水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-3

#14 愛憎。
  3.途切れた螺旋

 

 氷の抜け道を北に抜けた先に、ジョウト最北端の小さな街、シマナミタウンはあった。
 だが、今は何もない。人も建物も見えず、誰の声も聞こえない。焼け焦げた瓦礫や屍体の跡を隠そうとするかのように、色のない雪が一面を覆い尽くしているだけだった。
 氷は無言を貫いていた。何も言わずに、歩きにくい雪の上を一歩一歩踏みしめるようにして歩いていた。そんな氷の冷たい気迫に圧倒されたのか、後ろからついて歩くミルとゆかりも押し黙っている。
 5分ほど歩いただろうか。氷は前触れもなく立ち止まると、洞窟を抜けてから初めて口を開いた。
「ここが組織の地下アジトへの侵入口――そして、私の父さんと母さんのお墓」
 少女は視線を地面へ向けた。反射する雪の光が、物憂げな少女の横顔をさらに白く照らした。降り積もった雪の奥深くに微かに、大きな皿のような物体が見える。マンホールの蓋のようだと、ゆかりは思った。
「お墓って、どういうことさ?」
 ミルは眩い光を遮るようにして掌を翳し、氷へと問いかけた。
「ここは、私の生まれた街だった。でも、今は何も残ってない。5年前に組織がやってきて、街を焼いて、街の人を殺して埋めた。雪崩で街が消えたように見せかけた。何処に誰が埋まっているのかも解らない。だから、ここを母さんと父さんのお墓に決めた」
「え――?」
 ミルは戸惑いを隠せずに、声を漏らした。みんな殺されて、埋められた? 街が焼かれたって、それって――
 眼の辺りを覆っている指の間隔を少しだけ開き、ミルは掌の隙間から氷の口許を見やった。
「何で? どうして、あいつら、そんなことをしたのさ」
「ここの地下に自分達のアジトを建てるために、この街は邪魔だった。この侵入口は、昔の街の下水道の名残。組織の人間はここから侵入できることに気付かなかったみたいだけど」
「邪魔だったからって何それ、非道い――そんな理由で、みんな殺しちゃうなんて、何考えてるのさ、あいつら」
 ミルは自分が傷つけられたかのように、痛そうに顔を歪めた。氷は相変わらず無表情のまま、しゃがみ込んで雪の中に手を入れ、何かを探し始めた。
「でも、それが組織のやり方。そして、あの男のやり方」
 無感情で他人事のような呟きだった。感情の入り込む余地のない口調だった。
 ミルは、表情を動かすこともなく訥々と話し続ける氷を凝視した。彼女が何を考えているのか解らなかった。たとえ説明を受けたとしても、理解できそうに無いなと思った。それほどに氷の冷静すぎる性格は、そして感情が表に出ることのない、仮面のように凍りついた表情は、ミルにとって捉えがたいものだった。
「あのさ、私も氷ちゃんと似たような境遇って言うか、その、あれかな、そんな感じなんだけどさ」
 ミルは頭を掻きながら、言いにくそうに氷へと話しかけた。氷は瞳だけを泳がすように動かして、ミルを見やった。睨まれたような気がして、ミルは微かに背中を仰け反らせた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるのさ。あたしだったら我慢できないよ。そりゃ、ずっと悲しんでるのもあれだと思うけど、氷ちゃんは何だか、話し方が他人事みたいっていうかさ。なんて言うか、冷たくない? 全体的に」
 氷は雪の中から、トランシーバーのような小さな機械を取りだした。表のパネルについているボタンを操作し、小さく呟いた。
「法柿の言った通り。あとは――」
「ちょっと、質問に答えてよ!」
「私は――」氷は機械を操る手を止めて俯いた。
「自分のことだけで精一杯だから。昔のことなんて思い出している余裕は無い。それに私はもう人間じゃないから、人間としての感情は死んでいるのかもしれない」
「人間じゃない? やっぱりわかんないや。どう見たって人間でしょ? そりゃ、友達できなさそうな性格だけどさ」
 ミルの言葉を無視し、氷は白い指先で巧みに機械を操作した。暫くして、小さな音が一瞬だけ鳴った。氷は立ち上がると遠くを見据え、眼を細めた。視線の先にあるのは、近づいてくる人影。白い雪の眩しさでよく見えないが、サングラスをかけた男だということだけは確認できた。
「誰なん? あれ」不安げに氷に寄り添い、ゆかりは訊いた。
「法柿よ。私が組織から逃げるときに協力してくれた男。ここで、待ち合わせをしていたの」
 サングラスの男、法柿は軽く手を挙げ、親しげに氷へと話しかけた。
「久しぶりだな氷。で、後ろの2人は誰だ?」
「あの娘の――瑞穂ちゃんの知り合い。それより瑞穂ちゃんは、無事なの?」
「ああ、暫くは大丈夫だ。あの女、喋りだしたら止まらないからな」
 氷は眼を細めた。微かに口の端がひきつっているのをミルは見逃さなかった。出会ってから初めて、ほんの少しでも氷が感情を剥き出しにした瞬間だったから。先程までの淡々とした口調も、刺々しいものへと変わっていた。
「昔と変わってない。進歩の無い女ね」
 突き刺すような鋭い瞳で、氷は手にした機械へ視線を落とし、再びボタンを操作した。ミルとゆかりも戸惑いながら、恐る恐る覗き込む。
「瑞穂お姉ちゃんの声が聞こえる――」
 ゆかりは神経を研ぎ澄ますようにして目をつむった。小さく雑音も混じってはいたが、確かに瑞穂の声が機械から聞こえてくる。誰かと話をしているようだが、話の内容までは聞き取ることができなかった。
 法柿は、ずれかけたサングラスを指で押した。
「氷が組織を抜け出す作戦の為に設置した通信機だ。あの女なら、間違いなく瑞穂って女の子をあの牢獄に連れ込むだろうからな。そのままにしておいて良かった」
「そうね。これで、あの娘の居場所は解った。あとは――」
 氷は腰につけたモンスターボールから、エーフィを繰り出した。静かな口調で、指示を出す。
「場所を伝えて。タイミングは、通信機から私が指示する」
 エーフィはしなやかに頷き、紫色の瞳を妖しく光らせた。誰かに何かをテレパシーで伝えているようだった。
「さて――」氷はエーフィを戻し、法柿とミル達へ向き直った。
「私達は今の内に、ここの地下にある組織に潜入する。まずは、恐らく隔離されているであろう瑞穂ちゃんのポケモン達を見つけること。そして、瑞穂ちゃんを助けだす」
「お姉ちゃんを助けるのが先やろ?」
 ゆかりは不満げに眉を潜めた。
「まぁ、待て」法柿は制した「すぐに助けに行っても、手持ちのポケモンがいない状態じゃ、かえってその女の子が危険だ」
「そやけど、早くせえへんと、お姉ちゃん殺されてしまうやん」
「大丈夫よ――大丈夫」
 氷の言葉に、ゆかりは顔を上げた。鈴の音のような小さな呟きだったが、芯の通った声だった。気のせいだろうか、とゆかりは呆然と氷の目を見つめた。さっきの声、瑞穂お姉ちゃんの声みたいやった。弱々しいけど、なんだか頼りになる、あの声にそっくり。
「そろそろね」
 呟くと、氷は機械の横についている目盛りを調節した。上部のランプが赤く点滅した。機械から発せられる瑞穂の声が大きくなる。何かを叫んでいる。と同時にあの女の、一位カヤの笑っているかのような金切り声が響いた。
 少女の白い手に、青く太い血管が浮き出た。手が震えるほどに機械を強く握り締めている。睨み付けるような瞳は突き刺す針のように細く、その視線はただ一点に、手にした機械でもその下に広がる雪でもなく、記憶の中にぺったりと張り付いた一位カヤへのみ注がれていた。
 ミルは突然膨れ上がった氷の憎悪に、思わず視線を外した。得体の知れない嫌悪感が背筋を襲い、彼女は締めつけられるような意識の中で、知らず知らずのうちに歯を食い縛っていた。
 氷は通信機のボリュームを最大限に上げた。そして言葉を発した。
 銃声が、機械を通して雪の大地に轟いた。

 

○●

 冷たく閉ざされた牢獄に、銃声が響いた。だが、瑞穂の眼前に見えるのは、火を噴く銃口でも、カヤの興奮に歪みきった表情でもなかった。
 激しく土煙が舞っていた。コンクリートの床がひび割れ、同時に地面から何か長いものが突き出ていた。
 瑞穂は大きく目を見開いた。少女は、自分が今見ているものを、自分の目を疑った。土煙のために狭くなった視界を、紫色の鋭い刃が横切った。何処かで見た記憶がある色だった。妖しく、それでいて哀しみに溢れた紫色の髪。表情の見えない、仮面のような少女の眼差しが、氷の呟きのような言葉が甦った。それと同じもののような、良く似た紫の色。
「ポイズンテール――!」
 視界に残った紫の残像とまったく同じように、瑞穂の耳に木霊する氷の言葉。少女は全身の痛みを堪えて身を乗り出し、辺りを見回した。氷の声は何故、何処から聞こえたのか、誰に指示を出したのか。
 ひび割れたコンクリートの床に何かが落ち、鋭く重い音が沈黙の中で反響した。見開かれた瑞穂の瞳は、即座に音のする方へと動いた。床に転がっていたのは、カヤの手にしていた銃だった。紫の刃によって弾き飛ばされ、拳銃は瑞穂の頭上で、誰もいない天井へ向けて火を放っていたのだ。
 拳銃の存在に気付くと同時に、黒いそれは真っ二つに割れた。断面は、強い酸を浴びたかのように溶けていた。細く今にも消え入りそうな煙の昇る銃口から、先程見た刃とまったく同じ色の、紫の毒液が流れ出ている。
 身体が軽くなった。手足を縛っていた鎖が切れていた。支えを失った瑞穂は、疲労と痛みからかそのままコンクリートの冷たい床へと投げ出された。白く細い胸が、冷たい床に押しつけられる。床を転がっていく鎖の破片は、カヤの拳銃と同様に断面が溶けていた。
 脱力したかのように大きく息を吐き、瑞穂は顔を上げた。目の前にいるのは、巨大な蛇の形をしたポケモンだった。
ハブネーク?」
 瑞穂は問いかけるように呟いた。口には鋭い牙、尻尾には鋭い刃を持ち、全身に稲妻のような紫の模様が浮かんでいる。牙蛇ポケモンハブネークである。それもただのハブネークではなく、通常よりも一回り程大きい。全長は三メートル半はあるだろうか。
「瑞穂ちゃん、聞こえる? 私よ――」
 再び、氷の声が牢獄に響いた。
「氷ちゃん? どうして、氷ちゃんの声が?」
 氷の声が聞こえる方向へ、瑞穂は視線を移した。鉄格子。その隙間にビー玉ほどの大きさの黒い玉が挟まっていた。黒い玉は氷の小さな声に呼応して、微かに赤い点滅を繰り返している。
「通信機か!」
 瑞穂よりも一足早く通信機の存在に気付き、カヤは忌々しげに吐き捨てた。鋭い歯軋りの音。先程までの笑みは既に無く、楽しい遊びを突然邪魔された子供のように、下唇を噛みしめている。
「私の話を聞いて――」氷は続けた。
「まずは部屋から脱出して。長い廊下の先に階段がある。それを昇って、後は私のハブネークがついていくだけでいい。この子は私の居場所を感知できるから」
「う、うん――よ、よろしく、ハブちゃん?」
 痛みを堪えつつ、なんとか起きあがると、瑞穂はハブネークの巨体を見上げた。見下すように冷たいハブネークの瞳は、氷のそれと似ていた。勝手な愛称を付けるな、とでも言いたげに瑞穂を睨んでいる。
「待ちなさい!」
 両手を広げて土煙を振り払い、カヤは叫んだ。言葉の矛先は、脱出しようと身構える瑞穂ではなく、通信機を介して聞こえる氷の声へと向けられていた。興奮で上擦る声。瑞穂のことなど、既に眼中に無いようだった。
「帰ってきたのね? やっと、帰ってきたのね」
 氷は応えなかった。代わりに通信機から聞こえるのは、何かの擦れるような音。通信機を力の限り、怒りに耐えきれずに握り締める音。
「は、ハブちゃん! えーと――」
 瑞穂はハブネークへの指示を考えた。自分のポケモンでは無い為に、使える技を把握できていない上、あまり高度な指示を出すこともできないのだ。
「黒い霧とか、できる?」
 当然だ、と言わんばかりの勢いでハブネークは口を開き、黒い霧を散布した。黒い霧は瞬時に部屋全体を薄く満たし、カヤの視界を遮った。
「どうして無視するの、氷。私のことが、まだ恐いの?」
 黒い霧に包まれながら、狭まっていく視界を気にする様子も見せず、カヤはただ言葉を吐き出し続けていた。まだ恐いの? 可哀想な娘ね。本当に可哀想で、惨めで、可愛い化け物ね。
 止めどなく紡ぎ出されるカヤの言葉に、瑞穂はチラリと横目で女の姿を見やった。女の姿は次第に濃くなっていく霧に阻まれて見えなかった。声だけが聞こえた。それよりも大きく、氷の震えるような呻きが漏れていた。
「ハブちゃん、ポイズンテールで鉄格子を切って!」
 言われるまでもない。鼻を鳴らすような独特の鳴き声と同時に、ハブネークは尻尾の刃で鉄格子を切り刻んだ。
 その瞬間、カヤの瞳が、瞳だけに意志があるかのようにぐいと動いた。片手だけが反射的に跳ね上がる。無意識に握り締められたモンスターボール。力が抜けるように手を離す。ボールが地面に触れる。それと同時に、稲妻が一直線に瑞穂へと走った。
「氷が帰ってきたから、あの娘はもういらない。ライチュウ、処分しておいてね」
 黒い霧の中で、激しい光がバヂバヂと音をたてながら迸った。床に転がっている鉄格子の破片がスパークする音。誰もいない。電撃の触れる寸前に、瑞穂達は部屋から飛び出していた。
「先に行って、殺しておいて。私は氷を捜す。私は氷と一緒に居たい」
 通信機の先を、そこにいるであろう氷の姿の一点のみを見据えながら、カヤは呟いた。興奮を抑えきれないのか、肩が小刻みに震えている。
「今、何処にいるの?」
「焦らなくても――」
 氷が初めて、カヤへと呟いた。感情を抑えているかのような、上擦った声だった。時折こぼれる雑音は、少女の歯軋りか、通信機を握り締める音か。
「すぐに会える。私は、もう逃げはしないし、隠れもしない。お前を恐いとも思わない。ハブネークの――あの子の向かう先に私は待ってるから、決着をつけよう」
 ドサ、という篭もった音が通信機を通して響いた。少女の手にしていた通信機が、雪の中へ落ちた音だった。通信機は暫く、沈黙しきった牢獄の中で不明瞭な雑音を発していたが、唐突に、太い糸が断ち切られる時のような音と同時に途切れた。ブツリと。
 沈黙は長くは保たなかった。カヤの堪えるような笑い声が鉄格子の欠片に反響した。とても楽しそうな、獣の鳴くような声が。

 

○●

 湿った床が断続的に、小刻みに足音を奏でた。長く続く階段を登り切り、色褪せた照明の中で立ち止まると、瑞穂は、闇を流し込んだように薄暗い階下を見下ろした。小さな掌で胸元を押さえる。紅潮する頬には、緊張と恐怖から冷たい汗が滲んでいる。
「追ってこない。一体、どうして――」
 逃げるとき咄嗟に拾い上げた、自分の下着と衣服を身に着けながら、瑞穂は呟いた。階下に見えるのは何もなく、不気味な静寂だけが底に溜まっている。
 沈黙を掻き消すかのように、ハブネークが鋭く鳴いた。瑞穂は驚いて、背後に佇むハブネークの方へと振り向いた。立ち止まるな! 叫んでいる様子でもあり、何かを知らせようとしているようにも取れた。
 瑞穂は無言のまま、小さく頷き返した。わかってる、先を急ごう。ハブネークに導かれるままに、薄暗く狭い通路を歩いた。
 暫く歩いた後、ハブネークは立ち止まり、首を擡げ、鋭い瞳をその凶暴な顔ごと、すぐ側のドアへと向けた。ポイズンテールが空を斬った。それは彼の低い呻き声とほぼ同時で、側にあるドアは毒液と衝撃波に吹き飛ばされた。彼はさらに顎を上げ、睨むような冷たい視線を、部屋の中へと注いだ。
「その部屋に、何かあるの?」
 ハブネークは微動だにせず、ただ一方向を見続けている。瑞穂は小首を傾げ、恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。
 白い物が見えた。骨だった。白骨化した屍体が、無数の屍体が、人間、ポケモンを問わず積み上げられていた。上の方に積まれている屍体は比較的新しく、黒々と腐った肉を纏い、腐臭を放っている。下の方の屍体は、粉々に砕けており、原形を想像することすらできなかった。
 瑞穂は絶句した。微かに漂ってくる腐臭を堪えながら、夥しい数の屍体を見据えた。首が顔が眼球が、身体のすべてが固定されたかのように動かなかった。
 バネで弾かれたように少女は部屋を飛び出し、冷たい壁にもたれ掛かった。
 ただの屍体ではなかった。ただの屍体なら、ここまで動揺することは無かった。病気で死んだにしろ、殺されたにしろ、悲しいことだが見慣れている。非道いと思っても、憤りを感じても、そこで思考は止まる。それ以上前へ進むことはない。
 喰われていた。食べられていた。鋭い牙の痕が、白骨化した小さな頭に、頭蓋に残っていた。所々、虫食い状に穴のあいた屍体もあった。下半身のちぎれた屍体が見えた。喰われている。誰に――誰が食べた?
 思考は、踏み入れてはならない領域へ及んだ。想像してしまった。瑞穂の脳裏を、少女の呟きの言葉が掠めた。”私は人間では無いのだから”
「氷ちゃんの食べたあと――」
 次の瞬間、鋭い電撃が瑞穂を襲った。瑞穂は咄嗟に電撃を避けた。電撃は部屋の中で炸裂し、屍体の山を粉みじんに吹き飛ばした。生臭い埃が、狭い通路に充満した。
「今の電撃は!?」
 瑞穂は片腕で眼を覆いながら、土煙の奥を凝視した。赤い光が見えた。閃光と言ってもいいくらいの点滅が一頻り起こり、やがてぼんやりと二つの点が、真っ赤に光る二つの瞳が浮かび上がった。
 不気味な既視感を感じた。瑞穂は背筋が瞬時に冷えるのを感じた。異質な気配に、身構えるハブネークの瞳にも緊張が見てとれた。
 電撃が、第二波が舞い上がる埃を弾くようにして迸った。瑞穂は後ずさり、ポーチの中を探った。だが、モンスターボールは無かった。ボールだけは別の場所に、他の管理下に置かれているのだろうか。
 鋭い電撃は衝撃波を発した。ハブネークは衝撃波に吹き飛ばされた。紫色の巨躯は全身をピンと伸ばし、空中で姿勢を変えた。
 瑞穂の視線が、頭上を通り過ぎるハブネークを捉えた。掌を振り、眼前に舞っている埃を振り払うと、瑞穂は叫んだ。
「ハブちゃん! 天井にポイズンテール!」
 ハブネークは尻尾の刃を天井に突き刺した。反動で振り子のように大きく揺れながらも、ハブネークは上体を仰け反らせ、電撃を放った相手の方を睨み付けた。
 再び鮮やかな点滅が、真っ赤な瞬きが見えた。鎮まっていく埃の渦の先に、茶色の小さな身体が見えた。音がする。空中放電された電気が、空気中の塵に触れてスパークする音が。
ライチュウ――まさか」
 大きな鼠の姿をしたポケモンだった。頬から放電される青白い電撃が、全身を這うようにして流れている。その丸い瞳は真紅に染まり、不気味な点滅を繰り返していた。
「この真っ赤な瞳は、イグゾルト――」
 ライチュウの煌々と輝く瞳を食い入るように見つめ、瑞穂は愕然と呟いた。ラジオ塔のような大規模な施設でなければ、特殊電波の発信はできない。極小の特殊電波発生装置を脳内に埋め込まれた、疑似ex――イグゾルト以外には考えられなかった。
 反動を付け、ハブネークは天井を振り切ると、ライチュウへ向かってポイズンテールを振り下ろした。刃はライチュウの残像を掠め、床を粉砕した。
 ライチュウは真紅の瞳を爛々と輝かせ、ハブネークの胴体にしがみついた。眩い電撃が迸る。ハブネークは悲痛な呻きを上げ、胴体を捻ると、身体に張り付くようにして抱きついているライチュウを振り払うように刃振るった。
 茶色の身体が跳び上がる。ポイズンテールを避け、ライチュウは空中で身体を回転させると、10万ボルトを地上へ向けて撃ち放った。
 コンクリートの床が、まるで脆いガラスのようにひび割れ、砕けた。電磁波が壁を鑢のように削ぎ落としていく。瑞穂とハブネークは咄嗟に身を屈め、防御の姿勢をとった。
 通常では考えられない威力の10万ボルトだった。普通の10倍程度の電圧で無ければ、此程の破壊を行うことはできないだろう。
「電圧が通常の10倍。それが、このライチュウの能力」
 瑞穂は呟きながら、ハブネークの様子を伺った。電撃に痺れて、動けないでいる。苦しそうな表情を動かさずに、その場で蹲っている。
「ハブちゃん。大丈夫?」
 ハブネークは応えなかった。微動だにしない。瑞穂は彼の身体に触れた。足下が微かに震えた。少女は軽く唇を噛みしめ、背後に降り立つライチュウの気配を肌で感じた。
 ライチュウは電撃を放ちながら着地した。着地と同時に瞳が妖しく、紅く光った。獲物を見つけた狩人のように鋭く、研ぎ澄まされた表情は、狡猾そのもののように歪んでいた。
 真紅の瞳が、一段と輝きを増した。ライチュウは電光石火の勢いで、瑞穂へと肉薄した。不意に、丸っこい顔から微笑みが浮かび上がった。頬に青白い電撃が漲り、それは瑞穂の頭部を目がけて放たれた。
「今だよ! ハブちゃん!」
 瑞穂は跳び上がった。同時に地面が盛り上がり、ポイズンテールが伸びた。ライチュウは驚いたように目を見開いた。真紅の輝きが、彼の表情いっぱいに広がっている。眼前にあるハブネークは本物では無かった。脱皮した後の、中身のない抜け殻だったのだ。
 ライチュウは頭から抜け殻へと突っ込んだ。その隙をつき、狙い澄ましたかのように、ポイズンテールはライチュウの横腹を斬りつけた。ライチュウは反動で抜け殻とともに壁に叩きつけられた。抜け殻はバラバラに崩れ落ち、ライチュウは甲高い呻きを上げた。
 瑞穂は着地し、即座にライチュウの方へと振り向いた。ライチュウは気を失っているようだった。閉じた瞳からは真紅の色は消えていた。それを確かめると同時に、瑞穂は安堵の溜息を漏らした。胸を撫で下ろす。
「良かった。ハブちゃんが、機転を効かせて地面に潜ってくれたお陰で助かったよ。それも、わざわざライチュウの注意をそらすために、脱皮した抜け殻を残してたなんて」
 ハブネークは軽く鼻を鳴らし、瑞穂から眼をそらした。照れているのか、その口許には薄い微笑が感じられた。彼も瑞穂と同じく、安堵しているかのように思えた。
「それにしても――」瑞穂は呟きながら振り返ると、壁に打ちつけられて気絶しているライチュウを見やった。
「あのライチュウ、イグゾルトだった。ここまで実用化が進んでるなんて」
 でも――と瑞穂は考えた。確かにあのライチュウは、普通のライチュウと比べて強い。だが、通常の何倍もの大きさとパワーを誇ったカイリューや、人間が炭化するほどの桁外れな電撃を放っていたエレブーのようなex特性体と比べて、いや、同じ理論で、人工的にex特性を保つイグゾルト、ナゾノクサハッサムと比べても、ライチュウの力は劣っているように感じた。
 オリジナルと呼べる存在でもあり、非常に稀な存在であるex特性体より劣っているのはまだしも、同じイグゾルトより劣っているのは、不自然だった。
 瑞穂はハブネークの長い巨躯を眺めた。少しだけ大きいが、普通のポケモンである。機転が効き頭も良いが、exのような特殊能力を持っているようには見えない。
「ナゾちゃんや、あのハッサムよりも強くない。どういう事だろう」
 その時、金切り声が響いた。瑞穂は即座に振り返った。ライチュウが眼を見開いていた。叫んでいる。瞳は鮮烈な、灼けるような赤色で点滅している。彼の瞳の色と相反するかのように澱んだ赤が、瑞穂の眼に前に散っている。
 鮮血だった。首筋を掻き斬られていた。瑞穂は鮮血の迸る先に蠢く影に気付いた。目を凝らすと、そこに浮かび上がったのは、サンドパンの姿だった。両腕には、鮮血に染まった鋭い爪。さらにその先端には、ライチュウの首筋を掻き斬ったときに付いたと思しき肉片がこびり着いていた。
「案内、ごくろうさま」
 酷薄なカヤの声がした。同時にライチュウは、今にも張り裂けそうなほどに、破裂してしまいそうなほどに眼を剥き出した。サンドパンは、布に針を通すよりも簡単に、瞬時に、長く鋭い爪をライチュウの腹へと刺し込んだ。
「使えないわね。量産型だかなんだか知らないけれど、あんなハブネークにやられるなんて。もっと、もっと、強くなるかと思ったのに。所詮は紛い物、本物のexが欲しいわ」
「どうして、ライチュウを、自分のポケモンを傷つけるんですか!」
 鮮血のシャワーの奥に居るであろうカヤへ向かって、瑞穂は叫んだ。歯を食いしばり、睨み付けながらカヤを問いつめた。
「使えないから。強くなるって聞いたから量産型リリィってのを脳みそに植えたのに、かえって融通が利かなくなったからね。ついでに、あんたも殺せる」
「私を、殺せる?」
「普通の十倍もの電圧の電撃を溜めたライチュウが、死ぬときのショックで一気に放電したらどうなると思う?」
 瑞穂の背筋を冷たい汗が伝った。息を呑み、次第に薄れていく鮮血のシャワーの先へと視線を戻した。サンドパンは爪を引き抜き、血塗れの身体を煩わしげに捩ると、素早く地面へと潜った。ぽつんと残されたライチュウの眼は血走っている。不規則な呼吸が小刻みになり、やがて痙攣を起こした。甲高い泣き声が、パンと弾けて消えた。次の瞬間、彼の頭は、目玉は、膨れ上がる青白い電撃に突き破られるようにして破裂した。
 光が集中した。青白い電撃の塊を中心に、光が吸い込まれた。ハブネークは長い身体で、瑞穂の周りを庇うように覆った。眩い閃光の中で、瑞穂は思わず目をつむり、両腕の中に顔を埋めた。
 爆発した。ライチュウの小さな身体が。衝撃波と共に、猛烈な電撃波が辺り一面を飲み込んだ。鋭い痛みが瑞穂の全身を這い、駆けた。少女は痛みを堪え、目を開いた。目の前にいる筈のハブネークの姿も、カヤの姿も見えず、真っ白な、空白の景色が広がっていた。

 

○●

 ハブネークの鱗が頬に触れた。硬くて、冷たい鱗だった。彼の吐息が、耳のすぐ側から聞こえる。
 水が布に染み込むように、徐々に感覚が甦ってきた。背中を暖かい何かが包んでいる。誰かが、必死に抱きついてきている。背中の誰かは力を強めた。意識が、それまで麻痺していた感情が、胸に溢れた。
「お姉ちゃん」それは呟いた。半分泣いていた。
「また非道い目に遭ってもうたな。そやけど、もう大丈夫や。みんな来てくれたで。みんな、お姉ちゃんのこと、心配してたで。やっぱりお姉ちゃんは、リンちゃんと一緒にいるのが一番お似合いや」
 充満した土煙に咽せながら、ゆかりは辿々しく囁いた。瑞穂の背中にしっかとしがみつき、無邪気に笑いかけている。
「ユユちゃん――それに、リンちゃんも」
 太い足が見えた。力強い腕が見えた。リングマの茶色の巨体が、彼の厚く暖かい胸が、瑞穂の小さく華奢な身体を、その周りにいるハブネークごと抱きかかえていた。
 リングマの背中から煙が立ち上るのが見えた。瑞穂は驚くと同時に、彼が爆発から自分を守ってくれたのだと悟った。不意に胸が締めつけられた。
「リンちゃん、大丈夫? 私のせいで」
 大丈夫だよ、と彼は応えた。それに、姉さんのせいじゃないよ。あいつが――
 胸に抱きかかえた瑞穂をゆっくりと地面に降ろし、リングマは背後の、閑散とした通路の奥に立っているカヤを睨み付けた。爆発の余波に煽られた土煙の中で、カヤは軽く舌打ちしていた。
 あいつが全部悪いよ。姉さんに非道いことばかりして。僕は、許せない。
「瑞穂ちゃん、大丈夫だった? 何とか間に合ったけど」
 瑞穂の肩に手をかけ、ミルがゆかりの肩越しに話しかけた。
「大丈夫だよ。リンちゃんが、みんなが助けてくれたから。ありがとう」
「ほんとに心配したよ。いきなり変な飛行機に連れて行かれるもんだからさ」
 大きな溜息をし、ミルは笑顔をつくった。胸元に光る宝玉が、彼女の心の動揺に同調するかのようにカラカラと音をたてて左右に振れている。
「と言っても、私は何にもできなかったけどさ。あの娘のおかげだよ」
 ミルの指し示す先に、射水 氷は立っていた。相変わらずの無表情のまま、白い顔を微かに傾け、氷は瑞穂の方を見やった。
「巻き込んでしまって、ごめん」
「別に、氷ちゃんが謝ること無いよ」
 瑞穂は、予期せぬ氷の言葉にたじろいだ。
「私が狙われた原因は、前に氷ちゃんも私に訊いてたよね、3年前の事件のことで、氷ちゃんとは関係ないから」
「解ってる。勿論、3年前の事件は無関係じゃない。でも、それだけじゃない。あの女が、瑞穂ちゃんを浚った本当の理由は」
 あれほど勢い良く渦巻いていた土煙が止んだ。氷は目を細め顔を上げ、睨み付けた。沈黙しきった通路の先で微笑を浮かべている、カヤの姿を。
「お帰りなさい、氷」カヤは言った。
「囮の効果は抜群だったみたいね」
「瑞穂ちゃんを囮にしなくても、私は戻ってくるつもりだった。私は、そこまで臆病じゃない」
 氷は敢えて”帰ってきた”という表現を使わなかった。
 呆然と立ち尽くしている瑞穂とリングマを一瞥し、氷は倒れているハブネークへと歩み寄った。疲れ切って動けないでいるハブネークの額を優しく撫でる。ハブネークは氷の姿を認めると、子供っぽく舌を出し、嬉しそうに口許を綻ばせた。氷に対するハブネークの態度は、瑞穂と一緒にいたときとは対照的だった。
「お疲れさま」氷はハブネークをボールへと戻した。
 モンスターボールを腰のベルトにしまい、氷は同じベルトに収められている拳銃を握り締めると、黒光りする銃口をカヤへと向けた。レーザーサイトのポインタがカヤの眉間に映るのを確認し、トリガーに指をかける。
「そんな冗談みたいな銃で、私を殺せるとでも?」
 50口径のハンドキャノンを目の前にして、カヤは白い歯を露わにした。氷の左手に握られたそれは、拳銃と呼ぶにはあまりにも大きく、頭にちょこんと乗っている可愛らしい黄色のリボンよりも、寡黙で小柄な少女には似つかわしくなかった。
「こんな玩具で、お前を殺せるなんて思ってない」
 氷は引き金を引いた。爆音が響いた。少女の身体が、反動で少しだけ後ろへ下がった。
 銃声に反応し、瓦礫の中からサンドパンが飛び出した。身体を丸めて防御姿勢をとり、マグナム弾からカヤを守る。恐ろしい程のコンビネーションだ、と瑞穂は目を見張ると同時に、不思議に思った。
 カヤのような人間が、ポケモンをこれほど――ハンドキャノンの銃口を向けられても平然としているられる程――信頼しているだろうか? 今のコンビネーションは、ポケモンとトレーナーの信頼から生まれたものではない。何か別の、自分達には感知することのできない命令伝達手段があるのではないだろうか。
 サンドパンは銃弾の当たった衝撃で吹き飛ばされた。空中で体勢を立て直し、カヤの足下に着地すると、両腕の爪を伸ばし氷の元へと駆けた。
 氷は即座に、拳銃のグリップ部分の底を、ベルトに付けたモンスターボールへと密着させた。微かにグリップとボールの合間が白く光った。そのまま腕を伸ばし、氷はトリガーを引いた。
「出番よ――アーボック
 レーザーサイトから、白い光が放たれた。光は集束し、やがてコブラポケモンアーボックが姿をあらわした。氷の拳銃は、拳銃としての機能だけでなく、ポケモン射出機能も備えていたのだ。
アーボック、ポイズンファング!」
 研ぎ澄まされた獰猛な顔を付きだし、アーボックは射出の勢いを利用してサンドパンの腹へと突っ込んだ。裂けたように大きく口を開き、サンドパンの脇腹へ毒々の牙を挿入する。
 サンドパンは猛毒に侵された。苦し紛れに振り回す長い爪を器用にかわしつつ、アーボックは氷の下へと戻った。全身に猛毒が回ったのか、サンドパンは倒れた。サンドパンをボールに戻しながら、カヤは口を尖らせた。
「強いのね、あんたのポケモン。どこで捕まえたの?」
 氷はカヤの問いかけには答えず、呟いた。
「今度こそ、お前を殺す」
「それは無理よ。あんたは私を殺せない。それよりあんたのポケモン、そのアーボックハブネークは、もしかして――」
 喋り続けるカヤへ向かい、氷は再びハンドキャノンを突き付けた。カヤは押し黙った。だが、その表情は笑っていた。嫌味な笑みだった。
 リングマの制止を振り切って瑞穂は立ち上がると、黙り込んでいるカヤの表情を凝視した。彼女が今まで見せた笑みの中で、最も危険な笑みのような気がした。一位カヤの闇の、最も深い根から生えているような予感がしてたまらなかった。
「これで終わる」氷は呟いた。自分に言い聞かせていた。
 カヤは頷いた。ゆっくりと、一言一言確実に伝わるように、彼女は言った。
「そう、これで終わる。でも、こんなに長続きした玩具は他に無かった。可哀相だけど、もう潮時なの。私はね、お気に入りの玩具を壊すのが、それも原形が解らないくらいにバラバラに壊すのが大好きなの。今までは、ずっと壊さないように遊んできたけど、もう我慢の限界かな」

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。