水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-2

#16 絶望。
  2.終わる世界

 

 ***2039/4/2***
 覚めることの無い悪夢に堕ちたと、この時思った。その悪夢は予見することも、避けることも、防ぐこともできなかった。だがそれは、たった数行の文章、たった数十文字に過ぎない文言から始っていた。
 いや、この時点で既に、すべては終わり始めていた。
 自分の眼を疑うしかなかった。思わず手の甲で眼を擦り、引出しにしまいかけた眼鏡を慌てて取り出し、掛けなおす。動揺の為だろうか、視線は定まらない。
 気づけば、眼を背けていた。背けられた瞳は、自分でも呆れるほど殺風景な、薄暗い部屋の風景へと流れ、本棚に敷き詰められた無数の図鑑や、報告書や、雑誌や新聞の切抜きや、その他諸々の、やや色褪せかけた資料を、ひとつひとつ丹念に追いかけていた。
 無意味に、背表紙に記された題名を小声で呟く、呟き続ける。そうすることで、心を落ち着かせようとしているのか。それとも単に、時間稼ぎをしたかっただけなのだろうか。不真面目な子供が、宿題を片付けようとする前に、机の上で消しゴムや鉛筆を弄って遊ぶように。嫌なことを、少しでも長い間、考えずにいられるように。
 我に返る。首を僅かに振り、眉間に力を込めつつ、手にした資料を読み返す。だが、やはりそれは、記載されている内容は、変わることなど無かった。
 それは、つい今しがた送信されてきたメールをプリントアウトしたもの。担当する患者の、先週分の検査結果の一覧表だった。
 一覧には、その名前が、短く記されていた。視界がぼやける。落ち着いて、眼を細め、何度も、書類を凝視する。それは、見慣れた名前だった。”洲先雪菜”と記されていた。見間違えたわけでも、思い込みでも無い。それは紛れも無く、妻の名前。息が詰まった。肩が揺れた。
 だが、良く考えれば、なんということは無い。彼女に検査を受けるよう勧め、検査医に無理を言って自ら検査を行った張本人が、何を動揺しているのか。検査結果の一覧に、名前が載るのは当然のことだ。そう、当然のことで、何も心配することなど無い。結果はごく平凡なものになるに違いない。
 だが、名前の横に記された数字は、他の行のそれよりも、桁数が多い。いや、気のせいだ。気のせいなのだろう。更にその横には、より小さな文字が記されているのが見えた。赤い文字だった。検査結果のデータによってコンピュータが幾重ものパターン分析により導き出した所見である。そう認識するよりも先に、記されていた文字の内容を認めた。理解してしまった。そして凍りついたように、止まった。非常に回りくどい、内容を理解しづらい言い回しだったが、つまりは、要約すれば、そう言う事か。
「雪菜が死ぬ? それも、あと12ヶ月以内に──」
 思わず、呟いていた。
 それは、真っ白な紙の上に刷り込まれた、全く感情の介在する余地の無い、ただの文字の羅列にすぎない筈だった。だから、しばらく眺め続けていた。眺めているだけならば、内容を読み返しさえしなければ、動きさえしなければ、崩れるものは何も無いと思っていたから。
 だが、焦りにもにた感情が、指先から、足先から静かに、それでいて確実に込み上げてくる。抑えようの無い、黒々として、不定形で捉え所の無いそれは、やがて胸元まで満ちると、突然弾けた。
 叫んでいた。何を叫んでいたのかは、記憶に無かった。ただ、部屋すべての陰が、小刻みに震えているところを見ると、かなり大きな声を出していたのだろう。
 とたとたと、頼りない足音が廊下から響いた。足音は次第にこちらへと近づき、部屋の前で止んだかと思った瞬間、部屋の扉が開いた。
 細い足が、見えた。足はすぐさま、部屋の中へ踏み込む。顔を上げ、足の正体を見定める。雪菜だった。雪菜は子供のように眼を大きく見開いて、こちらを見下ろし、立ち尽くしていた。ストレートロングの水色の髪が、彼女の心の動揺に同調しているかのように、左右に揺れている。
「祐司君、どうしたの? なんだか、すごい大きな声を出して──」
 雪菜は言った。その小さく優しげな声に、意識が揺り戻された。ふと、指先に湿り気を感じた。書類が汗を吸い、僅かに皺を見せている。考えている以上に、長い時間が過ぎていたのだろう。
 慌てて検査報告書を机の中にしまいこみ、何でも無いと伝える。彼女は訝しげに首を傾げていたが、やがて呆れたように肩を竦めると屈み込み、そのつぶらな瞳でこちらを見据えた。
「あんまり仕事のことばかり考えてると、ノイローゼになりますよ」
 彼女は呟き、ゆっくりと顔を近づける。細く白い指先で頬を撫で、滲んだ汗を拭う。柔らかな身体を、控えめな胸元を、こちらの身体へと密着させ、腕を伸ばして背中へ廻し、絡みつくように、硬直しきったこの身体を抱き寄せる。
「何を──」
 絶句した。彼女は微笑みを浮かべ、そっと耳元に囁く。
「これで、忘れてくれますか? 仕事のこと、嫌なこと、辛いこと、悩み事、忘れていられますか?」
 頷く。彼女の息遣いが、肌を伝う。抱き寄せ、首筋を舐めると、雪菜は微かに声を漏らし、身を委ねるかのように、身体の力を抜いた。
 ゆっくりと雪菜の服を脱がす。ベッドに寄り添い、彼女の柔らかく控えめな胸を吸い、抱きしめる。頬を高潮させ、恥ずかしげに雪菜は喘ぐ。
 雪菜の身体を抱きながら、考えていた。彼女を失いたくは無い。彼女を死なせてはいけない。死なせたくは無い、と。だが、それは変えられぬ現実であり、抗えぬ運命であるということも理解していた。それを理解していながら、彼女の終わりの時を知りながら、こうしてただ本能に、性欲に引き摺られるように彼女を抱いている自分を、卑しく愚かしいとも、考えていた。
 次第に、快感が思考を侵食し始めた。混沌とした思考は朧げな膜に隠されていく。彼女もまた同じようで、か細い体躯の動きが、喘ぐ声が、激しさを増していく。唇が触れ合う。舌が絡み合う。
 雪菜は、不意に上体を反らして上擦ったような呻きを発した。高潮しきった細い体躯が、ベッドの上で音を立てて揺れた。
 この胸に蹲るように、ゆっくりと雪菜は寝そべる。全力疾走した直後の子供のように、息ははぁはぁと荒い。
 胸に蹲るようにして眠る彼女を見下ろすと、その愛おしさからか、全身が熱く火照る。触れ合い、胸を吸い、再び快楽の中に浸かりたいという欲求が湧き上がる。だが、快感の通り過ぎた後の妙に覚めた頭は、それらの欲求を押し退け、先ほどまでの思考を続けていた。
 雪菜は死ぬ。それは、夫であり、主治医でもある人間が、何よりも知っている。
 だが、雪菜の死という既に定められた結末を変えることはできなくとも、少しでも先延ばしすることすら許されずとも、その結末の先に、別の結果を残すことは出来るのではないか? 例えば──。
「赤ちゃん、はやく欲しいな」
 仰向けで天井を見つめながら、雪菜は不意に呟いた。
「赤ちゃん?」
「そうだよ。祐司君と、私の子供だよ」
 僅かに赤みを帯びた胸元をはぁはぁと上下させながら、彼女は頷いた。艶かしい口許から、白い吐息が立ち上り、火照った身体に吸い取られるようにして消える。
 子供。雪菜の発した言葉が、まるで何かの暗示のように聞こえた。子供、出産、個体数増加、子孫、遺伝子──。その瞬間、頭の中で散り散りになっていた事柄が、ひとつに結びついた。
 これだ。これ以外に、有り得ない。
 興奮からか、額に汗が浮いた。天井を仰ぐ。何度も仰ぐ。まるで、このアイディアを考え付いた自分自身への賛辞のように。そうだ。すばらしい。これなら。これなら、大丈夫だ。
「あの、変な声だしたら、驚くじゃないですか」
 視線を戻すと、雪菜が不思議そうにこちらを見つめている。気づかぬ内に、奇声でも発していたのだろうか。微笑みかけ、なんでも無いよと雪菜へ伝える。だが、雪菜は不安げな瞳を逸らさず、じっと見つめ続けている。
 そんなに不安がることは無いんだよ。と、心の奥底で、呟く。雪菜は生き続けるんだ。確かに、君は死んでしまう。死を防ぎ続けることも、死んだ人間を蘇らせることも出来ない。誰にも。神と呼ばれる概念にすらも、それは不可能なことだ。
 だが、雪菜の存在は消えない。雪菜は永遠に存在し続ける。優しい微笑みも、柔らかい身体も、ずっとずっと目の前にあり続ける。

 

 ***2039/4/7***
「嬉しいですよ、祐司さん。我々の計画へのご協力、本当に感謝いたしますよ」
 彼は言った。抑えようのない悦びを、無理にでも抑えているかのような声で、その口調に嘘偽りは無いように思われた。それも当然だろうか。こんな、気違いじみた計画に協力する人間など、存在するはずが無い。本来、存在してはならないのだから。
「まず、君が誰かを知りたいな」
 不意に問われた為か、彼は軽く眉を動かした。彼は、まだ名乗ってすらいなかった。故に、計画の概要のみが僅かに解っているのみで、どの組織の何者がこの計画の首謀者なのか、見当もつかなかった。
「君は、誰だ。この計画は、誰の思惑で動いている?」
 再び問いかける。彼は薄い笑みを浮かべ、口を開く。
「それをお伝えする前に、担保を頂きます」
「担保?」
「そうです。我々は、この計画が外部に漏れることを最も恐れています。ですので、担保を頂くのです」
「今の私には、担保にできるものは何も無いが──」
 そこまで言ったところで、彼は制した。
「失礼ですが、調べさせていただきました。祐司さんは、奥様の雪菜さんを溺愛されていらっしゃるとのことで。そこで、雪菜さんの命を、担保とさせていただきます。万一、祐司さんの責任によって、この計画が外部に漏れた場合、雪菜さんの命を頂きます。当然、祐司さんにも責任を取っていただきますが。まぁ、我々の組織には隠蔽を専門としているセクションがありますので、それほど気になさる必要はありませんがね」
「別に構わない」
 そんなことか、と彼に聞こえないように呟く。彼は、読み違いをしている。確かに、雪菜を愛していることに間違いは無い。だが、雪菜は間もなく死ぬ。今の雪菜は、オリジナルとしての役割さえ果たしてくれれば、たとえ殺されたとしても構わない。
「そうですか。では、条件を伺いましょう。我々に協力していただけるということは、それ相応の対価をお求めでしょうからね」
「用心深いな」
 自分達のことは極力話さず、まず相手の狙いを見定めようということか。
「条件と呼べるものではない。君達に協力する為にも、必要なことだ。まずは、最新の研究施設を、私の病院に提供してもらう。そして、施設の使用に関しては、私の自由にさせてもらいたい」
「つまり、我々が用意した最新の研究設備を、私用で使いたいと」
 簡単に言えば、そういうことになる。頷き、彼の顔を見据える。
「解りました。良いでしょう。医者と研究者の違いはあれど、その知的好奇心に変わりはありません」
 彼は口の端を吊り上げていた。笑ったつもりなのだろうが、顔が歪んでいるようにしか見えない、不自然な笑みだった。彼はこちらへ手を伸ばし、語りかけた。
「よろしくお願いしますよ。祐司さん。自己紹介が遅れましたが、私は、ロケット団研究開発6部、責任者の時雨と申します」
 彼の名乗った、ロケット団という組織名には聞き覚えがあった。カントーを拠点として、世界征服を目論むポケモンマフィアである。
ロケット団が、何の為にこんなことをする必要がある」
「こんな事、といいますと?」
 彼は、わざととぼけているのだろう。組織の名を聞いた以上、もう後戻りはできないのだから、素直に話せばいいものを。焦れた口調で再び問いかける。
「”異なる種類のポケモン同士の遺伝子を融合させる”など、倫理的に許されることではない、と言いたいのだ。何の為に、そんな気違いじみたことをしなければならない」
「強いポケモンを欲してるからですよ」
 心なしか、こちらを睨んでいるように見えた。彼の口調は自信に満ち、微かに蔑みすら感じられた。当然のことだろう、そんなことも理解していないのか、とでも言いたげな。
「もちろん、ただ強いだけではない。強いだけであれば、奪えばいい。捕らえればいい。ですが、数多の伝説に記されているような、歴史を動かすほどの能力を持ったポケモンは──そのような特殊な能力を持ったポケモンを、我々は”ex”と呼称していますが──探して見つかるものでは無いですし、運よく発見できたとしても、捕らえることに多大なリスクを負わなければならない。何せ、伝説となるほどですからね。我々は、ポケモンの遺伝子を合成させることにより、exを”造ろう”としているのですよ」
 彼の言葉の意味は理解できる。だが、人間の遺伝子工学ではある程度の評価を得ているが、携帯獣に関しては素人に近いために、彼の言うことが本当に実現可能であるかまでは解らなかった。それを感じ取ったのか、彼は説明するような口調で続ける。
「例えば、幻のポケモンと呼ばれる”ミュウ”という種は、すべてのポケモンの遺伝子を有しているという説があるそうです。知り合いの研究者に聞いた話ですがね」
 彼は胸ポケットからポータブルを取り出し、画面を操作して、こちらへと向ける。画面には、吹雪の雪山が映し出されており、雪の粒子の奥に僅かに、薄桃色の小さなポケモンが見える。
「これが、ミュウだそうですよ。こんなに小さなポケモンが、すべてのポケモンの遺伝子を有しているらしいのです」
「ゲノムサイズは、その種の大きさと比例しているわけでは無いだろう。そのミュウというポケモンが、すべてのポケモンの遺伝子情報を持っていても、不可解で、極稀なことではあると思うが、有り得ない事では無い」
「そうです。私が申し上げたいのはつまり、ポケモンの遺伝子は、非常に効率よく構築されているということです。これはミュウに限らず、ポケモンという生物すべてに共通していることです。まぁ、ポケモンは分子構造からして、既に他の生物とは異なっているそうですから、これも不思議でも何でもありません。
 ポケモンはその異常なほどに効率よく整備構築された遺伝子によって、例えば”携帯獣通信能力”や”進化”など、通常の生物では考えられない特異な能力を有しているのですから」
 それとポケモンの遺伝子を弄ることに何の関連があるのか。彼は、こちらの怪訝な顔に気づいていないのか、それともあえて無視しているのか、話し続ける。
「ただし、効率が良い為に、ポケモンの遺伝子はデリケートなのです。他の生物であれば、意味の無いゲノムを多く含んでいますので、多少遺伝子を弄ったところで、大きな変化は望めません。せいぜい、触覚の数が増えるとか、腕が生えるべき場所に、足が生えるといった程度の変化しか望めない。ですが、ポケモンは違う。ポケモンの遺伝子は無駄が無く、すべてが意味を持っている。電気タイプのポケモンに、浮遊特性をもつポケモンの遺伝子を合成すれば、浮遊特性を持つ電気タイプのポケモンができるかもしれない。あくまで理論上の話ですが。究極的にはexと同等、もしくはそれ以上の能力を持つポケモンを造りだせる。
 そもそもex自体が”ある特殊な外的要因”によって、そのデリケートな遺伝子が突然変異を起こして誕生したと推測されているのですから」
「ある、特殊な要因? 何だ、それは」
「それが解れば、我々はあなたの能力を必要としませんよ。まぁ、神の悪戯とでも言うのでしょうかね。ポケモン自体が、神の気紛れで誕生したという民話もありますが」
 神。そんなものの存在は、今まで信じたことは無かった。勿論、概念は理解している。その存在を人々は生きる為の知恵として想像し、いつしかそれを己が創造したものであることも忘れて信仰するという、滑稽とも言える歴史も知っている。
「おや。祐司さんは神を信じていないようですね。その顔から察するに」
 神など信じない。愛も、平和も、心も、すべて人間が考えた概念にすぎない。下等生物には無い、それら人間独自の概念を理解しやすくする為に、神という都合の良い存在が創造されたにすぎない。
「まぁ、神など信じないほうが良い。我々は、これからその神を愚弄するのですからね。我々が目指すのは”神と呼ばれたポケモン”を”造る”ことなのですから」
「確かに、神など信じていない。だが、これは倫理的に許されることでは無い。むしろ神など、どうでもいい。君と私がやろうとしていることは、許されざる命を造りだすこと。それは、禁忌を犯すことだ」
 彼は、暫し無言のままこちらを見つめ、口許に手をやった。そして、冷やかな口調で問い返す。
「だから、どうしたというのです?」
「禁忌を犯したものには、罰が訪れる。これは信仰でも妄言でもない。例えば、そうやって造り出した存在を、我々はどのように制御する?」
「今は、制御不能でしょうね。遺伝子操作によって”神にも等しい最強のポケモン”を造りだせば、それは己が力によって暴走し、人類を滅ぼす可能性がある。ですが、ご心配なく。我々の別チームが、現在ポケモンの思考と感情とを操作する研究をしています。いずれは、最強のポケモンを、我々の意のままに操ることができるでしょう」
「しかし──」
 言いかけたところで、彼は詰め寄ってきた。鋭利な指先を振りかざし、こちらの喉に軽く食い込ませる。威圧というよりも、発言を制するというよりも、彼なりの人懐っこさの表れではないかと思われた。
「では、逆にお聞きしたいのですが、何故、貴方は我々に協力していただけるのですが? 我々の計画が倫理的に許されることではないと思っているのであれば、破滅へ向かう道しか無いと信じているのであれば、我々の要請を断ればよかったではないですか。それとも──」
 顎を上げ、彼は見下すようで、僅かに憐れみを含んだ視線を、こちらへ向けてきた。無言のまま、立ち尽くすしかない。そんな相手を、やはりそうかとでも言いたげな表情を見せ付けるように顔を近づけ、彼は続ける。
「貴方は、我々のような犯罪組織に協力してでも、禁忌を犯してでも、やらなければならない何かがあるということですか」
 黙り込む。何も、言うべきことは無い。
「まぁ私としては、計画の妨げにならなければ、何をして頂いても構いませんよ。それこそ、先ほど約束しましたが、我々の提供する研究施設も、どうぞご自由に」
 ”私”は頷き、まるで初めから、それが交渉の主目的であったかのような口調で呟いていた。
「ありがたく使わせてもらうよ」
 こんな気違いじみた計画に協力する人間など、存在するはずが無い。本来、存在してはならない。だが、”私”は違っていた。雪菜の死を受け入れ、”雪菜の存在”の消滅のみを拒んだ瞬間から、私は既に普通ではない、人間ではない、別の何かに、堕ちてしまったのだろう。

 

 ***2039/10/16***
 あれから6ヶ月ほど経った。”子供達”は順調に成長している。
 さすがに子供達に、「雪菜」と名付けるのは躊躇われた。まだ、雪菜は生きているが故に憚られるというのもある。だが、それ以上に、どうしてもこれが、人の形も認められない、いわば肉片とも呼べてしまうそれが、雪菜であるとは思えなかった。
 それらはカプセル内に満たされた培養液の中を漂っていた。カプセルの数は7つ。それの数も7つ。親指ほどの大きさしかないそれは、培養液の揺り篭に揺られ、眠り続けている。
 いずれも、私の子供達だ。だが、私の子供では無い。雪菜の子供でも無い。それ以前に彼女らはまだ、この世界に生まれてすらいない。もっとも、生まれたとしても、真に親と呼べる存在など在りはしないのだが。
 彼女達は、雪菜の遺伝子を元にして造り出されたコピー。
 正確に言えば、雪菜の身体から摘出した卵子を元に造り出した、雪菜と全く同一の遺伝子を持つ個体。
 技術的な問題から、大人である”現在の雪菜”を複製することはできず、胎児の状態から始めなければならないが、成長すれば雪菜そのままの女性となる。気が遠くなるような先の話ではあるが、18年程度の時間など、永遠の存在となる雪菜の為ならば惜しくは無い。
 私は、再びカプセルの中を覗き込んだ。グロテスクな胎児が、ビクンビクンと小刻みに蠢いている。彼女らは、まだ人間ですら無かった。名前をつけるのは、まだ早いか。私はもう暫く、これらを、製造ナンバーで呼ぶこととした。

 

 ***2040/2/1***
 今日、雪菜が死んだ。今思えば、計画を思いついた日から、彼女とは疎遠になっていた。
 彼女は、次第に悪化していく自分の体調を気にも止めず、コピーを造る作業に没頭する私のことを心配してくれていたようだ。
 もちろん、雪菜は私の計画を知らない。いや、何も知らない。自分の複製が病院の地下設備で製造されていることも、自分の余命が残り僅かであったということすらも。私は、何も話してはいなかった。彼女が哀しむ姿を、私は見たくなかったから。
 雪菜は、単に私が研究に没頭しすぎているとでも思っていたのだろう。逆に私は、雪菜が必死に私の気を引こうとすればするほど、彼女を避けていたのかもしれない。
 今から思えば、彼女は寂しそうでもあった。この計画を思いついた日以来、彼女とは寝ていない。食事を一緒にする回数も、極端に減っていた。会話は、業務連絡のようにそっけなくしていた。
 雪菜には悪いと思っている。だが、仕方が無かったのだ。”今の雪菜”を必要以上に愛してしまうことを、恐れていた。もちろん、私は雪菜を愛している。こうして、狂ってしまうほどに愛している。だが、”今の雪菜”は、やがて、すぐにも失われてしまうものだ。一緒にいられる時間は、限られている。だから、私はこの計画を、雪菜という存在を永遠とすることを、思いついた。だがそれは、今の雪菜を永遠にするわけではない。あくまで、雪菜を永遠に存続させる計画であり、今の雪菜を愛してしまえば、今の雪菜が私にとって必要不可欠な存在となってしまえば、この計画そのものが無意味になるに違いなかった。
 雪菜の身体は、一目見ただけでは、それが屍体であるとは分からないほどに安らかで、まるで眠ってでもいるかのようだった。苦しまずに、死ぬことができたのだろう。私は部下に感謝した。彼女の屍体は、今まで見た、どんな屍体よりも美しく、整っていた。
 私は屍体の頬を撫で、軽く口づけをした。微かに、薬品の臭いが鼻をつく。
「君の望んでいた赤ちゃんが、子供ができたよ」
 話しかけても、雪菜は応えない。当然だ。雪菜は、”この雪菜”は既に死んでいるのだから。私は、彼女の穏やかな死に顔を脳裏へと焼きつけ、雪菜の元を去った。

 

 ***2040/2/2***
 これは、偶然だろうか。雪菜が死ぬことによって、複製である彼女達が、本物として目覚めたのだろうか。それとも、魂というものは実在していて、死んだ雪菜の身体を離れて、同じ遺伝子を持つコピーへと宿ったのだろうか。
 今日、子供達が覚醒した。
 私は、子供達に名前を付けることにした。以前にも名前をつけようと思い立ったことはあったが、その頃の子供達はまだ、ただの肉片に過ぎず、人間と呼ぶにはあまりにも色々なものが足りなかったために諦めていた。だが、目覚めてしまった以上、この世に生まれてきてしまった以上は、名前を付けないわけにはいかない。いつまでも雪菜の複製であるという意味の、製造ナンバーで呼ぶわけにはいかない。
 彼女らの何れかを、私の娘として、少なくとも”雪菜”になるまでは、育てなければならないのだから。
 製造ナンバー1には、翠(ミドリ)と名付けた。翠色は、雪菜の好んでいた色だった。そういえば、空翠という言葉も好んで使っていた。
 しかし彼女は、残念なことに失敗作と言わざるをえない。翠には、身体が無かった。そして今後も、身体を得ることは無い。縮小した脳と、異様に肥大した眼球だけの、人間と呼んでいいのかどうかもわからない存在になってしまっていた。
 何故こんな姿になってしまったのか、原因は不明だ。細胞分裂時の染色体異常・欠損によるものではないかと思われるが、サンプルが一体だけでは検証のしようも無い。
 恐らく翠は、身体だけではなく感情や知能といったものも望めないだろう。だが、彼女は目覚めてしまった。脳波が、それを証明している。自我は、意識だけは存在していた。翠の脳波は、何かを探している時の波形に似ていた。自分の身体か、親か、本来そこにあるべき何かを探しているのだろうか。
 翠は、雪菜にはなれない。いや、それ以前に、人間にすらなれなかった。
 製造ナンバー2には、あさひと名付けた。
 彼女が目覚めたのは、翠が覚醒した42分後だった。あさひは、7体いる雪菜の複製の中で、初めて”まとも”に覚醒した子供だ。脳を持ち、身体を持ち、少なくとも外見上は、普通の赤ん坊と変わり無い姿をしていたからだ。
 だが、彼女の体組織は、通常ではありえない成分を含んでいることが判明した。あさひの皮膚は、酸素に触れると高熱を発するという、極めて特異かつ致命的な障害を持っていた。
 あさひは培養液のカプセルの中から外に出ることができない。無理に外へ出れば、外気に触れて一瞬で沸騰し、発火してしまう。彼女もやはり、染色体異常による失敗作であり、雪菜には程遠いものになってしまった。
 製造ナンバー3には、紅葉(モミジ)と名付ける。彼女は、あさひが覚醒してから3時間後に覚醒した。
 紅葉は最初の成功作と言っていいだろう。ただ単に、”人間を造る”ということが目的であったならば、これ以上の成功は無い。それどころか、常人よりも優れた身体能力と知能を持つ可能性があることが解析で明らかになった。恐らく、翠やあさひの特異体質の原因となった染色体欠損が、偶然にも彼女にはプラスとして発現したのだろう。
 それは、喜ぶべきことだ。雪菜は、生まれつき病弱で運動のあまりできない身体だった。彼女は、ずっとそんな自分の身体を疎んじ、哀しい事だと嘆いていたのだから。
 だが紅葉にも、致命的な問題点が存在していた。
 まだ赤ん坊である現時点において、いやそれよりもかなり早い段階で、私には解っていた。これは雪菜にはならない、と。
 紅葉は、誰にも似ていなかった。雪菜にも、雪菜の血族のいずれの特徴も見当たらなかった。彼女は、雪菜の形質を全く有していなかったのだ。
 私の直感は、遺伝子解析によって証明されることとなった。但し、紅葉は雪菜の遺伝子を持っていないわけでは無かった。染色体異常の為に、雪菜の形質が、いや、有している姿形についての遺伝子情報が全く発現しない、もしくは発現したとしてもごく短期間しか持続できない身体になっていたのだ。
 紅葉は、有している姿形についての遺伝子情報をランダムに発現させてしまう、つまり、姿形が不安定という、通常では考えられない身体を持っていた。最も、翠やあさひに比べれば、普通に生きていくには殆ど問題にはならないだろうが。
 しかし、雪菜に似ていないものを、雪菜とすることはできなかった。彼女もまた”雪菜”としては失敗作に違いなかった。
 紅葉の覚醒から4分15秒後に、製造ナンバー4が覚醒した。ナンバー4には、瑞穂(ミズホ)と名付けた。
 瑞穂は紅葉と同じく、常人よりも優れた身体能力と知能を持つ可能性が高く、ほぼ成功として良い個体だった。出来損ないの紅葉のように、雪菜の形質が発現しないということもなく、赤ん坊の状態でありながらも雪菜の面影を感じ取ることができる。雪菜としても、申し分無い。
 ただ唯一の問題点として、彼女には雪菜と同様の心臓障害が認められた。雪菜の細胞をクローニングする際に、障害の元となっていた遺伝子が発現しないよう処置を施していたが、恐らくその処置がうまく機能しなかったのだろう。最悪の場合、雪菜と同様に、もしくはそれよりも早い段階で障害によって死亡する確率が高い。
 瑞穂とほぼ同時に覚醒した製造ナンバー5には、みなとと名付けた。
 彼女も紅葉、瑞穂と同じ成功作だった。また、紅葉のように雪菜に似ていないということもなく、瑞穂のような心臓障害も無い。雪菜としては、成功作と呼べるのではないだろうか。
 製造ナンバー6には、桜(サクラ)と名付けた。彼女の覚醒は他の個体と比べて遅く、瑞穂やみなとの覚醒から、約八時間後のことだった。
 桜は身体的な特徴が瑞穂と酷似していた。見た目はもちろん、同じ心臓の障害を持っていた。ただ唯一瑞穂と異なるのは、瑞穂の脳が常人と比べて高い知能を有する可能性が高いのに対して、桜の脳は全く逆の反応を示した。つまり、彼女の知能は一定の水準以上になることは無い。推定ではあるが、幼稚園児程度までの知能しか望めないだろう。
 雪菜は病弱ではあったが、知的な女性だった。それが、幼稚園児ほどの知能しかないというのであれば、それはもはや雪菜とは呼べない。そんなものは、雪菜ではありえない。
 最後に残された製造ナンバー7は、まだ覚醒していない。それゆえに、まだ名前を付けていない。
 彼女の身体的な特徴は、瑞穂と桜に非常に酷似していた。但し彼女の心臓障害は、瑞穂、桜のそれと比べると軽度ではある。知能については、覚醒していないが為に正確には測定できなかったが、恐らく瑞穂と同じではないかと思われる。彼女の脳に、異常は見られなかった。
 このナンバー7には、不可解な点が多い。覚醒期に入っているにも係わらず、覚醒する気配も、覚醒の一週間前頃から観測される筈の脳波の揺らぎすら無い。前述の通り、彼女の脳には異常が見られないにもかかわらず。
 覚醒の兆候が無い代わりに、ナンバー7からは深い夢を見ていることをあらわす脳波が観測された。何の夢を見ているのだろうか。
 私には夢の中で生きているこの少女が、生まれることを、存在することを、拒んでいるかのように思われた。何故、拒むのか。誰が、雪菜が、雪菜の魂が、私を拒んでいるのだろうか。
 とりあえず最も状態の良好な、みなと、そして瑞穂を、私の──洲先祐司の娘として、雪菜の忘れ形見として育てることとした。新しい雪菜の、候補として。

 

 ***2042/12/24***

 降誕祭で賑わう街の光とざわめきが、カーテンの隙間を縫って、部屋まで入っては消えていく。
 微かな明かりに照らされて、少女は泣いていた。ただひたすら泣き続ける。少女の鳴き声は、薄暗い部屋に重たく響き、遠くから聞こえる喧騒を掻き消す。
 何故、泣くのか。彼女自身も、よく解らないに違いない。ただ、今までとは違う、別の世界に、別の境遇に、孤独に放り込まれつつあることだけを理解しているのだろう。そして彼女の防御本能が、止め処ない涙を流させているのだろう。
 彼女は喉をひくつかせながら後ずさった。少女の背中が、窓ガラスに触れる。彼女の身体の震えが、ガラスを通じて、部屋全体に軋んだ音として響き渡る
 泣き腫らし、上目遣いでこちらを睨む少女の姿を、祐司は冷たく見下ろしていた。少女のその仕草は、大人しそうに見えて妙に芯のある瞳は、やはり雪菜そのものだ。祐司は、そう考えながら、懐へ手を伸ばし、極小の注射器を取り出した。
「残念だよ、みなと」
 祐司は呟いた。”みなと”と呼ばれた少女は下唇を軽く噛み、さらに鋭く彼を睨み続けた。これもまた、雪菜の癖だった。もはや少女と雪菜の違いは、身体の大きさだけと言っても言い過ぎではないだろう、ある一部分を除けば。
「君は本当に、お母さんそっくりだ。だけど──」
 みなとは、首を激しく振った。頬を流れていた涙が散り、薄白いカーテンを僅かに濡らす。肩まで伸びた、艶のある漆黒の黒髪がはらはらと揺れる。
「君の髪は、黒いんだ。だけど、君のお母さんの髪は青かった。いや、水色といってもいいだろう。透き通った水色をしていた。だから君は、お母さんには、雪菜にはなれないんだ」
 言いながら、祐司は何故、こんなことになったのかを考えていた。恐らく、紅葉達に発生した染色体の欠損が、みなとにも同じように起こっていたのだろう。その証拠に、同じ環境で育っている瑞穂の髪は、雪菜とまったく同じ透き通った水色をしている。
 祐司は、みなとの腕を掴みあげた。みなとは小さな手足を必死にばたつかせ抵抗した。だが、祐司は軽々とみなとを持ち上げ、片手に持った注射器を、少女の二の腕に突き刺し、薬品を注入する。
「君は、雪菜にはなれない。だけど、君の身体はよく出来ている。髪の毛の色さえ間違っていなければ、君は最高傑作に違いない。だから心配しないでほしい。君の身体は、雪菜のスペアとして、大切にするから」
 注射器を放り投げ、祐司はゆっくりと、みなとを床へと寝かせる。みなとは身体に注入された薬品によって、意識を殆ど失いかけていた。だが、それでもなお涙の滲んだ瞳で、先程までと変わらぬ鋭さで、祐司を、自分の父親だと信じていた男を、睨み付け続けていた。
 祐司は屈みこみ、みなとの頬を撫でた。少女は歯を食いしばり、遠ざかっていく意識に必死に抵抗しているようだった。だが、虚しい抵抗も長くは続かず、みなとは力尽きた。
「ぱぱ、どおしたの?」
 突然呼び掛けられ、祐司は咄嗟に振り返った。みなと、いやとてもよく似ているが、みなととは別の少女だった。
 祐司は、少女の肩の辺りまで伸びた水色の髪を見た。と同時に、眠たげだが、不安に満ちた瞳に、じっと見つめられていることに気づいた。ナンバー4。いや、瑞穂という名前をつけた少女。祐司のもう一人の、そして最後に残された娘。
 瑞穂は、薄暗い月明かりを頼りに父親と信じている男を見据えていた。小脇に抱えられたニャースのぬいぐるみが僅かに揺れている。
 どおしたの? と、再び少女は問いかける。やはり瑞穂も、みなとや雪菜と同じ、大人しそうでいて妙に芯のある瞳をしていた。
 祐司は素早く瑞穂へと歩み寄り、床に寝かせたままにしている、みなとの姿が見えないよう、その視線を塞いだ。
「なんでもないよ、瑞穂。それより、こんな夜遅くに起きてきたらいけないよ。子供は、寝ている時間だ」
「だから、みなとちゃんも寝てるの?」
 祐司は息を呑んだ。見られていたか。無駄に勘が鋭いところも、雪菜譲りだ。
「そうだ。子供が起きていてはいけない時間だからね」
 言いながら彼は立ち上がり、みなとの小さな身体を抱き上げた。瑞穂は、彼とみなとを不安げな瞳で交互に見つめる。
「みなとちゃん、どおしたの?」
 みなとは、君のスペアの身体になるんだよ。祐司は、心の奥底で小さく呟き、そして少女へ諭すように言った。
「みなとは、ちょっと事情があって、瑞穂と離れた所で暮らさないといけなくなったんだ」
 瑞穂の顔が、即座に曇った。祐司は、少女の頭に軽く手をやり、言葉を続ける。
「だけど、我慢できるだろう? 瑞穂は、お姉ちゃんなんだから」
 俯き黙り込んでしまった瑞穂を寝室へと帰し、祐司はみなとを抱いたままガレージへと降り、病院地下の研究室へと向かった。
 みなとの意識は僅かに戻りかけていた。彼は急いでナンバー5用のカプセルを開け、みなとを中へと押し込み、培養液をカプセルへ注入した。
 培養液を吸い込み、少女は苦しげにカプセルの中でのたうった。肺や胃が培養液に慣れるまではある程度の時間が必要なのだ。叫ぶことも、泣くこともできず、ただ慣れるしかない。

 みなとの見開かれた瞳は、深く暗い色に満ちていた。少女は、自分が人間で無かったことを、人間でなくなってしまったことを、悟ってしまった。
 彼女は、諦めていた。自分は、人間ではなかった。溺れているかのような苦しみと、腹の中を焼かれているかのような痛みに耐えながら周りを見回せば、自分と同じような肉の塊が、人間の形をしていないものから、自分とそっくりなものまで、蠢いているのが見える。そして自分も、あの肉の塊のひとつ。こんなものは、人間なんかじゃない。
 みなとは、幼い頭で考えていた。そして、苦痛の中でひたすら願った。人間でなくても、誰かの複製に過ぎなくても、ただの肉片であっても構わない。
 私はただ、普通の人のように、普通の人間のように、生きてさえいければいい。洲先みなとでなくてもいい、洲先雪菜でなくてもいい。他の誰でもいい。偽りであってもいい。ただ、普通に生きていきたい。普通の人間として、生きていきたい、と。
 祐司は、少女の願いを知る由もなく、そそくさと薄暗い部屋を後にした。

 

 ***2044/8/7***
「今、何と言った」
 祐司は非常に強い口調で、時雨へと詰め寄った。
「そういう方向は、お嫌いですか?」
 時雨は皮肉を込めて呟いた。何を今更、とでも言いたげに、横目で祐司を睨む。
「何故、そこまでする必要があるのか聞きたい。私の造ったものは、君の要求をほぼ満たしているだろう。これ以上、何を望む」
 祐司は、ポケモンの遺伝子を改造することによって、強いポケモンを造ることに成功していた。祐司の知識と技術力は、時雨の仮説を既に証明していた。
 本来は覚えないはずの技を覚えたポケモン。通常ではありえない特性を持ったポケモン。だが、時雨はそれで、その程度では満足していなかった。それ故、上層部には、実験はすべて失敗していると報告していた。慎重な時雨らしい行動だと、祐司は思った。
 彼は”神と呼ばれるポケモン”を望んでいた。それだけは、いまだに成功してはいない。そもそも、何をもって成功とするのか、祐司には想像できなかった。
「貴方は、あの程度で満足しているのですか。確かに、貴方のアイディアと技術は素晴らしい。我々にとって、貴方の存在は絶対に必要だ。ですが、この程度ではいけない。これでは、exに、遠く及ばない」
「だからといって、こんなことが──」
「せっかく遺伝子の合成で、形質の発現を制御することができるようになったのです。ここはやはり、人間で験す必要があるでしょう」
 時雨の提案により、遺伝子合成の技術を人間に応用する実験が、何度も行われた。
 祐司は結局、それ以上強く時雨に抗うことはできなかった。雪菜の遺伝子を弄繰り回した自分に、時雨の考えを咎める権利は無いと考えていたし、何よりみなとや桜といったスペアの身体を維持するためには、時雨から提供される設備は欠かすことができず、必要以上に時雨の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
 時雨は、人間の高度な知能と、ポケモンの強力な戦闘力を併せ持った存在を渇望していた。それが、彼の考える”神と呼ばれるポケモン”に、現時点で最も近いのだろう。

 

 ***2045/1/11***
 人間とポケモンの遺伝子を合成する実験は、思うように進まなかった。ポケモン同士の遺伝子合成では発生しなかった障害が存在したのだ。
 まず、ポケモンと人間の遺伝子を直接合成させることはできない為に、ポケモンの遺伝子の特定の部分を除去してクローニングを行い、それを人間の体組織へ移植し、内部にて遺伝子を侵食させる方法を採用せざるをえなかった。しかし、そのような不完全な遺伝子で造り出した個体は、細胞のテロメアが極端に短くなり、およそ4年程度しか生存できないことが解ったのだ。
 既に大量の実験体が造り出され、そして培養液に満たされたカプセルの中へ廃棄されていた。
 祐司は、研究施設全体に広がる培養液のカプセルを見回した。
 培養液の中で意識を消された彼ら彼女らの大半は、祐司の娘である瑞穂と同じ年頃の幼児、幼女たちだった。
 大人の身体にポケモンの遺伝子を合成しても、形質が発現する可能性が低いだけでなく、テロメアの短縮による影響で、急速に老化し死亡してしまう。第2次性徴の生じる前の子供たちでなければ、ポケモンの遺伝子を合成することによる効果が得られないのだ。
 だが、彼ら彼女らも、4年ほど経てば寿命によって死に絶える。何もわからず連れ去られ、何もわからずに化け物にされ、何もわからないまま死んでいく。
 非道いことをするものだ。だが、こんな非道いことを、私は何度も繰り返している。それも、これが最初ではない。祐司は、血の気の無い、異様なほどに白い肌をした子供の裸体を見上げながら、心の中で呟いた。
 病状が悪化していく雪菜の身体を放っておいたときも、雪菜の遺伝子を弄って子供たちを造ったときも、みなとを単なる部品として扱ったときも、罪の意識など無かった。だが、今になって思い起こすと、後悔と良心の呵責だけが残るのは何故だろう。
 みなとも、他の子供たちも、何も知らずに培養液のカプセルという檻に身体を閉じ込められ、流れ続ける時という鎖に心を縛り付けられている。
 我ながら、非道いことを、するものだ。
 だが、今更、無かったことにすることはできない。こうなってしまった以上、彼女らのような犠牲を出してしまった以上、私は前に進み続けるしかない。例え、その方向が間違っていたとしても。
「何をしているのですか。仕事をしていただかないと、困りますよ」
 気づけば、時雨が背後に立っていた。祐司は振り返り、彼を見据えた。心成しか、機嫌が良さそうに祐司には思えた。
「祐司さん。良い材料が見つかりましたよ」
 祐司は顔を顰めた。彼の言う良い材料とは、祐司があまり望んでいないものだったからだ。
「そんなに簡単に、”死にかけの子供”を用意できるのか」
「条件は揃っていますよ。現在5歳の女児で、もってあと十数時間の命です」
 クローニングした遺伝子を移植する方法は、移植される側の細胞が弱まっているほど効率が良く、テロメアの短縮を抑制できる。つまり、死にかけの子供こそ、ポケモンの遺伝子を合成するのに、最も適した身体ということになる。
 祐司は躊躇いつつも、時雨にそのことを伝えていた。そして、すぐさま彼は、死にかけの子供を”見つけて”きた。祐司は、時雨に不信感を抱かざるを得なかった。あまりにも都合が良すぎる。
 時雨に連れられるまま、祐司は死にかけの子供のいる部屋へ向かった。扉の向こう側から、痛々しい呻き声が漏れていた。時雨は、すぐにでもそれを祐司に見てもらいたいと言わんばかりに、そそくさと扉を開いた。
 祐司は、言葉を失った。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。