水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-4

#14 愛憎。
  4.嘘の玩具

 

「壊す? 私を? 馬鹿な。私はもう、とっくに壊れてる。お前に壊された。今の私は、お前を殺すことしか頭にない、ただのガラクタ」
 ハンドキャノンを銃口をカヤへと向けたまま、氷は静かに言い放った。少女の口許からは、細く長く鋭い牙が覗き、牙は少女の唇に食い込んでいる。間近で氷の言葉を聞きながら、噛みしめられた唇を眺めながら、瑞穂はそこに宿った深い憎しみを感じ取っていた。
「壊れてなんかいないわ、氷。だって、あんたは帰ってきた。それに、あんたにはまだ、身体も意志も感情も残っている。私が望んでいるのは、すべてをバラバラに粉砕することだもの」
 カヤは両腕を広げ、力説した。自分へと突き付けられた銃口が見えていないのではないかと思えるほどに、落ち着き払っている。冷静であるが故に、彼女の内に潜んでいる狂った何かが、浮き彫りになっていた。
「私はあんたが好きだった。可愛かったし、何より素直で健気だった。だから、あんたを眺めるのは楽しかった。泣いているときも、笑っているときも、そうやって私を睨むときも、あんたの瞳は真っ直ぐで、一片の濁りもなかったわ」
 氷は引き金に指をかけた。黒いトリガーに触れる、少女の白い指先に躊躇いは無かった。
 ハンドキャノンと氷の横顔とを交互に見据え、瑞穂は胸に手を当てた。早まっていく自分の鼓動と、背後で自分を支えるリングマの鼓動が同時に聞こえた。目の前で静かに佇む氷の眼差しは、カヤの言う通りに真っ直ぐで濁り無く、水晶のように純粋だった。
「黙れ――今更、私を惑わそうとしても無意味よ」
 氷は静かに言い放った。引き金は引かれた。銃口から火と煙が吹いた。銃声が鳴り響き、カヤの頭部へと弾丸が飛んだ。氷の身体が、反動で後ろへと下がる。
 カヤの顔が吹き飛んだ。余裕に満ちた表情が砕け散っていた。瑞穂は息を呑み、消し飛んだカヤの身体を見つめた。そして、驚きに目を見開いた。
「血が出ない? どうして――」
 瑞穂は叫んでいた。カヤの身体から、吹き飛ばされた筈の首から、鮮血が迸ることは無かったから。ミルとゆかりも同様に驚き、人形のように棒立ちになった、カヤの首のない身体を眺めていた。
 目を細め、氷はハンドキャノンを強く握り締めていた。手に汗が滲み、細く柔らかい指先をねっとりと濡らし、雫となって滴り落ちている。
 氷がトリガーを引き、カヤの頭部を撃ち抜いても尚、降り注ぐ異様な狂気は消えることは無かった。むしろ先程までよりもさらに大きく、激しく胸元を締めつけていた。少女の心を締めつける何かが軋む。そしてその軋みは、白煙の中から木霊す一言によって、決定的なものとなった。
「そんな銃で、私は殺せないって言ったでしょ。私の可愛い、氷ちゃん」
 握り締めていた銃が落ちた。氷の指先が震えていた。雪のように白い頬が、青くなっていた。
 氷と瑞穂の視線の先で、首のない身体が喋っていた。空気が抜けるように、首のない身体は縮んでいく。嘲るような楽しそうな言葉と同時に、首の傷の断面から紫色の毛髪が伸びた。それは氷の美しい長髪と酷似していた。
「まさか、あの人も遺伝子を?」
「そう――みたいね」
 震え続ける右腕を左手で握り締めながら、氷は瑞穂の言葉に頷いて見せた。
「そこの化け物と、一緒にしないで欲しいわね。私は人間よ。ただし、普通の人間とはちょっと違う」
 カヤの身体から、首が生えた。艶めかしい紫色の長髪が背中を流れる。そして、声がした。カヤの声でも、氷の声でもない、別の声が。女の美しい声が。
「これでも、私を殺せる? あんなに優しくしてあげたのに。励ましてあげたのに」
 澄んだ声だった。氷の鈴の音のような声に、似ていた。
「どういうこと? これは――」
 氷の細い腕が、だらりと垂れた。細めていた瞳は驚きに見開かれ、微かに涙が滲んでいた。強く噛みしめられた唇は力を失い、小刻みに震えている。
「説明してほしいの?」
 女の声は訊いた。頷くでもなく、言葉を返すでもなく、氷は呟いた。
「姉さん――?」
 紫色の髪を掌で撫でつけながら、女は立っていた。その顔立ちや体型は、既にカヤのものではなく、むしろ氷に近かった。だぶだぶになった衣服を煩わしげに振り払い、女は少女達へ向けて微笑んだ。
 女の微笑みに、瑞穂は既視感を感じた。不可解な氷の言葉の意味を探る内に、その既視感は曳光弾のように尾を引いて戻ってきた。姉さん? 姉さんって、まさか――
 目の前で笑う女の正体に気づき、氷の動揺の意味に気付き、瑞穂は女の顔を凝視した。少女の背筋を冷たい感情が、絶望の一閃が裂いた。
 一位カヤは、氷の姉である射水 冷へと姿を変えていた。
「どうしたの? 私よ、氷」
 冷の姿をした女は、氷へと話しかけた。
 氷は首を横に振っていた。震える指先を胸元に押しつけている。あんぐりと開かれた口からは言葉も出ず、青い唇はひきつっていた。女との関わりを避けようとするかのように、少女は少しづつ後ずさった。
「どうして、そんなに嫌がるの? 私のことが解らない? あんたの姉の、射水 冷よ」
「お前――」
 目に涙を浮かべながら、氷は言った。
「ずっと――私を騙してたのか。姉さんの姿を偽って、私のことを騙してたのか?」
 呻きにも似た、悲痛な氷の言葉に、瑞穂は目を伏せた。
 途端に女の仮面が割れた。氷に良く似た、大人しそうな顔が、凶暴で残忍な笑みへと歪んだ。射水 冷の皮を被ったカヤの表情がそこにあった。
「そうよ。私は、あんたの姉の遺伝子を組み込まれてる。だから、自由にあんたの姉の姿に変わることができるのよ」
「でも――」瑞穂は顔を上げた。「一体、何のために、そんな」
「楽しいから」
 女は笑った。即座に吐き出された回答は、瑞穂の問いに対する答えでは無かった。次から次へと紡ぎ出される言葉は、氷へのみ向けられていた。
「ただ殴ったり、蹴ったりするだけじゃ面白くないから。裸にして放尿させてみたり、尻の穴に爆竹突っ込んでも、すぐに飽きちゃう」
「黙れ――」
 氷の頬は紅潮していた。それが怒りによるものなのか、恥ずかしさによるものなのか、瑞穂には判別できなかった。それより、この期に及んでも氷を玩具のように弄ぶカヤに対して、憤りよりも先に、底知れぬ恐怖を抱かずにはいられなかった。
「泣き叫いていたっけ。白いお尻から火花を散らしながら、ヒィヒィのたうち回ってたわね。可愛かったわよ」
「黙れ!」
 床に落ちたハンドキャノンを拾い上げ、氷は発砲した。女の腕が弾けた。銃声が響きわたるよりも先に、女の身体は、空中へ飛んだ。震撼する空気に、女の身体は何度も跳ね上がった。
 氷は続けて発砲していた。涙の滲んだ瞳を細めながら。反動で少女の身体が揺れる。引き金が、パチンという乾いた音を、弾切れの音を奏でても尚、少女の身体は揺れ続けていた。全身が震えていた。
 小刻みに震えを繰り返しながら、氷は床に座り込んだ。拳銃を握り締めたまま少女は項垂れ、声にならぬ嗚咽を漏らした。
 蹲った惨めな氷の背中を眺めつつ、ミルとゆかりは顔を見合わせていた。沈鬱な2人の表情を横目で見比べながら、瑞穂はそっと氷の下へと近づいた。氷の背中に触れ、撫でるのには躊躇いがあった。下手に刺激しない方がいいのかもしれない。かける言葉も見つからず、ただ呆然と瑞穂は立ち尽くしていた。
「だから、無駄だって。私は、あんたよりも強力な自己再生能力を持ってるんだから」
 女の声が、静まり返った空間に響いた。瑞穂と氷は思わず顔を上げ、女の方を見やった。女は、のそりと起きあがっていた。銃弾を受けて消し飛んだ部分は既に再生していた。何事も無かったかのような微笑みを浮かべ、話を続けた。
「この感覚が良いのよ」
 主語を欠いた女の言葉の意味を、瑞穂はとっさには理解できなかった。だが、泣きはらした氷の横顔を見やった瞬間、少女は胸を締めつけられるような痛みを感じた。女の言葉の意味が、朧気ながらも理解できたから。
「殴っても犯しても、すぐ飽きちゃうのは、私が氷の事を知らないからだ、って気付いたのよ。だから、私は氷の事を知ろうと思った。私には見えない、見ることのできない氷の部分を知りたかった。でもね――」
 女は天井を見上げた。
「氷は、私の前では怯えるだけだった。何も教えてはくれなかった。だから、私は時雨に頼んだのよ。私を、氷が信頼する姉の姿にしてくれるように」
「そして――」氷は頬を伝う涙を拭おうともせずに、女を見据えた。
「姉さんの姿形を偽って、私を騙した」
「そう。あの時の氷は純粋で、誰かを――特に身内ならなおさらだけど――疑うということを知らなかった。冷の姿をした私のことを、姉だと信じて、あんたは無防備な姿を晒した」
 仮面のように動かない氷の表情に、哀しみが浮かび上がっていた。瞳に溜まった涙を拭う素振りすら見せないのは、強がりでは無く、哀しみに打ちのめされて身体が動かせないためではないか、と瑞穂は思った。
 殴られ、蹴られ、犯されても、死ぬことを許されなかった少女。苦痛と絶望に満ちた少女の唯一の救いは、時折、牢獄に姿を見せる姉の姿だった。
 親を、故郷を、感情を失った少女は、姉にのみ心を許した。苦痛を訴え、涙を流す少女を姉は慰めた。檻の隙間から優しく手を伸ばし額を、頭を撫でる。囁くような優しい言葉に、少女は誰にも見せることのない、微笑みを浮かべる。姉も同様の微笑みを返す。
 だが、それは姉ではなかった。姉の皮を被った、悪魔だった。悪魔は少女を殴り、切り裂き、砕き、犯していた。泣き喚く少女の姿を嘲る裏側で、悪魔は姉の皮を被り、偽りの温もりと愛を少女に与えていた。
「だから言ったじゃない。あんなに可愛がってあげたのに、って。なのにあんたは、私のことを憎んでる。怨んでる。殺そうとしてる。でも、それは逆恨みよ。私は、あんたの本当の姉よりも、あんたを愛してるし、あんたを可愛がってた」
 嘘だ。すべて、嘘だった。少女は、女の嘘の玩具にされていたのだ。優しい言葉も、頬を通じて感じた掌の温もりも、一片の汚れも無いと信じていたあの笑顔も、すべて嘘だった。偽りだった。
 みんな嘘つきだ。少女は、氷は握り締めた拳銃を見据え、錯乱する頭を横へ振った。みんな、みんな――自分だけ残して、さっさと死んでしまった本当の姉も、隣で気の毒そうに自分を見下ろす少女も、みんな嘘つきだ。よってたかって、私を騙して苦しめて、それでも私は死ねないから、死なない身体だから、私はずっとずっとその嘘を信じて、馬鹿みたいに、もっと苦しむんだ。
「氷ちゃん――」
 棒立ちのまま、瑞穂は呟いた。触れることも言葉をかけることもできなかった。
「あんたの拠り所はもう無い。私が壊してあげたから。私が、今まであんたを生かしてあげてたんだから。醜い化け物のあんたをね」
 君は人間では無いから――何処かで訊いた少年の言葉が脳裏を掠めた。人は生まれながらに罪人だ。連鎖的に浮かび上がる記憶。目の前で微笑む少年。掌で溶けていく雪の感触は冷たい。冷たい。冷たい。
 氷は眼前で震える拳銃から眼をそらし、顔を上げた。女の――姉の皮を被ったカヤの笑みが映った。同時に、冷たい掌の感覚が甦った。横たわる姉の屍体に触れたときの感触だった。
「姉さんは死んだ――」
 氷は自分に言い聞かせるように呟いていた。瑞穂は眉を潜め、氷の言葉に聞き入った。
「姉さんは――本物の姉さんは死んだ。自殺した。どうして、姉さんが自分で自分を殺さなければならないのか、今になって、やっと解った気がする」
「あんた何を言ってるの? ショックで、おかしくなった?」
「姉さんは知っていた。そして、私が真実を知ることを恐れていた。だから、死んだのよ。私が本当の事を――姉さんが偽物で、私を弄んでいたことを――知っても、大丈夫なように」
「意味が解らないわ」
 女は首を傾げた。微笑みは消えない。氷は眼をそらさずに、続けた。
「誰にも理解できない。私と、姉さんにしか解らないかも知れない」
 胸元に拳銃を抱きかかえ、氷は立ち上がった。先程まで微塵も感じられなかった殺気が、氷の身体から再び漲っていた。
 ただならぬ殺気に危険を感じたのか、リングマは瑞穂の小さな身体を抱きかかえた。太く暖かい腕の隙間から、瑞穂は氷を見つめ続けた。氷は拳銃を前へと突きだしていた。そして、目を細めて口許に小さな笑みを浮かべていた。
「姉さんは死んだ。だから、もう姉さんは何処にもいない。姉さんは、私の支えでも拠り所でもない。もう私は、姉さんがいなくても生きていける。いや、姉さんが死んでから、私はそうやって生きてきた」
「何を言いたい? あんたにとって本当の姉は、同一の母体から生まれたという意味しか――それすらも怪しいもんだけど――持たない筈よ。あんたに愛と温もりと生きる希望を与えてあげたのは、この私よ!」
「違う」
 鈴の音が、澄んだ声が反響した。氷は静かに女を制した。女は瞳を見開き、今にも噛みつきそうな形相で氷を睨み付けていた。
「お前は」
 途切れ途切れに放たれた言葉は掠れていた。氷の薄暗い微笑みの隙間に、瑞穂は光る筋を見つけた。拭われぬ涙の跡だった。滴っている。細めた瞳から、涙が止めどなくこぼれ落ちている。
「私に愛を与えたつもりかもしれない。そうやって、私を弄んだつもりかもしれない。事実、私はお前の自作自演に騙された。姉さんの姿をしたお前を信じてしまった。でも、そんな偽りの愛は、姉さんが殺してくれた。自殺することで、私の中にある姉さんへの幻想と傾倒とを破壊してくれた。姉さんは私の為に死んだ。でも、お前は私の為には死なない。その違いは大きい」
「だから?」
「お前のまやかしは、もう効かないと言っている。私は、お前を殺せる」
 女は口を歪め、氷の言葉を笑い飛ばした。
「あんたに、私は殺せないわ。見たでしょ? 私の自己再生能力は、あんたよりも優れているのよ。誰にも私は殺せない。誰にもね」
「いや――」氷は瞳を閉じ、首を横へと振った。「方法はある」
 即座に弾倉を交換し、氷は女へと発砲した。だが、女は踊るような軽やかさで弾を避け、氷へと腕を突きだした。その腕には拳銃が握られていた。氷の持つ拳銃に似た、ハンドキャノンだった。
 瑞穂は小さな悲鳴をあげた。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。リングマの腕が、ぐっと少女の身体を締めつけて朧気な視界を遮った。遠くから銃声が響いた。すぐ側で何かの弾ける音がした。夥しい液体の迸る音が聞こえた。瑞穂は、緩んだ腕の隙間から抜け出し、氷の方へと視線を向けた。
 氷の掌が柘榴のように裂けていた。傷の断面からは赤黒い鮮血が吹きだし、肘の骨が除いている。床に落ちた拳銃は鮮血に染まっていた。
「調子に乗るな。いつまでも大人しく撃たれてる私じゃない。それに、銃の腕前は私の方が上なのよ」
 女は言った。続けて銃声が鳴り響き、氷の身体は何度も何度も宙へと跳ね上がった。
 銃声が鳴り止み、少女は倒れた。少女は氷は床に突っ伏したまま、苦痛に顔をしかめていた。身体のあちこちに、虫に喰われたかのような穴が空いている。口からは舌が伸び、血の混じった涎が垂れていた。
 瑞穂は肩を掴んでいるリングマの腕を振りほどき、氷のもとへと駆け寄った。ミルとゆかりは顔をひきつらせ、血みどろになった氷の身体から、思わず目を背けている。
「認めなさいよ。私の愛を」女は叫いていた。
「そうやって変な理屈で誤魔化さないで、私の愛を認めなさいよ。どうして、そんなに冷静でいられる? もっと、壊れてよ。もっともっと、泣き喚いてよ! 私に縋り付いて、私に救いを乞いなさいよ!」
 氷は応えなかった。床にへばりついたまま、赤い霧のような息を吐いていた。ただその首は、いやいやをする子供のように左右の動きを繰り返していた。
「それぐらいにしておけ」
 女の背後から声が響き、白衣を着た男が姿をあらわした。男は若く、手の甲に火傷のような傷痕が見えた。瑞穂は男の姿を横目で見やり、彼の名を思い出した。時雨という名の、組織の研究者。
 時雨は冷の姿をしたカヤを一瞥し、瑞穂を睨み付けた。瑞穂は彼を睨み返した。時雨は口の端に力を込めた。微笑んでいるかのようの表情だったが、その瞳までは笑っていなかった。
「カヤ。氷の相手はもういい。それよりも、洲先瑞穂を殺れ」
「嫌よ。私は氷と遊びたいの。私は、氷とだけ遊びたいの。さぁ氷、私の所へおいで。慰めてあげる。痛いんだよね? 悲しいんだよね? 私が助けてあげるから!」
 氷は、半ば反射的に首を振り続けていた。時折、惨めに砕けた身体がビクンと痙攣する。その度に氷は瞳を搾った。目尻から涙がこぼれる。白い頬を滑るように流れ、雫はだらりと伸びた舌へと吸い込まれた。
「痛いんでしょ? 早く化け物の姿になれば楽になれるのに。それとも、お友達の前であんな醜くて臭くて汚らわしい姿を晒したくないのかしら?」
「私は人間じゃない。でも、化け物でもない。私は――」
「私の命令が聞けないのか? カヤ」
 少女の言葉を遮り、冷たい口調で時雨は呟いた。
「しつこいわね。今、私は忙しいの。これ以上、私の邪魔をしたら――」
 次の瞬間、女の言葉は途切れた。女の身体は凍りついたように止まった。その顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。時雨は見下すように女の固まった表情を見据え、やがて言った。
「そろそろ潮時だとは思っていたが、よもやこんな状況で使うことになるとは」
 カヤは苦しそうに身を捩り、時雨へと向き直った。
「どういう意味よ! それに何なのよ、これは! 身体が動かない――私の身体に、何をした」
 時雨は手に握り締めた小型の機械をカヤへと掲げて見せた。カヤは口を開いた。だが、彼女の声は聞こえなかった。その沈黙が驚きを帯びているのを、瑞穂は肌で感じ取った。
「お前の本当の姿になる時が来たな」
「本当の姿? 何よ、それ。私は私だ。本当の姿なんて――」
「違うんだよ。お前は、お前が最も蔑んでいた化け物と、射水 氷と同じだ。人間ではない。私が造り出した、生体兵器だ」
 カヤは首を横へと振った。だが、その否定の動きとは裏腹に、彼女の瞳は爛々とした輝きを湛えていた。イグゾルトの証である、真紅の光だった。
「知らないわよ、聞いてないわよ、そんなこと。時雨、あんたいつの間に、私の身体を――」
 女の顔は既に人間のものでは無くなっていた。前歯が異常に伸び、鼠にように歪んでいた。透き通るような声は濁り、白い肌を茶色い体毛が覆い始めている。
射水 冷の遺伝子と自己再生能力をお前に付加する際に、特殊電波発生装置を埋め込ませてもらった」
「嘘だ。それなら、私は人間の筈だ」カヤは叫いた。「人間は、特殊電波発生装置の影響は受けないはずだ。辻褄が合わない」
「簡単なことだ。射水 冷の遺伝子に、既にラッタの遺伝子が組み込まれていたのだよ。ラッタの遺伝子の形質は、冷にも、お前にも発現しなかったようだが、特殊電波によってその形質が発現することは十分に考えられる。気付かなかったか? お前が自在にポケモンを操れるのも、お前の中に潜んでいたラッタの遺伝子が影響していたんだよ」
 カヤの瞳が大きく見開かれた。絶望に満ちあふれた紅い瞳は、眩い閃光に突き破られるかのように破裂した。鮮血が女の顔を汚した。コンタクトレンズを失った近視の人間のように、カヤは四つん這いになり、両手で地面を探るような仕種を見せた。動く度に瞳からこぼれる鮮血が床へと垂れた。
 口は裂けていた。カヤは譫言のような呟きを繰り返していた。だが、時折人間の声ではない、獣の咆哮が狭い通路に反響した。女の意識は、獣の意識に浸食されていた。
「嫌よ。嫌だっての。私は化け物じゃない! こんな、こんなこと認めない! 私は、あんな醜くて臭い姿にはなりたくない。やめて――やめろよ。やめてよ、時雨! お願いだって!」
 破裂した瞳のあった窪みから、獣の眼が覗いた。全身の皮膚が張り裂け、濁った茶色の体毛と腐敗臭を発する皮膚と風船のように膨れあがり、女の身体を包み込んだ。
 女は、人間の皮を剥ぎ、巨大な鼠の化け物へと姿を変えていた。凶悪で暴虐な顔には知性の欠片も無かった。女の声は既に聞こえなかった。瑞穂に聞こえるのは、特殊電波”リリィ”の内に秘められた、野獣の如き破壊衝動からくる呻きだけ。だが瑞穂には、カヤの残虐な心がそのまま具現化して、彼女の身体を乗っ取ったように思えてならなかった。
 瑞穂は横目で、ミルとゆかりの方を見やった。
「何あれ、あの姿は」
 ミルは放心しきった表情で呟いていた。ゆかりは、ミルの身体をしっかと抱きしめ、汚らわしい獣から、ひたすら眼を逸らしている。
 呻きを吐き出し終え、鼠の姿をした獣は吠えた。邪悪な咆哮に、空気が震撼した。
「腹が減っているようだな」
 頬に飛んだカヤの鮮血を手の甲で拭うと、時雨は呟いた。手にしている小型の機械を操作する。通路の天井が開き、そこから鎖に縛られている男が、法柿が吊り降ろされた。
「法柿。どうして――」
 氷はボロ布のような身体を捩って半身を起こした。法柿の顔は苦渋に歪みきり、全身には打撲のような痕が痛々しげに残っている。悔しげに呟かれた言葉も、痛みに掠れていた。
「悪いな、氷。ミスっちまった。まさか、時雨まで――」
 法柿の顔が鋭く左右に弾けた。これ以上余計な事を喋るなと言いたげな表情で、時雨は法柿を殴りつけていた。法柿の顎の骨が砕ける音が響き、彼の声は掻き消された。
「餌だ。カヤ」
 下品な雄叫びをあげ、カヤは法柿の下半身に食い付いた。法柿は金切り声を発した。悲痛な叫びが辺りに響き、瑞穂は思わず眼を背けた。だが、少年の肉と骨とが引きちぎられ、一緒くたに掻き回される生々しい音からは逃げられなかった。
「殺すな――法柿を殺さないで――」
 氷は力なく項垂れていた。幾つか指の欠けた掌で床を引っ掻きながら、少女は身悶えていた。
 法柿の悲鳴は長くは続かなかった。断末魔の叫びごと、法柿は獣に喰われていた。後に残ったのは、鮮血のこびり着いた鎖だけだった。無惨に天井から垂れ下がる鎖は、悲鳴の反響で左右に揺れていた。
「裏切り者には死んでもらわなければな。逃げ隠れていれば良いものを、わざわざ私を殺しにやってくるとは、愚かなものだ」
 両腕についた血を意地汚く舐め回す獣を蔑むように眺め、時雨は言った。
「カヤ、命令だ。洲先瑞穂と、裏切り者の射水 氷を喰い殺せ」
 獣は時雨の言葉に呼応し、咆哮した。真紅に輝く瞳を瑞穂へと向け、異常に伸びきった前歯を突き出す。全身の体毛が逆立っていた。獲物を狙う獣の仕種には、人間としての理性とかそういった諸々のものが抜け落ちているかのようだった。
「ここで失礼するよ。私も暇では無いのでね。いつまでも、お前達のような子供に構っていられないのだよ」
 時雨は、獣が瑞穂達に飛びかかるのを確認すると、背を向けて足早に歩き出した。
「待ってください!」瑞穂は叫んだ。
「あなたに聞きたいことがあるんですよ。あなたは一体、何をしようとしているんですか? 何を隠しているんですか? 何のために、こんな非道い事をするんです!」
 瑞穂の問いかけに時雨は答えず、ただ一度だけ、肩越しに鋭い眼差しを向けただけだった。時雨は冷たい足音を響かせて、立ち去っていく。瑞穂は尚も声を張り上げたが、少女の声は、立ち去ろうとする彼の背中は、上空から踊り来る獣の巨体によって阻まれた。
 鼠の姿をした獣は口を大きく開き、鋭い前歯を瑞穂へと突き立てた。瑞穂は咄嗟に後方へと身を翻し、自分へと振り下ろされる前歯を避ける。
 獣は少女の姿を追いかけ、顔を上げた。瞳から漏れる紅い閃光が、床へと着地する瑞穂を、そこに生まれる一瞬の隙を捉えた。獣は殺意を剥き出しにしたまま、前傾姿勢をとった。
「お願い、リンちゃん!」
 突っ込んでくる獣を真正面から見据え、瑞穂は叫んだ。その声に呼応し、計ったようなタイミングでリングマはその巨体を動かした。
 握り締められたリングマの拳が、獣の頬を鋭く抉る。獣は殴られた反動で頭から壁へと突っ込んだ。轟音と共に土埃が獣を覆い隠すように舞う。リングマは両腕を広げ、相手の反撃に備えた。
 土煙を振り払うように飛び出し、獣はリングマへと牙を剥きだした。鋭い前歯が、牙がリングマの左上腕に食い込んだ。リングマは腕を振り回し、獣を壁へと擦り付ける。獣は牙を抜く、その一瞬の隙を突き、リングマの長い爪が、獣の顔面を切り裂いた。リングマは尚も、獣の身体を斬りつける。獣は壁に抑えつけられ、夥しい鮮血を吹き出し始めた。
 その時だった。不意に身体の支えを失い、リングマは倒れた。獣はリングマの巨体を跳び越えると、瑞穂へと詰め寄った。
「リンちゃん、どうしたの?」
 リングマは立ち上がり、瑞穂へと頷いて見せた。僕は大丈夫だ、という意志表示だった。瑞穂は頷き返す、と同時にリングマの足もとを見つめ、驚愕に口を開いた。
「リンちゃんの立っている場所――腐ってる」
 リングマの立っていた床は、腐敗して陥没していた。突然、身体のバランスが崩れた原因は、腐った床にあったのだ。
 間髪入れずに獣は、瑞穂へと飛びかかった。リングマは腕を振り上げ、地面を打ち抜く。鋭い地響きと共に衝撃波が地面を伝わり、獣の足下で弾けた。岩石封じである。突きだした岩は獣を包み込み、その身の自由を奪った。
 だが、獣を覆っていた筈の岩は崩れた。発砲スチロールのようにボロボロと、始めから脆かったかのように崩れた。岩石の裂け目から覗く獣の瞳は、一段と妖しい輝きを増していた。
「まさか、この人のex能力は、自由に物を腐らせることができる能力?」
 天井が軋んだ。リングマは即座に上方を見やった。天井の一部が黒ずんでいた。やがて、その部分は剥がれ落ち、瑞穂へと向けて落下した。彼は腕を伸ばし、落下物を払い飛ばした。
「あ、ありがとう、リンちゃん」
 身を強張らせて瑞穂は言うと、払い落とされた天井の破片を見やった。破片は腐食しきっていた。
「どうやら、間違い無いみたいだよ」
 ゆかりを庇うように身を屈め、ミルは呟いた。首からかけた水晶を掌で包み、指の隙間から漏れる輝きを食い入るように見つめている。
「胸の水晶が――”虹の瞳”がそう言ってるからさ」
「どういう事?」
「この虹の瞳と深海の涙は、exって特殊能力と、何か繋がりがあるんだと思う。崖から落ちても私が死ななかったのも、リリィって人の意識が生き続けて、他のポケモンの精神に介入する能力を身につけていたのだって、水晶の影響を受けたから。だから感じるのさ。あの化け物の持っている能力は、生物以外の物を自在に腐らせる能力”腐敗”」
 ミルの言葉を聞きながら、瑞穂は獣を見据えた。少女と獣は正面から対峙している。獣は全身の毛を逆立て、今にも少女に飛びかからんと、牙を剥きだしていた。
 リングマの攻撃によって受けた深い傷は癒えていた。常識を遙かに凌駕する自己再生能力によって、頭部に刻まれた傷は消えていた。
「”腐敗”の能力も厄介だけど。一番の問題は、あの人の再生能力だね。どんな攻撃でも、あの人には通用しない」
「それなら――」
 口から夥しい鮮血を滴らせ、氷は言った。苦しそうに身を捩らせつつ首を振り、頬を流れる涙を落とすと、少女は赤く染まった牙を軋ませた。
「私に考えがある。私が合図をしたら、リングマに破壊光線を発射させて。それだけでいい」
「でも、リンちゃんの破壊光線は当たらないと思うよ。あの人は素早いし、”腐敗”の能力でまた足もとを狙われたら、かえって危ない。室内なら尚更だよ」
 氷は瑞穂の言葉には応じず、血塗れの身体を起こした。射るように鋭い瞳で獣の姿を凝視し、左腕を獣へと伸ばした。
「氷ちゃん? まさか――」
 氷の身体が膨らんだ。白く細い腕に紫色の鱗が浮かび上がった。噛みしめられた牙が長く鋭く伸び、少女のあどけなく澄んだ瞳が大きく見開かれ、そして破裂した。透明な液体が少女の顔を濡らす。ぽっかりと空いた窪みから、蛇の姿をした触手が伸びた。
 血に汚れ、ボロ布のような黒いワンピースが、少女の身体から溢れるように伸びる触手に突き破られた。雪のように白い少女の裸体は、ひしめき合う無数の触手に包まれた。呻るような咆哮が響く。射水 氷の小さな身体は、すでにそこにはなく、蛇の触手を全身から伸ばす、異形の巨体が佇んでいた。
「何これ?」
 呆然とミルは呟いた。少女が”化け物”へと変貌した事実を飲み込めていないようだった。縋るように瑞穂の表情を伺うが、瑞穂は何も言わずにミルから眼を背け、異形の姿へと視線を移した。
 背後から倒れる音が聞こえた。ミルが気を失い、倒れた音だった。ゆかりはミルの身体を揺さぶるが、反応は無かった。
「私は人間じゃない」氷は呟いた。
「でも、瑞穂ちゃんは、私のことを人間だと言ってくれた。こんな醜くて汚くて臭い私を。嬉しい。感謝している。だけど、それは瑞穂ちゃんが私のことを知らなかったから。私のしてきたことを知らなかったから。これで、瑞穂ちゃんは私を軽蔑する。私が人間じゃないと言う」
 異形は、瑞穂へと飛びかかろうとする獣を抑えつけた。無数の触手で獣の身体の自由を奪う。触手の一本が、獣の頭部を突き刺した。途端に、獣の瞳は輝きを失う。触手が、頭部に植え込まれていた特殊電波発生装置を貫いたのだ、と瑞穂は直感した。
「今よ、瑞穂ちゃん」
「でも、氷ちゃんが――」
「早く!」
「う――うん。リンちゃん、破壊光線!」
 躊躇いがちな瑞穂を押しのけ、リングマは口を開いた。眩い閃光が迸り、破壊光線が発射された。瑞穂は咄嗟に身を伏せた。熱線は狭い部屋を灼き、衝撃波が床を抉る。爆風が少女達を弄ぶように吹き飛ばした。

 

○●

 獣の破片が四散していた。異形の身体が飛散していた。
 細切れになった獣の身体が、微かに動いた。周りに散らばった破片を吸収し、身体を再生させていく。
 触手が伸びた。異形の触手。打ち捨てられたように転がる氷の首から、無数の触手が伸びていた。触手は獣の破片に噛みついた。獣の身体は、それを拒むように痙攣した。
 氷は首の断面から触手を伸ばし、触手を手足のように用いて、獣の肉片へと歩み寄った。氷は口を開いた。獣の肉を、小さな口へと含む。噛み砕く。少女は泣いていた。泣きながら、獣の腐敗臭漂う肉片を貪っていた。湿った音が、少女の口から漏れる。自分の臭いと獣の臭いが混ざり、氷は肉を喰らっては何度も異臭に咽せて嘔吐した。他の触手は、見る間に獣の肉片と、自分自身の破片を喰い漁る。
 獣は、一位カヤは死んだ。正しく言うならば、一位カヤを喰った獣は、氷に喰われた。どれほど優れた自己再生能力を有しようと、喰われ吸収されてしまえば、再生はできない。
 瑞穂は身体に降り注いだ砂埃を払おうともせず、氷の姿を見つめていた。呆然と、食い入るように。その瞳には涙が滲んでいた。だが、少女は涙を流すよりも先に、吐いた。その場で、げえげえ言いながら。遅れて、目尻から涙がこぼれた。
「これでも、私を人間と言える? こんな姿の私を、人間と言える? でも、私は化け物じゃないんだよ。昔は、生まれた時は、人間だったんだよ? 普通の女の子だったんだよ? どうして、こんな姿になったんだろうって、今思うの。今までは、そんな事、深く考えなかったのに、あの女を殺した途端、なんで今になって、そんなこと考えるんだろう――」
 瑞穂は汚れた口許を布で拭い、そっと氷へと近づいた。氷の身体は、既に異形のものではなく、白く小さな少女の裸体として血痕の滲みた床に転がっていた。瑞穂は氷を抱きかかえた。氷の身体に体温は無く、冬の空気と同じくらいに冷たい。
「よく解った。氷ちゃんの言いたいこと。確かに、氷ちゃんは人間じゃないかもしれない。でも、私は、氷ちゃんのこと好きだよ。氷ちゃんは優しい人だよ。それで良いじゃない。どうして、そんなに拘る必要があるのかな」
「姉さんは、実は本当の姉さんじゃなくて。法柿も死んじゃった。私には、もう誰もいない。だから、せめて人間でいたい。もう、こんな身体は嫌なの。瑞穂ちゃんだって、さっき私のことを見て、吐いてたじゃない――」
 氷は、瑞穂にしがみついた。嗚咽を続ける氷の声は涙に震え、虚しく響いていた。
「そうだよね、ごめん。でも、私にもわからないよ。どうしたら、氷ちゃんを助けてあげられるのか。綺麗事だけじゃ、誰も救えない、何も解決できない。それなら、どうしたらいいんだろう」
 いつしか氷は寝息を立てていた。泣きながら眠っていた。胸の中で眠る少女の裸体の芯にある冷たさを感じながら、瑞穂はずっと考えていた。どうすれば、どうやれば、この少女を救えるのか。
 だが、どれだけ考えても、無力な自分に、ただ打ちのめされるだけだった。行き場の無い焦燥に、瑞穂は蹲り目を閉じた。
 今はまだ、氷の冷たい身体を抱きしめ、その脆く不安定な存在を放さないようにするしかなかった。放してしまえば、少女の身体は何処かへ、自分の手の届かないところへ消えてしまいそうだったから。

 

○●

 翌日、少女達は組織のアジトを後にした。
 ミルはぎこちない笑みを見せながら別れを告げた。言いながら、その瞳は恐れるように怯えるように氷を見つめていた。いつまでも、一緒にいるわけにはいかないからさ。あの男が、深海の涙の持ち主が、この近くにいるのを感じるし。言い訳でもするかのような苦しげな口調だった。
 氷は、落ち着きを取り戻していた。だが、表情の無い仮面の下は愁いに沈んでいた。暫く、独りで考えてみる。氷は言った。あの女が死んでも、私の生きる意味が無くなった訳じゃないから。私は、これから何をするべきなのかを、もう一度考えてみたい。
 瑞穂とゆかりは深い雪を踏みしめながら歩いた。時折、吹き抜ける突風が、粉雪と共に冷たい記憶を呼び覚ます。ミルの怯えた視線。氷の、壊れてしまう寸前の精一杯の言葉。
「なあ、お姉ちゃん。これから、どうするん?」
カントーに――トキワシティに行こう。すべての発端である、私達の故郷に」

 奇妙な偶然は重なるもので、別々に散った筈の少女達は、再び交わることになる。それは運命ではなく、棄てられた天使達の種よって。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-3

#14 愛憎。
  3.途切れた螺旋

 

 氷の抜け道を北に抜けた先に、ジョウト最北端の小さな街、シマナミタウンはあった。
 だが、今は何もない。人も建物も見えず、誰の声も聞こえない。焼け焦げた瓦礫や屍体の跡を隠そうとするかのように、色のない雪が一面を覆い尽くしているだけだった。
 氷は無言を貫いていた。何も言わずに、歩きにくい雪の上を一歩一歩踏みしめるようにして歩いていた。そんな氷の冷たい気迫に圧倒されたのか、後ろからついて歩くミルとゆかりも押し黙っている。
 5分ほど歩いただろうか。氷は前触れもなく立ち止まると、洞窟を抜けてから初めて口を開いた。
「ここが組織の地下アジトへの侵入口――そして、私の父さんと母さんのお墓」
 少女は視線を地面へ向けた。反射する雪の光が、物憂げな少女の横顔をさらに白く照らした。降り積もった雪の奥深くに微かに、大きな皿のような物体が見える。マンホールの蓋のようだと、ゆかりは思った。
「お墓って、どういうことさ?」
 ミルは眩い光を遮るようにして掌を翳し、氷へと問いかけた。
「ここは、私の生まれた街だった。でも、今は何も残ってない。5年前に組織がやってきて、街を焼いて、街の人を殺して埋めた。雪崩で街が消えたように見せかけた。何処に誰が埋まっているのかも解らない。だから、ここを母さんと父さんのお墓に決めた」
「え――?」
 ミルは戸惑いを隠せずに、声を漏らした。みんな殺されて、埋められた? 街が焼かれたって、それって――
 眼の辺りを覆っている指の間隔を少しだけ開き、ミルは掌の隙間から氷の口許を見やった。
「何で? どうして、あいつら、そんなことをしたのさ」
「ここの地下に自分達のアジトを建てるために、この街は邪魔だった。この侵入口は、昔の街の下水道の名残。組織の人間はここから侵入できることに気付かなかったみたいだけど」
「邪魔だったからって何それ、非道い――そんな理由で、みんな殺しちゃうなんて、何考えてるのさ、あいつら」
 ミルは自分が傷つけられたかのように、痛そうに顔を歪めた。氷は相変わらず無表情のまま、しゃがみ込んで雪の中に手を入れ、何かを探し始めた。
「でも、それが組織のやり方。そして、あの男のやり方」
 無感情で他人事のような呟きだった。感情の入り込む余地のない口調だった。
 ミルは、表情を動かすこともなく訥々と話し続ける氷を凝視した。彼女が何を考えているのか解らなかった。たとえ説明を受けたとしても、理解できそうに無いなと思った。それほどに氷の冷静すぎる性格は、そして感情が表に出ることのない、仮面のように凍りついた表情は、ミルにとって捉えがたいものだった。
「あのさ、私も氷ちゃんと似たような境遇って言うか、その、あれかな、そんな感じなんだけどさ」
 ミルは頭を掻きながら、言いにくそうに氷へと話しかけた。氷は瞳だけを泳がすように動かして、ミルを見やった。睨まれたような気がして、ミルは微かに背中を仰け反らせた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるのさ。あたしだったら我慢できないよ。そりゃ、ずっと悲しんでるのもあれだと思うけど、氷ちゃんは何だか、話し方が他人事みたいっていうかさ。なんて言うか、冷たくない? 全体的に」
 氷は雪の中から、トランシーバーのような小さな機械を取りだした。表のパネルについているボタンを操作し、小さく呟いた。
「法柿の言った通り。あとは――」
「ちょっと、質問に答えてよ!」
「私は――」氷は機械を操る手を止めて俯いた。
「自分のことだけで精一杯だから。昔のことなんて思い出している余裕は無い。それに私はもう人間じゃないから、人間としての感情は死んでいるのかもしれない」
「人間じゃない? やっぱりわかんないや。どう見たって人間でしょ? そりゃ、友達できなさそうな性格だけどさ」
 ミルの言葉を無視し、氷は白い指先で巧みに機械を操作した。暫くして、小さな音が一瞬だけ鳴った。氷は立ち上がると遠くを見据え、眼を細めた。視線の先にあるのは、近づいてくる人影。白い雪の眩しさでよく見えないが、サングラスをかけた男だということだけは確認できた。
「誰なん? あれ」不安げに氷に寄り添い、ゆかりは訊いた。
「法柿よ。私が組織から逃げるときに協力してくれた男。ここで、待ち合わせをしていたの」
 サングラスの男、法柿は軽く手を挙げ、親しげに氷へと話しかけた。
「久しぶりだな氷。で、後ろの2人は誰だ?」
「あの娘の――瑞穂ちゃんの知り合い。それより瑞穂ちゃんは、無事なの?」
「ああ、暫くは大丈夫だ。あの女、喋りだしたら止まらないからな」
 氷は眼を細めた。微かに口の端がひきつっているのをミルは見逃さなかった。出会ってから初めて、ほんの少しでも氷が感情を剥き出しにした瞬間だったから。先程までの淡々とした口調も、刺々しいものへと変わっていた。
「昔と変わってない。進歩の無い女ね」
 突き刺すような鋭い瞳で、氷は手にした機械へ視線を落とし、再びボタンを操作した。ミルとゆかりも戸惑いながら、恐る恐る覗き込む。
「瑞穂お姉ちゃんの声が聞こえる――」
 ゆかりは神経を研ぎ澄ますようにして目をつむった。小さく雑音も混じってはいたが、確かに瑞穂の声が機械から聞こえてくる。誰かと話をしているようだが、話の内容までは聞き取ることができなかった。
 法柿は、ずれかけたサングラスを指で押した。
「氷が組織を抜け出す作戦の為に設置した通信機だ。あの女なら、間違いなく瑞穂って女の子をあの牢獄に連れ込むだろうからな。そのままにしておいて良かった」
「そうね。これで、あの娘の居場所は解った。あとは――」
 氷は腰につけたモンスターボールから、エーフィを繰り出した。静かな口調で、指示を出す。
「場所を伝えて。タイミングは、通信機から私が指示する」
 エーフィはしなやかに頷き、紫色の瞳を妖しく光らせた。誰かに何かをテレパシーで伝えているようだった。
「さて――」氷はエーフィを戻し、法柿とミル達へ向き直った。
「私達は今の内に、ここの地下にある組織に潜入する。まずは、恐らく隔離されているであろう瑞穂ちゃんのポケモン達を見つけること。そして、瑞穂ちゃんを助けだす」
「お姉ちゃんを助けるのが先やろ?」
 ゆかりは不満げに眉を潜めた。
「まぁ、待て」法柿は制した「すぐに助けに行っても、手持ちのポケモンがいない状態じゃ、かえってその女の子が危険だ」
「そやけど、早くせえへんと、お姉ちゃん殺されてしまうやん」
「大丈夫よ――大丈夫」
 氷の言葉に、ゆかりは顔を上げた。鈴の音のような小さな呟きだったが、芯の通った声だった。気のせいだろうか、とゆかりは呆然と氷の目を見つめた。さっきの声、瑞穂お姉ちゃんの声みたいやった。弱々しいけど、なんだか頼りになる、あの声にそっくり。
「そろそろね」
 呟くと、氷は機械の横についている目盛りを調節した。上部のランプが赤く点滅した。機械から発せられる瑞穂の声が大きくなる。何かを叫んでいる。と同時にあの女の、一位カヤの笑っているかのような金切り声が響いた。
 少女の白い手に、青く太い血管が浮き出た。手が震えるほどに機械を強く握り締めている。睨み付けるような瞳は突き刺す針のように細く、その視線はただ一点に、手にした機械でもその下に広がる雪でもなく、記憶の中にぺったりと張り付いた一位カヤへのみ注がれていた。
 ミルは突然膨れ上がった氷の憎悪に、思わず視線を外した。得体の知れない嫌悪感が背筋を襲い、彼女は締めつけられるような意識の中で、知らず知らずのうちに歯を食い縛っていた。
 氷は通信機のボリュームを最大限に上げた。そして言葉を発した。
 銃声が、機械を通して雪の大地に轟いた。

 

○●

 冷たく閉ざされた牢獄に、銃声が響いた。だが、瑞穂の眼前に見えるのは、火を噴く銃口でも、カヤの興奮に歪みきった表情でもなかった。
 激しく土煙が舞っていた。コンクリートの床がひび割れ、同時に地面から何か長いものが突き出ていた。
 瑞穂は大きく目を見開いた。少女は、自分が今見ているものを、自分の目を疑った。土煙のために狭くなった視界を、紫色の鋭い刃が横切った。何処かで見た記憶がある色だった。妖しく、それでいて哀しみに溢れた紫色の髪。表情の見えない、仮面のような少女の眼差しが、氷の呟きのような言葉が甦った。それと同じもののような、良く似た紫の色。
「ポイズンテール――!」
 視界に残った紫の残像とまったく同じように、瑞穂の耳に木霊する氷の言葉。少女は全身の痛みを堪えて身を乗り出し、辺りを見回した。氷の声は何故、何処から聞こえたのか、誰に指示を出したのか。
 ひび割れたコンクリートの床に何かが落ち、鋭く重い音が沈黙の中で反響した。見開かれた瑞穂の瞳は、即座に音のする方へと動いた。床に転がっていたのは、カヤの手にしていた銃だった。紫の刃によって弾き飛ばされ、拳銃は瑞穂の頭上で、誰もいない天井へ向けて火を放っていたのだ。
 拳銃の存在に気付くと同時に、黒いそれは真っ二つに割れた。断面は、強い酸を浴びたかのように溶けていた。細く今にも消え入りそうな煙の昇る銃口から、先程見た刃とまったく同じ色の、紫の毒液が流れ出ている。
 身体が軽くなった。手足を縛っていた鎖が切れていた。支えを失った瑞穂は、疲労と痛みからかそのままコンクリートの冷たい床へと投げ出された。白く細い胸が、冷たい床に押しつけられる。床を転がっていく鎖の破片は、カヤの拳銃と同様に断面が溶けていた。
 脱力したかのように大きく息を吐き、瑞穂は顔を上げた。目の前にいるのは、巨大な蛇の形をしたポケモンだった。
ハブネーク?」
 瑞穂は問いかけるように呟いた。口には鋭い牙、尻尾には鋭い刃を持ち、全身に稲妻のような紫の模様が浮かんでいる。牙蛇ポケモンハブネークである。それもただのハブネークではなく、通常よりも一回り程大きい。全長は三メートル半はあるだろうか。
「瑞穂ちゃん、聞こえる? 私よ――」
 再び、氷の声が牢獄に響いた。
「氷ちゃん? どうして、氷ちゃんの声が?」
 氷の声が聞こえる方向へ、瑞穂は視線を移した。鉄格子。その隙間にビー玉ほどの大きさの黒い玉が挟まっていた。黒い玉は氷の小さな声に呼応して、微かに赤い点滅を繰り返している。
「通信機か!」
 瑞穂よりも一足早く通信機の存在に気付き、カヤは忌々しげに吐き捨てた。鋭い歯軋りの音。先程までの笑みは既に無く、楽しい遊びを突然邪魔された子供のように、下唇を噛みしめている。
「私の話を聞いて――」氷は続けた。
「まずは部屋から脱出して。長い廊下の先に階段がある。それを昇って、後は私のハブネークがついていくだけでいい。この子は私の居場所を感知できるから」
「う、うん――よ、よろしく、ハブちゃん?」
 痛みを堪えつつ、なんとか起きあがると、瑞穂はハブネークの巨体を見上げた。見下すように冷たいハブネークの瞳は、氷のそれと似ていた。勝手な愛称を付けるな、とでも言いたげに瑞穂を睨んでいる。
「待ちなさい!」
 両手を広げて土煙を振り払い、カヤは叫んだ。言葉の矛先は、脱出しようと身構える瑞穂ではなく、通信機を介して聞こえる氷の声へと向けられていた。興奮で上擦る声。瑞穂のことなど、既に眼中に無いようだった。
「帰ってきたのね? やっと、帰ってきたのね」
 氷は応えなかった。代わりに通信機から聞こえるのは、何かの擦れるような音。通信機を力の限り、怒りに耐えきれずに握り締める音。
「は、ハブちゃん! えーと――」
 瑞穂はハブネークへの指示を考えた。自分のポケモンでは無い為に、使える技を把握できていない上、あまり高度な指示を出すこともできないのだ。
「黒い霧とか、できる?」
 当然だ、と言わんばかりの勢いでハブネークは口を開き、黒い霧を散布した。黒い霧は瞬時に部屋全体を薄く満たし、カヤの視界を遮った。
「どうして無視するの、氷。私のことが、まだ恐いの?」
 黒い霧に包まれながら、狭まっていく視界を気にする様子も見せず、カヤはただ言葉を吐き出し続けていた。まだ恐いの? 可哀想な娘ね。本当に可哀想で、惨めで、可愛い化け物ね。
 止めどなく紡ぎ出されるカヤの言葉に、瑞穂はチラリと横目で女の姿を見やった。女の姿は次第に濃くなっていく霧に阻まれて見えなかった。声だけが聞こえた。それよりも大きく、氷の震えるような呻きが漏れていた。
「ハブちゃん、ポイズンテールで鉄格子を切って!」
 言われるまでもない。鼻を鳴らすような独特の鳴き声と同時に、ハブネークは尻尾の刃で鉄格子を切り刻んだ。
 その瞬間、カヤの瞳が、瞳だけに意志があるかのようにぐいと動いた。片手だけが反射的に跳ね上がる。無意識に握り締められたモンスターボール。力が抜けるように手を離す。ボールが地面に触れる。それと同時に、稲妻が一直線に瑞穂へと走った。
「氷が帰ってきたから、あの娘はもういらない。ライチュウ、処分しておいてね」
 黒い霧の中で、激しい光がバヂバヂと音をたてながら迸った。床に転がっている鉄格子の破片がスパークする音。誰もいない。電撃の触れる寸前に、瑞穂達は部屋から飛び出していた。
「先に行って、殺しておいて。私は氷を捜す。私は氷と一緒に居たい」
 通信機の先を、そこにいるであろう氷の姿の一点のみを見据えながら、カヤは呟いた。興奮を抑えきれないのか、肩が小刻みに震えている。
「今、何処にいるの?」
「焦らなくても――」
 氷が初めて、カヤへと呟いた。感情を抑えているかのような、上擦った声だった。時折こぼれる雑音は、少女の歯軋りか、通信機を握り締める音か。
「すぐに会える。私は、もう逃げはしないし、隠れもしない。お前を恐いとも思わない。ハブネークの――あの子の向かう先に私は待ってるから、決着をつけよう」
 ドサ、という篭もった音が通信機を通して響いた。少女の手にしていた通信機が、雪の中へ落ちた音だった。通信機は暫く、沈黙しきった牢獄の中で不明瞭な雑音を発していたが、唐突に、太い糸が断ち切られる時のような音と同時に途切れた。ブツリと。
 沈黙は長くは保たなかった。カヤの堪えるような笑い声が鉄格子の欠片に反響した。とても楽しそうな、獣の鳴くような声が。

 

○●

 湿った床が断続的に、小刻みに足音を奏でた。長く続く階段を登り切り、色褪せた照明の中で立ち止まると、瑞穂は、闇を流し込んだように薄暗い階下を見下ろした。小さな掌で胸元を押さえる。紅潮する頬には、緊張と恐怖から冷たい汗が滲んでいる。
「追ってこない。一体、どうして――」
 逃げるとき咄嗟に拾い上げた、自分の下着と衣服を身に着けながら、瑞穂は呟いた。階下に見えるのは何もなく、不気味な静寂だけが底に溜まっている。
 沈黙を掻き消すかのように、ハブネークが鋭く鳴いた。瑞穂は驚いて、背後に佇むハブネークの方へと振り向いた。立ち止まるな! 叫んでいる様子でもあり、何かを知らせようとしているようにも取れた。
 瑞穂は無言のまま、小さく頷き返した。わかってる、先を急ごう。ハブネークに導かれるままに、薄暗く狭い通路を歩いた。
 暫く歩いた後、ハブネークは立ち止まり、首を擡げ、鋭い瞳をその凶暴な顔ごと、すぐ側のドアへと向けた。ポイズンテールが空を斬った。それは彼の低い呻き声とほぼ同時で、側にあるドアは毒液と衝撃波に吹き飛ばされた。彼はさらに顎を上げ、睨むような冷たい視線を、部屋の中へと注いだ。
「その部屋に、何かあるの?」
 ハブネークは微動だにせず、ただ一方向を見続けている。瑞穂は小首を傾げ、恐る恐る部屋の中を覗き込んだ。
 白い物が見えた。骨だった。白骨化した屍体が、無数の屍体が、人間、ポケモンを問わず積み上げられていた。上の方に積まれている屍体は比較的新しく、黒々と腐った肉を纏い、腐臭を放っている。下の方の屍体は、粉々に砕けており、原形を想像することすらできなかった。
 瑞穂は絶句した。微かに漂ってくる腐臭を堪えながら、夥しい数の屍体を見据えた。首が顔が眼球が、身体のすべてが固定されたかのように動かなかった。
 バネで弾かれたように少女は部屋を飛び出し、冷たい壁にもたれ掛かった。
 ただの屍体ではなかった。ただの屍体なら、ここまで動揺することは無かった。病気で死んだにしろ、殺されたにしろ、悲しいことだが見慣れている。非道いと思っても、憤りを感じても、そこで思考は止まる。それ以上前へ進むことはない。
 喰われていた。食べられていた。鋭い牙の痕が、白骨化した小さな頭に、頭蓋に残っていた。所々、虫食い状に穴のあいた屍体もあった。下半身のちぎれた屍体が見えた。喰われている。誰に――誰が食べた?
 思考は、踏み入れてはならない領域へ及んだ。想像してしまった。瑞穂の脳裏を、少女の呟きの言葉が掠めた。”私は人間では無いのだから”
「氷ちゃんの食べたあと――」
 次の瞬間、鋭い電撃が瑞穂を襲った。瑞穂は咄嗟に電撃を避けた。電撃は部屋の中で炸裂し、屍体の山を粉みじんに吹き飛ばした。生臭い埃が、狭い通路に充満した。
「今の電撃は!?」
 瑞穂は片腕で眼を覆いながら、土煙の奥を凝視した。赤い光が見えた。閃光と言ってもいいくらいの点滅が一頻り起こり、やがてぼんやりと二つの点が、真っ赤に光る二つの瞳が浮かび上がった。
 不気味な既視感を感じた。瑞穂は背筋が瞬時に冷えるのを感じた。異質な気配に、身構えるハブネークの瞳にも緊張が見てとれた。
 電撃が、第二波が舞い上がる埃を弾くようにして迸った。瑞穂は後ずさり、ポーチの中を探った。だが、モンスターボールは無かった。ボールだけは別の場所に、他の管理下に置かれているのだろうか。
 鋭い電撃は衝撃波を発した。ハブネークは衝撃波に吹き飛ばされた。紫色の巨躯は全身をピンと伸ばし、空中で姿勢を変えた。
 瑞穂の視線が、頭上を通り過ぎるハブネークを捉えた。掌を振り、眼前に舞っている埃を振り払うと、瑞穂は叫んだ。
「ハブちゃん! 天井にポイズンテール!」
 ハブネークは尻尾の刃を天井に突き刺した。反動で振り子のように大きく揺れながらも、ハブネークは上体を仰け反らせ、電撃を放った相手の方を睨み付けた。
 再び鮮やかな点滅が、真っ赤な瞬きが見えた。鎮まっていく埃の渦の先に、茶色の小さな身体が見えた。音がする。空中放電された電気が、空気中の塵に触れてスパークする音が。
ライチュウ――まさか」
 大きな鼠の姿をしたポケモンだった。頬から放電される青白い電撃が、全身を這うようにして流れている。その丸い瞳は真紅に染まり、不気味な点滅を繰り返していた。
「この真っ赤な瞳は、イグゾルト――」
 ライチュウの煌々と輝く瞳を食い入るように見つめ、瑞穂は愕然と呟いた。ラジオ塔のような大規模な施設でなければ、特殊電波の発信はできない。極小の特殊電波発生装置を脳内に埋め込まれた、疑似ex――イグゾルト以外には考えられなかった。
 反動を付け、ハブネークは天井を振り切ると、ライチュウへ向かってポイズンテールを振り下ろした。刃はライチュウの残像を掠め、床を粉砕した。
 ライチュウは真紅の瞳を爛々と輝かせ、ハブネークの胴体にしがみついた。眩い電撃が迸る。ハブネークは悲痛な呻きを上げ、胴体を捻ると、身体に張り付くようにして抱きついているライチュウを振り払うように刃振るった。
 茶色の身体が跳び上がる。ポイズンテールを避け、ライチュウは空中で身体を回転させると、10万ボルトを地上へ向けて撃ち放った。
 コンクリートの床が、まるで脆いガラスのようにひび割れ、砕けた。電磁波が壁を鑢のように削ぎ落としていく。瑞穂とハブネークは咄嗟に身を屈め、防御の姿勢をとった。
 通常では考えられない威力の10万ボルトだった。普通の10倍程度の電圧で無ければ、此程の破壊を行うことはできないだろう。
「電圧が通常の10倍。それが、このライチュウの能力」
 瑞穂は呟きながら、ハブネークの様子を伺った。電撃に痺れて、動けないでいる。苦しそうな表情を動かさずに、その場で蹲っている。
「ハブちゃん。大丈夫?」
 ハブネークは応えなかった。微動だにしない。瑞穂は彼の身体に触れた。足下が微かに震えた。少女は軽く唇を噛みしめ、背後に降り立つライチュウの気配を肌で感じた。
 ライチュウは電撃を放ちながら着地した。着地と同時に瞳が妖しく、紅く光った。獲物を見つけた狩人のように鋭く、研ぎ澄まされた表情は、狡猾そのもののように歪んでいた。
 真紅の瞳が、一段と輝きを増した。ライチュウは電光石火の勢いで、瑞穂へと肉薄した。不意に、丸っこい顔から微笑みが浮かび上がった。頬に青白い電撃が漲り、それは瑞穂の頭部を目がけて放たれた。
「今だよ! ハブちゃん!」
 瑞穂は跳び上がった。同時に地面が盛り上がり、ポイズンテールが伸びた。ライチュウは驚いたように目を見開いた。真紅の輝きが、彼の表情いっぱいに広がっている。眼前にあるハブネークは本物では無かった。脱皮した後の、中身のない抜け殻だったのだ。
 ライチュウは頭から抜け殻へと突っ込んだ。その隙をつき、狙い澄ましたかのように、ポイズンテールはライチュウの横腹を斬りつけた。ライチュウは反動で抜け殻とともに壁に叩きつけられた。抜け殻はバラバラに崩れ落ち、ライチュウは甲高い呻きを上げた。
 瑞穂は着地し、即座にライチュウの方へと振り向いた。ライチュウは気を失っているようだった。閉じた瞳からは真紅の色は消えていた。それを確かめると同時に、瑞穂は安堵の溜息を漏らした。胸を撫で下ろす。
「良かった。ハブちゃんが、機転を効かせて地面に潜ってくれたお陰で助かったよ。それも、わざわざライチュウの注意をそらすために、脱皮した抜け殻を残してたなんて」
 ハブネークは軽く鼻を鳴らし、瑞穂から眼をそらした。照れているのか、その口許には薄い微笑が感じられた。彼も瑞穂と同じく、安堵しているかのように思えた。
「それにしても――」瑞穂は呟きながら振り返ると、壁に打ちつけられて気絶しているライチュウを見やった。
「あのライチュウ、イグゾルトだった。ここまで実用化が進んでるなんて」
 でも――と瑞穂は考えた。確かにあのライチュウは、普通のライチュウと比べて強い。だが、通常の何倍もの大きさとパワーを誇ったカイリューや、人間が炭化するほどの桁外れな電撃を放っていたエレブーのようなex特性体と比べて、いや、同じ理論で、人工的にex特性を保つイグゾルト、ナゾノクサハッサムと比べても、ライチュウの力は劣っているように感じた。
 オリジナルと呼べる存在でもあり、非常に稀な存在であるex特性体より劣っているのはまだしも、同じイグゾルトより劣っているのは、不自然だった。
 瑞穂はハブネークの長い巨躯を眺めた。少しだけ大きいが、普通のポケモンである。機転が効き頭も良いが、exのような特殊能力を持っているようには見えない。
「ナゾちゃんや、あのハッサムよりも強くない。どういう事だろう」
 その時、金切り声が響いた。瑞穂は即座に振り返った。ライチュウが眼を見開いていた。叫んでいる。瞳は鮮烈な、灼けるような赤色で点滅している。彼の瞳の色と相反するかのように澱んだ赤が、瑞穂の眼に前に散っている。
 鮮血だった。首筋を掻き斬られていた。瑞穂は鮮血の迸る先に蠢く影に気付いた。目を凝らすと、そこに浮かび上がったのは、サンドパンの姿だった。両腕には、鮮血に染まった鋭い爪。さらにその先端には、ライチュウの首筋を掻き斬ったときに付いたと思しき肉片がこびり着いていた。
「案内、ごくろうさま」
 酷薄なカヤの声がした。同時にライチュウは、今にも張り裂けそうなほどに、破裂してしまいそうなほどに眼を剥き出した。サンドパンは、布に針を通すよりも簡単に、瞬時に、長く鋭い爪をライチュウの腹へと刺し込んだ。
「使えないわね。量産型だかなんだか知らないけれど、あんなハブネークにやられるなんて。もっと、もっと、強くなるかと思ったのに。所詮は紛い物、本物のexが欲しいわ」
「どうして、ライチュウを、自分のポケモンを傷つけるんですか!」
 鮮血のシャワーの奥に居るであろうカヤへ向かって、瑞穂は叫んだ。歯を食いしばり、睨み付けながらカヤを問いつめた。
「使えないから。強くなるって聞いたから量産型リリィってのを脳みそに植えたのに、かえって融通が利かなくなったからね。ついでに、あんたも殺せる」
「私を、殺せる?」
「普通の十倍もの電圧の電撃を溜めたライチュウが、死ぬときのショックで一気に放電したらどうなると思う?」
 瑞穂の背筋を冷たい汗が伝った。息を呑み、次第に薄れていく鮮血のシャワーの先へと視線を戻した。サンドパンは爪を引き抜き、血塗れの身体を煩わしげに捩ると、素早く地面へと潜った。ぽつんと残されたライチュウの眼は血走っている。不規則な呼吸が小刻みになり、やがて痙攣を起こした。甲高い泣き声が、パンと弾けて消えた。次の瞬間、彼の頭は、目玉は、膨れ上がる青白い電撃に突き破られるようにして破裂した。
 光が集中した。青白い電撃の塊を中心に、光が吸い込まれた。ハブネークは長い身体で、瑞穂の周りを庇うように覆った。眩い閃光の中で、瑞穂は思わず目をつむり、両腕の中に顔を埋めた。
 爆発した。ライチュウの小さな身体が。衝撃波と共に、猛烈な電撃波が辺り一面を飲み込んだ。鋭い痛みが瑞穂の全身を這い、駆けた。少女は痛みを堪え、目を開いた。目の前にいる筈のハブネークの姿も、カヤの姿も見えず、真っ白な、空白の景色が広がっていた。

 

○●

 ハブネークの鱗が頬に触れた。硬くて、冷たい鱗だった。彼の吐息が、耳のすぐ側から聞こえる。
 水が布に染み込むように、徐々に感覚が甦ってきた。背中を暖かい何かが包んでいる。誰かが、必死に抱きついてきている。背中の誰かは力を強めた。意識が、それまで麻痺していた感情が、胸に溢れた。
「お姉ちゃん」それは呟いた。半分泣いていた。
「また非道い目に遭ってもうたな。そやけど、もう大丈夫や。みんな来てくれたで。みんな、お姉ちゃんのこと、心配してたで。やっぱりお姉ちゃんは、リンちゃんと一緒にいるのが一番お似合いや」
 充満した土煙に咽せながら、ゆかりは辿々しく囁いた。瑞穂の背中にしっかとしがみつき、無邪気に笑いかけている。
「ユユちゃん――それに、リンちゃんも」
 太い足が見えた。力強い腕が見えた。リングマの茶色の巨体が、彼の厚く暖かい胸が、瑞穂の小さく華奢な身体を、その周りにいるハブネークごと抱きかかえていた。
 リングマの背中から煙が立ち上るのが見えた。瑞穂は驚くと同時に、彼が爆発から自分を守ってくれたのだと悟った。不意に胸が締めつけられた。
「リンちゃん、大丈夫? 私のせいで」
 大丈夫だよ、と彼は応えた。それに、姉さんのせいじゃないよ。あいつが――
 胸に抱きかかえた瑞穂をゆっくりと地面に降ろし、リングマは背後の、閑散とした通路の奥に立っているカヤを睨み付けた。爆発の余波に煽られた土煙の中で、カヤは軽く舌打ちしていた。
 あいつが全部悪いよ。姉さんに非道いことばかりして。僕は、許せない。
「瑞穂ちゃん、大丈夫だった? 何とか間に合ったけど」
 瑞穂の肩に手をかけ、ミルがゆかりの肩越しに話しかけた。
「大丈夫だよ。リンちゃんが、みんなが助けてくれたから。ありがとう」
「ほんとに心配したよ。いきなり変な飛行機に連れて行かれるもんだからさ」
 大きな溜息をし、ミルは笑顔をつくった。胸元に光る宝玉が、彼女の心の動揺に同調するかのようにカラカラと音をたてて左右に振れている。
「と言っても、私は何にもできなかったけどさ。あの娘のおかげだよ」
 ミルの指し示す先に、射水 氷は立っていた。相変わらずの無表情のまま、白い顔を微かに傾け、氷は瑞穂の方を見やった。
「巻き込んでしまって、ごめん」
「別に、氷ちゃんが謝ること無いよ」
 瑞穂は、予期せぬ氷の言葉にたじろいだ。
「私が狙われた原因は、前に氷ちゃんも私に訊いてたよね、3年前の事件のことで、氷ちゃんとは関係ないから」
「解ってる。勿論、3年前の事件は無関係じゃない。でも、それだけじゃない。あの女が、瑞穂ちゃんを浚った本当の理由は」
 あれほど勢い良く渦巻いていた土煙が止んだ。氷は目を細め顔を上げ、睨み付けた。沈黙しきった通路の先で微笑を浮かべている、カヤの姿を。
「お帰りなさい、氷」カヤは言った。
「囮の効果は抜群だったみたいね」
「瑞穂ちゃんを囮にしなくても、私は戻ってくるつもりだった。私は、そこまで臆病じゃない」
 氷は敢えて”帰ってきた”という表現を使わなかった。
 呆然と立ち尽くしている瑞穂とリングマを一瞥し、氷は倒れているハブネークへと歩み寄った。疲れ切って動けないでいるハブネークの額を優しく撫でる。ハブネークは氷の姿を認めると、子供っぽく舌を出し、嬉しそうに口許を綻ばせた。氷に対するハブネークの態度は、瑞穂と一緒にいたときとは対照的だった。
「お疲れさま」氷はハブネークをボールへと戻した。
 モンスターボールを腰のベルトにしまい、氷は同じベルトに収められている拳銃を握り締めると、黒光りする銃口をカヤへと向けた。レーザーサイトのポインタがカヤの眉間に映るのを確認し、トリガーに指をかける。
「そんな冗談みたいな銃で、私を殺せるとでも?」
 50口径のハンドキャノンを目の前にして、カヤは白い歯を露わにした。氷の左手に握られたそれは、拳銃と呼ぶにはあまりにも大きく、頭にちょこんと乗っている可愛らしい黄色のリボンよりも、寡黙で小柄な少女には似つかわしくなかった。
「こんな玩具で、お前を殺せるなんて思ってない」
 氷は引き金を引いた。爆音が響いた。少女の身体が、反動で少しだけ後ろへ下がった。
 銃声に反応し、瓦礫の中からサンドパンが飛び出した。身体を丸めて防御姿勢をとり、マグナム弾からカヤを守る。恐ろしい程のコンビネーションだ、と瑞穂は目を見張ると同時に、不思議に思った。
 カヤのような人間が、ポケモンをこれほど――ハンドキャノンの銃口を向けられても平然としているられる程――信頼しているだろうか? 今のコンビネーションは、ポケモンとトレーナーの信頼から生まれたものではない。何か別の、自分達には感知することのできない命令伝達手段があるのではないだろうか。
 サンドパンは銃弾の当たった衝撃で吹き飛ばされた。空中で体勢を立て直し、カヤの足下に着地すると、両腕の爪を伸ばし氷の元へと駆けた。
 氷は即座に、拳銃のグリップ部分の底を、ベルトに付けたモンスターボールへと密着させた。微かにグリップとボールの合間が白く光った。そのまま腕を伸ばし、氷はトリガーを引いた。
「出番よ――アーボック
 レーザーサイトから、白い光が放たれた。光は集束し、やがてコブラポケモンアーボックが姿をあらわした。氷の拳銃は、拳銃としての機能だけでなく、ポケモン射出機能も備えていたのだ。
アーボック、ポイズンファング!」
 研ぎ澄まされた獰猛な顔を付きだし、アーボックは射出の勢いを利用してサンドパンの腹へと突っ込んだ。裂けたように大きく口を開き、サンドパンの脇腹へ毒々の牙を挿入する。
 サンドパンは猛毒に侵された。苦し紛れに振り回す長い爪を器用にかわしつつ、アーボックは氷の下へと戻った。全身に猛毒が回ったのか、サンドパンは倒れた。サンドパンをボールに戻しながら、カヤは口を尖らせた。
「強いのね、あんたのポケモン。どこで捕まえたの?」
 氷はカヤの問いかけには答えず、呟いた。
「今度こそ、お前を殺す」
「それは無理よ。あんたは私を殺せない。それよりあんたのポケモン、そのアーボックハブネークは、もしかして――」
 喋り続けるカヤへ向かい、氷は再びハンドキャノンを突き付けた。カヤは押し黙った。だが、その表情は笑っていた。嫌味な笑みだった。
 リングマの制止を振り切って瑞穂は立ち上がると、黙り込んでいるカヤの表情を凝視した。彼女が今まで見せた笑みの中で、最も危険な笑みのような気がした。一位カヤの闇の、最も深い根から生えているような予感がしてたまらなかった。
「これで終わる」氷は呟いた。自分に言い聞かせていた。
 カヤは頷いた。ゆっくりと、一言一言確実に伝わるように、彼女は言った。
「そう、これで終わる。でも、こんなに長続きした玩具は他に無かった。可哀相だけど、もう潮時なの。私はね、お気に入りの玩具を壊すのが、それも原形が解らないくらいにバラバラに壊すのが大好きなの。今までは、ずっと壊さないように遊んできたけど、もう我慢の限界かな」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-2

#14 愛憎。
  2.硝子の迷宮

 

 凍りついたような静寂の中で、時計の秒針が動く音だけが、妙に騒がしく聞こえた。乾ききった音は、耳から離れずに、どこか自分の気持ちをそわそわと浮き足立たせる。
 鋭田美子は落ち着かない様子で時計を見た。白いプラスチックの枠で囲まれた、飾り気のない時計だった。ぼんやりとした視界のせいで、時間までは読みとることはできなかった。
 小さく俯く。頭部が無いために、傷の断面を隠すために被せているフードが、微かに動いただけだった。
「あの――」
 美子はおずおずとした様子で、冷へと話しかけた。
「お姉ちゃん、どうしたの? 元気ないみたいだけど――」
 反応は無い。無い首を傾げ、美子は手を伸ばした。静かに冷の肩を揺する。それと同時に時計が鳴った。塚本大樹の部屋が、部屋の壁全体が、時を告げる重く低い音に、小さく震えた。
 時計が鳴り止んだ。尾を引いたように残った沈黙の中で、美子の小さく、仄かに透けた指先が冷の素肌に触れた。冷は思い出したようにビクリと身体を捩らせ、美子の方へと振り向いた。
 不自然な冷の挙動に、美子は驚いて手を引っ込めた。冷の憔悴しきった表情に、不安のような色が滲み出ている。怯えたように身体を縮め、美子は呟いた。
「何か、怯えてる?」
 冷は呆然とした様子で、美子の身体を見つめていた。彼女は暫く、そうやって焦点の合わない瞳を泳がせていたが、やがて呟くような口調で応えた。
「別に、怯えてるわけじゃないよ」
「でも、今日のお姉ちゃんは、なんだか様子が変。私が話しかけても、何も応えてくれないし。ずっとボーッとしてるんだもん」
 美子は、冷がいつもの調子に戻った事に安心したのか、溜息をついて強張らせていた身体を緩ませた。その拍子に首をスッポリと覆ったフードが外れかけて、慌てて頭の方へと手を伸ばす。
「何か心配事でもあるの?」
「まぁ、無いって言ったら嘘になるかな。だけど、私はもう何もできないから、考えて悩むしかないの」
「何もできないって、どういう意味?」
 美子の問いかけに、冷は少し考えてから答えた。
「私がやるべき事じゃないから。あの子が自分の力で乗り越えるべき事だから」
「あの子って、妹の事? 私と同い年の」
「そうだよ。いずれ、あの子は本当の事を知る。たぶん、あの子は傷つくと思う。だけど、あの子の側に、私はいるべきじゃない。私がいれば、あの子はもっと傷つくことになるから」
「だから、自分から死を選んだ?」
 大樹の声に驚いて、美子は振り向いた。扉が擦れる音が響き、扉の閉まりきる重たい音がそれに続いた。大樹の声は小さかったが芯が通っていて、耳に突き刺さるようだった。
「お兄ちゃん、帰ってきてたの?」
 美子が訊いた。大樹は微笑みをつくり、ただいまと呟いた。
「で、どうなの? 妹の為に、自分から死を選んだの?」
 冷は大樹から視線を外し、そっけない声を出した。
「そうですよ」
「やっぱり。でも、そんなの間違って――」
「間違ってると思いますよ、私も。自殺はいけないことだって知ってますよ。美子ちゃんみたいに、生きたくてもそれができなかった子達に対して、失礼だと思いますよ」
 捲し立てるような冷の話し方に、大樹は思わずたじろいだ。別に冷の事を責めようとしていたわけではなかったが、冷はそうは受け取らなかったようだった。
「だけど、私と妹の事を、そんな普通の考え方で縛らないでください。私も妹も、普通とは違うんです。私は死ぬべきだった。誰も殺してくれないから、自分から死ぬしかなかったんですよ」
 大樹は何も言えなかった。彼女の言葉の意味が理解できなかった。
 言いたいことを言い終え、冷は落ち着いたように息を吐いた。美子の肩に手をやり優しく撫でながら、彼女は微笑んだ。
「それにしても、美子ちゃんを見てると、氷を思い出すな。無邪気で明るかった頃の氷を」
 美子は照れたのか、外れかけたフードを両手で深く被り直した。

 

○●

 身体が破裂した。空気を入れすぎた風船のように。泣き叫ぶ声が響き、氷の華奢なお腹が、炎と煙を同時に噴いた。
 甲高い笑い声が響いた。カヤの声だった。彼女は手にしたスイッチを握り締め、その場で笑い転げた。その拍子に、再びスイッチが押された。
 爆音が鳴り響いた。氷の腰が砕け、小さな身体が二つにちぎれた。同じタイミングで、氷の後ろでしゃがみ込み、震えている中年の男の首が弾けた。
 感情の見えない、呆然としたような氷の顔に、中年の男の澱んだ脳髄と鮮血が飛び散った。強烈な血の臭いが、辺りに漂ったが、氷の身体は一寸たりとも動くことはなかった。
 氷は冷たいコンクリートの床に仰向けに横たわり、空虚な天井を見つめていた。腰から下は砕け、腹にぽっかりとあいた傷からは、焼け焦げた内臓が飛び出ていたが、痛みはなかった。そんな感覚は、とっくの昔に失っていた。ただ、痛いという記憶だけが、氷を泣き叫ばせた。
「痛い? 痛くないでしょ? あんたは人間じゃ無いんだから。私のペットで、可愛いバケモノなんだから」
 カヤは紅潮した顔を歪めるようにして、絶叫した。腰に装着していた短刀を取りだし、凍りついたような表情で喘いでいる氷の首筋に押しあてる。
「だって、これだけグチャグチャにしても死なない。細切れにしても、爆発させても壊れない。最高の玩具よ、あんたは」
 短刀を振り上げ、カヤは氷の左目を突いた。小さな水風船が破裂したときのような音がし、氷の額に生臭い液体が降り注いだ。
 氷は目を見開いて一頻り泣き叫ぶと、ぐったりと動かなくなった。潰れた左目は当然のこと、右目すら何も見えてはいないようだった。
 白い湯気が氷のちぎれた下半身からあがった。失禁していた。カヤは嘲るような目つきで氷を一瞥し、鉄格子の扉にもたれかけた。
「今日はこれでおしまい。明日までに片づけておいてね、そこの汚いのをさ」
 ビクビクと痙攣を始めた氷の裸体へと微笑みかけ、カヤは鉄格子の部屋を後にした。事前に用意しておいた冷たいタオルで顔を拭いながら、廊下を早足で歩く。
 突然、轟音が響いた。鉄格子とその周りを覆うコンクリートが何かと激しくぶつかる音だった。カヤは一瞬だけ足を止め、振り返る代わりに懐からコンパクトを取りだし、鏡に反射して映る鉄格子の様子を眺めた。
 紫色の触手が、部屋一杯にひしめき合っていた。轟音は、その触手が所構わずに体当たりを繰り返している為だった。
 無数の触手は氷の身体を突き破って伸びていた。氷に意識はなく、触手そのものに意志が宿っているようだった。緑色の涎をひっきりなしに口から垂らしながら、呻き声を上げながら、鋭い牙で鉄格子に噛みついたりを繰り返している。
 次の瞬間、触手は一斉に、側に転がっていた中年の男の屍体の方へと向いた。触手は口を大きく広げ、屍体を貪るように食べた。男の屍体だけでは足りなかったのか、ちぎれた氷の下半身までも全て、触手は喰った。後には無惨な血痕だけが残った。それすらも舐め続けた。
 やがて触手は大人しくなり、萎んでいった。紫色は薄くなり、雪のような氷の肌の色へと戻った。ある触手は氷の足となり、またある触手は氷の腕となった。最後には、傷の完全に癒えた氷の身体だけが、部屋の中央で寝息を立てて横たわっていた。
「おいしかった? 今日は肉が硬くて悪かったわね。まぁ、綺麗に片づけてくれたご褒美に、明日は柔らかいお肉をエサにしてあげる。同い年の女の子あたりがいいかもね」
 カヤは横目で窓の外を見やった。暗く狭い部屋の中で、氷と同じくらいの年齢の少女が、ベッドの上で蹲っている。カヤと目が合うと、怯えたように頬をひきつらせ、顔全体を背けた。自分の行く末を全て知っているのか、暗い顔をしていた。
「もうちょっと元気なエサの方が、氷は喜んでくれるんだけど――すこしは妥協しなきゃね」
 気味の悪い笑い声が、辺りに木霊した。カヤは踵を返し、静かな寝息を立てている氷の元へと戻っていった。彼女の足音は軽く、悦びに満ちていた。

 

○●

「氷――大丈夫? 起きて、起きるのよ」
 姉の声が聞こえた。ひどく懐かしい声だ。氷は目を見開き、上半身を起こした。
 全身が痺れるように冷たく、口から吐く息は白く長い尾を引いている。白く華奢な裸体を隠すものは何もなく、暗く湿った部屋の中に、置き去りにされているかのようだった。
「大丈夫だった? それにしても非道すぎる。あの女は」
 鉄格子を握り締め、冷は怒気をあらわにした。鉄格子の隙間から首を伸ばし、氷の顔を覗き込む。
「姉さん――」
 冷の大きな瞳に見つめられ、安心したように小さく項垂れると、氷は呆然とした表情で呟いた。両手にこびり着いた血痕をまじまじと見つめながら、今にも泣きだしてしまいそうな鼻声で。
「また、殺しちゃった――」
「あんたが殺したわけじゃないよ。悪いのは、あの女なんだから。氷が気にすること無いのよ」
「でも、食べちゃった。私がいなければ、カヤは――あの女は、この男の人を殺さなかった」
 指先が微かに震えていた。血腥い臭いが、鼻をつく。氷は呻き声を発し、拳を振り上げるとコンクリートの床に叩きつけた。
 細い腕の芯が折れる音が床を通して辺りに響いた。黒い血飛沫が氷の顔に飛び散った。見開かれた瞳は涙で溢れており、その奥に暗い絶望の色が渦巻いていた。
「こんな身体、いらない。あの女に言われた、私は人間じゃないって。その通りだと思う。私は、人間じゃない。臭くて醜いバケモノだって」
「それは、違う。違うよ」
 冷は鉄格子の隙間から手を伸ばし、氷の身体を抱き寄せた。氷は驚いたように眼を見開き、それから堪えきれなくなったように自分から冷の胸へと抱きついた。
「もう嫌だ――あの人の玩具のされるのは。臭くて汚い身体になって、誰かを殺して食べて、そんなのはもう嫌だよ」
「嫌でも、生きていかなきゃいけないでしょ」
 怯え、震え続ける氷の背中を、冷は優しくさすった。
「氷、諦めちゃ駄目だよ。生きていなきゃ駄目だよ。私を一人にするなんて、許さないから。私だけ残して、死んじゃうなんて許さないから」
「姉さん――」
「私、時雨さんに、あんたを作戦に参加させるように言ってみる。作戦の間だったら、あの女とも離れられるし、組織の中で動きやすくなるよ。とにかく、諦めちゃ駄目だからね」

「諦めたら、駄目よ――」
 泣きじゃくるゆかりの頭を撫でながら、氷は囁いた。囁きながら、自分の言葉に既視感を覚えていた。記憶を掘り起こし、その最深部に刻まれていた言葉は、姉からのもの。蔑まれ、傷つけられ、すべてが絶望という沼に投げ捨てられとき、自分を支えてくれた言葉。
「そう。諦めたら、そこで終わる。違う?」
 氷はもう一度呟いた。ゆかりは小さく頷くと、涙を拭っていた手を止め、氷の表情を仰ぎ見た。
「うん、わかってるよ。そやけど、氷姉ちゃんは、瑞穂お姉ちゃんがどこに連れて行かれたか知ってるん? それがわからへんと、どうしようも無いで」
「大丈夫よ。確証は無いけど、ファルゲイルの向かった方向で、大体の見当はつく」
「ちょっと!」
 前触れもなく、ミルが大きな声を出して、氷を呼び止めた。氷は細い眼で睨み付けるようにミルを流し見ると、静かに振り向いた。
「何――?」
「大体の見当がつくって言うけど、何であんたが、あいつらの居場所を知ってるのさ。ゆかりちゃんが、あんたのこと信頼してるみたいだから黙って聞いてたけど、流石に怪しいな」
 氷はさらに眼を細めた。黙り込んだまま、ミルの長身を睨み上げる。
「何さ、その目つき。言いたいことがあるなら言えばいいじゃないのさ」
「騒がしい女は嫌い」
 表情を動かすことなく、虫の鳴くような小さな声で氷は吐き捨てた。ミルは一瞬呆然と氷の全身を眺めたが、即座に大きな瞳を更に見開き、頬をマトマの実ほどに紅潮させて叫び返した。 
「何さ! それ! あたしだってね、あんたに好かれたいなんて思ってないさ! あんたみたいな根暗で自分の殻に閉じこもってるような女になんて!」
「根暗――私が?」氷は口許を微かにひきつらせた。
「他に誰がいるのさ! 大体、あんた何者なのさ! 何でそんなに詳しいのさ。あんたロケット団の仲間なんじゃないの?」
「そうよ。確かに私は、組織に育てられた。ロケット団に」
 間髪入れずに氷は認めた。それと同時にミルは拳を握り締め、氷の胸元に掴み上げた。今にも噴火してしまいそうな、紅潮しきった顔をぐいと突きだし、早口で捲し立てた。
「やっぱり! あんた達のせいで、どれだけの人やポケモンが死んだと思ってるのさ! よくまぁそうやっていけしゃあしゃあと歩いてられるわね!」
 氷は応えなかった。ミルの言葉や行動に動揺する様子は無く、むしろ自分の胸元を掴んでいる腕を握り返し、手繰り寄せると、聞き返した。
「私の何処が、根暗?」氷の白いこめかみに、薄く青筋が立っていた。
「全部じゃない! そうやってボソボソ喋って、何言ってるのか全然聞き取れないのよ。それにね――」
「お姉ちゃん達! 喧嘩してる場合やないやろ! 瑞穂お姉ちゃんの事が心配や無いんか?」
 ゆかりは二の腕で涙に濡れた顔を擦りながら、2人の間に割って入った。少女の頬から拭いきれなかった涙が滴り落ちるのを見つめ、ミルは言葉を飲み込み、氷は掴まれた拍子に乱れた服を直した。ばつが悪そうに2人は同時に視線を外し、辺りはしんと、先程までの喧噪が嘘のように静まり返った。
「お姉ちゃん達のことは、この際どうでもええねん。氷姉ちゃんは、確かに事情があってロケット団やったし、ちょっと暗いところもあるかもしれん。ミル姉ちゃんは喧しいし、ちょっと気に障ることもあるやろけど、今は瑞穂お姉ちゃんを助けることだけを考えな」
「でもさ――」
 ミルは横目で氷を睨みながら、呟いた。
「この娘さ、本当に信用していいの? 今は違うって言ったってロケット団員だよ?」
「事情があるって言ったやろ? 時間が無いんやから、お願いや」
 微動だにしない氷の表情と、今にももう一度泣きだしてしまいそうなゆかりの表情を、困った様子で交互に見つめながら、ミルは溜息をついた。
「わかったよ、あんた――氷ちゃんのこと信用、するから」
 渋々とミルが呟くと、ゆかりは即座に氷へと振り向いた。
「で、氷姉ちゃん。どこなん? 瑞穂お姉ちゃんが連れて行かれた場所いうのは」
「瑞穂ちゃんとあの女は、シマナミにいる」
 俯き眼を細め、氷は淡々と、まるで棒読みのような話し方をした。氷の口から発せられた街の名前に、ミルは小首を傾げ、聞き返す。
「シマナミってどこなのさ。聞いたことないけど」
「私の生まれた場所よ――今は、もう存在していないけど」

 

○●

 カヤの噛みしめるような笑い声が、冷たく閉ざされた部屋全体に響いた。彼女は、手にした写真の束を瑞穂の眼前に押しつけ、身振り手振りを交え、愉快に話をしていた。だが、その写真から読みとれる光景は、決して笑いながら話すことのできるようなものでは無かった。
 白い息を吐きながら、瑞穂は写真を見つめた。そうすることを強制させられていた。両手足を縛る鎖はドライアイスのように冷たく、青ざめた顔は寒さに震えている。
 液体火薬を飲まされ、爆発する氷の身体。すぐ後ろで、四散する炎と肉片を死んだような目つきで眺めている少女。黒々とした鮮血に濡れ、鉄格子の隙間に挟まった氷の首。落ち、床に転がる。ごしゅ、という落下音が今にも聞こえてきそうな程に、間近で撮られたものばかりだ。
 口が開いた。氷の口が。中から覗くのは、舌ではなく蛇のような長く醜い触手。眼球を、そして鼓膜を、全身の皮膚を突き破り、氷の首は触手に包まれた。
 後ろで眺めていた少女の目が、初めてそこで怯えを見せた。死んだ魚のような瞳が涙に溢れ、何かを叫いているかのように口が開いていた。
 瑞穂には少女の叫んでいた声が聞こえた。「何なのよ? このバケモノは!」
 触手は少女に襲いかかった。足が喰われた。痛みに身を捩り、少女は顔を歪めた。叫び続けている。だが、次の写真に移った瞬間、瑞穂の頭の中で響き続けていた声は途切れた。少女の首はもぎ取られていた。断面は勢い良く噴きだす鮮血で見えない。
「すぐに食べちゃったのよ。あの娘は、柔らかいお肉が大好物だったからね」
 カヤが喋り続ける間、瑞穂は何も発しなかった。何も発することができなかった。
 鞭で叩かれたような腫れが、瑞穂の全身に浮き出ていた。鮮血の微かに混じった尿が、足下に惨めに散らばっている。痛みと恥ずかしさを堪えるために、瑞穂は歯を食いしばった。だが、それでも時折意味のない呻きが漏れた。そして、その度に鞭は撓り、傷が増えた。
「非道い――」瑞穂は、カヤが喋り終えると即座に一言呟いた。
「あん? 何が非道いのよ」
 カヤはナイフを瑞穂の首筋に添え、鞭を振るった。瑞穂は激痛を堪え、ナイフの先に見えるカヤの顔を睨み付けた。
「非道いじゃないですか。どうして、氷ちゃんにそんなことをしたんです?」
「私のペットに、私が何をしたっていいじゃない。氷は人間じゃ無いのよ。可哀想なバケモノ」
 瑞穂は激昂した。首筋に添えられていたナイフを頭で振り払うと、頬から滲み出る鮮血を気にもとめず、叫ぶように言い放った。
「氷ちゃんは人間ですよ。私には、あなたの方が人間から遠く離れた存在に見える。人間じゃないのは――あなたの方ですよ」
「馬鹿ね。私は人間よ。少なくとも氷よりはね。私は氷を殺さなかった。それは私に愛があるから。私が優しい人間だから。その証拠に、氷は私を殺せない。絶対にね」
 カヤは不気味に微笑んだ。
「大体、この写真を見てもまだ、氷が人間だって言い切るつもり?」
「普段の氷ちゃんは、こんなことしません。あなたが、無理にさせてるんじゃないですか」
「そう、こうやって食事をしないと、身体の再生ができないのよ。腕とか身体の一部分ならまだしも――可哀想よね、イグゾルトの出来損ないってのは」
 イグゾルトという単語を聞いた途端、瑞穂は息を呑んだ。鋭く睨み付けていた瞳を見開き、カヤへと聞き返した。
「イグゾルトの出来損ない――?」
「あら、ごめんね。専門用語つかっちゃって。意味、解らないわね」
「知ってますよ。ごく希に存在する、特別な能力を持ったポケモン、ex(エクストラ)。イグゾルトは、人工的にexの特性を植え付けられたポケモンの事ですよね。でも、氷ちゃんがその出来損ないって、どういう――」
 微かに血の付いたナイフを片手で弄びながら、カヤは鼻で軽く笑った。
「どうしてそんなこと知ってるの? シグレに教えてもらったの? それとも――自分のパパに教えてもらったのかしら」
 瑞穂の視界が一瞬だけ真っ白に染まった。自分のパパ――? 頭の中で何度も繰り返されるカヤの言葉に、瑞穂は自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「私のパパ――父さんの事ですか? どうして――どうして、私の父さんがでてくるんです? 父さんはロケット団と、なにか関係があったんですか!?」
 鎖が伸びきり、擦れる音が響いた。瑞穂は身を乗り出し、食い付くような切羽詰まった瞳で、カヤを見据えている。錯乱で揺れる視界の奥で、カヤは怪訝そうに眉を潜めていた。
「関係があるも何も、組織の遺伝子研究の第一人者だったのよ。あんたのパパ――洲先祐司はね」
「父さんが――ロケット団の研究に協力していた? そんなわけ無いじゃないですか!」
 瑞穂は声を荒げた。動揺からか、語尾が裏返っている。
「私の父さんに限って、こんな――こんな組織に協力するような人じゃない。だ、大体、父さんは病院の院長だったんですよ。どうやってロケット団接触を――」
 そこまで言うと、瑞穂は突然黙り込んだ。飲み込める筈の無い大きな何かが、少女の胸に詰まった。白く幼い顔は次第に青くなり、両目は大きく見開かれていた。顎が震えている。
「ま、まさか。あの、あの病院そのものが、ロケット団の実験場だった?」
「ご名答」
 カヤは答えた。少女の推理に感心したような口調だった。
「そんな」瑞穂は呆然と「一体、いつから」
「あんたが生まれる前から」
「そんな昔から、ロケット団に?」
「そう。私も詳しいことは知らないけど、元々は、遺伝子関連の研究に協力してたみたいよ。それも、人間専門のね」
 信じられない、といった表情のまま瑞穂は訊いた。
「人間専門? ポケモンの研究じゃなかったんですか?」
「最初は人間専門だった。でもね、ミュウツー計画が軌道に乗るにつれて、研究者が足りなくなった。そこでイグゾルト計画とミュウツー計画の両方に参加してた時雨は、あんたのパパに声をかけたのよ」
ミュウツー――計画?」
「それは私の管轄外だから、噂ぐらいしか知らないわ。ただ、計画が事故によって失敗したということと、研究員のほぼ全員が、その事故によって死んだってことだけは知ってる。事故の唯一の生存者、時雨から聞いたことだからね。ほら、あの男の左手の甲に火傷があるでしょう? あれはその事故の時にできたものなのよ」
「そう言えば、あの人、確かに火傷みたいな痕が――」
「あんたのパパは、時雨が最後まで解決できなかった異種欠落及び不活性の問題を容易に解決した。これまでは、仮にケムッソの遺伝子とビードルの遺伝子を融合させても、最終的に残る遺伝子はケムッソビードルのどちらかでしかなかった。でも、この問題を解決したことで、異なるポケモン同士の遺伝子融合が行えるようになった。つまり、人工的なex――イグゾルトを遺伝子工学の観点から解析できるようになったのよ」
 カヤは、まるで自分の研究を自慢しているかのような恍惚とした表情をしていた。目の前で鎖に繋がれている少女を、気に留める様子は無かった。すべてを話しても、どうせ殺すのだから。
「でも、そんな面倒なことをしなくても、中枢神経に特殊電波で刺激を与えることで、イグゾルトはできるんじゃないんですか?」
「その方法には限界があるのよ。中枢神経を刺激したところで、所詮身体は普通のポケモンな訳だから。遺伝子情報が根本から違うexには遠く及ばない。でも、遺伝子を直接操作して造るイグゾルトは、すべての能力が完全にexと同等になる。ただ――」
「ただ?」
「どのポケモンの遺伝子をどう融合させれば、イグゾルトを造れるのかは解らなかった。試しにラッタとライチュウの遺伝子を融合させたけど、できたのは電気も出せず、前歯もない、野生では到底生きていけそうにない、屑ポケだった。そういう実験を何度もおこなったけど、結果は皆同じ。研究所に溢れては廃棄される屑ポケ達。計画は頓挫し、今の技術では完全なexを人工的に造り出すことは不可能という結論に達した。そこで、計画は大幅に切り替えられた――」
 瑞穂はカヤの言おうとしている事実に気づき、思わず顔をひきつらせた。彼女はカヤよりも先に、戦慄に耐えかねた様子で素早く口走った。
ポケモンの遺伝子を、人間に融合させる――」
「その通りよ。私より先に喋るのは気に入らないけど」
 カヤは鼻白み、片手で弄んでいたナイフを振り下ろした。ナイフの鈍い銀色の輝きが、瑞穂の脇腹を掠めた。透き通るように白い肌から、鮮血が微かに滲む。
「アイディアは時雨のものだけど、人間の遺伝子の専門家である、あんたのパパの協力がなきゃ、この計画は成り立たない。解る? あんたのパパが組織の研究に協力していた何よりの証拠は、氷の存在以外の何者でもないのよ。あの娘の身体は、蛇ポケモンの遺伝子と融合され、強力な自己再生能力を手に入れた。もっとも、それはその蛇ポケモン固有の能力が付加されただけであって、イグゾルトとは呼べないけれど」
「どうして、そんな非道いこと――」
 瑞穂は嫌悪感を露骨に表情に出しながら、呟いた。
「非道い? どうしてよ? これは、あの娘が自分で選んだことよ。あの娘が死にたくない一心から選んだ、惨めな選択――人間の身体も精神も捨てて、自分の魂をバケモノの器に移すこと」
「違う、氷ちゃんはバケモノなんかじゃ無い」瑞穂は呻るように首を振った。
「どう思うのもあんたの勝手だけど。さっきも言ったように、あんたのパパの病院の地下で、氷は遺伝子融合の処置を受けて、バケモノになった。あんたがのうのうと入院していた病院の地下でね」
「病院の地下で――父さんが働いていた病院の地下で、父さんがロケット団の研究に協力を――まさか――」
 全身が冷えた。それが凍てつくような寒さからくるのか、それとも自分自身の思考が凍りついたためなのか、瑞穂には判断できなかった。
「あの事件。3年前の薬物混入事件。ロケット団の研究施設のすぐ真上で起こった事件。あなた達が無関係だとは思えないんですけど」
 瑞穂の問いかけに、カヤは少しだけ眉を動かした。
 不自然なカヤの動作を、瑞穂は見逃さなかった。その時点で確信した。やるせなさと重く尖った怒りが胸の奥で沸き上がっていくのを感じながら、少女は呟いた。
「あなた達が、あの事件を引き起こした――違いますか?」
「鋭いわね。そう、3年前の薬物混入事件を起こしたのは、私よ。でも、私はやりたくてやった訳じゃ無いから。あんな面倒くさくて面白くも無いこと、命令でもされなきゃやらないわ」
「誰の命令で? 何のために」
「時雨に決まってるじゃない。上の病院と地下の研究施設は厳重に仕切られていたけどね、病院の入院患者が偶然にも地下の研究施設を発見しちゃったのよ。だから、その入院患者を抹殺する必要があった」
「そ、それなら――」瑞穂は頬を紅潮させ叫んだ。
「何も、あんな方法で――全員を巻き込まなくてもいいじゃないですか!」
「だって、一人だけ殺したら不自然じゃない。それに、薬物混入で大勢の人間を巻き込めば、ターゲットが誰なのかを特定されずにすむ。すぐに偽の犯人を仕立て上げたから、警察も深くは追求しなかったしね。閉鎖した病院の跡地も組織の関連会社が買い取ったから、研究施設の存在は漏れなかった」
 カヤの得意げな説明を聞きながら、瑞穂は唇を噛みしめた。
「そんなことのために、沢山の人達を巻き込んだんですか――非道い。それで、私の父さんはどうなったんですか? 今も、ロケット団の研究に協力しているんですか」
「消えたわ。私が、あの事件を起こした直後にね。時雨は必死に捜しているみたいだけど、今も行方不明のままよ。でもね――」
 言いかけて、カヤは少女の二の腕に添えていたナイフを後ろへと放り投げた。ナイフは放物線を描きながら落下し、冷たい音を響かせる。その音と同時にカヤは短銃を引き抜き、瑞穂の眼前へと突き付けた。
 驚き唖然と口を開ける瑞穂の表情をつぶさに観察しながら、カヤは切りだした。
「事件の後、時雨は研究所の存在を隠すために邪魔な存在を次々と抹殺した。熱心なことに、私に任せずに自分でね。今でも、あんたのパパを必死で捜しているのも、他人に知られちゃ不都合な情報をあんたのパパが沢山もっているからよ。それを考えれば、不自然よね?」
「不自然――?」
 瑞穂は目の前に突き付けられた銃口を見据えていた。銃口の奥に覗くのは、混沌とした黒い闇と、血腥い火薬の臭い。
「あんたが生きてることが自体が、不自然よね」
 息を呑む音が、喉の辺りから聞こえた。瑞穂はハッとした様子で銃口から視線を外し、カヤの微笑んでいるのか怪しんでいるのか判別し難い顔を見やった。
 行方不明の人間を3年間も捜し続け、関係の無い多くの人間を殺してまで、時雨は研究所の存在を隠そうとしていた。なのに何故、その秘密に近い自分が、今まで狙われなかったのだろうか。何も知らなくても、父親を通して情報が漏れる可能性は十分に考えられるのに。そして、それほどの犠牲を出してまで隠そうとする理由が何処にあるのか。
「確かに、不自然ですね」
「でしょ?」
 銃口を瑞穂の眉間に押しつけ、カヤは呟いた。鉄の冷たい感触と、眉間の割れるような痛みに、瑞穂はくぐもった呻き声を発した。
「今なら殺そうと思えば、すぐに殺せるけど――あんたを今まで生かしておいた理由を教えてあげる。時雨は、確かにあんたを殺したと言っていた。首吊り自殺に見せかけて、殺したってね。だけど、あんたは生きて此処にいる。どうして、死んでないの? あんたは、何者なの? それが訊きたいの」
 瑞穂はすぐには言葉が出なかった。カヤの問いかけの意味が理解できなかった。一度殺した? 首吊り自殺に見せかけて?
「そんなこと、解らないですよ。大体、時雨って人とは、ラジオ塔の事件の時に初めて会ったんですよ。私を殺しただなんて――」
「それなら」カヤは愉快に微笑んだ「今、ここであんたを殺したら、どうなるのかしら。生き返るのか、それとも死んだままなのか。気にならない?」
 瑞穂は驚いて何かを口走った。だが、短銃の引き金を引く時の、胸の奥から沸き上がるような興奮に囚われたカヤに、少女の言葉は届かなかった。
 銃声が響いた。カヤの金切り声が、笑い声が、暗く湿ったコンクリートの壁に共鳴した。壁は震えている。怯え、頑なに身を強張らせる子供のように。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-1

#14 愛憎。
  1.閉鎖回廊

 

 啜り泣きが、冷たく暗く湿った部屋に木霊している。
 乾いた血に汚れきった漆黒の壁に、白い掌が触れた。嗚咽が途切れ、部屋全体を震撼させるように激しい悲鳴が辺りに響いた。白い掌は黒い壁を一瞬だけ掴み、そのまま床へと落ちた。鮮血が壁に飛び散ったが、血の色は壁に染み込み、何事もなかったかのように、黒い色のまま表情を変えることは無い。
「殺さないでください、お願いです。お願いです! 殺さないでください!」
 必死に懇願する女の声。その声の持ち主は、細い銀色の鎖に全裸のままで縛られていた。薄暗い部屋に、女の白い裸体だけが浮かび上がっている。だが、女の身体に左腕は付いていなかった。切り落とされていた。
 涙と鼻水に汚れた女の顔に、血飛沫が降り注いでいる。その表情は苦痛に歪み、恐怖に青ざめ、羞恥心に濡れていた。震える唇の端から、止めどなくこぼれ落ちるピンク色の液体は、血の混じった涎だろうか。
 フラッシュが女の全身を包み込み、消えた。カメラを片手に不満そうな顔を隠そうともせず、”それ”は女を蔑むような目つきで眺めた。
「その言葉、もう聞き飽きたの。命乞いならさ、もっとゾクゾクするような言い方できない?」
 女は顔をひきつらせた。口を開いて何かを言おうとしても、声が出なかった。代わりに白っぽく変色した舌がダラリと伸び、涎と茶色い泡が溢れ出てくるだけだった。だが、女は必死に舌をこねくり回し、不明瞭な命乞いの言葉を叫び続けた。
「あう、けでうだあい――お、おね、ねがいです。ころさな、いで。カヤ様、お、おねがいでず!」
 若い女、一位カヤは酷薄な微笑みを浮かべた。金髪を右手で撫でつけながら、カメラを女へ投げつける。カメラは女の顔面を直撃し、折れた女の歯とともに床に転げ落ちた。鮮血の水たまりが、大きな波紋をつくる。
「そうそう、その程度はしてくれなきゃ楽しめない。でも――」
 袖からナイフを取りだして、カヤは女の舌を根本から切り取った。金切り声が、再び部屋を震わせる。
「もう喋らなくてもいいわ。つまらないものは、つまらないから。五月蠅いだけなのは嫌いよ」
 吐き捨てるようにしてカヤは言い放つと、腰のベルトから拳銃を取りだし、女の鼻血に汚れた鼻の穴へ銃口をねじ込んだ。悲鳴を噛み殺し、女は澱んだ瞳で鼻の穴へ入り込んだ銃口の先を見つめた。目尻から流れ出る涙が拳銃を濡らす。
 涙は銃声によって吹き飛ばされた。まるで拳銃が、女の涙を汚らわしく思い、振り払いたいという意志を持っているかのようにタイミング良く。
「くだらない。つまらない――」
 カヤは血塗れの拳銃を床へ放り投げ、女の屍体を睨み付けた。女に顔と呼ばれるものは無く、僅かに残った下顎が首の先端に張り付いているだけだった。頭部の他の部位は四散し、生臭い脳髄と混じり、床に醜い模様を描いていた。
 冷たく濡れたタオルで手を拭いながら、カヤは薄暗い処刑部屋を出た。身体の所々に飛び散った血飛沫を煩わしく思いながらも、そのままタオルを廊下へ投げ捨てる。
「そこら辺に物を捨てるな。ここはお前の家ではない」
 白衣の男が、カヤの後ろから声をかけた。呆れたように足もとを見やり、血に汚れたタオルを拾い上げると、カヤへと押しつける。
「もう殺したのか。ずいぶん早く使い切ったものだな」
 カヤはタオルを摘み上げるようにして受け取り、横目で白衣の男、時雨を見つめた。
「あれで遊んでも、つまらない。もっと可愛くて、やり甲斐のある娘がいい。あの女は叫いてばかりで五月蠅いだけだったから」
「それなら、もっといい玩具を知っている」
 時雨の口許が緩んだ。カヤは眼を細め、興味をそそられたそうに、口の中で舌を回す。
「氷よりも楽しめる? あの娘は最高だったわ」
「そこまでは保証できないが」
 時雨は懐から写真を撮りだし、カヤへと掲げて見せた。写真に写っていたのは、水色のツインテールをした幼い少女の姿だった。
 カヤは小首を傾げた。細めていた瞳を見開き、少女の姿を舐めるように見つめる。以前、どこかで見たことのある、出会ったことのある顔だった。
「どっかで見たことのある顔ね」
「そう、あの忌まわしき女。洲先瑞穂だ」
 写真を持つ手が震えていた。怒りか、興奮か。時雨は緩んでいた口許をひきつらせている。
 少女、瑞穂は写真の中で笑っていた。その雪のように白い身体が、時雨の指を支点として裂けてもなお、笑みは途切れなかった。
 時雨の手の甲に、太い血管が浮き出ていた。彼は二つに裂けた写真を握りつぶし、重い声で囁きかけるように呟いた。
「今度こそ、この娘には本当に死んでもらう」
 カヤは手にしたタオルを壁の隙間にねじ込み、床に散らばった写真の破片を拾い上げた。無邪気な微笑みでも、瞳だけを見れば悲しんでいるように彼女には思えた。
「とりあえず、試してみようか――」
 恐怖に顔を歪める少女の姿を想像するだけで、その無邪気な笑みを粉砕できると考えるだけで、カヤの心は高鳴った。

 

○●

 チョウジタウン北部に位置する大きな池、いかりの湖。
 コイキングが多く生息することで有名な湖であったが、ロケット団によって行われた進化促進電波の実験により、その名は全国的なものとなっていた。
 ロケット団の行った実験、R計画。進化を促進する特殊な電波によって、ポケモンの進化を人為的にコントロールすることにより、最強のポケモン軍団を結成することが当初の目的であった。だが、電波の効力が予想以上に弱く、実用化に難があったこと、そして計画自体がポケモンGメンに察知され、妨害されたことによって計画は途絶えた。
 その後、この計画によって得られたノウハウを基にコガネシティのラジオ塔占拠事件が起こり、再び注目を集めはしたものの、ラジオ塔占拠事件の報道すら飽和しつつある現在、この湖の名は人々の記憶から薄れていく一方だった。
 でも、忘れてはいけないこともある――
 湖の底を見つめ、深い蒼を瞳に焼き付けながら、瑞穂は心の奥底で呟いた。
 人間は、生きていく上で邪魔であったり不要であったりする記憶を封じ込め、削除することで、人間としての機能を保っている。それは理解していた。それでも、これは忘れてはいけない。抹消してはいけないこと。
「ここも、非道いな」
 傷だらけのまま浮かんでいる、幾重ものギャラドスの屍体。湖の澄んだ水に浸っていても尚、その瞳は澱んでいる。最期の力を振り絞って開いたと思われる口から流れ出るのは、腐った内臓の汁と堪えようのない腐臭。
 ミルは口許に手をやり、吐き気を堪えつつ呟いた。
「一体、どうなったらこうも非道くなるのさ。いくらなんでも――」
「副作用だよ」瑞穂は、抑揚のない声で応えた。
「副作用?」
「自然の摂理に逆らった進化の強制はポケモンにとって、もちろんここのコイキング達にとって、死に等しい負担だった。その負担に、耐えきれなかったんだよ」
 萎んでいく気配に気付き、瑞穂は隣に立っている筈のゆかりへと視線を移した。
 ゆかりはしゃがみ込んでいた。俯き、足もとに生える雑草を眺めなている。
 瑞穂は腰を下ろし、小刻みに震えるゆかりの背中を撫でた。
「だから、見ない方が良いって言ったのに」
「そやけど、気になったんやもん」
 青ざめたゆかりの顔を見据え、瑞穂は少女を胸元へと抱き寄せた。
 空が轟音をたてている。巨大な黒いクレーンが、ギャラドスの屍体を引き上げていた。吊り上げられた屍体は、全身から灰色の汁を垂らしている。その姿は汚く惨めで、まるでゴミを捨てるみたいだなと、瑞穂は目を閉じた。ゆかりを抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「もう、帰ろうか。ロケット団について、何か分かるかもしれないと思ったけど、何も無いみたいだし」
「あったのはギャラドスの屍体だけ、か。せめて奴等のアジトの跡でもあれば、瑞穂ちゃんにとって重要な手がかりがあったかもしれないのにさ」
 吊り上げられていたギャラドスの屍体が、トラックの荷台へと降ろされていた。荷台からこぼれ落ちる腐った液体を横目で眺めつつ、瑞穂は悲しげに頷いた。
「そうだね――でも」
 ミルは眉を潜め、瑞穂の顔を覗き込んだ。無表情のまま、凍りついているかのようだった。初めて出会ったときからは想像もできないような冷たく薄青い影を帯びている。
「でも、何さ?」
 訊くと言うよりは見知らぬ人間に道を尋ねるような、おずおずとした言い方でミルは続きを促した。
「私、ちょっとだけ安心してるの」
「安心って、どういう意味さ」
「本当はこんな事、考えたくないんだけど。ソウちゃんがもう殺されてたり、実験の材料にされていたりしたら、その事は知らない方が良いから――何も手がかりが無いって事は、悪いことも知らずにすむから」
「お姉ちゃん――」
 ゆかりが心配そうに、瑞穂を見上げた。
「瑞穂ちゃん。そんなこと無いって! そんなことばっか考えてると、悪くないことでも悪いことになっちゃうじゃないのさ!」
 励ますように、ミルは大きな声を出し、瑞穂の肩を揺さぶった。揺さぶりにまかせるように瑞穂は顔を上げ、軽く微笑んで見せた。
「そうだよね。そうだよ。そんなことばっかり考えてちゃ、駄目だよね」
 自分に言い聞かせているような口調だった。うっすらと青ざめた瑞穂の表情に、不安の色が明確に浮かび上がっている。
 ゆかりは、瑞穂の沈鬱な顔を見上げたまま、彼女の手を握り締める。小指が小刻みに震えていた。
「だけど――」瑞穂は絞り出すような声で「やっぱり無理だよ。そんなこと」
 ミルは横目で屍体の積まれたトラックを見つめ、肩を竦めた。
「そりゃ、こんな非道いことが続いたんだから、気持ちは解るけどさ」
 リリィ――ナゾノクサが死んで以来、瑞穂から笑顔は消えていた。少しでも元気づけようと、ミルが冗談を言い、ゆかりが慰めても逆効果でしかなかった。そんな中で遭遇したギャラドス達の屍体は、瑞穂の心の深い部分に鋭く突き刺さっていた。
 瑞穂は恐る恐るトラックに積み込まれたギャラドスの屍体を見やった。青い筈の表皮は黒ずみ、トラックのエンジンが掛かるのと同時に、澱んだ瞳が顔の窪みからこぼれ落ちた。神経と思しき糸のようなものが、窪みからはみ出ている。
 屍体をすべて回収し、トラックは発車した。呻るエンジン音がそれより更に大きな音に掻き消されるのよりも早く、トラックとその荷台に積み込まれた屍体は、瑞穂達の視界から消えた。
 トラックは一瞬で炎に飲み込まれ、内側から膨れ上がる煙と共に爆発した。荷台に積まれた屍体は爆発の衝撃で細切れとなり、肉片が湖やその周辺へと飛散した。
「な……!」
 ミルが唖然としたまま口を開いた。
 即座に瑞穂は上空を仰ぎ見た。降り注ぐ屍体の肉片に注意しながら、眼を細め、薄青色の空に浮かぶ黒いシルエットを睨み付けるように見据えた。
「爆撃だよ。あの機体から!」
 瑞穂の声につられて、ミルとゆかりは上空に浮かぶ特異な形状をした機体へと振り向いた。
 緑がかった銀色のボディ。流線型の胴体から左右へと拡がっている羽根と、長く伸びたアーム。そのアームの先端に覗く鋭利な爪。生物的なフォルムを持った戦闘機が、逆光の中で不気味に浮かび上がっていた。
「汚らしい――とっとと終わらせて、遊んであげる」
 空中に制止したまま浮遊する機体から、女の声が微かに漏れた。
「その声、まさか」
 聞き覚えのある声に驚いて、瑞穂は言葉を詰まらせた。記憶の裏側で、本能が身の危険を報せるかのように瞬いた。この声の持ち主は危険であると。狂気でも殺意でもない、残酷なほど無邪気な感情が、その鋭く尖った矛先を自分へ向けていると。
「カヤさんですね? ロケット団の、あの」
「お姉ちゃん、カヤってたしか――」ゆかりが瑞穂の背中にピッタリと身を寄せた。
「何のつもりですか? こんな事をして!」
 機体の左右のアームが可動し、先端の鋭い爪を瑞穂達へと向けた。標準を合わせる。
 爪の上部に取り付けられた装置を見つめ、瑞穂は口を閉じた。複数の筒を円上に束ねたような形をしている。鈍く光る機体の中で、漆黒のそれは明らかに浮いた存在だった。
 機関砲だ。そう気付いた瞬間、瑞穂はゆかりとミルを突き飛ばすようにして、草むらへ飛び込んだ。地面がはぜた。筒状の装置から連続して短い炎が吹き出し、先程まで瑞穂達の立っていた場所から土埃が舞った。
「なんなのさ、あれは! あたし達を殺す気?」
 草むらに身を伏せたまま、ミルは叫いた。
「たぶん、そのつもりだと思うよ」
「何のためにさ?」
「どうだろう。ただ、さっきの銃撃は間違いなく私の足もとを狙ってた。最初の爆撃をわざと外したことを考えても、今すぐ殺す気は無いみたいだけど」
 瑞穂は腰からモンスターボールを取り、握り締めた。
「だけど――何?」
「あの人の考えていることは、私には解らない。私には理解できないよ」

 機体は低く静かなエンジン音を響かせながら、瑞穂達の飛び込んだ草むらへと向き直った。
「そんな所に隠れても無駄なのに。あんまりしつこいと、このまま殺してもいいんだけど」
 草むらの中で蠢く影を、強化ガラス越しに見下ろしながらカヤは呟いた。白く大きな掌で機関砲の発射装置を握る。尖ったような冷たい感触に、彼女は思わず口を歪めた。
「でも、まぁ、お楽しみは後に取っておかないとね」
 突如、メインパネルが赤く点滅した。カヤは衝動的にレバーを引き、機体を上昇させた。彼女は軽く舌打ちし、メインパネルに表示された「高密度エネルギー」の文字を見つめた。
 次の瞬間、膨大な熱量を持った破壊光線が空へと伸びた。破壊光線は機体を掠め、遅れて拡がる衝撃波が浮遊する機体を翻弄した。
 草むらに見えるのは、巨大な身体を持つポケモンリングマだった。リングマは鋭い目つきで、機体の方向を見据えていた。怒りに噛みしめた口許から煙が漏れている。
 カヤは顎を上げ、破壊光線を放ったと思われるポケモンを、細い瞳で睨み付けた。
「あの娘、こんなポケモンまで持っていたとはね。少し厄介かも」
 リングマの立っているすぐ後ろの草むらから、瑞穂達が顔を覗かせた。瑞穂は草むらから飛び出し、上空で制止する機体の方向を見やった。
「リンちゃん、岩石封じであの機体の動きを止めて」
 太い腕を地面へと叩きつけ、リングマは岩石封じを繰り出した。激しい地響きとともに、機体の真下からリングマの背丈の倍はあろうかという岩石が突きだし、機体の前後左右を遮った。
 視界を遮られたにも関わらず、カヤの緩んだ口許には笑みが見え隠れしていた。なるほどね、と言いたげに小さく頷き、メインパネルの左下の部分を撫でるように押す。
「ファルゲイルの動きを封じて、破壊光線を当てるつもりだろうけど、無駄なことよ」
 機体は即座に迫撃砲を発射し、眼前に聳える岩石を破壊した。粉々に砕け、落下していく欠片の間から、リングマの巨体と、その口の奥に溜めた破壊光線の光が見える。
「リンちゃん、破壊光線!」
 瑞穂の声に呼応し、リングマは破壊光線の第二波を発射した。地面に衝撃の波紋を広げ、破壊光線は一直線に機体へと伸びた。
Aptitude engine……Preparation of awakening is completed」
 機体から抑揚の無い独特の声が発せられた。同時に機体上部の装甲が斜め上へとスライドした。剥き出しになった機体の隙間から、青白い光が漏れている。
 破壊光線は、機体を飲み込む寸前で止まった。その光景はまるで、水流が突然凍りついて動かなくなってしまったかのようだった。
「な――破壊光線が!」
 瑞穂は狼狽した。少女の動揺を、カヤは嘲笑った。
「だから、無駄だって言ったのよ」
 反発しあう磁石のように、破壊光線が跳ね返った。太い熱線は幾重にも分かれ、地上へ降り注ぐ。反動で動けないでいるリングマの巨体を、細い熱線が次々と切り裂いた。
 焦げ臭い匂いと煙を上げながら、リングマはその場に倒れた。瑞穂はリングマのもとへ駆け寄ろうと走り出す。だが、少女の小さな身体は、熱線の衝撃波に吹き飛ばされ、空中で枯れ葉のように弄ばれた挙げ句、そのまま地面へと叩きつけられた。
 鈍い音がした。軽い血飛沫が上がり、水に濡れた草むらを赤く染めていた。草むらの中で横たわる瑞穂の身体に意識は無かった。次第に白くなっていく幼い顔には、鮮血が滴っている。
「お姉ちゃん!」
 思わずゆかりは叫んだ。立ち上がろうとするゆかりを、ミルが覆い被さるようにして制止した。
「何で邪魔するんや!」
「今行ったら、危ないっての!」
「そやけど! お姉ちゃんが……」
 眼に涙を溜めながら、ゆかりは早口で捲し立てた。興奮と恐怖で唇が震えている。ミルは焦る気持ちを抑え、ゆかりの肩を掴んで何度も揺さぶった。
「ちょっとは落ち着きなって。あの娘がそんな簡単に死ぬわけ無いじゃないのさ」
 浮遊する機体は左右のアームを伸ばし、瑞穂の身体を掴み上げた。血の混じった水滴が、ぽたぽたと少女の衣服から染み出て、焼け焦げた草地にこぼれ落ちた。
 血の気のない真っ白な腕が、アームの隙間から覗いている。機体の揺れに合わせて、振り子のようにぷらぷらと左右に振れていた。アームは瑞穂を掴んだまま上昇し、少女の身体ごと機体の内部へと収納された。
「ま、こんなものか。後は、帰ってからのお楽しみね」
 カヤは呟き、メインパネルを操作した。機体は瞬時に流線型に――高機動航行形態へ変形し、爆音と強烈な衝撃波を辺り一帯に響かせると、空の彼方へ消えた。

 

○●

 エーフィが鳴いた。何かを感じたのか、滑らかな光沢をもつ毛が逆立っていた。紫色の瞳は妖しく輝き、遠くに感じた”それ”を警戒しているようだった。
 もう一度鳴く。物音に敏感な自分の主人を刺激しないようにという配慮を含んだ、小さな声で。
「どうしたの?」
 射水 氷は視線を横へとそらし、エーフィを見据えた。紫の長髪とその妖艶な雰囲気に似つかわしくない可愛らしい黄色のリボンが、微かに靡いた。
 エーフィは立ち上がり、窓の縁へと跳び上がった。何かを知らせようとしているようだった。氷は椅子から腰を上げると、窓ガラス越しに見える風景を眺めた。
 氷は思わず眼を細めた。鈴の音のように高く、落ち着いた声が静寂な部屋に小さな音の波紋を広げた。
「ファルゲイル――」
 ロケットコンツェルンの兵器開発部門が極秘裏に開発していた強襲用垂直離着陸機の名である。特殊エンジンによる疑似カウンター能力を搭載しており、装備の機密保持の為、機体の存在を知る者は組織のほんの一部に過ぎなかった。氷も実物を見たのは初めてである。
 高機動航行形態へと変形し、爆音を響かせながら飛び去っていく機体。その背中を眺めながら、そこから感じる冷たいオーラを感じながら、氷は独りで呟いた。
「あれは確か、あの女が――戻りなさい、エーフィ」
 氷はエーフィを戻し、部屋を出た。階段を降り、ホテルの玄関から空を見上げたときには、既に機体の姿は見えなくなっていた。
 思いの外強い日差しが、氷の目を眩ませた。少女は掌で視界を覆って日差しを遮った。氷は、ゆっくりと歩き始める。日差しを遮っていた掌は口許まで下がり、何かを思惟するかのような姿勢に変わった。
 組織を脱走した直後に、ファルゲイルがカヤの部隊に配備されたことを法柿から知らされていた。誰が搭乗するのかは決まっていなかったが、氷はカヤが乗ると確信していた。派手好きかつ新しい物好きのカヤが、最新式の”玩具”に飛びつかぬ筈がなかったからだ。
 後に、法柿からカヤが搭乗者に決まったという連絡を受けた時、氷は皮肉な自分に気づき、暗い笑みを噛みしめた。誰よりもカヤが憎く、誰よりもカヤを憎んでいながら、誰よりもカヤの性格や癖をよく知っている自分。飼いならされてしまった。あの女のペットとして。玩具として。
 私は、飽きた玩具は壊し、どんな快感にもすぐ退屈してしまうあの女が唯一大切にした玩具だから。
 今更ながらにそれを思い知らされて、惨めさと悔しさが襲った。その夜は、眠れなかった。涙に頬を濡らしながら、布団の中で一晩中、身悶えた。
 だが、それももう終わる。悪夢に怯えるのも、過去に魘されるのも。
「ここで決着を付ける――」
 氷は呟いた。鈴の音のような高く小さな声。少女の静かな気迫に気圧されたかのように、周りの木々がざわめき始めた。震える木々は怯えているように見えた。そこにかつての自分を見ているようで、氷は無意識に瞳を細めた。
「お姉ちゃん! 氷姉ちゃんやろ?」
 聞き慣れない声が、氷を呼んだ。氷は思わず身構え、腰に隠している拳銃へ手を伸ばした。
「やっぱり氷姉ちゃんや!」
 女の子の声だった。声の主は、叫ぶと同時に氷へと飛びついた。子供一人分の重みが、急に氷の身体に加わり、彼女はその重みを支えきれずに蹌踉け、その場に倒れて尻餅をついた。
「お姉ちゃん! 助けて……」
 女の子は、氷のか細い身体を抱きしめながら呟き続けた。顔を胸に押しつけているため、その表情を伺い知ることはできないが、酷く怯えているようだった。氷は痛みを堪えつつ起きあがり、胸の中で強張る少女の姿を見据えた。
「誰――?」
 氷は訊き、女の子を自分から離そうと手を伸ばした。女の子を覆うようにして腕を広げ、その小さな背中に触れる寸前の所で、氷は自分の手の甲が濡れているのに気付いた。抱きつけれたときに雫が付いたのだろう。その雫が女の子の涙であると、氷は即座に気付いた。
「泣いてる? どうして――」
 女の子は、氷の胸に埋めていた顔を上げた。涙に汚れた幼い顔が、潤んで真っ赤になった瞳でじっと氷を凝視している。必死なその眼差しに氷は息を呑み、同時に胸の奥に突き刺さるような胸騒ぎを感じた。
 見覚えのある女の子の顔を見据え、氷は記憶を探った。
「瑞穂ちゃんの――妹?」
「そやで。やっと思い出してくれたん?」
 ゆかりの背中は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、痙攣しているかのように震えていた。怯えている、と氷は悟った。脱力しきり緩んだ目尻から、止めどなく涙がこぼれ落ちている。
「何が、あったの? あの娘――瑞穂ちゃんは?」
「お、瑞穂お姉ちゃんは――」
 吃らせながら、ゆかりは声を絞った。
「連れて、連れて行かれてもうた」
「連れて――いかれた?」
 氷は鈴のような高く静かな声で、ゆかりの言葉を反芻した。その次の瞬間、悪夢のような最悪の想像が脳裏を掠めた。まさか、あの娘――あの女に浚われた?
「ちょっと! 何してるのさ、ゆかりちゃん! いきなり走り出したと思ったら――」
 突然の大声に、氷の想像が意識から遠く離れた。ビクリと身体を震わせたゆかりの様子を感じ、氷は無意識の内に声のする方へと視線を移した。
 背の高い金髪の少女が、怒ったような顔をして立っていた。少女の後ろには、普通よりも一回り大きいリングマの姿が見える。全身に火傷のような傷があり、苦しそうに肩で息をしていた。
 金髪の少女は、ゆかりに抱きつかれている氷の姿を認めると立ち止まった。当惑したように眉を潜め、少女は一言、氷へと訊いた。
「だ、誰さ――あんた」

 

○●

 嫌な臭いがした。
 今まで何度も、同じ臭いを嗅いだ。それでも慣れることはない。初めてこの臭いを嗅いだときのショックは記憶に染みついて、未だに離れることは無い。胸の奥にまでその嫌な臭いが入り込んで、自分を犯してしまいそうな気がして、息を止めた。長くは続かなかった。
 瑞穂は呻くような声を響かせ、息を吐きだした。見開いた瞳には涙が滲み、はぁはぁと喘ぐその口は苦しげに開けられている。
 全身の空気を吐き出し終えても尚、口は開かれたまま、新たな空気を吸い込もうともしなかった。吸い込む気にはなれなかった。あの嫌な臭いを、臭いを含んだ空気を身体の中に取り入れたくは無かった。大きく開かれたまま固定された口許から、嗚咽のような声と涎が滴り落ちた。
 涎の雫が自分の足に落ちた。冷たい、と感じると同時に瑞穂は意識を取り戻した。発作的に息を吸い込み、強い腐臭に咽せた。自分が錯乱していたことに気付いたのは、それから暫く、呆然と暗闇の中を見つめた後だった。
「ここは――?」
 金縛りにあっているかのように身体に自由は無かった。全身が冷水を浴びた後のように寒い。
 口で息をしながら、瑞穂は辺りの様子を伺った。気が付いた直後には真っ暗で何も見えなかったが、時間が経つに連れて目が慣れ、朧気ながらも周囲を確認できるようになった。
 コンクリートの壁に囲まれた小さな部屋だった。何の装飾も施されていない冷え切った壁を見つめ、瑞穂は悪寒に震えた。だが、その寒気は視覚からくるものだけでは無かった。
 壁の隙間から風が吹いた。そのあまりの冷たさに瑞穂は身悶え、顔をしかめた。少しでも風を避けようと身体をずらし、コンクリートの壁に背中を寄せたところで、少女は小さな悲鳴を漏らした。瑞穂は何も羽織っていなかったのだ。
「ここは、どこだろう? たしか、リンちゃんの破壊光線が反射されて――」
 気を失う前の記憶を辿りつつ、瑞穂は身体を捩った。両手首に、痺れるように冷たい何かが絡まっている。瑞穂は、手首に絡まったそれを振りほどこうと腕を動かした。だが、細い腕では堅く絡みついたそれを外すことはできなかた。
 瑞穂は自分の手首を見上げた。鈍い銀色をした鎖が、コンクリートの天井と瑞穂の身体とを繋いでいる。
「どう? 今の気分は」
 暗く締め切った部屋に女の声が響いた。瑞穂は咄嗟に視線を傾け、声のする方を見やった。次の瞬間、強い光が少女の眼を眩ませた。フラッシュが瑞穂の白い裸体を一瞬だけ包み込んだ。
 カヤは微笑みを湛え、瑞穂の真正面に立っていた。女の鋭い瞳が、彼女の手にしたカメラのファインダーを通して、瑞穂に突き刺さった。唇の端を軽く噛み、瑞穂は恥ずかしげに俯いた。
「ここは何処なんですか? それに、何のために私の写真を撮っているんです?」
 カヤと視線を合わせないように注意しながら、瑞穂は小さな声を出した。
「ここは組織の巣よ。で、私の遊び場でもあるわ。写真を取るのは単なる記録の為よ。楽しい記録のね」
 カメラを片手に持ったまま、カヤは楽しげに呟いた。冷たく尖った瞳は更に細くなり、口からは白い歯が覗いた。微かに見える嫌味な笑みを、瑞穂は首を振って視界から追い払った。
「人間の記憶は曖昧なものだけど、こうやって写真に記録しておけば、いつでも取りだして眺めることができるから。いつだって、楽しむことができるから」
「楽しむ?」瑞穂は怪訝そうな声を出した。「楽しむって、何をです?」
「何でそういう下らないこと訊くかな――」
 カヤは左手に持っていたカメラを手放し、蔑むような視線を瑞穂へと向けた。瑞穂は、威圧するような女の視線に押し黙った。カメラが床に落ちる音が響き、それと同時に、はらはらと何枚もの写真がカヤの懐からこぼれて、散らばり落ちた。
「でも、どうしても知りたいって言うのなら教えても良いわ。あんたも何も知らずに死ぬより、これからどうなるのかを知っておいた方が良いかもね」
「私を殺す気ですか?」
 小さいながらも芯のある声で、瑞穂は訊いた。
「それはあんた次第よ。もっとも時雨は殺るつもりみたいだけどね。どう? 死ぬの恐い?」
「別に」
「珍しい。死ぬのが恐くないなんて、新しくて斬新なタイプね。楽しめそう」
 カヤの言葉を聞き流しつつ、瑞穂は抑揚のない静かな声で続けた。
「死ぬのは恐くないですよ。昔は――つい最近まで、ただ死という概念だけがひたすら恐かった。自分の意識が完全に消えてしまうのが恐かった。でも、今は違う。本当に恐いのは――」
 そこまで言いかけて突然、部屋の明かりがついた。瑞穂は顔を上げた。そこにカヤの姿は見えなかった。血塗れの屍体が冷たいコンクリートの床に無造作に転がっているだけだった。首のない裸体が。
 首筋に冷たいものが触れた。生暖かく甘い息が、瑞穂の頬を撫でるようにして通り過ぎた。瑞穂は顔を動かさずに、視線だけを気配のする方へと向けた。カヤが睨むような目つきのまま、少女の首筋にナイフをあてがっている。
「覚えてる? あんた前に私に訊いたわよね、氷に何をしたのかって」
 瑞穂は無言のまま頷いた。カヤはほんの少しだけ手の力を、ナイフを抑えつける力を緩め、瑞穂の眼前に写真の束を突き付けた。
 写真に写っていたのは、幼い頃の氷の姿だった。氷の姿を認めると同時に瑞穂は目を剥き、愕然とした様子で肩を落とした。両手首に縛られた銀色の鎖が擦れ、冷たく無慈悲な音を奏でる。
「教えてあげる。私が氷に何をしたのか。それと、死ぬことがどれほど恐いのかをね」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#13-2

#13 断罪。
  2.始まり無き罰

 

 凪いでいた海が狂ったことに気付く者はいなかった。夜の闇が、グラシャラボラスを沈めることになる狂気を包み隠していたのだから。
 冷たい電灯の光に溢れた一室。リリィは俯きながらベッドに座り、ライムは壁にもたれて窓の外を見つめていた。黒い空には、月も星も見えない。
「今夜は、新月だったっけ?」
 不意にライムは話しかけた。リリィは何も答えない。口を噤んだまま、上目遣いにライムを睨む。
「どうして睨む?」
 呆れたように訊くライムに、リリィが口を開いた。
「さあ、どうしてだろう――少なくとも、あんたは睨んだからって、私のことを殴ったりしない」
「あのさ、その”あんた”って呼び方はやめてくんないかな。僕にはライムって名前があるんだから」
 ライムは苦笑した。窓から視線を外すと、リリィの座るベッドに横になる。
「どうして、あんた――いえ、ライムは私に構うの?」
「また、同じこと言わせる気? 僕はもう、君を泣かせたくないよ」
 おもむろにリリィは立ち上がった。振り向き様にライムの頬を張り飛ばそうと掌を伸ばす。音は鳴らない。ライムは、まるでリリィの行動を予測していたかのように、彼女の細い手首を掴んでいた。リリィは後ずさる。だが、ライムはそれを許さなかった。
「は、離して――」
「嫌だ」
 ライムはリリィをベッドの中へと引きずり込んだ。怯えたように身を縮めるリリィへと覆い被さると、彼は冷たい光を邪魔だとばかりに、電灯を消した。
 室内に闇が流れ込んできた。何も見えず、波の音と船のエンジン音以外は何も聞こえない。ライムの細く硬い身体の感触と体温を感じながら、リリィは不本意ながらも目を閉じた。
 最期の夜は長く、まだ始まったばかりだった。

 

○●

「人間――か。私もライムも人間なんかじゃない。人間は、ここまで愚かではないし、これほどまでに卑怯ではない」
 瑞穂の問いかけに、リリィは呻くように呟いた。彼女の開かれた瞳は細く、そして仄かに紅い。鮮血の色、猛火の色、痛みの色。内に沈んでいる哀しみと、その裏側に張り付いた怒りが、彼女の身体をゆっくりと流動し、瞳から洩れている。
 リリィの瞳を見つめながら、瑞穂は思った。何を悲しんでいるのか、何に怒っているのか。類似する二つの感情はいずれも、自分にも、ライムにも向いてはいないのではないか。
 ライムは瞳の輝きを一層強め、リリィへと話しかけた。
「勝手に囀っていろリリィ。俺はもう、愚かで醜い人間などではない。人間とポケモンの時代は終わり、俺やお前のような、イグゾルトの時代が始まるのだ」
「イグ――ゾルト? それは一体――」
 ライムの語る謎の単語に、瑞穂は首を傾げた。
「人間には、関係の無いことだ。俺とリリィだけの問題だ」
 そう言った途端にライムは、まだ鮮血の乾かぬ刃を振り上げた。鮮血の飛沫が、天井へと飛び散る。背中の羽根を高速で羽ばたかせ、一瞬でリリィの眼前へと潜り込んだ。
 リリィは頭部の葉っぱカッターで、ライムの刃を受けとめた。反動をつけ、頭上の二つの刃をすり抜けるようにして跳び上がり、カッターをライムの肩へと食い込ませる。
「無駄だ」
 ライムの身体に傷はなかった。リリィの葉っぱカッターは、ライムの身体に触れる寸前で、仄かに赤みを帯びた透明な壁に阻まれていた。
「なに、あれ――」ミルは呆然と立ち尽くしたまま、瑞穂の細い腕をつついた。
「光の壁だよ。でも、ハッサムがそんな技を覚えるなんて聞いたことがない」
 瑞穂が言い終わるよりも速く、鋭い刃メタルクローがリリィの鼻先を掠めた。銀と紅の残像が、リリィを弾き飛ばす。壁に叩きつけられたリリィへ体躯を傾けながら、ライムは視線だけを瑞穂の方へと向けた。
「俺を、ポケモンなどと一緒にするな」
「でも、どう見たって、あなたはポケモンだよ。心はともかく、少なくとも見た目は」
「変わっていないな。前と同じだ。気に入らないことを、次から次へと――だが俺は違う、今日は調子がいい。人間を殺すことに躊躇いは無い」
 そこまで言い切ると、ライムはメタルクローと羽根を同じ周期で動かした。猛烈な風が舞い起こり、瑞穂のツインテールが忙しなくはためく。
「この風は、まさか――リンちゃん、お願い!」
 リングマは雄叫びを上げ、横からライム目がけて突進した。二つの巨体が横倒しになり、タイルの床を粉々に粉砕する。後には、土煙が朦々と舞い上がった。瑞穂は身を乗り出し、土煙の先を凝視した。
 先に身を起こしたのはライムの方だった。
「殺す」
 ライムは吐き捨てるように呟くと、両腕を広げ、羽根の舞い起こす風へメタルクローを合わせた。突風と銀色の粉末が混ざり、壁や床がヤスリで削ったかのように消滅していく。
「やっぱり、銀色の風!」
 瑞穂はミルとゆかりを突き飛ばすと身を伏せた。頭上から銀色の粉末と、削れた壁の破片が降り注ぐ。細い瑞穂の胸に顔を埋めながら、ゆかりは叫いた。
「お姉ちゃん! こんなん喰らったら、死んでまうで」
「そうだね。でも、私たちにはリンちゃん達がいるから、大丈夫だよ」
 瑞穂の言葉に呼応するかのように、ライムの背後から床タイルの破片が弾けた。土煙と粉塵の中から、太い腕が伸び、ライムの首筋を掴んだ。
 瑞穂は、全身に浴びた塵を払うと立ち上がった。蹌踉めきながらも身体を起こしているリリィを、流すように一瞬だけ見やり、そのままリングマへ視線を滑らせる。
「リンちゃん! 瓦割り!」
 リングマは爪を引っ込めると拳を握り締め、ライムを覆う光の壁を殴りつけた。ガラスの割れるような音が響き、光の壁が崩れていく。
「無駄だと言っている」
 ライムが強い口調で嘲った。だが、瑞穂は動じず、砕け散る光の壁を見据えている。光の壁の破片が反射する、強い輝きを、じっと。
 ライムは悟った。すぐさま振り返った。リリィが立っている。ただ、立っているのではなかった。頭上の葉っぱに太陽の光を蓄積していた。ライムは身を翻すよりも速く、瑞穂は口を動かした。
「ナゾちゃん、ソーラービーム!」
 レーザーのような光の帯が幾重も、ソーラービーム発射の刹那、辺りを駆け巡った。
「くっ――だが、光の壁が壊されようと、当たらぬ強攻撃は、当たる弱攻撃に劣るだけのこと!」
 ライムは、ビームを避けようと羽根を羽ばたかせ、浮かび上がった。
「岩石封じ!」
 地面が揺らいだ。リングマは地面に腕を突き刺した。地面が裂けていた。屍体とタイルの破片に溢れた床を突き破り、岩石のように堅い土が、ライムの身体を覆うようにして盛り上がった。
「何だと――」
 ライムの言葉は、ソーラービームの轟音が掻き消した。強烈な閃光がライムの動きを封じていた岩を溶かし、ライムの身体自身を吹き飛ばした。
 光は治まった。ソーラービームの軌跡に沿って抉れた地面だけが、威力の凄まじさを物語っている。瑞穂はゆっくりと両目を開き、所々に硝煙の上がる室内を見回した。一歩外へ踏み出した途端、血腥い死臭が鼻をつく。
 ライムは倒れていた。目を閉じている。気絶しているのだろうか、その身体は動かない。
「お姉ちゃん、もう大丈夫やろか」
 全身の力が抜けてしまったかのように床に座り込み、ゆかりは訊いた。身体と同じように、力の抜けた声だった。
 ゆかりの問いかけに、瑞穂は小首を傾げた。口は半開きのまま硬直している。声も出さずに、ライムの焼け爛れた身体を見つめ、呆然と立ち尽くしているだけだった。
「人間が、人間ごときが――」
 呻き声がライムの身体から響いた。瑞穂は口を閉じ、汗ばんだ掌を握りしめた。
 立ち上がる。瞳を開く。ライムの視線は紅い光の線となって、瑞穂とその背後に立つリリィへと向けられていた。瑞穂は眩しそうに目を細めた。
「あなたは何者なんですか? それに――」
「お前こそ誰だ」ライムは吐き捨てるように叫んだ。
「何故、俺の邪魔をする?」
「私は、ただ誰にも死んで欲しくないだけですよ」
 ライムは両腕を広げた。
「では、俺はどうなってもいいと? 既に死んでしまった奴など、どうでもいいと? とんだ偽善だな」
 羽根を広げ、ライムは浮かび上がった。見下すような彼の表情に、瑞穂は首筋に突き付けられたナイフの冷たさと同じものを感じた。恐怖とは違う、純粋な悪寒。
「既に死んでしまった? あなたがですか?」
 瑞穂の言葉は、銀色の風に真正面から切り裂かれた。ライムの身体を中心として渦のような砂埃が舞い上がる。瑞穂は身を屈め、徐々に視界から遠ざかっていくライムを凝視した。
「追いかけて――」
 リリィが言った。瑞穂は振り向き、彼女の顔を見据えた。蒼白な、それでいて表情の見えない顔をしていた。だが、瑞穂は見抜いていた。彼女の瞳は、眩い光よりも、何よりも雄弁に、内に溢れる哀しみと焦りを周囲に漏らしていることを。
「追いかけて、どうするの? どうするんですか?」
「ライムの逃げる先に、あの男がいるから。それに――」
「あのハッサムを、このまま野放しにしておくことはできない。それは私も同じですよ」
 瑞穂は暗い微笑みを返すと、リリィの背後で無造作に倒れている無数の屍体を見渡した。いずれの屍体も、身体と首が切り離された、非道い形をしている。
「たしかに、あのポケモンをこのまま逃がしたら、とんでもない事になるかもね」
 ミルは腰のベルトに付けたモンスターボールを手に取り、放りあげた。
「出番よ、リザードン
 ミルはリザードンを繰り出し、その背中に飛び乗った。
「あんな虫ポケ、私のリザードンなら、すぐに追いつけるよ。2人とも早く乗って」
 リザードンは空へと飛び上がった。瑞穂は目を凝らして地上を眺めた。だが、探す必要はなかった。ライムは、地上に目立つ目印を描いていたのだから。鮮血の線と、その周りに転がる屍体という目印を。

 

○●

 チョウジタウン手前にある洞窟の入口。地面に散らばる屍体は、そこで終わっていた。瑞穂達はリザードンから降り、洞窟から流れる川の奥を見据えた。
 瑞穂は、狭い洞窟の壁に触れないように中へと入った。
「間違いない」リリィは短く言った「ここにライムはいる。そして、あの男も――」
「さっきも言ってましたけど、あの男って、誰です?」
 リリィを胸に抱き上げ、瑞穂は訊いた。
「わかりやすく言うなら、私とライムを造った人間」
 足が一瞬だけ止まった。背中が微かに震えた。体温が一気に下がったような気がしたのは、洞窟の冷たく湿っぽい空気に触れた為でも、頬に雫が垂れた為でもなく、胸の奥の――ちょうどナゾノクサを抱いている部分の、冷たく重い感情が胎動したからだった。
「ちょ、ちょっと待っち。あんたを”造った”ってどういう事よ」
 ミルは横から首を突っ込み、リリィの顔をまじまじと見つめた。
「正確に言うなら、私の意識を――」
 リリィの声は、途中で途切れた。ミルは眉を潜める。
「ちょっと、何さ。途中で止めないでよ」
「ミルちゃん、静かに」瑞穂は制した。
「何でさ」
「足音が聞こえる」
 ミルは瑞穂と同じように耳を澄ませた。確かに聴こえる。タイルの床と革靴の奏でる、乾いた音が。
「私に訊くより、本人から直接訊いたほうが分かりやすいわね」
 リリィが呟くのとほぼ同時に、瑞穂達は広い部屋へと出た。明るく白い照明と灰色の床が見える。洞窟の中であることを忘れさせてしまうほどに整然とした室内を見回し、瑞穂は小さく呟いた。
「ここは――」
「ようこそ、そして、おかえり」
 男の声が反響した。若い声ではなく、低く厚みのある声だ。瑞穂がそう感じたとおり、声のする方に立っていたのは白衣を纏った老人だった。老人は遠い目で少女達を見つめ、一瞬含むような、そして不可解な笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、リリィ。まさか、生きていたとは思わなかったが」
「そう簡単に殺されるつもりはない。少なくとも、このままでは」
 老人もリリィも切迫し、張りつめた空気が、お互いを威圧していた。瑞穂は声も出さず、ただ呆然と立ち尽くして、2人の言葉を聞いていることしかできなかった。
 リリィの細い瞳は、老人に対する嫌悪の感情で溢れていた。だが老人は、リリィを自分の娘でも見るような眼差しで見つめている。小さな笑みの正体は、そこにあった。
「このままでは死ねない? それなら――」老人は首を傾げた「お前は、何がしたいのだ?」
「罪を」
「罪――?」
 リリィの言葉の欠片を、瑞穂は不思議そうに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「罪を、あんた達の犯した罪を裁きたいだけ」
「私たちの犯した罪? たしかに、お前から見れば、私がしていることは罪なのだろうな。罰を受けなければならないのだろうな。私のしていることは、正義ではない。だが、この星にとって必要なことだ」
 老人の背後から、紅い物体が跳び上がった。リリィは一瞬だけ上方を見やり、後ろへ下がった。次の瞬間、リリィの立っていたタイルが粉々に砕けた。突き刺さっているのは、目玉のような模様の付いた、真紅の刃。引き抜き、リリィへ構え直すライムの巨体。
「残念だが、リリィ。お前では、ライムに勝てない。さて――」
 老人は、攻防を続けるリリィとライムを尻目に、瑞穂達へと向き直った。
「自己紹介が遅れた。私は、柊と言う者だ。見ての通り科学者でね、昔はよく柊博士と呼ばれていたものだ――」
 懐かしむように目を細め、柊と名乗った老人は天井を見上げた。
「柊博士――もしかして、あの――」
 聞き覚えのある名だった。瑞穂は記憶を巡らせ、冷たく感情のない声を脳裏で再生した。射水 氷の声だった。俯き、拒絶しているような細い瞳で地面を見つめながら、呟く声。
「あなたは、ロケット団の科学者ですね? 『リリィ』という、特殊電波発生装置を開発した」
「ああ、確かにロケット団に協力したこともある」
 柊は事も無げに言い放った。
「だが、私はロケット団の考えに共感したわけでも、脅迫されたわけでも無い。ただ、彼等の資金力と、最新の設備、そして私の手足となって働く多くの団員達は魅力的だった。悪く言えば、利用させてもらったと言うべきか」
「そこまでして、あなたは何がしたいんですか?」
 瑞穂は訊いた。蒼白な顔に浮かび上がる冷たい汗と微かな震え。少女の感情はそこに浮き出ていた。暗い穴に落ち込むような愁いと、その裏で藻掻く怒り。
 柊は、目の前に立つ小さな身体を眺めた。少女は幼い顔に不釣り合いな、冷めた眼をしていた。その大きく見開かれた瞳の奥に絶望の色が見える。老人は怪訝そうな表情を浮かべたまま、少女の問いに答えた。
「人間の為に、ポケモンを滅ぼす」
 瑞穂の瞳の色が濃くなった。
 少女の瞳を、柊は観察し続けていた。子供とは思えないような、聡く澄んだ眼をしていると、彼は思った。だが、彼は瞬時に眼を背けた。他でもない瑞穂の瞳から。
 ほんの一瞬、瑞穂は柊を睨んでいた。老人の思考は凍りついた。まるで、その瞬間だけ、少女が少女ではない、別のものに変化したように彼には思えた。
「何故です? 人間もポケモンも、お互いに助け合って生きている筈です。それなのにどうして。意味がわかりせん」
 少女が問いかける。語尾の掠れた言葉が、室内に虚しく響く。
 柊は我に返り、瑞穂の顔へと再び視線を向けた。少女の瞳は、大きく見開かれていた。先程の鋭さは欠片もなく、代わりに目尻には涙が滲んでいた。
ポケモンを滅ぼすって、誰にそんなことする権利があるんですか!」
「では、我々が滅びるかね?」
 老人の芯の強い声に、瑞穂は押し黙った。冷たい沈黙の中で、リリィとライムが、果てのない戦いを続ける音が響く。
ポケモンが――人間を滅ぼすって、そう言いたいんですか? あなたはそう思ってるんですか? そんなことあり得ないですよ」
「本当に、そう思うかね? 後ろの君も」
 柊の視線が、瑞穂の後ろに立つミルへと移った。
 ミルは慌てて顔を背けた。まるで、老人に見つめられることが、見つめ合うことが汚らわしいことであるかのように。
 視線をそらしたまま、掠れた声でミルは呟いた。
「確かに、こないだのカイリューの時みたいに、ポケモンが人を傷つける事もあるし、下手したら殺すかもしれない」
「ミルちゃん――」瑞穂は振り向いた。言いたいことが胸に詰まったのか、声が途中で途絶えた。
「でもさ、だからって大袈裟じゃない、おじさん。瑞穂ちゃんの言うように、ポケモンの全部が全部、人間を襲ったりするわけないじゃないのにさ」
「そうですよ。それに物理的にも、ポケモンが人間を滅ぼすなんてできるわけ――」
 顎を上げ、柊は眼を細めた。腕を伸ばし、壁に剥き出しになった装置に手を触れる。老人の足下に無造作に置かれていたディスプレイが、音もなく不気味に映像を映しだす。
「確かにポケモンが人間の脅威となる可能性はあっても、人間を滅ぼすことはできないだろうな。普通なら。常識で考えるのならば」
 柊の声に合わせるようにして映像は流れる。焼け焦げた草むら。地面から噴きだす煙。炭化した人間とポケモンの屍体。その中央から放たれる強烈な電撃の柱と、光りに隠れた一匹のポケモンのシルエット。
「これはエレブーだ。知っているとは思うが、発電所付近などに生息する、ごくありふれたポケモンだ。だが、このエレブーは普通のエレブーでは無い。普通のエレブーは、人間を炭化させるほどの電撃を出すことなどできない」
「それじゃ、一体――」
 呆然と呟く瑞穂の声は打ち消された。他ならぬ老人の声によって。
「ex――エクストラだ」
「エクストラ? 何なんですか、それは」
「通常とは異なる、特殊な能力のことだ。このエレブーは、ex特性「エナジーチャージ」を持つ。半径1キロ以内にいる電気系ポケモンの電気を奪い、自分のエネルギーとする特性だ。そして、こうなる」
 柊はディスプレイへ視線を向けた。映像の中で、エレブーは狂ったように叫んでいる。叫びながら、放電を続けている。焼け焦げた屍体が、電撃によって粉々に砕けていく。そこで映像は途切れた。
「あの――このエレブーは、どうなったんですか?」
「死んだ。吸収したエネルギーに耐えきれずに、自壊した」
 瑞穂は顔を伏せた。沈鬱な表情が、水色のツインテールとそれの作り出す影に隠れた。
「屍体はロケット団が回収し、最終的に私の元に提供された。エレブーだけではない、様々なポケモンのex特性体を、私は解析した」
 柊はディスプレイの電源を消し、言葉を続けた。
「ex特性体の能力の種類は、間接的予知能力のような微力なものから、街一つを消滅させるほどの強力なものまで多岐にわたったが、そのすべての個体に3つの共通点が認められた。
 1つは、形質及び中枢神経に特殊変異を起こさせる因子を遺伝子レベルで持っていること。ex特性体の特殊能力は、この遺伝子に起因しているようだ。2つ目は、キャプチャーネットの干渉を無効化することができるということ」
「つまり、モンスターボールで捕獲することができない?」
「そうだ。そして3つ目は、別個体のex特性を中和することができるということ。簡単に言えば、ex特性体同士では、ex特性は働かないということだ。そこで――」
 柊は、戦い続けるリリィとライムを見やった。瑞穂は、老人の眼差しに不気味なものを感じた。自分の子供を見つめるような暖かな瞳の中に、冷たく黒い色が秘められていた。微笑んでいる。お互いが傷つけ合い、殺し合うのを見て。
「私はロケット団の提供した、普通のナゾノクサハッサムに人工的なex特性を持たせた。中枢神経を変異させる電波発生装置を埋め込むことによって」
「それが、イグゾルト――ですか。でも、何のためにそんなこと」
「ex特性体は危険な存在だ。人間を滅ぼしかねない能力を持っているのだからな。人間を守るためにも、ex特性体を根絶する必要があったのだ。ex特性体に対抗できるのは、ex特性体以外に考えられなかった。exalt――イグゾルトならば、キャプチャーネット無効化以外のexの特徴をすべて備えている。当然、ex中和特性もな。それに加え、イグゾルトはex特性体を感知する能力も持つ」
 柊の表情が強張った。
「だが、ナゾノクサハッサムには、ex特性体を狩ることができなかった。彼等には、他のポケモンを狩る理由が無かったから。そこで私は、カイリューex特性体によって殺された人間の意志に目を付けた。ex特性体を憎む心を植え付ければ、何も言わずとも彼等は狩りをしてくれる」
 瑞穂は息を呑んだ。震える身体を堪えつつ視線を反らし、リリィとライムを凝視する。小刻みに揺れる視界の中で、二つの意志は争い続けていた。
「君たちも知っているだろう。グラシャラボラス沈没の事件。あれもex特性体によって引き起こされた悲劇なのだよ」
「違う! あれは――」ミルは叫んだ。
「なんだね?」
「な、何でもない」
 俯いたまま呟くミルを、柊は怪訝そうに見つめた。
「まあ、いいだろう。私はロケット団員を現場へ派遣し、一番損傷の少なかった屍体――リリィとライムを回収した」
 瑞穂は、横目でミルを見やった。ミルは黙ったまま口を噤んでいる。暗い瞳だけが、老人を睨み付けていた。
「リリィとライムの脳波を抽出加工し、電波発生装置のソフトに組み込んだ。その過程でポケモンの意志に介入することのできる電波を開発できたのは、ロケット団にとって嬉しい誤算だったろうがな」
 ミルは小声で瑞穂へ囁いた。
「たぶん、リリィとライムって子の身体は、深海の涙の影響を受けてたんだと思う。だから、屍体に痛みが少なかったんだよ。ポケモンの意志に介入することのできる脳波だって、深海の涙の”力”が、2人の身体に残ってたに違いない」
 瑞穂は小さく頷き、喋り続ける老人を見つめた。
ナゾノクサexalt特性体はリリィとして生まれ変わり、ハッサムexalt特性体はライムとして生まれ変わった。だが問題は、意志介入電波はポケモンの身体に非常に負担をかけると言うことだ。その為に当初は、長時間リリィやライムでいることができなかった。もっとも、リリィはナゾノクサと意志を共有することで、ライムはハッサムの意志を封じることで乗り切ったようだがね。
 問題はもう一つあった。イグゾルトはex特性体を感知する能力をもつが、exalt特性体をより強く関知することが分かったのだ。当然、リリィとライムが真っ先に戦いを始めた。そこで私は、ウバメの森でお互いを戦わせ、勝利した方を計画に使うことにした。結果は、ライムが勝利した」
 そして私と出会った、と瑞穂は心の中で呟いた。出会ったときの鋭く紅い、ナゾノクサの瞳。哀しい瞳。脳裏に甦る光景が、瑞穂の心の奥底を抉る。
「非道い――」
 瑞穂は顔を上げ、老人へ言葉を叩きつけた。
「非道いですよ。リリィさんとライムさんは、同じ仲間だったのに、お互いを戦わせるなんて」
「人間のためだ。exを滅ぼすためには、仕方のないことなのだ。それとも、君はexによって沢山の人間が死んでもいいと思うのか?」
「あなたの自信作のライムも、人を殺しましたよ。exではないポケモンも。それも、沢山」
「小さな犠牲だ」
「生きてるんですよ。一人一人が。物じゃないんです。まして、兵器でも、壊れたからって取り替えの効く部品でもない。あなたは、その区別が付かなくなってる。狂ってますよ。狂ってます」
 唇を噛みしめ、瑞穂は吐き捨てた。額に浮いている汗は、怒りからか、錯乱の兆しか。
 柊は瑞穂の言葉へ耳を傾けていた。動じることなく、強張った顔のまま老人は口を開いた。
「さっきの映像で、エレブーex特性体に殺された者の中に、私の息子がいる。だが、息子の屍体は私の元へは届けられなかった。炭化し、存在そのものが消滅してしまったのだから無理もないがね。代わりに来たのは、私の息子を殺したポケモンの屍体だ。奴の屍体を前にして、私は決心したのだよ。こいつらを滅ぼそうと。息子を殺された怒りなどではない。そんな私怨などではない。これは私の使命なのだよ」
「それなら、なおさら分かるはずです。大切な誰かを失ったとき、殺されたときの哀しみが。あなたなら、こんな破滅的な方法でなく、もっと他の方法を見つけだせたはずです」
「分からないな。他の方法など、見つけだす必要は無い。君の目から見れば、私は狂っているように見えるかもしれない。だが私にとっては、これが最良の方法であり、正義なのだよ」
 瑞穂はモンスターボールを手に取った。放心したような蒼白な表情で老人を見つめ続けながら、その手を振り上げる。
「誰かを殺す正義なんて、そんなの間違ってますよ」
 放たれたモンスターボールから、リングマが飛び出した。
「お願い、リンちゃん! 2人を止めて」
「手を出すな!」
 リリィの声が部屋に響いた。強い叫び声に、瑞穂は怯える子供のように身を竦めた。
「ど、どうしてです? こんなことしたって――」
「お願いだから、手を出さないで。これは私の問題だから。私闘だから」
 ナゾノクサは、リリィは一瞬だけ瑞穂へ微笑んで見せた。
 瑞穂は、いやいやするように首を横へと振りながら後ずさった。胸へと掴む掌は痙攣し、汗で濡れていた。
「ナゾちゃん――」
「ありがとう、私のこと助けてくれて」
 リリィの瞳が真紅の輝きを帯びた。全身が蒼く光り、風のように軽く、空中へと跳び上がった。
 身体が軽い。リリィは人間だった頃には感じることの無かった感覚に酔っていた。自分の体液で歪む視線の先に見えるのは、紅い巨躯。落ちていく時間に比例して、彼の身体が大きく見える。
 そこで記憶が甦る。切り裂かれた仲間の身体。彼女の最期の呟き。――私の身体、何処に行ったの?
 落ちた。リリィの頭部の葉っぱが、ライムの瞳に突き刺さった。鮮血が飛び散る。リリィの身体を紅く濡らしていく。
「痛いな――リリィ、何故俺の言うことが分からないんだ、お前は!」
 ライムは叫んでいた。叫ぶ度に瞳だった部分から液体が迸る。
「痛いわけない。私もあんたも、もう死んでるんだから。ここにいたらいけないんだから」
「俺はライムだ。俺達を殺した奴が憎くないのか!」
「憎いも何も、私たちが憎むものはもう無いの。私は、見えない憎しみに操られてるあんたを――ライムを見ていたくない。もう、終わりにしよう。もう、終わってる筈なんだから」
 リリィは頭部の葉っぱを引き抜いた。ライムの眼から血とも体液ともつかぬ液体が噴きだす。
 天井へと跳び上がるライム。天井が濡れる。紅く染まる。そして天井から床へ鮮血が滴り落ちる前に、リリィの身体が中奥から引き裂かれた。リリィの背後で浮かんでいるライムの刃から、透明でヌルヌルとした液体が滴り落ちる。
 ライムは刃を振るった。小さな身体リリィの身体が風圧に跳ね飛ばされる。リリィは壁に打ちつけられた。粘液が床と壁に飛び散る。
「どうして、罪を重ねる? これ以上、誰かを殺してなんになる? それでライムの憎しみが消える?」
 今にも消えてしまいそうな掠れた声で、リリィは問いかけた。
 濡れた身体が熱い。限界が来ているのだ。薄れていく意識の中で、記憶が再生されていく。もう顔も思い出せない母の声や、目の前で天井に押し潰されて死んだ父の肉片。全身に降り注いだ、ナゾノクサの体液の感触。楽しいこともあったはずなのに、何故か思い出すのは哀しいことだけ。
「誰かを殺すと、哀しくないの? あんたは楽しんでいるの?」
「違う――誰かの死ぬところを見ていれば、お前が死ぬところを思い出さずにすむからだ」
「でも、あんたは私を殺そうとしている」
「そんな醜い姿になったお前を見ていたくないから。リリィは、俺の中にさえいればいいから」
 リリィは目を閉じた。体液の混じった唾を、床へ吐き付ける。
「私が――」
 目を開く。一段と強い真紅の光が、リリィの瞳に宿っている。
「私が、もう死んでいるように、あんたも――ライムももう死んでいるのね。もう、何処にもいない」
「俺はライムだ。他の誰でもない。ハッサムでも、人間でも無い。ライムだ」
 ライムは両腕を振り上げた。刃の先端が銀色に輝き始めた。
 リリィは壁に弾みをつけて飛び出し、ライムの懐へと飛び込む。刃が、リリィの足と頬を切り裂く。迸る体液。床に音もなく落ちる、リリィの頬と左足。
「ナゾちゃん! だめだよ! これ以上は無理だよ」
 瑞穂の叫び声が聞こえる。涙声だ。一瞬だけ、リリィは視線を瑞穂へと向けた。少女の顔が見える。初めて出会ったときと同じ、穏やかな顔をしている。優しくて、澄んだ眼をしている。
 リリィは片目をつむって見せた。瑞穂の表情から、血の気が引いていくのが見えた。ただでさえ白い肌が青ざめていく。リリィの瞬きの意味を、少女は悟ったのだ。
 ライムの胸に飛びつき、リリィは囁いた。
「私たちは、もう死んでいる。存在してはいけない」
「俺は、ここにいる!」
「あんたは殺しすぎた。私も、あんたを止められなかった。その罪は終わらない。でも、私たちが受けるべき罰は、私たちがこの身体で生まれ変わる前から始まってた――もう、ここで、終わりにしようよ」
 リリィの身体が蒼く光った。閃光が部屋全体を舞い、白い光がすべてを覆い隠していく。すべてを。
 ナゾノクサソーラービームは、山を突き抜け、空まで伸びていった。光の帯の中に見えるのは、2つの意志と、一欠片の狂気。

 

○●

「これが、あなたの正義ですか?」
 瑞穂は心の中で、何度も呟いた。何度も。
 これが、あなたの正義ですか? 聞こえていますか? あなたの考えていることを、私はもっと知りたかった。こんな結果になっても、あなたは自分の正義を貫くのですか? あなたの正義は、どれだけの命を奪えば気が済むのですか?
 辺りは瓦礫と岩石に囲まれていた。ナゾノクサソーラービームによって、柊の研究所は崩壊したのだ。リングマが岩石封じで守ってくれなければ、瑞穂達も柊と同じ姿になっていたに違いない。
 テレビほどの大きさの岩は、彼の頭だけを潰していた。鮮血が惨めに、老人の白衣を紅く染めている。股間の辺りに見える染みは、彼の排泄物だろうか。瑞穂は、何も言わずに視線を外し、老人の屍体に背中を向けた。
 屈み込む。無造作に転がるナゾノクサの身体を抱きかかえた。頭が裂けている。涎のような体液が止めどなく垂れるその隙間から、親指ほどの大きさの機械の破片が見えた。砕けていた。彼女は、死んでいる。
「ナゾちゃん――ナゾちゃんでいいよね? 初めて会ったときから、ずっとそう呼んでたんだから。だから――返事してよ。返事して――」
 瑞穂はその場に座り込んだ。嗚咽を堪える音が漏れる。胸に抱きかかえたナゾノクサの体液が、瑞穂の胸を濡らしていく。
 リングマグライガーが心配そうに、瑞穂とナゾノクサを覗き込む。ポニータは一人咽ぶようにして嘶いている。イーブイだけが、虚ろな瞳で空を見つめている。
「お姉ちゃん、あのな――」
 何かを言いかけたゆかりの肩に、ミルは手をかけた。ゆかりは、ミルの長身を見上げた。彼女は目を閉じて静かに首を振っていた。
「今は、何も言わない方がいいって、わかるでしょ?」
「そやけど――」
 自分が辛いとき、瑞穂は自分のことを慰めてくれた。声をかけて嘆きを聞いてくれた。そう言おうと口を尖らせたが、ゆかりの反論は、ミルの沈鬱な表情の前に消えた。
 瑞穂は座り込んだまま、ナゾノクサの冷たい亡骸を霞んだ瞳で見つめ、涙混じりの声で呟いた。
「非道いよ――ナゾちゃんを返して――」
 少女の潤んだ声に耐えきれず、リングマは自分の耳を覆った。
 それでも、少女の声は消えなかった。消えるはずがなかった。

 

○●

 誰かの泣き叫ぶ声が聞こえる。
 子供の声だ。女の、子供の声。
 時折、しゃくりあげるようにして泣き、治まったかと思うと、また爆発でもしたかのように泣き狂う。
 彼は、これに似た鳴き声を聞いたことがあった。何処でだろうと、記憶を巡らせる。浮かび上がるのは、綺麗な顔をした、名家のお嬢様の顔――
 俺はなんと言って慰めていただろうか。

 荒れ狂う海に、彼は少女を庇うようにして立っていた。
 目の前に、頭上に見えるのは巨大なポケモンが2匹。お互いに争いあっているように見える。
 少女が突然、彼の元を離れて走り出した。彼は追いかけた。少女は吐いていた。虚ろな瞳を空へと向け、その場に力なく座り込むと、泣き叫んだ。
 彼は駆け寄ろうと足に力を込めた。だが、その足は空を踏んだ。船が傾いたことによって、少女と彼は投げ出された。
 少女は沈んでいく。魂が抜けてしまったかのような瞳は、何も見てはいなかった。少女の心は、死んでしまっているかのようだった。
 彼は少女を抱きかかえた。少女は動かない。赤い液体が少女の胸元から滲み出た。
 冷たくなっていく。
 彼は少女を揺さぶる。動かない。動かない。動けと叫ぶ声。
 声は聞こえなかった。それよりも大きな音が、彼の頭上から迫っていたから。
 彼は空である筈の場所を見上げた。そこに空はなかった。見えるのは、巨大な背中。迫ってくる、悪魔のような黒い天井。
「ふざけるなよ――僕が何をしたんだよ。この子が何をしたんだよ! なんでこんな所で殺されなきゃならないんだよ! 何で僕たちだけなんだよ! ふざけるなよ!」
 天井は容赦なく、彼の身体を海へと押し込んだ。体中の穴という穴から海水が入り込み、彼の全身を犯してもなお、彼は叫び続けていた。
「せっかく、この子に会えたのに――何でだよ! 殺してやる――みんな殺してやる。この子を殺したポケモンも、僕を殺そうとしたポケモンも――みんな、みんな、人間もみんな殺してやる。だから、僕はここで死ぬわけにはいかないんだよ! 死にたくないんだよ!」
 彼は絶命した。冷たい海中の光景が、忽然とフェイドアウトした。

 岩と瓦礫に挟まれて、親指ほどの大きさの機械が紅く光っていた。
 近くに見える屍体は、紅くて大きい虫ポケモン――彼の身体だったもの。
 機械は、記録しているメモリーを延々と繰り返した。何度も何度も死を繰り返した。
 メモリーとメモリー間で時折、彼は考える。もう、終わりにしたいと。
 だが、記憶の反芻は終わらない。
 誰かが、スイッチを消してくれるまでは。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。