水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-5

#15 天使。
  5.人間の価値

 

「十歳の誕生日。その日に私は殺された。兄上様の手によって」
 ラツィエルは瑞穂を、その澄んだ瞳を見つめながら、ゆっくりと語った。腰まで伸びた銀髪に、雪の粉が舞い降り、雫となって頬や首筋を伝うと、白と紺の巫女装束を濡らす。少女は一度、小刻みに顔を振り、滴る雫を振り払った。髪飾りのリングが揺れる。降り注ぐ雪の間を縫うように優雅に揺れる、仄かな明かりを宿したリングを見つめ、天使の輪のようだと瑞穂は思った。
「私は兄上様を愛していた。だから、兄上様が望むものは、私が用意して、兄上様に差し上げてきた。人間の命も、ポケモンの命も、私自身の愛撫も、囀りも、料理も、処女すらも。
 だけど、兄上様は私を殺した。兄上様が私が死ぬ事を望んだから、私も兄上様に殺されてあげた」
 指先が見えた。白い指先。紫色の光沢を放つ、研ぎ澄まされた爪。ラツィエルは腕を上げ、その指先を瑞穂たちへと向けていた。半歩後ずさり、瑞穂は身構えた。腰のモンスターボールへ、リングマのボールへ即座に手を伸ばす。
 ラツィエルは一瞬、視線を瑞穂の手許へと向けたが、特に気にする様子も無く語り続けた。
「あの時、兄上様は、私の胸元に剣を突き立てた。痛かったよ。そのまま兄上様は剣を抜いた。血が沢山出たよ。何回もそうやって剣を抜き差しして、最後は剣を捨てて、私の頭を掴んだ。振るの。身体に穴が開いているのに、兄上様は私の頭を掴んで、何回も振って、壁に打ち付けるの」
 瑞穂は背筋に冷たいものを感じた。舞い降りる雪のせいではない、辺りを包む寒気のせいでもない、もっと別の生理的な悪寒を感じた。感覚が麻痺したように、背中にぴったりとくっつくミルの体温が感じられない。感触はあるのに、悪寒だけが身体の芯を支配する。
「もうその時に、私は死んでた。だから、別の場所からその様子を眺めてたの。もう死んでいるのに、兄上様は執拗に、私の抜け殻を打ち付けて、最後には拳で顔をめちゃくちゃに殴りつけるの。私は白目を剥いていた。顔の骨は砕けて、せっかくの可愛い顔が、私でも自分の顔だと解らない位に崩れて、歪んでた。
 一時間くらい経って、やっと兄上様は、私の身体を壊すのをやめた。兄上様は掴んでいた私の頭を首筋を離して、抜け殻を、屍体を床に棄てた」
 非道いよね。ラツィエルは言い、同意を求めるような眼差しを、瑞穂たちに向けた。
 ラツィエルの言葉に擦り込まれた傷を、その苦痛を、自分も感じてしまったかのように瑞穂は顔を顰め、眼を細めた。微かな同情と、強い憎しみや憤りの交じり合った混沌とした色をした瞳で、ラツィエルを見つめ返す。
「だから、復活する為に沢山の人を殺す必要があった、ということですか。人を、ポケモンを殺して、その命を吸う為に?」
「私のような”憑依”の能力者は、死んで身体を喪っても、他の命を吸い続ける事で、魂だけの状態を、つまり意識だけを保ち続ける事ができるから。もっとも、能力者でなくても、強い未練とかがあれば、意識を残したり、現世に干渉する事もできるけど」
 瑞穂はラツィエルを睨みつけた。
「あなたが、宝玉で復活させた黒い霧も、その一種ですね」
「そうだね。ファルズフに取って来て貰った”深海の瞳”は、私の”能力”を完全に覚醒させる為に必要だったけど、私が考えていた以上の力を持っていた。だから黒い霧を復活させて、人間を殺して、もっと効率よく命を吸う事を思いついたの。私の理想の身体さえ、すぐ見つかればよかったんだけど、なかなか見つからなかったから、その分だけ命も沢山吸わないといけなかったの」
「その為に、自分が蘇える為に?」
 ミルは自らの身体を支えていた瑞穂を押しのけて、ラツィエルの正面に立った。肩を怒らせ、頬を引きつられていた。歪んだ口許の隙間から、噛締められた歯が覗く。
「何が、言いたいの?」
 ラツィエルは笑いながら、無邪気に小首を傾げる。ミルの声や表情が何故、怒気を含んでいるのかを、本当に理解していないかのようだった。長い銀髪は静かに揺れ、天使の輪から放たれる澄んだ金属音とともに、纏わりついた雪の粉を振り撒く。その微笑みは、一片の汚れも見えない、白く清純なものに見えた。
 まるで本当の、天使の微笑みのようだ。
 瑞穂はミルの肩越しに、ラツィエルの笑顔を眺めながら思った。今まで見たどの笑顔よりも、ラツィエルの笑みは硝子のように透明で、濁りや汚れは一片も見えない。だが、この微笑みが殺すのだ。こんな汚れ無き微笑みでも、こんな風に笑える少女でも、沢山の命を潰して、そこから染み出た汁を啜って、それでも尚、何も感じずに笑っていられる。
「いくら自分が蘇る為だからって、他の命を犠牲にするなんて、許されるわけ無いじゃないさ!」
 ミルは一気に捲くし立てた。ラツィエルは微笑みを動かさず、瑞穂たちへ突き立てた指先を妖しげに動かした。白い火柱がミルの足元を跳ねる。ミルは驚いてのけぞり、体勢を崩して瑞穂の身体にしがみついた。
「自分を知らないことって、ここまで愚かなんだね。そんなだから、兄上様に存在まで否定されるんだよ。せっかく私は、人間を守ってあげようとしているのに」
「人間を守る?」瑞穂は訝しげに呟いた。
「だって人間がいないと、甘いお菓子も食べれないし、テレビも、映画も見れないじゃない。
 何より命が吸えないから。新しい身体になった以上、昔みたいに細々と命を啜ってても、この身体は維持できないよ。人間には、減った分だけ増えてもらわないといけないの。だから、私は兄上様を止めて、人間をあるべき形に導く為に蘇ったの」
 人間に”あるべき形”なんて無い。瑞穂はラツィエルの言葉を聞いて、心の奥底で即座に呟いた。それは、彼女にとって都合の良い形であるだけだ。人間を適度に増やして、減らない程度に磨り潰して、そこから命の汁を絞り出す。それは黒い霧による殺戮や、やグラシャラボラス沈没のような哀しい事が、際限なく永遠に繰り返していくということ以外の何物でもない。
「それじゃまるで、家畜ですね。私たちは」
「家畜だよ。だって、人間も同じ事をしているでしょ。だから、”家畜”っていう言葉も存在するわけだし。それに人間は、同じ人間同士でありながら、お互いに殺しあうじゃない。戦争って言うんだっけ? この辺りでずっと戦争が続けば、私も無駄な力を使わなくてすむんだけどね」
 瑞穂は押し黙った。ラツィエルの言葉をすべて受け入れたわけでは無い。確かにラツィエルの言うことの大半は事実で、そこに人間という存在の抱える矛盾が、無数に存在しているのだろう。
「で、次は何がいいかな?」
 レストランで追加メニューを選ぶような愉しげな、無邪気な口振りでラツィエルは言い、辺りを見回した。瑞穂を一瞥し、何かの答えを待っているかのような表情を浮かべる。その時、瑞穂は遠くの夜空に、チカチカと瞬く光の点を見た。ラツィエルはすぐさま瑞穂の視線を追い、同じようにそれを、雪の闇を飛んでいく、ジャンボ旅客機を見つめた。
 ラツィエルの薄紅色の唇が緩み、微かに開かれた口から白い歯が覗いた。瑞穂へと向けていた細い指先を、徐に飛行機へ向ける。瑞穂は、背筋が凍るのを感じた。
「あれが墜ちたら、中に乗ってる人間と、墜ちた場所の人間、ぜんぶ死ぬよね」
 瑞穂は手に触れたボールを強く強く握り締め、大きく見開いた瞳で、ラツィエルを睨みつけた。ミルは顔に驚きと困惑とを綯い交ぜにした表情を浮かべた。氷は興味なさげに背を向け、後方に落ちていた拳銃を、だらりと垂れた左腕で拾い上げ、握り締める。
「ぜんぶ、死ぬよね?」
 ラツィエルは瑞穂をしっかと見つめたまま、同じ呟きを繰り返した。少女の紫色の爪が、不気味で鮮烈な光を帯び始める。何も言わず、何も言う暇も無く、瑞穂は素早く手にしていたモンスターボールを、その開閉スイッチを擦った。ラツィエルの爪先が火炎の輝きを放つよりも一瞬早く、瑞穂の掌は眩い閃光に包まれた。閃光は放物線を描きつつラツィエルの眼前へと降り立ち、野太く低い咆哮を響かせながら、その巨体を露わにした。そこにはリングマが立っていた。リングマは再び咆哮し、降りしきる雪と、凍りついた空気とを震撼させた。
 ラツィエルの指先から、輝きが失せた。彼女は露骨に顔を顰め、まるで大好物のお菓子を突然取り上げられた幼子のような恨めしげな瞳で、自分の前に立ちはだかるリングマの巨大な身体を見据えた。
「”能力者”か。まだ、存在していたんだ。兄上様も詰めが甘いね。まぁ、まだ完全に覚醒してないようだからしかたないかな」
 能力同士が相殺され、ラツィエルの能力は無効化されたようだった。だが、ラツィエルはマイペースを崩さず、子供のような不機嫌で浮かない表情のまま、瑞穂の方を見た。瑞穂は身構え、ラツィエルを睨み返し、悲痛な声で語りかけた。
「やめてください。あなたにとって、その程度の価値しかない人間でも、私たち人間にとっては、同じ存在なんです。だから、死ぬのは哀しい。死ぬのを想像するだけでも、特に大切な人ならなおさら、哀しいんですよ。私は、死ぬという現象自体は怖くない。私は、既に死んでいても、いつ死んだって、おかしくない身体だから。
 でも、他の人間は違う。普通の人間は、何処にでもいる人間は、沢山いるからこそ、あなたにとっては価値が薄いのかもしれないけど、自分がいつ死ぬのかも知らないんです。いつか死ぬとは知っていても、遠い未来のことだと信じて疑わない。だから、怖いんですよ。突然、自分の存在が、自分の意識や感情や積み上げてきたものが消えて、何もかもすべてを失って、無にしてしまうのが怖いんですよ。私は、自分が死ぬことより、そういう突然命を絶たれてしまう人たちの絶望や恐怖や愁いや憎しみを想像するほうが怖いし哀しい。だから、誰にも死んで欲しくない。殺さないでください」
「無理だよ。命を吸わないと、ちょっと疲れる。それに人間が死んだって、人間でしょ? 別に私は哀しくないよ」
 黙り込んだまま、瑞穂は上目使いにラツィエルを、少女の満面の笑みを見据えた。愁いや動揺が欠片も見当たらない、偽りでない少女の笑顔に、瑞穂は何を言っても無駄だと、意味が無いということを漠然と悟った。焦燥でも諦めでも絶望でもない、ただ実感があるだけだった。
 価値観が、生命観が違った。そもそも彼女らに、そういった概念があるのかすら怪しい。人間にポケモンに、その存在のひとつひとつに、感情や尊厳とかいったものがあるということを、天使である彼女にとって卑賤な存在であるそれらに、そんなものがあるなどということは理解できない。だから、人間を家畜と呼べる。愚かだと罵り、まるで消しゴムの滓を吹いて棄てるかのように、あっさりと何も感じずに、非道く殺せてしまう。
 瑞穂は、ラツィエルへ投げ掛けるべき言葉を、考えるのを止めた。少女に何かを言って、宥めて、説得して、命乞いをして、それで終わるのなら、終わりにできるような悲劇なら、初めから悲劇などにはならないはずだということを、知ったから。
 何も言わずに立ち竦んでいる瑞穂を眺め、ラツィエルは、ふと何かを思いついたかのように顔を上げた。不機嫌そうな表情を消し、元の汚れ無き微笑みを浮かべて、少女は呟いた。
「でも、いきなり欲張るのはよくないかな。まずは──」
 ラツィエルは軽く掌を振った。瞬間、霧が少女の周りを包み込み、少女の白い身体は、同じ色である白い霧に紛れて見えなくなった。リングマは即座に、屈強な腕を勢い良く横へと振り切り、霧を吹き飛ばす。だが、晴れた霧の中に、ラツィエルの姿は既に無かった。リングマと瑞穂は驚いて辺りを見回す。ワンテンポ遅れて、リングマの背後から雪を踏みしめる足音が響き、彼は音を頼りに振り返った。
 銀の毛皮を纏ったキュウコンが、佇んでいた。リングマは虚を衝かれたような表情を浮かべる。キュウコンは小さく細い顔に薄笑いを浮かべ、口を開いた。白い炎を帯びた熱風が放たれ、リングマの身体を包む。
 リングマは雄叫びをあげ、勢い良く両腕を広げた。白い炎を弾く。素早くキュウコンの懐に詰め寄り、屈強な腕を、その先端にある鋭利な爪をキュウコンへと振り下ろす。キュウコンは軽い身のこなしで軽々とリングマの腕を避け、空中で一回転し、再度リングマの背後へつく。リングマの腕が地面を打ち、爆発音にも似た轟音と共に、積もっていた雪が一斉に舞い上がった。
「リンちゃん、上から炎が!」
 瑞穂の咄嗟の一声で、リングマは頭上から降り注ぐ火炎放射を寸前で避ける。空中を舞う間に放ったのだろう。雪の上に佇むキュウコンは口の端を歪め、引きつったような笑みを見せている。そのキュウコンの笑みに、瑞穂はふと違和感を感じた。
「その微笑みは、違う──あれは」
 呟いた瞬間、首筋に柔らかい何かが触れた。背後にぴったりとくっつく感触に、瑞穂は硬直した。顔を少しだけ動かし、背後に寄り添うそれを確かめる。白い指が、喉の辺りを這うように動く。うなじの辺りに滑らかな頬が擦れる。瑞穂は驚いて声を上げた。喉を押さえられていた為に掠れた声が、雪上の闇を一瞬、凍りつかせた。
「そうだね。たしかに、あんなのは私じゃないよ」
 ラツィエルは、瑞穂の小さな身体を、背後から抱きしめていた。しなやかな掌を、平べったい胸の辺りへ動かし、揉みしだく。顔を、鼻先を瑞穂の首筋へと接近させ、匂いを嗅ぐ。
「どうして、あなたが。それじゃ、あのキュウコンは一体」
「”傀儡”だよ。まさか、あれが私の本体だとでも思ったのかな」
 瑞穂の声を聞き、リングマは彼女の置かれている状況に気付いた。炎を吐き続けるキュウコンを半ば無視し、彼は振り向いて、攻撃的な前傾姿勢をとった。だが、ラツィエルの身体がぴったりと瑞穂にくっついているを認め、仕方なしに動きを止めた。下手にラツィエルを刺激すると瑞穂が更なる危険に晒されるのは明らかであったし、何より瑞穂とラツィエルの距離が近すぎて、攻撃すれば、瑞穂をも傷つけてしまう恐れがあった。それはミルも同様で、後ずさるように二人から離れることしかできなかった。
「まずは、あなたの命から吸わせてよ。お腹が空いてるの。あなたの命が一番新鮮で、美味しそうだから」
 ラツィエルの妖しく光る爪が、瑞穂の脇腹に浅く食い込んでいた。食い込んだ爪の先端から針ほどに鋭い熱が刺し込まれ、身体の芯を炎で炙ったような激痛が、瑞穂の小さな身体を貫く。苦痛に身悶え、少女はか細い呻きを発した。弱々しい声にも関わらず、瑞穂の顔は噴出す汗に濡れ、酷く紅潮していた。
 突然、銃声が轟いた。ラツィエルは反射的に身を翻し、寸前で銃弾を避ける。その拍子にくっついていた身体同士が離れた。リングマは即座に巨体を動かし、瑞穂の小さな身体を抱き寄せ、共に雪のクッションへ突っ込んだ。瑞穂の火照った身体は雪の上に投げ出される。苦しげに咳き込みながらも瑞穂はすぐさま起き上がり、体勢を立て直した。銃声の鳴る方と、ラツィエルの方とを同時に見やる。
「それなら、殺すしかない」
 それまで後ろの方から静かに事を眺めてた射水 氷が、硝煙の微かに立ち上る拳銃を握り締めたまま、誰に向けるでもない呟きを漏らしていた。ラツィエルは銃弾の掠めた頬を掌で押さえ、相変わらずの微笑みを浮かべ、氷と対峙した。
「だからって、いきなり撃つんだ。あれだけ近づいてたら何もできないと思ったのに、気をつけてなかった。でも、あの娘に当たったらどうするつもりだったのかな。あなたもあの娘と同じように人間が死んだら悲しいんでしょう? それとも、あなたは人間じゃないから、その娘のことなんて、どうでもいいのかな」
 ラツィエルは掌で頬を押さえたまま、相変わらずの微笑みを浮かべていた。
「別に、人間が死ぬのが悲しいとか、誰にも死んでほしくないとか、そういう優等生な考えには興味無い。人間にも、こいつは死んでいい、むしろ死ぬべきだと思えるようなのもいるし。そうでしょう? 瑞穂ちゃん。たとえば――」
 氷はとある人物の名を口にした。瑞穂は顔を微かにひきつらせ、哀しげに俯いた。それはかつて、幼い瑞穂を虐め続け、しまいには彼女の飼っていたポケモンを玩具のように殺した女の名だった。
「どうして、そのこと知ってるの」
 か細い声で問いかける瑞穂を素知らぬ顔で受け流し、氷は続けた。
「でも、私は人間だから。人間だから、人間を守りたいわけじゃない。私をこんな身体にしたのも、人間であるわけだし。私はただ、瑞穂ちゃんが、大切な人が苦しむのを見たくないだけ。大切な人が殺されそうになるなら、私は大切な人を殺そうとする存在を殺す。いえ、殺すしかない」
 氷は拳銃を握る左手の指先に力をこめた。瞳を細め、ラツィエルを睨み、銃口を、照準をラツィエルの肩の辺りへと合わせる。
「その為に、大切なものを守るために、この力がある。さっきは、瑞穂ちゃんに当たらないように撃っただけ。次は、あなたに当たるように、撃つ」
 ラツィエルは、氷の言葉を嘲るように肩を竦めた。
「結局、人間だって自分勝手な存在じゃない。自分の為、自分の自己満足のためだけに、他者を殺す。それと、私のやろうとしている事、何が違うのかな」
「同じよ。人間は、そういうもの。たとえ瑞穂ちゃんが、他の誰かが否定しても、その事実は変わらない。でも、自分の為だけじゃない。人間は誰かの、大切な人のためにも、戦うことができる。あなたのように自分の為だけに、何かの見返りを求めて、むやみに他者を犠牲にしているわけじゃない。でも、結局それはエゴで、あなたと同じであることに違いは無い。だから、エゴがぶつかり合えば、お互いに殺しあって、大切なものを守らないといけない」
「それで、人間になったつもりなのかな? でも、そうやって守ってても、あのキュウコンのように、最後は守っていた存在に、裏切られることになるかもね」
 一瞬だけ、佇む瑞穂の横顔を流し見てから、氷は小さく口を動かし、握り締めた拳銃の引き金を引いた。
 銃口が火を噴き、銃声の響き渡る刹那、瑞穂は氷の呟きを聞いた。誰かに語りかけるような呟き。だが、その相手はラツィエルという少女へ向けたものではなかった。微かな甘えを含んだ少女の口調は、自分へと、もしくは身近な誰か、両親か姉妹へ向けられているもののように思えた。
「もう、覚悟はできてるよ」
 白い炎が舞った。”傀儡”と呼ばれたキュウコンが、放たれた銃弾へ向け熱風を吹きかけた。銃弾は勢いを失い、溶けて雪の上へと落ちる。
 キュウコンが飛び上がり、氷と瑞穂の前に立ちはだかった。傀儡の名のとおり、ラツィエルの意思によって操られているのだろう。
「沙季──」
 氷は、眼前に立ちはだかったキュウコンのかつての名を呟いた。少女は、拳銃のグリップを腰のモンスターボールの開閉スイッチへと押し当てた。開閉スイッチが微かに光を帯び、その光は拳銃へと移った。再び、拳銃をキュウコンへと向け、氷は引き金を引いた。
 銃口の上部に取り付けられたレーザーサイトから光が放たれ、アーボックへと姿を変えた。アーボックは即座に鋭い牙を剥き出し、キュウコンへと飛び掛る。
 キュウコンが跳ねた。アーボックの身体が雪の中に突っ込む。間髪いれず、アーボック長い尻尾がキュウコンの腹を打ち付けた。キュウコンが体勢を崩して倒れる。その隙をついて、アーボックキュウコンの首筋に目掛け、毒針を放った。キュウコン倒れた姿勢のまま、熱風を毒針へと噴きかける。アーボックは身を屈めて熱風を避け、雪を弾きつつキュウコンの懐へ潜り込み、牙を剥き出した。
 キュウコンアーボックの戦いを、瑞穂とミルはただ眺めていることしかできなかった。だが、不意にリングマが小さな声で、何かを言いたげに呻いた。瑞穂は頬をざらざらの舌でなめられたような不快感を覚え、リングマに促されるまま、ラツィエルへと注意を向ける。白い天使の少女は、静かに紫色の爪を氷へと向けていた。もう片方の掌で頬を押さえいる。その指は震え、頬と掌の隙間からは血が濃く滲み出ていた。指先が震える程の明確な殺意の中で、無邪気な笑みだけが、浮いていた。
「リンちゃん。岩石封じ!」
 瑞穂は反射的に呟いていた。リングマは彼女の指示を待っていたかのように、即座に腕を振り上げ、地面を打った。鋭い振動が雪の奥底、地表を伝わり、ラツィエルの足元で炸裂した。降り積もった雪が抉れ、先端の研ぎ澄まされた岩が突き出る。岩はラツィエルの周りを覆うように絡み付き、少女の注意と、身体の自由とを同時に奪った。リングマは咆哮する。と同時に、ラツィエルの爪に燈っていた光が失せた。先程と同じように、能力が相殺されたのだ。
「本当に、能力者って厄介だね」
 ラツィエルは呟き、指を鳴らした。一瞬、ラツィエルの指先は瞬き、その身を雁字搦めにしていた岩は、白い火に包まれて溶けた。炎は濃霧として闇に散り、少女の掌へと結集し、やがて灰色の薙刀へと変化した。
「カオスインフェルノ──」
 宣告するような口調で、ラツィエルは言った。薙刀が色を帯び、少女は両手でそれを握り締め、銀色の刃先を瑞穂とリングマへ向けた。リングマは身構え、瑞穂もまた護身用の小刀を取り出す。
「みんな、ここで殺しておいたほうが、いいかもしれないね。特にそのリングマ。覚醒しかけているから”感染”するかもしれない。”感染”するとしたら、トレーナーである、あなたになる可能性も高いし」
「感染? どういう、意味ですか」
 瑞穂は問いかけた。だが、ラツィエルは応えずに微笑むだけだった。瑞穂は、ラツィエルの身体が動くのを見た。その得体の知れない笑みが、純白の頬から滲む真紅の血が、残像だけを残して、消えた。リングマの脇を、風が吹いた。続いて、霧が流れた。瑞穂は瞳を見開き、小刀を前へと突き出した。金属同士のぶつかり合う音が鳴り響く。リングマの脇腹がすっぱりと裂け、鮮血が迸り、二人の少女を、瑞穂と彼女に対峙するラツィエルとを頭から濡らした。
「くっ──、リンちゃんを、傷つけないで!」
 ラツィエルの薙刀を、瑞穂の握り締めた小刀の刃先が受け止めていた。ラツィエルは一端、力を緩めて再び刃を振り下ろす。瑞穂は、血に塗れて倒れたリングマに注意を払いつつ、ラツィエルの刃を的確に受け止めた。逆に、瑞穂は力を込めて、刃を押し返す。ラツィエルは思わぬ反撃に体勢を崩しかける。薙刀の柄を地面に突き立てて転倒を防ぎ、紫紺の指先を瑞穂へと向ける。白い炎が闇を斬った。だが、瑞穂の姿は既にそこには無い。
 瑞穂は、ラツィエルの頭上を舞っていた。すれ違いざま、瑞穂の刃がラツィエルの肩を切りつける。鮮血が、瑞穂の指先までを濡らす。堪らずラツィエルは呻き、背後に着地した瑞穂の頬を、素早く拳で打ちのめした。瑞穂はラツィエルの拳を避けきれず、その身体は雪の上に倒れた。ラツィエルは隙を逃さず、薙刀の先端を瑞穂の左太腿へと差し込んだ。皮の破ける生々しい音が聞こえると同時に、激痛から瑞穂は悲鳴を上げた。ラツィエルは嗤った。血塗れでもがく瑞穂へ、薙刀を再び振り下ろす。その刃は、今度は少女の首筋を狙っていた。
 不意に、横からの圧力にラツィエルは体勢を崩した。ミルが咄嗟に、ラツィエルの身体めがけて体当たりをしていた。その拍子に刃は目標を外れ、瑞穂の左肩とその下に敷かれた紅く染まった雪に突き刺さった。
「もう、邪魔だよ」
 ラツィエルはミルの身体を押しのけ、指先でミルの腹を突いた。白い炎がミルの腹で燃え上がり、服を焼いた。ミルは倒れ、雪の中でもがく。だが、ミルに纏わりついていた炎は、すぐさま掻き消えた。能力が相殺されていた。ラツィエルは気配を感じたのか、背後を振り返った。
 脇腹を切り裂かれたはずのリングマが、立ち上がっていた。ラツィエルが攻撃に転ずるよりも先に、彼は腕を振った。少女の、ラツィエルの華奢な身体は勢い良く吹っ飛び、岩石封じの残り火の中へと突っ込んだ。リングマは絶え絶えになった息で、瑞穂の身体を抱き起こした。
「そんなに抵抗するなら、本気を出しちゃうよ」
 おぼおろげな意識の中で、瑞穂はラツィエルの囁くような声を聞いた。この期に及んでも、まだ愉しそうな、マイペースな声に、少女は戦慄を感じた。
 燻り続ける白い炎の中で、ラツィエルは起き上がり、立ち上がった。瑞穂も同じように、リングマの腕から降り、不安定な雪の足場の感触を確かめるかのように、ゆっくりと立ち上がる。左太腿を刺された痛みを堪えつつ、瑞穂はラツィエルを見据えて、涙声で呟いた。
「やめてください。もう、やめてくださいよ」
「駄目だよ。そんなこと言っちゃ。家畜は、命乞いなんてしないよ。素直に、私の糧になって。あなたの新鮮な命が、欲しいの。それに──」
 ラツィエルは視線を動かし、瑞穂を庇うように立っている、血塗れのリングマを見やった。
「兄上様じゃないけど、それを生かしておくのは危ないな。私の能力を、こんなに頻繁に無効化できるなんて。それこそ、感染でもしたら大変だよ」
 足元に落ちていた薙刀を拾い上げ、ラツィエルは微笑みと共に、その刃先をリングマへ向けた。
「今なら死にかけだから、楽に殺せるし」
 不意に、ラツィエルの眼前に何かが落ちた。雪の白い粉がふわりと舞う。それは、ラツィエルが傀儡と呼んでいたキュウコンの瀕死の身体だった。背中にアーボックの毒牙によると思しき傷が刻まれている。ラツィエルは微笑みの中に微かな狼狽を見せた。眉を顰め、少女は視線を動かす。牙を剥き出したアーボックに守られるようにして、氷は立っていた。
「沙季を──いえ、そのキュウコンを殺したら、あなたはどうなる?」
 氷は拳銃を構えながら、ラツィエルへと問いかけた。銃口キュウコンを、また即座にラツィエルをも撃ち抜ける方向に向けられている。
「やめてくれないかな。せっかく見つけた身体なのに。それを壊されたら、また理想の身体を探さないといけなくなる。それに私は、ピストル程度の衝撃じゃ、殺すどころか封印すらできないよ」
「でも、痛かったでしょ?」
 ラツィエルの瞳から、笑みが消えた。天使のように澄んでいた瞳に、別の色が混じっていた。氷に撃たれた頬の傷が、それとも瑞穂の斬られた肩の傷が疼いているのか、少女はしきりに息を吐き、身体を揺らしている。
「だから、狙っていた瑞穂ちゃんや、天敵ともいえるリングマを後回しにしてでも、まず私を殺そうとした。痛みを感じるということは、肉体そのものには限界があるということ」
「何が、言いたいの?」
 氷は静かに顎を引き、拳銃の引き金に指をかけた。一瞬だけ、瑞穂たちを見やる。瑞穂もリングマも出血が激しく、立っているのも辛そうだった。ミルは腹部に酷い火傷を負って、雪の中に蹲っている。瞳を細め、氷はラツィエルへと視線を戻し、少女の形だけの微笑みを、その中で怨嗟か怒気に澱みきっている瞳を、睨みつけた。
「ここは、去ってほしい。たしかに今の私達に、あなたの存在は殺せないのは、良く解った。でも私は、沙季を──キュウコンを、もしくは、あなたの瞳孔でも撃ちぬいて、あなたの身体を壊すことはできる。さっきのように、沙──いえ、キュウコンを使って銃弾を防ぐことも、もうできない。ただ、あなたの身体を壊せば、身体を失ったあなたは意識を維持する為に、また関係の無い人間やポケモンを殺して命を啜る。それは瑞穂ちゃんが悲しむことだから、できればしたくない。瑞穂ちゃんが、さっきあなたを刺し殺さなかったのも、恐らくその為」
「つまり、お互いに手加減してたってことだね。いいよ、今日はここまでにしようか。どうせ、そこのリングマは兄上様が処理するだろうし。それに──」
 ラツィエルは、瑞穂を流し見た。リングマに支えられてなんとか立っている瑞穂は、ラツィエルの視線を認めて息を呑んだが、怯むことなく大きく見開かれた瞳で見つめ返す。
「あの娘の命、いくらなんでも新鮮すぎて気味が悪い。まるで赤ん坊みたいな──」
「余計なこと言わずに、去って」
 氷は拳銃を突き出した。ラツィエルは怪訝そうに瞳を細めたが、特に気にする様子も無く、足元に倒れたキュウコンの身体を抱きしめた。少女とキュウコンの身体が、濃い霧に包まれて見えなくなった。やがて霧は雪と闇とに紛れて消えた。後にはただ、無数の足跡と、白い炎の残滓という、争いの痕跡だけが放置されていた。

 

○●

「やはり、ラツィエルか」
 何事も無かったかのような静寂。辛うじて視界を確保できるほどの闇。次第に深さを増していく雪の上に立ち、サリエルは独りでに呟いた。
 あちこちで燻っていた白い炎は薄灰色の燃え滓となり、無数の足跡の名残と共に、降り注ぐ雪に隠されつつある。何も知らずに立ち寄ったならば、数時間前、この場所で幼い少女達が、己の自我を剥き出しにして、殺し合いをしていたなど、思いも寄らないだろう。
 サリエルの鼻腔を、少女特有の甘く擽ったい香りが通り過ぎた。続いて、短い金属音。気配を察知して背後を振り返るよりも早く、彼は、あどけない少女の声を聞いた。
「高みの見物とは、兄上様もやることが姑息ですね」
 彼と同じ、銀色の髪。肩の辺りについたリング状のアクセサリ。白と紺の巫女装束。そこに佇むのは、紛れも無く彼の妹、彼が殺したはずの妹、ラツィエル・アクラシエルだった。
「漠然と気づいてはいたが、まさか本当にお前だったとはな。今から考えれば、ファルズフ裏切りの第一報を聞いたときの、やけに媚びたお前の態度で気づくべきだった。だがしかし、ファルズフを唆して、”深海の涙”を奪い、隠れて復活の機会を窺っていたとは、お前の方がよほど姑息だと思うがな」
 嫌味のようなサリエルの言葉を、ラツィエルは顔いっぱいの笑みを浮かべて受け流した。ラツィエルの笑みに、サリエルは違和感を覚えた。彼の知るラツィエルは、こんな笑みを浮かべない。常に寂しげな瞳を泳がせ、自分の後を何も言わずについてくるような、従順で大人しい妹の筈だった。だからこそ、漠然と感じていたラツィエルの策にも、有効な対策を取ろうと思うまでに至らなかったのだ。
「媚びてはいません。私は、心の奥底まで兄上様を愛していますよ。ただ、一時でもあんな女のことを、射水 氷のことを考えた今の兄上様は、愛するにも、新たな処女を捧げる価値もありませんが」
「つまり、僕の為に蘇ったわけではない、ということか。さっきも、瑞穂とか言う”能力者”の所有者に、僕の邪魔をするとか言っていたが」
 ラツィエルは愉しげに頷いた。
「だって、人間は面白い生き物ですから。人間の創造するものは、どれも美しく、おいしく、楽しい。それを滅ぼすなんて、もったいないです。それに──」
「本性を現せ。何が目的だ」
 サリエルは感情のこもっていない平べったい声で、告げた。ラツィエルは言葉を失い、一瞬、鼻白んだが、すぐに小首を傾げ、甘えるようなゆるい口調で言った。
「兄上様が、欲しい。兄上様の力を、その男の部分を、心や意識を。そして、兄上様の力で、兄上様の男の部分で、私は更なる快感を得るの」
 サリエルは僅かに顔を顰めた。ラツィエルの顔が仄かに紅潮し、白い指先が興奮からか小刻みに震えている。
「そして、”ルファエル”を探す。探し出して、ルファエルの力も、私のものにするの。そうして、もっと凄い快感を得る。もっと、もっとキモチ良くなるの」
 ”ルファエル”の名を聞き、サリエルは驚いたように、細めていた瞳を見開いた。
「ルファエル──生きているのか?」
「ええ。だって、ザカリアスに命じて、あの子を堕とさせたのは私だもの。いつか、あの子も私のものにする為に、あえて殺さないでいたの。それに私と同時に10歳になるでしょう。もし、ルファエルが兄上様を殺してしまったら、兄上様を私のものにできなくなる。だから、堕としたの。堕としたくらいであの子が死んだりしないのは、兄上様が一番ご存知のはずだけど」
「ルファエル・アクラシエル。お前の双子の兄であり、つまり、お前と同じ能力を持っているから、か。だが一度、他の身体に憑依してしまえば、探すのは容易ではないと思うが」
 ラツィエルは何度も小さく頷いた。笑みを浮かべたまま、両腕を広げる。霧が、少女の周りを包み込んだ。少女の姿が、霧に包まれて薄く、見えなくなっていく。
「だから、兄上様が欲しいっていうのもあるね。兄上様が、私のものになれば、ルファエルを探すのも少しは楽になる」
 言い残し、ラツィエルは消えた。いや、立ち去った。まだ復活したばかりで本調子ではなく、サリエルと今すぐ戦うのは不利だと判断したのだろうか。サリエルは片手を振って、後に残った靄を振り払う。彼は雪の中に立ち、遠くの空に満ちた闇を見据えながら、独りごちた。
「”アーティラリー”、急がなくてはいけないようだな」
 彼は夜空に背を向け、音も立てずにその場を去った。だから、彼は見ていなかった。墨を流し混ぜたような闇が、次第にその巨体に飲み込んでいた光を吐き出していく、幻想的な光景を。

 

○●


 氷は囁いた。これが”雪の花火”と呼ばれるものだと。千年に一度、この星に接近し、7日間だけ夜空にその存在を示す彗星、通称”千年彗星”による、美しい幻影であると。
 瑞穂とゆかりは、氷に言われるままに夜空を見上げ、ほぼ同時に息を呑み、感嘆の溜息を漏らした。
 漆黒の闇を切り裂くように、千年彗星の輝きが広がっている。彗星はそれ自身が輝いているだけでなく、長い尾を優雅にたなびかせていた。彗星の尾は、宝石の欠片を鏤めたように煌き、ゆるやかに振り続ける雪の結晶がその光の点と線とを反射して繋げ、幾何学的な模様を創りだしている。それは、宝石と貴金属とを繋ぎ合わせた装飾品の輝きにも似ていたが、闇よりも深く、月を飲み込むほどに大きな輝きは、それらの比にはならないほどの存在感で、瑞穂達を圧倒した。雪の澄んだ色と、千年彗星の光とが交錯した、まさに雪の花火と呼ぶに相応しい幻想的な光は、その広がりに、その大きさに反して、音も無く静かに夜空を彩っている。
 氷は不意に視線を落とすと、横目で瑞穂を流し見て、呟いた。
「怪我は、大丈夫?」
 瑞穂は、自分の肩と太腿に巻かれた包帯と、そこに僅かに滲んでいる血の色を確かめるように見つめた。まだ痛むのか、時折、少女の口許は歪む。だが、瑞穂は軽く拳を握り締め、苦痛を悟られないよう笑顔をつくり、首を小さく横へと振って見せた。
「大丈夫だよ。そんなに傷は深くなかったし」
 氷は頷き、瑞穂から逃げるように視線を逸らし、夜空を再び見上げた。瑞穂は氷の隣に寄り添い、同じように暗闇に浮かんだ雪の花火を見つめながら、何気なく問いかけた。
「私のこと、どこまで知っているの?」
 瑞穂の腰に、暖かい身体が触れた。ゆかりが瑞穂の細い身体を掴んでいた。瑞穂の問いに含まれた棘を敏感に感じ取ったのか、ゆかりは押し黙ったまましがみついている。
「何のこと?」氷は小さな声で応えた。
「とぼけないで。氷ちゃんは、私のことを知ってたでしょう? ヒワダタウンの旅館で初めて会ったとき、先に話しかけてきたのは、氷ちゃんだった。どこかで逢ったことがなかったかって、言ってたよね」
 氷は何も言わない。瑞穂は焦れたように、僅かに表情を強張らせた。
「昔、私が大怪我させた子の名前を知ってたね。ラツィエルって人が、何かを言おうとしていたとき、それを制止したね。
 私、ずっと思ってた。氷ちゃんは、何かを隠しているって。前に会ったときは、いろいろあったから、それどころじゃなかったけど、そろそろ教えて欲しい。
 この前、私があの組織に拉致されたとき、カヤって人は言ってた。私の父さんが、組織の研究に関わっていたって。私は、既に殺されているはずだ、って。氷ちゃんは、私の知らない私のことを、どこまで知って──」
 氷は微動だにせず、瑞穂の言葉を聞いていた。やがて瞳を細め、彼女は呟いた。
「言いたく無い。少なくとも瑞穂ちゃん自身のことは、私からは言えない」
「どうして?」
「私は、瑞穂ちゃんの悲しむ顔を見たくない。だから、このまま何も知らないでいて欲しい。でも、どうしても知りたいのなら、それは止めない。どうせ、あの病院に行けば、すべて知ることになる」
 氷は瑞穂の顔を見据えた。
「カヤは、あの病院の地下に組織の研究施設があると言っていたでしょう? 私は、その施設でこの身体にされた。だから検査の為、定期的にあの病院に通っていた。だから、お互いに気づいていないだけで、瑞穂ちゃんと逢ったこともあるかもしれない。少なくとも、洲先祐司──瑞穂ちゃんの父親には会ったことがある。そして、”あの場所”にも、行ったことがある。いえ、私はこの身体になる為に、”あの場所”に行った」
「あの場所?」
「研究施設のさらに地下に、それはある。カヤも時雨も知らない施設。ただ、そろそろ発見されるかもしれないけれど。私は、あの場所で、初めて洲先瑞穂の名を、存在の理由を知った。もっとも、瑞穂ちゃんのことを、いろいろと知っているのは、組織にいた頃にいろいろ調べたからで、それとは関係ないけれど」
 瑞穂は、不思議そうに小首を傾げた。
「私の、存在の理由?」
「悪いけど、これ以上は、何も言いたく無い。あの場所への行き方は教えてあげられるから、あとは自分で調べて。でも、さっきも言ったけど、私は瑞穂ちゃんに何も知らずにいて欲しい」

 

○●

「これで良かったの──」
 射水 氷は誰もいない中で、呟いた。今頃、瑞穂は山小屋で眠っているのだろうか。それとも、氷の言葉を頭の中で反芻し、眠れない夜を過ごしているのだろうか。いずれにしても、瑞穂がこのまま何も知らずにいられるとは考えにくく、また氷もそれを解っていた上で、瑞穂に”あの場所”への行き方を教えた。ほぼ確実に、瑞穂は病院の地下の更に地下に設けられた施設に向かう。そこで、真実を知ることになる。
 氷には、もう何もできない。恐らく、時雨は切り札を使うだろう。こんどこそ、確実に瑞穂を亡き者にする為に。そして、それが更に瑞穂を悲しませることだろう。
 それでも、氷は何もできない。ただ、遠くから彼女が苦しむのを眺めることしか、できない。瑞穂が氷にしたように、慰めることも、励ましたりすることも、できない。何故なら、氷の悲しみと、瑞穂がこれから苦しむことになるであろう悲しみは、完全に別種のものだから。
 遠くで銃声が轟いた。こんな夜中にも、狩人はいる。撃たれたのだろう、苦しげな獣の鳴き声が聞こえた。幼い獣の声だった。氷には、沙季のもとから逃げ出した、金色のロコンの声に聞こえた。鳴き声、いや泣声は次第に激しさを増し、何かを叫ぶ人間の声が続いて響いた。再度の銃声とともに、ロコンと思しき獣の声は消えた。獣は痙攣した呻きを漏らし、それも何かを吐き戻す音を最期に、途絶えた。
 氷は俯き、哀しげに瞳を細めた。
「姉さん──あの娘は、私を恨むかもしれない。本当に、これで良かったのかな」
 不意に、暖かい何かが氷の背中を包んだ。氷は振り返ろうとした。だが、体が動かなかった。懐かしい温もりに、氷は一瞬、我を忘れた。
 姉の香りがした。暖かなそれは、氷の身体を抱きしめた。風の吹きぬける音がする。それは、氷の耳元に囁いた。
「姉さん?」
 温もりは消えた。まるで姉の意識が、風と共に通り過ぎたようだった。氷は夜空を見上げ、瞳を閉じた。千年彗星の輝きが、残像として瞼の裏にぼんやりと浮かび上がる。
「そう、だよね。姉さんが私を信じてくれたように、私も瑞穂ちゃんのこと、信じてあげないといけないね」
 射水 氷は雪の上に横になり、千年彗星の明かりに照らされながら、短くも深い眠りについた。
「雪の花火、本当に綺麗だよ。姉さん」

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。