水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-1

#15 天使。
  1.滅びのメシア

 

 炎が爆ぜた。紅蓮の鮮やかな輝きを纏った、灼熱の炎だった。炎は岩肌を灼き、焼け焦げた岩はマグマの如く溶けていた。微かに透ける岩の表面から、ゆっくりと流動する高温の腑が覗く。
 続けざまに炎は空を翔た。薄青色の空を残像で裂きつつ、炎は1人の男を包み込んだ。
 男は黒いローブと不気味なオーラを纏い、魔術師のような妖しい出で立ちをしていた。眼前に迫った炎を避ける素振りも見せず、男は左腕を掲げた。垂れたフードに隠れ、男の顔を、そこに刻み込まれた表情を確実に伺い知ることは難しかったが、そこからは紛れもない笑みが漏れていた。僅かに露出した口許は嫌らしく醜く歪み、その歪みに引きずられるように炎は不自然に軌道を反らした。炎は明後日の方向へと着弾し、掃かれた煙のように消えた。
 陽炎ミルは眉を潜めた。少女は掌でリザードンの肩を握りしめ、年の割にはすらりと伸びた体躯を屈ませる。リザードンは、背中に跨るミルを振り落としてしまわない程度に飛行速度を速めた。
 ミルは歯を食いしばり、ぺったりとリザードンの背中に張り付いていた。華奢な背中にのし掛かる空気は重い。今ほど豊満な胸を疎ましいと思ったことは無かった。風に煽られて激しく靡く三つ編みの金髪は、のたうつ蛇を連想させた。その連想は、忌まわしい汚れた記憶を否が応にも少女に思い出させた。バケモノの記憶。蛇のバケモノの記憶。ミルは脳裏に浮かぶ記憶を振り払うように、さらに掌に力を込めた。
 リザードンは岩肌スレスレに滑空した。男の間合いから離脱すると同時に急上昇すると、リザードンは今一度、大口を開け、火炎弾を放った。
「執拗だな。無意味だということが解らないか? 私にはそんな攻撃は効かない」
 ローブの男、ファルズフは声を張り上げた。左手を先程と同じように掲げ、炎の軌道を反らす。彼の手には、ミルが取り返そうとしている宝玉、深海の涙が、不気味なほど澄んだ輝きを湛えていた。
 ファルズフを中心に旋回を続けるリザードンの背中に掴まりながら、ミルは悔しげに舌打ちをした。あの男の手に深海の瞳がある限り、こちらの攻撃は効かない。男は宝玉に宿る力を利用して、強固な防御壁のような物をつくりだしているのだろうか。
「くそっ、折角あの男を追いつめたのに、これじゃ埒があかないじゃないさ」
 だが、やるしかない。ミルは眼下に立つローブの男を睨み付けながら、胸の奥で呟いた。やっと、この男を追いつめたのだ。この近くには巻き添えになる人間もポケモンもいない。すべてを飲み込む冷たい海も無い。あの男から、宝玉を取り戻すなら、今しかない。
 リザードンの肩から片方の手を離し、ミルは首からかけたもう1つの宝玉、虹の瞳を強く握った。お守りのように宝玉を胸へと抑えつけながら、少女は意を決し、吹っ切れたような強い口調で叫んだ。
リザードン! 火炎放射!」
 リザードンはミルの声に叫びを返した。彼は竜のように美しく逞しい巨体を、さらに高く飛翔させた。その尻尾の先にたぎる炎と同じ色の翼を巧みに羽ばたかせ、リザードンは三度、男へと炎を浴びせた。
「無駄なことを――」
 半ば呆れたように、男は左腕を振り上げた。だが、炎は先程までと違い、不自然に軌道を変えることは無かった。男は慌てて身を翻し、降り注ぐ炎の塊を避けた。
「な、どういうことだ。私の、宝玉の力が発動しない?」
 男は、ミルにもはっきりと解るほどに狼狽していた。黒いローブの端を握りつぶし、彼は顔を顰め、空を仰いだ。誰かを探すような、縋るような瞳と目が合い、ミルは反射的に顔を反らした。
「あの男――何かを捜してる?」
 怪訝そうに見つめるミルを余所に、ローブの男は小さく息を吐いた。茫洋と空を仰ぎ見るその視線にはリザードンも、その背中に跨るミルも映ってはいないようだった。遠くを見つめていた。遙か遠くを。
「なるほど、そういうことですか。解りました。では、案内をお願いできますか?」
 誰かに話しかけているような口調で、男は独り言を呟いた。焦りの表情から一転、男の口許にはあの嫌な笑みが甦っていた。捉えどころの無い男の呟き声に、ミルは声に成らぬ不安を抱いた。
 リザードンが吠えた。不意に、自分を支える背中の重心が狂った。振り落とされそうになるのを、ミルは咄嗟にリザードンの首にしがみつくことで堪えた。彼は不安定な軌跡を描きつつ、空に踊っていた。
「ちょっと、どうしたのさ! あたしを落っことすつもり? しっかり飛んでよ」
 ミルの叱咤に、リザードンは反応を示さなかった。ミルは怪訝そうに、リザードンの顔を覗き込む。彼の瞳からは意志そのものが消えていた。剥き出しの白目が、痛いほどにミルにその事実を知らしめた。リザードンは、彼自身の声でない、ローブの男の声でもない、まったく別の声で、聞き覚えのある忌まわしい声で、はっきりとミルへ語りかけた。
 邪魔をしないで。やっと――やっと見つけたんだから。
 ミルの目が眩んだ。それは眩しさからくるものではなく、反転する風景への戸惑いからきていた。彼女は目を閉じ、リザードンの首筋を掴んだまま、共に墜ちた。
 岩肌が轟音を響かせて崩れた。少女の墜ちた場所を中心に、土煙が舞っていた。
 暫くして、ミルは起きあがった。辺りに漂う土煙に咽せながら、彼女は足下に突っ伏すリザードンをたたき起こした。リザードンは呆けたようにミルを見つめると、やがて思い出したように、大きく目を見開いた。手探りで記憶をまさぐる内に、彼はその中に横たわる空白に気付いたのだろう。
「やっぱり、憑依されて操られてた訳か。あんたも進歩無いね。もう少し、しっかりしてくれなきゃ困るじゃないさ」
 ミルは肩を竦めた。申し訳なさそうにリザードンは俯いた。彼女は小さく溜息をつき、慰めるように訊いた。
「まぁ、あたしも人のことは言えないけどさ。で、大丈夫なの? リザードン。あたしは何とか平気だったけど、怪我とかしてない?」
 首を振るリザードンの全身をミルは眺めた。小さな擦り傷は身体のあちこちにあったが、大きな怪我などはしていないようだった。逆に言えば、リザードンの身体が強靱だったお陰で、ミルは無傷で立ち上がることができたのだろう。彼の擦り傷は、ミルを落下の衝撃から庇った証拠に違いなかった。
 崩れた岩肌の欠片の上に飛び乗り、ミルは悔しげに辺りを見回した。誰もいない。拭われた窓の曇のように、男の姿は忽然と消えていた。ミルはおさまりかけた土煙を踏みしめ靴音を鳴らし、昂揚した気持ちを発散させるしかなかった。
「あそこまで追いつめたのに、逃げられるなんて」
 言いかけて、ミルは背後を振り向いた。胸元で揺れる水晶を握り締め、ミルは身体の芯にある感覚を研ぎ澄ました。
 黒いローブの男の感覚が――深海の涙にまとわりついた得体の知れない意志の力が、尾を引いたように残っていた。ミルは黙ったまま、掌を感じるままにその方向へと伸ばした。途端に、痺れるような凛とした刺激が指先に走った。ミルは驚いて手を引き、間違いない、と呟いた。
「あの男の感覚がまだ残ってる。ってことは、これを辿っていけば、あいつに追いつける」
 少女はひび割れた岩肌を跳び越え、足早に男の残した気配を辿った。

 

○●

 シロガネ山は死んだ山ではないと、昔、彼女の記憶に従うならば大昔に、本当の姉が教えてくれたことがあった。
 あの山はね、眠っているの。死んでいるわけじゃないんだよ。静かに、力を蓄えているの。だから、いつ目覚めて、噴火して、私達を食い尽くしてしまうか、解らないんだよ。
 少女は、姉の言葉を聞いた日から、悪夢に魘されることが多くなった。それこそ、その後に見る悪夢に比べれば他愛のない、子供の悪夢なのだけれど、少女はその悪夢を忘れたことが無い。本当の悪夢に埋もれても、夢で見た光景を忘れることはなかった。かつては恐いだけで、早く忘れたいと願った悪夢も、今となっては、記憶にもない故郷と両親を思い出す唯一の方法なのだから。
 陽炎ミルが黒いローブの男を追っているその時、射水 氷はその山の梺で、小さくこじんまりとした岩に腰を下ろし、短い休憩をとっていた。殺伐とした風景を、剥き出しの岩肌を眺めながら、少女は本当の姉の言葉を反芻していた。
 何故、そんなに昔の事を思い出すのだろうかと、少女は考えていた。一位カヤが死んでから、少女の回想にかつての組織での記憶が映しだされることが無くなった。
 代わりに思い出すのは、組織に拉致される前の記憶だった。自分が人間を捨てる以前の事。少女の記憶の中で唯一、楽しいと思えた時期。
「あの頃に、戻りたいの?」
 少女は自問した。口に出して言ってみて、もう一度、心の奥底で訊ねてみる。もう一度、あの頃に戻りたいんでしょう?
 腰が痺れるように冷たい。少女の座る岩は、いつまでも冷え切っており、温もりを宿す気配は無い。少女は人間では無いのだから。小さな白い掌で二の腕を掴んでみても、同じような冷気が掌に広がるだけ。少女には、体温と呼ばれるものが無いのだから。
 それでも、体温が宿っていた頃の記憶は、少女に温度を感じさせた。冷たいものに触れれば冷たいと感じ、温泉のお湯に触れれば火傷だけでなく、痛みと熱さを伴った。だが、温もりを持たぬ少女にとって、他の人間から感じる温もりは、虚しさ以外の何者でもなかった。
 子供の頃、今でも子供だけれど、もっともっと幼かった頃、少女は姉と共に雪の花火を見に行ったことがある。両親が寝静まった頃を見計らって、少女達は夜の町を走った。
 仄かに自分達を、自分達だけを照らす薄暗い外灯の中を走り抜ける間、少女はずっと姉の掌を握っていた。冷たく頬を突き刺す風と、掌の温もりが、同じ自分の感覚であることに、少女は不思議な、それでいて柔らかい混乱を感じた。
 姉は、着いたよと言った。少女は俯いていた顔を上げ、夜空を見上げた。月が見えた。”千年彗星の欠片”と呼ばれる、色とりどりの流星に彩られた月と、深々と降り注ぐ雪が重なり合い、少女は”雪の花火”の意味を知った。だが、姉は続けて、少女に言った。これはリハーサルなんだよ、と。本当の雪の花火は、今から5年後の”千年彗星”が降り注ぐ夜に見えるんだ。でも、ここからじゃ見えない。千年彗星が見えるのは冬じゃないから。その時に雪が降ってて、千年彗星が見える場所は、シロガネ山の頂上しかないんだって。でも、シロガネ山は、今は誰も入っちゃいけないの。
 氷は訊いた。シロガネ山って、もう死んでる山なんでしょ? 全然恐くないよ。
 無邪気に呟き、不思議そうに小首を傾げる幼い氷の肩を、姉は優しく掴み抱き寄せた。白く甘い息を耳元に吹きかけながら、姉は囁いた。
「この山は死んでいない。深い沈黙を保ちつつ、その根に力を蓄えている」
 でもね、逆にこの山が死んじゃうと、大地が枯れちゃうんだって。とっても大事な山なのに、生きることも、死ぬことも許されないって、ちょっと可哀相だよね。
 両腕を抱き、氷は自分の肩を撫でるように掴んだ。肩に凍みる掌の冷たさに涙を滲ませながら、氷は姉の体温と、耳元に吹きかかる、くすぐったい囁きを思い出していた。だが、それも今となっては、虚しい記憶でしかない。少女は、子供とは思えないような、澄んだ鈴の声で呟いた。
「私は、あの頃に戻りたい。でも、そこに姉さんはいない。誰もいない。昔の私も、私の中にはもういない。姉さん、私はこれから、どうしたらいいと思う?」
 呟きに答えは返ってこない。氷は同じことを呟き続けた。愚かな問いを、空中へと投げかける自分を惨めだと感じながら。同じ動きを繰り返し続け、それを止めることができない人形のようだと、玩具のようだと思いながら。声はやがて掠れ、視界に映る掌は、ゆっくりと歪んでいく。
 静寂が怒声に掻き消されたのは、その時だった。氷は即座に上半身を伸ばし、瞳だけを泳がせて辺りの様子を伺った。続いて、音を立てないように立ち上がる。岩肌に反響する怒鳴り声に耳を澄ましながら、少女は腰に吊った拳銃のグリップに手をかけた。声を通じて感じる殺気に、氷は神経を研ぎ澄ます。
 岩影に身を潜め、氷は声のする方向を覗き込んだ。2人の男が、何かを追いかけている。その眼は大きく見開かれ、醜く歪んだ唇からは、噛みしめられた鋭い歯が覗いていた。獲物を狙う、狩人の眼だった。
 男の一人が、小銃を構えた。片目をつむり標準を絞り込むと、引き金に指をかける。氷は即座に、小銃の指し示す標的へと視線を移した。
 金色の何かが跳んでいた。氷は目を凝らし、岩の隙間を跳ぶそれを見つめた。小さなポケモンだった。眩いほどの金色の毛皮を纏った、複数の尻尾を持ったポケモンだった。ポケモンは逃げていた。小さな身体を岩をよじ登り、幾重にも折り重なった複数の尻尾を震わせながら、必死で逃げていた。
「ロコン――それも、色違い」
 氷は思わず、その名を呟いた。一般に、ロコンの身体は明るい茶色である。だが、極稀に色違いと呼ばれる、色の違うポケモンが見つかることがある。あのロコンも、その色違いの一種なのだと、氷は悟った。
 銃声が轟いた。小銃の先から火が噴き、金色のロコンの足もとを砕いた。ロコンは飛び散った石の破片に驚き、毛の逆立った背中を大きく震わせて、そのまま岩と岩の隙間に転げ落ちた。か細い鳴き声が、キュンと一声だけ鳴った。
「手こずらせやがって。やっと見つけたってのによ」
 自動小銃を構えた男を尻目に、もう一人の男が吐き捨てるように呟いた。男は小銃を構えている男に片手で合図をし、小銃を地面へと降ろさせると、軽々と岩を跳び跳び越えていった。彼は、ロコンの落ちた岩の隙間の上に屈み込み、ロコンを捕らえようと隙間の奥へと腕を伸ばす。尻尾を掴まれたのか、ロコンの悲痛な叫びが木霊した。
 岩影に身を潜めたまま、氷は男達の様子を眺めた。ロコンの悲鳴を静かに聞いている少女の瞳は、傍観者のものだった。白く華奢な指先は、腰に吊した拳銃の硬質なグリップを撫でるだけで、握る素振りは見えない。
 炎が見えた。氷は、一瞬だけ我が目を疑った。だが、即座に自分の見ている光景が、現実であるという認識が追いついた。指先で弄んでいた拳銃のグリップを、少女は握り締めた。
 男の腕は燃えていた。男は瞳を見開き、驚きに満ちた声で叫んだ。
「おい、なんだよこれ! あ、熱い――!」
 男の叫びは、溢れんばかりの炎に飲み込まれた。屈強な二の腕も太股も、身を包み、喰い尽くさんとする業火の前には無力だった。岩の上に立つ男の姿は、既に人間の原形を留めない、炎の柱と化していた。
 男は燃え続けた。シロガネ山特有の乾いた強風が吹くまで、炎の十字架は渦巻いていた。炎が消え、岩肌の上に晒された男は炭化していた。棒立ちの惨めな姿のまま、風に煽られて男は倒れた。炭化し脆くなった男の身体は、粉々に砕け散った。
 重い静寂の中、ロコンが呆然とした様子で岩の隙間から顔を覗かせた。無邪気で怯えたような表情をし、頭の上に降りかかる炭の欠片に咽せている。
 もう一人の男は、突然の出来事に頬をひきつらせていた。相方が前触れもなく炎に飲み込まれ、殺されたのだから無理もなかった。男の顔は得体の知れないものへの恐怖心に歪んでいる。彼は錯乱状態の中で、岩の隙間から自分を覗き込むロコンを認めた。意味の解らない叫びが、発狂の声が響いた。彼は咄嗟に小銃を構えた。その銃口は、ロコンへ向けられていた。
 燃えた。男が小銃の引き金を引くよりも速く、彼の身体も炎に包まれた。炎に、全身を駆ける熱さに身悶え、彼は小銃を落とした。ロコンは、燃える彼の姿と岩の上に捨てられた小銃とを交互に、つぶらな瞳で見据えていた。ロコンの瞳には底のない沼のような、不気味な静けさがあった。沈黙の瞳の中で男は崩れ落ち、灰となって小銃の上に降り注いだ。
 氷は握り締めた拳銃を戻し、岩影から抜け出て、ロコンの目の前に立った。風に舞い、顔に降りかかる男達の灰を片手で振り払いながら、少女はロコンに話しかけた。
「今の男達は、あなたが殺ったの?」
 ロコンは応えなかった。氷の言葉の意味を理解しているかどうかすら定かではなかった。小首を傾げ、不思議そうに氷の顔を覗き込んでいる。
「その子は悪くない。その子に、これ以上近づかないで」
 女の声に、氷は顔を上げた。ロコンの背後に、1人の女性が佇んでいた。いつの間に、ここまで移動したのだろうか。先程まではいなかった筈だと考える内に、女性はロコンに近づいていき、大事そうに抱え上げた。
 ロコンは彼女の胸に潜り込み、腕の隙間から氷を覗いている。先程までと同じ、不思議そうな好奇心に満ちた瞳だった。氷はロコンから視線を外し、それを抱える女性の姿を眺めた。彼女も氷を見据えていた。敵意は感じられなかったが、警戒心を多分に含んだ目つきだった。
「あなたは? そのロコンのトレーナー?」
「違う。この子は、野生のロコン。私の友達よ」
 嘘をついているとは思えなかった。ただ、本当の事を言っていると、信じることもできなかった。氷は自分自身の主観に疑問を抱いていた。嘘に騙されるのは、もう沢山だったから。誰かを信じるという事に対して、酷く臆病になっていた。
 氷は気付かれないように腕を降ろし、即座に拳銃を引き抜けるよう身構えた。
「今の炎を見た? そのロコンを捕まえようとした男達が、突然、発火して死んだ」
「知らないわ。私は、ハンターに捕まりそうになったこの子を、助けようと必死で追ってきただけだから」
 素っ気ない女の答えに、氷は苛立ちを覚えた。
 嘘だ。それは嘘だ。氷は、女の整った顔立ちを凝視しながら、微かな声で呟いた。小さな疑いの火が、胸の奥で大きく揺れ動き、炎として燻った。
 氷の呟き声が聞こえたのか、女は言葉を区切った。胸に抱いたロコンを気に留めた様子で、氷にぎこちなく微笑んで見せる。
「こんな所で立ち話もないわね。聞きたいことがあるのなら、私の家でしない?」
 作り笑みを浮かべる彼女の言葉に、氷は無言で頷いた。女の乾ききった口調に、継ぎ接ぎだらけの微笑みに、ある確信と不安を抱きながら。

 

○●

 水色のツインテールを風に靡かせながら、少女は立ち尽くしていた。
 洲先瑞穂が初めて屍体を見たのは、4歳のときだった。轟く銃声と、地を這う呻きに引きずられるように、幼い少女は切り立った崖へと駆け寄り、崖の下を覗き込んだ。丁寧に敷き詰められた血の絨毯と、それに相反するように乱雑にぶちまけられた内臓の破片が、幼い瑞穂の視界を覆い尽くしていた。身体の芯を釘打ちされたかのように、身じろぐこともできぬまま硬直した。
 メスのリングマの屍体だった。少女が抱きかかえているヒメグマの母親だった。ヒメグマは、少女の胸にしがみつき、ただひたすら泣き続けていた。まるで、初めからすべてを知っていたかの如く。
 以後、瑞穂の眼前に屍体がちらついた。父の営む病院で事件に巻き込まれ、多くの人間が発狂して死んだ。その被害者の中には、瑞穂と親しくしていた、同じ年頃の少女も混じっていた。彼女の最期の日、瑞穂は彼女の惨めな死に様を見た。涎にまみれた口許からは舌が飛び出し、明後日の方向を向いている濁った瞳は、真っ赤に腫れ上がっていた。シーツは排泄物に汚れ、獣が暴れた後のように乱れていた。
 大学の携帯獣医学科に入り、何度も死んだポケモンの屍体を解剖した。薬臭い獣の腹にメスを入れ、グロテスクな内臓を掻き回した。ひんやりとした腹の奥に手を突っ込んでも、生きていたときに宿っていたはずの温もりは感じられなかった。
 斬り殺された者、喰い殺された者、くびり殺された者。その区別に関わりなく、少女は屍体を見るたび、屍体に傷をつける度に泣いた。屍体の状態によっては、吐くことも珍しくなかった。屍体が増える度に、少女の心の傷は増した。傷の上には瘡蓋ができ、傷を強固に包み隠した。10歳を迎える頃には、少女の心は傷つくことの痛みを忘れた。
 瑞穂は断面を剥き出した岩の上に立ち尽くし、呆然と二つの屍体を眺めていた。まだ、あどけなさの残る幼い顔つきをしていたが、その幼さに似合わぬ、冷え切った表情をしていた。かつての少女なら、その場で崩れ落ち、眼前に転がる不幸に、またそれに鉢合わせてしまった自分を呪うかのように、嗚咽を漏らすはずだった。
「炭化してる。普通に燃やしただけじゃ、こうはならない」
 屍体は両方とも焼け焦げ、完全に炭化していた。瑞穂は訝しげに呟き屈み込むと、原形を伺い知ることすらできぬ屍体の様子をつぶさに観察した。
 非道いものを見過ぎたと、瑞穂は心の奥底で囁いた。10歳になり旅に出てからは、感覚は麻痺するどころか、狂ってしまった。屍体を見ても、ただ見ただけでは、以前のような愁いや無力感が湧くことは無かった。それは、馴れという言葉では説明できなかった。
 昔は、死という概念が、ただひたすら恐かった。初めて屍体を見たとき、瑞穂は恐怖のあまり引きつけを起こした。悪夢に魘され、身悶える内に失禁した。だが、成長の過程で、旅の道筋で、多くの非道い死と、その残留物である屍体を見続け、少女は悟った。死そのものは、恐怖ではないと。本当に少女が恐れていたのは、死に至る経緯と結果。絶望と苦痛の中で、今まで積み重ねられ、これからも積み上げられたであろう記憶が失われていくこと。
 だから、憎しみも愁いも無くなった。自分の知らない人間だから。自分の知らないポケモンだから。どんな記憶を積み重ねてきたのかを知らないから。意識の消えゆく刹那、どんな種類の絶望を抱いたのかを知らないから。
 石を蹴る音が聞こえた。瑞穂は、背後に佇むゆかりをチラリと見やった。ゆかりは小さな岩に座り込み、足をバタつかせていた。見ない方が良いよという瑞穂の言葉に素直に従い、両方の掌で顔を覆っている。瑞穂は自分のような冷め切った感慨を、幼いゆかりに抱かせたくは無かった。
 瑞穂は視線を戻し、焼け焦げた屍体の一部を指先で軽く触れた。屍体は脆く、砂のように崩れた。いくら炭化しているとはいえ、ここまで脆くなるのは異常としかいいようがなかった。
「火をつけて燃やしたんじゃない。まるで、人間そのものが燃料になったみたい」
「何故、そう言い切れるのかな?」
 少年の声が、沈黙の中で波紋のように広がった。瑞穂は指にこびり着いた灰を、煙草の火でももみ消すかのように払い落とし、立ち上がった。首を擡げ、声のする方を見やる。少女は茫洋とした、掴み所の無い瞳をしていた。それは非道い場面に出くわした直後に、少女が決まって浮かべる、感情の見えない表情の一部だった。
「あなたは?」
 艶やかな銀色の髪を左手で掻き上げ、少年は口許に笑みを浮かべて立っていた。見慣れぬ法衣を身に纏っており、透けるような白い頬に、黒々とした鋭いタトゥが刻まれている。瑞穂と同じように、小柄で華奢な体つきだったが、彼女よりもいくらか年上のようだった。余裕を象徴するかのような口許の笑みに、大人の片鱗が見てとれる。それは、瑞穂を包み込む大人びた雰囲気よりも、さらに成熟しており、冷酷で無慈悲な印象すら与えた。
 少年は、怪訝そうに眉を潜める瑞穂を眺め、緩んだ口許を引き締めた。
「その屍体が、ただの屍体でないと言い切る根拠は?」
「骨まで燃え尽きてるからです。人間の骨は燃えにくくて、骨まで焼き尽くすには、相当な熱と時間が必要なんです。けど、この場所には、時間をかけて燃えた形跡も、焼却に使った装置の跡も残ってないですから」
「で、人間が燃料になったとしか思えない、と?」
 少年の言葉に、瑞穂は頷いて見せた。だが、少女の瞳には、薄く疑惑の色が浮かんでいた。澄んだつぶらな瞳には、不釣り合いな色だった。
「あなたは誰です? シロガネ山は、一般の人は立入禁止の筈ですけど」
 言ってしまってから、瑞穂は思わず口を噤んだ。立入禁止の場所に、許可もなく入り込んでいるのは自分も同じだった。それどころか、少年の方こそ、きちんと公の許可を取っている可能性もあるのだ。
「それは僕も訊きたいね。こんなに小さな女の子が、立入禁止の場所で何をしているのか」
 瑞穂は不服そうに唇を噛んだ。小さい、幼稚園児みたい、という言葉は、瑞穂に対する禁句だった。少女は大人びた性格とは対照的な、一向に成長する気配を見せない幼い体躯に、酷い劣悪感を抱いていた。途切れがちに曇った声が聞こえ、瑞穂はチラリと声のする方を覗いた。ゆかりが、掌で顔を覆い隠したまま身体をくの字に曲げて、必死に笑いを堪えていた。それが、瑞穂の憮然とした表情に拍車をかけた。
「気に障った? それなら謝るよ。悪かったね」
 少年の口許が再び緩んだ。先程までの正体不明の笑みではなく、明らかに少女の事を笑っている。憐れみとも、蔑みともとれる口調に、頬の辺りが熱くなるのを瑞穂は感じた。
 少年はサリエルと名乗った。シロガネ山に生息するポケモンを観察するために、無許可で入山したという。瑞穂は少し警戒を解き、自分も無許可で入山したことを告げた。
トキワシティへ行きたいんですけど、シロガネ山を通らないと、凄く遠回りなんです。無許可なのはいけないと思ってはいたんですけど」
 シロガネ山はジョウト地方カントー地方の境に跨るようにして聳える、全国でもかなりの標高を誇る休火山だった。西側は剥き出しの岩肌に覆われ、東側には深い樹海が裾野まで広がっている。一般人が立入禁止になっているのは、樹海や洞窟に、力量が高く凶暴なポケモンが多く生息するためだった。
 サリエルは、瑞穂の背後に突っ伏している二つの屍体へと視線を動かした。
「とりあえず警察に通報しなければね」
 瑞穂は頷き、腕にしたポケギアを見やった。画面には、圏外と表示されていた。少女は思わず遠くを、梺から続く風景を見渡した。ミニチュアのようなジョウトの町々が覗いた。途端に、胸の底から息苦しさが沸き上がった。自分が、隔離されているような錯覚すら覚えた。
「圏外で電話が通じない。山を降りるしかないですね」
「それなら、山頂近くにある山小屋に行った方が早いよ。山小屋なら、電話が通じているはずだ」
 瑞穂はサリエルの意見に同意し、山小屋へ向かう事にした。少女は屍体が崩れるのを防ぐため、携行していたシートを屍体へと被せた。シートの隙間から、灰がこぼれた。屍体は既に人型ですらなく、黒い粉末の集合でしかなかった。
「馴れているみたいだね」
「え?」
 山小屋へ向かう途中、サリエルは囁いた。感心しているようでもあり、今のこの状況を愉しんでいる口調のようにも思えた。彼の真意は、白い頬に刻まれたタトゥのように黒々としており、伺い知ることはできなかった。
「その様子だと、屍体を見るのは初めてじゃないね。僕には解るよ。非道いものを、沢山見てきたんだろう?」
 突然の問いかけに、瑞穂は動揺を隠しきれなかった。険しい岩肌を上る足を一瞬だけ止め、少女は驚いたように視線を巡らせた。
「どうして、解るんですか?」
「普通の子供は、人間の屍体にああも冷静に対処できないよ。パニックに陥るだろうね。とすると、以前にも似たような、いや、もっと非道い経験をしたと考えるのが自然だろう」
 サリエルの指摘に、瑞穂は視線を落とした。沈鬱な面持ちをしながら、その表情を時折歪ませながら、澄んだ水面の底に溜めた汚物を吐き出すように少女は呟いた。自分の周りで、次々と人間やポケモンが死んでいくこと。自分でせいで、自分が不甲斐ないせいで死んでしまった人もいるということ。
 サリエルは、瑞穂の話を聞いた。それまでの饒舌が嘘のように、無言のまま耳を傾けていた。彼は一通り瑞穂の話を聞き終え、溜息混じりに呟いた。
「実は僕もね、非道いものを沢山見てきたんだよ。非道いこともした。後ろからついてくる女の子は、君の妹かい?」
 ゆかりの事を訊いていた。瑞穂はサリエルの、非道いこともしたという言葉に、若干の引っかかりを感じながら、彼の問いに答えた。
「まぁ、姉妹みたいな関係と思っていただいて、問題ないですよ」
「僕にも妹がいた」
 サリエルは出し抜けに呟いた。それまでの柔らかく滑らかな口調から、余分なものを削ぎ落としたかのように、堅く冷たい口調へと変貌していた。彼の中に隠されていた影が急に浮かび上がって、言葉と言葉の繋がりを、それまでの口調と、その後の口調を絶ちきってしまったかのように思えた。
 瑞穂は彼の口調に戸惑いを覚えた。先程の何かを仄めかすような言葉といい、彼は何かを伝えようとしている。何か途方もないことを。少女がそう考えるのと同時に、腰が震えた。か細い少女の身体が、細かい振動に包まれた。瑞穂は腰の辺りを探るように手で押さえ、曖昧に問いを返した。
「妹さん?」
「ああ。丁度、君くらいの年齢だった。よく僕に懐いてきてね。可愛い妹だったんだ」
 震えていたのはモンターボールだった。瑞穂は中身が誰なのかを確かめるため、ボールを軽く掴んだ。リングマのボールだと判明すると同時に、小さな呻きが聞こえた。ボールに直に触れている瑞穂にしか聞こえないほどの小さな音だったが、指先の震えと同調し、瑞穂の胸中に実際の音量以上に響きわたった。
「どうしたの?」
 瑞穂はボールを撫でながら、小さく囁いた。リングマは答えなかった。呻きを上げ続けながら、小刻みに震えていた。震えるボールから指先を離し、瑞穂は思案するように掌を動かした。指先には、震え続けるモンスターボールの感触が、こびり着いた血糊のようにしつこく残っていた。指先に残った感触から連想できるのは、怒りの感情だけだった。瑞穂には、リングマが何かに対して怒っているとしか思えなかった。
「だけど、妹は死んだ」
 サリエルは短く言い放った。瑞穂は指先の動きを止めた。リングマの動きの周期が短くなり、さらに激しく振動した。少女は振動に翻弄されそうになるのを必死で堪えつつ、サリエルを凝視した。
「亡くなった?」
「殺したんだ」
 瑞穂は、彼の言葉の意味を考えなければならなかった。朧気だった言葉の意味が、思考によって晴れていくにつれ、少女は気色ばんだ。サリエルは確実に、殺したと言った。殺されたのではなく、殺したと言った。
 少女の表情が凍りついた。サリエルは、瑞穂の反応を、その内に満ちた感情を見透かしているかのように、短く付け加えた。
「僕が、この手で殺したんだ」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。