ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-4
#15 天使。
4.喪失の子羊
風は感じない。そのせいか、雪はゆっくりと、まっすぐ闇の中を落ちて行く。白い首筋に、肩に、握り締められた手の甲に、綿のような雪が降り、それは触れた瞬間にとろけて肌を濡らした。
「行こうか、キーちゃん」
瑞穂は傍らに佇むブラッキーに囁くと、暗闇に溶け込んでいるかのような、漆黒のローブを纏った男の姿を、しっかりと見据えた。
再び雲が星の光を遮り、夜の闇は一面を暗く塗りつぶしていた。ブラッキーの身体から発せられる仄かな光だけが、辺りを照らしている。その頼りない光を雪が反射し、その光の破片は、静かに少女の周りを舞う。張り詰めた空気に不釣合いな幻想的な光景だった。
ファルズフは、ミルが言っていた通りの不気味な男だった。ミルは男のことを忌々しげに語っていた。なんの前触れもなくあらわれて宝玉を奪った。客船グラシャラボラスを沈め、エンジュシティで黒い霧を蘇らせた。この男の、ファルズフのせいで、ミルの故郷の人々は、グラシャラボラスに乗っていた人々は、エンジュシティの人々は死に絶え、その哀しみはリリィとライムという、更なる悲劇の発端をも生み出した。
ファルズフは、予期せぬ少女の介入に、微かに狼狽しているようだった。だが、その口許は歪んだ笑みを湛えている。威嚇でもするかのように、男は掌を瑞穂へと掲げてみせた。
瑞穂は、ミルへ氷の事を頼むと声をかけ、身構えた。
「あなたは何の為に、こんな事をするんです?」
かつて、陽炎ミルがしたであろう問いを投げ掛ける。無駄と思っていても、どうせまともな答えは返ってこないと解っていても、瑞穂は男に訊かずにはいられなかった。
「何の為に? それを知って、どうするというのだ。何ができる?」
ファルズフは嗤った。その瞬間、男の掌に青い血管が浮かび上がった。空気が震える。衝撃波が少女へと放たれたのだ。
瑞穂は跳んだ。衝撃波が足元を掠める。土煙が舞い、岩が砕ける。少女は男の頭上で身体を捻らせ、彼の背後に着地した。同時に叫ぶ。
「キーちゃん。騙し討ち!」
衝撃波の巻き起こす土煙の中から、無数の光の輪が浮かんだ。ブラッキーだった。ブラッキーは縫うように衝撃波を避け、防御壁を作り出す暇すら与えずに、男の懐へと潜り込んだ。
頭上を飛び越えていく瑞穂へと注意を向けていた男は、咄嗟の攻撃に対応しきれなかった。咄嗟に拳を握り締め、噛締めた白い歯を剥き出し、突っ込んでくるブラッキーへと拳を振り下ろす。だが、拳は空を切った。そこにブラッキーはいなかった。光の輪の残像だけが、男の腕の辺りにちらついている。男は驚きの声を発した。体勢を整え、辺りを見回す。
音がした。ファルズフの身体が、その顔が大きく左右へと振れた。ブラッキーの身体が、男の左頬へ食い込んでいた。
男は倒れた。ブラッキーは男の首筋にしがみついている。ファルズフは弱々しい手つきで、ブラッキーを振り払おうと手を振った。だが、その手はブラッキーには触れず、ただ光の間を往復する。ブラッキーは赤紫の瞳を広げ、男の顔を睨んでいた。男の首筋に牙をやり、噛み付く。ファルズフの悲鳴と呻きが、闇の中から響いた。
ブラッキーは、口許にこびり付いた男の鮮血を雪へと擦りつけ、瑞穂の足元へと寄り添った。黒い体毛は雪によって、白に覆われている。
瑞穂にも、ブラッキーと同じように薄く雪が積もっていた。肩や首筋が凍みる。服が滲みるのと同時に、少女は頬にかさかさとした感触を覚え、濡れた手の甲で頬を拭った。乾いた感触は消え、手の甲は、血に染まっていた。ファルズフの血ではなった。”天使”を名乗る少年、サリエルを殴りつけたときに、彼の血飛沫が少女の顔に飛び散っていたのだ。少女は軽く手を振り、血の混じった水を払い落とした。
男は首筋の傷を押さえつつ、立ち上がった。黒い法衣のフードは破れていた。今まで隠れていた男の素顔が覗く。瑞穂は男の顔を見た。黒々としたタトゥが、額から鼻にかけて這うように刻まれている。それはサリエルや、リングマの母親を殺した初老の男に刻まれていたそれと、酷似していた。
「何者だ。お前は?」
男は呻くように、怒りを露わに瑞穂へと問いかけた。
「さっきも、同じ事を訊かれました。サリエルって人に」
瑞穂はあえて、サリエルの名を出した。身体に刻まれた同じような形のタトゥ。ファルズフがサリエルと繋がりが、共通項があるのなら、何かしらの反応があると思ったのだ。
サリエルの名を聞き、ファルズフの顔が引きつった。怯えていた。血塗れの手で額のタトゥを押さえる。指先が震えている。
「サリエルを知ってるのか?」
読み通りだった。瑞穂は男の額にあるタトゥを見据え、やはり、と呟いた。男に出くわしたときから抱いていた、サリエルが突然、自分のもとを立ち去った原因がこの男にあるのではないかという漠然とした考えは、確信へと変わった。
「やっぱり、サリエルって人と、関係があるみたいですね。そのタトゥ。その手から放たれる衝撃波。あなたも”能力者”ですか?」
「お前は何者だ。そこまで知っているとは。まさかお前が、あの御方の言っていたルファエルか?」
ファルズフは瑞穂の問いには答えず、逆に問い返してきた。瑞穂は男の発した”ルファエル”という言葉の意味を考えながら、そうとは悟られないよう、冷静に応えた。
「私は、何でも無いですよ。ただの人間です。天使でも、特殊な能力を持っているわけでもない。何処にでもいる、ただの子供です。それより、あなたこそ一体――」
瑞穂の言葉が遮られた。ガスの洩れるような、静かで、それでいてやけに耳に残る音によって。少女はファルズフに注意を払いつつ、音のする方を見やった。音は洞窟の奥から聞こえていた。
「洞窟の中から、霧が?」
洞窟から、白い霧が溢れ出ていた。少女は思わず呟き、その霧の奥に、蠢く人影を見た。
朦朧とした意識から抜け、最初に見たのは、どこかで見たことのある少女の顔だった。誰だろう。誰だっただろうか。
射水 氷は、少女の小麦色の肌や、顔をまじまじと見つめた。少女は見つめられているのに気付いたのか、訝しげに、躊躇いがちに氷へと問いかけた。
「だ、大丈夫なの? 生きてる?」
すらりとした長身に似合わない、頼りなさげな声だった。声を聞いて、氷は少女の名を思い出した。陽炎ミルと言っていた。組織に連れ去られた瑞穂を救出する際に、一緒についてきた少女だ。そして、氷の本当の姿を知っている、数少ない人間の1人。
「この程度で、私が死なないのは、知っているでしょう?」
氷は冷たく呟き、上半身を起こした。夜になっていた。月や星の光は雲に遮られ、辺りは墨を撒いたように暗い。その闇の中で、ぼんやりとした光が浮かんでは消え、何かのぶつかり合う音が響く。
「何が、起こったの?」
「瑞穂ちゃんが、助けてくれたのさ。あの黒尽くめの――ファルズフって言うんだけど、あいつが、氷ちゃんに大怪我させて、あたしと一緒に殺そうとしたの」
ミルの説明は要領を得なかったが、氷は大凡の所を理解した。眼が暗闇に馴れる。闇の中で光るものの正体は、ブラッキーの紋様だった。ブラッキーは男の顔へ突進し、倒れた男の首筋に噛みついた。男が、情けない呻き声を漏らした。ブラッキーは振り払おうとする男の手を避け、瑞穂のもとへと戻ると、彼女の足下に寄り添った。
瑞穂は身構えていた。首筋を押さえながら立ち上がる男を注意深く見据え、何か問いかけている。
「それより、大丈夫なの? なんか、体中が傷だらけだけど、そんな平気な顔してさ。痛くないの?」
ミルが痛々しげに眉を潜め、氷へ訊いた。
「別に」
「そうなんだ。痛く、ないんだ」
ミルは寂しそうに俯いた。氷は、ミルの表情の変化を見た。だが何故、彼女が寂しげな表情をするのか、どうしてそんなに俯くのかは解らなかった。氷はミルの顔を覗き込み、微かに首を横へと振った。
「だけど、痛みを感じないわけじゃない。ただ、身体が反応しなくなってるだけだから。だから、別に痛みを感じないわけじゃないの。何も感じないわけじゃない」
言い訳のようだった。どうして、こんなに言い訳じみた言い方をしているのだろう。別に嘘はついていない。痛みはある。熱さも、額や腕に降り積もる雪の冷たさも感じる。それは、本当の事で、ただ身体が、表情がいちいちそれらに反応しなくなっているだけなのだ。
氷は不意に、ミルの腕を掴んだ。自分でも、何故そうしたのか意味が解らなかった。ミルは瞬時に顔をひきつらせた。明らかに、怯えていた。ミルは反射的に腕を引き、氷から離れた。ミルの腕の生暖かい感触だけが、氷の指先に残った。
「あ。別にあたしは――」
ミルはばつが悪そうに顔を伏せた。殆ど下を向いていた。
「別に、気にしてない」
言葉とは裏腹に、氷の言葉は小さく、沈んでいた。どうしてだろう。今まで組織で、化け物のように、気色の悪い物のように、扱われるのには馴れていた筈なのに。どうして、こんなに哀しいのだろう。手を振り払われて、何故、いまさら少しだけ、本当に少しだけ傷ついているのだろう。
「私は、大丈夫だから。傷もすぐに再生するから」
自分で自分に言い聞かせるように、氷は呟いた。情けない声だった。まるで、今にも泣きそうで、それを必死で堪えているような声だった。
「再生って、”あの姿”になるの?」
ミルは、氷が触れた二の腕を、もう片方の掌でさすりながら、恐る恐る訊いた。
「ええ、ほんの少しだけ。あの姿、気持ち悪いと思う?」
「だから、あたしは別に、なんとも」
「正直に言って。気持ち悪いでしょう?」
氷に問いつめられ、ミルはだいぶ躊躇ってから頷いた。
「気持ち悪いっていうか、怖い。さっきだって、別に氷ちゃんに触られるのが嫌なんじゃなくて、なんていうか、その」
「何なの?」
「喰べられると思った。あの時、あの、あの化け物を喰べた時みたいに。それが怖かった」
氷はミルから視線を外した。これ以上、ミルの怯える表情を見たくは無かった。ただ怯えているのでは無い。氷を見て、氷の存在を認識した上で、怯えている。それが氷には、たまらなく辛い。
全身の傷が疼いた。氷は首を横へ向け、傷を見た。茶色く泡立っている。裂け目から覗く肉が、不気味に蠢いている。氷は咄嗟にミルへと声をかけた。
「見ないで」
「え?」
「再生が始まる。あの姿になる。だから、私のことを見ないで」
ミルは何気なく、氷の傷へと視線を向けた。彼女の瞳は、氷の傷口を捉えた瞬間、大きく見開かれた。何かを堪えるような声が漏れる。悲鳴とも、呻きとも聞こえる声だった。もしかしたら、その両方かもしれない。
傷口から、ぬらぬらと湿った異物が突き出ていた。鱗のような硬質の皮膚を持つ、触手だった。その先端には鋸のような牙が生え、知性の欠片も無い瞳が、時折ぎょろりと辺りを見回す。
異臭を放つ体液と無数の触手が犇めきあう。生々しい音が身体中から聞こえてくる。その音に、ミルの呻き声は遮られた。視界が失せた。顔も触手に覆われ、いや顔からも触手が生えたのだろう。身体の芯を、不快感が這いずった。
最後に見えたのは、ミルの青ざめた表情だった。見るなと言った筈なのに、彼女の瞳は氷を、いや触手に埋め尽くされている”化け物”を、じっと見つめていた。汚物でも見るような、侮蔑の眼差しだった。その眼差しは残像のように、氷の意識にこびり着く。その刹那、秘部から得体の知れない体液が漏れた。生温い感触が、”化け物”の太股あたりに広がる。
氷は思わず、呟いた。見ないで。恥ずかしいよ。恥ずかしいから、見ないで。お願いだから、もう、私を見ないでよ。だが、その声は獣の呻きにしか聞こえなかった。人間の言葉としては、意味の無いものだった。
氷は意識を取り戻した。辺りは白い霧に包まれていた。上半身を起こし、辺りを見やる。だが、霧が濃すぎて何も見えなかった。
「大丈夫?」
すぐ側で、ミルが囁いた。
「あれから、どのくらい経ったの?」
「そんなに経ってないよ。1、2分位だった」
氷の身体には、その裸体を包む隠すように明るいオレンジ色の布がかかっていた。ミルがかけたのだろう。氷は布を胸元まで手繰り寄せ、ミルへと訊いた
「全部、見たの?」
「うん。それと、ごめん。吐いちゃった」
見ると、ミルのすぐ側に生えた木の根に、ミルのものと思しき嘔吐物がへばりついていた。
「悪いけど、嘘はつけないね。やっぱり、あの姿はちょっとね。当分、夢にでてきそう」
ミルはちらりと自分の嘔吐物を見やり、力なく微笑んだ。
「そうね。私も、そう思う。だけど、あれが私の本当の姿だから」
氷は俯き、呟いた。ミルの侮蔑の眼差しが、脳裏に甦った。
「それは──それとこれとは違うでしょ」
ミルは首を横へ振った。氷は俯いていた顔を上げ、ミルを見た。ミルは真剣な眼差しで氷を見つめ、咎めるような口調で早口に捲し立てた。
「あれは確かに氷ちゃんの、もう一つの、別の姿かもしれないけど、あれは氷ちゃんの本当の姿なんかじゃないでしょ。あたしは、今の姿が、この小さな女の子の姿が、氷ちゃんの本当の姿だと思うよ。どうして、そうやって自分の事を悪く言うのさ。どうして、瑞穂ちゃんや、あたしのことを試すようなことを言うのさ。
さっき、氷ちゃんの”あの姿”を見て、その様子を見て、なんとなく解ったよ。氷ちゃんは、ただ裏切られるのが怖いだけさ。氷ちゃんは、すごく卑怯で臆病な、ただの子供だよ。ああ言うことばっかりいって、本当は慰めて欲しい、そうじゃないよと言って欲しいだけの、寂しがりやな子供さ。違う?」
氷は押し黙った。ミルの言葉は、微かに怒気を含んでいた。
「そりゃ元々は、あたしが氷ちゃんを理解してあげられなかったから、なんだけどさ。それにしたって、卑屈になりすぎだよ。もうちょっと、素直になったっていいじゃないさ。あたしは別に、今の氷ちゃんの事、嫌いじゃない。ちょっと変わってるけど、悪い子じゃないのはわかるからさ」
氷は何も言わず、ミルの言葉を聞いていた。まるで、怒られた直後の幼子のように身を強張らせている。何故、何も言い返せないのだろう。ミルの言っていることが正しいから? 違う。私は、そんなこと考えていない。慰めてもらおうなんて、思っていない。なら何故、反論できないのだろう。私は何を考えているのだろう。何を、どうしたいのだろう。
「私は、違う。だけど、なんて言っていいか、解らない。どうして、何も言えないのか、わからない」
ミルは、だらりと垂れている氷の掌をとり、強く握り締めた。
「氷ちゃんは、怒られたことが無いだけだよ。だから――」
「2人とも、危ない!」
突然、瑞穂の声が響いた。ミルと氷は咄嗟に声のする方を向いた。最初は、雪玉かと2人は思った。だが、それは雪でも冰でも無かった。炎。氷はそれが炎であると知った。白い炎だった。氷は左手を翳し、防御の姿勢をとる。だが氷の身体は、地面を離れて浮いた。ミルが素早く、氷の小さな裸体を抱きかかえ、白い炎の塊を避けていたのだ。
白い炎の第二波が、霧と降りしきる雪の中から迫った。氷はミルに抱かれたまま、炎を目で追った。避けられない。そう氷が思った瞬間、ミルは突然、炎へと背を向けた。炎がミルの背中を炙る。ミルは痛みと熱に悲鳴をあげた。氷を放り投げ、縺れるように倒れると、ミルは雪の中で藻掻いた。
「ミルちゃん」
放り投げられた拍子にまとわりついた雪を払い落とし、氷は立ち上がった。身体を覆い隠していた布が落ちる。氷の白く透き通った裸体が露わになった。氷は裸であることを気にも留めず、ミルのもとへと駆け寄る。
「どうして、私を庇うようなこと。自分だけ逃げたらよかったのに。私はあの程度じゃ死なない」
火傷したミルの背中に雪を押しつけながら、氷は理解できないとでも言いたげに、首を振った。
ミルは苦しげに身を捩り、氷の顔を見据えた。
「だって怪我したら、また”あの姿”になるじゃないさ。氷ちゃん”あの姿”になるの嫌でしょ。恥ずかしいんでしょ」
「それは、そうだけど」
「だったら、素直になりなよ。人間でいたいんでしょ? だったら、もっと自分を大事にしなよ。あたしだって、氷ちゃんのあんな辛そうな姿、見たくないんだから」
この娘は、何を見たのだろうか。氷はミルの背中にポケモン用の火傷治しを吹き付けながら、考えた。替えの服を身につけ、ミルの身体を起こすのを手伝うときも、ずっと氷は、思考の片隅に疑問を残していた。
「泣いてたから」
ミルは、ぼそぼそと呟いた。氷の疑問を、その訝しげな目つきや、無言の動作から悟ったかのようだった。
「泣きながら、触手を叩いてた。ちっちゃい手で。まるで、ディグダ叩きみたいに。そうやっていく内に、どんどん氷ちゃんの身体が、触手に飲み込まれていって、まるで溺れてるときみたいな表情で氷ちゃんは叫んだんだよ。”見ないで”って。涙をぼろぼろ流しながら。まるで小さな――今でも小さいけどさ、もっと小さな子供みたいだった」
ミルはゆっくりと起きあがり、木の幹にもたれた。氷の着ている紺のワンピースの肩の辺りを指で撫でる。氷は恥じるように俯いた。
そんなことを、泣きながら叫んだのだろうか。ミルの言うとおり、幼子のようになっていたのだろうか。あの時の氷の記憶はおぼろげではっきりとしない。いつもそうだ。あの醜い姿になるとき、いつも氷の意識は途絶え、まるで別の何かに、自分という存在が飲み込まれていくような感覚だけが残っているだけだから。
「その時、解ったんだよ。氷ちゃんは、人間だって。ただ、他の人と違う身体を持ってるだけだって。自分でも、自分のことが怖い、気持ち悪いんだって。私が、氷ちゃんのことを怖い、気持ち悪いと思っているのと同じように。
本当の氷ちゃんは、今、ここに座ってる氷ちゃんであり、その根っこにあるのは”あの姿”になる直前に、泣き喚いていた幼稚園児みたいな氷ちゃんなんだよ。少なくとも、あの化け物みたいな姿は、氷ちゃんじゃない。だって、あれは氷ちゃんが望んだ姿じゃないから。
だから、氷ちゃんの裸の、無防備な姿を見たときには、可哀相だと思った。同情とか、そう言うのじゃなくて、ただ氷ちゃんを助けて上げたいと思った。だから、もう氷ちゃんのことは怖いとは思わないし、気持ち悪いともあんまり思わない。それだけさ。それに――」
氷ちゃんが人間じゃないって言うんだったら、あたしだって、人間じゃないと思うからさ。
氷は、ミルの最後に言い放った言葉の意味が解らなかった。どういう意味なのか、それを聞き直そうとしたとき、再び瑞穂の声が響いた。白い炎が、霧を突き抜け氷達の眼前まで迫っていた。
炎は掻き消された。小さなポケモンが、炎を遮っていた。瑞穂のグライガーだった。グライガーは羽の皮膜で、氷達を炎から守っていた。
「ご、ごめん。大丈夫だった?」
霧をかき分け、ポニータが跳んできた。ポニータの背中には、しがみつくように小さな少女が乗っていた。瑞穂だった。
「あの白い炎はなんなのさ。おもきり、火傷したよ」ミルは真っ先に訊いた。
「よく解らないけど、あの洞窟の中から霧がでてきて、それから突然、炎が飛んできたの」
霧が晴れてきた。氷は洞窟の奥を見やった。ぼんやりと、人の影が見える。氷と同じくらいの背丈だった。だが、不意にその人影は大きさを変えた。
「あれは――」
氷は言葉を失った。洞窟から姿をあらわしたのは、橘 沙季だった。彼女は精気の失せた瞳で、辺りを見回していた。譫言のように何かを呟いている。氷は耳を澄ました。
「たすけて」そう言っていた。
「ロコン。たすけてよ。くるしいよ。なんだか、あたまがおかしいの。私が、なんだか別の何かになっちゃったみたい。わたしのこころが、ワれてしまったみたい」
氷はロコンを探した。ロコンは、いた。沙季の立つ3メートル程先に聳える岩の隙間に隠れていた。沙季は氷より少し遅れて、ロコンを見つけた。沙季は歪んだ笑みを浮かべ、ロコンのもとへ歩み寄った。
「ろ、ろこん。たすけて。わたしをたすけて」
赤い火花が散った。沙季の顔が焼けた。ロコンは背中の毛を逆立て、跳び上がった。震えていた。その瞬間、氷はロコンと眼があった。いつもと同じ、得体の知れない瞳をしている。いや、違う。
あれは怯えている眼だ。怯えているのを、怖れているのを悟られないために、大きく目を広げ、感情を読まれないようにしていただけだ。だから、あんなにも不気味で、まるで仮面のようだったのだ。ロコンはずっと、自分と違う存在に対して、橘 沙季に対して怯えていた。
逃げ出すことも出来ないほどに怯えていたのだろう。今から思い起こせば、ロコンの瞳は、その小さな身体は、常に硬直しきっていた。だが、今は違った。沙季は明らかに弱っている。彼女の呪縛から逃れるのなら、今しかない。
ロコンは呻った。立て続けに火の粉を沙季へとぶつけた。沙季は何が起こったのか理解できていないようだった。呆然と身体に降り注ぐ火の粉を眺め、なおもロコンへと助けを求め続けた。
「やめてよ。どおして、こんなことするの? たすけてよ。すごく、すごく、くるしいの」
ロコンは逃げ出した。金の毛皮は雪がまとわりついて、白っぽくなっていた。瑞穂の足もとを通り過ぎ、氷の肩を跳び越え、頭を大きく揺らしながらロコンは樹海の奥へと消えていった。
氷はロコンを見送ると、沙季へと視線を戻した。沙季の眼から、光は失われていた。口から涎を垂らし、全身を痙攣させている。まるで気が違ったかのような、不明瞭な呟きと動作。
「ろこん。どおして、わたしのこと、うらぎるの。わたしがなにをしたの。わたしは、なんなの? わたしはだれなの? わたしは――」
不意に沙季の瞳が白く濁った。彼女の身体から、白い何かが吹き出した。眼から、口から全身の毛穴から。それは一瞬で沙季の身体を包み込んだ。霧だった。水蒸気のように勢いよく、煙のように濃密な、白い霧。その不気味な霧は、瑞穂や氷達の周りを漂う。
「あれは、一体」
霧が渦巻き、夜の闇の中を舞った。霧は、今にも崩れ倒れてしまいそうな、力の抜けた沙季の身体を覆い隠した。次の瞬間、霧の奥から、先程と同じような、白い炎が飛び出した。炎は瑞穂達を狙っていた。
「グラちゃん、お願い!」
瑞穂は眼前に迫った炎を睨み付けながら、グライガーへ声をかけた。グライガーは瑞穂の声に頷き、羽で身体を包むと、炎の中へと飛び込んだ。炎は、グライガーの防御皮膜に遮られ、弾けて消えた。
霧の中から、腕が覗いた。足が見えた。霧の中に、洞窟の中で蠢いていたのと同じ人影が見えた。人影は、霧の中で腕を広げた。生暖かい風が吹いた。霧が一斉に飛び散る。人影は、その姿を露わにした。子供だった。それも、瑞穂や氷と同じ年頃の少女だった。少女は、得体の知れない微笑みを湛えていた。
「沙季が、いない?」
氷は沙季を探した。沙季の姿は何処にも見当たらなかった。微笑み続ける少女だけしか、そこにはいなかった。
「私は――”さき”なんて名前じゃないよ」
少女は氷の方へと向き直った。そして、愉しげに眼を細め、話しかけた。
「よろしく、射水 氷ちゃん。兄上様の、初恋の化け物さん」
視界を遮っていた白い霧は、一瞬のうちに掻き消えた。弾け飛んだ靄の残滓は瑞穂の頬を掠め、肩の辺りまで沈むと、やがてその色を失った。澄んだ暗闇の中を、小さく儚い雪の粉が、消えてしまった靄の埋め合わせでもするかのように、止め処なく舞い降りていく。
霧の中から現れた少女は、瑞穂たちへと向き直った。微笑みをつくり、氷へと何かを語りかける。瑞穂は、氷の表情を伺った。氷は瞳を細め、訝しげな、そして微かな怒りを含んだ眼差しで少女を見つめ返している。
「氷ちゃん、あの娘のこと、知ってるの?」
「知らない。少なくとも、私は知らない。でも、あの娘は、私の事を”化け物”と呼んだ。私の事を、知っている。恐らく、彼女は──」
「私だよ。これが私だよ。私の本当の姿。私の望む、真実の、偽りの無い、汚れを知らない処女の身体」
少女はわざとらしく大きな声を発した。言葉を遮られ、氷は微かに眉を顰めて口を噤む。瑞穂は少女へと視線を戻し、少女の姿を、その様子をつぶさに見つめた。
降りしきる雪よりも深い、澄んだ銀色の髪をしていた。その色は、研ぎ澄まされた刃物の輝きを思い起こさせる。銀髪は腰の辺りにまで伸び、少女はしきりに掌で撫で付けている。
巫女装束に似た、白と紺の不思議な衣服を身に纏い、少女は愉しげに辺りを見回していた。少女特有の華奢な身体は瑞穂や氷と同じほど白く、さらにその銀髪と衣服の為に、全身が白いような錯覚を覚える。細い指先が、その白さに似合わない紫色の爪が、長い髪の肩辺りに嵌めた輪の形をした装飾品に触れ、冷たい金属音を奏でる。少女は金属音をきっかけに瞳を広げ、銀髪から掌を離し、真面目な表情で呟いた。
「宣告します。私の名前は、ラツィエル──ラツィエル・アクラシエル」
少女が自らの名を語った瞬間、彼女の胸元に、痣のようなものが浮かび上がった。瑞穂は即座に、それがタトゥだと悟った。形や刻まれた部位こそ多少違うものの、それは紛れも無く、ファルズフや、サリエルと名乗る少年、そしてリングマの母親を殺した初老の男に刻まれていたタトゥとほぼ相違無いものだった。
「あなたは何者ですか?」
瑞穂は訊いた。ラツィエルと名乗った少女は、身体に薄く降り積もった雪を軽く振り払い、満面の笑みを浮かべ、応えた。
「私のこと? 私は、天使だよ」
ラツィエルは嘘でも冗談でも無い、何気ない様子でその言葉を発した。”天使”であると。瑞穂はサリエルの言葉を思い出した。人間とは違う存在。人間達は、自分達の都合に合わせて、彼らを悪魔だと、そして”天使”であると呼んだということ。
思案する瑞穂をよそに、氷は口を開いた。
「その天使とかいうのが、どうしてここにいる。沙季は、どこへ消えたの?」
「ここにいるよ」
ラツィエルは自分の胸元に手を当て、意外なほどあっさりと答えた。
その瞬間、瑞穂は、ラツィエルの胸元に浮かび上った紋様が、細い指先の隙間から覗く黒々としたタトゥが、蠢いているかのような錯覚を覚えた。それは、少女の白い胸元を黒色のアリアドスが徘徊しているようにも見えた。
「つまり、あなたも能力者ということですか」
「ええ。これが私の能力。”憑依”の力。だから、あのキュウコンの身体は、もう私のものなの」
「キュウコンの身体?」
洞窟から出てきた女の人の事を言っているのだろうかと、瑞穂は首をかしげた。だが、あれはどうみてもキュウコンでは無かった。15、6才ほどの女性にしか見えなかった。
「さっきの女のことよ」
事情を知らない瑞穂に説明するように、氷は言った。
「あれは、千年以上生きたキュウコンが人間に化けた姿。つまり、自在に変化する事ができる身体。あのラツィエルという女にとって、都合の良い身体」
氷は紫紺の瞳で、ラツィエルの白い全身を見据えた。ラツィエルは微笑んでいた。満足げに頷いている。
「そうだよ。でも、大変だったんだよ。なかなか条件が合わなかったから。まずメスじゃないと駄目だし、ポケモンは見た目が微妙だし、人間は淫乱で処女は少ないし。私の望む姿になれて、処女なのは、この身体しかなかったの」
そこまで言うと、ラツィエルは恍惚とした表情で、あらためて自分の身体を舐める様に見つめた。
「何の為に、それに処女である必然は?」
「兄上様は、処女を好むから。それだけよ」
瑞穂と氷は顔を見合わせた。訝しげに眉を顰め、氷は言った。
「あなたの兄というのは、サリエルという男ね?」
「知ってるの? サリエルって人のことを」
瑞穂は驚いたように、氷へと訊いた。
「ええ。丁度、瑞穂ちゃんと知り合ったばかりの頃に、あの男の方から私に接触してきた。あの頃、私はコガネシティで──」
何を思ったのか、氷は瞳を細め、瑞穂から視線を外した。か細い声は次第に掠れ、語尾は声として聞き取る事ができなかった。
「でも、最近は会ってない」
「それは、あなたがもう処女じゃないからだよ。さっきも言ったけど、兄上様は処女が好みだから」
ラツィエルは笑った。氷を嘲っているかのような笑いだった。氷は表情こそ変えなかったが、口許から何かの軋む音が漏れた。
「それよりあんたは、あんた達は何でこんな事をしたのさ」
瑞穂の肩にもたれるようにして、ミルは立ち上がった。火傷の痛みに微かに顔を顰めながらもラツィエルを、そしていつの間にか、彼女の後ろで静かに佇むファルズフをしっかと睨みつけている。
「あんたの後ろにいる、ファルズフって奴のせいで、みんな死んだ。いや、そもそも深海の涙が盗まれたとき、あたしの意識を乗っ取ったのは、あんただった。元々あんたが全部仕組んだ事なんでしょ?」
「うん。でも、私が完全に再生するには、深海の涙が必要だったから。しかたないよ。悪いのは私じゃなくて、ファルズフだ」
ラツィエルの顔から拭ったように笑みが失せた。つまらなそうに後ろのファルズフへと振り向く。ファルズフは途端に身を強張らせた。
「ラツィエル様。そんな奴らと話をしている場合ではないと思いますが。我々にはまだ やらなければならない事が──」
「うるさいよ」
少女は腕を上げ、紫色の爪をファルズフへと向けた。ファルズフは顔を引きつらせ、後ずさった。ラツィエルの指先から白い閃光が迸る。瞬時に男の身体が、その全身が白い炎に包まれて、燃えた。男の身悶え呻く声が、暗闇の中に木霊す。
白い炎は、降り注ぐ雪の中で燃え続けた。蒸気に霞んだ火柱は、積み上げられた雪が光を浴びて、煌いている様にも見える。
眺めるだけならば、それは幻想的な光景だった。だが、頬にじりじりと張り付いてくる熱は、耳に響いてくる男の泣き声は、幻想とは程遠い血腥い現実。
瑞穂は、炎の美しさに、ラツィエルの無邪気な笑みに内包された、見た目とは相反する、狂気にも似た凄惨さに戦慄した。
男の声が途絶えた。ラツィエルは瑞穂たちに背を向け、男の残骸へと駆け寄った。男の残り滓は、一部だけが小さな白い炎として燻り続け、大半は灰となって雪のうえに散っている。その死に様は、山の中腹で見つけた、二つの焼死体と酷似していた。
「死んじゃえ」
男は既に絶命していた。少女は愉しげに呟きつつ、徐にその灰の中へと腕を突っ込んだ。灰に埋もれていた宝玉を、深海の涙を掴み上げ、自らの首へとかける。
「殺した?」
瑞穂は呆然と、少女と男の屍体とを見つめる事しかできなかった。あまりに一瞬の出来事に、身動きすらとれなかった。
ラツィエルは再び瑞穂たちへと振り返った。髪飾りのリングが澄んだ金属音を響かせる。
「これで、悪い奴は殺したよ。もう、文句無いよね?」
瑞穂は急に肩が重くなるのを感じた。肩にもたれたミルの身体が震えていた。
「あんたが、殺したんだね?」
ミルはゆっくりと言葉を一句一句紡ぐように喋った。瑞穂は初めのうち、ミルが何を言っているのか、何の事を言っているのか解らなかった。だがやがて、背中に響くミルの鼓動を、腰の辺りに食い込むミルの指先の力を感じ、その意味を悟った。
「今のを見て確信したさ。あたしの村の人たちを殺したのも、あの船を沈めたのも、エンジュシティで”黒い霧”を復活させたのも、ファルズフって奴の考えじゃない。確かにあの男も、それで人殺しを愉しんでたかもしれない。だけど、それを望んだのは、人やポケモンが死ぬのを望んだのは、あんただろ?」
ミルの問いに、ラツィエルは低くため息をつき、呟いた。
「これだから、”イモータルの能力者”は嫌いだ。あの時、ちゃんと殺した筈なのに、そうやってしつこく私につきまとってくる。まあ、確かにファルズフは頭が悪かったから、私がいろいろ教えてあげたよ。いっぺんに沢山の人間を殺す方法とか」
「何の為に! 意味も無く人を殺して、何になるのさ」
ミルだけでなく、瑞穂も同じ疑問を抱いていた。宝玉を手に入れるだけなら、村の人間を全員殺す必要は無い。いくらミルが宝玉を取り戻そうと追ってくるとは言え、脅しの為だけに船を沈める必要は無い。まるで、初めから人間を殺すことだけを、それも一度で大量に殺すことを目的としているとしか思えなかった。
「命を吸う必要があったからだよ」
ラツィエルは言った。小指で首にかけた宝玉をゆっくりと撫でている。
「私はね、十歳の誕生日に兄上様に殺されたの。兄上様や私のような上級の天使は、十歳になると本格的に”能力”が覚醒するからね。
兄上様から聞いてると思うけど、”能力者”同士だと”能力”が相殺されてお互いに無効化される事がある。普通の”能力者”なら、敵対する相手の”能力”だけが相殺されるんだけど、上級天使は”能力”が強すぎて、味方の”能力”まで相殺して、無効化しちゃうことがあるの。でも、それだと”能力者”である意味が無いでしょう?」
炎が消えた。男に原形と呼ばれるものは残っていなかった。濁色の灰が、降り積もった純白の雪を醜く汚しているだけだった。
明かりが失せ、ラツィエルの周りが仄暗い闇に包まれた。瑞穂は頷くかのように静かに顎を引き、大きく瞳を見開いて、白い少女の姿を凝視した。ラツィエルの胸元に浮かんでいるタトゥが、またも蠢いて見える。アリアドスが幾重もの足を広げて、少女の身体に、白い皮膚にぺったりと張り付いている。瑞穂には、そのように思えてならなかった。
「だから、殺されたの。天使を統括するべき、”主”たるべき、私のような上級天使は、お互いの”能力”を、配下天使の”能力”を無効化してしまわないように、常に一人でいる必要があるから。その為には、既存の”主”と十歳になり覚醒した”主”の候補が、殺しあうしかないの。親子であろうと、兄妹であろうと、生身で殺しあうしかない。そうして、より強い上級天使が”主”となる。それが、ルールだから。そういう規則だから」
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。