水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-4

#16 絶望。
  4.刹那の夢


 言葉を失ったまま、瑞穂は立ち尽くしていた。
 遺されたメモリーに記録されていた真実は、少女にとってあまりにも残酷で、非道く救いようのないものだったから。
 微動だにしなかった少女の身体が、小刻みに震え始めた。乾ききり色を失いかけた唇が、細く華奢な指先が、ピンと伸びていた膝や爪先が、嵐によって切り崩されていく堤防のように、少しずつ震えだす。
 やがて、その心の堤防は決壊した。少女はその場に崩れ落ち、言葉にならない呻き声をあげ始めた。気狂いのように見開かれた瞳は、何も見えておらず、暗く深い絶望の色に、哀しみの色に覆われていた。
 少女には、解らなかった。どうすればいいのか。いや、何もできないことが解っていても、何かをしなければならないと思わずにはいられなかった。だが、何をすればいいのか、答は見えなかった。
 自分のせいで、自分が生き続けたために、父が自分を生かし続けようとしたために、悲劇は繰り返され続けた。百合ほたるが、あのとき入院していた患者すべてが、殺されてしまった。自分の姉妹とも呼べる存在が、自分以外の6人の姉妹が、長い間、狭いカプセルの中に閉じ込められ、そしてある者は、髪の毛の色の違いだけで人間として生きることすら許されず、またある者は自分の身代りとして殺された。
 非道いことだ。少女は床に座り込んだまま考えた。父の考えは、その想いは理解できないでもない。最愛の人を失うことは、そして娘を失うことは、たしかに辛く苦しいことに違いないのだから。
 だが、父のエゴによる犠牲は、父の犯した罪は、あまりに大きすぎた。しかし、その罪のおかげで、自分は今まで、一人の人間として、何不自由なく生きてこられたのもまた、事実だった。父が罪を犯さなければ、自分は生まれてくることすらできなかった。父を愚かだと断罪することなど、少女にはできない。できるはずなど無かった。
 振り子のように、小波に揺れる帆舟のように、瑞穂の心は揺れ動く。その振れ方は次第に大きくなり、瑞穂を翻弄する。やがて少女は、今まで何も知らずにのうのうと生きてきた自分に対しても、罪悪感と憤りが綯交ぜになったような感情を抱いた。
「こんな──こんなののせいで──沢山の人たちが──こんな私のせいで」
 そして少女は、考えた。自分は、何なのか。何者なのか。母親の遺伝子から”造られた”存在である自分は、一体何者なのだろうかと。父親が、これほどの犠牲を出してまで存在を維持させようとした”自分”は、一体、何者なのだろうかと。
 母親である洲先雪菜の複製として、代替として造られた自分。しかし父が言っていたように、自分はオリジナルには、洲先雪菜にはなれない、なりようがなかった。
 では自分は、父の、祐司の娘である、洲先瑞穂と呼べるのだろうか。いや、”本物”の瑞穂は、3年前に死んでいる。今の自分は、洲先瑞穂だと思い込んでいた自分は、瑞穂の記憶や感情や意識を引き継いだだけの”ナンバー7”という仮称で呼ばれていた、名も無き雪菜の複製に過ぎなかった。自分は洲先雪菜でも、そして瑞穂でも、かといって”ナンバー7”でも無い存在なのだ。
 そもそも、記憶と、父の記録には食い違いがあった。ほたるの死の原因も、父の失踪のタイミングも、彼女の記憶と、父の記録では違っていた。
 洲先瑞穂の記憶や意識や感情を移し変えられた副作用によって、事件直後の記憶が不確かになっているのだろうか。培養液の中で眠っている夢を、茶色の巨体が流星に貫かれる悪夢を、時折見るのも、そのせいなのだろうか。
 では一体、今、ここにいる自分は、一体何なのだろう。
 信じていた父も、本当の父ではなく、真実であると疑わなかった記憶も、屈折した不確かなもので、自分のものだと思っていた身体も、心も、記憶も、感情も、自分ではない、瑞穂ではない、雪菜でもない、自分自身のものですらない。この自分とは、一体、何なのだろう。
「死に損ないの”名無し”が──」
 不意に、カプセルの更に奥の部屋から、声が聞こえた。嘲るようでいて、憎しみの強く込められた声だった。少女の背筋を、得体の知れない悪寒が走った。
「折角すべて聴き終わるまで待っていたのに、父親とのお別れは、まだ終わらないのか? それなら、今ここで、すぐに終わらせてやろうか」
 聞いた事のある声だった。無慈悲で、冷め切ったような、見下すような声。”あの男”の声だ。父とともに研究をしていた男。組織の研究者、時雨の声に違いなかった。
 少女は我に返った。顔を上げ、反射的に立ち上がると身構えた。白衣を着た男は、時雨は、カプセルの横にもたれるようにして立っていた。
 時雨は手に何かを持っていた。彼は、瑞穂がそれに気づくのを見計らって手にしていたそれを少女へと放り投げた。それは瑞穂の足元へと転がった。
「これは──」
 瑞穂は足元に転がったそれを、眼で追った。少女は、それを目で捉え、何であるかを理解すると同時に息を呑み、微かに声を出した。
 それは、白骨化した人間の頭部だった。震える指先で、それを拾い上げ、瑞穂は時雨へ問いかけた。
「これが、父なんですね」
 カプセルから離れ、時雨は頷いた。
「そうだ。君も聴いただろう。この部屋の奥で、君の父親は何者かに殺された。君の妹であり姉でもある”ナンバー6”を私が殺したためにね」
 瑞穂は、父の頭蓋骨を静かに机の上へ置いた。不敵な笑みを浮かべたまま立っている時雨へと、向かい合う。
「自殺に見せかけて、ですか?」
「よく知っているな。できるだけ不自然にならないようにするためには、それが最良の方法だと考えたんだよ。一部のマスコミが、君が自殺したと報道したのは、君の父が裏で手を回したのだろうな。もっとも、私も彼も、そこまで気を回す必要はなかったようだが。
 君のような、つまらない人間が一人死んだところで誰も気にしない。その頃には既に、大衆やマスコミの関心は、別のところに行ってしまっていたからね。この施設が未だに、このように存続していることが、その証だ」
 つまらない人間、とは言ってくれる。その”つまらない人間”を殺すために、多くの人々を犠牲に、皆殺しにした張本人が、何を言っているのか。
 瑞穂は、先ほどまで自分に対して感じていたものよりも激しく強い憤りを、時雨に抱いた。
「そんなことより、どうしてこの子が、ここにいるんですか。あなたが、この子を殺したのに、なぜ父のもとに、この子の遺体があるんですか」
 視線を一瞬だけカプセルへ、その中の死体”ナンバー6”へ向け、瑞穂は訊いた。
 ナンバー6は茫洋と見開かれた哀しげな瞳で、瑞穂を見つめていた。思わず、死体と目が合った。その刹那、瑞穂はナンバー6の、洲先 桜の絶望を垣間見た様な気がした。
 父親と信じていた男に、殺されるために送り出され、首を絞められ、少しずつ喪われていく意識の中で感じた絶望を。
 瑞穂は背中の辺りに、痛いほどの悪寒を覚えた。
「死体の始末は、氷にやらせたからな。あの娘なら、喜んで食べると思っていたが、君の父とあのようなやり取りをしたのであれば、さすがに食べづらかったのだろう」
「氷ちゃんは、人を食べることを喜んだことなんて無いです。むしろ、嫌がっていた。カヤって人が、無理やりそうさせていただけじゃないですか」
 時雨は、瑞穂の言葉を、まるで聞こえなかったかのように流し、厭らしい笑みを浮かべた。
「おそらく氷は、彼が娘を、つまり君を守りきれなかったと思い、娘の死体を彼へと返したつもりなのだろう。しかし皮肉なものだな。彼の命を救った氷の行為によって、彼は命を落とすことになるのだから。射水 氷は彼が死んだことも、自分の行為が彼の死の間接的な要因であることも知らないのだろうな」
 瑞穂を小さく首を横へと振った。
「そうでしょうか? 確かに、殺されたのが私ではないということは、その時は、まだわからなかったでしょうが。以前、氷ちゃんは、私に3年前のことを訊いてきたことがありましたから。
 それでも、氷ちゃんが、あれからこの場所に来なかったとは考えづらい。少なくとも、父が死んだことは知っていたと思いますよ」
「彼の死体が、かなり酷い状態でもか? 死因は恐らくカプセルの破片を胸に突き刺されたときの外傷性ショック死だろうが、その死体は細切れにされていた。今でこそ白骨化して、まだ見れる形になってはいるが。見てみるか?」
 瑞穂は思わず顔を顰めた。すでにその頭蓋を目の当たりにしているとはいえ、細切れにされた父の白骨死体など、見たくはなかった。
「遠慮しておきます。父が既に死んでいることは、覚悟していましたから。氷ちゃんは最初から、知っていた。だから、あの娘が何も言わなくても、私には解ってしまった。父は、既に何者かに殺されていると」
 時雨は、意味ありげに頷く。
「たしかに。あの娘は、昔から嘘をつくのが下手だったからな。しかし、その様子だと、誰が君の父親を殺したのか、見当がついているようだな」
 瑞穂は僅かに俯き、悲しげに眼を細める。
「ええ。考えるまでもないことです。父が死んだとき、この部屋には、私の今の身体と、かつての私の身体を除いた、5人しかいなかった。そして、今ここにいるのは、脳だけのナンバー1。何かのアクシデントで焼け死んでしまったナンバー2。あなたに殺されたナンバー6だけ──」
 顔を上げ、正面から時雨を見据え、瑞穂は呟いた。
「これ以上、こんなことを言いたくありません。こんな、悲しいこと──」
「彼も、自分の娘に殺されるとは思っていなかっただろうな。だが、それは君も同じことだ」
「それは、どういう意味ですか」
 少女は怪訝そうに眉を顰めた。
「どういう意味とは──君は何故、私がここにいると思っているのだ」
「私を、殺しにきたんですよね。私が真実を知るまで、待っていてくださったことには感謝します。ですが、私は殺されるつもりはありません」
「真実を知ることで、君が死ぬ気になればと思ったのだがね。どうやら、そのつもりはなさそうだな。無駄な時間を与えてしまったよ」
 瑞穂は再び身構えた。腰のポーチにつけたモンスターボールを握り締める。
「おや、何を勘違いしてるんだ」
 時雨が低い声で呟いた。
「と、いいますと?」
「私は、もう君を殺すのはまっぴらだ。既に一度、殺しているのだからね。もっとも、私が殺したのは偽者だったわけだが」
 時雨の意図が解らず、瑞穂は困惑した。身構えたまま、緊張した面持ちを崩さないように、少女は彼の言葉の裏に隠された意味を考えなければならなかった。
「もういいぞ。入ってくるんだ」
 時雨は大きな声で、言い放った。彼は、部屋の外にいるであろう、何者かへ指示を出したようだった。
 瑞穂は背後に気配を感じた。巨大で凶暴な何者かの、ざらついたような気配だった。それは、殺意や狂気に似た、穢れた感情に満ちているように、少女には思えた。言葉にできない悪寒が、胸の奥に燻る。
 少女は危険を感じ、咄嗟に振り返ると屈み込んだ。その瞬間、少女の頭上を、何かが掠めた。人の頭ほどの大きさのそれは、一瞬のうちに過去り、後方の壁にぶつかる。だが、その音は聞こえなかった。別の音が、それを掻き消していた。
 耳を劈く爆音が響いた。
 壁が音によって振動した。次の瞬間、少女の見ている目の前で、壁が弾けるように崩壊した。
 間髪いれず、再び爆音が響く。それと同時に部屋の空気が一瞬にして逆流した。砂埃が、物凄い勢いで部屋に充満する。
 飛び交う砂埃や破片を、両腕で遮りつつ、瑞穂はうっすらと瞳を開き、辺りの様子を伺った。後方の壁に、壁の破片が食い込んでいるのが、ちらりと見えた。先ほど頭上を掠めて飛んでいった何かに違いなかった。瑞穂は息を呑む。あと数秒でも遅ければ、少女の頭は身体から離れて、破片とともに後方へと飛んでいったに、潰れていたに違いなかったからだ。
 少女はさらに深く身を屈め、土煙の中を凝視した。
 腕が見えた。人間の腕ではなかった。崩れきった壁の破片を掻き分け近づいてくるのは、獣の腕。こげ茶色の毛に覆われた、人間の胴体ほどはあろうかという太い腕だった。その先端からは、鉈のように鋭く長い爪が、無数に生えていた。爆音と壁の崩壊は、この獣が腕で部屋の壁を叩きつけたことによるものだった。
 獣の爪は壁を突き破り、瑞穂の眼前で、漲らせた狂気や殺意とかいったものに突き動かされるように蠢いていた。瑞穂は、胸の奥に燻る悪寒が、この獣のもつ感情によるものだと確信した。だが何故、獣の心がここまで澱んでいるのかは、解らなかった。
 狙いを定めたように、獣の腕は、その先端から伸びる爪は、瑞穂へと真っ直ぐに迫った。即座に、瑞穂は屈んだ体勢のまま掌を床へつけ、脚と一緒にタイミング良く蹴り上げた。素早く真横へ跳んだ瑞穂の頬を、長い爪が掠める。寸前のところで、瑞穂は爪を避けた。
 瑞穂は獣の足元を縫うように素早く駆け、獣との距離をおくように、ナンバー6達の死体がある部屋を飛び出した。あの獣の巨体を退けるには、カプセルや機器が密集している部屋は、あまりにも狭すぎたからだ。
 獣の周りに飛散していた砂埃がやみ、視界が晴れてきところで、瑞穂は再びモンスターボールを握り締め、こちらへと振り返りつつある獣を、その全身を見つめた。
「これは──」瑞穂は、それだけ呟いて、言葉に詰まった。
 巨大な狼のような体躯。こげ茶色の体毛に、ぬらぬらとした桃色の光沢を見せるゼリー状の表皮。それを認識すると同時に、瑞穂は以前にもこの獣を見たことがあると、対峙したことがあると直感した。
 間違いなかった。今さっき瑞穂を襲った獣は、コガネシティのラジオ塔で、時雨の指示に従って瑞穂を襲った獣そのものだった。
 瑞穂はポーチからモンスターボールを外して握り締め、その巨大な体躯をこちらへ向けつつある獣の方へ、放り投げた。
「お願い。リンちゃん!」
 その声に呼応するかのように、放り投げられたボールは空中で開き、中から眩い閃光とともに、リングマが飛び出した。
 リングマは、目の前で蠢く異形の獣を鋭く睨み付け、威嚇するかのように咆哮した。咆哮の反響と衝撃によって、静まりかけた砂埃は再び舞い上がり、まるで意思でも持っているかのように、2つの巨体の狭間でうねりを見せる。
「今度こそ、その女を殺すんだ!」
 不意に、時雨の叫び声が木霊した。
 怒声にも近いその声に、瑞穂は僅かに驚きを覚えた。それは、男が先程まで見せていた冷静で落ち着いた雰囲気と、あまりにもかけ離れていたからだ。
 だが、良く考えてみれば、瑞穂は彼の性格の豹変を以前にも目の当たりにしていた。瑞穂は記憶を手繰る。あれは、そう、ラジオ塔でのことだった。あの時も、今と同じように、獣に指示を出した途端に時雨の口調は強く、荒々しくなっていた。
 瑞穂は、時雨の姿を確認しようと視線を動かしたが、時雨の姿や表情は獣の影に隠れてよく見えなかった。
「殺してしまえ!」
 時雨は再び叫ぶ。それと同時に獣は身体を動かし、すぐにでも飛びかかれるように身構えた。
 獣が動いたことによって、瑞穂は獣の奥に立っている時雨の姿を見ることができた。彼の顔は怨嗟とも焦燥ともつかない、強い感情によって歪んでいた。それも以前と同じであり、時雨の顔は既に別人とも呼べるほどに、変わり果てていた。
 一体、何が彼をそこまで駆り立てるのか、瑞穂には解らなかった。瑞穂には、彼の歪みきった表情に、もはや時雨個人の意思があるとは思えなかった。もっと別の、不条理な何かの存在を感じざるを得なかった。
 その刹那、強い衝撃波が瑞穂を襲った。瑞穂は吹き飛ばされそうになるのを、必死で堪えた。だが、それは強風でも衝撃波でもない、ただの叫び声、獣の咆哮に過ぎなかった。
 獣は、リングマに負けじと雄叫びをあげていた。瑞穂はそのあまりの強さに戦慄した。こめかみの辺りを、冷たい汗が伝う。瑞穂は獣と、それに対峙するリングマとを交互に見つめた。そして少女は、獣が僅かに紅い輝きを宿していることに気づいた。
 獣の瞳は、紅い輝きを帯びていた。それは紛れもなく、イグゾルトの輝きだった。
 この付近に電波発生装置があるわけではなさそうだった。そもそも、ポケモンを操るほどの特殊電波の発生には大規模な設備が必要であり、そのような設備があるのは、ラジオ塔くらいのものだ。その証拠に、リングマは平然としている。もし仮にこの部屋に特殊電波が流れているのであれば、リングマも無事ではすまない。特殊電波によってその瞳は紅く輝き、発信者の意のままに操られてしまうはず。とすれば、考えられることは一つだけだった。
「この獣、脳に特殊電波発生装置を埋め込まれたんですね」
「そうだ。これの戦闘力は優秀だが、私の言うことを全く聞かない。だから、一位カヤのようにしただけだ」
 獣の瞳の輝きが一段と増した。獣はリングマへと飛び掛る。獣の口がこれ以上ないほどに大きく開き、長く曲がりくねった牙が剥き出しになった。
「リンちゃん、守る!」
 リングマは防御の姿勢をとった。獣の牙がリングマの四肢に食い込むが、リングマの強靭な筋肉が、鋭い牙を撥ね返す。リングマの身体には、傷ひとつ付かない。
 攻撃を防がれ、獣はたじろいだ。その隙を突いて、リングマは屈強な腕で獣を突き放す。
 即座にリングマは、体勢を崩した獣の懐に入り、鋭い爪を獣の腹へと抉り込ませた。ひときわ強く大きく吼え、リングマは爪を振り下ろす。
 獣の腹が、裂けた。切り裂かれた傷の断面から、骨と筋肉が剥き出しになると同時に、眩いほどに真っ赤な鮮血が溢れ、迸る。鮮血がリングマの全身に降り注ぐ。獣は身悶えつつ後退し、怨嗟に満ちた瞳で、瑞穂とリングマを見据えた。
「リンちゃん! もう一度──」
 瑞穂は、そこまで言って痛みを感じた。リングマへの指示は途中で途切れた。一瞬、瑞穂は何が起きたのか解らなかった。自分の脇腹を見る。水色のシャツが血に、獣のそれと同じ、眩いほどに鮮烈な赤に、染まっていた。
 ピンクの触手が、瑞穂の脇腹を貫いていた。触手は指先ほどの細さで、その先端は針のように鋭い。それは、獣の足元から一直線に、瑞穂の脇腹へと伸びていた。
「くっ!」
 瑞穂は自分に刺さっている触手を両手で掴み、強引に引き抜いた。鮮血が溢れる。掌が赤く染まる。息が荒くなる。立っていられなくなり、瑞穂はその場に屈み込んだ。激痛と出血によって、意識が遠くなっていく。
 リングマは異変に気づき、振り返った。血塗れの瑞穂の姿が視界に飛び込んできた。彼は驚愕し、そして激昂した。獣へ向けて、憎悪に満ちた雄叫びを上げる。獣も、リングマと瑞穂へ叫び返す。
 瑞穂は朧気になっていく意識の中で、俯いた。脇腹の傷は、急激に体力を奪っていく。もはや、少女は顔を上げることすらできなくなっていた。
 雄叫びを上げながらリングマは、獣へ急接近した。トレーナーの指示もなく飛び込んでくるリングマに対して、獣は防御の姿勢をとることも、避けることもできなかった。リングマは獣へと肉薄し、両腕の拳を振り上げた。
 リングマは、アームハンマーを獣の傷跡へと振り下ろした。獣の背中が、アームハンマーの圧力によって弾け、細切れになった内蔵が噴出し、飛び散った。獣の臓物は辺りに飛び散り、湿った音をたてる。
 獣は悲痛な叫びをあげた。
 獣の叫びを、瑞穂は荒い息遣いで聞いていた。脇腹を抑える左手は血の気を失い青白く、僅かに震えすら見せている。指の隙間からは、止め処なく鮮血が溢れてくる。
 既に、少女の意識は消えかけていた。
 その時、喪われつつある意識の中で、瑞穂は獣の声を聞いた。それは、呻きでも叫びでもない、大凡、獣が発しているとは思えない、声だった。
 瑞穂の意識は、途切れるどころか、強引に引き戻された。
「え──? 今、なんて──」
 瑞穂は、そのときだけは間違いなく痛みを忘れていた。父の非道い行為を聞かされたときよりも、自分が洲先瑞穂では無い、何者でも無いと知ってしまった時よりも、彼女は動揺した。
 獣は、人間の少女の声を、それも聞き覚えのある声を、発していた。
「痛いよ。瑞穂お姉ちゃん」
 それは、百合ゆかりの声に、間違いなかった。
 これは、どういうことだ。何故、ゆかりの声が聞こえる。これは、幻聴なのか、夢なのか。
 獣の血と肉片の臭いが、鼻腔を掠めた。饐えたような臭いだった。瑞穂は思わず咽た。そこで、思い知った。これは夢でも、幻聴などでもない、と。
「どうして、ユユちゃんの声が──」
 瑞穂は顔を上げ、眼前に佇むそれを認識した。彼女は呟きかけた言葉を失った。唇が動揺によって震え、声にならなかった。
 そこに、獣はいなかった。だが、百合ゆかりはいた。
 だが、それは瑞穂の知る、百合ゆかりではなかった。彼女の瞳は、魂が抜けてしまったかのように、色を失っていた。灰色に濁った瞳は、じっと瑞穂だけを見つめていた。
 ゆかりの身体は、獣の鮮血に濡れていた。いや、それだけではなかった。ゆかりの全身には、無数の細かい傷がついていた。それぞれの傷から血が滲み、獣の鮮血と区別がつかなくなっていた。
「痛いやないか、お姉ちゃん」
 ゆかりは、もう一度言った。と同時に、少女は咳き込んだ。口にあてがった掌から、指の隙間から、血が溢れた。そして、ゆかりの身体を覆っていた布切れが、身体からずり落ちた。
「な、なんで──こんな」
 瑞穂は、歯を喰いしばり、それだけをつぶやいた。瑞穂は、ゆかりの裸体に刻まれたそれを見たと同時に、すべてを悟った。理解してしまった。
 ゆかりの腹は、裂けていた。その傷は、先ほどリングマによって獣が受けた傷そのものだった。少女の小さく華奢な腹から、臓物と赤黒い体液とが、止め処なく零れている。骨と内臓が覗く。その様は、獣とまったく同じだった。
 百合ゆかりは、時雨によって、獣に、化け物の身体にされてしまっていたのだ。
「どうだ、私の言っていることを理解してくれたかな。妹同然の子に殺されるなど、思ってもみなかっただろう。それに、私に殺されるよりも、まだこの方が良いだろう? 君のせいで家族を失った子によって殺されるのなら、君も納得できるだろう」
 瑞穂は、時雨の言葉には答えなかった。歯軋りの音だけが、僅かに響いた。
「お姉ちゃん。瑞穂お姉ちゃん。聞いてるか?」
 ゆかりに呼ばれ、瑞穂は頷いた。
「全部、聞いたんや。そこのおっちゃんからな。お姉ちゃんが、お姉ちゃんやのうて、別のお姉ちゃんや無い何かで、それを知ってしもたから、ほたる姉ちゃんは殺されたって。違うか?」
 正確には違う。百合ほたるが殺されたのは、洲先瑞穂の真実を知ってしまったからではなく、病院と組織との関連を疑われかねない場所を、ほたるに知られてしまったからだ。
 だが、ゆかりが言いたいのは、そんなことでは無いはずだった。
「そうだよ。ユユちゃん」
 瑞穂は僅かに俯きながら、しかし、ゆかりの瞳をしっかと見据えながら、呟いた。
「確かに、私がいなければ、ほたるちゃんは死ななかった」
 ゆかりは目を細め、口許を歪めた。赤い血に染まった歯が覗く。噛み締められた歯は、瑞穂のそれと同じように、鈍い音を響かせていた。
「そやね。それやったら、なんでお姉ちゃんは、そんなにのうのうと生きていられるん?」
 不意に、ゆかりの濁った灰色の瞳が、色を帯びた。イグゾルトの真紅の輝きだった。
「ユユちゃん──」
 瑞穂は、気づいてしまった。ゆかりの言葉は、決して本心ではないだろう。でなければ、ゆかりが、自分のことを憎んでいるのであれば、彼女はもっと以前にそう言っていたはずだから。恐らくラジオ塔での事件のときに、ゆかりはこの身体にされた。その時点で既に、ゆかりは大半のことを知らされていたはずだ。だから、これは、ゆかりの心の奥底にある、小さく、しかし凝縮された感情であると、気づいてしまったのだ。
 ゆかりは年相応の子供っぽさはあったが、普段の言動に反して、実は聡明な子供ということを、瑞穂は知っていた。いつものゆかりであれば、すぐに気づいた筈だ。”百合ほたるを本当に殺したのが、誰であるのか”を。
 だから、すぐに瑞穂は悟った。イグゾルトの輝きが、ゆかりの脳に埋め込まれてしまった特殊な電波が、悪魔の囁きとして、ゆかりの心の奥底に燻っていた感情を、獣の形として、瑞穂への痛罵として、表へと剥き出しにしているのだ、と。
 首筋を、生暖かい液体が伝った。瑞穂は、掌でそれを拭う。血だった。噛み締められた唇から、首筋まで鮮血が滴っていた。ゆかりの身体を弄り、化け物へと変え、その感情を、二人の関係をも利用しようとする卑劣な時雨への怒りに、彼女は唇を噛み切った痛みも、脇腹を貫かれた痛みも、忘れていた。
「なあ、お姉ちゃん。聞いてるん? なんでや。なんで、お姉ちゃんのせいで、姉ちゃんが死ななあかんのや? 姉ちゃんが、死んだのに。そのせいで、みんなめちゃくちゃになってもうたのに、なんで、お姉ちゃんはそうやって生き続けていられるんや」
 ゆかりは、再び問いかける。瑞穂は、答えることができなかった。
 答えなど、なかったから。少なくとも、ゆかりが納得し、胸の奥に燻る僅かだが深い憎しみを、痛みを、癒すことのできる答えなど、どこにも無かったから。現実は、いつまでも理不尽で、どこまでも救いの無いものだったから。
 暫くの沈黙の後、瑞穂はゆかりへと語りかけた。それは答えではない。説得でも、命乞いでもない。瑞穂がいつからか覚悟していたことであり、ゆかりがいつしか向き合わなければならないこと。
「確かに私のせいで、私なんかのせいで、ほたるちゃんが、ユユちゃんのお姉さんが殺された。だから私は、ユユちゃんの人生をおかしくしてしまった」
 ゆかりは何かを叫ぼうと口を開いた。だが、瑞穂はそれよりも早く続ける。
「ユユちゃん。私は、やっとわかった。自分が、何なのかを。
 結局、私は父に造られた母の複製で、その洲先瑞穂の記憶を受け継いだだけの、名前も無い身体のひとつに、スペアのひとつに過ぎなかった。
 だけど、私を”私”として、母でもない、以前の瑞穂でもない、今ここにいる洲先瑞穂として認めてくれている人は、僅かだけどいる。その人にとって、いやユユちゃんにとって、いや、そうじゃない──」
 瑞穂は一歩、足を前へと踏み出し、ゆかりの細められた瞳を見据えた。傷口から掌が離れ、血が再び滲みはじめる。
「ユユちゃんがいるから、私は”私”なんだよ。私は瑞穂の記憶を受け継いだだけで、瑞穂そのものにはなれないから。たとえ、私を知る人が、リンちゃんが、氷ちゃんが、私を”私”だと認めてくれても、みんないい人たちだから多くの人が認めてくれるとしても、それでも、その人たちにとって、今の私は”出会ったときの瑞穂”ではないし、私にとっても”その人と出会ったときの記憶”は、私のものじゃないから。
 だけど、ユユちゃんは違う。ユユちゃんと出会ったのも、友達になったのも、一緒に旅をしたのも、今ここにいる私だから。だから──」
 瑞穂は血に塗れた掌を胸元にあてる。
「”私”の存在が罪なのか、ユユちゃんに裁いて欲しい。以前の瑞穂ではない”私”だけを知っていて、”私”を裁くことができるのは、”私”のせいで姉さんや家族を失った、ユユちゃんくらいしかいないから」
「うるさいよ、お姉ちゃん。黙ってや──」
 ゆかりは不意に呟き、頭を掻き毟った。ゆかりの茶色がかった髪が掌についた血に汚れる。
「ユユちゃん。私を殺して──」
「黙れや!」
 少女が金切り声を上げた。ゆかりは叫ぶと同時に、桃色の触手を全身から剥き出しになった。触手は瑞穂の二の腕を、太股を、肩を貫き、頬と額を掠めた。
 血が迸る。瑞穂は激痛を感じたが、悲鳴も痛みも噛み締めるように堪えた。
「殺すよ。もちろん、お姉ちゃんはウチが殺すわ! そやけど、そうやって、なんでもかんでも納得すなや! 受け容れるなや!」
 ゆかりの瞳が一段と赤みを帯びた。だが、瑞穂は違和感を覚えた。確かに、これは瑞穂の知るゆかりではない。だが、獣の心に支配され、自分への殺意を剥き出しにしていても、今の一言は、その一片は、瑞穂の知るゆかりのものであるかのように感じられた。
「殺す。絶対に殺す。そやけど、そんな風に言われたら、やり辛いやんか! もっと言い訳してや! もっと自分のせいやないって言ってや。そやったら、ウチも心置きなくお姉ちゃんのこと殺せるのに! 何が、”殺して”や──」
「ユユちゃん──」
「お姉ちゃん。ずるいで。やっぱり腹黒やな」
 瑞穂の身体を貫いていた触手が溶けた。瑞穂はその場に崩れ落ちる。だが、すぐさま顔を上げ、ゆかりの顔を見た。
 ゆかりの瞳の紅い色は、さらに強くなっていた。
「ずるいよ、お姉ちゃん。ウチにこれ以上、辛いことさせんといてや。もう、ウチは後戻りでけへんみたいやし」
「ユユちゃん。正気に戻ったの? それとも──」
「ごめんなさい、お姉ちゃん──」
 ゆかりはそれだけ言い、すぐさま身を翻し、後ろから様子を眺めていた時雨へと駆け出した。ゆかりの身体は少しずつ溶け出していた。傷が桃色に変質し、ぽろぽろと零れていく。
「な、何をしているんだ!」
 時雨は叫んだ。ゆかりは時雨にしがみついていた。
「さよなら──」
 瑞穂は、ゆかりの言葉を聞いた。今にも、泣き出してしまいそうな、震えた声だった。
 その瞬間、目の前が閃光に包まれた。ゆかりの身体が爆発した。水風船のように、ゆかりの小さな身体が弾けた。少女の鮮血が、みずほの身体に降り注いだ。爆発は時雨の身体を飲み込み、部屋全体へ広がった。
「ユユちゃん!」
 瑞穂は爆発の光と爆音の中で叫んだ。リングマは瑞穂の身体を守るように覆い被さる。瑞穂の渾身の叫びも、もはやゆかりには届かなかった。爆発は誘爆を呼び、止め処なく続いていく。
 百合ゆかりは、死んだ。

 

○●



「どうして、ユユちゃんが死ななくちゃいけないの──」
 焼け果てた部屋の中で、瑞穂はリングマとともに立ち尽くしていた。瑞穂の顔は青ざめ、凍りついたようになっていた。
 もはや、泣くことすらできなかった。目の前に散らばっている理不尽に打ちのめされ、微動だにすることも、座ることすら、その場に蹲ることすらできなかった。
 何故、ゆかりは死を選んだのか。瑞穂はすぐには理解できなかった。化け物の身体になってしまったショックか、いや違う。ゆかりは自分の身体の異常にかなり早い段階で気づいていた筈だ。今から思い起こせば、アサギシティでカイリューとしてあらわれたものは、海に落ちたとき、自分を包み助けてくれたそれは、ゆかりが姿を変えたものだったのだろう。それに射水 氷を見ていれば、聡明なゆかりは自分の身体がどうなってしまったのかを理解できたはずだ。あのタイミングで、ああいった行動に走るのは考え難かった。
「まさか──」
 瑞穂の頬を、冷たい何かが伝った。彼女には、それが汗なのか涙なのか、もう解らなくなっていた。
「ユユちゃんは、私を殺さないために──」
 瑞穂は、死の直前のゆかりに感じていた違和感の正体に気づいた。ゆかりは、獣の心に抗っていたのではないか。彼女の瞳が紅い輝きを増していったのは、抗うゆかりの心を制する為に、獣の心がその影響力を強くしたためではないか。
 ゆかりは瑞穂を殺したくなかった。しかし、これ以上、獣の心に抗いきれないと思ったのだろう。だから、自ら死を選んだ。時雨を巻き添えにして。
 足に、柔らかい何かが触れた。瑞穂は足元を見た。白くか細い、少女の指の欠片が落ちていた。粉々に飛散したゆかりの身体の一部だった。
 瑞穂は、ゆかりの指を拾い上げた。そのすぐそばには、子供のものと思しき、歯が落ちていた。これも、ゆかりのものに違いなかった。
 なんだ。なんで、こんなことになっているのだ。瑞穂は、自問した。と、同時に、瞳から涙が溢れた。
「私のせいで、また死んでしまった──どうして、私のせいで、私なんかの為に」
「違うな」
 不意に男の声が響いた。瑞穂は涙に濡れた顔を、声のするほうへと向けた。
 破片の下から、無数の触手が這い出してきた。ぐずぐずになった身体を必死で、かき集めている異形な触手。触手の中央に、人間の顔が張り付いているのが見えた。それは、時雨だった。時雨は、飛散した身体を再生させつつあった。
「あの娘は、お前を永遠に苦しめるために自殺したんだよ! 解ったか。そうやって死ぬことで、お前を苦しめようとしてるんだよ!」
「うるさい──」
 瑞穂は呟いた。震えていたが、感情を拭い去ったような、平べったい声だった。
「リンちゃん。あの屑を掃除してよ」
 リングマは、瑞穂の言葉の意味が解らず、首をかしげた。
「リンちゃん! あの男を殺して! 欠片ひとつ残さず、この世から消し去って!」
 瑞穂は突然、大きな声で喚いた。それまで堪えてきた怒りと狂気が綯交ぜになった、不安定で、明確な殺意に満ちた声だった。
 リングマは構え、瑞穂の言われるがままに破壊光線を発した。リングマの口から放たれた白色の熱戦が、時雨の身体を包み込み、貫き、そして病院の壁を、天井を打ち抜いた。
「もっと! もっとだリンちゃん! そんなんじゃ、あれの身体が残っちゃう! この世界からあれを、存在自体を消滅させて。もっと、もっと強く! もっと激しく殺して!」
 轟音とともに、部屋全体が揺れた。破壊光線が建物の柱を砕いたのか、天井がぽろぽろと剥がれ落ち、地響きが病院全域を包む。
 だが、瑞穂は落ちてくる天井の破片にも、足に、全身に伝わる地響きにも気づかず、ただ時雨の方を向いて、ひたすら叫び続けていた。
「もっと強く! もっともっと殺して!」
 リングマは、瑞穂の言葉どおり破壊光線に全身の力を込め続けた。彼も、瑞穂と同じ気持ちだったから。瑞穂が何も言わなくても、彼は時雨を殺しただろう。だが、瑞穂の怒りは狂気は、彼の怒りを、想像を、遥かに超えていた。彼も、瑞穂がここまで怒るのを始めて見たのだから。
 やがて破壊光線の光が、病院全体を包んだ。時雨の声は、もう聞こえなかった。時雨は、最初の破壊光線の時点で絶命したのだろう。だが、少女の殺意を狂気に満ちた声と、破壊の光は途切れることなく、夕闇に染まりつつある空に反響し続けた。

 

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「ユユちゃん──」
 小さな墓石の前で、少女が呟いていた。少女はとても小柄で、この澄んだ空のように明るい水色の髪を、左右で二つに束ねた特徴的な髪型が、ことさら子供っぽく見えた。だが、その幼い体躯や見た目とは裏腹に、少女の表情はどこか影を帯びており、大人びても見える。
「ずっと来れなくて、ごめんなさい」
 少女は墓に語りかけた。
「色々あって、忙しかったんだよ。警察には捕まるし、公安に取り調べされたりとか──」
 屈み込み、少女は脇に置いていた水桶から柄杓で水をすくい、墓石にかける。
「正直、まだ心の整理ができない。ユユちゃんが、他の姉妹とも呼べる子たちが、いろんな人たちが、私のせいで死んでしまったことが」
 少女は合掌した。しばらくの間、そのまま動かなかった。少女は静かに掌を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
「それでも──いや、だからこそ、私は死ねない。私を守ってくれた、ユユちゃんの、お父さんの気持ちを無駄にしないためにも。だから、もう”死にたい”なんて、”殺して”なんて言わないから。
 確かに、私は”かつて存在していた瑞穂”じゃない。でも、私はやっぱり、私以外の何者でも無いんだと思う。何者でもないものなんて、存在しないから。私は、今の”瑞穂”以外の何者でもないんだと、思いたい」
 墓の周りを片付け、少女はその場を立ち去った。去り際に、少女は空を見上げ、呟いた。
「私の存在が罪なら、私が生まれてきたことが罪であるのなら、いつか、その罪は償う。誰かを守ることで、誰かを救うことで、必ず償ってみせるから──」
 澄み渡る青空から、鳥の嘶きが聞こえる。
 少女はその刹那、夢から覚めた子供のように瞳を見開き、腕を空へと伸ばした。小さく息を吐き、少女は腕を下ろすと、一歩一歩踏みしめるような、しっかりとした足取りで、静かに石段を降りていった。

 

 

 刹那の夢と嘘の玩具  ~完~ 

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。