水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#16-1

#16 絶望。
  1.禁じられた言葉

 

 男は、扉を開いた。それは本来、開く筈の無い、外からは開かれる予定の無い扉だった。何故なら、扉はその内に潜む者の手によって巧妙に隠蔽され、誰の眼にも触れることは無かったから。
 男は白衣を纏っていた。年は若く、青年と呼んでも違和感は無い。だが、白衣の内側から滲みでる空気は酷く老獪で、大凡その細く端正な顔立ちには似合わなかった。恐らく、初めて彼に会った人間は、皆揃って同じ印象を抱くだろう。まるで、初老の男が中身をそのままに、三十歳ほど若返ったようであると。そして、その印象を残したまま、暫くしてまた彼に会うと、記憶より更に若い彼の外見に、こんなに若い男だっただろうかと、驚くことになる。
 彼は、扉の中を見回し、一歩前へと踏み出した。彼が歩くたびに、白衣の袖は揺れ、手の甲に刻まれた、ケロイド状の傷跡が見え隠れする。
 部屋の中は、時が止まっているかのような静寂と、淀みきった空気に満たされていた。男は微かに咽ながら、部屋の中央まで進み、奥に並べられている人の身長ほどはあろうかという、七つのカプセルを横目で見やった。
「これか──」
 男は呟いた。後に続く言葉は無く、彼は瞳を細め、納得したように顎を引いた。カプセルから視線を外し、次に、彼は脇に置かれた机の上を見た。小さなメモリー素子が、放置されている。彼はメモリー素子を手に取り、降り積もった埃を振り落とすと、再び机の上に置き、メモリーの内容を再生させた。
 声が聞こえた。彼のものではない、別の男の声だった。彼は、メモリーから発せられる声を聞き、表情を曇らせた。
 メモリーを再生してから暫くして、彼は突然、机を叩いた。机は衝撃で揺れ、メモリーは床に落ちた。だが、メモリーの再生する男の声は途切れることなく、語り続けた。
 彼は笑った。天井を見上げ、一頻り奇声を上げ続けた。彼が笑い終えるころに、丁度メモリーはすべての情報を再生し尽し、停止した。彼は弾かれたように身体を動かし、カプセルのすぐ傍にある基盤を操作した。
 反対側で扉が開いた。隠されていた部屋の中でなお、隠されていた扉。男は背中で扉の開く音を聞きながら、中に潜む者の周到さを、そしてその者の臆病さを、まざまざと感じた。そして、また少し不機嫌そうに笑い声を漏らす。
「やはり、あの娘の父親なだけのことはある。これも、遺伝──いや、それは無いか。ただ、強く影響を受けているには、違いない」
 男は──ロケット団組織の研究者、時雨は独りごちた。振り返り、扉の中のそれを睨みつけ、奥にうすぼんやりとした人影を認める。
 彼は慎重に扉の手前まで歩み寄った。腰に吊るした拳銃に手をかけ、一気に部屋の奥へと踏み込む。彼はそれを、人影の正体を見つめ、訝しげに眉を顰めつつ、呟いた。
「捜したぞ。とても、長い時間をな」
 時雨の言葉の発せられた先、そこには、洲先瑞穂の父親である、洲先祐司の姿があった。

 

○●

 トキワシティが、こんなにも静かな街だということを、瑞穂は今まで意識したことが無かった。それは、旅に出て、他の街を見て、辛いことを、哀しいことを経験して、そこで初めて、感じることのできるものだからだろうか。
 都会のザラザラとした喧騒は聞こえず、また森林や山奥のような陰湿でピリピリとした空気も感じない。瑞穂は深く息を吸い込んだ。小鳥ポケモンの囀りが、水溜りに時折見られる小さな波紋のように、静まり返った空間を僅かに揺らす。
 この街の空気を一言で言い表すのなら、空白、だろうか。静かに息を吐き出しながら、瑞穂は考えた。
 空白。つまり、それは何も無いということ。何も無いということは、その何かによって哀しむことも、傷つくことも無いということ。だが、何も無いのは”今”だからだと、瑞穂は不意に思った。かつて、この街には確かに何かがあった。いや、何かではない。不条理で、悲しいもの。混沌のようなものだった。その混沌は、台風や竜巻が勢いに任せてすべてを薙倒して、吹き飛ばし、やがて己のエネルギーの放出を制御しきれずに消滅するのと同じように、多くのものを傷つけ、また殺し、後に残ったのは、柵と圧力によって歪められた報道と世論、それとは乖離した現実。
 瑞穂は足を止め、顔を上げた。かつて、その混沌が渦巻いていた場所がそこにあった。トキワ洲先クリニック。瑞穂の父親である、洲先祐司が院長をしていた総合病院だった。
 懐かしさと同時に、忌わしい記憶が脳裏を掠めた。瑞穂は朽ち果て土ぼこりに塗れた塀にもたれかかり、胸元を押さた。
 三年前この病院で、何者かによって薬品が盗まれて点滴に混入され、その点滴を使用した入院患者が脳障害に陥り、死亡するという事件が起こった。被害者は意識不明となり、大多数が目覚めぬまま一ヶ月ほどで死んだ。最終的な犠牲者は40人にも及び、生き残った人間は、点滴直後に異常に気づいた少女、瑞穂一人のみだった。
「ほたるちゃん──」
 瑞穂は、とある少女の名を呟いた。百合ほたる。事件の犠牲者であり、瑞穂の数少ない友人でもあった。
 ほたるは他の被害者と同じように、病院の入院患者だった。退院の二日前に薬品の混入した点滴を受け、間もなく意識不明に陥った。半年後に意識は回復したものの、脳を薬品に犯され、彼女の知能は著しく低下していた。自分の置かれている状況を理解できぬまま、錯乱し、発狂し、彼女はそれから半年後に死んだ。彼女は、最後の犠牲者だった。彼女は、もっとも長い間苦しみ続け、もっとも惨めに死んだ犠牲者だった。瑞穂は、彼女の死に際に立ち会った時のことを、今でも鮮明に記憶している。
 彼女の蹲っているベッドの白いシーツは、汚物にまみれてよれよれで、所々に血が滲んでいた。瑞穂が声をかけても、彼女は濁った瞳を泳がせるだけで、偶然に眼が合えば決まって明確な敵意を宿らせて、睨みつけるだけだった。まるで、抜け殻のようだと、知性とか尊厳とかそういったものが抜け落ちてしまった、ただの人の形をした、それだけの”もの”のようだと、瑞穂は思った。そう思わずには、考えずにはいられなかった。それは、既に瑞穂の知る百合ほたるではなかったから。獣のように喚き散らし、誰彼構わずに牙を向ける”それ”からは、大人しくて、思いやりと優しさに溢れた女の子の面影は欠片も感じられなかったから。
 だが、そう思ってしまった、考えてしまった自分に対して、瑞穂は軽蔑にも似た感情を覚えた。それは、違うと。彼女の、ほたるちゃんも被害者で、ほたるちゃんは、ほたるちゃんに違いないのだから、そう思ってはいけない、そんな事を考えてはいけない、と。だが、瑞穂がその気持ちを整理できぬままに、ほたるは死んでしまった。
 ほたるが、ゆかりの姉であると知ったのは、それから二年後のこと。ゆかり本人と出会い、そして組織の事件に巻き込まれたことが原因で、知った。ゆかりは事件のことを、つまり、自分が事件の唯一の生き残りであり、姉が事件の犠牲者であり、そしてその事件の原因が、自分に若しくは自分の父親にあるかもしれないことを、気にしていないと言ってくれた。別に、瑞穂お姉ちゃんが、姉ちゃんを殺した訳や無いんやし、と。だが、言いつつも、ゆかりは戸惑っているようだった。事件以後の、ゆかりの不安げで常に何かを言いたげにこちらを見つめるその様子を見れば、一目瞭然のことだった。
 ゆかりは、過去を忘れた筈だった。姉の死をいつまでも哀しむことなく、前向きに、明るく生きようと、懸命に努力していた。出会ったばかりのころのゆかりは、過去に非道い事件によって姉を失ったとは思えないほどに、明るく元気な女の子だった。追い討ちをかけるように、母親と弟を同時に失ってもなお、その前向きさだけは、失っていなかったはずだった。
「やっぱり、あの事件が原因――なんだよね」
 瑞穂は体勢を立て直し、呟いた。再度、かつて病院だった建物の草臥れた光景を見つめる。
 事件そのものは、すぐに解決するかのように思われた。容疑者の男が捕まったのだ。だが、決定的な証拠は何もなく、つい最近になって、男には無罪判決が言い渡された。無罪が確定したこともあり、その後の男の行方は知れない。事件そのものの記憶が、人々の間からほぼ消えていたせいもあり、では実際に犯行に及んだのは何者なのか話題になることもなく、犠牲者の数を考えれば異様なほどあっさりと、未解決のまま事件は終わった。そのあっけない終わり方は、台風や竜巻が通り過ぎた後の、息苦しい静寂にも似ていた。
 射水 氷は、言っていた。この病院の地下に、洲先祐司が――父が、組織に協力するための研究施設があるということを。そして、さらにその奥深くには、彼に近いごく一部の人間しか存在を知らない、隠し部屋があるのだということを。氷は、瑞穂を動揺させないように、つとめて静かに、そっけなく呟いていた。
 それこそが、あの事件の原因。私からは、何も教えてあげられないけれど、どうしても知りたいのなら、そこへの行き方は教えてあげられる。ただ、私は瑞穂ちゃんには、何も知らずにいて欲しい。
「そう言う訳にはいかないよ、氷ちゃん」
 瑞穂は錆びかけた門を半ば強引に押し開け、建物の敷地内へと踏み込んだ。
 逃げるのは簡単であり、現実から眼を背けるのは容易いこと。だが、もし自分のせいで、自分の父親のせいで、あの事件が起こったのならば、知ったところでどうにもならないのは解ってはいるけれども、瑞穂は事実を、事件の真相を確かめずにはいられなかった。そして、まだ何か出来ることがあるのなら、やらなければならない。そんな、強迫観念にも似た感情が、瑞穂の胸で燻り続け、少女を突き動かしていた。
 瑞穂は、萎びた雑草が散り散りになった芝生の上を、物陰に沿うように歩き、腰のモンスターボールを握り締めた。砂埃を被って干乾びている噴水跡の脇を抜け、中庭へ辿り着くと、ひび割れたままで放置されている小さなオブジェの陰に隠れた。オブジェの窪みから顔を出し、白く濁ったガラスの向こう側を覗き込む。建物の中に、人の気配は感じられない。
 事件直後に、病院の院長で瑞穂の父親でもある、洲先祐司が失踪した。それがまた、マスコミと世論の興味を集め、報道合戦に拍車を掛けることになった。実質的な指導者を失った病院は統制を欠き、瑞穂を除いた被害者すべてが死亡するのと時を同じくして、閉鎖された。だが、不思議なことに、閉鎖後の病棟は取り壊されることも無く、周囲の静寂から切り取られたように、今もなお廃墟としてその姿を晒し続けている。
 モンスターボールの開閉スイッチを押し、瑞穂はブラッキーを繰り出した。少女はブラッキーを抱き上げ、耳元で囁く。
 氷の説明によれば、病院の建物と敷地は、地下で行われていた研究の情報漏洩を恐れた時雨の画策により、組織の関連企業の名義で買取られたらしい。誰もいないように見える建物内部だが、実際には多数の組織の研究員と、それを警護する団員が存在している、とのことだった。
「お願い、キーちゃん」
 瑞穂の囁きに、ブラッキーは小さく頷いた。少女の腕から飛び降りると、電光石火の体制をとり、勢い良くガラスを突き破る。
 警報が建物全体に鳴り響いた。普通の警報とは違う、低く身体の芯まで響いてくるかのような音だった。恐らく、建物の外に警報音が漏れないようになっているのだろう。
 ブラッキーは警報を気にも留めず、一目散に走り出した。人間の足音が聞こえる。話し声を聞けば、彼らが警護にあたっていた組織の人間だと容易に判断できる。足音の主達は、ブラッキーの姿を認めたようで、皆ぞろぞろと後を追いかけていく。
 ブラッキーを囮にする、瑞穂の考えは、彼女の予想以上にうまくいったようだ。出足で躓かなければ、幻惑系の技を得意とするブラッキーが、組織の団員程度の人間に捕まることは無いだろう。あとは適度に時間稼ぎをした後、脱出してくれればいい。
 瑞穂は隠れていたオブジェの影から様子を伺い、誰もいなくなるのを確認すると、静かに建物内部へと潜入した。氷からの情報と幼い頃の記憶を頼りに、瑞穂は誰もいない中央受付を通り抜け、放射線科のすぐ傍にある職員専用階段を降りる。階段を降りた先は機械室になっていた。薄暗い部屋の中で、瑞穂は入組んだパイプの影に身を潜め、氷の言っていた隠し扉の場所を探った。
 黒服に身を包んだ人間が立っているのが見えた。深く帽子を被っており、その顔つきや表情までは読み取れなかったが、逞しく引き締まった身体つきからは判断するに、男性のようだった。研究施設へ続く、隠し扉の警護をしているのだろう。逆に言えば、彼のすぐ近くに、瑞穂の探す隠し扉があるということになる。
 瑞穂はグライガーモンスターボールを握り締め、身構えた。足元に転がっていた拳ほどの大きさのコンクリート片を拾い上げ、警備の男の視線とは反対の方向へ放り投げる。
 コンクリート同士が擦れ、破片が細かく砕ける音が、唸り声のような特有のモーター音に満ちた機械室全体に、不協和音のように響き渡った。
 警備の男は、物音に敏感に反応し、音のした方向へと視線を動かした。携行していた拳銃を取り出し、注意深く破片の落ちた辺りをパイプの隙間から覗き込む。
 瑞穂は男の背後に回りこんだ。小さな足音に気づき、男が反射的に振り返った瞬間を狙い、瑞穂は握り締めていたモンスターボールを男の眼前に掲げ、スイッチを押した。
 閃光がボールから迸り、薄暗い機械室全域を照らした。男は闇に眼を慣らしていたと思われ、両腕で眼を覆い、呻いた。瑞穂は隙をついて男の懐に潜り込むと、グライガーへ指示を出した。
「グラちゃん、嫌な音!」
 グライガーは飛び出した勢いに任せて上空を旋回した後、男の後頭部に張り付き、瑞穂の指示の通り、嫌な音を発した。男は、いまだに何が起こったのか理解できていないようで、しきりに頭に張り付いたグライガーを剥がそうともがく。瑞穂は男の両腕と胴体にしがみ付き、グライガーの発する嫌な音を、聴かせ続けた。
 男は耳元で鳴らされ続ける嫌な音に耐え切れず、気を失って倒れた。瑞穂は注意を払いつつ、予め用意していた穴抜けの紐で、男の身体と口を縛り上げた。
 グライガーをボールに戻し、瑞穂は倒れている男を尻目に、扉に手をかけた。扉は金属製で黒く、重かった。両腕で押し上げるようにして、瑞穂は扉を開き、その先の仄かな明かりを頼りに、部屋の中へと踏み込んだ。
 瑞穂は、それを見た。それは、想像すらしていなかった物体で、瑞穂はしばし呆然とし、無意識の内に口許を抑えていた。それは、少女を、瑞穂をただひたすら、見つめ続けていた。

 

○●

 テレビを消して、静かに部屋の中央に立ち尽くす。何も聞こえない、動きの感じられない部屋の中で、ゆかりは物憂げに窓の外を眺めていた。
 トキワシティ。ゆかりにとって、この街は、育ってきたコガネシティとは比較にならないほどの田舎町に感じられた。それも、ただの田舎町ではない、今まで見てきたどの街よりも、静かで、どこか寂しげな街だった。
 思い過ごし、単なる印象に過ぎないのだろうか。いや、違うと、ゆかりは思った。この街は、殆ど記憶に無いけれども、自分の生まれた街であり、姉の死んだ街。思い過ごしなどではなく、意識の奥底で、この街に、かつてそこにあった混沌に、やさしかった姉の記憶に、怯えている自分がいる。
 三年前、この街で姉が死んだ。正確に言えば、二年前に死んだのだが、ゆかりにとっては、三年前の時点で、姉は死んだも同じだった。
 姉は、姉で無くなっていた。声も違った。顔つきも、何故こうまで歪み、変形してしまっているのか、肉親のゆかりですらも咄嗟に原形が解らないほどに違っていた。
 詳しいことは知らない。部活動の最中に骨折し、ほんの短い期間、入院しただけの筈の姉が、何故こんなになってしまったのか、ゆかりには知る由も無かったし、知ったところで理解も、納得もできなかっただろう。
 忘れようとしていた。姉のことは、束の間の悪夢であり、初めから姉など存在していなかったことにしよう。そう、ゆかりは考えた。そして、ずっと、姉のことは心の奥底に閉じ込めていた。だがそれは、姉に対する裏切りのような気がして、ずっと後ろめたさを感じ続けていた。だから、姉の記憶に、この街そのものに、怯えているのだ。
 姉のことをすべて忘れて、やさしい姉のことをすべて消し去って、姉はきっと怒っているだろうから。この街にいれば、いつか姉の意識が、亡霊が、自分をさらって、同じように、自分を自分で無くしてしまう。自分の意識を侵してしまう。
 ゆかりは、姉の記憶がいつまでも浮遊し続けるこの街を、ただひたすら恐れ、夢に魘された。淀んだ水の中で、皺くちゃにふやけた顔だけを出した姉が、大きな口を開けて自分を飲み込もうとする夢。姉が呆けたような顔で触手を伸ばし、ゆかりの全身の穴という穴へ触手を這わせ、濁った汁を注入する夢。どんな夢にしろ、ゆかりは、姉と同じようにおかしくなってしまう恐怖に駆られ、泣き喚いた。
 結局、ゆかりと両親は、この街を離れ、コガネシティへと引っ越すことになった。住み場所も変わり、時間の経過と共に、ゆかりは姉の存在を消しきった。姉の声も、その笑顔も、自分の頭を撫でる柔らかい指先の感触も、すべて忘れた。ただ唯一、姉がかつて存在したという記録にも近い記憶だけを残して。姉の記憶が薄まっていくのに比例して、夢に魘される事も無くなった。
 だが、姉の死を忘れることの出来なかった、振り切れずにいた父親は、壊れかけた心を酒で充たし始めた。父親はアル中になり、精神病院へと入院させられた。父の姿を見た最後の日、厚いガラス越しに見えた父親の横顔は、姉が死の間際に見せた歪み切った怨嗟とも快楽ともつかぬ表情に酷似していた。ゆかりは戦慄した。姉の亡霊が、父親の魂を捕えて、父親を狂わせてしまったのだと、思わずにはいられなかった。そして、姉の存在を抹消した自分の判断は、間違っていなかったと確信した。
 やがて精神病院での事故によって、父親は死んだ。その父親の記憶も、胸の奥底にしまいこんだ。ずっと、そうやって忘れ続けることで、考えずにいることで、傷ついて壊れることの無いようにしてきた。
「瑞穂お姉ちゃん。なんで、そうまでして、知らなあかんのやろ。忘れたほうが、いいのに。悪いことは、全部」
 長い間、変化に乏しい空を見続け、ゆかりは飽きたのか小さく息を吐くと、脱力したようにソファに倒れこむ。眩しげに眼を擦り、部屋の中を見回す。
 数ヶ月前まで、少女が一人で生活していたとは思えないほどに、瑞穂の部屋は殺風景だった。人形やアクセサリーの類はひとつも見当たらず、生きていく為に最低限必要な家電や食器類が、一箇所にまとめてあるだけで、他には今ゆかりが寝そべっているソファ、そしてテレビと旧式のデスクトップパソコンが置いてあるだけだった。
 部屋の主である瑞穂はいない。三年前の事件のことを調べに行くと言って、数時間前に出かけたきり、まだ帰らない。
 瑞穂は言っていた。自分のせいで、自分の父親のせいで、あの事件が起こってしまったのだ、と。
 ゆかりは、姉の死の原因が、瑞穂にあると言われても、ピンとこなかった。別に、瑞穂が姉を殺したわけではない。本当に悪いのは、実際に姉を殺した奴。姉の点滴に薬物を混ぜた犯人であり、その犯人が何者かの指示で動いたのであれば、指示を出した奴に違いなのだから。瑞穂はただ巻き込まれただけで、もし仮に瑞穂の存在によって、事件が起ってしまったのだとしても、瑞穂は何も悪くない。そうだ、何も悪くは無い。
「そやから、別にお姉ちゃんが責任感じること無いんや。誰も、お姉ちゃんを責めたりせえへんのに」
 ぽつりと、口に出して言ってみてから、ゆかりは不意に胸元に悪寒を覚えた。本当に、そう思っているのか? 自分は、本当に瑞穂を許し、心を開いているのか。いや、違う。許せるとか、許せないとか、そういう問題じゃない。
 洲先瑞穂がいなければ、姉は死なずにすんだ。父親も、母親も弟も死なずにすんだかもしれない。
「それは、違うやろ」
 早口にそう言い、ゆかりはソファに顔を押し付けた。駄目だ。そんな事を考えてはいけない。息苦しさを堪えながら、彼女は小さな掌で柔らかく白い生地を握り締める。
 その時、玄関の方から物音が聞こえた。ドアノブを何度も回している音だ。ゆかりは、勢い良く顔を上げ、涙の滲んだ目尻を二の腕で拭った。
 ゆかりは、瑞穂が帰ってきたのだと考え、ソファから飛び起きると玄関へ走った。瑞穂の顔を見れば、少しは楽になるかもしれない。先程の嫌な考えを、”瑞穂がいなければ、誰も死なずにすんだ”という禁断の言葉を、一刻も早く意識の外へと追いやることが出来るかもしれない。何事も無かったかのように、忘れることが出来るかもしれない。いや、忘れなければいけない。
 ゆかりは裸足のまま玄関に立ち、背伸びをしてドアの覗き穴へ顔をやった。
 紅い光が見えた。ゆかりは、目の前のそれが何があるのかを、咄嗟には理解できなかった。それは、ものではなかった。ゆかりは、眼前に広がっていく真紅の輝きが、自分の発するものであることに気づくことなく、意識を失った。

 

○●

 獣の寝息のような、静かで低い空調の音が、地下に広がる研究施設に響いていた。施設の中は薄暗く、壁に沿うようにして設置されている、人の大きさよりも一回り程大きく透明なカプセルの周りにだけ、仄かな明かりが燈っている。
 部屋に入ると同時に、瑞穂はカプセルの中身を見た。彼女は絶句した。慌てて”それ”から瞳を逸らし、口許に手をやると、胸の奥から込み上げてくる吐気を必死で堪えた。
 下を向き、暫くの間呻くと、瑞穂は自分の認識が間違いであることを、思い違いであることを祈りながら、躊躇いがちに再び視線をカプセルへと戻した。
「そんな──これを、こんなことを、父さんは──」
 人間の身体が、そこにあった。瑞穂と同じかそれよりも少しばかり幼い子供の裸体が、緑色の液体に満たされたカプセルの中に漂っていた。
 体育館ほどの広さはある空間に敷き詰められたカプセルは、百以上はあるだろうか。そのカプセル全てに、人間の身体が浸かっている。
 唇を噛み締め、瑞穂は意を決したように前へと歩き出した。足音を立てないように静かに、部屋の奥まで続いているカプセルの一つ一つを見て回る。
 カプセルの中に漂う人の身体は、死んでいるわけでは無いようだった。緑色の液体が、身体の細胞組織を維持させる為の、培養液か何かの役割を果たしているようで、その証拠に、身体は時折、微かな動きを見せている。だが、そこに意識のようなものは感じられず、眠っているようにも思えない。人間の身体の形をしているだけの、ただの肉の塊。それらは、肉の塊は、ガラスのショーケースの中で、吊るされているようにも見え、瑞穂は食肉加工の工場を連想した。殺された家畜が、脳髄を吸い取られ、皮を剥がされ、内臓やそこに溜まった汚物を掻き出され、血の抜けた肉の塊として、天井から無造作に吊り上げられる光景。瑞穂は服の端を握り締め、再び込み上げてくる吐気を堪えた。
 いずれの裸体も、異様なほどに肌が白く、射水 氷の雪のようなそれを思い起こさせる。また皆、中性的な身体つきをしており、性器が著しく変形している為、性別の特定は出来なかった。他の部位に、損傷や変形の類は見られないことから考えると、性器の変形は何らかのアクシデントの際に、意図しない形で”これら”の個体数が増えることを防止する為に成された処置なのだろうか。とすれば、この場所で”あの身体”にされた射水 氷にも、同様の処置が成されているのだろうか。
 ヒワダタウンで見た氷の裸を瑞穂は思い出してみたが、特に違和感は無かったように思う。ここにある”身体”と、氷の身体には、何の因果関係も無いのか。それとも、氷は別の処置によって個体数を増やせないようになっているのだろうか。
 瑞穂は、氷に教えてもらった通り、カプセルに沿って歩き、隠し扉のあるというロッカーほどの大きさの機械の前に立った。屈みこみ、眼を凝らさないと見えないほどの小さな蓋を指先で持ち上げ、窪みの奥に仕込まれていた釦を押した。
 ロッカーほどの大きさの機械が動き、瑞穂の方へとスライドしてきた。瑞穂は即座に立ち上がり、機械の動きに巻き込まれないように脇へと避けた。その拍子に、瑞穂の掌にカプセルが触れた。生暖かい、だが触れ続けていれば、やがて芯から冷え切ってしまいそうな感触が、指先にこびりつく。瑞穂は指先を舐めていく不快感に、思わず掌を引っ込めようと腕に力を込めた。だが、指先は硬直したまま動かなかった。
 カプセルに反射している自分の顔が見えたから。いや、カプセルの中に溜まった液体が見えたから。透明な緑色の液体の奥で、黒い塊が──恐らく研究装置の類が、うっすらと覗いたから。
 かつて夢で見た、夢であった筈の光景が、瑞穂の脳裏を掠めていった。封印されていた記憶。あまりにも欠落していた部分が多すぎて、自分でも夢であると信じて疑わなかった記憶。
 生温いようで冷たい液体に全身を犯されているかのような不快感。瞳を開けば、きまってそこに広がる、緑色の視界。視界の奥で動いている黒い塊と、時折チラリと横切っていく人影。指を伸ばしても、すぐにそれを遮ってしまう、見えない障壁。その障壁になされている小さな刻印。
「ナンバー、セブン」
 瑞穂は、震えを帯びた声で呟いた。背中に冷たい汗が滲んでくるのを、はっきりと認識できる。カプセルからゆっくりと離した指先は、微かに痙攣している。
 動いていた機械が停止した。扉は、開いた。瑞穂は息を呑み、扉の奥へと足を踏み入れる。長い間、誰からも隠されていた部屋は仄暗く、侵し難い静寂に包まれていた。歩くたびに、埃が舞い、瑞穂は二の腕で口許を覆いつつ、前へと進んだ。
 腰に、何かがぶつかった。続いて、何かが床に落ちる音が部屋に響いた。瑞穂は咄嗟に身構え、目を凝らして、それを見つめた。机だった。床に落ちたのは、小型のメモリー素子だったようで、落ちた拍子にスイッチが入ったのか、微かな電子音を鳴らし始めていた。
 不意に、水の揺れる音が聞こえた。瑞穂は、顔を上げた。小さな身体の入った、緑色のカプセル。暗闇のせいで、中身まではすぐに確認できないが、恐らく先ほどと同じように”身体”が漂っているのだろう。瑞穂は目を見開き、カプセルの周辺と、その中身を凝視した。
「これは──」
 よく見れば、カプセルは1つだけでは無かった。7つのカプセルが、整然と並んでいた。瑞穂は胸元を締め付けられるような、心が砂地獄のような窪みに嵌ってしまったかのような、強い焦燥と悪寒とを感じつつ、右側のカプセルから順に、中身を凝視していった。
 1つ目のカプセルには、小さな肉片が漂っているだけだった。だが、ただの肉片ではなかった。脳だ。充血したように鮮やかなピンク色をした小さな脳と、それに絡まる蜘蛛の巣のような僅かな神経組織だけが、緑色の培養液の中を、メノクラゲのように漂っている。
 涙が、溢れてきた。これは、何だ。瑞穂は次第に、自分が錯乱しかけていることに気づいた。いや、違う。既に錯乱している。ずっと、ずっと昔から。何も知らずにいた事自体が、既に錯乱しているのと同じことだったのだ。いや、違う、違う。何も知らなかったのでは無く。それを、忘れさせられていた。忘れていなければ、意味の無いことだったから。
 小刻みに震えてくる指先。瑞穂は掌で服の端を握り締め、2つ目のカプセルへと逃げるように視線を動かした。黒い物が見えた。辛うじて人の形を保っている、焼け爛れた漆黒の屍体が、突っ伏す様に沈んでいた。屍体は子供ほどの大きさだった。頭皮に僅かにこびり付いた長い髪だけが、かつて人間だった頃の、人間の形をしていた頃の名残として残っている。
 3つ目のカプセルは砕け散っていた。4つ目と5つ目のカプセルは、緑色の液体がゆっくりと流動しているだけで、いずれも中身は見当たらない。
 何も無かった事に胸を撫で下ろしつつ、6つ目のカプセルの中身を、瑞穂は見た。
 瑞穂は音を聴いた。硝子の擦れる音に似ていた。音は静寂を壊し、天井や壁にこびり付いていた埃や黴の類が一斉に震え、ぽろぽろと崩れていく。
 それが自分の悲鳴だと気づくことも出来ず、瑞穂はただ後ずさり、机にもたれて、ひたすら6つ目のカプセルの中身を凝視し続けた。
「これが──この人が──」
 悲鳴のあとに続いた言葉は、酷く震え、掠れていた。
 屍体だった。カプセルの中に漂っていたのは、それまでの意思の無い身体や、グロテスクな破片とも違う、かつて生きていたと思われる、人間の形を保ったままの屍体だった。
 屍体は見慣れていた。見慣れすぎて、屍体を見ただけでは、少し胸元が冷たく締め付けられるような感覚を覚えるだけになってしまった。だがそれは、ただの屍体では無かった。少女が、初めて見る類の屍体だった。
 低く篭った電子音が、悲鳴の残響が残る部屋に重たく静かに鳴り始めた。机から落ちて電源の入ったメモリー素子から、音は響いていた。
「お父さん、の声?」
 メモリー素子から聞こえてくるのは、紛れも無い父親の声、洲先祐司の録音された声だった。足元から凍ってくるような、絶望にも似た感覚の中で、瑞穂は搾り出すように呟いた。
「お父さん、これは、この人は何? どうしてここに、この人が、”私が”、いるの?」
 父親の声は、娘の必死の問いかけに応えることなく訥々と、録音されている通りに、続いていく。瑞穂は僅かに、床に転がったメモリー素子に視線を向け、そしてまたカプセルの中へと、意思も無く漂う屍体へと戻す。
 紙のように漂白されたように白く、色の無い肌。極端に細い、幼い身体。濁った哀しげな瞳。不自然な方向に曲がっている首。その首筋に僅かに見えるのは、索条痕。
 ”洲先瑞穂”だった。幼い少女の屍体、洲先瑞穂の屍体が、緑色のカプセルの中で、惨めに漂っている。
 全身が痙攣しそうになるのを堪えつつ、瑞穂は父親の言葉に耳を傾けた。言葉の内容から推測すると、メモリー素子に録音されているのは父親自身の肉声日記のようだった。
 日記の内容を聞きながら、瑞穂は僅かに幼い自分の屍体を、その瞳を見続けた。いや、眼を逸らすことが出来なかった。錯乱しきった意識の中、僅かに残った覚めた部分で、瑞穂は考えていた。
 少女の、いや”別に存在していた私”の、安らかで、しかし悲哀に満ちた瞳は、死の間際、何を見たのだろうか、と。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。