい。死ぬのが恐くないなんて、新しくて斬新なタイプね。楽しめそう」
 カヤの言葉を聞き流しつつ、瑞穂は抑揚のない静かな声で続けた。
「死ぬのは恐くないですよ。昔は――つい最近まで、ただ死という概念だけがひたすら恐かった。自分の意識が完全に消えてしまうのが恐かった。でも、今は違う。本当に恐いのは――」
 そこまで言いかけて突然、部屋の明かりがついた。瑞穂は顔を上げた。そこにカヤの姿は見えなかった。血塗れの屍体が冷たいコンクリートの床に無造作に転がっているだけだった。首のない裸体が。
 首筋に冷たいものが触れた。生暖かく甘い息が、瑞穂の頬を撫でるようにして通り過ぎた。瑞穂は顔を動かさずに、視線だけを気配のする方へと向けた。カヤが睨むような目つきのまま、少女の首筋にナイフをあてがっている。
「覚えてる? あんた前に私に訊いたわよね、氷に何をしたのかって」
 瑞穂は無言のまま頷いた。カヤはほんの少しだけ手の力を、ナイフを抑えつける力を緩め、瑞穂の眼前に写真の束を突き付けた。
 写真に写っていたのは、幼い頃の氷の姿だった。氷の姿を認めると同時に瑞穂は目を剥き、愕然とした様子で肩を落とした。両手首に縛られた銀色の鎖が擦れ、冷たく無慈悲な音を奏でる。
「教えてあげる。私が氷に何をしたのか。それと、死ぬことがどれほど恐いのかをね」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。