水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#11-2

#11 幻牙。
  2.真紅の刃

 

 黒い雨はやんだ。だが依然、空は黒雲に覆われている。その黒雲の中枢といってもいい、真黒の色をしている部分から、漆黒の霧が吹き出していた。
 エンジュ総合病院の一室。消毒液の臭いが立ちこめ、白い壁で囲われた空間で、瑞穂はなすすべなく立ちつくしていた。少女の前には、ベッドが4つ置かれている。その上に横たわっているのは、ゆかりとリングマヒメグマ、そして森で倒れていたイーブイのトレーナーだった。4人とも、胸に黒い染みのような模様が浮かんでいる。その黒い染みを、じっと観察している若い男は、ゴーストタイプポケモンの専門家、マツバだった。
 イーブイは心配そうに、自分のトレーナーに寄り添っていた。彼女は時折、苦しそうに身を捩り、譫言のように同じことを呟いている。
「逃げられない……逃げられないよぅ……」
 ゆかりもリングマも、彼女と同じように苦しそうな表情をしたまま眠っている。ヒメグマは、警戒するような目つきで、ただ窓の方を眺めているだけだった。
 両手を頻りに握りしめながら、瑞穂はマツバに訊いた。
「どうですか? やっぱり、この症状は……」
「間違いない。『呪い』だよ。それも、かなり強力な。胸の黒い染みは、呪われていることの証だからね」
 瑞穂の方を振り返り、マツバは眉をひそめた。腕を組んでいる。何か、考え事をしているようだった。
「特に、彼女が――」イーブイのトレーナーを見やり「一番、深刻な状態だ」
「それで……どうなるんですか?」
 唾を飲み込み、瑞穂は訊いた。青ざめた表情をしている。目にはうっすらと涙すら浮かんでいる。マツバは、言いにくそうに少女から視線を外した。
「普通の呪いなら、心身が衰える程度ですむだろうけど、この呪いは、信じられないほど強力なものだ……だから、このままにしておけば、みんな数時間以内に死ぬ」
 瑞穂に衝撃が走った。指先が震え始める。倒れ込むようにして、その場に座り込んだ。
「ブ……ブイッ!」
 突然、イーブイが鳴いた。驚いているような声だった。マツバは、即座に振り向いた。瑞穂も立ち上がる。
 イーブイのトレーナーは、カッと目を見開いていた。体中が痙攣している。血走った、真っ赤が瞳が瑞穂を睨んでいた。瑞穂は思わず後ずさる。背筋が凍ったような感じがした。
「助けて……逃げられない……逃げられない……死にたくないよぉ……助けて!」
 彼女は叫んだ。辺りに響くほどの大きな声だった。それと共に、血を吹いた。病院の飾り気のない照明に照らされ、血の噴水はキラキラと光っている。
 瑞穂は棒立ちで、彼女を見つめているだけだった。何もできなかった。時だけが虚しく過ぎていく。
 彼女は叫び続けている。布団がベッドから落ちた。白いパジャマ姿のまま、痙攣をしている様が見える。所々、パジャマが赤く染まっていた。痙攣するたびに、それは大きく広がっていく。やがて、血飛沫があがった。どこからか出血しているのだ。
 ハッと我に返り、瑞穂は急いでナースコール用のブザーを押した。何度も何度も、しつこいほどに。出血しているのならば、止血や輸血が必要だと考えたのだ。
 瑞穂はドアの方を見やった。マツバと目があった。彼は、微かに首を横に振った。否定していた。もう、無理だと。手遅れであると。だが、瑞穂は諦めなかった。半分、怒ったような、泣きそうな声で聞き返す。
「どうしてですか?」
「見てみるといい……」と、彼は静かに促した。瑞穂は彼女に視線を移す。
 彼女の着ていた白いパジャマは、もう本来の色を失っていた。瑞穂は、とっさに彼女のパジャマを剥ぎ取る。再び血飛沫があがった。瑞穂は血の雨を頭から浴びることになった。だが、瑞穂は動かなかった。あまりの衝撃で動くことすらできなかった。
 血にまみれ、痙攣を続ける彼女の身体は黒ずんでいた。腐っているのだ、と瑞穂は即座に思った。そこから血が滲み出ているのだ。こうして近くで見ていると、腐臭が鼻をつく。
 血走っていた眼球は、もう見えなかった。目からは血が流れ出ていたのだから。いや、目だけではなかった。口からも、耳からも、鼻からも、体中の穴という穴から、淀んだ死臭を放つ血液が、滝のように吹き出ている。痙攣のたびに、その勢いは増していく。
「死にたくない、死にたくないよぉ! いや……嫌ぁ……助けて……」
 彼女は暴れ出した。瑞穂は腰を抜かして、その場に座り込んだ。涙のように血を流し続けながらも、彼女は両手を振り回している。まるで、迫ってくる恐怖から身を守るかのように。
 次の瞬間、黒く濁った液が肩の辺りから迸った。腐った左手が、ちぎれて窓へと飛んでいくのが見える。そして、その拍子に彼女はベッドから転げ落ちた。
 音が聞こえた。グシャという、トマトか何かの潰れる音が。辺りは急に静けさを取り戻した。彼女はもう、動いてはいなかった。
 瑞穂はゆっくりと立ち上がり、原型を留めないほどに崩れてしまった彼女の屍体を見下ろした。その隣では、イーブイが盛んに鳴いている。まるで、屍体に語りかけているようだった。だが、彼女はもう死んでいる。その声に彼女が応えることはありえなかった。
 視線を移す。ゆかりやリングマの寝顔が見える。みんないずれ、彼女のように惨めに死んでしまうのだろうか。そう思った瞬間、瑞穂の胸が酷く痛んだ。そんなの……そんなの嫌だ。瑞穂は、まとわりつく靄を払うかのように激しく首を振った。
 白いドアが開いた。医師と看護婦がやってきたのだ。そして二人は、床に飛び散った彼女の屍体を見た。看護婦は、そのまま気を失って倒れた。医師の男は立ちつくし、絶句している。その二人の隙間を縫うようにして、一つの影が外へと、廊下へと飛び出した。
「ヒメグちゃん!」すぐさま瑞穂が後を追いかける。
 突然、逃げ出したのはヒメグマだった。見ていた、そして知っていたのだ。彼女が、呪いによって死んでしまうところを。やがて自分にも、同じ死に様が待っていることを。
 痛む胸をものともせず、瑞穂はヒメグマを捕まえ、抑えつけた。ヒメグマは小さな身体からは想像もできないほどの怪力で暴れている。彼は追いつめられているのだ。底の見えない、死への恐怖に。
 瑞穂は、このままヒメグマが死んでしまうのではないかと、危ぶんだ。
「ここにいなきゃ駄目だよ……外に逃げたって何も変わらない。逃げるだけじゃ、何にもならないよ! ヒメグちゃんは、ここで待ってて。無理に動くと、無駄に体力を消耗するだけだよ。暴れないで……お願いだから」
 ヒメグマは瑞穂を睨み付けている。鋭い形相だった。そして牙を剥き出しにして、少女の白い二の腕に噛みついた。ゆっくりと鮮血が滴り落ちていく。だが、瑞穂は視線をそらさなかった。表情を曇らせることもなかった。じっと、真摯な瞳で見つめる――澄んだ綺麗な色をした瞳で。
「心細いのはわかる……恐いのもわかる……だけど、それに負けちゃ駄目だよ……」
 瑞穂の声は震えていた。涙声だった。――恐いのだ。自分だって心細いのだ。自分の大切な家族を、仲間を失うことが。それを必死に堪えているのだ。そうでもしないと、現実から逃げ出してしまいそうになるから。
「私も、どうしたらいいのか、わからない。だから恐い……恐いよ……でも、こんな時だからこそ、私は私でいなきゃいけない……ヒメグちゃんはヒメグちゃんでなきゃいけない……自分を見失っちゃいけないの」
 いつしか、二の腕の痛みは消えていた。瑞穂はヒメグマを抱きしめる。ヒメグマの瞳からは、涙が溢れていた。瑞穂のか細い胸に顔を押しつけて、子供のように泣きじゃくっている。
 瑞穂はヒメグマを抱きかかえたまま、立ち上がった。気の遠くなるような、一瞬が過ぎ去っていくのが感じ取れる。やがて、腕の中から、微かな寝息が聞こえてきた。
 足音が聞こえた。背後で、マツバが静かに立っている。彼は腕を組み、微かに青ざめた顔で告げた。
「これが……呪いだよ」
 唇を噛みしめ、取り乱すことのないように必死で堪えながら、瑞穂は訊いた。
「呪いを、解くことはできないんですか?」
「普通に考えれば、それは無理だ……たとえ、呪いの根源を何とかしたとしても、呪いだけは消えることはない。だからこそ『呪い』は、昔から恐れられてきたんだ」
 今にも泣き出しそうな表情で、瑞穂は俯いた。ぐい、と頬についた血を拭い取る。
「あの、呪いの根源というのは、なんなんですか?」
 彼の表情は変わらなかった。微かに眉が動いただけだった。
 その時、マツバの足下から伸びる影が、大きく歪んだ。瑞穂は驚いたように目を見張った。彼の影から、シャドーポケモンのゲンガーが顔を出していたのだ。
 マツバは、ゲンガーに訊ねた「ゲンガー、どうだった?」
 ゲンガーは頷き、何かを話している。そして役目を終えると、再び影の中へと溶けこむようにして消えた。
「そうか……」マツバは呟いた「やはり、奴か……」
「あの、なんのことです?」
「奴が甦るんだ。かつて、55年前に、この街を恐怖という色に染めた……奴が……」
 マツバの冷え切った口ぶりに、瑞穂は胸の詰まるような不安を感じた。辺りの硬質な壁や床が、酷く不気味なものに見える。腕に抱いている、ヒメグマの温もりだけが、唯一の救いだった。
「200年前――」マツバは語りだした。独り言を呟くかのように。「人々は『力』……すなわち『権力』を手にしようと、醜い争いを繰り広げていた。そんな彼らにとって、ポケモンは戦いのための道具でしかなかった。多くのポケモンが血を流し、そして死んでいった――」
 瑞穂は目を伏せた。哀しいだけの過去。争いをやめることのできない人間――重たい事実が、少女の心に爪痕を刻む。
「やがて戦いは終わった。争いを続ける人間が――すべて死に絶えるという、凄惨な結末をもってね。だが、忌まわしき争いの戦禍は、ホウオウを祀っていた、スズの塔をも焼きつくした。再生を司る神の鳥、ホウオウは悲しみにくれながら、人間との繋がりを絶った――僕の先祖は、ホウオウと接触する資格を持った、唯一の人間だったんだ。ホウオウがエンジュシティを去ったあと、僕の先祖はすぐにスズの塔を再建した。だけど、ホウオウが戻ってくることはなかった……」
 マツバは虚ろな目をしている。瑞穂は窓の外に見える、スズの塔へ視線を移した。ホウオウの再来を願うだけでなく、過去への戒めも兼ねた、立派な塔が見える。
「これで――終わらなかった。争いに巻き込まれて命を失った、善良な人々やポケモン達の魂は、癒やされることなく、この街に残り、長き年月のうちに邪悪に染まった。その魂は、滅びることのない肉体を得るために、一匹のゲンガーに憑依した――」
「もしかして、それが……」
「そう。奴は55年前に突如としてあらわれ、エンジュシティに住む、多くの人々を呪い殺した。やがて奴は、霧のような外見から『黒い霧』と呼ばれた――キミが森で遭遇したのも、黒い霧だっただろう?」
 瑞穂は、マツバの方へ向き直り、言った。
「つまり……その黒い霧という名のゲンガーが、さっきマツバさんが仰っていた、呪いの根源なんですね?」
「そうだ。だが奴は、僕の祖父が、己の命と引き替えに滅ぼしたはず――おそらく、なにか『特殊な力』が、エンジュシティの近くにあり、奴の滅びたはずの肉体を甦らせたのだろう」
 不思議そうに、瑞穂は眉を寄せた「特殊な力……?」
「いや、数日前から感じるんだ。何物とも違う、まったく異質で、眩しいほどに強烈な力を」
 突如、甲高い悲鳴が轟いた。同時に、瑞穂達の背後から、何かの砕ける音が響いた。どやしつけられたように、瑞穂はその音のする方向を見やる。病院の白い壁がぶち抜かれており、もうもうと噴煙があがっていた。土色の噴煙に、黒いシルエットが浮かび上がっている。
 マツバは振り向かなかった。目を閉じて、静かな口調で呟いた。
「始まったか――」
 瑞穂は口を手で覆い、目を剥いていた。噴煙が晴れていく。その中から、あらわれたシルエットは、先程死んだはずのトレーナーの屍体だった。血で醜く汚れた口や鼻からは、盛んに黒い霧が吹き出ている。足下には、気絶し鮮血に染まったイーブイと、看護婦の首が転がっていた。
 屍体は嗤っている。霧の途切れた合間から、不気味な牙が見える。ちぎれたはずの左腕が、鋭い爪のある、黒い腕に生えかわっていた。
「以前、先代……つまり僕の父から聞いたことがある。これが奴の本当の力――呪いで死んだ人間の屍体を、己の身体として操ることのできる能力こそが、奴の真の恐ろしさであると」
 マツバは言った。目を開き、蜃気楼のように揺らいでいる屍体に向き直った。視線の先で、恐怖に駆られた医師の男が悲鳴をあげながら、こちらへと、瑞穂の方へと逃げてくる。
 屍体は腕を振り上げた。医師がビクリと動きを止めた。金縛りだ、と瑞穂が気付いたときには、もう遅かった。右手も左手も、両足も凍りついたように動かない。屍体の術によって、皆は動くこともままならない状態に追いやられていたのだ。
「く……動かない……」瑞穂は呻いた。
 握りしめた拳の中で、シャドーボールが膨らんでいく。屍体は嘲るように、身動きのとれない瑞穂達を眺めている。手を開く。視線を送る。医師が恐れに満ちた表情で、悲鳴をあげようと口を開けた瞬間に、シャドーボールは屍体の掌から放たれた。
 まるで矢のようだった。シャドーボールは、医師の大きく開いた口に飲み込まれ、彼の喉を貫通し、瑞穂とマツバの頬を掠めて、背後に並ぶ病院の壁を粉砕した。
 医師は喘いでいる。貫かれた喉から、涎とも血飛沫ともつかぬ液体を垂れ流しながら。衝撃で砕けた歯を、血液と共に吐き流し、涙と鼻水で汚れた惨めな顔で、瑞穂の幼いながらも整った横顔を見つめながら。
 屍体――いや、黒い霧の残虐さに、医師の視線に、瑞穂は戦慄を覚えた。医師の眼の焦点がぼやけていく。視線が消えていく。彼は無言のまま、地面に突っ伏していた。リノリウムの白い床が、爛れたような歪んだ色に染まっていく。

 屍体は近づいてきた。医師の身体を踏みつぶし、血の色をした水たまりの中央に立ち止まり、じっと瑞穂とマツバを睨んでいる。足もとの水たまりに、波紋が広がった。その波紋に併せるかのように、床が濁っていく。黒い色に。屍体の両手に握られている、二つのシャドーボールと同じ色に。
 シャドーボールが屍体の両腕から放たれた。それは一直線に、マツバの頭部と瑞穂の胸元へと突き進んでいく。瑞穂は思わず目を閉じた。胸に抱いたヒメグマを庇いたかったが、動けないのではどうしようもなかった。
 シャドーボールが瑞穂を貫く寸前だった。突然、マツバと瑞穂の周りを、眩い光が覆った。シャドーボールは光に照らさた途端、不自然に軌道をそらし、天井を突き破り、空へと消えた。
「今のは……一体?」
 瑞穂は呆然と、立ちつくしたまま呟いた。それと同時に、自分自身の身体が自由に動かせることを、金縛りが完全に解けていることを認識した。おそらく、突然の光によって、相手が怯んだのだろう。
「ゲンガー、来るんだ」マツバが叫んだ。「ナイトヘッド!」
 マツバの足もとの影が揺らぐ。そして、その影の中からゲンガーが飛び出した。ゲンガーは、手を前方へ伸ばし、紫色をした精神波を発射した。ゴーストタイプの技、ナイトヘッドである。
 精神波は屍体の肩を直撃した。どす黒い左腕が引きちぎれ、吹き飛んでいく。たまらず屍体は叫んだ。痛みからではなく、本性を現したようだった。もはや、人間ではない。救うことのできない憎悪という、危険な衝動の塊。
 口をあんぐりと開き、屍体は呻いた。身体全身が震えている。異様な殺気に満ちていく。瑞穂は、屍体の喉の奥に、特大のシャドーボールを見た。吐き出そうとしている。二人まとめて、始末する気なのだ。
 すぐさま瑞穂は、モンスターボールを放った。グライガーが飛び出した。その時、皆の眼前に、巨大なシャドーボールが突っ込んでくる。どう足掻いても、裂けることは不可能だ。瑞穂は拳を握りしめた。そして、叫んだ。
「グラちゃん! メタルクロー!」
 一瞬の斬伐だった。グライガーのメタルクローは、シャドーボールを掻き消し、その勢いで屍体を左右に両断していた。瑞穂はおそるおそる、両断された屍体を覗き込んだ。
 屍体は倒れている。もう、動いてはいなかった。シャドーボールを発射しすぎて、力を使い果たしてしまったのだろう。血の腐ったような臭いが漂ってくる。嫌な臭いだった。思わず、吐き気がこみ上げてくるような。
 グライガーが疲れた表情で、瑞穂の肩に降り立った。瑞穂はグライガーの額を優しく撫でながら、マツバに向き直り、肩をすくめた。
「やりすぎましたか?」
「彼女が、可哀想だ。きちんと供養してあげなければ……」
「そうですね……」哀しげに唇を噛む「ところで、さっきの光は何だったんでしょう?」
「わからない。少なくとも僕やゲンガーは、何もしていない」
 不思議そうな表情で俯く瑞穂を尻目に、マツバは吹き飛ばされた天井を仰ぎ、空を覆う黒い霧を見つめた。側にいたゲンガーは、何も言わずにマツバの影へと沈んでいく。黒い霧は、すぐ近くまで来ているのだ。
「これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない……奴を、こんどこそ完全に、滅ぼさなければ」
「あの……」出し抜けに、瑞穂は訊いた。「もうひとつ、訊いてもいいですか?」
「なんだい?」
「以前――55年前に『黒い霧』が、この街を襲ったときは、どうやったんですか? どう考えても、普通の人間やポケモンで太刀打ちできる相手ではないと思うんですけど」
「『浄めの札』をつかったんだ。エンジュに古くから伝わる札で、邪悪なものを消し去る力があるんだ。透明な鈴と同じく、スズの塔に祀られている……一説には、ホウオウの力を秘めているらしいが」
 瑞穂は身を乗り出した。
「それじゃ、そのお札を使えば、なんとか、黒い霧を倒すことができるんですね?」
 マツバは残念そうに、首を横に振った。どういうことか、と小首を傾げている瑞穂を横目で見つめながら、彼は語った。
「いや、以前……つまり55年前に使ったときでも、完全に奴を消し去ることはできなかったらしい。札の力によって弱った隙をついて、僕の祖父は奴を倒したらしい。もっとも、その時に受けた傷がもとで、祖父は命を落としてしまった。さらに、奴の力を弱めたことによって、浄めの札は秘めていた力の、ほとんどを使い果たしてしまったんだ」
「そう……ですか……」
 暗い表情で、瑞穂は下を向いた。病室の扉を開いて中に入り、ベッドにヒメグマを横たえさせる。すぐ側で転がっている看護婦の首に手を合わせ、気絶しているイーブイヒメグマの横に寝かせた。ベッドの上を見渡す。ゆかりは苦しそうに顔をしかめている。リングマは横になったまま、瑞穂を見つめていた。瑞穂は驚き、息を呑んだ。
 お互い、何も言わなかった。リングマは小さく頷いた。頷き返すことは、瑞穂にはできなかった。唇の端を噛みしめ、目に浮かんだ涙を拭うことしかできなかった。そんな自分が、無力な自分が情けなかった。誰を救うこともできない、助けることのできない自分が哀しかった。
 マツバは、じっと瑞穂の水色をしたツインテールを見つめている。考え事をしているようだった。やがて、何かを思いついたように目を見開き、彼は言った。
「だけど、力を失っているとは言っても、完全に失ったわけじゃない。もしかしたら……奴の『呪い』を解くことくらいなら、できるかもしれない」
 瑞穂は振り返り、すばやく顔を起こすと、マツバを見上げた。感情の高ぶりを抑えられないようで、白かった頬が紅潮している。
「それは、本当ですか?」
「おそらくね」
 マツバが言うよりも早く、瑞穂はモンスターボールを取りだした。階下へ走っていく。降りていく。階段を駆け降りる音が絶え間なく響いた。
 軽く息を吐き、マツバは腕を組み直すと、窓を開いて下を覗き込んだ。瑞穂はポニータに跨って、病院の窓を、マツバを見上げている。大きく息を吸う。そして、大きな声で言った。
「ユユちゃんや、リンちゃんをお願いします。私は、スズの塔に行って、『浄めの札』を持ってきますから」
 マツバは深く頷いた。
「そうするといい。だけど、気をつけるんだよ。奴は、この街に近づいているからね」
「わかりました。それじゃポニちゃん、お願い」
 瑞穂はポニータに合図を送る。ポニータは嘶くと、鬣を赤々と燃やしながら駆けていった。水色のツインテールが、風に吹かれて、はらはらと靡いている。瑞穂は気にもとめずに、遠くにそびえ立つスズの塔だけを凝視していた。

 

○●


 マツバは病院の外に出た。黒雲に満ちた空を見上げ、一言、呟くように言った。
「いつまで、そこにいるつもりだ。いずれは、この街の人々を皆殺しにするんだろう? 隠れても、僕にはわかる。時間の無駄だ」
 黒雲は、マツバの問いに答えるかのように、ゆっくりと地面に降りてくる。マツバは眼を細めた。今までに、経験したことのない程の悪寒を感じていたのだ。
「まずは、邪魔な僕を殺そうというわけだな。でも、そうはいかない。これ以上、犠牲を増やすわけにはいかない――だから今、ここで、おまえを滅ぼす」
 黒雲から発せられている霧が、凝縮していく。その黒い塊が目を開いた。血のように、真っ赤な瞳だった。ずるがしこさと、邪悪さを秘めた瞳が、マツバを睨み付けている。
「ホウオウを見る前に、死にたくはないからな……」
 マツバは右手を振り上げた。足下から、ゲンガーが勢いよく飛び出してきた。シャドーボールを放つ。炸裂する。だが、黒い霧には効いていない。彼は拳を握りしめた。
 黒い霧は口を開いた。鋭い牙が見える。その奥に、無数の霊の心を、マツバは感じ取っていた。
 雨が――黒く、灰色に濁った水の雫が、静かなままに降りはじめている。

 

○●

 雨が、豪雨が降り注いでいた。先程までの黒々とした、墨汁のような霧雨とは違い、雨粒は灰色に濁ったような色をしている。
「ポニちゃん。がんばって……」
 ポニータの背中にしがみつきながら、瑞穂は呟いた。
 黒の、灰色に濁った豪雨が、容赦なくポニータの身体を打ちつけ、弱らせていく。赤く輝いていた鬣の炎が、時間の経つごとに小さくなっていく。息づかいが荒くなる。身体から、温もりが失われていく。
 躍動を続けるポニータの背中に触れ、瑞穂は胸が張り裂けそうになった。声を出すこともできなかった。冷たかった。ポニータの身体は冷え切っていた。雨が体温をすべて奪っていくのだ。それでも、ポニータは走り続ける。誰のためでもない、自分のために。自分を助けてくれた、瑞穂のために。
 冷たさを堪えるように、瑞穂は歯を食いしばった。豪雨は、ポニータだけでなく瑞穂の身体にも降り注いでいるのだ。首をあげ、頭を左右に振る。左右のポニーテールから、水しぶきが飛んでいく。
「あそこだ……スズの塔」
 眼前にスズの塔が見える。それも、ごく近くに。瑞穂は腕に力を込めた。ポニータが苦しげに、だが力を振り絞って嘶く。スピードが上がった。まるで風のように、ポニータは走っていく。
 ポニータはスズの塔の門を突き破り、地面を蹄で削るようにして急ブレーキをかけた。もうもうと足下から土煙が巻き起こる。瑞穂はそれよりも早く、ポニータの背中から飛び降りていた。そのまま速度を落とさずに、近くにいた僧に詰め寄り、訊ねた。
「あの、『浄めの札』というのをお借りしたいのですが」
 僧は微笑んだ。茶色い傘を片手に持ったまま、細い瞳で、ずぶ濡れの瑞穂を眺めている。瑞穂の白い肌は、雨の冷たさに震えており、唇は青くなっていた。水色をしたツインテールの先端からは、雨の滴が滴っている。
 意味ありげに頷くと、僧は懐から桐の箱を取りだして、中から浄めの札を取りだした。
「わかっていますよ。すべてのことはマツバさんから伺っております。ただ、私はこの聖地から離れる事ができないので、あなたに来ていただきました」
「え?」瑞穂は不思議そうに眉をひそめた「あの……」
「我々は、心を通わせることができます。距離は関係ありません。たとえ、彼が遠くにいたとしても、彼の想いは、はっきりと伝わります」
「そう……ですか」
 戸惑いながらも、瑞穂は頷いた。浄めの札を受け取り、ポニータに跨ったとき、僧は優しい声で言った。
「マツバさんは言っていました。あなたは、水晶のように澄んだ心をもっている……と。その心を、曇らせるのも、さらに磨き上げるのも、決めるのは、あなた自身です……無力な自分を憂うことはありません。あなたにしかできないことが、あるのだから」
 瑞穂は小さく首を縦に振り、微笑みを返した。ポニータが走り出す。スズの塔は、雨の中で遠くなっていった。僧の声は、もう聞こえない。ポニータの蹄の音だけが、鳴り響いている。
「私だけにしか――できないこと――」
 微かな声で呟いた。その時、腰につけたモンスターボールが激しく震えた。途端に、瑞穂は地面に放り出された。水たまりが弾ける。ポニータの苦痛に満ちた鳴き声が聞こえる。瑞穂は顔についた泥水を拭いながら、何事かと顔をあげた。
 自分の腕が、赤く染まっていた。いや、水たまりが血の色を帯びていたのだ。流していく。灰色の雨が、身体にこびり着いた鮮血を洗っていく。そこでやっと、瑞穂は眼前に横たわるポニータに気がついた。
「ポニちゃん!」
 ポニータは首筋に酷い傷、鋭い鎌で斬られたような傷を負っていた。苦しそうに、喘いでいる。傷から流れる鮮血が、水たまりを赤い色に染めたのだ。瑞穂はポニータに寄り添った。すぐにモンスターボールを取りだし、戻そうとした。だが、ボールは動かない。地面に叩きつけられた衝撃で壊れてしまったのだろう。表面にはヒビがあり、火花が散っている。
 ぐしゃ。柔らかい土を踏みつぶす音が聞こえた。足音だ。誰かが近くにいる。
 水たまりに、オレンジ色の瞳のような模様が映りこんでいる。その周りは、鮮やかな紅色の一色だけ。
「リリィが、ここにいる。リリィを、消し去らなければ――」
 声が聞こえた。若い男の声。少年の呟き――
 震え続けるモンスターボールの中から、ナゾノクサが飛び出した。息を弾ませながら、瑞穂も立ち上がる。そして、見た。瑞穂とナゾノクサの目の前に立ちはだかるようにして、彼は、鮮血に覆われた刃を振りかざしていた。
 真紅の身体。鋭く、赤い瞳。腕には、ポニータを傷つけたと思われる鋭利な刃――鎌のようなものがついている。はさみポケモンハッサムだった。
 拳をわなわなと震わせながら、瑞穂は唇を動かした。息を吐く。小さな呟きと共に。
「あの傷痕……それに、その鎌は……紅の刃……」

 

○●

 シャドーボールが空中で弾けた。幾つも、幾つも、数え切れないほどの黒い光球がぶつかり合い、紫色の火花を散らしながら、衝撃の波を辺り一面に広げていく。
 瞬く間に噴煙があがり、幾重にも重なり合った塵が、マツバの視界を遮った。黒い光だけが、噴煙の隙間から射し込んでくる。マツバは眼を細めた。煙の中央が吹き飛んだ。黒い霧の腕が一直線に伸びてきたのだ。先端の鋭い爪が、マツバの喉元を掠めていく。マツバは思わず後ずさった。
 負傷し、地面に倒れていたゲンガーが、身を起こした。マツバを庇うようにして、黒い霧の腕に飛びつく。叫び声が響いた。シャドーボールの光が腕の先端で瞬いている。その光と共に放たれた衝撃波が、辺りの噴煙を掻き消した。
 水飛沫がマツバの頬に散った。足下には、全身に傷を負ったゲンガーが横たわっている。その身体の半分は抉り取られ、残りの半分は水たまりに沈んでいた。苦しげに、悔しげに表情を歪め、黒い霧を睨んでいる。
 黒い霧は――もはや原形など留めていない、邪悪な意志に憑かれたゲンガーは――不気味な、血のように真っ赤な両眼を見開いて、蔑むようにマツバ達を眺めていた。その眼差しは、余裕に満ちている。力に酔いしれているようにも見える。
「やはり、かなわないか……」
 マツバは握りしめていた拳の力を緩めた。冷たい空気、吐息が首筋を流れていく。黒い霧の巨大な口が、その奥に広がる底のない無限の闇が、鋭い牙が目前まで迫ってきていたのだ。
 彼は身を引いた。素速くゲンガーをモンスターボールに戻す。視線は、黒い霧に釘付けのまま。表情だけが、苦い色を帯びている。
 黒い霧は、己が牙を振りかざした。マツバの頭部を、血に染まった牙が掠めていく。そして、彼の頭の頂点めがけ、牙が振り下ろされた。
「困った人だ」
 突然、声がした。聞いたことのある声だった。次の瞬間、マツバの頭上まで迫っていた牙が、白い光と共に見る影もなく粉砕された。あまりに一瞬の出来事に、黒い霧の動きが止まった。
 マツバは振り向いた。その視線の先に立っていたのは、頬に黒いタトゥを刻んだ銀髪の少年だった。手を振りかざしている。その指先が仄かに輝いていた。
「警告したのに、どうして戦おうとする? すぐに逃げていれば、助かったのに――」
 少年は耳につけた鍵型のピアスをもぎ取り、黒い霧へと投げつけた。ピアスが黒い霧に命中した。激しい衝撃が、辺りに広がっていく。爆風に飛ばされそうになりながらも、マツバは眼を細めた。その視線の奥、衝撃の中心で、黒い霧が藻掻いているのが見える。苦しがっている。得体の知れない、おぞましき巨体が、四散していく。
 消えていた。黒い霧の身体は消滅していた。マツバは辺りを見回し、霧の晴れた空を見上げた。黒雲に覆われてはいたが、先程までの邪気は失せている。
 地面には、灰色に濁った水たまりだけが残っていた。鍵型のピアスが底に沈んでいる。不規則な波紋に揺られ、少年の色のない瞳が映りこんだ。手を伸ばす。小さな水飛沫がはねる。ピアスを拾い上げ、少年は鋭い目つきで、マツバに一瞥を送った。
「どうして逃げなかった?」静かな口調で、少年は訊いた。
「死ぬことに恐怖を感じないからさ。ただ、ホウオウの姿を一度でいいから、この眼に焼き付けておきたかったが」
「なるほど……死ぬことに恐怖を感じない、か。面白い人だ」
 少年の瞳は、マツバを捉えたまま動かない。その表情から感情を読みとることはできなかった。無表情だった。哀しげな、寂しげな、憤ってでもいるかのような。
 ふと、マツバは少年の背後に、老獪な気配を感じた。同時に、狡猾そうに歪んだ顔と眼があった。少年の背後に、寄り添うようにして、初老の男が立っていたのだ。
サリエル様」
 皺だらけの顔を引き延ばすようにして、男は少年に話しかけた。
「あまり目立つようなことはお避けください。我々には、まだやらなければならないことがあるのですから」
「いや、僕のするべきことはもうない。あとは、機が熟すのを待つだけ――」
 閃光が走った。少年の真横を、眩い光を帯びた熱線が通過した。大地がはぜる。衝撃波が、噴煙を押し流していく。爆音が響く。そしてそれは一瞬のうちに静まり返り、凪いでいる風と、静寂だけが残った。
 少年は指先で頬に触れた。黒いタトゥの部分から鮮血が滴り、指先を伝って、地面に一滴、二滴、こぼれ落ちていく。微動だにせず、少年は瞳だけを、熱線の放たれた方向へ向けた。
 老人が眼を細める。マツバはとっさに振り返った。
 茶色の巨体が、リングマが立ちつくしていた。口からは煙があがっている。破壊光線を発射した反動で、全身が震えていた。憎悪にも、殺気にも似た色を帯びた鋭い眼で、少年と老人を睨み付けている。
「驚いたな……こんなところにも『能力者』が残っているなんて」
 嘲るような口調で呟いた少年の後ろから、老人が思案するよな表情で言った。
「申し訳ありません――私の責任です。この場で、始末してしまいますか?」
「いや、放っておいても、このポケモンは死ぬよ。呪いでね。あと10分もすれば、肉体は腐乱し、精神は崩壊する。ヘタに手を出す必要はないよ。ほら……」
 リングマは倒れていた。苦しそうに身を捩らせながら、喘いでいる。
「もう、時間は残されていないよ。奇跡でも起こらない限りね」
 少年は頬から手を離し、流し目でリングマを見やり、そしてマツバに背を向けた。歩き出す。老人がそれに続く。遠くなる。彼らの足音が、リングマの呻き声が、喉まで出かかったマツバの声が。
「教えてくれないか?」
 一歩、少年の方に足を踏み出して、マツバは訊いていた。
「奴を甦らせたのは誰だ? キミか? それとも、他の誰が……」
「裏切り者だよ」
 感情の入り込む余地のない平べったい声で、そう告げた。少年は立ち止まることなく歩いていく。マツバは聞き返すことすらできなかった。
 マツバは振り向き、倒れていたリングマを抱き起こした。腕の時計を見つめる。残された時間は少ない。今はただ、祈るだけしかなかった。奇跡が起こることを。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。