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いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-3

#16 絶望。
  3.壊れゆく心

 

 ***2045/1/12***
 薄灰色の壁にかけられた時計が、真上に振り上げていた時針を、一瞬だけ震わせ、零時を過ぎたことを伝えた。
 祐司は口をあけ絶句したまま、眼前に置き捨てられた少女を見つめていた。凍りついた空気の中で、ただひたすら時を刻み続ける時計の針の軋みだけが、彼の耳に虚しく響く。それ以外の音を、彼は聞くことができなかった。聞いては、いけないと思った。
「何故だ──」
 祐司は、ようやく一言呟いた。横目で、時雨を睨みつける。
 時雨は口許に軽く笑みを湛えていた。睨まれていることに気付くと、彼は祐司と少女とを交互に見やっていた瞳を細め、聞き返す。
「”何故”と、言いますと?」
「何故、こんなになるまで放置していた。いくらでも処置はできたはずだ」
 祐司は、時雨へと向き合った。言葉を続けかけたその瞬間、彼は聞いた。いや、聞いたような錯覚を覚えた。それは、けたたましい獣の叫びだった。
 祐司は、聞いてしまっていた。彼が聞いてはいけないと思っていたもの。幼い少女の苦痛に満ちた呻き声を。擦り切れた奇声を。
 少女は、一頻り泣き喚いた。部屋の白い壁が、激しい泣き声に震えた。
 祐司は、時雨へ向けていた視線を外し、少女を見やった。
 紫色の長髪が美しい、小柄な少女だった。少女の顔は、身に纏うぼろぼろの布切れから僅かに覗く胸元は、その皮膚は、雪のように白く、祐司は思わず息を呑んだ。雪菜のそれを、白く美しい肌を、思い出さずにはいられなかったからだ。
 だが、濃い消毒液の臭いのなかで腐敗臭が鼻腔を掠め、祐司は、自分が思い出に浸る暇など無いことを思い出した。彼は、あらためて少女の全身を見つめた。彼女には左腕が無かった。まるで、レーザーのようなもので焼き切られたような傷跡が見える。残された手足は、肩や腰の辺りまで壊死しきり、黒ずんでいた。既に腐敗が始まっているのだろう。
 少女の鳴き声が小さくなった。泣き疲れたなどという生易しいものではなかった。口から吐いた鮮血が咽喉に絡み付いて、息ができなくなっていた。祐司は慌てて少女の下へと寄り添い、詰まっていた血を吐かせた。涙とともに、目に痛いほど鮮やかな赤い鮮血が、口から迸った。
 咽びながら、しゃくりあげながら、少女は鮮血に染まった唇を小刻みに震わせ、鈴の音のような透き通った声で、うわ言のように何かを呟き続けている。瞳から溢れ続ける涙で、頬や首筋だけでなく、腐りかけた身体までもが、ぐずぐずに濡れていた。呟くたびに、震えるたびに、口元からは鮮血が涎に混じって零れ落ち、黒ずんだ四肢からは、異様に粘り気のある血とも膿とも判別できない体液が滲み出る。
「死にたくないよぉ。助けて――私を助けて――」
 祐司は聞いた。 ずっと、少女は同じことを呟き続けていた。
「こんな──こんな、死に方、したくない。さっきから、言っているのに、どうして──助けてくれないの──」
 ここに来るずっと以前から、この少女は同じことを呟き続けているのだと、彼は悟った。ずっと、ずっと助けを求めて、そして時折、苦痛に耐え切れず悲鳴を、奇声を上げていたのだと。
「どうですか、祐司さん。素材としては、申し分ないとは思いますが」
 時雨は、事務的な口調で言った。祐司は、再び彼を睨んだ。
「君は何故、この子をずっと、この状態のまま放置していた。さっきも言ったが、いくらでも処置はできるだろう」
「残念ながら、彼女がここに搬入されたときには、すでに四肢の壊死は相当進んでいました。それに、まったく処置をしていない訳ではないですよ。事実、彼女は、まだ死んでいない」
 思わず舌打ちをしていたことに、祐司は気づいた。
 ”まだ、死んでいない”とは、よく言ったものだ。死なない程度の、最低限の処置しかしなかったという事ではないのか。”死にかけの子供”という、最良の実験材料を確保する為に。それならせめて、この子が苦痛を、恐怖を感じないようなやり方があったのではないか。
 腐りかけ、死にかけた少女を抱きかかえた彼の憤りを見透かしたように、時雨は顎を上げ、見下すような視線を彼へと向け、言い放った。
「それは、残酷だ」
 彼は、祐司は、自分の耳を疑った。”なにが残酷なのだ”。
「祐司さん。あなたは、彼女に苦痛を感じさせずに、意識も記憶もとりあえず無くして、処置をすればいいと思っている。確かに、ここに搬入されてすぐに彼女の意識を無くし、壊死した臓器や筋肉や皮膚を除去すれば、彼女は苦痛を感じずにすんだでしょう。先程のように、泣き叫び、絶望の中で助けを求める必要も無かったでしょう。
 だが、それでは彼女に”選択する権利”は無い。四肢や臓器や皮膚を失った彼女は、もはや自分の力では動くことすらできなくなるでしょう。それどころか、ここまで壊死が進行しているのでは、人間の姿を維持できるかも難しい。意識だけが、脳みそだけが残った、僅かな肉の塊になってしまうかもしれない」
 口の端を震えさせ、少女は時雨の言葉を呟く。何回か呟き、理解が追いついたのか、彼女は不意に幼く無垢な顔を歪め、罅割れた甲高い声で、言葉とも叫びともつかない、濁った奇声を上げた。
 少女の奇声を、祐司は聞いた。少女は腐りきった身体を捩じらせて、喚き続けた。身体が動くたびに、茶色く濁った体液が、少女の穴という穴や、皮膚の隙間から迸る。だが、そのうちに祐司は、少女の喚き声が、僅かではあるが言葉になっていることに気づいた。
 そんなの、人間じゃない。脳みそだけなんて、それは人間じゃない。こんな腐りきった臭い身体は、いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。もとのわたしにもどして。もとの、ふつうの、からだに、もどして。
 意識だけが残った、僅かな肉の塊。脳だけの、意識だけの存在になることは、人間としての身体を喪うことは、少女にとっては、死よりも恐ろしいこと、ということなのだろうか。
 祐司の脳裏を、雪菜の複製である、翠の姿が掠めた。彼女こそ、時雨が言い、少女の恐れる、脳だけの存在。身体も感情も失い、いや、はじめから脳と意識しか持たず、誰からも望まれなかった存在。唯一与えられた意識で、”それ”を、自分が望まれぬ存在であり、人間とも呼べぬ存在であることを理解し、その事実だけを無限ループのように認識し続ける存在。
 唯一の救いは、翠が感情すらも失っているということだった。感情が無ければ、自らの存在に悩むことも、苦しむこともない。
 だが、今、祐司が見つめているこの少女は違う。意識も感情も存在している。少女の、縋るような瞳に見つめられ、祐司は思わず息を呑んだ。
 今にも破裂してしまいそうな、大きく見開かれた瞳。そこに焦点は無く、ただ前にあるものを、ただ縋ることができるものだけを、ただただ、自分が人間のままでいられるようにしてくれる何かを、探していた。その必死で、しかし哀しく惨めな表情こそ、この少女に感情があるということの証に違いなかった。
「彼女が、そんな希望の無い末路を知り、そしてそれを拒んだ場合。祐司さん、あなたは、どのように処置をすれば、彼女が救われると思いますか?」
 時雨は淡々と祐司へ問いかけた。
「それは──」
 祐司は唇を噛み、押し黙る。時雨の問いに答えられないわけではなかった。答えを見出せないわけではなかった。だが、思いついた答えを、簡単にそのまま口にすることもできなかった。特に、少女の救いを求める瞳の前では。
「いけませんよ、それでは。さっきも言ったでしょう。何も教えないのは、彼女に選択の権利を与えないのと同じことです。それは、残酷だ。そこの少女に、脳みそだけになれと、もしくはその腐った身体のまま死ね、と言っているようなものなのですから」
 時雨は、静かに言った。いつの間にか、祐司を諭すような口調へと変化していた。だが、時雨の言葉は、少女には刺激が強すぎたのか、奇声は先程までよりも、さらに大きく、激しくなっていった。血と膿とに濡れたベッドの上で、少女は狂ったようにのたうつ。
「この、このぉ──」
 枯れ果てた少女の声を、祐司は聞いた。少女の瞳が、祐司の横顔を捉えていた。大きく見開かれた眼が、更に大きく広がり、焦点も彼へと合わせられていた。
「この、腐った身体を、元に戻してくださいぅ」
 再び、狂ったような奇声。喪われそうな身体を元に戻すため、見えるものすべてに救いを求める必死の形相で、祐司を見つめたまま。
 隠すことはできないと祐司は思い、目を閉じた。少女の顔を、見たくは無かった。選択肢は、確かにある。だが祐司は、彼女の選ぶ答えを、もう知ってしまっていた。
「この子の身体を維持するのならば、いや、元のとおりにするのであれば、強力な再生能力を持ったポケモンの遺伝子情報を、この子に組み込むしかない。再生能力が発現すれば、壊死した臓器や皮膚は、元に戻る。現時点で考えられるのはアーボック系、そしてスターミー系のポケモンだ。アーボックは、生息地域は限られているが、以前から研究し尽くされているし、人間との拒絶反応は限りなく少なくできるだろう。スターミーは、人間との拒絶反応は大きいだろうが、その再生能力無しには、ここまで酷くなった身体の再生はできない」
「それじゃ、そうしてくださいぅ。早く、助けてください。こんな、こんな身体は──」
 少女の涙声を、祐司は聞こえない振りをした。
「技術的には可能だ。この子の状態であれば、恐らくはテロメアの短縮も発生しないだろう。だが──」
 時雨の方へと顔を向け、祐司は目を開いた。時雨は表情の無い顔のままで、祐司の話を聞いていた。
「だが、この子は人間ではなくなる。人間の皮を被った、人間ではない別の生き物になる。組み込めるのは再生能力だけではない。できるかぎり無駄な部分は省くが、それには限界がある。恐らく、通常は問題ないだろうが、彼女自身の感情や、周囲の状況、環境によっては、表面から隠された遺伝情報がどんな影響及ぼすか分からない。他の実験体のように、両性具有になったり、熱に弱い体質になったりする可能性もある。いや、それだけなら、まだましだ。突然、人間の身体が、別のものへと変化するかもしれない。人を喰らう怪物になるかもしれない。それに──」
 恐る恐る、祐司は少女の顔を覗き込んだ。さすがに、少女の顔は僅かに引きつっていた。
 言葉を続けようとする祐司を遮るように、時雨は軽く頷きながら呟いた。どこか、満足げな表情をしている。
「さすが祐司さんですね。何れの方法でも、確かにリスクやデメリットはありますが、それを決めるのは、決める権利があるのは、我々ではない。もう、これで条件は整ったはずです。あとは、彼女に決めてもらいましょう」
 一瞬だけ、時雨の眼が、祐司を射るように捉えた。これ以上の祐司の発言を遮ろうという意図が、そこには表れていた。その瞬間、時雨は悟った。これは、茶番であると。
 選択肢など、初めから存在していなかった。少女は、最初から実験台にするためにここへ連れてこられ、そして自分の意思で、実験台になるという選択肢を選ぶよう、仕向けられているだけだった。そして祐司は、少女へ救いの手を差し伸べる役を、時雨によって与えられているに過ぎなかった。すべては、時雨の意図するまま動くように、少女が自ら実験台となるようにできていたのだ。
 だが、それを悟ったところで、祐司には何もできなかった。彼はこれ以上、時雨に逆らうつもりは無かった。そして、彼にはどうすれば、彼女が幸せなのか、いや、どちらがマシなのか、解らなくなっていた。何れの選択でも、少女にとって辛いことが待っていることに変わりは無いのだから。それならば、仕向けられていようとも、時雨の思い通りに動かされているだけであろうとも、少女自身が選んだ答えを、彼は信じるしかなかった。
 祐司はゆっくりと振り返った。彼は少女の目を見据え、訊いた。
「君、名前は?」
「ふぶき──ふぶきひょう、です」
「このまま人間の身体を、ただ喪うか。それとも、人間であることを捨ててでも、化け物になろうとも、身体を取り戻すか。どちらであろうとも、君にとっては辛いことが待っているだろう。だから、せめて、君が決めることができるのなら、君に決めてもらったほうがいいと、私も思う」
 少女は、射水 氷と名乗った少女は、即座に祐司の問いに答えた。
 祐司は頷いた。時雨が背後で口元を緩めているに違いない、と彼は思った。

 ***2047/3/14***
 結局、ナンバー7は、最後まで目覚めることは無かった。
 祐司は、眠り続けているナンバー7の身体を、カプセル越しに見つめながら、小さく呟いた。
「君には申し訳ないが、君には消えてもらわなければならない。だが──」
 それは、祐司が予想していたよりも遥かに早かった。できる限りの予防措置を、定期的な検査を行ったにもかかわらず。
 瑞穂の身体は、既に限界を超えていた。雪菜の死の原因となった病状が、瑞穂に現れたのだ。彼女は大学で発作を起こして倒れ、そのまま祐司の病院へと運ばれ、入院することとなった。
 検査の結果は、8年前に見た、雪菜の検査結果とほぼ同じものだった。違うのは、雪菜が余命1年ほどとされていたのに対して、瑞穂は長くても数週間しかないということだった。
 祐司は、雪菜が死ぬと知ったときと、同じ絶望を感じた。いや、同じようで違う種類のもの。より、深く辛いものだった。
 何故なら、8年も経ってから、祐司はやっと気づいたから。所詮、コピーはコピーでしかないと。複製は、オリジナルになることはできないと。
 確かに瑞穂は、写真で見た、幼いころの雪菜そのものの姿をしていた。そして成長すれば、祐司の知っている、祐司の愛した雪菜そのものの姿になるに違いなかった。だが、それは雪菜では無い。どこまで姿を似せても、どこまで性格を似せても、瑞穂は雪菜ではなく、祐司の一人娘だった。彼にとっての雪菜は、7年前に死んだ雪菜以外にありえなかった。結局、彼は雪菜を失ったのだ。
 そして、それは瑞穂でも同じことだった。少しだけ意地っ張りで、いたずら好きで、それなのに泣き虫で、誰にでも優しい、自分の娘以外は、今、ここに存在している我が子以外は、瑞穂ではありえなかった。
 いつしか祐司は、雪菜の複製としてではなく、娘として瑞穂を愛していた。彼は、雪菜を失ってしまったことを、心のどこかでは解っていた。だからなおさら瑞穂を娘として、心の拠り所にしていたのだろう。
 だからこそ、祐司の絶望は深かった。瑞穂が死ぬからといって、瑞穂の複製を造ったとしても、それは瑞穂ではないということを、彼は知ってしまったから。気づいてしまったから。
 祐司は、必死で解決策を模索した。だが、8年前よりも医療技術が発達しているとはいえ、先天的な瑞穂の障害の治療法はまだ存在しなかった。
 彼は、スペアとして眠らせている紅葉やみなとの臓器を移植することも考えた。だが、病巣は既に全身へ転移してしまっており、意味がなくなっていた。瑞穂の壊れた身体は、既に手の施しようの無い状態だったのだ。
 だが、祐司は諦めきれなかった。これほどまでの罪を犯して、これほどまでの犠牲を払って得た娘を、失うわけにはいかなかった。瑞穂を失ってしまえば、それまでの所業が、すべて無駄になってしまう。
 絶望と焦燥に挟み潰されそうになったその時、祐司は、ふと思い出した。以前、時雨の紹介で、柊という男に会ったことがあることを。男の研究は、人間の精神を、つまり意識や記憶や感情を、ポケモンへ移し替え、擬似的に”ex”を再現しようというものだった。
 柊の研究を思いだし、祐司は考えた。人間の精神をポケモンへ移し替えることができるのであれば、人間同士でもそれは可能なのではないか、と。
 祐司は早速、時雨を通じて、かつて柊の下で研究をしていたという男を紹介してもらい、話を聞き、また機器一式を借り受けた。
 さすがに専門分野では無いので、すべての理論を完璧に理解することはできなかったが、方法としては簡単なものだった。つまり、人間に限らず全ての生物の意識、感情、記憶は、脳内での微細なの波長情報によって形作られており、その波長を量子レベルで分解、解析し、移し替えることで、精神を移動させることができるという。
 もっとも、実際に柊が採用した方法は、人間の精神波長を、獄小の電波発生装置に記憶させ、その装置を直接脳へと打ち込み、装置から発せられる特殊電波によって、そのポケモン意識を上書きするという少々強引なものだったようだ。というより、そこまで強引でなければ、精神を他者へ移すことができなかったらしい。人間、ポケモンに限らず、脳がデリケートな器官であるため。そしてそれ以上に、意識や感情や記憶といったものは本来、連続していなければならないもので、不定形かつ不安定になってしまうためらしい。
 男によると、脳の構造が完全に同じで無ければ、もっと言えば、限りなく同じ姿形をし、限りなく同じ遺伝子を持っていなければ、同種の生き物である人間同士であっても、精神を移動することは不可能であるとのことだった。
 だが、限りなく同じ姿形をしており、限りなく同じ遺伝子を持っている存在を、彼は知っていた。祐司は、ふとナンバー7の姿を思い出した。瑞穂、つまりナンバー4とまったく同じ姿形をした、いまだに目覚めぬ雪菜のコピー。同じ雪菜の遺伝子を持ち、姿形がまったく同一である彼女らであれば、精神を移動することも不可能ではない。というより、彼には他に選択肢は、無かった。
 瑞穂の精神を、ナンバー7へ移し替える。瑞穂の記憶や感情や意識を引き継いだナンバー7は、遺伝子だけが同一である複製などよりも、瑞穂そのものに限りなく近い。いや瑞穂そのものに違いない。
「──だが、君の身体は、瑞穂の心とともに生き続ける」

 ***2047/3/28***
 扉を開ける音を、祐司は聞いた。彼は反射的に振り向き、無言のまま部屋へ入り込んできた何者かの方へと視線を向けた。
 短く切り揃えられた紫髪の、幼く中性的な顔立ちをした少女が立っていた。彼女は、大凡子供とは思えない、暗く鋭い目つきで彼を見つめていた。
 彼は、暫く考えなければならなかった。確かに、この少女とは、どこかで会ったことがある。その出会いの記憶だけは、鮮烈に彼の中に刻まれていた。それは彼にとって、とても重要な記憶に違いなかったから。だが、この少女が何者であるかということだけは、何故だか咄嗟に思い出すことができなかった。
 気まずい沈黙の中で、彼は、少女の名を思い出した。射水 氷。かつて祐司の手によって、身体を取り戻す代わりに、人間としての身体を失ってしまった少女。
 だが、少女の印象は、以前とは、彼が知っていた頃とは、明らかに異なっていた。彼がすぐに少女のことを思い出せなかったのも、その為だった。
 特徴のひとつだった紫色の長髪は、ばっさりと切り落とされていた。まだ肌寒いこの季節には似つかわしくない、ノースリーブのワンピースも、以前の少女であれば考えられない程に、飾り気がない。だが、少女の印象が変わったのは、そのせいだけでは無かった。
 少女の眼は暗い。茫洋と前のみを見続けるその瞳は、子供のそれとは明らかに異なっていた。同年代の娘を持つ彼には、それがよく解った。これは、子供の眼ではないと。子供は、ここまで陰鬱な瞳をしてはいない、と。
 祐司が、自分のことを思い出したことを、そしてその変わり様に戸惑ってのを察したのか、少女は、顔を少しだけ上下に揺らした。彼女なりの会釈なのだろうと考え、彼は小さく頷いてみせる。
「久しぶりだね。前に会ったのが、最後の定期検査の時だから、もう1年近く経つのかな」
 祐司はそう言いながら、氷をスツールに座らせ、自身も座った。正面から、少女の姿をまじまじと見つめる。
 見れば見るほど、少女の雰囲気は、以前とは別のものとなっていた。確かに、子供であるのだから、時の経過によって成長していくのは、当然のことだ。だが、この少女は、それらとはまったく別の変わり方をしていた。
 表情が、消えていた。かつて、自らの身体に固執していたときに見せたものは、必死で哀れで惨めに見えたそれは、身体を取り戻したときに見せた、溢れんばかりのそれは、痕跡すらも認められなかった。少女の顔からは、微笑みも哀しみも、それ以外の感情のいずれも読み取ることができなかった。
 仮面を被ってでもいるようだと、彼は思った。心の仮面。それは、かつて見せた、自分の悲しく弱い部分を隠すためのもの。仮面を被らなければ、自分の感情に目を瞑らなければ、耐え切れないほど、少女の境遇は、生活は辛いものなのだろうか。祐司は、少女が組織で暮らすことになったと、それだけを時雨から聞かされただけだったが、彼は組織での暮らしが、組織にある何かが、少女を変えてしまったと思わずにはいられなかった。
「お久しぶりです」
 声だけは、鈴の音のように澄んだ声だけは、変わっていなかった。もっとも、その口調は妙に大人びたものになってはいたが。
「今日は、どうしたの。君が一人でこんなところにくるなんて」
 祐司は言った。彼は、氷の変わり様に驚く傍ら、別のことを考えていた。何故、射水 氷が、わざわざ自分に会いに来るのか。事前に何の連絡もなく。
 少女と祐司は、ただの知り合いといった関係などではない。少女は組織に属する工作員であり、祐司は組織に協力している研究員なのだ。誰かに二人でいることを目撃され、お互いの正体が明るみなってしまうリスクに、少女が気づかない筈が無い。危険を冒してまで自分に会いに来るということは、何かが、それもあまり良からぬ事があるに違いなかった。彼は、胸騒ぎを感じた。
「私は──」少女が、小さな声でつぶやく「あなたに感謝しています」
 身構えていた祐司は、突然の少女の言葉に戸惑いを隠せなかった。
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味です。私の身体を、もとに戻してくれた。まったく、そのままの意味」
「そうか──もし、私と時雨が共謀して、実験台にするために、君に重症を負わせ、あんな身体にしたとしても?」
 ずっと感じていた疑問を、彼は思わず口走っていた。不意に時雨の緩んだ口元が、脳裏に蘇っていた。祐司がそう感じているであれば、当事者である少女自身がその疑問を感じない筈が無かった。だから、聞いていた。
「もし、そうであれば、私はあなたと時雨さんを殺します」
 祐司は、息を呑んだ。
「でも、それはありえない。あの女は、あの時、そんな命令は受けていなかったから。でも──」
「でも?」少女の語った”あの女”が何者なのか気になったが、彼は先を促した。
「何故、あなたは、私に処置をする事を、躊躇ったのですか?」
「別に、躊躇っていないよ」
「嘘です。たしかに、あなたは躊躇った。不自然です。私の姉や、他の子供たちには、何の疑問も感じずに、実験を行っているのに」
 確かに、彼女の姉も、他の子供たちと同じように、実験台にした。もっとも、他の多くの子供たちと同様、少女の姉も遺伝子の形質が発現しなかった。つまりは失敗であり、普通の人間のままではあるのだが。
「君は、特殊なケースだった。あの時の君は重度の凍傷で、全身が腐りかけていた。あの酷い有様を見て、これ以上、君の身体を弄繰り回そうという気が起きなかっただけだ。それに、あの状態の身体で遺伝子を弄れば、体組織に与える影響が多きすぎる。だからこそ、それを見越して、時雨は茶番を演出して、私をやる気にさせた。君に泣き喚かせ、私に腐りきった君の身体を弄る気にさせた。そして君も、自分で選択させられることで、自分の身体に責任を持たざるを得なくなった。自分で選んだことなのだから、誰かのせいにすることも、誰かの責任にすることもできなくなった」
「たしかに。私は、この身体になることを自分で選ぶことになった。あの時、あの姿になった自分を鏡で見たとき、この身体になったことを酷く後悔しても、誰かの、時雨さんやあなたのせいにはできなくなった。でも、あなたが躊躇ったのは、それだけじゃないと、思います」
 祐司は、考えた。確かに、少女の言うように、それだけが理由ではなかったような気がする。彼は徐に天井を仰ぎ、そして呟いた。
「確かに、違うかもしれないな。もっと、個人的で、身勝手な理由だった」
「それは──」
「君を見て、死んだ妻を、雪菜を思い出したからだ」
 これ以上、雪菜との思い出を、自分の中での雪菜を犯したくは無かったから。そう言っても、少女は納得してはいないようだった。無言のまま、祐司を睨むように見つめた。
「それと、君の姉さんを実験台にしてしまったことは、本当に申し訳ない。結果として、君の姉さんの身体には異常が無かったにしろ、非道いことをしていると思う。だが、私はもう、時雨には逆らえないんだ」
 祐司は当初こそ時雨の考えやその強引なやり方に馴染めず、何度か衝突した。今でも、彼に対する疑念は消えていない。だが祐司は、もう時雨のやり方や考えに反対する気力や意味を失っていた。雪菜の遺伝子を弄繰り回した自分に、時雨を咎める資格など無いと考えていたし、そして何より、時雨に協力することによって得られた対価は、彼にとって大きすぎた。
 不意に祐司の脳裏を、やさしく微笑む娘の姿が掠めた。
 時雨から提供された設備がなければ、瑞穂は存在しなかった。彼女のスペアである、みなとや紅葉、そしてナンバー7の身体も維持できなかった。
 ナンバー7の身体にナンバー4、つまり瑞穂の精神を移動させる作業は、彼が思っていた以上に、うまく進んだ。ナンバー7は、瑞穂の心を移し変えられた身体は、何事もなかったかのように瑞穂として目を覚ました。彼女は、自分の身体が別のものに変わったことに、まったく気づいていないようだった。柊の部下の男は、精神を移しても、身体と心の拒絶反応は少なからず発生し、本人はそれが本来の自分の身体では無いと、本能的に気づくと言っていた。瑞穂が自分の身体にまったく違和感を感じないということは、それだけ瑞穂とナンバー7の身体が、限りなく同一に近かったということなのだろう。
「ところで、君は──」
 思考を戻し、祐司は、スツールにちょこんと座る氷を見やる。
「それだけを言いに、今日、ここに来たのかい。僕と、君と出会うことが、どれほど危険か解っているだろう? そもそも、時雨は、彼はこれを知っているのかい」
「私も、あなたと同じです。私も時雨さんには逆らえない。だから、ここに来ました」
「──どういう、意味だ」
 祐司は、立ち上がる。少女の瞳が危険な色を帯びているのを、本能的に感じ取っていた。
「私は、あなたを、殺しにきました」
 少女は細められた眼で、彼を見やる。表情の無い白い顔が、ゆっくりと彼の方へと動く。眼が合った。底の見えない瞳に、彼は吸い込まれるような錯覚を覚えた。
 祐司は即座に、懐から拳銃を取り出し、少女の眉間に突きつけた。組織と関わりを持ってから、彼は自衛のため、拳銃を携帯するようにしていた。
「残念だけど、私はまだ死ぬわけにはいかない。娘の成長を見届けねばならないからね。だが、教えてくれ。何故、私を殺す必要がある。私が、組織に何をした」
 拳銃を見せられても、少女の表情は殆ど動かなかった。むしろ、つまらなそうに銃口を覗き込み、僅かに嘲るかのような口ぶりで、呟いた。
「こんな鉄筒で、私は殺せないですよ。あなたは、知っているはずですけど」
「だからだ。君を殺すつもりは無い。だが、逃げる時間は稼げる。それよりも、さっきの質問に、答えてくれ」
 射水 氷は、上目遣いで祐司を見る。少女のその眼差しは、小柄な子供のものとは思えないほど、艶めかしく、それでいて痛いほどに鋭い。祐司は僅かにたじろいだ。少女の顔へ向けられた銃口が、震える。彼の動揺を見透かしたように、少女は更に瞳を細め、呟いた。
「この病院にある地下施設の秘密が、漏れたからです」
 祐司は、絶句した。それはありえないことだった。地下施設の存在を隠すためのカモフラージュは何重にも施されているのだ。病院の設備自体も、組織によって運用されている以上、それらを見破り、地下施設の存在を発見するなど、不可能だった。
「誰に──誰に、漏れたんだ。医師か、看護士か、それとも──」
「百合ほたる──と、聞いています」
 知っている名前だった。祐司は、混乱した頭の中で、氷の言った名前を記憶の中から探す。たしか、骨折で入院していた患者ではなかっただろうか。たしか、瑞穂と同い年で、隣のベッドだった筈だ。百合ほたると瑞穂が、何度か話をしているのを、彼は何度か見かけたことがあった。
「百合ほたるは、地下施設入り口付近で、他の団員に目撃されています。彼女は、足を骨折しているにもかかわらず。団員が看護士を装って話を聞いてみると、彼女はこう答えたそうです」
 ”瑞穂ちゃんが心配だったから。できるだけ、瑞穂ちゃんの近くにいたかったから”
 また、沈黙が部屋を包む。射水 氷は細めた瞳を微かに開いて、呟く。
「──何故、娘さんを、地下施設に連れて行ったんです? 時雨さんは、怒っています。もう、誰にも止められない。あの人の性格を、あなたは知っているのに」
 祐司は何も言えなかった。もはや、氷の問いかけすら、耳に入ってはいなかった。
「単に秘密が漏れただけなら、それの口だけを封じればいい。ですが、あの人が、あなたに疑念を、それも機密保持に関する疑念をいたいてしまった以上、もう終わりです。
 この病院は、もう存在できない。あなたは殺されます。医師や看護士も無事では済まないでしょう。患者は何かのアクシデントを装って、皆殺しです。もちろん、百合ほたるも、あなたの娘も」
「そんなことは、解っている!」
 思わず、彼は大きな声を出していた。氷は、小さく眉を動かす。
「すまない。だが、私は、こうするしかなかった──君になら、解ってもらえるかもしれない。いや、たぶん、解ってもらえるのは、君しかいない。君に失いたくないものがあったように、私にもあった。そして、すこし変わってしまったが、今もあるんだ」
 彼は、諦めたように銃口を下ろした。
「お願いだ。頼みたいことがある──ついて来てくれないか」
 少女は、頷く。まるで、そうなることが最初から解ってでもいたかのように、躊躇い無く。

 彼は、射水 氷にすべてを話した。
 さすがの彼女も、整然と並べられたカプセルの中身に、雪菜のコピー達の姿に唖然としていた。半開きのまま震える唇が、その動揺を物語っていた。
 氷は、雪菜のコピー達のカプセルが隠された部屋を出て、すぐに呟いた。
「あなたは、間違っている。この子達は、あなたの玩具ではないです。私はあなたに助けられたから、あまり偉そうなことは言えないですけど」 
「私も、そう思う。だが、仕方が無かった。そして、ここまできて、無駄にするわけにはいかない。だから、君に頼みがある」
 少女は祐司を横目で見た。
「瑞穂だけは、助けてあげてほしい。私は、ここで殺してくれてかまわない。だが、あの子だけは、守ってほしい。そして、あの子の成長を見届けてほしい」
 氷は無言のまま、腰の辺りから拳銃を取り出した。小柄な彼女にとってはあまりに不相応な、大きな銃だった。少女は拳銃を彼へと向け、そして自分の胸元へと向けた。
 射水 氷はゆっくりと首を横へと振った。
「嫌です。私は、あなたを殺したくない。元々、私はあなたを殺すつもりはなかったですから。ただ、あなたの真意は知りたかった。変なことを聞いたりして、試すようなことをして、すみません」
「何を──するつもりだ」
「逃げてください。私は、あなたを殺すのに失敗して、あなたに撃たれたことにします。娘さんを助けるのは、私ではない。組織に飼われている私では、できない。あなたが、自分でするしかないです」
「そんな銃で自分を撃ったら、君は──」
「大丈夫ですよ」
 少女はそっけなく言い、そして初めて、彼へ向かってぎこちない微笑のようなものを浮かべて見せた。
「この程度では、死ねません。それに、痛いことには慣れてますから」
 銃声が轟く。氷の腹が弾け、赤黒い臓物が彼の眼前にぶちまけられた。
 彼は、銃声から、少女の飛び散った飛沫から逃げるように走った。瑞穂の病室へ急ぐ。瑞穂は点滴をしていた。彼は強引に彼女から点滴のチューブを毟り取り、唖然とする看護士達には眼もくれず、娘を抱いたまま階下へと、そして病院の外へと駆け抜けた。

 

○●

「──あれから、どれだけの月日が経ったのだろうか。射水 氷に助けられ、瑞穂を連れて逃げてから、私にはやることが多すぎて、時間を意識している暇など無かった。
 まずは、狭いアパートの一室を借り、そこへ瑞穂を住まわせた。そして、できる限りその存在を隠すようにとだけ伝えた。
 私には、瑞穂を連れて逃げ続けることはできなかった。逃げ続ける中で、いずれは真実を教えなければならないからだ。瑞穂に真実を教える勇気は、私には無かった。あの娘は、芯の強そうな眼差しとは裏腹に、打たれ弱いところがある。そこへ、自分が母親の複製のひとつであるなどと言えば、そして精神と身体が、それぞれ別であるなどと言ってしまえば、あの娘の心が壊れてしまうような気がしてならなかった。いや、確実に壊れてしまうに違いない。
 だが、それだけでは瑞穂はすぐにでも時雨に見つかり、処分されてしまう。私は、対策を講じる必要があった。もっとも確実で、単純な方法を。
 射水 氷があれからどうなったのか、私には知る方法が無かったが、少なくとも彼女は本気で私を助けてくれたようだった。今、私が潜伏している地下研究施設の最深部、つまり雪菜のコピー達が隠されている部屋が、いまだに時雨に発見されていないことが、何よりの証だった。当然、外部から直接この部屋に入り込めることも、私を除いて、誰も知らない。
 だからこそ、私はやっと落ち着いて、ここに記録を残すことができるのだが。私は、瑞穂が危険に晒されぬように──」
 何かの割れる音。ガタガタと、金属とコンクリートの擦れる音。祐司の声が、それらの雑音の中にかき消され、続いて男の声とも女の声ともつかない、掠れた声。
「あの子は、どこ?」
 掠れた声が、訊く。その声は酷く不安定で、低くなったり高くなったりを不規則に行き来する。
「誰だ、君は──」
「あの子は、どこに行ったのって、聞いている」
「その身体。君は、まさか──」
「答えろ! あの子は、どうして帰ってこない!」
「ナンバー6、”桜”のことか。あの子は、死んだ。殺された」
 掠れた声に、動揺が走っているようだった。語尾が震えている。
「お前が、殺したのか」
「私ではない。殺したのは、時雨という男だ。あの子は、瑞穂の身代わりとなって、殺されてくれたんだ。君も知っていると思うが、桜と瑞穂は、少なくとも外見上はそっくりだから」
「何故、殺した」
「彼女には、すまないことをした。だが、桜が瑞穂の身代わりで殺されなければ、瑞穂の身辺が危険に晒される。もっとも確実なのは、時雨自身に”瑞穂”を殺させ、その死体を確認させるしかなかったんだ。幸い、彼女は覚醒はしていたが、意識は持たせなかった。苦痛は感じなかったはずだ」
「違う! あの子は、意識を持っていなかったんじゃない」
「しかし──」
「お前が、あの子の意識に、気づかなかっただけだ」
 足音。
「そこに、いるのか?」
 甲高く、激しい悲鳴。
「なんで──なんで、こんなところに、置き去りにしているんだ。この子を」
「カプセルに戻したら、彼女らが動揺するだろう」
 歯軋りのような音。
「許さない。もう、お前は、殺すしかない。そして、あの子を元の場所に、一番安らぐ場所にかえしてあげるんだ!」
 大きな音。身体を床に叩きつけるような音。
「やっ、やめるんだ! 子供の君に、私を殺せるわけが──な、なんだ。これは!」
 鋭い金属音。ガラスの破片が擦れ合う音。
「死んでしまえッ!」
 液体の、迸るような音。鮮血の飛び散る音が小さくなるとともに、途切れ途切れの、低く荒い息遣いが僅かに響く。
 掠れ声は驚きと戸惑いが綯交ぜになったような声で、うわ言のように呟く。
「これが、私の──」
 メモリー素子の記録は、そこで途切れた。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。