水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

『小説家になろう』さんでオリジナル小説の掲載を始めました。

 

 いつも弊ブログ、『水面に浮かぶ古き書庫』及び、ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』へアクセスしていただきまして、ありがとうございます。

 

 『刹那の夢と嘘の玩具』は以前運営していたサイト、『ポケモンセンターin19番水道』で掲載しておりましたポケモン二次創作小説『空翠の指輪』を、タイトルと一部登場人物の名前を修正の上で再公開させていただいたものになります。

 今となっては黒歴史に近いものですが、それなりに量もありましたので、このままPCの奥で眠らせておくのも勿体ないと思い、再公開させていただきました。

 アクセス&読んでいただきました方、感想やコメントを投稿してくださった方、大変ありがとうございました。

 

 現在、私は『小説家になろう』さんで、まったりとオリジナル小説を掲載させていただいております。

 よろしければ、お時間のある時にでも覗いていただければ嬉しいです。

(もし感想や評価、ブックマークなどいただけますと、とっても嬉しいです!)

  

『神秘斬滅【ルナイレイズ】の少女』(連載中)

 https://ncode.syosetu.com/n5860ga/

 誤って異世界へ召喚された少年が【封印された覇王の力】に覚醒め、覇王の封印を【断ち切る】スキルを持った少女とともに、魔物に支配されつつある異世界を冒険していくお話です。

 まったりと連載しておりますので、読んでいただけますと嬉しいです。

 

 『白い少女の残留思念と魂喰らいの黒い獣』(完結済)

 https://ncode.syosetu.com/n0845fx/

 「見えないモノを視る」能力に目覚めた少年と、「誰にも見えないハズの」死んだ少女の残留思念、少女を狙う「誰にも見えない」黒い獣をめぐるお話です。

 もともと公開するつもりがなく、適当に書いたせいで無駄に長いです(汗)

 

このブログもまったり更新していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします(*^^*)

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-4

#16 絶望。
  4.刹那の夢


 言葉を失ったまま、瑞穂は立ち尽くしていた。
 遺されたメモリーに記録されていた真実は、少女にとってあまりにも残酷で、非道く救いようのないものだったから。
 微動だにしなかった少女の身体が、小刻みに震え始めた。乾ききり色を失いかけた唇が、細く華奢な指先が、ピンと伸びていた膝や爪先が、嵐によって切り崩されていく堤防のように、少しずつ震えだす。
 やがて、その心の堤防は決壊した。少女はその場に崩れ落ち、言葉にならない呻き声をあげ始めた。気狂いのように見開かれた瞳は、何も見えておらず、暗く深い絶望の色に、哀しみの色に覆われていた。
 少女には、解らなかった。どうすればいいのか。いや、何もできないことが解っていても、何かをしなければならないと思わずにはいられなかった。だが、何をすればいいのか、答は見えなかった。
 自分のせいで、自分が生き続けたために、父が自分を生かし続けようとしたために、悲劇は繰り返され続けた。百合ほたるが、あのとき入院していた患者すべてが、殺されてしまった。自分の姉妹とも呼べる存在が、自分以外の6人の姉妹が、長い間、狭いカプセルの中に閉じ込められ、そしてある者は、髪の毛の色の違いだけで人間として生きることすら許されず、またある者は自分の身代りとして殺された。
 非道いことだ。少女は床に座り込んだまま考えた。父の考えは、その想いは理解できないでもない。最愛の人を失うことは、そして娘を失うことは、たしかに辛く苦しいことに違いないのだから。
 だが、父のエゴによる犠牲は、父の犯した罪は、あまりに大きすぎた。しかし、その罪のおかげで、自分は今まで、一人の人間として、何不自由なく生きてこられたのもまた、事実だった。父が罪を犯さなければ、自分は生まれてくることすらできなかった。父を愚かだと断罪することなど、少女にはできない。できるはずなど無かった。
 振り子のように、小波に揺れる帆舟のように、瑞穂の心は揺れ動く。その振れ方は次第に大きくなり、瑞穂を翻弄する。やがて少女は、今まで何も知らずにのうのうと生きてきた自分に対しても、罪悪感と憤りが綯交ぜになったような感情を抱いた。
「こんな──こんなののせいで──沢山の人たちが──こんな私のせいで」
 そして少女は、考えた。自分は、何なのか。何者なのか。母親の遺伝子から”造られた”存在である自分は、一体何者なのだろうかと。父親が、これほどの犠牲を出してまで存在を維持させようとした”自分”は、一体、何者なのだろうかと。
 母親である洲先雪菜の複製として、代替として造られた自分。しかし父が言っていたように、自分はオリジナルには、洲先雪菜にはなれない、なりようがなかった。
 では自分は、父の、祐司の娘である、洲先瑞穂と呼べるのだろうか。いや、”本物”の瑞穂は、3年前に死んでいる。今の自分は、洲先瑞穂だと思い込んでいた自分は、瑞穂の記憶や感情や意識を引き継いだだけの”ナンバー7”という仮称で呼ばれていた、名も無き雪菜の複製に過ぎなかった。自分は洲先雪菜でも、そして瑞穂でも、かといって”ナンバー7”でも無い存在なのだ。
 そもそも、記憶と、父の記録には食い違いがあった。ほたるの死の原因も、父の失踪のタイミングも、彼女の記憶と、父の記録では違っていた。
 洲先瑞穂の記憶や意識や感情を移し変えられた副作用によって、事件直後の記憶が不確かになっているのだろうか。培養液の中で眠っている夢を、茶色の巨体が流星に貫かれる悪夢を、時折見るのも、そのせいなのだろうか。
 では一体、今、ここにいる自分は、一体何なのだろう。
 信じていた父も、本当の父ではなく、真実であると疑わなかった記憶も、屈折した不確かなもので、自分のものだと思っていた身体も、心も、記憶も、感情も、自分ではない、瑞穂ではない、雪菜でもない、自分自身のものですらない。この自分とは、一体、何なのだろう。
「死に損ないの”名無し”が──」
 不意に、カプセルの更に奥の部屋から、声が聞こえた。嘲るようでいて、憎しみの強く込められた声だった。少女の背筋を、得体の知れない悪寒が走った。
「折角すべて聴き終わるまで待っていたのに、父親とのお別れは、まだ終わらないのか? それなら、今ここで、すぐに終わらせてやろうか」
 聞いた事のある声だった。無慈悲で、冷め切ったような、見下すような声。”あの男”の声だ。父とともに研究をしていた男。組織の研究者、時雨の声に違いなかった。
 少女は我に返った。顔を上げ、反射的に立ち上がると身構えた。白衣を着た男は、時雨は、カプセルの横にもたれるようにして立っていた。
 時雨は手に何かを持っていた。彼は、瑞穂がそれに気づくのを見計らって手にしていたそれを少女へと放り投げた。それは瑞穂の足元へと転がった。
「これは──」
 瑞穂は足元に転がったそれを、眼で追った。少女は、それを目で捉え、何であるかを理解すると同時に息を呑み、微かに声を出した。
 それは、白骨化した人間の頭部だった。震える指先で、それを拾い上げ、瑞穂は時雨へ問いかけた。
「これが、父なんですね」
 カプセルから離れ、時雨は頷いた。
「そうだ。君も聴いただろう。この部屋の奥で、君の父親は何者かに殺された。君の妹であり姉でもある”ナンバー6”を私が殺したためにね」
 瑞穂は、父の頭蓋骨を静かに机の上へ置いた。不敵な笑みを浮かべたまま立っている時雨へと、向かい合う。
「自殺に見せかけて、ですか?」
「よく知っているな。できるだけ不自然にならないようにするためには、それが最良の方法だと考えたんだよ。一部のマスコミが、君が自殺したと報道したのは、君の父が裏で手を回したのだろうな。もっとも、私も彼も、そこまで気を回す必要はなかったようだが。
 君のような、つまらない人間が一人死んだところで誰も気にしない。その頃には既に、大衆やマスコミの関心は、別のところに行ってしまっていたからね。この施設が未だに、このように存続していることが、その証だ」
 つまらない人間、とは言ってくれる。その”つまらない人間”を殺すために、多くの人々を犠牲に、皆殺しにした張本人が、何を言っているのか。
 瑞穂は、先ほどまで自分に対して感じていたものよりも激しく強い憤りを、時雨に抱いた。
「そんなことより、どうしてこの子が、ここにいるんですか。あなたが、この子を殺したのに、なぜ父のもとに、この子の遺体があるんですか」
 視線を一瞬だけカプセルへ、その中の死体”ナンバー6”へ向け、瑞穂は訊いた。
 ナンバー6は茫洋と見開かれた哀しげな瞳で、瑞穂を見つめていた。思わず、死体と目が合った。その刹那、瑞穂はナンバー6の、洲先 桜の絶望を垣間見た様な気がした。
 父親と信じていた男に、殺されるために送り出され、首を絞められ、少しずつ喪われていく意識の中で感じた絶望を。
 瑞穂は背中の辺りに、痛いほどの悪寒を覚えた。
「死体の始末は、氷にやらせたからな。あの娘なら、喜んで食べると思っていたが、君の父とあのようなやり取りをしたのであれば、さすがに食べづらかったのだろう」
「氷ちゃんは、人を食べることを喜んだことなんて無いです。むしろ、嫌がっていた。カヤって人が、無理やりそうさせていただけじゃないですか」
 時雨は、瑞穂の言葉を、まるで聞こえなかったかのように流し、厭らしい笑みを浮かべた。
「おそらく氷は、彼が娘を、つまり君を守りきれなかったと思い、娘の死体を彼へと返したつもりなのだろう。しかし皮肉なものだな。彼の命を救った氷の行為によって、彼は命を落とすことになるのだから。射水 氷は彼が死んだことも、自分の行為が彼の死の間接的な要因であることも知らないのだろうな」
 瑞穂を小さく首を横へと振った。
「そうでしょうか? 確かに、殺されたのが私ではないということは、その時は、まだわからなかったでしょうが。以前、氷ちゃんは、私に3年前のことを訊いてきたことがありましたから。
 それでも、氷ちゃんが、あれからこの場所に来なかったとは考えづらい。少なくとも、父が死んだことは知っていたと思いますよ」
「彼の死体が、かなり酷い状態でもか? 死因は恐らくカプセルの破片を胸に突き刺されたときの外傷性ショック死だろうが、その死体は細切れにされていた。今でこそ白骨化して、まだ見れる形になってはいるが。見てみるか?」
 瑞穂は思わず顔を顰めた。すでにその頭蓋を目の当たりにしているとはいえ、細切れにされた父の白骨死体など、見たくはなかった。
「遠慮しておきます。父が既に死んでいることは、覚悟していましたから。氷ちゃんは最初から、知っていた。だから、あの娘が何も言わなくても、私には解ってしまった。父は、既に何者かに殺されていると」
 時雨は、意味ありげに頷く。
「たしかに。あの娘は、昔から嘘をつくのが下手だったからな。しかし、その様子だと、誰が君の父親を殺したのか、見当がついているようだな」
 瑞穂は僅かに俯き、悲しげに眼を細める。
「ええ。考えるまでもないことです。父が死んだとき、この部屋には、私の今の身体と、かつての私の身体を除いた、5人しかいなかった。そして、今ここにいるのは、脳だけのナンバー1。何かのアクシデントで焼け死んでしまったナンバー2。あなたに殺されたナンバー6だけ──」
 顔を上げ、正面から時雨を見据え、瑞穂は呟いた。
「これ以上、こんなことを言いたくありません。こんな、悲しいこと──」
「彼も、自分の娘に殺されるとは思っていなかっただろうな。だが、それは君も同じことだ」
「それは、どういう意味ですか」
 少女は怪訝そうに眉を顰めた。
「どういう意味とは──君は何故、私がここにいると思っているのだ」
「私を、殺しにきたんですよね。私が真実を知るまで、待っていてくださったことには感謝します。ですが、私は殺されるつもりはありません」
「真実を知ることで、君が死ぬ気になればと思ったのだがね。どうやら、そのつもりはなさそうだな。無駄な時間を与えてしまったよ」
 瑞穂は再び身構えた。腰のポーチにつけたモンスターボールを握り締める。
「おや、何を勘違いしてるんだ」
 時雨が低い声で呟いた。
「と、いいますと?」
「私は、もう君を殺すのはまっぴらだ。既に一度、殺しているのだからね。もっとも、私が殺したのは偽者だったわけだが」
 時雨の意図が解らず、瑞穂は困惑した。身構えたまま、緊張した面持ちを崩さないように、少女は彼の言葉の裏に隠された意味を考えなければならなかった。
「もういいぞ。入ってくるんだ」
 時雨は大きな声で、言い放った。彼は、部屋の外にいるであろう、何者かへ指示を出したようだった。
 瑞穂は背後に気配を感じた。巨大で凶暴な何者かの、ざらついたような気配だった。それは、殺意や狂気に似た、穢れた感情に満ちているように、少女には思えた。言葉にできない悪寒が、胸の奥に燻る。
 少女は危険を感じ、咄嗟に振り返ると屈み込んだ。その瞬間、少女の頭上を、何かが掠めた。人の頭ほどの大きさのそれは、一瞬のうちに過去り、後方の壁にぶつかる。だが、その音は聞こえなかった。別の音が、それを掻き消していた。
 耳を劈く爆音が響いた。
 壁が音によって振動した。次の瞬間、少女の見ている目の前で、壁が弾けるように崩壊した。
 間髪いれず、再び爆音が響く。それと同時に部屋の空気が一瞬にして逆流した。砂埃が、物凄い勢いで部屋に充満する。
 飛び交う砂埃や破片を、両腕で遮りつつ、瑞穂はうっすらと瞳を開き、辺りの様子を伺った。後方の壁に、壁の破片が食い込んでいるのが、ちらりと見えた。先ほど頭上を掠めて飛んでいった何かに違いなかった。瑞穂は息を呑む。あと数秒でも遅ければ、少女の頭は身体から離れて、破片とともに後方へと飛んでいったに、潰れていたに違いなかったからだ。
 少女はさらに深く身を屈め、土煙の中を凝視した。
 腕が見えた。人間の腕ではなかった。崩れきった壁の破片を掻き分け近づいてくるのは、獣の腕。こげ茶色の毛に覆われた、人間の胴体ほどはあろうかという太い腕だった。その先端からは、鉈のように鋭く長い爪が、無数に生えていた。爆音と壁の崩壊は、この獣が腕で部屋の壁を叩きつけたことによるものだった。
 獣の爪は壁を突き破り、瑞穂の眼前で、漲らせた狂気や殺意とかいったものに突き動かされるように蠢いていた。瑞穂は、胸の奥に燻る悪寒が、この獣のもつ感情によるものだと確信した。だが何故、獣の心がここまで澱んでいるのかは、解らなかった。
 狙いを定めたように、獣の腕は、その先端から伸びる爪は、瑞穂へと真っ直ぐに迫った。即座に、瑞穂は屈んだ体勢のまま掌を床へつけ、脚と一緒にタイミング良く蹴り上げた。素早く真横へ跳んだ瑞穂の頬を、長い爪が掠める。寸前のところで、瑞穂は爪を避けた。
 瑞穂は獣の足元を縫うように素早く駆け、獣との距離をおくように、ナンバー6達の死体がある部屋を飛び出した。あの獣の巨体を退けるには、カプセルや機器が密集している部屋は、あまりにも狭すぎたからだ。
 獣の周りに飛散していた砂埃がやみ、視界が晴れてきところで、瑞穂は再びモンスターボールを握り締め、こちらへと振り返りつつある獣を、その全身を見つめた。
「これは──」瑞穂は、それだけ呟いて、言葉に詰まった。
 巨大な狼のような体躯。こげ茶色の体毛に、ぬらぬらとした桃色の光沢を見せるゼリー状の表皮。それを認識すると同時に、瑞穂は以前にもこの獣を見たことがあると、対峙したことがあると直感した。
 間違いなかった。今さっき瑞穂を襲った獣は、コガネシティのラジオ塔で、時雨の指示に従って瑞穂を襲った獣そのものだった。
 瑞穂はポーチからモンスターボールを外して握り締め、その巨大な体躯をこちらへ向けつつある獣の方へ、放り投げた。
「お願い。リンちゃん!」
 その声に呼応するかのように、放り投げられたボールは空中で開き、中から眩い閃光とともに、リングマが飛び出した。
 リングマは、目の前で蠢く異形の獣を鋭く睨み付け、威嚇するかのように咆哮した。咆哮の反響と衝撃によって、静まりかけた砂埃は再び舞い上がり、まるで意思でも持っているかのように、2つの巨体の狭間でうねりを見せる。
「今度こそ、その女を殺すんだ!」
 不意に、時雨の叫び声が木霊した。
 怒声にも近いその声に、瑞穂は僅かに驚きを覚えた。それは、男が先程まで見せていた冷静で落ち着いた雰囲気と、あまりにもかけ離れていたからだ。
 だが、良く考えてみれば、瑞穂は彼の性格の豹変を以前にも目の当たりにしていた。瑞穂は記憶を手繰る。あれは、そう、ラジオ塔でのことだった。あの時も、今と同じように、獣に指示を出した途端に時雨の口調は強く、荒々しくなっていた。
 瑞穂は、時雨の姿を確認しようと視線を動かしたが、時雨の姿や表情は獣の影に隠れてよく見えなかった。
「殺してしまえ!」
 時雨は再び叫ぶ。それと同時に獣は身体を動かし、すぐにでも飛びかかれるように身構えた。
 獣が動いたことによって、瑞穂は獣の奥に立っている時雨の姿を見ることができた。彼の顔は怨嗟とも焦燥ともつかない、強い感情によって歪んでいた。それも以前と同じであり、時雨の顔は既に別人とも呼べるほどに、変わり果てていた。
 一体、何が彼をそこまで駆り立てるのか、瑞穂には解らなかった。瑞穂には、彼の歪みきった表情に、もはや時雨個人の意思があるとは思えなかった。もっと別の、不条理な何かの存在を感じざるを得なかった。
 その刹那、強い衝撃波が瑞穂を襲った。瑞穂は吹き飛ばされそうになるのを、必死で堪えた。だが、それは強風でも衝撃波でもない、ただの叫び声、獣の咆哮に過ぎなかった。
 獣は、リングマに負けじと雄叫びをあげていた。瑞穂はそのあまりの強さに戦慄した。こめかみの辺りを、冷たい汗が伝う。瑞穂は獣と、それに対峙するリングマとを交互に見つめた。そして少女は、獣が僅かに紅い輝きを宿していることに気づいた。
 獣の瞳は、紅い輝きを帯びていた。それは紛れもなく、イグゾルトの輝きだった。
 この付近に電波発生装置があるわけではなさそうだった。そもそも、ポケモンを操るほどの特殊電波の発生には大規模な設備が必要であり、そのような設備があるのは、ラジオ塔くらいのものだ。その証拠に、リングマは平然としている。もし仮にこの部屋に特殊電波が流れているのであれば、リングマも無事ではすまない。特殊電波によってその瞳は紅く輝き、発信者の意のままに操られてしまうはず。とすれば、考えられることは一つだけだった。
「この獣、脳に特殊電波発生装置を埋め込まれたんですね」
「そうだ。これの戦闘力は優秀だが、私の言うことを全く聞かない。だから、一位カヤのようにしただけだ」
 獣の瞳の輝きが一段と増した。獣はリングマへと飛び掛る。獣の口がこれ以上ないほどに大きく開き、長く曲がりくねった牙が剥き出しになった。
「リンちゃん、守る!」
 リングマは防御の姿勢をとった。獣の牙がリングマの四肢に食い込むが、リングマの強靭な筋肉が、鋭い牙を撥ね返す。リングマの身体には、傷ひとつ付かない。
 攻撃を防がれ、獣はたじろいだ。その隙を突いて、リングマは屈強な腕で獣を突き放す。
 即座にリングマは、体勢を崩した獣の懐に入り、鋭い爪を獣の腹へと抉り込ませた。ひときわ強く大きく吼え、リングマは爪を振り下ろす。
 獣の腹が、裂けた。切り裂かれた傷の断面から、骨と筋肉が剥き出しになると同時に、眩いほどに真っ赤な鮮血が溢れ、迸る。鮮血がリングマの全身に降り注ぐ。獣は身悶えつつ後退し、怨嗟に満ちた瞳で、瑞穂とリングマを見据えた。
「リンちゃん! もう一度──」
 瑞穂は、そこまで言って痛みを感じた。リングマへの指示は途中で途切れた。一瞬、瑞穂は何が起きたのか解らなかった。自分の脇腹を見る。水色のシャツが血に、獣のそれと同じ、眩いほどに鮮烈な赤に、染まっていた。
 ピンクの触手が、瑞穂の脇腹を貫いていた。触手は指先ほどの細さで、その先端は針のように鋭い。それは、獣の足元から一直線に、瑞穂の脇腹へと伸びていた。
「くっ!」
 瑞穂は自分に刺さっている触手を両手で掴み、強引に引き抜いた。鮮血が溢れる。掌が赤く染まる。息が荒くなる。立っていられなくなり、瑞穂はその場に屈み込んだ。激痛と出血によって、意識が遠くなっていく。
 リングマは異変に気づき、振り返った。血塗れの瑞穂の姿が視界に飛び込んできた。彼は驚愕し、そして激昂した。獣へ向けて、憎悪に満ちた雄叫びを上げる。獣も、リングマと瑞穂へ叫び返す。
 瑞穂は朧気になっていく意識の中で、俯いた。脇腹の傷は、急激に体力を奪っていく。もはや、少女は顔を上げることすらできなくなっていた。
 雄叫びを上げながらリングマは、獣へ急接近した。トレーナーの指示もなく飛び込んでくるリングマに対して、獣は防御の姿勢をとることも、避けることもできなかった。リングマは獣へと肉薄し、両腕の拳を振り上げた。
 リングマは、アームハンマーを獣の傷跡へと振り下ろした。獣の背中が、アームハンマーの圧力によって弾け、細切れになった内蔵が噴出し、飛び散った。獣の臓物は辺りに飛び散り、湿った音をたてる。
 獣は悲痛な叫びをあげた。
 獣の叫びを、瑞穂は荒い息遣いで聞いていた。脇腹を抑える左手は血の気を失い青白く、僅かに震えすら見せている。指の隙間からは、止め処なく鮮血が溢れてくる。
 既に、少女の意識は消えかけていた。
 その時、喪われつつある意識の中で、瑞穂は獣の声を聞いた。それは、呻きでも叫びでもない、大凡、獣が発しているとは思えない、声だった。
 瑞穂の意識は、途切れるどころか、強引に引き戻された。
「え──? 今、なんて──」
 瑞穂は、そのときだけは間違いなく痛みを忘れていた。父の非道い行為を聞かされたときよりも、自分が洲先瑞穂では無い、何者でも無いと知ってしまった時よりも、彼女は動揺した。
 獣は、人間の少女の声を、それも聞き覚えのある声を、発していた。
「痛いよ。瑞穂お姉ちゃん」
 それは、百合ゆかりの声に、間違いなかった。
 これは、どういうことだ。何故、ゆかりの声が聞こえる。これは、幻聴なのか、夢なのか。
 獣の血と肉片の臭いが、鼻腔を掠めた。饐えたような臭いだった。瑞穂は思わず咽た。そこで、思い知った。これは夢でも、幻聴などでもない、と。
「どうして、ユユちゃんの声が──」
 瑞穂は顔を上げ、眼前に佇むそれを認識した。彼女は呟きかけた言葉を失った。唇が動揺によって震え、声にならなかった。
 そこに、獣はいなかった。だが、百合ゆかりはいた。
 だが、それは瑞穂の知る、百合ゆかりではなかった。彼女の瞳は、魂が抜けてしまったかのように、色を失っていた。灰色に濁った瞳は、じっと瑞穂だけを見つめていた。
 ゆかりの身体は、獣の鮮血に濡れていた。いや、それだけではなかった。ゆかりの全身には、無数の細かい傷がついていた。それぞれの傷から血が滲み、獣の鮮血と区別がつかなくなっていた。
「痛いやないか、お姉ちゃん」
 ゆかりは、もう一度言った。と同時に、少女は咳き込んだ。口にあてがった掌から、指の隙間から、血が溢れた。そして、ゆかりの身体を覆っていた布切れが、身体からずり落ちた。
「な、なんで──こんな」
 瑞穂は、歯を喰いしばり、それだけをつぶやいた。瑞穂は、ゆかりの裸体に刻まれたそれを見たと同時に、すべてを悟った。理解してしまった。
 ゆかりの腹は、裂けていた。その傷は、先ほどリングマによって獣が受けた傷そのものだった。少女の小さく華奢な腹から、臓物と赤黒い体液とが、止め処なく零れている。骨と内臓が覗く。その様は、獣とまったく同じだった。
 百合ゆかりは、時雨によって、獣に、化け物の身体にされてしまっていたのだ。
「どうだ、私の言っていることを理解してくれたかな。妹同然の子に殺されるなど、思ってもみなかっただろう。それに、私に殺されるよりも、まだこの方が良いだろう? 君のせいで家族を失った子によって殺されるのなら、君も納得できるだろう」
 瑞穂は、時雨の言葉には答えなかった。歯軋りの音だけが、僅かに響いた。
「お姉ちゃん。瑞穂お姉ちゃん。聞いてるか?」
 ゆかりに呼ばれ、瑞穂は頷いた。
「全部、聞いたんや。そこのおっちゃんからな。お姉ちゃんが、お姉ちゃんやのうて、別のお姉ちゃんや無い何かで、それを知ってしもたから、ほたる姉ちゃんは殺されたって。違うか?」
 正確には違う。百合ほたるが殺されたのは、洲先瑞穂の真実を知ってしまったからではなく、病院と組織との関連を疑われかねない場所を、ほたるに知られてしまったからだ。
 だが、ゆかりが言いたいのは、そんなことでは無いはずだった。
「そうだよ。ユユちゃん」
 瑞穂は僅かに俯きながら、しかし、ゆかりの瞳をしっかと見据えながら、呟いた。
「確かに、私がいなければ、ほたるちゃんは死ななかった」
 ゆかりは目を細め、口許を歪めた。赤い血に染まった歯が覗く。噛み締められた歯は、瑞穂のそれと同じように、鈍い音を響かせていた。
「そやね。それやったら、なんでお姉ちゃんは、そんなにのうのうと生きていられるん?」
 不意に、ゆかりの濁った灰色の瞳が、色を帯びた。イグゾルトの真紅の輝きだった。
「ユユちゃん──」
 瑞穂は、気づいてしまった。ゆかりの言葉は、決して本心ではないだろう。でなければ、ゆかりが、自分のことを憎んでいるのであれば、彼女はもっと以前にそう言っていたはずだから。恐らくラジオ塔での事件のときに、ゆかりはこの身体にされた。その時点で既に、ゆかりは大半のことを知らされていたはずだ。だから、これは、ゆかりの心の奥底にある、小さく、しかし凝縮された感情であると、気づいてしまったのだ。
 ゆかりは年相応の子供っぽさはあったが、普段の言動に反して、実は聡明な子供ということを、瑞穂は知っていた。いつものゆかりであれば、すぐに気づいた筈だ。”百合ほたるを本当に殺したのが、誰であるのか”を。
 だから、すぐに瑞穂は悟った。イグゾルトの輝きが、ゆかりの脳に埋め込まれてしまった特殊な電波が、悪魔の囁きとして、ゆかりの心の奥底に燻っていた感情を、獣の形として、瑞穂への痛罵として、表へと剥き出しにしているのだ、と。
 首筋を、生暖かい液体が伝った。瑞穂は、掌でそれを拭う。血だった。噛み締められた唇から、首筋まで鮮血が滴っていた。ゆかりの身体を弄り、化け物へと変え、その感情を、二人の関係をも利用しようとする卑劣な時雨への怒りに、彼女は唇を噛み切った痛みも、脇腹を貫かれた痛みも、忘れていた。
「なあ、お姉ちゃん。聞いてるん? なんでや。なんで、お姉ちゃんのせいで、姉ちゃんが死ななあかんのや? 姉ちゃんが、死んだのに。そのせいで、みんなめちゃくちゃになってもうたのに、なんで、お姉ちゃんはそうやって生き続けていられるんや」
 ゆかりは、再び問いかける。瑞穂は、答えることができなかった。
 答えなど、なかったから。少なくとも、ゆかりが納得し、胸の奥に燻る僅かだが深い憎しみを、痛みを、癒すことのできる答えなど、どこにも無かったから。現実は、いつまでも理不尽で、どこまでも救いの無いものだったから。
 暫くの沈黙の後、瑞穂はゆかりへと語りかけた。それは答えではない。説得でも、命乞いでもない。瑞穂がいつからか覚悟していたことであり、ゆかりがいつしか向き合わなければならないこと。
「確かに私のせいで、私なんかのせいで、ほたるちゃんが、ユユちゃんのお姉さんが殺された。だから私は、ユユちゃんの人生をおかしくしてしまった」
 ゆかりは何かを叫ぼうと口を開いた。だが、瑞穂はそれよりも早く続ける。
「ユユちゃん。私は、やっとわかった。自分が、何なのかを。
 結局、私は父に造られた母の複製で、その洲先瑞穂の記憶を受け継いだだけの、名前も無い身体のひとつに、スペアのひとつに過ぎなかった。
 だけど、私を”私”として、母でもない、以前の瑞穂でもない、今ここにいる洲先瑞穂として認めてくれている人は、僅かだけどいる。その人にとって、いやユユちゃんにとって、いや、そうじゃない──」
 瑞穂は一歩、足を前へと踏み出し、ゆかりの細められた瞳を見据えた。傷口から掌が離れ、血が再び滲みはじめる。
「ユユちゃんがいるから、私は”私”なんだよ。私は瑞穂の記憶を受け継いだだけで、瑞穂そのものにはなれないから。たとえ、私を知る人が、リンちゃんが、氷ちゃんが、私を”私”だと認めてくれても、みんないい人たちだから多くの人が認めてくれるとしても、それでも、その人たちにとって、今の私は”出会ったときの瑞穂”ではないし、私にとっても”その人と出会ったときの記憶”は、私のものじゃないから。
 だけど、ユユちゃんは違う。ユユちゃんと出会ったのも、友達になったのも、一緒に旅をしたのも、今ここにいる私だから。だから──」
 瑞穂は血に塗れた掌を胸元にあてる。
「”私”の存在が罪なのか、ユユちゃんに裁いて欲しい。以前の瑞穂ではない”私”だけを知っていて、”私”を裁くことができるのは、”私”のせいで姉さんや家族を失った、ユユちゃんくらいしかいないから」
「うるさいよ、お姉ちゃん。黙ってや──」
 ゆかりは不意に呟き、頭を掻き毟った。ゆかりの茶色がかった髪が掌についた血に汚れる。
「ユユちゃん。私を殺して──」
「黙れや!」
 少女が金切り声を上げた。ゆかりは叫ぶと同時に、桃色の触手を全身から剥き出しになった。触手は瑞穂の二の腕を、太股を、肩を貫き、頬と額を掠めた。
 血が迸る。瑞穂は激痛を感じたが、悲鳴も痛みも噛み締めるように堪えた。
「殺すよ。もちろん、お姉ちゃんはウチが殺すわ! そやけど、そうやって、なんでもかんでも納得すなや! 受け容れるなや!」
 ゆかりの瞳が一段と赤みを帯びた。だが、瑞穂は違和感を覚えた。確かに、これは瑞穂の知るゆかりではない。だが、獣の心に支配され、自分への殺意を剥き出しにしていても、今の一言は、その一片は、瑞穂の知るゆかりのものであるかのように感じられた。
「殺す。絶対に殺す。そやけど、そんな風に言われたら、やり辛いやんか! もっと言い訳してや! もっと自分のせいやないって言ってや。そやったら、ウチも心置きなくお姉ちゃんのこと殺せるのに! 何が、”殺して”や──」
「ユユちゃん──」
「お姉ちゃん。ずるいで。やっぱり腹黒やな」
 瑞穂の身体を貫いていた触手が溶けた。瑞穂はその場に崩れ落ちる。だが、すぐさま顔を上げ、ゆかりの顔を見た。
 ゆかりの瞳の紅い色は、さらに強くなっていた。
「ずるいよ、お姉ちゃん。ウチにこれ以上、辛いことさせんといてや。もう、ウチは後戻りでけへんみたいやし」
「ユユちゃん。正気に戻ったの? それとも──」
「ごめんなさい、お姉ちゃん──」
 ゆかりはそれだけ言い、すぐさま身を翻し、後ろから様子を眺めていた時雨へと駆け出した。ゆかりの身体は少しずつ溶け出していた。傷が桃色に変質し、ぽろぽろと零れていく。
「な、何をしているんだ!」
 時雨は叫んだ。ゆかりは時雨にしがみついていた。
「さよなら──」
 瑞穂は、ゆかりの言葉を聞いた。今にも、泣き出してしまいそうな、震えた声だった。
 その瞬間、目の前が閃光に包まれた。ゆかりの身体が爆発した。水風船のように、ゆかりの小さな身体が弾けた。少女の鮮血が、みずほの身体に降り注いだ。爆発は時雨の身体を飲み込み、部屋全体へ広がった。
「ユユちゃん!」
 瑞穂は爆発の光と爆音の中で叫んだ。リングマは瑞穂の身体を守るように覆い被さる。瑞穂の渾身の叫びも、もはやゆかりには届かなかった。爆発は誘爆を呼び、止め処なく続いていく。
 百合ゆかりは、死んだ。

 

○●



「どうして、ユユちゃんが死ななくちゃいけないの──」
 焼け果てた部屋の中で、瑞穂はリングマとともに立ち尽くしていた。瑞穂の顔は青ざめ、凍りついたようになっていた。
 もはや、泣くことすらできなかった。目の前に散らばっている理不尽に打ちのめされ、微動だにすることも、座ることすら、その場に蹲ることすらできなかった。
 何故、ゆかりは死を選んだのか。瑞穂はすぐには理解できなかった。化け物の身体になってしまったショックか、いや違う。ゆかりは自分の身体の異常にかなり早い段階で気づいていた筈だ。今から思い起こせば、アサギシティでカイリューとしてあらわれたものは、海に落ちたとき、自分を包み助けてくれたそれは、ゆかりが姿を変えたものだったのだろう。それに射水 氷を見ていれば、聡明なゆかりは自分の身体がどうなってしまったのかを理解できたはずだ。あのタイミングで、ああいった行動に走るのは考え難かった。
「まさか──」
 瑞穂の頬を、冷たい何かが伝った。彼女には、それが汗なのか涙なのか、もう解らなくなっていた。
「ユユちゃんは、私を殺さないために──」
 瑞穂は、死の直前のゆかりに感じていた違和感の正体に気づいた。ゆかりは、獣の心に抗っていたのではないか。彼女の瞳が紅い輝きを増していったのは、抗うゆかりの心を制する為に、獣の心がその影響力を強くしたためではないか。
 ゆかりは瑞穂を殺したくなかった。しかし、これ以上、獣の心に抗いきれないと思ったのだろう。だから、自ら死を選んだ。時雨を巻き添えにして。
 足に、柔らかい何かが触れた。瑞穂は足元を見た。白くか細い、少女の指の欠片が落ちていた。粉々に飛散したゆかりの身体の一部だった。
 瑞穂は、ゆかりの指を拾い上げた。そのすぐそばには、子供のものと思しき、歯が落ちていた。これも、ゆかりのものに違いなかった。
 なんだ。なんで、こんなことになっているのだ。瑞穂は、自問した。と、同時に、瞳から涙が溢れた。
「私のせいで、また死んでしまった──どうして、私のせいで、私なんかの為に」
「違うな」
 不意に男の声が響いた。瑞穂は涙に濡れた顔を、声のするほうへと向けた。
 破片の下から、無数の触手が這い出してきた。ぐずぐずになった身体を必死で、かき集めている異形な触手。触手の中央に、人間の顔が張り付いているのが見えた。それは、時雨だった。時雨は、飛散した身体を再生させつつあった。
「あの娘は、お前を永遠に苦しめるために自殺したんだよ! 解ったか。そうやって死ぬことで、お前を苦しめようとしてるんだよ!」
「うるさい──」
 瑞穂は呟いた。震えていたが、感情を拭い去ったような、平べったい声だった。
「リンちゃん。あの屑を掃除してよ」
 リングマは、瑞穂の言葉の意味が解らず、首をかしげた。
「リンちゃん! あの男を殺して! 欠片ひとつ残さず、この世から消し去って!」
 瑞穂は突然、大きな声で喚いた。それまで堪えてきた怒りと狂気が綯交ぜになった、不安定で、明確な殺意に満ちた声だった。
 リングマは構え、瑞穂の言われるがままに破壊光線を発した。リングマの口から放たれた白色の熱戦が、時雨の身体を包み込み、貫き、そして病院の壁を、天井を打ち抜いた。
「もっと! もっとだリンちゃん! そんなんじゃ、あれの身体が残っちゃう! この世界からあれを、存在自体を消滅させて。もっと、もっと強く! もっと激しく殺して!」
 轟音とともに、部屋全体が揺れた。破壊光線が建物の柱を砕いたのか、天井がぽろぽろと剥がれ落ち、地響きが病院全域を包む。
 だが、瑞穂は落ちてくる天井の破片にも、足に、全身に伝わる地響きにも気づかず、ただ時雨の方を向いて、ひたすら叫び続けていた。
「もっと強く! もっともっと殺して!」
 リングマは、瑞穂の言葉どおり破壊光線に全身の力を込め続けた。彼も、瑞穂と同じ気持ちだったから。瑞穂が何も言わなくても、彼は時雨を殺しただろう。だが、瑞穂の怒りは狂気は、彼の怒りを、想像を、遥かに超えていた。彼も、瑞穂がここまで怒るのを始めて見たのだから。
 やがて破壊光線の光が、病院全体を包んだ。時雨の声は、もう聞こえなかった。時雨は、最初の破壊光線の時点で絶命したのだろう。だが、少女の殺意を狂気に満ちた声と、破壊の光は途切れることなく、夕闇に染まりつつある空に反響し続けた。

 

○●



「ユユちゃん──」
 小さな墓石の前で、少女が呟いていた。少女はとても小柄で、この澄んだ空のように明るい水色の髪を、左右で二つに束ねた特徴的な髪型が、ことさら子供っぽく見えた。だが、その幼い体躯や見た目とは裏腹に、少女の表情はどこか影を帯びており、大人びても見える。
「ずっと来れなくて、ごめんなさい」
 少女は墓に語りかけた。
「色々あって、忙しかったんだよ。警察には捕まるし、公安に取り調べされたりとか──」
 屈み込み、少女は脇に置いていた水桶から柄杓で水をすくい、墓石にかける。
「正直、まだ心の整理ができない。ユユちゃんが、他の姉妹とも呼べる子たちが、いろんな人たちが、私のせいで死んでしまったことが」
 少女は合掌した。しばらくの間、そのまま動かなかった。少女は静かに掌を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
「それでも──いや、だからこそ、私は死ねない。私を守ってくれた、ユユちゃんの、お父さんの気持ちを無駄にしないためにも。だから、もう”死にたい”なんて、”殺して”なんて言わないから。
 確かに、私は”かつて存在していた瑞穂”じゃない。でも、私はやっぱり、私以外の何者でも無いんだと思う。何者でもないものなんて、存在しないから。私は、今の”瑞穂”以外の何者でもないんだと、思いたい」
 墓の周りを片付け、少女はその場を立ち去った。去り際に、少女は空を見上げ、呟いた。
「私の存在が罪なら、私が生まれてきたことが罪であるのなら、いつか、その罪は償う。誰かを守ることで、誰かを救うことで、必ず償ってみせるから──」
 澄み渡る青空から、鳥の嘶きが聞こえる。
 少女はその刹那、夢から覚めた子供のように瞳を見開き、腕を空へと伸ばした。小さく息を吐き、少女は腕を下ろすと、一歩一歩踏みしめるような、しっかりとした足取りで、静かに石段を降りていった。

 

 

 刹那の夢と嘘の玩具  ~完~ 

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-3

#16 絶望。
  3.壊れゆく心

 

 ***2045/1/12***
 薄灰色の壁にかけられた時計が、真上に振り上げていた時針を、一瞬だけ震わせ、零時を過ぎたことを伝えた。
 祐司は口をあけ絶句したまま、眼前に置き捨てられた少女を見つめていた。凍りついた空気の中で、ただひたすら時を刻み続ける時計の針の軋みだけが、彼の耳に虚しく響く。それ以外の音を、彼は聞くことができなかった。聞いては、いけないと思った。
「何故だ──」
 祐司は、ようやく一言呟いた。横目で、時雨を睨みつける。
 時雨は口許に軽く笑みを湛えていた。睨まれていることに気付くと、彼は祐司と少女とを交互に見やっていた瞳を細め、聞き返す。
「”何故”と、言いますと?」
「何故、こんなになるまで放置していた。いくらでも処置はできたはずだ」
 祐司は、時雨へと向き合った。言葉を続けかけたその瞬間、彼は聞いた。いや、聞いたような錯覚を覚えた。それは、けたたましい獣の叫びだった。
 祐司は、聞いてしまっていた。彼が聞いてはいけないと思っていたもの。幼い少女の苦痛に満ちた呻き声を。擦り切れた奇声を。
 少女は、一頻り泣き喚いた。部屋の白い壁が、激しい泣き声に震えた。
 祐司は、時雨へ向けていた視線を外し、少女を見やった。
 紫色の長髪が美しい、小柄な少女だった。少女の顔は、身に纏うぼろぼろの布切れから僅かに覗く胸元は、その皮膚は、雪のように白く、祐司は思わず息を呑んだ。雪菜のそれを、白く美しい肌を、思い出さずにはいられなかったからだ。
 だが、濃い消毒液の臭いのなかで腐敗臭が鼻腔を掠め、祐司は、自分が思い出に浸る暇など無いことを思い出した。彼は、あらためて少女の全身を見つめた。彼女には左腕が無かった。まるで、レーザーのようなもので焼き切られたような傷跡が見える。残された手足は、肩や腰の辺りまで壊死しきり、黒ずんでいた。既に腐敗が始まっているのだろう。
 少女の鳴き声が小さくなった。泣き疲れたなどという生易しいものではなかった。口から吐いた鮮血が咽喉に絡み付いて、息ができなくなっていた。祐司は慌てて少女の下へと寄り添い、詰まっていた血を吐かせた。涙とともに、目に痛いほど鮮やかな赤い鮮血が、口から迸った。
 咽びながら、しゃくりあげながら、少女は鮮血に染まった唇を小刻みに震わせ、鈴の音のような透き通った声で、うわ言のように何かを呟き続けている。瞳から溢れ続ける涙で、頬や首筋だけでなく、腐りかけた身体までもが、ぐずぐずに濡れていた。呟くたびに、震えるたびに、口元からは鮮血が涎に混じって零れ落ち、黒ずんだ四肢からは、異様に粘り気のある血とも膿とも判別できない体液が滲み出る。
「死にたくないよぉ。助けて――私を助けて――」
 祐司は聞いた。 ずっと、少女は同じことを呟き続けていた。
「こんな──こんな、死に方、したくない。さっきから、言っているのに、どうして──助けてくれないの──」
 ここに来るずっと以前から、この少女は同じことを呟き続けているのだと、彼は悟った。ずっと、ずっと助けを求めて、そして時折、苦痛に耐え切れず悲鳴を、奇声を上げていたのだと。
「どうですか、祐司さん。素材としては、申し分ないとは思いますが」
 時雨は、事務的な口調で言った。祐司は、再び彼を睨んだ。
「君は何故、この子をずっと、この状態のまま放置していた。さっきも言ったが、いくらでも処置はできるだろう」
「残念ながら、彼女がここに搬入されたときには、すでに四肢の壊死は相当進んでいました。それに、まったく処置をしていない訳ではないですよ。事実、彼女は、まだ死んでいない」
 思わず舌打ちをしていたことに、祐司は気づいた。
 ”まだ、死んでいない”とは、よく言ったものだ。死なない程度の、最低限の処置しかしなかったという事ではないのか。”死にかけの子供”という、最良の実験材料を確保する為に。それならせめて、この子が苦痛を、恐怖を感じないようなやり方があったのではないか。
 腐りかけ、死にかけた少女を抱きかかえた彼の憤りを見透かしたように、時雨は顎を上げ、見下すような視線を彼へと向け、言い放った。
「それは、残酷だ」
 彼は、祐司は、自分の耳を疑った。”なにが残酷なのだ”。
「祐司さん。あなたは、彼女に苦痛を感じさせずに、意識も記憶もとりあえず無くして、処置をすればいいと思っている。確かに、ここに搬入されてすぐに彼女の意識を無くし、壊死した臓器や筋肉や皮膚を除去すれば、彼女は苦痛を感じずにすんだでしょう。先程のように、泣き叫び、絶望の中で助けを求める必要も無かったでしょう。
 だが、それでは彼女に”選択する権利”は無い。四肢や臓器や皮膚を失った彼女は、もはや自分の力では動くことすらできなくなるでしょう。それどころか、ここまで壊死が進行しているのでは、人間の姿を維持できるかも難しい。意識だけが、脳みそだけが残った、僅かな肉の塊になってしまうかもしれない」
 口の端を震えさせ、少女は時雨の言葉を呟く。何回か呟き、理解が追いついたのか、彼女は不意に幼く無垢な顔を歪め、罅割れた甲高い声で、言葉とも叫びともつかない、濁った奇声を上げた。
 少女の奇声を、祐司は聞いた。少女は腐りきった身体を捩じらせて、喚き続けた。身体が動くたびに、茶色く濁った体液が、少女の穴という穴や、皮膚の隙間から迸る。だが、そのうちに祐司は、少女の喚き声が、僅かではあるが言葉になっていることに気づいた。
 そんなの、人間じゃない。脳みそだけなんて、それは人間じゃない。こんな腐りきった臭い身体は、いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。もとのわたしにもどして。もとの、ふつうの、からだに、もどして。
 意識だけが残った、僅かな肉の塊。脳だけの、意識だけの存在になることは、人間としての身体を喪うことは、少女にとっては、死よりも恐ろしいこと、ということなのだろうか。
 祐司の脳裏を、雪菜の複製である、翠の姿が掠めた。彼女こそ、時雨が言い、少女の恐れる、脳だけの存在。身体も感情も失い、いや、はじめから脳と意識しか持たず、誰からも望まれなかった存在。唯一与えられた意識で、”それ”を、自分が望まれぬ存在であり、人間とも呼べぬ存在であることを理解し、その事実だけを無限ループのように認識し続ける存在。
 唯一の救いは、翠が感情すらも失っているということだった。感情が無ければ、自らの存在に悩むことも、苦しむこともない。
 だが、今、祐司が見つめているこの少女は違う。意識も感情も存在している。少女の、縋るような瞳に見つめられ、祐司は思わず息を呑んだ。
 今にも破裂してしまいそうな、大きく見開かれた瞳。そこに焦点は無く、ただ前にあるものを、ただ縋ることができるものだけを、ただただ、自分が人間のままでいられるようにしてくれる何かを、探していた。その必死で、しかし哀しく惨めな表情こそ、この少女に感情があるということの証に違いなかった。
「彼女が、そんな希望の無い末路を知り、そしてそれを拒んだ場合。祐司さん、あなたは、どのように処置をすれば、彼女が救われると思いますか?」
 時雨は淡々と祐司へ問いかけた。
「それは──」
 祐司は唇を噛み、押し黙る。時雨の問いに答えられないわけではなかった。答えを見出せないわけではなかった。だが、思いついた答えを、簡単にそのまま口にすることもできなかった。特に、少女の救いを求める瞳の前では。
「いけませんよ、それでは。さっきも言ったでしょう。何も教えないのは、彼女に選択の権利を与えないのと同じことです。それは、残酷だ。そこの少女に、脳みそだけになれと、もしくはその腐った身体のまま死ね、と言っているようなものなのですから」
 時雨は、静かに言った。いつの間にか、祐司を諭すような口調へと変化していた。だが、時雨の言葉は、少女には刺激が強すぎたのか、奇声は先程までよりも、さらに大きく、激しくなっていった。血と膿とに濡れたベッドの上で、少女は狂ったようにのたうつ。
「この、このぉ──」
 枯れ果てた少女の声を、祐司は聞いた。少女の瞳が、祐司の横顔を捉えていた。大きく見開かれた眼が、更に大きく広がり、焦点も彼へと合わせられていた。
「この、腐った身体を、元に戻してくださいぅ」
 再び、狂ったような奇声。喪われそうな身体を元に戻すため、見えるものすべてに救いを求める必死の形相で、祐司を見つめたまま。
 隠すことはできないと祐司は思い、目を閉じた。少女の顔を、見たくは無かった。選択肢は、確かにある。だが祐司は、彼女の選ぶ答えを、もう知ってしまっていた。
「この子の身体を維持するのならば、いや、元のとおりにするのであれば、強力な再生能力を持ったポケモンの遺伝子情報を、この子に組み込むしかない。再生能力が発現すれば、壊死した臓器や皮膚は、元に戻る。現時点で考えられるのはアーボック系、そしてスターミー系のポケモンだ。アーボックは、生息地域は限られているが、以前から研究し尽くされているし、人間との拒絶反応は限りなく少なくできるだろう。スターミーは、人間との拒絶反応は大きいだろうが、その再生能力無しには、ここまで酷くなった身体の再生はできない」
「それじゃ、そうしてくださいぅ。早く、助けてください。こんな、こんな身体は──」
 少女の涙声を、祐司は聞こえない振りをした。
「技術的には可能だ。この子の状態であれば、恐らくはテロメアの短縮も発生しないだろう。だが──」
 時雨の方へと顔を向け、祐司は目を開いた。時雨は表情の無い顔のままで、祐司の話を聞いていた。
「だが、この子は人間ではなくなる。人間の皮を被った、人間ではない別の生き物になる。組み込めるのは再生能力だけではない。できるかぎり無駄な部分は省くが、それには限界がある。恐らく、通常は問題ないだろうが、彼女自身の感情や、周囲の状況、環境によっては、表面から隠された遺伝情報がどんな影響及ぼすか分からない。他の実験体のように、両性具有になったり、熱に弱い体質になったりする可能性もある。いや、それだけなら、まだましだ。突然、人間の身体が、別のものへと変化するかもしれない。人を喰らう怪物になるかもしれない。それに──」
 恐る恐る、祐司は少女の顔を覗き込んだ。さすがに、少女の顔は僅かに引きつっていた。
 言葉を続けようとする祐司を遮るように、時雨は軽く頷きながら呟いた。どこか、満足げな表情をしている。
「さすが祐司さんですね。何れの方法でも、確かにリスクやデメリットはありますが、それを決めるのは、決める権利があるのは、我々ではない。もう、これで条件は整ったはずです。あとは、彼女に決めてもらいましょう」
 一瞬だけ、時雨の眼が、祐司を射るように捉えた。これ以上の祐司の発言を遮ろうという意図が、そこには表れていた。その瞬間、時雨は悟った。これは、茶番であると。
 選択肢など、初めから存在していなかった。少女は、最初から実験台にするためにここへ連れてこられ、そして自分の意思で、実験台になるという選択肢を選ぶよう、仕向けられているだけだった。そして祐司は、少女へ救いの手を差し伸べる役を、時雨によって与えられているに過ぎなかった。すべては、時雨の意図するまま動くように、少女が自ら実験台となるようにできていたのだ。
 だが、それを悟ったところで、祐司には何もできなかった。彼はこれ以上、時雨に逆らうつもりは無かった。そして、彼にはどうすれば、彼女が幸せなのか、いや、どちらがマシなのか、解らなくなっていた。何れの選択でも、少女にとって辛いことが待っていることに変わりは無いのだから。それならば、仕向けられていようとも、時雨の思い通りに動かされているだけであろうとも、少女自身が選んだ答えを、彼は信じるしかなかった。
 祐司はゆっくりと振り返った。彼は少女の目を見据え、訊いた。
「君、名前は?」
「ふぶき──ふぶきひょう、です」
「このまま人間の身体を、ただ喪うか。それとも、人間であることを捨ててでも、化け物になろうとも、身体を取り戻すか。どちらであろうとも、君にとっては辛いことが待っているだろう。だから、せめて、君が決めることができるのなら、君に決めてもらったほうがいいと、私も思う」
 少女は、射水 氷と名乗った少女は、即座に祐司の問いに答えた。
 祐司は頷いた。時雨が背後で口元を緩めているに違いない、と彼は思った。

 ***2047/3/14***
 結局、ナンバー7は、最後まで目覚めることは無かった。
 祐司は、眠り続けているナンバー7の身体を、カプセル越しに見つめながら、小さく呟いた。
「君には申し訳ないが、君には消えてもらわなければならない。だが──」
 それは、祐司が予想していたよりも遥かに早かった。できる限りの予防措置を、定期的な検査を行ったにもかかわらず。
 瑞穂の身体は、既に限界を超えていた。雪菜の死の原因となった病状が、瑞穂に現れたのだ。彼女は大学で発作を起こして倒れ、そのまま祐司の病院へと運ばれ、入院することとなった。
 検査の結果は、8年前に見た、雪菜の検査結果とほぼ同じものだった。違うのは、雪菜が余命1年ほどとされていたのに対して、瑞穂は長くても数週間しかないということだった。
 祐司は、雪菜が死ぬと知ったときと、同じ絶望を感じた。いや、同じようで違う種類のもの。より、深く辛いものだった。
 何故なら、8年も経ってから、祐司はやっと気づいたから。所詮、コピーはコピーでしかないと。複製は、オリジナルになることはできないと。
 確かに瑞穂は、写真で見た、幼いころの雪菜そのものの姿をしていた。そして成長すれば、祐司の知っている、祐司の愛した雪菜そのものの姿になるに違いなかった。だが、それは雪菜では無い。どこまで姿を似せても、どこまで性格を似せても、瑞穂は雪菜ではなく、祐司の一人娘だった。彼にとっての雪菜は、7年前に死んだ雪菜以外にありえなかった。結局、彼は雪菜を失ったのだ。
 そして、それは瑞穂でも同じことだった。少しだけ意地っ張りで、いたずら好きで、それなのに泣き虫で、誰にでも優しい、自分の娘以外は、今、ここに存在している我が子以外は、瑞穂ではありえなかった。
 いつしか祐司は、雪菜の複製としてではなく、娘として瑞穂を愛していた。彼は、雪菜を失ってしまったことを、心のどこかでは解っていた。だからなおさら瑞穂を娘として、心の拠り所にしていたのだろう。
 だからこそ、祐司の絶望は深かった。瑞穂が死ぬからといって、瑞穂の複製を造ったとしても、それは瑞穂ではないということを、彼は知ってしまったから。気づいてしまったから。
 祐司は、必死で解決策を模索した。だが、8年前よりも医療技術が発達しているとはいえ、先天的な瑞穂の障害の治療法はまだ存在しなかった。
 彼は、スペアとして眠らせている紅葉やみなとの臓器を移植することも考えた。だが、病巣は既に全身へ転移してしまっており、意味がなくなっていた。瑞穂の壊れた身体は、既に手の施しようの無い状態だったのだ。
 だが、祐司は諦めきれなかった。これほどまでの罪を犯して、これほどまでの犠牲を払って得た娘を、失うわけにはいかなかった。瑞穂を失ってしまえば、それまでの所業が、すべて無駄になってしまう。
 絶望と焦燥に挟み潰されそうになったその時、祐司は、ふと思い出した。以前、時雨の紹介で、柊という男に会ったことがあることを。男の研究は、人間の精神を、つまり意識や記憶や感情を、ポケモンへ移し替え、擬似的に”ex”を再現しようというものだった。
 柊の研究を思いだし、祐司は考えた。人間の精神をポケモンへ移し替えることができるのであれば、人間同士でもそれは可能なのではないか、と。
 祐司は早速、時雨を通じて、かつて柊の下で研究をしていたという男を紹介してもらい、話を聞き、また機器一式を借り受けた。
 さすがに専門分野では無いので、すべての理論を完璧に理解することはできなかったが、方法としては簡単なものだった。つまり、人間に限らず全ての生物の意識、感情、記憶は、脳内での微細なの波長情報によって形作られており、その波長を量子レベルで分解、解析し、移し替えることで、精神を移動させることができるという。
 もっとも、実際に柊が採用した方法は、人間の精神波長を、獄小の電波発生装置に記憶させ、その装置を直接脳へと打ち込み、装置から発せられる特殊電波によって、そのポケモン意識を上書きするという少々強引なものだったようだ。というより、そこまで強引でなければ、精神を他者へ移すことができなかったらしい。人間、ポケモンに限らず、脳がデリケートな器官であるため。そしてそれ以上に、意識や感情や記憶といったものは本来、連続していなければならないもので、不定形かつ不安定になってしまうためらしい。
 男によると、脳の構造が完全に同じで無ければ、もっと言えば、限りなく同じ姿形をし、限りなく同じ遺伝子を持っていなければ、同種の生き物である人間同士であっても、精神を移動することは不可能であるとのことだった。
 だが、限りなく同じ姿形をしており、限りなく同じ遺伝子を持っている存在を、彼は知っていた。祐司は、ふとナンバー7の姿を思い出した。瑞穂、つまりナンバー4とまったく同じ姿形をした、いまだに目覚めぬ雪菜のコピー。同じ雪菜の遺伝子を持ち、姿形がまったく同一である彼女らであれば、精神を移動することも不可能ではない。というより、彼には他に選択肢は、無かった。
 瑞穂の精神を、ナンバー7へ移し替える。瑞穂の記憶や感情や意識を引き継いだナンバー7は、遺伝子だけが同一である複製などよりも、瑞穂そのものに限りなく近い。いや瑞穂そのものに違いない。
「──だが、君の身体は、瑞穂の心とともに生き続ける」

 ***2047/3/28***
 扉を開ける音を、祐司は聞いた。彼は反射的に振り向き、無言のまま部屋へ入り込んできた何者かの方へと視線を向けた。
 短く切り揃えられた紫髪の、幼く中性的な顔立ちをした少女が立っていた。彼女は、大凡子供とは思えない、暗く鋭い目つきで彼を見つめていた。
 彼は、暫く考えなければならなかった。確かに、この少女とは、どこかで会ったことがある。その出会いの記憶だけは、鮮烈に彼の中に刻まれていた。それは彼にとって、とても重要な記憶に違いなかったから。だが、この少女が何者であるかということだけは、何故だか咄嗟に思い出すことができなかった。
 気まずい沈黙の中で、彼は、少女の名を思い出した。射水 氷。かつて祐司の手によって、身体を取り戻す代わりに、人間としての身体を失ってしまった少女。
 だが、少女の印象は、以前とは、彼が知っていた頃とは、明らかに異なっていた。彼がすぐに少女のことを思い出せなかったのも、その為だった。
 特徴のひとつだった紫色の長髪は、ばっさりと切り落とされていた。まだ肌寒いこの季節には似つかわしくない、ノースリーブのワンピースも、以前の少女であれば考えられない程に、飾り気がない。だが、少女の印象が変わったのは、そのせいだけでは無かった。
 少女の眼は暗い。茫洋と前のみを見続けるその瞳は、子供のそれとは明らかに異なっていた。同年代の娘を持つ彼には、それがよく解った。これは、子供の眼ではないと。子供は、ここまで陰鬱な瞳をしてはいない、と。
 祐司が、自分のことを思い出したことを、そしてその変わり様に戸惑ってのを察したのか、少女は、顔を少しだけ上下に揺らした。彼女なりの会釈なのだろうと考え、彼は小さく頷いてみせる。
「久しぶりだね。前に会ったのが、最後の定期検査の時だから、もう1年近く経つのかな」
 祐司はそう言いながら、氷をスツールに座らせ、自身も座った。正面から、少女の姿をまじまじと見つめる。
 見れば見るほど、少女の雰囲気は、以前とは別のものとなっていた。確かに、子供であるのだから、時の経過によって成長していくのは、当然のことだ。だが、この少女は、それらとはまったく別の変わり方をしていた。
 表情が、消えていた。かつて、自らの身体に固執していたときに見せたものは、必死で哀れで惨めに見えたそれは、身体を取り戻したときに見せた、溢れんばかりのそれは、痕跡すらも認められなかった。少女の顔からは、微笑みも哀しみも、それ以外の感情のいずれも読み取ることができなかった。
 仮面を被ってでもいるようだと、彼は思った。心の仮面。それは、かつて見せた、自分の悲しく弱い部分を隠すためのもの。仮面を被らなければ、自分の感情に目を瞑らなければ、耐え切れないほど、少女の境遇は、生活は辛いものなのだろうか。祐司は、少女が組織で暮らすことになったと、それだけを時雨から聞かされただけだったが、彼は組織での暮らしが、組織にある何かが、少女を変えてしまったと思わずにはいられなかった。
「お久しぶりです」
 声だけは、鈴の音のように澄んだ声だけは、変わっていなかった。もっとも、その口調は妙に大人びたものになってはいたが。
「今日は、どうしたの。君が一人でこんなところにくるなんて」
 祐司は言った。彼は、氷の変わり様に驚く傍ら、別のことを考えていた。何故、射水 氷が、わざわざ自分に会いに来るのか。事前に何の連絡もなく。
 少女と祐司は、ただの知り合いといった関係などではない。少女は組織に属する工作員であり、祐司は組織に協力している研究員なのだ。誰かに二人でいることを目撃され、お互いの正体が明るみなってしまうリスクに、少女が気づかない筈が無い。危険を冒してまで自分に会いに来るということは、何かが、それもあまり良からぬ事があるに違いなかった。彼は、胸騒ぎを感じた。
「私は──」少女が、小さな声でつぶやく「あなたに感謝しています」
 身構えていた祐司は、突然の少女の言葉に戸惑いを隠せなかった。
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味です。私の身体を、もとに戻してくれた。まったく、そのままの意味」
「そうか──もし、私と時雨が共謀して、実験台にするために、君に重症を負わせ、あんな身体にしたとしても?」
 ずっと感じていた疑問を、彼は思わず口走っていた。不意に時雨の緩んだ口元が、脳裏に蘇っていた。祐司がそう感じているであれば、当事者である少女自身がその疑問を感じない筈が無かった。だから、聞いていた。
「もし、そうであれば、私はあなたと時雨さんを殺します」
 祐司は、息を呑んだ。
「でも、それはありえない。あの女は、あの時、そんな命令は受けていなかったから。でも──」
「でも?」少女の語った”あの女”が何者なのか気になったが、彼は先を促した。
「何故、あなたは、私に処置をする事を、躊躇ったのですか?」
「別に、躊躇っていないよ」
「嘘です。たしかに、あなたは躊躇った。不自然です。私の姉や、他の子供たちには、何の疑問も感じずに、実験を行っているのに」
 確かに、彼女の姉も、他の子供たちと同じように、実験台にした。もっとも、他の多くの子供たちと同様、少女の姉も遺伝子の形質が発現しなかった。つまりは失敗であり、普通の人間のままではあるのだが。
「君は、特殊なケースだった。あの時の君は重度の凍傷で、全身が腐りかけていた。あの酷い有様を見て、これ以上、君の身体を弄繰り回そうという気が起きなかっただけだ。それに、あの状態の身体で遺伝子を弄れば、体組織に与える影響が多きすぎる。だからこそ、それを見越して、時雨は茶番を演出して、私をやる気にさせた。君に泣き喚かせ、私に腐りきった君の身体を弄る気にさせた。そして君も、自分で選択させられることで、自分の身体に責任を持たざるを得なくなった。自分で選んだことなのだから、誰かのせいにすることも、誰かの責任にすることもできなくなった」
「たしかに。私は、この身体になることを自分で選ぶことになった。あの時、あの姿になった自分を鏡で見たとき、この身体になったことを酷く後悔しても、誰かの、時雨さんやあなたのせいにはできなくなった。でも、あなたが躊躇ったのは、それだけじゃないと、思います」
 祐司は、考えた。確かに、少女の言うように、それだけが理由ではなかったような気がする。彼は徐に天井を仰ぎ、そして呟いた。
「確かに、違うかもしれないな。もっと、個人的で、身勝手な理由だった」
「それは──」
「君を見て、死んだ妻を、雪菜を思い出したからだ」
 これ以上、雪菜との思い出を、自分の中での雪菜を犯したくは無かったから。そう言っても、少女は納得してはいないようだった。無言のまま、祐司を睨むように見つめた。
「それと、君の姉さんを実験台にしてしまったことは、本当に申し訳ない。結果として、君の姉さんの身体には異常が無かったにしろ、非道いことをしていると思う。だが、私はもう、時雨には逆らえないんだ」
 祐司は当初こそ時雨の考えやその強引なやり方に馴染めず、何度か衝突した。今でも、彼に対する疑念は消えていない。だが祐司は、もう時雨のやり方や考えに反対する気力や意味を失っていた。雪菜の遺伝子を弄繰り回した自分に、時雨を咎める資格など無いと考えていたし、そして何より、時雨に協力することによって得られた対価は、彼にとって大きすぎた。
 不意に祐司の脳裏を、やさしく微笑む娘の姿が掠めた。
 時雨から提供された設備がなければ、瑞穂は存在しなかった。彼女のスペアである、みなとや紅葉、そしてナンバー7の身体も維持できなかった。
 ナンバー7の身体にナンバー4、つまり瑞穂の精神を移動させる作業は、彼が思っていた以上に、うまく進んだ。ナンバー7は、瑞穂の心を移し変えられた身体は、何事もなかったかのように瑞穂として目を覚ました。彼女は、自分の身体が別のものに変わったことに、まったく気づいていないようだった。柊の部下の男は、精神を移しても、身体と心の拒絶反応は少なからず発生し、本人はそれが本来の自分の身体では無いと、本能的に気づくと言っていた。瑞穂が自分の身体にまったく違和感を感じないということは、それだけ瑞穂とナンバー7の身体が、限りなく同一に近かったということなのだろう。
「ところで、君は──」
 思考を戻し、祐司は、スツールにちょこんと座る氷を見やる。
「それだけを言いに、今日、ここに来たのかい。僕と、君と出会うことが、どれほど危険か解っているだろう? そもそも、時雨は、彼はこれを知っているのかい」
「私も、あなたと同じです。私も時雨さんには逆らえない。だから、ここに来ました」
「──どういう、意味だ」
 祐司は、立ち上がる。少女の瞳が危険な色を帯びているのを、本能的に感じ取っていた。
「私は、あなたを、殺しにきました」
 少女は細められた眼で、彼を見やる。表情の無い白い顔が、ゆっくりと彼の方へと動く。眼が合った。底の見えない瞳に、彼は吸い込まれるような錯覚を覚えた。
 祐司は即座に、懐から拳銃を取り出し、少女の眉間に突きつけた。組織と関わりを持ってから、彼は自衛のため、拳銃を携帯するようにしていた。
「残念だけど、私はまだ死ぬわけにはいかない。娘の成長を見届けねばならないからね。だが、教えてくれ。何故、私を殺す必要がある。私が、組織に何をした」
 拳銃を見せられても、少女の表情は殆ど動かなかった。むしろ、つまらなそうに銃口を覗き込み、僅かに嘲るかのような口ぶりで、呟いた。
「こんな鉄筒で、私は殺せないですよ。あなたは、知っているはずですけど」
「だからだ。君を殺すつもりは無い。だが、逃げる時間は稼げる。それよりも、さっきの質問に、答えてくれ」
 射水 氷は、上目遣いで祐司を見る。少女のその眼差しは、小柄な子供のものとは思えないほど、艶めかしく、それでいて痛いほどに鋭い。祐司は僅かにたじろいだ。少女の顔へ向けられた銃口が、震える。彼の動揺を見透かしたように、少女は更に瞳を細め、呟いた。
「この病院にある地下施設の秘密が、漏れたからです」
 祐司は、絶句した。それはありえないことだった。地下施設の存在を隠すためのカモフラージュは何重にも施されているのだ。病院の設備自体も、組織によって運用されている以上、それらを見破り、地下施設の存在を発見するなど、不可能だった。
「誰に──誰に、漏れたんだ。医師か、看護士か、それとも──」
「百合ほたる──と、聞いています」
 知っている名前だった。祐司は、混乱した頭の中で、氷の言った名前を記憶の中から探す。たしか、骨折で入院していた患者ではなかっただろうか。たしか、瑞穂と同い年で、隣のベッドだった筈だ。百合ほたると瑞穂が、何度か話をしているのを、彼は何度か見かけたことがあった。
「百合ほたるは、地下施設入り口付近で、他の団員に目撃されています。彼女は、足を骨折しているにもかかわらず。団員が看護士を装って話を聞いてみると、彼女はこう答えたそうです」
 ”瑞穂ちゃんが心配だったから。できるだけ、瑞穂ちゃんの近くにいたかったから”
 また、沈黙が部屋を包む。射水 氷は細めた瞳を微かに開いて、呟く。
「──何故、娘さんを、地下施設に連れて行ったんです? 時雨さんは、怒っています。もう、誰にも止められない。あの人の性格を、あなたは知っているのに」
 祐司は何も言えなかった。もはや、氷の問いかけすら、耳に入ってはいなかった。
「単に秘密が漏れただけなら、それの口だけを封じればいい。ですが、あの人が、あなたに疑念を、それも機密保持に関する疑念をいたいてしまった以上、もう終わりです。
 この病院は、もう存在できない。あなたは殺されます。医師や看護士も無事では済まないでしょう。患者は何かのアクシデントを装って、皆殺しです。もちろん、百合ほたるも、あなたの娘も」
「そんなことは、解っている!」
 思わず、彼は大きな声を出していた。氷は、小さく眉を動かす。
「すまない。だが、私は、こうするしかなかった──君になら、解ってもらえるかもしれない。いや、たぶん、解ってもらえるのは、君しかいない。君に失いたくないものがあったように、私にもあった。そして、すこし変わってしまったが、今もあるんだ」
 彼は、諦めたように銃口を下ろした。
「お願いだ。頼みたいことがある──ついて来てくれないか」
 少女は、頷く。まるで、そうなることが最初から解ってでもいたかのように、躊躇い無く。

 彼は、射水 氷にすべてを話した。
 さすがの彼女も、整然と並べられたカプセルの中身に、雪菜のコピー達の姿に唖然としていた。半開きのまま震える唇が、その動揺を物語っていた。
 氷は、雪菜のコピー達のカプセルが隠された部屋を出て、すぐに呟いた。
「あなたは、間違っている。この子達は、あなたの玩具ではないです。私はあなたに助けられたから、あまり偉そうなことは言えないですけど」 
「私も、そう思う。だが、仕方が無かった。そして、ここまできて、無駄にするわけにはいかない。だから、君に頼みがある」
 少女は祐司を横目で見た。
「瑞穂だけは、助けてあげてほしい。私は、ここで殺してくれてかまわない。だが、あの子だけは、守ってほしい。そして、あの子の成長を見届けてほしい」
 氷は無言のまま、腰の辺りから拳銃を取り出した。小柄な彼女にとってはあまりに不相応な、大きな銃だった。少女は拳銃を彼へと向け、そして自分の胸元へと向けた。
 射水 氷はゆっくりと首を横へと振った。
「嫌です。私は、あなたを殺したくない。元々、私はあなたを殺すつもりはなかったですから。ただ、あなたの真意は知りたかった。変なことを聞いたりして、試すようなことをして、すみません」
「何を──するつもりだ」
「逃げてください。私は、あなたを殺すのに失敗して、あなたに撃たれたことにします。娘さんを助けるのは、私ではない。組織に飼われている私では、できない。あなたが、自分でするしかないです」
「そんな銃で自分を撃ったら、君は──」
「大丈夫ですよ」
 少女はそっけなく言い、そして初めて、彼へ向かってぎこちない微笑のようなものを浮かべて見せた。
「この程度では、死ねません。それに、痛いことには慣れてますから」
 銃声が轟く。氷の腹が弾け、赤黒い臓物が彼の眼前にぶちまけられた。
 彼は、銃声から、少女の飛び散った飛沫から逃げるように走った。瑞穂の病室へ急ぐ。瑞穂は点滴をしていた。彼は強引に彼女から点滴のチューブを毟り取り、唖然とする看護士達には眼もくれず、娘を抱いたまま階下へと、そして病院の外へと駆け抜けた。

 

○●

「──あれから、どれだけの月日が経ったのだろうか。射水 氷に助けられ、瑞穂を連れて逃げてから、私にはやることが多すぎて、時間を意識している暇など無かった。
 まずは、狭いアパートの一室を借り、そこへ瑞穂を住まわせた。そして、できる限りその存在を隠すようにとだけ伝えた。
 私には、瑞穂を連れて逃げ続けることはできなかった。逃げ続ける中で、いずれは真実を教えなければならないからだ。瑞穂に真実を教える勇気は、私には無かった。あの娘は、芯の強そうな眼差しとは裏腹に、打たれ弱いところがある。そこへ、自分が母親の複製のひとつであるなどと言えば、そして精神と身体が、それぞれ別であるなどと言ってしまえば、あの娘の心が壊れてしまうような気がしてならなかった。いや、確実に壊れてしまうに違いない。
 だが、それだけでは瑞穂はすぐにでも時雨に見つかり、処分されてしまう。私は、対策を講じる必要があった。もっとも確実で、単純な方法を。
 射水 氷があれからどうなったのか、私には知る方法が無かったが、少なくとも彼女は本気で私を助けてくれたようだった。今、私が潜伏している地下研究施設の最深部、つまり雪菜のコピー達が隠されている部屋が、いまだに時雨に発見されていないことが、何よりの証だった。当然、外部から直接この部屋に入り込めることも、私を除いて、誰も知らない。
 だからこそ、私はやっと落ち着いて、ここに記録を残すことができるのだが。私は、瑞穂が危険に晒されぬように──」
 何かの割れる音。ガタガタと、金属とコンクリートの擦れる音。祐司の声が、それらの雑音の中にかき消され、続いて男の声とも女の声ともつかない、掠れた声。
「あの子は、どこ?」
 掠れた声が、訊く。その声は酷く不安定で、低くなったり高くなったりを不規則に行き来する。
「誰だ、君は──」
「あの子は、どこに行ったのって、聞いている」
「その身体。君は、まさか──」
「答えろ! あの子は、どうして帰ってこない!」
「ナンバー6、”桜”のことか。あの子は、死んだ。殺された」
 掠れた声に、動揺が走っているようだった。語尾が震えている。
「お前が、殺したのか」
「私ではない。殺したのは、時雨という男だ。あの子は、瑞穂の身代わりとなって、殺されてくれたんだ。君も知っていると思うが、桜と瑞穂は、少なくとも外見上はそっくりだから」
「何故、殺した」
「彼女には、すまないことをした。だが、桜が瑞穂の身代わりで殺されなければ、瑞穂の身辺が危険に晒される。もっとも確実なのは、時雨自身に”瑞穂”を殺させ、その死体を確認させるしかなかったんだ。幸い、彼女は覚醒はしていたが、意識は持たせなかった。苦痛は感じなかったはずだ」
「違う! あの子は、意識を持っていなかったんじゃない」
「しかし──」
「お前が、あの子の意識に、気づかなかっただけだ」
 足音。
「そこに、いるのか?」
 甲高く、激しい悲鳴。
「なんで──なんで、こんなところに、置き去りにしているんだ。この子を」
「カプセルに戻したら、彼女らが動揺するだろう」
 歯軋りのような音。
「許さない。もう、お前は、殺すしかない。そして、あの子を元の場所に、一番安らぐ場所にかえしてあげるんだ!」
 大きな音。身体を床に叩きつけるような音。
「やっ、やめるんだ! 子供の君に、私を殺せるわけが──な、なんだ。これは!」
 鋭い金属音。ガラスの破片が擦れ合う音。
「死んでしまえッ!」
 液体の、迸るような音。鮮血の飛び散る音が小さくなるとともに、途切れ途切れの、低く荒い息遣いが僅かに響く。
 掠れ声は驚きと戸惑いが綯交ぜになったような声で、うわ言のように呟く。
「これが、私の──」
 メモリー素子の記録は、そこで途切れた。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-2

#16 絶望。
  2.終わる世界

 

 ***2039/4/2***
 覚めることの無い悪夢に堕ちたと、この時思った。その悪夢は予見することも、避けることも、防ぐこともできなかった。だがそれは、たった数行の文章、たった数十文字に過ぎない文言から始っていた。
 いや、この時点で既に、すべては終わり始めていた。
 自分の眼を疑うしかなかった。思わず手の甲で眼を擦り、引出しにしまいかけた眼鏡を慌てて取り出し、掛けなおす。動揺の為だろうか、視線は定まらない。
 気づけば、眼を背けていた。背けられた瞳は、自分でも呆れるほど殺風景な、薄暗い部屋の風景へと流れ、本棚に敷き詰められた無数の図鑑や、報告書や、雑誌や新聞の切抜きや、その他諸々の、やや色褪せかけた資料を、ひとつひとつ丹念に追いかけていた。
 無意味に、背表紙に記された題名を小声で呟く、呟き続ける。そうすることで、心を落ち着かせようとしているのか。それとも単に、時間稼ぎをしたかっただけなのだろうか。不真面目な子供が、宿題を片付けようとする前に、机の上で消しゴムや鉛筆を弄って遊ぶように。嫌なことを、少しでも長い間、考えずにいられるように。
 我に返る。首を僅かに振り、眉間に力を込めつつ、手にした資料を読み返す。だが、やはりそれは、記載されている内容は、変わることなど無かった。
 それは、つい今しがた送信されてきたメールをプリントアウトしたもの。担当する患者の、先週分の検査結果の一覧表だった。
 一覧には、その名前が、短く記されていた。視界がぼやける。落ち着いて、眼を細め、何度も、書類を凝視する。それは、見慣れた名前だった。”洲先雪菜”と記されていた。見間違えたわけでも、思い込みでも無い。それは紛れも無く、妻の名前。息が詰まった。肩が揺れた。
 だが、良く考えれば、なんということは無い。彼女に検査を受けるよう勧め、検査医に無理を言って自ら検査を行った張本人が、何を動揺しているのか。検査結果の一覧に、名前が載るのは当然のことだ。そう、当然のことで、何も心配することなど無い。結果はごく平凡なものになるに違いない。
 だが、名前の横に記された数字は、他の行のそれよりも、桁数が多い。いや、気のせいだ。気のせいなのだろう。更にその横には、より小さな文字が記されているのが見えた。赤い文字だった。検査結果のデータによってコンピュータが幾重ものパターン分析により導き出した所見である。そう認識するよりも先に、記されていた文字の内容を認めた。理解してしまった。そして凍りついたように、止まった。非常に回りくどい、内容を理解しづらい言い回しだったが、つまりは、要約すれば、そう言う事か。
「雪菜が死ぬ? それも、あと12ヶ月以内に──」
 思わず、呟いていた。
 それは、真っ白な紙の上に刷り込まれた、全く感情の介在する余地の無い、ただの文字の羅列にすぎない筈だった。だから、しばらく眺め続けていた。眺めているだけならば、内容を読み返しさえしなければ、動きさえしなければ、崩れるものは何も無いと思っていたから。
 だが、焦りにもにた感情が、指先から、足先から静かに、それでいて確実に込み上げてくる。抑えようの無い、黒々として、不定形で捉え所の無いそれは、やがて胸元まで満ちると、突然弾けた。
 叫んでいた。何を叫んでいたのかは、記憶に無かった。ただ、部屋すべての陰が、小刻みに震えているところを見ると、かなり大きな声を出していたのだろう。
 とたとたと、頼りない足音が廊下から響いた。足音は次第にこちらへと近づき、部屋の前で止んだかと思った瞬間、部屋の扉が開いた。
 細い足が、見えた。足はすぐさま、部屋の中へ踏み込む。顔を上げ、足の正体を見定める。雪菜だった。雪菜は子供のように眼を大きく見開いて、こちらを見下ろし、立ち尽くしていた。ストレートロングの水色の髪が、彼女の心の動揺に同調しているかのように、左右に揺れている。
「祐司君、どうしたの? なんだか、すごい大きな声を出して──」
 雪菜は言った。その小さく優しげな声に、意識が揺り戻された。ふと、指先に湿り気を感じた。書類が汗を吸い、僅かに皺を見せている。考えている以上に、長い時間が過ぎていたのだろう。
 慌てて検査報告書を机の中にしまいこみ、何でも無いと伝える。彼女は訝しげに首を傾げていたが、やがて呆れたように肩を竦めると屈み込み、そのつぶらな瞳でこちらを見据えた。
「あんまり仕事のことばかり考えてると、ノイローゼになりますよ」
 彼女は呟き、ゆっくりと顔を近づける。細く白い指先で頬を撫で、滲んだ汗を拭う。柔らかな身体を、控えめな胸元を、こちらの身体へと密着させ、腕を伸ばして背中へ廻し、絡みつくように、硬直しきったこの身体を抱き寄せる。
「何を──」
 絶句した。彼女は微笑みを浮かべ、そっと耳元に囁く。
「これで、忘れてくれますか? 仕事のこと、嫌なこと、辛いこと、悩み事、忘れていられますか?」
 頷く。彼女の息遣いが、肌を伝う。抱き寄せ、首筋を舐めると、雪菜は微かに声を漏らし、身を委ねるかのように、身体の力を抜いた。
 ゆっくりと雪菜の服を脱がす。ベッドに寄り添い、彼女の柔らかく控えめな胸を吸い、抱きしめる。頬を高潮させ、恥ずかしげに雪菜は喘ぐ。
 雪菜の身体を抱きながら、考えていた。彼女を失いたくは無い。彼女を死なせてはいけない。死なせたくは無い、と。だが、それは変えられぬ現実であり、抗えぬ運命であるということも理解していた。それを理解していながら、彼女の終わりの時を知りながら、こうしてただ本能に、性欲に引き摺られるように彼女を抱いている自分を、卑しく愚かしいとも、考えていた。
 次第に、快感が思考を侵食し始めた。混沌とした思考は朧げな膜に隠されていく。彼女もまた同じようで、か細い体躯の動きが、喘ぐ声が、激しさを増していく。唇が触れ合う。舌が絡み合う。
 雪菜は、不意に上体を反らして上擦ったような呻きを発した。高潮しきった細い体躯が、ベッドの上で音を立てて揺れた。
 この胸に蹲るように、ゆっくりと雪菜は寝そべる。全力疾走した直後の子供のように、息ははぁはぁと荒い。
 胸に蹲るようにして眠る彼女を見下ろすと、その愛おしさからか、全身が熱く火照る。触れ合い、胸を吸い、再び快楽の中に浸かりたいという欲求が湧き上がる。だが、快感の通り過ぎた後の妙に覚めた頭は、それらの欲求を押し退け、先ほどまでの思考を続けていた。
 雪菜は死ぬ。それは、夫であり、主治医でもある人間が、何よりも知っている。
 だが、雪菜の死という既に定められた結末を変えることはできなくとも、少しでも先延ばしすることすら許されずとも、その結末の先に、別の結果を残すことは出来るのではないか? 例えば──。
「赤ちゃん、はやく欲しいな」
 仰向けで天井を見つめながら、雪菜は不意に呟いた。
「赤ちゃん?」
「そうだよ。祐司君と、私の子供だよ」
 僅かに赤みを帯びた胸元をはぁはぁと上下させながら、彼女は頷いた。艶かしい口許から、白い吐息が立ち上り、火照った身体に吸い取られるようにして消える。
 子供。雪菜の発した言葉が、まるで何かの暗示のように聞こえた。子供、出産、個体数増加、子孫、遺伝子──。その瞬間、頭の中で散り散りになっていた事柄が、ひとつに結びついた。
 これだ。これ以外に、有り得ない。
 興奮からか、額に汗が浮いた。天井を仰ぐ。何度も仰ぐ。まるで、このアイディアを考え付いた自分自身への賛辞のように。そうだ。すばらしい。これなら。これなら、大丈夫だ。
「あの、変な声だしたら、驚くじゃないですか」
 視線を戻すと、雪菜が不思議そうにこちらを見つめている。気づかぬ内に、奇声でも発していたのだろうか。微笑みかけ、なんでも無いよと雪菜へ伝える。だが、雪菜は不安げな瞳を逸らさず、じっと見つめ続けている。
 そんなに不安がることは無いんだよ。と、心の奥底で、呟く。雪菜は生き続けるんだ。確かに、君は死んでしまう。死を防ぎ続けることも、死んだ人間を蘇らせることも出来ない。誰にも。神と呼ばれる概念にすらも、それは不可能なことだ。
 だが、雪菜の存在は消えない。雪菜は永遠に存在し続ける。優しい微笑みも、柔らかい身体も、ずっとずっと目の前にあり続ける。

 

 ***2039/4/7***
「嬉しいですよ、祐司さん。我々の計画へのご協力、本当に感謝いたしますよ」
 彼は言った。抑えようのない悦びを、無理にでも抑えているかのような声で、その口調に嘘偽りは無いように思われた。それも当然だろうか。こんな、気違いじみた計画に協力する人間など、存在するはずが無い。本来、存在してはならないのだから。
「まず、君が誰かを知りたいな」
 不意に問われた為か、彼は軽く眉を動かした。彼は、まだ名乗ってすらいなかった。故に、計画の概要のみが僅かに解っているのみで、どの組織の何者がこの計画の首謀者なのか、見当もつかなかった。
「君は、誰だ。この計画は、誰の思惑で動いている?」
 再び問いかける。彼は薄い笑みを浮かべ、口を開く。
「それをお伝えする前に、担保を頂きます」
「担保?」
「そうです。我々は、この計画が外部に漏れることを最も恐れています。ですので、担保を頂くのです」
「今の私には、担保にできるものは何も無いが──」
 そこまで言ったところで、彼は制した。
「失礼ですが、調べさせていただきました。祐司さんは、奥様の雪菜さんを溺愛されていらっしゃるとのことで。そこで、雪菜さんの命を、担保とさせていただきます。万一、祐司さんの責任によって、この計画が外部に漏れた場合、雪菜さんの命を頂きます。当然、祐司さんにも責任を取っていただきますが。まぁ、我々の組織には隠蔽を専門としているセクションがありますので、それほど気になさる必要はありませんがね」
「別に構わない」
 そんなことか、と彼に聞こえないように呟く。彼は、読み違いをしている。確かに、雪菜を愛していることに間違いは無い。だが、雪菜は間もなく死ぬ。今の雪菜は、オリジナルとしての役割さえ果たしてくれれば、たとえ殺されたとしても構わない。
「そうですか。では、条件を伺いましょう。我々に協力していただけるということは、それ相応の対価をお求めでしょうからね」
「用心深いな」
 自分達のことは極力話さず、まず相手の狙いを見定めようということか。
「条件と呼べるものではない。君達に協力する為にも、必要なことだ。まずは、最新の研究施設を、私の病院に提供してもらう。そして、施設の使用に関しては、私の自由にさせてもらいたい」
「つまり、我々が用意した最新の研究設備を、私用で使いたいと」
 簡単に言えば、そういうことになる。頷き、彼の顔を見据える。
「解りました。良いでしょう。医者と研究者の違いはあれど、その知的好奇心に変わりはありません」
 彼は口の端を吊り上げていた。笑ったつもりなのだろうが、顔が歪んでいるようにしか見えない、不自然な笑みだった。彼はこちらへ手を伸ばし、語りかけた。
「よろしくお願いしますよ。祐司さん。自己紹介が遅れましたが、私は、ロケット団研究開発6部、責任者の時雨と申します」
 彼の名乗った、ロケット団という組織名には聞き覚えがあった。カントーを拠点として、世界征服を目論むポケモンマフィアである。
ロケット団が、何の為にこんなことをする必要がある」
「こんな事、といいますと?」
 彼は、わざととぼけているのだろう。組織の名を聞いた以上、もう後戻りはできないのだから、素直に話せばいいものを。焦れた口調で再び問いかける。
「”異なる種類のポケモン同士の遺伝子を融合させる”など、倫理的に許されることではない、と言いたいのだ。何の為に、そんな気違いじみたことをしなければならない」
「強いポケモンを欲してるからですよ」
 心なしか、こちらを睨んでいるように見えた。彼の口調は自信に満ち、微かに蔑みすら感じられた。当然のことだろう、そんなことも理解していないのか、とでも言いたげな。
「もちろん、ただ強いだけではない。強いだけであれば、奪えばいい。捕らえればいい。ですが、数多の伝説に記されているような、歴史を動かすほどの能力を持ったポケモンは──そのような特殊な能力を持ったポケモンを、我々は”ex”と呼称していますが──探して見つかるものでは無いですし、運よく発見できたとしても、捕らえることに多大なリスクを負わなければならない。何せ、伝説となるほどですからね。我々は、ポケモンの遺伝子を合成させることにより、exを”造ろう”としているのですよ」
 彼の言葉の意味は理解できる。だが、人間の遺伝子工学ではある程度の評価を得ているが、携帯獣に関しては素人に近いために、彼の言うことが本当に実現可能であるかまでは解らなかった。それを感じ取ったのか、彼は説明するような口調で続ける。
「例えば、幻のポケモンと呼ばれる”ミュウ”という種は、すべてのポケモンの遺伝子を有しているという説があるそうです。知り合いの研究者に聞いた話ですがね」
 彼は胸ポケットからポータブルを取り出し、画面を操作して、こちらへと向ける。画面には、吹雪の雪山が映し出されており、雪の粒子の奥に僅かに、薄桃色の小さなポケモンが見える。
「これが、ミュウだそうですよ。こんなに小さなポケモンが、すべてのポケモンの遺伝子を有しているらしいのです」
「ゲノムサイズは、その種の大きさと比例しているわけでは無いだろう。そのミュウというポケモンが、すべてのポケモンの遺伝子情報を持っていても、不可解で、極稀なことではあると思うが、有り得ない事では無い」
「そうです。私が申し上げたいのはつまり、ポケモンの遺伝子は、非常に効率よく構築されているということです。これはミュウに限らず、ポケモンという生物すべてに共通していることです。まぁ、ポケモンは分子構造からして、既に他の生物とは異なっているそうですから、これも不思議でも何でもありません。
 ポケモンはその異常なほどに効率よく整備構築された遺伝子によって、例えば”携帯獣通信能力”や”進化”など、通常の生物では考えられない特異な能力を有しているのですから」
 それとポケモンの遺伝子を弄ることに何の関連があるのか。彼は、こちらの怪訝な顔に気づいていないのか、それともあえて無視しているのか、話し続ける。
「ただし、効率が良い為に、ポケモンの遺伝子はデリケートなのです。他の生物であれば、意味の無いゲノムを多く含んでいますので、多少遺伝子を弄ったところで、大きな変化は望めません。せいぜい、触覚の数が増えるとか、腕が生えるべき場所に、足が生えるといった程度の変化しか望めない。ですが、ポケモンは違う。ポケモンの遺伝子は無駄が無く、すべてが意味を持っている。電気タイプのポケモンに、浮遊特性をもつポケモンの遺伝子を合成すれば、浮遊特性を持つ電気タイプのポケモンができるかもしれない。あくまで理論上の話ですが。究極的にはexと同等、もしくはそれ以上の能力を持つポケモンを造りだせる。
 そもそもex自体が”ある特殊な外的要因”によって、そのデリケートな遺伝子が突然変異を起こして誕生したと推測されているのですから」
「ある、特殊な要因? 何だ、それは」
「それが解れば、我々はあなたの能力を必要としませんよ。まぁ、神の悪戯とでも言うのでしょうかね。ポケモン自体が、神の気紛れで誕生したという民話もありますが」
 神。そんなものの存在は、今まで信じたことは無かった。勿論、概念は理解している。その存在を人々は生きる為の知恵として想像し、いつしかそれを己が創造したものであることも忘れて信仰するという、滑稽とも言える歴史も知っている。
「おや。祐司さんは神を信じていないようですね。その顔から察するに」
 神など信じない。愛も、平和も、心も、すべて人間が考えた概念にすぎない。下等生物には無い、それら人間独自の概念を理解しやすくする為に、神という都合の良い存在が創造されたにすぎない。
「まぁ、神など信じないほうが良い。我々は、これからその神を愚弄するのですからね。我々が目指すのは”神と呼ばれたポケモン”を”造る”ことなのですから」
「確かに、神など信じていない。だが、これは倫理的に許されることでは無い。むしろ神など、どうでもいい。君と私がやろうとしていることは、許されざる命を造りだすこと。それは、禁忌を犯すことだ」
 彼は、暫し無言のままこちらを見つめ、口許に手をやった。そして、冷やかな口調で問い返す。
「だから、どうしたというのです?」
「禁忌を犯したものには、罰が訪れる。これは信仰でも妄言でもない。例えば、そうやって造り出した存在を、我々はどのように制御する?」
「今は、制御不能でしょうね。遺伝子操作によって”神にも等しい最強のポケモン”を造りだせば、それは己が力によって暴走し、人類を滅ぼす可能性がある。ですが、ご心配なく。我々の別チームが、現在ポケモンの思考と感情とを操作する研究をしています。いずれは、最強のポケモンを、我々の意のままに操ることができるでしょう」
「しかし──」
 言いかけたところで、彼は詰め寄ってきた。鋭利な指先を振りかざし、こちらの喉に軽く食い込ませる。威圧というよりも、発言を制するというよりも、彼なりの人懐っこさの表れではないかと思われた。
「では、逆にお聞きしたいのですが、何故、貴方は我々に協力していただけるのですが? 我々の計画が倫理的に許されることではないと思っているのであれば、破滅へ向かう道しか無いと信じているのであれば、我々の要請を断ればよかったではないですか。それとも──」
 顎を上げ、彼は見下すようで、僅かに憐れみを含んだ視線を、こちらへ向けてきた。無言のまま、立ち尽くすしかない。そんな相手を、やはりそうかとでも言いたげな表情を見せ付けるように顔を近づけ、彼は続ける。
「貴方は、我々のような犯罪組織に協力してでも、禁忌を犯してでも、やらなければならない何かがあるということですか」
 黙り込む。何も、言うべきことは無い。
「まぁ私としては、計画の妨げにならなければ、何をして頂いても構いませんよ。それこそ、先ほど約束しましたが、我々の提供する研究施設も、どうぞご自由に」
 ”私”は頷き、まるで初めから、それが交渉の主目的であったかのような口調で呟いていた。
「ありがたく使わせてもらうよ」
 こんな気違いじみた計画に協力する人間など、存在するはずが無い。本来、存在してはならない。だが、”私”は違っていた。雪菜の死を受け入れ、”雪菜の存在”の消滅のみを拒んだ瞬間から、私は既に普通ではない、人間ではない、別の何かに、堕ちてしまったのだろう。

 

 ***2039/10/16***
 あれから6ヶ月ほど経った。”子供達”は順調に成長している。
 さすがに子供達に、「雪菜」と名付けるのは躊躇われた。まだ、雪菜は生きているが故に憚られるというのもある。だが、それ以上に、どうしてもこれが、人の形も認められない、いわば肉片とも呼べてしまうそれが、雪菜であるとは思えなかった。
 それらはカプセル内に満たされた培養液の中を漂っていた。カプセルの数は7つ。それの数も7つ。親指ほどの大きさしかないそれは、培養液の揺り篭に揺られ、眠り続けている。
 いずれも、私の子供達だ。だが、私の子供では無い。雪菜の子供でも無い。それ以前に彼女らはまだ、この世界に生まれてすらいない。もっとも、生まれたとしても、真に親と呼べる存在など在りはしないのだが。
 彼女達は、雪菜の遺伝子を元にして造り出されたコピー。
 正確に言えば、雪菜の身体から摘出した卵子を元に造り出した、雪菜と全く同一の遺伝子を持つ個体。
 技術的な問題から、大人である”現在の雪菜”を複製することはできず、胎児の状態から始めなければならないが、成長すれば雪菜そのままの女性となる。気が遠くなるような先の話ではあるが、18年程度の時間など、永遠の存在となる雪菜の為ならば惜しくは無い。
 私は、再びカプセルの中を覗き込んだ。グロテスクな胎児が、ビクンビクンと小刻みに蠢いている。彼女らは、まだ人間ですら無かった。名前をつけるのは、まだ早いか。私はもう暫く、これらを、製造ナンバーで呼ぶこととした。

 

 ***2040/2/1***
 今日、雪菜が死んだ。今思えば、計画を思いついた日から、彼女とは疎遠になっていた。
 彼女は、次第に悪化していく自分の体調を気にも止めず、コピーを造る作業に没頭する私のことを心配してくれていたようだ。
 もちろん、雪菜は私の計画を知らない。いや、何も知らない。自分の複製が病院の地下設備で製造されていることも、自分の余命が残り僅かであったということすらも。私は、何も話してはいなかった。彼女が哀しむ姿を、私は見たくなかったから。
 雪菜は、単に私が研究に没頭しすぎているとでも思っていたのだろう。逆に私は、雪菜が必死に私の気を引こうとすればするほど、彼女を避けていたのかもしれない。
 今から思えば、彼女は寂しそうでもあった。この計画を思いついた日以来、彼女とは寝ていない。食事を一緒にする回数も、極端に減っていた。会話は、業務連絡のようにそっけなくしていた。
 雪菜には悪いと思っている。だが、仕方が無かったのだ。”今の雪菜”を必要以上に愛してしまうことを、恐れていた。もちろん、私は雪菜を愛している。こうして、狂ってしまうほどに愛している。だが、”今の雪菜”は、やがて、すぐにも失われてしまうものだ。一緒にいられる時間は、限られている。だから、私はこの計画を、雪菜という存在を永遠とすることを、思いついた。だがそれは、今の雪菜を永遠にするわけではない。あくまで、雪菜を永遠に存続させる計画であり、今の雪菜を愛してしまえば、今の雪菜が私にとって必要不可欠な存在となってしまえば、この計画そのものが無意味になるに違いなかった。
 雪菜の身体は、一目見ただけでは、それが屍体であるとは分からないほどに安らかで、まるで眠ってでもいるかのようだった。苦しまずに、死ぬことができたのだろう。私は部下に感謝した。彼女の屍体は、今まで見た、どんな屍体よりも美しく、整っていた。
 私は屍体の頬を撫で、軽く口づけをした。微かに、薬品の臭いが鼻をつく。
「君の望んでいた赤ちゃんが、子供ができたよ」
 話しかけても、雪菜は応えない。当然だ。雪菜は、”この雪菜”は既に死んでいるのだから。私は、彼女の穏やかな死に顔を脳裏へと焼きつけ、雪菜の元を去った。

 

 ***2040/2/2***
 これは、偶然だろうか。雪菜が死ぬことによって、複製である彼女達が、本物として目覚めたのだろうか。それとも、魂というものは実在していて、死んだ雪菜の身体を離れて、同じ遺伝子を持つコピーへと宿ったのだろうか。
 今日、子供達が覚醒した。
 私は、子供達に名前を付けることにした。以前にも名前をつけようと思い立ったことはあったが、その頃の子供達はまだ、ただの肉片に過ぎず、人間と呼ぶにはあまりにも色々なものが足りなかったために諦めていた。だが、目覚めてしまった以上、この世に生まれてきてしまった以上は、名前を付けないわけにはいかない。いつまでも雪菜の複製であるという意味の、製造ナンバーで呼ぶわけにはいかない。
 彼女らの何れかを、私の娘として、少なくとも”雪菜”になるまでは、育てなければならないのだから。
 製造ナンバー1には、翠(ミドリ)と名付けた。翠色は、雪菜の好んでいた色だった。そういえば、空翠という言葉も好んで使っていた。
 しかし彼女は、残念なことに失敗作と言わざるをえない。翠には、身体が無かった。そして今後も、身体を得ることは無い。縮小した脳と、異様に肥大した眼球だけの、人間と呼んでいいのかどうかもわからない存在になってしまっていた。
 何故こんな姿になってしまったのか、原因は不明だ。細胞分裂時の染色体異常・欠損によるものではないかと思われるが、サンプルが一体だけでは検証のしようも無い。
 恐らく翠は、身体だけではなく感情や知能といったものも望めないだろう。だが、彼女は目覚めてしまった。脳波が、それを証明している。自我は、意識だけは存在していた。翠の脳波は、何かを探している時の波形に似ていた。自分の身体か、親か、本来そこにあるべき何かを探しているのだろうか。
 翠は、雪菜にはなれない。いや、それ以前に、人間にすらなれなかった。
 製造ナンバー2には、あさひと名付けた。
 彼女が目覚めたのは、翠が覚醒した42分後だった。あさひは、7体いる雪菜の複製の中で、初めて”まとも”に覚醒した子供だ。脳を持ち、身体を持ち、少なくとも外見上は、普通の赤ん坊と変わり無い姿をしていたからだ。
 だが、彼女の体組織は、通常ではありえない成分を含んでいることが判明した。あさひの皮膚は、酸素に触れると高熱を発するという、極めて特異かつ致命的な障害を持っていた。
 あさひは培養液のカプセルの中から外に出ることができない。無理に外へ出れば、外気に触れて一瞬で沸騰し、発火してしまう。彼女もやはり、染色体異常による失敗作であり、雪菜には程遠いものになってしまった。
 製造ナンバー3には、紅葉(モミジ)と名付ける。彼女は、あさひが覚醒してから3時間後に覚醒した。
 紅葉は最初の成功作と言っていいだろう。ただ単に、”人間を造る”ということが目的であったならば、これ以上の成功は無い。それどころか、常人よりも優れた身体能力と知能を持つ可能性があることが解析で明らかになった。恐らく、翠やあさひの特異体質の原因となった染色体欠損が、偶然にも彼女にはプラスとして発現したのだろう。
 それは、喜ぶべきことだ。雪菜は、生まれつき病弱で運動のあまりできない身体だった。彼女は、ずっとそんな自分の身体を疎んじ、哀しい事だと嘆いていたのだから。
 だが紅葉にも、致命的な問題点が存在していた。
 まだ赤ん坊である現時点において、いやそれよりもかなり早い段階で、私には解っていた。これは雪菜にはならない、と。
 紅葉は、誰にも似ていなかった。雪菜にも、雪菜の血族のいずれの特徴も見当たらなかった。彼女は、雪菜の形質を全く有していなかったのだ。
 私の直感は、遺伝子解析によって証明されることとなった。但し、紅葉は雪菜の遺伝子を持っていないわけでは無かった。染色体異常の為に、雪菜の形質が、いや、有している姿形についての遺伝子情報が全く発現しない、もしくは発現したとしてもごく短期間しか持続できない身体になっていたのだ。
 紅葉は、有している姿形についての遺伝子情報をランダムに発現させてしまう、つまり、姿形が不安定という、通常では考えられない身体を持っていた。最も、翠やあさひに比べれば、普通に生きていくには殆ど問題にはならないだろうが。
 しかし、雪菜に似ていないものを、雪菜とすることはできなかった。彼女もまた”雪菜”としては失敗作に違いなかった。
 紅葉の覚醒から4分15秒後に、製造ナンバー4が覚醒した。ナンバー4には、瑞穂(ミズホ)と名付けた。
 瑞穂は紅葉と同じく、常人よりも優れた身体能力と知能を持つ可能性が高く、ほぼ成功として良い個体だった。出来損ないの紅葉のように、雪菜の形質が発現しないということもなく、赤ん坊の状態でありながらも雪菜の面影を感じ取ることができる。雪菜としても、申し分無い。
 ただ唯一の問題点として、彼女には雪菜と同様の心臓障害が認められた。雪菜の細胞をクローニングする際に、障害の元となっていた遺伝子が発現しないよう処置を施していたが、恐らくその処置がうまく機能しなかったのだろう。最悪の場合、雪菜と同様に、もしくはそれよりも早い段階で障害によって死亡する確率が高い。
 瑞穂とほぼ同時に覚醒した製造ナンバー5には、みなとと名付けた。
 彼女も紅葉、瑞穂と同じ成功作だった。また、紅葉のように雪菜に似ていないということもなく、瑞穂のような心臓障害も無い。雪菜としては、成功作と呼べるのではないだろうか。
 製造ナンバー6には、桜(サクラ)と名付けた。彼女の覚醒は他の個体と比べて遅く、瑞穂やみなとの覚醒から、約八時間後のことだった。
 桜は身体的な特徴が瑞穂と酷似していた。見た目はもちろん、同じ心臓の障害を持っていた。ただ唯一瑞穂と異なるのは、瑞穂の脳が常人と比べて高い知能を有する可能性が高いのに対して、桜の脳は全く逆の反応を示した。つまり、彼女の知能は一定の水準以上になることは無い。推定ではあるが、幼稚園児程度までの知能しか望めないだろう。
 雪菜は病弱ではあったが、知的な女性だった。それが、幼稚園児ほどの知能しかないというのであれば、それはもはや雪菜とは呼べない。そんなものは、雪菜ではありえない。
 最後に残された製造ナンバー7は、まだ覚醒していない。それゆえに、まだ名前を付けていない。
 彼女の身体的な特徴は、瑞穂と桜に非常に酷似していた。但し彼女の心臓障害は、瑞穂、桜のそれと比べると軽度ではある。知能については、覚醒していないが為に正確には測定できなかったが、恐らく瑞穂と同じではないかと思われる。彼女の脳に、異常は見られなかった。
 このナンバー7には、不可解な点が多い。覚醒期に入っているにも係わらず、覚醒する気配も、覚醒の一週間前頃から観測される筈の脳波の揺らぎすら無い。前述の通り、彼女の脳には異常が見られないにもかかわらず。
 覚醒の兆候が無い代わりに、ナンバー7からは深い夢を見ていることをあらわす脳波が観測された。何の夢を見ているのだろうか。
 私には夢の中で生きているこの少女が、生まれることを、存在することを、拒んでいるかのように思われた。何故、拒むのか。誰が、雪菜が、雪菜の魂が、私を拒んでいるのだろうか。
 とりあえず最も状態の良好な、みなと、そして瑞穂を、私の──洲先祐司の娘として、雪菜の忘れ形見として育てることとした。新しい雪菜の、候補として。

 

 ***2042/12/24***

 降誕祭で賑わう街の光とざわめきが、カーテンの隙間を縫って、部屋まで入っては消えていく。
 微かな明かりに照らされて、少女は泣いていた。ただひたすら泣き続ける。少女の鳴き声は、薄暗い部屋に重たく響き、遠くから聞こえる喧騒を掻き消す。
 何故、泣くのか。彼女自身も、よく解らないに違いない。ただ、今までとは違う、別の世界に、別の境遇に、孤独に放り込まれつつあることだけを理解しているのだろう。そして彼女の防御本能が、止め処ない涙を流させているのだろう。
 彼女は喉をひくつかせながら後ずさった。少女の背中が、窓ガラスに触れる。彼女の身体の震えが、ガラスを通じて、部屋全体に軋んだ音として響き渡る
 泣き腫らし、上目遣いでこちらを睨む少女の姿を、祐司は冷たく見下ろしていた。少女のその仕草は、大人しそうに見えて妙に芯のある瞳は、やはり雪菜そのものだ。祐司は、そう考えながら、懐へ手を伸ばし、極小の注射器を取り出した。
「残念だよ、みなと」
 祐司は呟いた。”みなと”と呼ばれた少女は下唇を軽く噛み、さらに鋭く彼を睨み続けた。これもまた、雪菜の癖だった。もはや少女と雪菜の違いは、身体の大きさだけと言っても言い過ぎではないだろう、ある一部分を除けば。
「君は本当に、お母さんそっくりだ。だけど──」
 みなとは、首を激しく振った。頬を流れていた涙が散り、薄白いカーテンを僅かに濡らす。肩まで伸びた、艶のある漆黒の黒髪がはらはらと揺れる。
「君の髪は、黒いんだ。だけど、君のお母さんの髪は青かった。いや、水色といってもいいだろう。透き通った水色をしていた。だから君は、お母さんには、雪菜にはなれないんだ」
 言いながら、祐司は何故、こんなことになったのかを考えていた。恐らく、紅葉達に発生した染色体の欠損が、みなとにも同じように起こっていたのだろう。その証拠に、同じ環境で育っている瑞穂の髪は、雪菜とまったく同じ透き通った水色をしている。
 祐司は、みなとの腕を掴みあげた。みなとは小さな手足を必死にばたつかせ抵抗した。だが、祐司は軽々とみなとを持ち上げ、片手に持った注射器を、少女の二の腕に突き刺し、薬品を注入する。
「君は、雪菜にはなれない。だけど、君の身体はよく出来ている。髪の毛の色さえ間違っていなければ、君は最高傑作に違いない。だから心配しないでほしい。君の身体は、雪菜のスペアとして、大切にするから」
 注射器を放り投げ、祐司はゆっくりと、みなとを床へと寝かせる。みなとは身体に注入された薬品によって、意識を殆ど失いかけていた。だが、それでもなお涙の滲んだ瞳で、先程までと変わらぬ鋭さで、祐司を、自分の父親だと信じていた男を、睨み付け続けていた。
 祐司は屈みこみ、みなとの頬を撫でた。少女は歯を食いしばり、遠ざかっていく意識に必死に抵抗しているようだった。だが、虚しい抵抗も長くは続かず、みなとは力尽きた。
「ぱぱ、どおしたの?」
 突然呼び掛けられ、祐司は咄嗟に振り返った。みなと、いやとてもよく似ているが、みなととは別の少女だった。
 祐司は、少女の肩の辺りまで伸びた水色の髪を見た。と同時に、眠たげだが、不安に満ちた瞳に、じっと見つめられていることに気づいた。ナンバー4。いや、瑞穂という名前をつけた少女。祐司のもう一人の、そして最後に残された娘。
 瑞穂は、薄暗い月明かりを頼りに父親と信じている男を見据えていた。小脇に抱えられたニャースのぬいぐるみが僅かに揺れている。
 どおしたの? と、再び少女は問いかける。やはり瑞穂も、みなとや雪菜と同じ、大人しそうでいて妙に芯のある瞳をしていた。
 祐司は素早く瑞穂へと歩み寄り、床に寝かせたままにしている、みなとの姿が見えないよう、その視線を塞いだ。
「なんでもないよ、瑞穂。それより、こんな夜遅くに起きてきたらいけないよ。子供は、寝ている時間だ」
「だから、みなとちゃんも寝てるの?」
 祐司は息を呑んだ。見られていたか。無駄に勘が鋭いところも、雪菜譲りだ。
「そうだ。子供が起きていてはいけない時間だからね」
 言いながら彼は立ち上がり、みなとの小さな身体を抱き上げた。瑞穂は、彼とみなとを不安げな瞳で交互に見つめる。
「みなとちゃん、どおしたの?」
 みなとは、君のスペアの身体になるんだよ。祐司は、心の奥底で小さく呟き、そして少女へ諭すように言った。
「みなとは、ちょっと事情があって、瑞穂と離れた所で暮らさないといけなくなったんだ」
 瑞穂の顔が、即座に曇った。祐司は、少女の頭に軽く手をやり、言葉を続ける。
「だけど、我慢できるだろう? 瑞穂は、お姉ちゃんなんだから」
 俯き黙り込んでしまった瑞穂を寝室へと帰し、祐司はみなとを抱いたままガレージへと降り、病院地下の研究室へと向かった。
 みなとの意識は僅かに戻りかけていた。彼は急いでナンバー5用のカプセルを開け、みなとを中へと押し込み、培養液をカプセルへ注入した。
 培養液を吸い込み、少女は苦しげにカプセルの中でのたうった。肺や胃が培養液に慣れるまではある程度の時間が必要なのだ。叫ぶことも、泣くこともできず、ただ慣れるしかない。

 みなとの見開かれた瞳は、深く暗い色に満ちていた。少女は、自分が人間で無かったことを、人間でなくなってしまったことを、悟ってしまった。
 彼女は、諦めていた。自分は、人間ではなかった。溺れているかのような苦しみと、腹の中を焼かれているかのような痛みに耐えながら周りを見回せば、自分と同じような肉の塊が、人間の形をしていないものから、自分とそっくりなものまで、蠢いているのが見える。そして自分も、あの肉の塊のひとつ。こんなものは、人間なんかじゃない。
 みなとは、幼い頭で考えていた。そして、苦痛の中でひたすら願った。人間でなくても、誰かの複製に過ぎなくても、ただの肉片であっても構わない。
 私はただ、普通の人のように、普通の人間のように、生きてさえいければいい。洲先みなとでなくてもいい、洲先雪菜でなくてもいい。他の誰でもいい。偽りであってもいい。ただ、普通に生きていきたい。普通の人間として、生きていきたい、と。
 祐司は、少女の願いを知る由もなく、そそくさと薄暗い部屋を後にした。

 

 ***2044/8/7***
「今、何と言った」
 祐司は非常に強い口調で、時雨へと詰め寄った。
「そういう方向は、お嫌いですか?」
 時雨は皮肉を込めて呟いた。何を今更、とでも言いたげに、横目で祐司を睨む。
「何故、そこまでする必要があるのか聞きたい。私の造ったものは、君の要求をほぼ満たしているだろう。これ以上、何を望む」
 祐司は、ポケモンの遺伝子を改造することによって、強いポケモンを造ることに成功していた。祐司の知識と技術力は、時雨の仮説を既に証明していた。
 本来は覚えないはずの技を覚えたポケモン。通常ではありえない特性を持ったポケモン。だが、時雨はそれで、その程度では満足していなかった。それ故、上層部には、実験はすべて失敗していると報告していた。慎重な時雨らしい行動だと、祐司は思った。
 彼は”神と呼ばれるポケモン”を望んでいた。それだけは、いまだに成功してはいない。そもそも、何をもって成功とするのか、祐司には想像できなかった。
「貴方は、あの程度で満足しているのですか。確かに、貴方のアイディアと技術は素晴らしい。我々にとって、貴方の存在は絶対に必要だ。ですが、この程度ではいけない。これでは、exに、遠く及ばない」
「だからといって、こんなことが──」
「せっかく遺伝子の合成で、形質の発現を制御することができるようになったのです。ここはやはり、人間で験す必要があるでしょう」
 時雨の提案により、遺伝子合成の技術を人間に応用する実験が、何度も行われた。
 祐司は結局、それ以上強く時雨に抗うことはできなかった。雪菜の遺伝子を弄繰り回した自分に、時雨の考えを咎める権利は無いと考えていたし、何よりみなとや桜といったスペアの身体を維持するためには、時雨から提供される設備は欠かすことができず、必要以上に時雨の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
 時雨は、人間の高度な知能と、ポケモンの強力な戦闘力を併せ持った存在を渇望していた。それが、彼の考える”神と呼ばれるポケモン”に、現時点で最も近いのだろう。

 

 ***2045/1/11***
 人間とポケモンの遺伝子を合成する実験は、思うように進まなかった。ポケモン同士の遺伝子合成では発生しなかった障害が存在したのだ。
 まず、ポケモンと人間の遺伝子を直接合成させることはできない為に、ポケモンの遺伝子の特定の部分を除去してクローニングを行い、それを人間の体組織へ移植し、内部にて遺伝子を侵食させる方法を採用せざるをえなかった。しかし、そのような不完全な遺伝子で造り出した個体は、細胞のテロメアが極端に短くなり、およそ4年程度しか生存できないことが解ったのだ。
 既に大量の実験体が造り出され、そして培養液に満たされたカプセルの中へ廃棄されていた。
 祐司は、研究施設全体に広がる培養液のカプセルを見回した。
 培養液の中で意識を消された彼ら彼女らの大半は、祐司の娘である瑞穂と同じ年頃の幼児、幼女たちだった。
 大人の身体にポケモンの遺伝子を合成しても、形質が発現する可能性が低いだけでなく、テロメアの短縮による影響で、急速に老化し死亡してしまう。第2次性徴の生じる前の子供たちでなければ、ポケモンの遺伝子を合成することによる効果が得られないのだ。
 だが、彼ら彼女らも、4年ほど経てば寿命によって死に絶える。何もわからず連れ去られ、何もわからずに化け物にされ、何もわからないまま死んでいく。
 非道いことをするものだ。だが、こんな非道いことを、私は何度も繰り返している。それも、これが最初ではない。祐司は、血の気の無い、異様なほどに白い肌をした子供の裸体を見上げながら、心の中で呟いた。
 病状が悪化していく雪菜の身体を放っておいたときも、雪菜の遺伝子を弄って子供たちを造ったときも、みなとを単なる部品として扱ったときも、罪の意識など無かった。だが、今になって思い起こすと、後悔と良心の呵責だけが残るのは何故だろう。
 みなとも、他の子供たちも、何も知らずに培養液のカプセルという檻に身体を閉じ込められ、流れ続ける時という鎖に心を縛り付けられている。
 我ながら、非道いことを、するものだ。
 だが、今更、無かったことにすることはできない。こうなってしまった以上、彼女らのような犠牲を出してしまった以上、私は前に進み続けるしかない。例え、その方向が間違っていたとしても。
「何をしているのですか。仕事をしていただかないと、困りますよ」
 気づけば、時雨が背後に立っていた。祐司は振り返り、彼を見据えた。心成しか、機嫌が良さそうに祐司には思えた。
「祐司さん。良い材料が見つかりましたよ」
 祐司は顔を顰めた。彼の言う良い材料とは、祐司があまり望んでいないものだったからだ。
「そんなに簡単に、”死にかけの子供”を用意できるのか」
「条件は揃っていますよ。現在5歳の女児で、もってあと十数時間の命です」
 クローニングした遺伝子を移植する方法は、移植される側の細胞が弱まっているほど効率が良く、テロメアの短縮を抑制できる。つまり、死にかけの子供こそ、ポケモンの遺伝子を合成するのに、最も適した身体ということになる。
 祐司は躊躇いつつも、時雨にそのことを伝えていた。そして、すぐさま彼は、死にかけの子供を”見つけて”きた。祐司は、時雨に不信感を抱かざるを得なかった。あまりにも都合が良すぎる。
 時雨に連れられるまま、祐司は死にかけの子供のいる部屋へ向かった。扉の向こう側から、痛々しい呻き声が漏れていた。時雨は、すぐにでもそれを祐司に見てもらいたいと言わんばかりに、そそくさと扉を開いた。
 祐司は、言葉を失った。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-1

#16 絶望。
  1.禁じられた言葉

 

 男は、扉を開いた。それは本来、開く筈の無い、外からは開かれる予定の無い扉だった。何故なら、扉はその内に潜む者の手によって巧妙に隠蔽され、誰の眼にも触れることは無かったから。
 男は白衣を纏っていた。年は若く、青年と呼んでも違和感は無い。だが、白衣の内側から滲みでる空気は酷く老獪で、大凡その細く端正な顔立ちには似合わなかった。恐らく、初めて彼に会った人間は、皆揃って同じ印象を抱くだろう。まるで、初老の男が中身をそのままに、三十歳ほど若返ったようであると。そして、その印象を残したまま、暫くしてまた彼に会うと、記憶より更に若い彼の外見に、こんなに若い男だっただろうかと、驚くことになる。
 彼は、扉の中を見回し、一歩前へと踏み出した。彼が歩くたびに、白衣の袖は揺れ、手の甲に刻まれた、ケロイド状の傷跡が見え隠れする。
 部屋の中は、時が止まっているかのような静寂と、淀みきった空気に満たされていた。男は微かに咽ながら、部屋の中央まで進み、奥に並べられている人の身長ほどはあろうかという、七つのカプセルを横目で見やった。
「これか──」
 男は呟いた。後に続く言葉は無く、彼は瞳を細め、納得したように顎を引いた。カプセルから視線を外し、次に、彼は脇に置かれた机の上を見た。小さなメモリー素子が、放置されている。彼はメモリー素子を手に取り、降り積もった埃を振り落とすと、再び机の上に置き、メモリーの内容を再生させた。
 声が聞こえた。彼のものではない、別の男の声だった。彼は、メモリーから発せられる声を聞き、表情を曇らせた。
 メモリーを再生してから暫くして、彼は突然、机を叩いた。机は衝撃で揺れ、メモリーは床に落ちた。だが、メモリーの再生する男の声は途切れることなく、語り続けた。
 彼は笑った。天井を見上げ、一頻り奇声を上げ続けた。彼が笑い終えるころに、丁度メモリーはすべての情報を再生し尽し、停止した。彼は弾かれたように身体を動かし、カプセルのすぐ傍にある基盤を操作した。
 反対側で扉が開いた。隠されていた部屋の中でなお、隠されていた扉。男は背中で扉の開く音を聞きながら、中に潜む者の周到さを、そしてその者の臆病さを、まざまざと感じた。そして、また少し不機嫌そうに笑い声を漏らす。
「やはり、あの娘の父親なだけのことはある。これも、遺伝──いや、それは無いか。ただ、強く影響を受けているには、違いない」
 男は──ロケット団組織の研究者、時雨は独りごちた。振り返り、扉の中のそれを睨みつけ、奥にうすぼんやりとした人影を認める。
 彼は慎重に扉の手前まで歩み寄った。腰に吊るした拳銃に手をかけ、一気に部屋の奥へと踏み込む。彼はそれを、人影の正体を見つめ、訝しげに眉を顰めつつ、呟いた。
「捜したぞ。とても、長い時間をな」
 時雨の言葉の発せられた先、そこには、洲先瑞穂の父親である、洲先祐司の姿があった。

 

○●

 トキワシティが、こんなにも静かな街だということを、瑞穂は今まで意識したことが無かった。それは、旅に出て、他の街を見て、辛いことを、哀しいことを経験して、そこで初めて、感じることのできるものだからだろうか。
 都会のザラザラとした喧騒は聞こえず、また森林や山奥のような陰湿でピリピリとした空気も感じない。瑞穂は深く息を吸い込んだ。小鳥ポケモンの囀りが、水溜りに時折見られる小さな波紋のように、静まり返った空間を僅かに揺らす。
 この街の空気を一言で言い表すのなら、空白、だろうか。静かに息を吐き出しながら、瑞穂は考えた。
 空白。つまり、それは何も無いということ。何も無いということは、その何かによって哀しむことも、傷つくことも無いということ。だが、何も無いのは”今”だからだと、瑞穂は不意に思った。かつて、この街には確かに何かがあった。いや、何かではない。不条理で、悲しいもの。混沌のようなものだった。その混沌は、台風や竜巻が勢いに任せてすべてを薙倒して、吹き飛ばし、やがて己のエネルギーの放出を制御しきれずに消滅するのと同じように、多くのものを傷つけ、また殺し、後に残ったのは、柵と圧力によって歪められた報道と世論、それとは乖離した現実。
 瑞穂は足を止め、顔を上げた。かつて、その混沌が渦巻いていた場所がそこにあった。トキワ洲先クリニック。瑞穂の父親である、洲先祐司が院長をしていた総合病院だった。
 懐かしさと同時に、忌わしい記憶が脳裏を掠めた。瑞穂は朽ち果て土ぼこりに塗れた塀にもたれかかり、胸元を押さた。
 三年前この病院で、何者かによって薬品が盗まれて点滴に混入され、その点滴を使用した入院患者が脳障害に陥り、死亡するという事件が起こった。被害者は意識不明となり、大多数が目覚めぬまま一ヶ月ほどで死んだ。最終的な犠牲者は40人にも及び、生き残った人間は、点滴直後に異常に気づいた少女、瑞穂一人のみだった。
「ほたるちゃん──」
 瑞穂は、とある少女の名を呟いた。百合ほたる。事件の犠牲者であり、瑞穂の数少ない友人でもあった。
 ほたるは他の被害者と同じように、病院の入院患者だった。退院の二日前に薬品の混入した点滴を受け、間もなく意識不明に陥った。半年後に意識は回復したものの、脳を薬品に犯され、彼女の知能は著しく低下していた。自分の置かれている状況を理解できぬまま、錯乱し、発狂し、彼女はそれから半年後に死んだ。彼女は、最後の犠牲者だった。彼女は、もっとも長い間苦しみ続け、もっとも惨めに死んだ犠牲者だった。瑞穂は、彼女の死に際に立ち会った時のことを、今でも鮮明に記憶している。
 彼女の蹲っているベッドの白いシーツは、汚物にまみれてよれよれで、所々に血が滲んでいた。瑞穂が声をかけても、彼女は濁った瞳を泳がせるだけで、偶然に眼が合えば決まって明確な敵意を宿らせて、睨みつけるだけだった。まるで、抜け殻のようだと、知性とか尊厳とかそういったものが抜け落ちてしまった、ただの人の形をした、それだけの”もの”のようだと、瑞穂は思った。そう思わずには、考えずにはいられなかった。それは、既に瑞穂の知る百合ほたるではなかったから。獣のように喚き散らし、誰彼構わずに牙を向ける”それ”からは、大人しくて、思いやりと優しさに溢れた女の子の面影は欠片も感じられなかったから。
 だが、そう思ってしまった、考えてしまった自分に対して、瑞穂は軽蔑にも似た感情を覚えた。それは、違うと。彼女の、ほたるちゃんも被害者で、ほたるちゃんは、ほたるちゃんに違いないのだから、そう思ってはいけない、そんな事を考えてはいけない、と。だが、瑞穂がその気持ちを整理できぬままに、ほたるは死んでしまった。
 ほたるが、ゆかりの姉であると知ったのは、それから二年後のこと。ゆかり本人と出会い、そして組織の事件に巻き込まれたことが原因で、知った。ゆかりは事件のことを、つまり、自分が事件の唯一の生き残りであり、姉が事件の犠牲者であり、そしてその事件の原因が、自分に若しくは自分の父親にあるかもしれないことを、気にしていないと言ってくれた。別に、瑞穂お姉ちゃんが、姉ちゃんを殺した訳や無いんやし、と。だが、言いつつも、ゆかりは戸惑っているようだった。事件以後の、ゆかりの不安げで常に何かを言いたげにこちらを見つめるその様子を見れば、一目瞭然のことだった。
 ゆかりは、過去を忘れた筈だった。姉の死をいつまでも哀しむことなく、前向きに、明るく生きようと、懸命に努力していた。出会ったばかりのころのゆかりは、過去に非道い事件によって姉を失ったとは思えないほどに、明るく元気な女の子だった。追い討ちをかけるように、母親と弟を同時に失ってもなお、その前向きさだけは、失っていなかったはずだった。
「やっぱり、あの事件が原因――なんだよね」
 瑞穂は体勢を立て直し、呟いた。再度、かつて病院だった建物の草臥れた光景を見つめる。
 事件そのものは、すぐに解決するかのように思われた。容疑者の男が捕まったのだ。だが、決定的な証拠は何もなく、つい最近になって、男には無罪判決が言い渡された。無罪が確定したこともあり、その後の男の行方は知れない。事件そのものの記憶が、人々の間からほぼ消えていたせいもあり、では実際に犯行に及んだのは何者なのか話題になることもなく、犠牲者の数を考えれば異様なほどあっさりと、未解決のまま事件は終わった。そのあっけない終わり方は、台風や竜巻が通り過ぎた後の、息苦しい静寂にも似ていた。
 射水 氷は、言っていた。この病院の地下に、洲先祐司が――父が、組織に協力するための研究施設があるということを。そして、さらにその奥深くには、彼に近いごく一部の人間しか存在を知らない、隠し部屋があるのだということを。氷は、瑞穂を動揺させないように、つとめて静かに、そっけなく呟いていた。
 それこそが、あの事件の原因。私からは、何も教えてあげられないけれど、どうしても知りたいのなら、そこへの行き方は教えてあげられる。ただ、私は瑞穂ちゃんには、何も知らずにいて欲しい。
「そう言う訳にはいかないよ、氷ちゃん」
 瑞穂は錆びかけた門を半ば強引に押し開け、建物の敷地内へと踏み込んだ。
 逃げるのは簡単であり、現実から眼を背けるのは容易いこと。だが、もし自分のせいで、自分の父親のせいで、あの事件が起こったのならば、知ったところでどうにもならないのは解ってはいるけれども、瑞穂は事実を、事件の真相を確かめずにはいられなかった。そして、まだ何か出来ることがあるのなら、やらなければならない。そんな、強迫観念にも似た感情が、瑞穂の胸で燻り続け、少女を突き動かしていた。
 瑞穂は、萎びた雑草が散り散りになった芝生の上を、物陰に沿うように歩き、腰のモンスターボールを握り締めた。砂埃を被って干乾びている噴水跡の脇を抜け、中庭へ辿り着くと、ひび割れたままで放置されている小さなオブジェの陰に隠れた。オブジェの窪みから顔を出し、白く濁ったガラスの向こう側を覗き込む。建物の中に、人の気配は感じられない。
 事件直後に、病院の院長で瑞穂の父親でもある、洲先祐司が失踪した。それがまた、マスコミと世論の興味を集め、報道合戦に拍車を掛けることになった。実質的な指導者を失った病院は統制を欠き、瑞穂を除いた被害者すべてが死亡するのと時を同じくして、閉鎖された。だが、不思議なことに、閉鎖後の病棟は取り壊されることも無く、周囲の静寂から切り取られたように、今もなお廃墟としてその姿を晒し続けている。
 モンスターボールの開閉スイッチを押し、瑞穂はブラッキーを繰り出した。少女はブラッキーを抱き上げ、耳元で囁く。
 氷の説明によれば、病院の建物と敷地は、地下で行われていた研究の情報漏洩を恐れた時雨の画策により、組織の関連企業の名義で買取られたらしい。誰もいないように見える建物内部だが、実際には多数の組織の研究員と、それを警護する団員が存在している、とのことだった。
「お願い、キーちゃん」
 瑞穂の囁きに、ブラッキーは小さく頷いた。少女の腕から飛び降りると、電光石火の体制をとり、勢い良くガラスを突き破る。
 警報が建物全体に鳴り響いた。普通の警報とは違う、低く身体の芯まで響いてくるかのような音だった。恐らく、建物の外に警報音が漏れないようになっているのだろう。
 ブラッキーは警報を気にも留めず、一目散に走り出した。人間の足音が聞こえる。話し声を聞けば、彼らが警護にあたっていた組織の人間だと容易に判断できる。足音の主達は、ブラッキーの姿を認めたようで、皆ぞろぞろと後を追いかけていく。
 ブラッキーを囮にする、瑞穂の考えは、彼女の予想以上にうまくいったようだ。出足で躓かなければ、幻惑系の技を得意とするブラッキーが、組織の団員程度の人間に捕まることは無いだろう。あとは適度に時間稼ぎをした後、脱出してくれればいい。
 瑞穂は隠れていたオブジェの影から様子を伺い、誰もいなくなるのを確認すると、静かに建物内部へと潜入した。氷からの情報と幼い頃の記憶を頼りに、瑞穂は誰もいない中央受付を通り抜け、放射線科のすぐ傍にある職員専用階段を降りる。階段を降りた先は機械室になっていた。薄暗い部屋の中で、瑞穂は入組んだパイプの影に身を潜め、氷の言っていた隠し扉の場所を探った。
 黒服に身を包んだ人間が立っているのが見えた。深く帽子を被っており、その顔つきや表情までは読み取れなかったが、逞しく引き締まった身体つきからは判断するに、男性のようだった。研究施設へ続く、隠し扉の警護をしているのだろう。逆に言えば、彼のすぐ近くに、瑞穂の探す隠し扉があるということになる。
 瑞穂はグライガーモンスターボールを握り締め、身構えた。足元に転がっていた拳ほどの大きさのコンクリート片を拾い上げ、警備の男の視線とは反対の方向へ放り投げる。
 コンクリート同士が擦れ、破片が細かく砕ける音が、唸り声のような特有のモーター音に満ちた機械室全体に、不協和音のように響き渡った。
 警備の男は、物音に敏感に反応し、音のした方向へと視線を動かした。携行していた拳銃を取り出し、注意深く破片の落ちた辺りをパイプの隙間から覗き込む。
 瑞穂は男の背後に回りこんだ。小さな足音に気づき、男が反射的に振り返った瞬間を狙い、瑞穂は握り締めていたモンスターボールを男の眼前に掲げ、スイッチを押した。
 閃光がボールから迸り、薄暗い機械室全域を照らした。男は闇に眼を慣らしていたと思われ、両腕で眼を覆い、呻いた。瑞穂は隙をついて男の懐に潜り込むと、グライガーへ指示を出した。
「グラちゃん、嫌な音!」
 グライガーは飛び出した勢いに任せて上空を旋回した後、男の後頭部に張り付き、瑞穂の指示の通り、嫌な音を発した。男は、いまだに何が起こったのか理解できていないようで、しきりに頭に張り付いたグライガーを剥がそうともがく。瑞穂は男の両腕と胴体にしがみ付き、グライガーの発する嫌な音を、聴かせ続けた。
 男は耳元で鳴らされ続ける嫌な音に耐え切れず、気を失って倒れた。瑞穂は注意を払いつつ、予め用意していた穴抜けの紐で、男の身体と口を縛り上げた。
 グライガーをボールに戻し、瑞穂は倒れている男を尻目に、扉に手をかけた。扉は金属製で黒く、重かった。両腕で押し上げるようにして、瑞穂は扉を開き、その先の仄かな明かりを頼りに、部屋の中へと踏み込んだ。
 瑞穂は、それを見た。それは、想像すらしていなかった物体で、瑞穂はしばし呆然とし、無意識の内に口許を抑えていた。それは、少女を、瑞穂をただひたすら、見つめ続けていた。

 

○●

 テレビを消して、静かに部屋の中央に立ち尽くす。何も聞こえない、動きの感じられない部屋の中で、ゆかりは物憂げに窓の外を眺めていた。
 トキワシティ。ゆかりにとって、この街は、育ってきたコガネシティとは比較にならないほどの田舎町に感じられた。それも、ただの田舎町ではない、今まで見てきたどの街よりも、静かで、どこか寂しげな街だった。
 思い過ごし、単なる印象に過ぎないのだろうか。いや、違うと、ゆかりは思った。この街は、殆ど記憶に無いけれども、自分の生まれた街であり、姉の死んだ街。思い過ごしなどではなく、意識の奥底で、この街に、かつてそこにあった混沌に、やさしかった姉の記憶に、怯えている自分がいる。
 三年前、この街で姉が死んだ。正確に言えば、二年前に死んだのだが、ゆかりにとっては、三年前の時点で、姉は死んだも同じだった。
 姉は、姉で無くなっていた。声も違った。顔つきも、何故こうまで歪み、変形してしまっているのか、肉親のゆかりですらも咄嗟に原形が解らないほどに違っていた。
 詳しいことは知らない。部活動の最中に骨折し、ほんの短い期間、入院しただけの筈の姉が、何故こんなになってしまったのか、ゆかりには知る由も無かったし、知ったところで理解も、納得もできなかっただろう。
 忘れようとしていた。姉のことは、束の間の悪夢であり、初めから姉など存在していなかったことにしよう。そう、ゆかりは考えた。そして、ずっと、姉のことは心の奥底に閉じ込めていた。だがそれは、姉に対する裏切りのような気がして、ずっと後ろめたさを感じ続けていた。だから、姉の記憶に、この街そのものに、怯えているのだ。
 姉のことをすべて忘れて、やさしい姉のことをすべて消し去って、姉はきっと怒っているだろうから。この街にいれば、いつか姉の意識が、亡霊が、自分をさらって、同じように、自分を自分で無くしてしまう。自分の意識を侵してしまう。
 ゆかりは、姉の記憶がいつまでも浮遊し続けるこの街を、ただひたすら恐れ、夢に魘された。淀んだ水の中で、皺くちゃにふやけた顔だけを出した姉が、大きな口を開けて自分を飲み込もうとする夢。姉が呆けたような顔で触手を伸ばし、ゆかりの全身の穴という穴へ触手を這わせ、濁った汁を注入する夢。どんな夢にしろ、ゆかりは、姉と同じようにおかしくなってしまう恐怖に駆られ、泣き喚いた。
 結局、ゆかりと両親は、この街を離れ、コガネシティへと引っ越すことになった。住み場所も変わり、時間の経過と共に、ゆかりは姉の存在を消しきった。姉の声も、その笑顔も、自分の頭を撫でる柔らかい指先の感触も、すべて忘れた。ただ唯一、姉がかつて存在したという記録にも近い記憶だけを残して。姉の記憶が薄まっていくのに比例して、夢に魘される事も無くなった。
 だが、姉の死を忘れることの出来なかった、振り切れずにいた父親は、壊れかけた心を酒で充たし始めた。父親はアル中になり、精神病院へと入院させられた。父の姿を見た最後の日、厚いガラス越しに見えた父親の横顔は、姉が死の間際に見せた歪み切った怨嗟とも快楽ともつかぬ表情に酷似していた。ゆかりは戦慄した。姉の亡霊が、父親の魂を捕えて、父親を狂わせてしまったのだと、思わずにはいられなかった。そして、姉の存在を抹消した自分の判断は、間違っていなかったと確信した。
 やがて精神病院での事故によって、父親は死んだ。その父親の記憶も、胸の奥底にしまいこんだ。ずっと、そうやって忘れ続けることで、考えずにいることで、傷ついて壊れることの無いようにしてきた。
「瑞穂お姉ちゃん。なんで、そうまでして、知らなあかんのやろ。忘れたほうが、いいのに。悪いことは、全部」
 長い間、変化に乏しい空を見続け、ゆかりは飽きたのか小さく息を吐くと、脱力したようにソファに倒れこむ。眩しげに眼を擦り、部屋の中を見回す。
 数ヶ月前まで、少女が一人で生活していたとは思えないほどに、瑞穂の部屋は殺風景だった。人形やアクセサリーの類はひとつも見当たらず、生きていく為に最低限必要な家電や食器類が、一箇所にまとめてあるだけで、他には今ゆかりが寝そべっているソファ、そしてテレビと旧式のデスクトップパソコンが置いてあるだけだった。
 部屋の主である瑞穂はいない。三年前の事件のことを調べに行くと言って、数時間前に出かけたきり、まだ帰らない。
 瑞穂は言っていた。自分のせいで、自分の父親のせいで、あの事件が起こってしまったのだ、と。
 ゆかりは、姉の死の原因が、瑞穂にあると言われても、ピンとこなかった。別に、瑞穂が姉を殺したわけではない。本当に悪いのは、実際に姉を殺した奴。姉の点滴に薬物を混ぜた犯人であり、その犯人が何者かの指示で動いたのであれば、指示を出した奴に違いなのだから。瑞穂はただ巻き込まれただけで、もし仮に瑞穂の存在によって、事件が起ってしまったのだとしても、瑞穂は何も悪くない。そうだ、何も悪くは無い。
「そやから、別にお姉ちゃんが責任感じること無いんや。誰も、お姉ちゃんを責めたりせえへんのに」
 ぽつりと、口に出して言ってみてから、ゆかりは不意に胸元に悪寒を覚えた。本当に、そう思っているのか? 自分は、本当に瑞穂を許し、心を開いているのか。いや、違う。許せるとか、許せないとか、そういう問題じゃない。
 洲先瑞穂がいなければ、姉は死なずにすんだ。父親も、母親も弟も死なずにすんだかもしれない。
「それは、違うやろ」
 早口にそう言い、ゆかりはソファに顔を押し付けた。駄目だ。そんな事を考えてはいけない。息苦しさを堪えながら、彼女は小さな掌で柔らかく白い生地を握り締める。
 その時、玄関の方から物音が聞こえた。ドアノブを何度も回している音だ。ゆかりは、勢い良く顔を上げ、涙の滲んだ目尻を二の腕で拭った。
 ゆかりは、瑞穂が帰ってきたのだと考え、ソファから飛び起きると玄関へ走った。瑞穂の顔を見れば、少しは楽になるかもしれない。先程の嫌な考えを、”瑞穂がいなければ、誰も死なずにすんだ”という禁断の言葉を、一刻も早く意識の外へと追いやることが出来るかもしれない。何事も無かったかのように、忘れることが出来るかもしれない。いや、忘れなければいけない。
 ゆかりは裸足のまま玄関に立ち、背伸びをしてドアの覗き穴へ顔をやった。
 紅い光が見えた。ゆかりは、目の前のそれが何があるのかを、咄嗟には理解できなかった。それは、ものではなかった。ゆかりは、眼前に広がっていく真紅の輝きが、自分の発するものであることに気づくことなく、意識を失った。

 

○●

 獣の寝息のような、静かで低い空調の音が、地下に広がる研究施設に響いていた。施設の中は薄暗く、壁に沿うようにして設置されている、人の大きさよりも一回り程大きく透明なカプセルの周りにだけ、仄かな明かりが燈っている。
 部屋に入ると同時に、瑞穂はカプセルの中身を見た。彼女は絶句した。慌てて”それ”から瞳を逸らし、口許に手をやると、胸の奥から込み上げてくる吐気を必死で堪えた。
 下を向き、暫くの間呻くと、瑞穂は自分の認識が間違いであることを、思い違いであることを祈りながら、躊躇いがちに再び視線をカプセルへと戻した。
「そんな──これを、こんなことを、父さんは──」
 人間の身体が、そこにあった。瑞穂と同じかそれよりも少しばかり幼い子供の裸体が、緑色の液体に満たされたカプセルの中に漂っていた。
 体育館ほどの広さはある空間に敷き詰められたカプセルは、百以上はあるだろうか。そのカプセル全てに、人間の身体が浸かっている。
 唇を噛み締め、瑞穂は意を決したように前へと歩き出した。足音を立てないように静かに、部屋の奥まで続いているカプセルの一つ一つを見て回る。
 カプセルの中に漂う人の身体は、死んでいるわけでは無いようだった。緑色の液体が、身体の細胞組織を維持させる為の、培養液か何かの役割を果たしているようで、その証拠に、身体は時折、微かな動きを見せている。だが、そこに意識のようなものは感じられず、眠っているようにも思えない。人間の身体の形をしているだけの、ただの肉の塊。それらは、肉の塊は、ガラスのショーケースの中で、吊るされているようにも見え、瑞穂は食肉加工の工場を連想した。殺された家畜が、脳髄を吸い取られ、皮を剥がされ、内臓やそこに溜まった汚物を掻き出され、血の抜けた肉の塊として、天井から無造作に吊り上げられる光景。瑞穂は服の端を握り締め、再び込み上げてくる吐気を堪えた。
 いずれの裸体も、異様なほどに肌が白く、射水 氷の雪のようなそれを思い起こさせる。また皆、中性的な身体つきをしており、性器が著しく変形している為、性別の特定は出来なかった。他の部位に、損傷や変形の類は見られないことから考えると、性器の変形は何らかのアクシデントの際に、意図しない形で”これら”の個体数が増えることを防止する為に成された処置なのだろうか。とすれば、この場所で”あの身体”にされた射水 氷にも、同様の処置が成されているのだろうか。
 ヒワダタウンで見た氷の裸を瑞穂は思い出してみたが、特に違和感は無かったように思う。ここにある”身体”と、氷の身体には、何の因果関係も無いのか。それとも、氷は別の処置によって個体数を増やせないようになっているのだろうか。
 瑞穂は、氷に教えてもらった通り、カプセルに沿って歩き、隠し扉のあるというロッカーほどの大きさの機械の前に立った。屈みこみ、眼を凝らさないと見えないほどの小さな蓋を指先で持ち上げ、窪みの奥に仕込まれていた釦を押した。
 ロッカーほどの大きさの機械が動き、瑞穂の方へとスライドしてきた。瑞穂は即座に立ち上がり、機械の動きに巻き込まれないように脇へと避けた。その拍子に、瑞穂の掌にカプセルが触れた。生暖かい、だが触れ続けていれば、やがて芯から冷え切ってしまいそうな感触が、指先にこびりつく。瑞穂は指先を舐めていく不快感に、思わず掌を引っ込めようと腕に力を込めた。だが、指先は硬直したまま動かなかった。
 カプセルに反射している自分の顔が見えたから。いや、カプセルの中に溜まった液体が見えたから。透明な緑色の液体の奥で、黒い塊が──恐らく研究装置の類が、うっすらと覗いたから。
 かつて夢で見た、夢であった筈の光景が、瑞穂の脳裏を掠めていった。封印されていた記憶。あまりにも欠落していた部分が多すぎて、自分でも夢であると信じて疑わなかった記憶。
 生温いようで冷たい液体に全身を犯されているかのような不快感。瞳を開けば、きまってそこに広がる、緑色の視界。視界の奥で動いている黒い塊と、時折チラリと横切っていく人影。指を伸ばしても、すぐにそれを遮ってしまう、見えない障壁。その障壁になされている小さな刻印。
「ナンバー、セブン」
 瑞穂は、震えを帯びた声で呟いた。背中に冷たい汗が滲んでくるのを、はっきりと認識できる。カプセルからゆっくりと離した指先は、微かに痙攣している。
 動いていた機械が停止した。扉は、開いた。瑞穂は息を呑み、扉の奥へと足を踏み入れる。長い間、誰からも隠されていた部屋は仄暗く、侵し難い静寂に包まれていた。歩くたびに、埃が舞い、瑞穂は二の腕で口許を覆いつつ、前へと進んだ。
 腰に、何かがぶつかった。続いて、何かが床に落ちる音が部屋に響いた。瑞穂は咄嗟に身構え、目を凝らして、それを見つめた。机だった。床に落ちたのは、小型のメモリー素子だったようで、落ちた拍子にスイッチが入ったのか、微かな電子音を鳴らし始めていた。
 不意に、水の揺れる音が聞こえた。瑞穂は、顔を上げた。小さな身体の入った、緑色のカプセル。暗闇のせいで、中身まではすぐに確認できないが、恐らく先ほどと同じように”身体”が漂っているのだろう。瑞穂は目を見開き、カプセルの周辺と、その中身を凝視した。
「これは──」
 よく見れば、カプセルは1つだけでは無かった。7つのカプセルが、整然と並んでいた。瑞穂は胸元を締め付けられるような、心が砂地獄のような窪みに嵌ってしまったかのような、強い焦燥と悪寒とを感じつつ、右側のカプセルから順に、中身を凝視していった。
 1つ目のカプセルには、小さな肉片が漂っているだけだった。だが、ただの肉片ではなかった。脳だ。充血したように鮮やかなピンク色をした小さな脳と、それに絡まる蜘蛛の巣のような僅かな神経組織だけが、緑色の培養液の中を、メノクラゲのように漂っている。
 涙が、溢れてきた。これは、何だ。瑞穂は次第に、自分が錯乱しかけていることに気づいた。いや、違う。既に錯乱している。ずっと、ずっと昔から。何も知らずにいた事自体が、既に錯乱しているのと同じことだったのだ。いや、違う、違う。何も知らなかったのでは無く。それを、忘れさせられていた。忘れていなければ、意味の無いことだったから。
 小刻みに震えてくる指先。瑞穂は掌で服の端を握り締め、2つ目のカプセルへと逃げるように視線を動かした。黒い物が見えた。辛うじて人の形を保っている、焼け爛れた漆黒の屍体が、突っ伏す様に沈んでいた。屍体は子供ほどの大きさだった。頭皮に僅かにこびり付いた長い髪だけが、かつて人間だった頃の、人間の形をしていた頃の名残として残っている。
 3つ目のカプセルは砕け散っていた。4つ目と5つ目のカプセルは、緑色の液体がゆっくりと流動しているだけで、いずれも中身は見当たらない。
 何も無かった事に胸を撫で下ろしつつ、6つ目のカプセルの中身を、瑞穂は見た。
 瑞穂は音を聴いた。硝子の擦れる音に似ていた。音は静寂を壊し、天井や壁にこびり付いていた埃や黴の類が一斉に震え、ぽろぽろと崩れていく。
 それが自分の悲鳴だと気づくことも出来ず、瑞穂はただ後ずさり、机にもたれて、ひたすら6つ目のカプセルの中身を凝視し続けた。
「これが──この人が──」
 悲鳴のあとに続いた言葉は、酷く震え、掠れていた。
 屍体だった。カプセルの中に漂っていたのは、それまでの意思の無い身体や、グロテスクな破片とも違う、かつて生きていたと思われる、人間の形を保ったままの屍体だった。
 屍体は見慣れていた。見慣れすぎて、屍体を見ただけでは、少し胸元が冷たく締め付けられるような感覚を覚えるだけになってしまった。だがそれは、ただの屍体では無かった。少女が、初めて見る類の屍体だった。
 低く篭った電子音が、悲鳴の残響が残る部屋に重たく静かに鳴り始めた。机から落ちて電源の入ったメモリー素子から、音は響いていた。
「お父さん、の声?」
 メモリー素子から聞こえてくるのは、紛れも無い父親の声、洲先祐司の録音された声だった。足元から凍ってくるような、絶望にも似た感覚の中で、瑞穂は搾り出すように呟いた。
「お父さん、これは、この人は何? どうしてここに、この人が、”私が”、いるの?」
 父親の声は、娘の必死の問いかけに応えることなく訥々と、録音されている通りに、続いていく。瑞穂は僅かに、床に転がったメモリー素子に視線を向け、そしてまたカプセルの中へと、意思も無く漂う屍体へと戻す。
 紙のように漂白されたように白く、色の無い肌。極端に細い、幼い身体。濁った哀しげな瞳。不自然な方向に曲がっている首。その首筋に僅かに見えるのは、索条痕。
 ”洲先瑞穂”だった。幼い少女の屍体、洲先瑞穂の屍体が、緑色のカプセルの中で、惨めに漂っている。
 全身が痙攣しそうになるのを堪えつつ、瑞穂は父親の言葉に耳を傾けた。言葉の内容から推測すると、メモリー素子に録音されているのは父親自身の肉声日記のようだった。
 日記の内容を聞きながら、瑞穂は僅かに幼い自分の屍体を、その瞳を見続けた。いや、眼を逸らすことが出来なかった。錯乱しきった意識の中、僅かに残った覚めた部分で、瑞穂は考えていた。
 少女の、いや”別に存在していた私”の、安らかで、しかし悲哀に満ちた瞳は、死の間際、何を見たのだろうか、と。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。