水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-2

#15 天使。
  2.生贄の復活祭

 

 全国でも有数の標高を誇るシロガネ山。青い空と白い雲とに彩られた山の中腹に、静かに広がっている樹海。それはさながら、澄んだ泉の底深くに溜まっている汚泥のようであり、夢のような夜景の最深部に溢れている、喧噪にも似ていた。どれも、遠くから眺めるだけならば、素晴らしく美しく癒やされるものなのだろうが、その裏側には、奥底には、醜く荒んだ現実が隠れている。
 逆に言えば、醜さを上手くカモフラージュできるからこそ、万人に受け入れられ、賞賛されるのかも知れない。
 それは私も同じだ。と、射水 氷は思った。私も、可愛らしい少女の皮を被って、醜い姿を隠しているに過ぎない。そして、自分の身体を包む皮は薄く脆く、ちょっとしたことで破けて、醜い姿を晒す。口からだらしなく臭い涎を垂らし、全身をグロテスクな蛇の触手が這い回る、あの汚れた姿を晒す。
 静まり返った木々の隙間を縫うように女は歩き、氷は無言のまま後に続いた。氷は不意に、身体が傾くのを感じ、慌てて近くに生えていた木の幹にしがみついた。暗い思考は途切れた。緊張の糸が切れたかのように小さく息を吐き、足もとを見やる。地表に食い込んだ木の根っこが、氷の華奢な足に噛みついていた。天然の罠だった。
「大丈夫? この辺りは足場が悪いから、気をつけて」
 背後の気配が揺らいだのを感じ取ったのか、女は振り向いていた。女の胸には、金の毛皮を持つロコンを大事そうに抱きかかえられている。ロコンの瞳は、相変わらず円らで、好奇心に満ちた視線をあちこちに巡らせていた。
 氷は軽く頷いて見せ、慎重に足場を確かめながら再び歩き始めた。だが、氷は何度も地面に躓き、その度に近くに木々にしがみつく。体勢を立て直し、氷は女の背中を縋るように目で追った。女は、氷とは対照的な馴れた足取で、足もとを確かめることもなく、流れるように進んでいた。細い足腰からは想像もつかない、強靱な跳躍力だった。
 女に案内された場所は、こじんまりとした木造の小屋だった。深く暗い樹海の中に隠れるようにして建っており、氷も最初は、そこに小屋があることに気付かなかった。目を凝らし、手を伸ばして触れてみて、そこに壁の感触を感じ取って初めて、小屋が見えたような気がした。幻に首を突っ込んだような、化かされたような感覚に、氷は目眩を感じた。
 中に入り、女は安心しきったように溜息をつくと、胸に抱いたロコンを降ろした。簡素で、生活感の感じられない部屋だった。トイレも、キッチンも見当たらなかった。喫茶店にあるような2人掛けの椅子とテーブルが中央に置いてあるだけで、他に家具と呼べるような物は無かった。
「そこのソファに座ってて。紅茶はレモンがいい? それともミルク?」
「どちらでも。ただし、冷たいのにして」氷は辺りを見回しつつ「それよりも、ソファなんて何処に――」
 ソファはあった。氷の背後に、紺のソファが横たわっていた。氷は瞳を細め、睨むように女を見つめた。女は紅茶を煎れていた。湯気が見えた。湯気の奥から、女の手が見えた。そしてその手は、薄いピンクのティーポットを掴んでいた。
「どうして、そんな目で私を見るの?」
 女は口許に薄笑いを浮かべながら言った。視線を自分の指先に向けたまま、独り言のように呟いていた。
「あなたは誰?」
 氷は訊いた。苛立ちと敵意を微かに含んだ、短いが鋭い口調だった。即座に腰の拳銃を引き抜けるよう掌を開き、呼吸を整えた。返答によっては、威嚇ではなく、撃ち殺すのもやむを得ないと、氷は指先に力をこめた。
「あぁ。そういえば自己紹介してなかったっけ。私の名前は沙季。橘 沙季。あなたは?」
射水 氷」
「変わった名前ね」
「私が訊きたいのは、名前じゃない。あなたの正体。本当の姿」
 沙季と名乗った女は、手を止めた。掴んでいた筈のティーポットは、立ち上る湯気の中に吸い込まれるように消え、細く長い指と木製の壁とが、くっきりと氷の瞳に映った。氷へと振り向く沙季の表情は、冷たく尖っていた。眉を潜め、先程までとはうって変わった鋭い瞳で、氷の顔を覗き込んでいる。
「鼻が利くのね。いつから気付いたの? 私が人間じゃ無いことに」
「最初から。焼き殺された密猟者を目の前にして、何喰わぬ顔でロコンを抱いたときから。人間の焼屍体を気にも留めずに、ポケモンの心配だけをする、あなたの行為には違和感がありすぎる。それに――」
「それに?」
 沙季は上目遣いで氷の口許を見やり、小首を傾げた。彼女の背後に立つ壁が、穏やかな木目調の色彩が次第に薄れ、暗い灰色の岩肌が微かに見えた。
 瞼の裏に霧が張り付いたような感じだった。氷は拳銃のグリップを握り締め、手に力をこめた。視界が霞む。頭の芯を紐で縛られたような不快感があった。
「その幻惑。それではっきりと、あなたが人間ではないと確信した。馬鹿な人間は騙せても、私は騙せない」
 沙季は言い訳も反論もしようとせず、黙り込んで氷の顔を眺め続けるだけだった。氷は彼女の目に、瞳に、その瞳を包み込む色に、既視感を覚えた。ロコンの瞳と同じだ。好奇心に満ちた、真っ直ぐな視線。
 小屋は消えた。簡素な内装も、家具も、微かに漂う木の香りも、掃いたように消えた。すべては幻惑という、偽りの感覚だった。頭の芯の締めつけられるような不快感と、霧のように朧気な視界も、同時に消えた。足下から冷気が伝った。
 そこは、ほの暗い洞窟の中だった。岩場での乾ききった風や樹海の湿った空気とは違う、静まり返った冷気が氷の白い肌をつつく。
「あなたはポケモンね? この幻惑をつかって、人間に化身しているだけのポケモン
「ええ。そうよ」
 機械的で、ぎこちない笑みを浮かべながら沙季は頷いた。この笑みも偽物だ。だからこんなにも作り物のようで、底が浅い。所詮はポケモンが、人間の表情を真似ているに過ぎないのだから。
 沙季の仮面のような笑みを睨み付け、氷は腰の拳銃を引き抜いた。一瞬の早業だった。引き金に指をかけ、銃口を彼女の額に押しつける。
「あの男2人を、密猟者を焼き殺したのも、あなたね?」
「その子を、ロコンを殺そうとしていたから。だから、”能力”をつかった。それだけよ」
 小さく俯き、足下に佇むロコンを見やりながら、沙季は呟いた。平坦な口調で、その表情も微笑みを浮かべたまま固まっていた。だが、仮面の奥から覗く瞳だけは、鋭利な刃物のような銀色の輝きを放っていた。縁差に満ちた銀色の眼は、額に突き付けた銃口を、その奥に佇む氷を見据え、蝋燭の灯火のように揺れていた。
「金色の毛皮は珍しいから、この子は密猟者にずっと狙われてる。この子を殺して、その屍体の皮を剥ぎ取ろうとしてるのよ。正気じゃないわ。私はずっと見てきた。この子と出会う前から、見てきた。人間は醜くて、愚かで、生かす価値のない生き物であることを。だから、殺すの。人間は、この子を狙う人間は、みんな殺してやるの」
「ずっと見てきた――?」
「こう見えても、私は千年以上生きてるのよ。私が”能力”を自在に操ることが出来る特殊な存在だからなのか、元々私の種族が長生きなのかどうかは分からないけれど」
 氷は肩の力を抜き、銃口を沙季の額から外した。
キュウコンね? 昔話によく出てくる。千年以上生きる特殊なキュウコンは、人間に擬態することができるって」
 沙季の顔から笑みが消えた。彼女は仮面を外した。生暖かい風が、氷の頬を撫でた。空気が澱み、視界を再び朧気な靄が包み込んだ。
 炎が見えた。白に近い、銀色の炎。だが、それは炎ではなかった。銀の毛皮を持つキュウコンの、九本の尾を神々しく広げて佇む姿が、暗闇の中で輝く炎に見えたのだ。それは幻惑などというまやかしではない、現実の光景だった。
 銀色のキュウコンは、少女の姿の時とは対照的な鋭い瞳を氷へと向け、低い唸り声を上げた。氷は掌に力を込めた。標準を再び、相手へと定める。その瞬間、拳銃を握っていた右腕に激痛が走った。燃えていた。赤々とした炎に包まれ、右腕は燃えていた。
「どう? これが私だけの特殊な力――”フレイム”の能力」
 キュウコンは人間の言葉で、そう言った。言いながら白煙に包まれ、少女の姿へと戻った。少女は薄い笑みを浮かべ、痛みに呻く氷の姿を眺めた。
 燃えつづける右腕の炎を振り払おうと、氷は左手で燃え盛る部位を叩いた。炎は左腕にも燃え移った。氷は歯を食いしばり、灼ける両腕を岩肌に擦り付ける。手にしていた拳銃が地面に落ちた。鉄の芯が地面を叩き、その音が響くより先に、氷は膝から崩れ、倒れた。

 

○●

 血の匂いだ。あの時、確かに小さな柔らかい体を抱きかかえながら、この匂いを嗅いだ。火薬の灼ける香りを。四散した肉片が放つ死臭を。谷底から吹き上がる乾いた風は、死の匂いを運び、辺り一面に容赦なく撒き散らした。
 幼い瑞穂は泣きながら、涙に覆われた瞳で、それを見た。屍体を見つめた。見てしまった。忘れない。忘れようもない。記憶という名のフィルムに焼き付けられて、昔のことを思い起こす度に、色褪せることのない光景が、打ち捨てられた屍体が、屍体の浮かべる惨めな表情が、脳裏に浮かぶ。
 瑞穂は崖の淵に立ち、吹き上がる風を浴びていた。あれから数年経った今でも、血の匂いは消えていない。むしろ想像力という羽根をつけて、記憶の中の匂いは、光景はより凄惨なものへと飛躍しつつある。見下ろせば、血塗れのリングマの屍体が、今でも転がっているような気がして、瑞穂はそれが錯覚だと理解していても、谷底を見下ろすことはできなかった。
「こんな所に僕を案内して、何を見せてくれるのかな?」
 瑞穂の背中を眺めながら、サリエルは言った。感情のこもっていない、平べったい声だった。瑞穂はゆっくりとサリエルの方へと振り向き、彼の顔を見つめ返した。小さな背中を、激しい勢いの風が撫でる。少女は押し出されるように一歩前へと進み、強風に乱れた髪を手で押さえた。
「この場所に、見覚えはありますか?」
「さぁ。始めてくる場所だよ。シロガネ山に、こんな場所があるなんてね」
「そう、ですか」
 少しだけ肩をすくめ、瑞穂は上目づかいにサリエルを見つめ続けた。その視線は次第に鋭くなり、やがて睨むような目つきへと変わった。サリエルは口許に笑みを浮かべたまま、溜息をついた。
「君は何が言いたい? 山小屋の電話から、警察に通報できたんだから、それで終わりだろう。わざわざこんな所に、それも2人きりで、僕を呼び出す理由は何だ」
 瑞穂は口を開いた。暗く沈み込んだ眼を細め、少女はもう一度、同じ言葉を発した。
「本当に、この場所に見覚えはありませんか?」
 彼は顎を引いた。口許の笑みを掌で隠し、微かに苛立ちの表情を浮かべる。
「無いよ。記憶に無いね」
「私はありますよ。ここで、この場所で――」
 言いながら、瑞穂は腰のモンスターボールの開閉スイッチを指先で擦るように押し、リングマを外へと出す。リングマは、少女とは対照的な、強靱な巨躯を強張らせ、低い唸り声を上げた。少女と同じようにサリエルを睨み、今にも噛みつきそうな形相をしている。
「この子の母親が殺された。殺したのは、手の甲にタトゥのある、初老の男です。男は不思議な形をした銃で、この子の母親を、リングマを撃ち、谷底へと落とした」
「それで?」
「男は相手の死を確認すると、その場から去りました。でも、その場にいたのは、初老の男だけじゃなかったんです」
 サリエルは口許にあてていた掌を降ろし、顔いっぱいに笑みを浮かべた。彼の瞳は大きく見開かれ、少女の小さな体を食い入るように見つめていた。
「言いたいことは解ったよ。その場所に、僕も居たと言いたいのだろう?」
「違いますか?」
 訊きながら、瑞穂は掌を握りしめた。指先が怒りに震えるのを悟られないために。少女のその仕種は、自分の考えの正しさを確信しているということを意味していた。
 ボールの中で怒りに震えるリングマの呻きを聞いたとき、瑞穂は思い出していた。母親のリングマを殺した、黒いタトゥのある男の姿と、その男の背後で笑みを浮かべ、初老の男に指示を出す少年の姿を。
 小銃を構えた男の事ばかりが印象に残っていたため、少年のことは記憶の奥底に埋もれ、忘れていた。だが、一度思い出してしまった記憶は、今にも触れられそうなほどに鮮明で、細部まで正確に映しだされていた。少女自身の成長によって、その時に少女の理解し得ない部分が、覆い隠していたフィルターが剥がれ落ちていた。
「いや、僕もたった今、思い出したよ。」
 サリエルは動揺することもなく、言い放った。喋るたびに頬に刻まれた鋭いタトゥが不気味に、それ自身が意志を持っているかのように蠢いた。
 瑞穂は黒い部分を見つめた。それは初老の男の手の甲に刻まれたタトゥに似ており、彼の背後に立ち、無邪気に微笑む少年の頬に刻まれているものと、同じ色、同じ形をしていた。だからこそ、瑞穂は記憶の奥底に埋もれていた少年の姿を、鮮明に思い出すことが出来たのだ。
「だいぶ昔の事だけど、確かにここでリングマを殺した。殺したのは僕じゃないけど、指示を出したのは僕だよ」
「どうして、殺したんですか? 何の罪もないポケモンを――」
 掌を掲げ、サリエルは瑞穂を制した。
「今、この世界に罪の無い存在なんてものは無い。人間は、僕らから”禁断の果実”を盗んだという原罪を負っている。そんな愚かな人間と共に暮らすポケモンも同じ罪を負って当然だろう。特に、盗まれた果実の恩恵を最も受けている”能力者”の罪は重いよ」
「禁断の果実? それに能力者って、まさか」
 能力者。サリエルの放った言葉に、瑞穂は狼狽えた。能力者という存在が何であるのか、思い当たる節があったからだ。
「ex能力を持つ、ポケモンのことですか?」
「知っているのか。それなら話は早いよ」
 サリエルは驚いたように微かに目を開き、深い笑みを浮かべた。
「君たち人間は、能力者のことをそう呼ぶらしいね。能力者とは、禁断の果実から放たれた種を遺伝子に秘めた、特殊な個体のこと。僕らにとって、彼等は最も許されざる存在であると同時に、最も厄介な存在でもあるのさ」
「厄介な存在? 普通のポケモンには無い、特殊な能力を持っているからですか」
「いや、それだけじゃない」
 折角だから教えてあげるよ。彼はそう言い、瑞穂の隣で構えるリングマに視線を移した。頬のタトゥを指先で軽く撫でる彼の瞳は、感情の見えない冷たい色から、妖しい色へと変化していた。僕のことを理解してもらうためにも、大切な話だからね。
「能力者は、他の能力者の力を相殺することが出来るからさ。つまり、能力者同士では、お互いの特殊能力が発動しない。もっとも、それはお互いの能力が同等の場合だけどね」
 確かにそうだ。そんなことを、同じようなことを、あのロケット団の研究者も言っていた。瑞穂は記憶を探り、exポケモンの研究者だった、柊博士の言葉を思い起こした。ex特性体に対抗できるのは、ex特性体だけ。何故なら、ex特性体同士では、ex能力は働かないから。
「あなたはex特性体――能力者をつかって何かを企んでる。でも、他の能力者が邪魔だった。他の能力者によって、自分のポケモンの能力が無効化されてしまうから。だから、殺した。リンちゃんのお母さんも、その能力者だったから。だから殺したんですね?」
「ああ」
 そっけなく、サリエルは答えた。
「でも、大事な事を忘れている」
「大事なこと?」
「今、僕がここにいる理由だよ」
 瑞穂は即座に彼の言葉の意味を理解し、身構えた。サリエルは耳の、鍵の形をしたピアスに手をかけていた。彼は腕を上下に降り、少女達へ突き刺すような鋭い視線を向けた。握り締めた鍵型のピアスは長く伸び、剣へと変化していた。その切っ先は、リングマの喉元へと向けられている。
「リンちゃんも、その能力者なんですね?」
「そうだよ。能力者の持つ種は、遺伝子に隠されている。だから遺伝するんだ。そのリングマの能力は予知能力、”フォーテル”。低級の能力だけど、覚醒されると厄介なんでね」
 胸元を掌で押さえつつ、瑞穂はリングマを見上げた。昔から勘が鋭かったけど、まさかex特性体だったなんて。そう言えば――瑞穂は混乱しつつある頭の中を、必死で整理した。コガネシティで私が襲われたとき、リンちゃんは私の場所を知っていた。それだけじゃない、リンちゃんのお母さんが殺されたときも、リンちゃんは最初からすべてを知っているみたいだった。でも、リンちゃんの勘が特別鋭かったわけじゃない。リンちゃんは、最初から見えていた。最初から、少し先の未来を知っていたんだ。
 サリエルは剣の中央部にはめ込まれていたモンスターボールから、月形のポケモン、ルナトーンを繰り出した。ルナトーンは瑞穂の肩の辺りまで浮かび上がり、小さな少女と大きなポケモンを見下ろした。そして、サリエル自身も、剣を握り締め、身構えた。
 瑞穂は軽く唇を噛み、サリエルと彼のポケモンを見た。腰から護身用の小刀を取りだし、威嚇するかのように構えて見せる。サリエルと少女は、お互いに身構えたまま暫くの間、沈黙の中で対峙した。
「そのナイフで僕を殺すかい? でも、僕はハルパスとは違うよ。相手が子供だからと言って、油断もしないし、手加減もしない」
「ハルパス──? やっぱりあの人も、あの森のリングマ達を殺して、ヒメグちゃんに非道い事した人達も、あなたの仲間なんですね」
「あの森のリングマも、能力者だったからね。君のリングマと同じ、予知能力を持っていた」
 少女の握り締めた小刀の先端が、小刻みに震えていた。それは未知の存在の対する恐れではなく、理不尽なものに対する怒りから来ていた。
「リンちゃんは殺させない。リンちゃんのお母さんを殺した、あなたを、私は許さない」
「君が僕をこんな所に連れてこなければ、僕はリングマだけを殺して、君を殺さずにすんだかもしれないのに。そんなに、そのポケモンが大事か?」
 いきり立ったように歯を食いしばり、瑞穂は右腕を大きく振るった。小刀は空気を切り裂き、谷底から吹き上がる風は、支えを失った柱の如く不規則に揺らいだ。
 顔を上げ、少女はサリエルを射るような鋭い視線で睨んだ。強い風が、薄青色のツインテールを弄り、彼女の感情の波に同調しているかの如く、激しく揺れている。
「当たり前じゃないですか。リンちゃんは、私の友達であり、私の大事な家族なんですよ! 見殺しになんて、出来るわけ無いですよ」
「それなら、僕に殺されるしかないね。まぁ、どちらにしろ裁きの日が訪れれば、君達は滅ぶのだから。すべての人間は、愚かで醜く利己的で、生存する権利など欠片も無いのだから」
 少年は微笑み、リングマはその不気味な笑みへの怒りを抑えきれず吼えた。轟音が辺りに聳える岩肌を震わせ、谷底へと響き渡った。今にもサリエルに飛び掛らんとするリングマの巨体を片手で制しつつ、瑞穂は訝しげに小首を傾げた。
「あなたは何者なんです? どうしてそんなに、人間の存在を歪めて捉えるんですか? あなたも、そんな人間の1人じゃないですか」
「違うよ」
 少年は言った。瑞穂は不意に、視界の中央に立つ少年の姿が遠ざかるのを感じた。今まで、噛合わない会話を繰り返しながらも、そこに彼はいた。だが、この瞬間、少年は少年でない、別の種類の物に変わり、中身のない外枠だけが取り残されているような気がした。
 サリエルは言葉を続け、小さな少女を真正面から見据えた。不気味な視線に、瑞穂は思わず視線を逸らそうとした。だが、身体は動かなかった。少年の視線に身体の芯を射抜かれ、そしてその傷口から全身の力が抜けていくようだった。
「動けないだろう? 僕も”能力者”なんだよ。能力者の力は、何もポケモンに限定されたものじゃ無いからね」
「人間が──ex能力を?」
 動かない身体に苦悶の表情を浮かべながら、瑞穂は呟いた。
「僕は人間とは違う。姿は似ているけれど、人間とは、まったく別の次元の存在さ。かつて人間たちは、自分たちの都合に合わせて、僕らのことをこう呼んだ。悪魔だと、そして天使であるとも」
 瑞穂は少年の言葉に驚きを露わにした。途端に、全身を激痛が襲った。驚きの表情を浮かべる間もなく、少女は悲痛な呻きを上げた。
 庇うように少女を抱きかかえ、リングマは咄嗟にサリエルの方向を見た。少年は瞳を細め、少女の全身を舐めるように執拗に見つめていた。原理は解らなかったが、リングマは瑞穂の苦しむ原因が、サリエルの視線にあると気づいた。
 巨体に抱いた少女をそっと手放し、リングマは野太い咆哮を辺りに響かせ、サリエルへと飛び掛った。サリエルは瑞穂から視線を外した。と同時に、瑞穂は脱力し、その場に倒れた。冷たい地面にぐったりと横たわる瑞穂の小さな身体。全身から滲む汗が衣服を濡らし、手足が微かに痙攣している。
 サリエルは視線の矛先を、リングマに向けた。リングマは一瞬、分厚い硝子の壁に阻まれたかのように動きを止め、沈黙したが、すぐさま腕を振り回し、その場で一度、大きく口を開き、鋭い牙を剥き出したまま吠えた。
 少年は軽く舌打ちした。
「覚醒しかけている──か。僕の”グレア”の能力を中和するとはね」
 リングマは太い腕を振り上げ、サリエルの頭部めがけて振り下ろした。即座にルナトーンが、防御に回る。ルナトーンはリングマの力に吹き飛ばされ、後方に聳える岩肌にぶち当たった。
 ルナトーンの身体の一部が砕けた。サリエルは横目でその様子を眺め、手にした剣を静かに、だが素早く横へと振った。剣先が空を切り、リングマの腹を掠める。
 リングマはもう片方の腕で、サリエルの脇腹を殴った。少年は手にした剣を正面に構え、彼の拳と、衝撃の瞬間に伸びきる鋭い爪を防ぐ。鈍い金属音が2、3度鳴った。
 サリエルは剣でリングマの攻撃を防ぎ続けた。チラリと、後方に倒れるルナトーンを見やる。ルナトーンが少年の視線に呼応するかのように仄かに輝き、瞳を開くと、再び宙へと浮かんだ。
「ルナトーン、サイコキネシス
 ルナトーンの念動力が、リングマの巨体を吹き飛ばした。その隙に、サリエルは体勢を立て直し、より一層鋭く、リングマを睨み付けた。
 リングマの動きが止まった。彼は困惑した表情で自分の手足を交互に見た。サリエルは素早い動きでリングマに肉薄し、剣を彼の肩へと差し込んだ。食い込んだままの剣を、執拗に捻る。
 リングマの肩に激痛が走った。痛みと同時に、少年の束縛が消えた。低い唸りを上げながら、彼は一歩下がり、威嚇するように両腕を前へと突き出した。破壊光線を撃つ直前の、リングマ特有の構えだった。
 手足の震えと痛みを必死で堪えつつ、瑞穂は上半身を起こした。口許に光を湛え、今にも破壊光線を撃たんとするリングマの巨体が、朧げな視界に飛び込んできた。少女は目を見開き、焦りを滲ませつつ何かを叫んだ。だが、その声も、その視界も、リングマから放たれた破壊光線の光に塗り潰された。
 光は暫く渦巻き、やがて薄くなり、消えた。辺り一面を衝撃波がなぎ払い、クレーターのように地面が抉れていた。
 クレーターの中心部に、リングマは立ち尽くしていた。力を振り絞り、彼は息を荒げたまま、少年が立っていた場所を見た。
 サリエルは何事も無かったかのように、身体に降り注いだ埃を払っていた。少年の上方には、ルナトーンが浮かび、少年を守る為のリフレクターを張っていた。
「この程度なら、僕が直接、裁くまでも無かったな」
 サリエルは呟き、剣を振り上げ、リングマの肩をめがけて切り裂いた。リングマは咄嗟に剣先から逃れようと身体を動かしたが、破壊光線を発射した反動のために、避け切る事ができなかった。剣は容赦なく先ほどの傷口へ突き刺さり、彼の肩肉の一部を削ぎ落とした。リングマは破壊光線が効かなかったことと、肩を切り裂かれた激痛によって錯乱し、後ろへと倒れた。砂埃が舞い、茶色のカーテンの後ろから、少年の酷薄な顔が覗いた。
「脆いな。君の母親と同じように、ぐちゃぐちゃにしてあげるよ」
 少年は蔑みと憐みの入り混じった口調で、リングマに囁いた。手にした剣を何度かリングマに振り下ろし、突き刺す。鮮血が迸った。砂山を踏み潰す子供のように、サリエルは愉しげに、だが憎しみの宿ったような執拗さで、剣を振るった。最初のうちは低く唸っていたリングマも、激しくなる痛みと、少年の得体の知れない憎しみに困惑し、巨体に似合わぬ掠れた鳴き声を上げ始めた。
 突然、少年が倒れた。乾いた音が響き、赤い飛沫が上がった。何度か同じ音が響き、最後には湿った音へと変わった。
 リングマは肩の傷口を手で抑え、ゆっくりと起き上がった。少年の上に、何かが覆いかぶさっていた。それはか細い腕で、少年の顔を何度も打ちつけていた。サリエルは声も出せぬまま、地面へと押し付けられ、身体の上に圧し掛かる、それのされるままになっていた。
 痛みを堪えつつ、リングマはそれの顔を覗き込んだ。小さな少女の、瑞穂の顔があった。瑞穂の顔には、深い影が差し、表情を読み取ることができなかった。
 瑞穂はぜいぜい言いながら、サリエルの頬を叩き続けた。時折、苦しげに歯を食いしばり、掌が痙攣してもなお、少女は止めなかった。
 サリエルの顔から、血が吹いた。鼻血だった。少年は呆然とした様子で、瑞穂の掌に翻弄されていた。やがて痛みを認識したのか、情けない呻きが漏れた。瑞穂は疲れ果て、少年の上に座り込んだまま、茫洋とした瞳を泳がせていた。
 サリエルは即座に、足で瑞穂を突き飛ばした。瑞穂はそのまま後ろに倒れ、リングマに抱きかかえられた。少年は掌で顔を抑えながら立ち上がった。指の隙間からは、鼻血が止め処なく垂れている。だがその血を気にも留めず、サリエルは瑞穂とリングマを呆れた様子で見つめた。
「やるじゃないか。人間のくせに、僕を殴るなんて。僕に血を流させるなんて。”能力者”であり、”天使”である僕を傷つけることができるなんて。君こそ、何者だ?」
 瑞穂はサリエルの問いかけには答えず、僅かに怒りを含んだ口調で言い放った。
「リンちゃんは殺させないって、言ったじゃないですか。私には、力も、特殊な能力も無いですけど、あなたには負けない。負けられないんですよ。リンちゃんを守る為なら、私はあなたを殺してもいい」
 少年は血塗れの顔を歪め、嘲笑した。
「僕は死なないよ。少なくとも、君には殺せない。僕は、邪魔な”能力者”を滅ぼすよ。そして、神は人間を一掃する。君も、君の仲間も、すべては裁かれる。僕は、新しい世界への扉を開ける、”鍵”なんだよ」
 二の腕で顔にこびり付いた鼻血を拭い取り、サリエルは剣を構えなおした。だが、少年は急に動きを止めた。訝しげな表情を浮かべ、剣をピアスへ戻す。静かに瞳を閉じ、遠くの何かを感じ取っているかのような、耳を澄ますような素振りを見せた。
 瑞穂は突然のサリエルの挙動に、困惑した様子で立ち尽くしていた。リングマは唸り声を上げたまま、身構えている。
 サリエルは目を開いた。横目で瑞穂たちの様子を見つめ、残念そうに一言、呟いた。
「予定変更だ。君たちは後回しにすることにしたよ」
「どういう意味です?」
「君たちの相手をしている場合じゃなくなったんだよ」
 サリエルは指を鳴らした。ルナトーンが瞳から極彩色の光線を放った。リングマは瑞穂を庇うように抱きかかえたが、光線は瑞穂たちには当たらず、足元に命中した。光線がはじけ、土埃が煙幕のように少女たちを包み込んだ。煙の晴れる頃には、サリエルの姿は消えていた。
「逃げた──?」
 その時、瑞穂のモンスターボールが再び震えた。イーブイモンスターボールだった。少女はすぐにボールに触れた。リングマと同じ怒りの感情が、ボールから瑞穂の中へと逆流した。
イーちゃん?」
 瑞穂は思わずイーブイモンスターボールから手を離した。指先が痛いほどに痺れていた。大人しく穏やかなイーブイからは考えられないような、獰猛で怒りに満ちた、くぐもった唸り声が響いてくる。
 姉さん。
 リングマは肩の傷を腕で押さえながら、瑞穂へと話しかけた。
 このイーブイ、怒ってるよ。すごく怒ってる。僕は、こんな怒りは、大事な誰かを殺されたときしか知らない。僕は、このイーブイのこと、あまりよく知らないけど、僕と同じように、大事な誰かを──。
 瑞穂は首筋に冷たい汗が滲むのを感じながら、小さく頷いた。
イーちゃんは、元々私のポケモンじゃ無かった。あの森で”黒い霧”に襲われて、親のトレーナーを殺されてるの」
 このイーブイ。「嫌な臭いがする」って言ってるよ。「あの人が襲われて、消えちゃったときと同じ臭いがする」って。
「もしかして、”黒い霧”を復活させた張本人が、この近くにいる──?」
 胸騒ぎを抑えながら、瑞穂はリングマの肩を治療した後、イーブイを出した。イーブイは短い牙を剥き出し、普段とは明らかに異なる唸り声を発しながら、一目散に駆けていった。
 瑞穂はイーブイの後を追った。ふと見上げた空は、夕闇に染まっていた。空は、やがて白と黒に飲み込まれた。黒は夜の闇。朔の夜なのか月は見えず、明かりと呼べるのは、星々の光だけだった。それさえも、何かに遠慮しているかのように、細々としている。
 そして白は、踊るように降り注ぐ、妖精かと見紛うほどに美しい雪だった。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。