水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#14-2

#14 愛憎。
  2.硝子の迷宮

 

 凍りついたような静寂の中で、時計の秒針が動く音だけが、妙に騒がしく聞こえた。乾ききった音は、耳から離れずに、どこか自分の気持ちをそわそわと浮き足立たせる。
 鋭田美子は落ち着かない様子で時計を見た。白いプラスチックの枠で囲まれた、飾り気のない時計だった。ぼんやりとした視界のせいで、時間までは読みとることはできなかった。
 小さく俯く。頭部が無いために、傷の断面を隠すために被せているフードが、微かに動いただけだった。
「あの――」
 美子はおずおずとした様子で、冷へと話しかけた。
「お姉ちゃん、どうしたの? 元気ないみたいだけど――」
 反応は無い。無い首を傾げ、美子は手を伸ばした。静かに冷の肩を揺する。それと同時に時計が鳴った。塚本大樹の部屋が、部屋の壁全体が、時を告げる重く低い音に、小さく震えた。
 時計が鳴り止んだ。尾を引いたように残った沈黙の中で、美子の小さく、仄かに透けた指先が冷の素肌に触れた。冷は思い出したようにビクリと身体を捩らせ、美子の方へと振り向いた。
 不自然な冷の挙動に、美子は驚いて手を引っ込めた。冷の憔悴しきった表情に、不安のような色が滲み出ている。怯えたように身体を縮め、美子は呟いた。
「何か、怯えてる?」
 冷は呆然とした様子で、美子の身体を見つめていた。彼女は暫く、そうやって焦点の合わない瞳を泳がせていたが、やがて呟くような口調で応えた。
「別に、怯えてるわけじゃないよ」
「でも、今日のお姉ちゃんは、なんだか様子が変。私が話しかけても、何も応えてくれないし。ずっとボーッとしてるんだもん」
 美子は、冷がいつもの調子に戻った事に安心したのか、溜息をついて強張らせていた身体を緩ませた。その拍子に首をスッポリと覆ったフードが外れかけて、慌てて頭の方へと手を伸ばす。
「何か心配事でもあるの?」
「まぁ、無いって言ったら嘘になるかな。だけど、私はもう何もできないから、考えて悩むしかないの」
「何もできないって、どういう意味?」
 美子の問いかけに、冷は少し考えてから答えた。
「私がやるべき事じゃないから。あの子が自分の力で乗り越えるべき事だから」
「あの子って、妹の事? 私と同い年の」
「そうだよ。いずれ、あの子は本当の事を知る。たぶん、あの子は傷つくと思う。だけど、あの子の側に、私はいるべきじゃない。私がいれば、あの子はもっと傷つくことになるから」
「だから、自分から死を選んだ?」
 大樹の声に驚いて、美子は振り向いた。扉が擦れる音が響き、扉の閉まりきる重たい音がそれに続いた。大樹の声は小さかったが芯が通っていて、耳に突き刺さるようだった。
「お兄ちゃん、帰ってきてたの?」
 美子が訊いた。大樹は微笑みをつくり、ただいまと呟いた。
「で、どうなの? 妹の為に、自分から死を選んだの?」
 冷は大樹から視線を外し、そっけない声を出した。
「そうですよ」
「やっぱり。でも、そんなの間違って――」
「間違ってると思いますよ、私も。自殺はいけないことだって知ってますよ。美子ちゃんみたいに、生きたくてもそれができなかった子達に対して、失礼だと思いますよ」
 捲し立てるような冷の話し方に、大樹は思わずたじろいだ。別に冷の事を責めようとしていたわけではなかったが、冷はそうは受け取らなかったようだった。
「だけど、私と妹の事を、そんな普通の考え方で縛らないでください。私も妹も、普通とは違うんです。私は死ぬべきだった。誰も殺してくれないから、自分から死ぬしかなかったんですよ」
 大樹は何も言えなかった。彼女の言葉の意味が理解できなかった。
 言いたいことを言い終え、冷は落ち着いたように息を吐いた。美子の肩に手をやり優しく撫でながら、彼女は微笑んだ。
「それにしても、美子ちゃんを見てると、氷を思い出すな。無邪気で明るかった頃の氷を」
 美子は照れたのか、外れかけたフードを両手で深く被り直した。

 

○●

 身体が破裂した。空気を入れすぎた風船のように。泣き叫ぶ声が響き、氷の華奢なお腹が、炎と煙を同時に噴いた。
 甲高い笑い声が響いた。カヤの声だった。彼女は手にしたスイッチを握り締め、その場で笑い転げた。その拍子に、再びスイッチが押された。
 爆音が鳴り響いた。氷の腰が砕け、小さな身体が二つにちぎれた。同じタイミングで、氷の後ろでしゃがみ込み、震えている中年の男の首が弾けた。
 感情の見えない、呆然としたような氷の顔に、中年の男の澱んだ脳髄と鮮血が飛び散った。強烈な血の臭いが、辺りに漂ったが、氷の身体は一寸たりとも動くことはなかった。
 氷は冷たいコンクリートの床に仰向けに横たわり、空虚な天井を見つめていた。腰から下は砕け、腹にぽっかりとあいた傷からは、焼け焦げた内臓が飛び出ていたが、痛みはなかった。そんな感覚は、とっくの昔に失っていた。ただ、痛いという記憶だけが、氷を泣き叫ばせた。
「痛い? 痛くないでしょ? あんたは人間じゃ無いんだから。私のペットで、可愛いバケモノなんだから」
 カヤは紅潮した顔を歪めるようにして、絶叫した。腰に装着していた短刀を取りだし、凍りついたような表情で喘いでいる氷の首筋に押しあてる。
「だって、これだけグチャグチャにしても死なない。細切れにしても、爆発させても壊れない。最高の玩具よ、あんたは」
 短刀を振り上げ、カヤは氷の左目を突いた。小さな水風船が破裂したときのような音がし、氷の額に生臭い液体が降り注いだ。
 氷は目を見開いて一頻り泣き叫ぶと、ぐったりと動かなくなった。潰れた左目は当然のこと、右目すら何も見えてはいないようだった。
 白い湯気が氷のちぎれた下半身からあがった。失禁していた。カヤは嘲るような目つきで氷を一瞥し、鉄格子の扉にもたれかけた。
「今日はこれでおしまい。明日までに片づけておいてね、そこの汚いのをさ」
 ビクビクと痙攣を始めた氷の裸体へと微笑みかけ、カヤは鉄格子の部屋を後にした。事前に用意しておいた冷たいタオルで顔を拭いながら、廊下を早足で歩く。
 突然、轟音が響いた。鉄格子とその周りを覆うコンクリートが何かと激しくぶつかる音だった。カヤは一瞬だけ足を止め、振り返る代わりに懐からコンパクトを取りだし、鏡に反射して映る鉄格子の様子を眺めた。
 紫色の触手が、部屋一杯にひしめき合っていた。轟音は、その触手が所構わずに体当たりを繰り返している為だった。
 無数の触手は氷の身体を突き破って伸びていた。氷に意識はなく、触手そのものに意志が宿っているようだった。緑色の涎をひっきりなしに口から垂らしながら、呻き声を上げながら、鋭い牙で鉄格子に噛みついたりを繰り返している。
 次の瞬間、触手は一斉に、側に転がっていた中年の男の屍体の方へと向いた。触手は口を大きく広げ、屍体を貪るように食べた。男の屍体だけでは足りなかったのか、ちぎれた氷の下半身までも全て、触手は喰った。後には無惨な血痕だけが残った。それすらも舐め続けた。
 やがて触手は大人しくなり、萎んでいった。紫色は薄くなり、雪のような氷の肌の色へと戻った。ある触手は氷の足となり、またある触手は氷の腕となった。最後には、傷の完全に癒えた氷の身体だけが、部屋の中央で寝息を立てて横たわっていた。
「おいしかった? 今日は肉が硬くて悪かったわね。まぁ、綺麗に片づけてくれたご褒美に、明日は柔らかいお肉をエサにしてあげる。同い年の女の子あたりがいいかもね」
 カヤは横目で窓の外を見やった。暗く狭い部屋の中で、氷と同じくらいの年齢の少女が、ベッドの上で蹲っている。カヤと目が合うと、怯えたように頬をひきつらせ、顔全体を背けた。自分の行く末を全て知っているのか、暗い顔をしていた。
「もうちょっと元気なエサの方が、氷は喜んでくれるんだけど――すこしは妥協しなきゃね」
 気味の悪い笑い声が、辺りに木霊した。カヤは踵を返し、静かな寝息を立てている氷の元へと戻っていった。彼女の足音は軽く、悦びに満ちていた。

 

○●

「氷――大丈夫? 起きて、起きるのよ」
 姉の声が聞こえた。ひどく懐かしい声だ。氷は目を見開き、上半身を起こした。
 全身が痺れるように冷たく、口から吐く息は白く長い尾を引いている。白く華奢な裸体を隠すものは何もなく、暗く湿った部屋の中に、置き去りにされているかのようだった。
「大丈夫だった? それにしても非道すぎる。あの女は」
 鉄格子を握り締め、冷は怒気をあらわにした。鉄格子の隙間から首を伸ばし、氷の顔を覗き込む。
「姉さん――」
 冷の大きな瞳に見つめられ、安心したように小さく項垂れると、氷は呆然とした表情で呟いた。両手にこびり着いた血痕をまじまじと見つめながら、今にも泣きだしてしまいそうな鼻声で。
「また、殺しちゃった――」
「あんたが殺したわけじゃないよ。悪いのは、あの女なんだから。氷が気にすること無いのよ」
「でも、食べちゃった。私がいなければ、カヤは――あの女は、この男の人を殺さなかった」
 指先が微かに震えていた。血腥い臭いが、鼻をつく。氷は呻き声を発し、拳を振り上げるとコンクリートの床に叩きつけた。
 細い腕の芯が折れる音が床を通して辺りに響いた。黒い血飛沫が氷の顔に飛び散った。見開かれた瞳は涙で溢れており、その奥に暗い絶望の色が渦巻いていた。
「こんな身体、いらない。あの女に言われた、私は人間じゃないって。その通りだと思う。私は、人間じゃない。臭くて醜いバケモノだって」
「それは、違う。違うよ」
 冷は鉄格子の隙間から手を伸ばし、氷の身体を抱き寄せた。氷は驚いたように眼を見開き、それから堪えきれなくなったように自分から冷の胸へと抱きついた。
「もう嫌だ――あの人の玩具のされるのは。臭くて汚い身体になって、誰かを殺して食べて、そんなのはもう嫌だよ」
「嫌でも、生きていかなきゃいけないでしょ」
 怯え、震え続ける氷の背中を、冷は優しくさすった。
「氷、諦めちゃ駄目だよ。生きていなきゃ駄目だよ。私を一人にするなんて、許さないから。私だけ残して、死んじゃうなんて許さないから」
「姉さん――」
「私、時雨さんに、あんたを作戦に参加させるように言ってみる。作戦の間だったら、あの女とも離れられるし、組織の中で動きやすくなるよ。とにかく、諦めちゃ駄目だからね」

「諦めたら、駄目よ――」
 泣きじゃくるゆかりの頭を撫でながら、氷は囁いた。囁きながら、自分の言葉に既視感を覚えていた。記憶を掘り起こし、その最深部に刻まれていた言葉は、姉からのもの。蔑まれ、傷つけられ、すべてが絶望という沼に投げ捨てられとき、自分を支えてくれた言葉。
「そう。諦めたら、そこで終わる。違う?」
 氷はもう一度呟いた。ゆかりは小さく頷くと、涙を拭っていた手を止め、氷の表情を仰ぎ見た。
「うん、わかってるよ。そやけど、氷姉ちゃんは、瑞穂お姉ちゃんがどこに連れて行かれたか知ってるん? それがわからへんと、どうしようも無いで」
「大丈夫よ。確証は無いけど、ファルゲイルの向かった方向で、大体の見当はつく」
「ちょっと!」
 前触れもなく、ミルが大きな声を出して、氷を呼び止めた。氷は細い眼で睨み付けるようにミルを流し見ると、静かに振り向いた。
「何――?」
「大体の見当がつくって言うけど、何であんたが、あいつらの居場所を知ってるのさ。ゆかりちゃんが、あんたのこと信頼してるみたいだから黙って聞いてたけど、流石に怪しいな」
 氷はさらに眼を細めた。黙り込んだまま、ミルの長身を睨み上げる。
「何さ、その目つき。言いたいことがあるなら言えばいいじゃないのさ」
「騒がしい女は嫌い」
 表情を動かすことなく、虫の鳴くような小さな声で氷は吐き捨てた。ミルは一瞬呆然と氷の全身を眺めたが、即座に大きな瞳を更に見開き、頬をマトマの実ほどに紅潮させて叫び返した。 
「何さ! それ! あたしだってね、あんたに好かれたいなんて思ってないさ! あんたみたいな根暗で自分の殻に閉じこもってるような女になんて!」
「根暗――私が?」氷は口許を微かにひきつらせた。
「他に誰がいるのさ! 大体、あんた何者なのさ! 何でそんなに詳しいのさ。あんたロケット団の仲間なんじゃないの?」
「そうよ。確かに私は、組織に育てられた。ロケット団に」
 間髪入れずに氷は認めた。それと同時にミルは拳を握り締め、氷の胸元に掴み上げた。今にも噴火してしまいそうな、紅潮しきった顔をぐいと突きだし、早口で捲し立てた。
「やっぱり! あんた達のせいで、どれだけの人やポケモンが死んだと思ってるのさ! よくまぁそうやっていけしゃあしゃあと歩いてられるわね!」
 氷は応えなかった。ミルの言葉や行動に動揺する様子は無く、むしろ自分の胸元を掴んでいる腕を握り返し、手繰り寄せると、聞き返した。
「私の何処が、根暗?」氷の白いこめかみに、薄く青筋が立っていた。
「全部じゃない! そうやってボソボソ喋って、何言ってるのか全然聞き取れないのよ。それにね――」
「お姉ちゃん達! 喧嘩してる場合やないやろ! 瑞穂お姉ちゃんの事が心配や無いんか?」
 ゆかりは二の腕で涙に濡れた顔を擦りながら、2人の間に割って入った。少女の頬から拭いきれなかった涙が滴り落ちるのを見つめ、ミルは言葉を飲み込み、氷は掴まれた拍子に乱れた服を直した。ばつが悪そうに2人は同時に視線を外し、辺りはしんと、先程までの喧噪が嘘のように静まり返った。
「お姉ちゃん達のことは、この際どうでもええねん。氷姉ちゃんは、確かに事情があってロケット団やったし、ちょっと暗いところもあるかもしれん。ミル姉ちゃんは喧しいし、ちょっと気に障ることもあるやろけど、今は瑞穂お姉ちゃんを助けることだけを考えな」
「でもさ――」
 ミルは横目で氷を睨みながら、呟いた。
「この娘さ、本当に信用していいの? 今は違うって言ったってロケット団員だよ?」
「事情があるって言ったやろ? 時間が無いんやから、お願いや」
 微動だにしない氷の表情と、今にももう一度泣きだしてしまいそうなゆかりの表情を、困った様子で交互に見つめながら、ミルは溜息をついた。
「わかったよ、あんた――氷ちゃんのこと信用、するから」
 渋々とミルが呟くと、ゆかりは即座に氷へと振り向いた。
「で、氷姉ちゃん。どこなん? 瑞穂お姉ちゃんが連れて行かれた場所いうのは」
「瑞穂ちゃんとあの女は、シマナミにいる」
 俯き眼を細め、氷は淡々と、まるで棒読みのような話し方をした。氷の口から発せられた街の名前に、ミルは小首を傾げ、聞き返す。
「シマナミってどこなのさ。聞いたことないけど」
「私の生まれた場所よ――今は、もう存在していないけど」

 

○●

 カヤの噛みしめるような笑い声が、冷たく閉ざされた部屋全体に響いた。彼女は、手にした写真の束を瑞穂の眼前に押しつけ、身振り手振りを交え、愉快に話をしていた。だが、その写真から読みとれる光景は、決して笑いながら話すことのできるようなものでは無かった。
 白い息を吐きながら、瑞穂は写真を見つめた。そうすることを強制させられていた。両手足を縛る鎖はドライアイスのように冷たく、青ざめた顔は寒さに震えている。
 液体火薬を飲まされ、爆発する氷の身体。すぐ後ろで、四散する炎と肉片を死んだような目つきで眺めている少女。黒々とした鮮血に濡れ、鉄格子の隙間に挟まった氷の首。落ち、床に転がる。ごしゅ、という落下音が今にも聞こえてきそうな程に、間近で撮られたものばかりだ。
 口が開いた。氷の口が。中から覗くのは、舌ではなく蛇のような長く醜い触手。眼球を、そして鼓膜を、全身の皮膚を突き破り、氷の首は触手に包まれた。
 後ろで眺めていた少女の目が、初めてそこで怯えを見せた。死んだ魚のような瞳が涙に溢れ、何かを叫いているかのように口が開いていた。
 瑞穂には少女の叫んでいた声が聞こえた。「何なのよ? このバケモノは!」
 触手は少女に襲いかかった。足が喰われた。痛みに身を捩り、少女は顔を歪めた。叫び続けている。だが、次の写真に移った瞬間、瑞穂の頭の中で響き続けていた声は途切れた。少女の首はもぎ取られていた。断面は勢い良く噴きだす鮮血で見えない。
「すぐに食べちゃったのよ。あの娘は、柔らかいお肉が大好物だったからね」
 カヤが喋り続ける間、瑞穂は何も発しなかった。何も発することができなかった。
 鞭で叩かれたような腫れが、瑞穂の全身に浮き出ていた。鮮血の微かに混じった尿が、足下に惨めに散らばっている。痛みと恥ずかしさを堪えるために、瑞穂は歯を食いしばった。だが、それでも時折意味のない呻きが漏れた。そして、その度に鞭は撓り、傷が増えた。
「非道い――」瑞穂は、カヤが喋り終えると即座に一言呟いた。
「あん? 何が非道いのよ」
 カヤはナイフを瑞穂の首筋に添え、鞭を振るった。瑞穂は激痛を堪え、ナイフの先に見えるカヤの顔を睨み付けた。
「非道いじゃないですか。どうして、氷ちゃんにそんなことをしたんです?」
「私のペットに、私が何をしたっていいじゃない。氷は人間じゃ無いのよ。可哀想なバケモノ」
 瑞穂は激昂した。首筋に添えられていたナイフを頭で振り払うと、頬から滲み出る鮮血を気にもとめず、叫ぶように言い放った。
「氷ちゃんは人間ですよ。私には、あなたの方が人間から遠く離れた存在に見える。人間じゃないのは――あなたの方ですよ」
「馬鹿ね。私は人間よ。少なくとも氷よりはね。私は氷を殺さなかった。それは私に愛があるから。私が優しい人間だから。その証拠に、氷は私を殺せない。絶対にね」
 カヤは不気味に微笑んだ。
「大体、この写真を見てもまだ、氷が人間だって言い切るつもり?」
「普段の氷ちゃんは、こんなことしません。あなたが、無理にさせてるんじゃないですか」
「そう、こうやって食事をしないと、身体の再生ができないのよ。腕とか身体の一部分ならまだしも――可哀想よね、イグゾルトの出来損ないってのは」
 イグゾルトという単語を聞いた途端、瑞穂は息を呑んだ。鋭く睨み付けていた瞳を見開き、カヤへと聞き返した。
「イグゾルトの出来損ない――?」
「あら、ごめんね。専門用語つかっちゃって。意味、解らないわね」
「知ってますよ。ごく希に存在する、特別な能力を持ったポケモン、ex(エクストラ)。イグゾルトは、人工的にexの特性を植え付けられたポケモンの事ですよね。でも、氷ちゃんがその出来損ないって、どういう――」
 微かに血の付いたナイフを片手で弄びながら、カヤは鼻で軽く笑った。
「どうしてそんなこと知ってるの? シグレに教えてもらったの? それとも――自分のパパに教えてもらったのかしら」
 瑞穂の視界が一瞬だけ真っ白に染まった。自分のパパ――? 頭の中で何度も繰り返されるカヤの言葉に、瑞穂は自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「私のパパ――父さんの事ですか? どうして――どうして、私の父さんがでてくるんです? 父さんはロケット団と、なにか関係があったんですか!?」
 鎖が伸びきり、擦れる音が響いた。瑞穂は身を乗り出し、食い付くような切羽詰まった瞳で、カヤを見据えている。錯乱で揺れる視界の奥で、カヤは怪訝そうに眉を潜めていた。
「関係があるも何も、組織の遺伝子研究の第一人者だったのよ。あんたのパパ――洲先祐司はね」
「父さんが――ロケット団の研究に協力していた? そんなわけ無いじゃないですか!」
 瑞穂は声を荒げた。動揺からか、語尾が裏返っている。
「私の父さんに限って、こんな――こんな組織に協力するような人じゃない。だ、大体、父さんは病院の院長だったんですよ。どうやってロケット団接触を――」
 そこまで言うと、瑞穂は突然黙り込んだ。飲み込める筈の無い大きな何かが、少女の胸に詰まった。白く幼い顔は次第に青くなり、両目は大きく見開かれていた。顎が震えている。
「ま、まさか。あの、あの病院そのものが、ロケット団の実験場だった?」
「ご名答」
 カヤは答えた。少女の推理に感心したような口調だった。
「そんな」瑞穂は呆然と「一体、いつから」
「あんたが生まれる前から」
「そんな昔から、ロケット団に?」
「そう。私も詳しいことは知らないけど、元々は、遺伝子関連の研究に協力してたみたいよ。それも、人間専門のね」
 信じられない、といった表情のまま瑞穂は訊いた。
「人間専門? ポケモンの研究じゃなかったんですか?」
「最初は人間専門だった。でもね、ミュウツー計画が軌道に乗るにつれて、研究者が足りなくなった。そこでイグゾルト計画とミュウツー計画の両方に参加してた時雨は、あんたのパパに声をかけたのよ」
ミュウツー――計画?」
「それは私の管轄外だから、噂ぐらいしか知らないわ。ただ、計画が事故によって失敗したということと、研究員のほぼ全員が、その事故によって死んだってことだけは知ってる。事故の唯一の生存者、時雨から聞いたことだからね。ほら、あの男の左手の甲に火傷があるでしょう? あれはその事故の時にできたものなのよ」
「そう言えば、あの人、確かに火傷みたいな痕が――」
「あんたのパパは、時雨が最後まで解決できなかった異種欠落及び不活性の問題を容易に解決した。これまでは、仮にケムッソの遺伝子とビードルの遺伝子を融合させても、最終的に残る遺伝子はケムッソビードルのどちらかでしかなかった。でも、この問題を解決したことで、異なるポケモン同士の遺伝子融合が行えるようになった。つまり、人工的なex――イグゾルトを遺伝子工学の観点から解析できるようになったのよ」
 カヤは、まるで自分の研究を自慢しているかのような恍惚とした表情をしていた。目の前で鎖に繋がれている少女を、気に留める様子は無かった。すべてを話しても、どうせ殺すのだから。
「でも、そんな面倒なことをしなくても、中枢神経に特殊電波で刺激を与えることで、イグゾルトはできるんじゃないんですか?」
「その方法には限界があるのよ。中枢神経を刺激したところで、所詮身体は普通のポケモンな訳だから。遺伝子情報が根本から違うexには遠く及ばない。でも、遺伝子を直接操作して造るイグゾルトは、すべての能力が完全にexと同等になる。ただ――」
「ただ?」
「どのポケモンの遺伝子をどう融合させれば、イグゾルトを造れるのかは解らなかった。試しにラッタとライチュウの遺伝子を融合させたけど、できたのは電気も出せず、前歯もない、野生では到底生きていけそうにない、屑ポケだった。そういう実験を何度もおこなったけど、結果は皆同じ。研究所に溢れては廃棄される屑ポケ達。計画は頓挫し、今の技術では完全なexを人工的に造り出すことは不可能という結論に達した。そこで、計画は大幅に切り替えられた――」
 瑞穂はカヤの言おうとしている事実に気づき、思わず顔をひきつらせた。彼女はカヤよりも先に、戦慄に耐えかねた様子で素早く口走った。
ポケモンの遺伝子を、人間に融合させる――」
「その通りよ。私より先に喋るのは気に入らないけど」
 カヤは鼻白み、片手で弄んでいたナイフを振り下ろした。ナイフの鈍い銀色の輝きが、瑞穂の脇腹を掠めた。透き通るように白い肌から、鮮血が微かに滲む。
「アイディアは時雨のものだけど、人間の遺伝子の専門家である、あんたのパパの協力がなきゃ、この計画は成り立たない。解る? あんたのパパが組織の研究に協力していた何よりの証拠は、氷の存在以外の何者でもないのよ。あの娘の身体は、蛇ポケモンの遺伝子と融合され、強力な自己再生能力を手に入れた。もっとも、それはその蛇ポケモン固有の能力が付加されただけであって、イグゾルトとは呼べないけれど」
「どうして、そんな非道いこと――」
 瑞穂は嫌悪感を露骨に表情に出しながら、呟いた。
「非道い? どうしてよ? これは、あの娘が自分で選んだことよ。あの娘が死にたくない一心から選んだ、惨めな選択――人間の身体も精神も捨てて、自分の魂をバケモノの器に移すこと」
「違う、氷ちゃんはバケモノなんかじゃ無い」瑞穂は呻るように首を振った。
「どう思うのもあんたの勝手だけど。さっきも言ったように、あんたのパパの病院の地下で、氷は遺伝子融合の処置を受けて、バケモノになった。あんたがのうのうと入院していた病院の地下でね」
「病院の地下で――父さんが働いていた病院の地下で、父さんがロケット団の研究に協力を――まさか――」
 全身が冷えた。それが凍てつくような寒さからくるのか、それとも自分自身の思考が凍りついたためなのか、瑞穂には判断できなかった。
「あの事件。3年前の薬物混入事件。ロケット団の研究施設のすぐ真上で起こった事件。あなた達が無関係だとは思えないんですけど」
 瑞穂の問いかけに、カヤは少しだけ眉を動かした。
 不自然なカヤの動作を、瑞穂は見逃さなかった。その時点で確信した。やるせなさと重く尖った怒りが胸の奥で沸き上がっていくのを感じながら、少女は呟いた。
「あなた達が、あの事件を引き起こした――違いますか?」
「鋭いわね。そう、3年前の薬物混入事件を起こしたのは、私よ。でも、私はやりたくてやった訳じゃ無いから。あんな面倒くさくて面白くも無いこと、命令でもされなきゃやらないわ」
「誰の命令で? 何のために」
「時雨に決まってるじゃない。上の病院と地下の研究施設は厳重に仕切られていたけどね、病院の入院患者が偶然にも地下の研究施設を発見しちゃったのよ。だから、その入院患者を抹殺する必要があった」
「そ、それなら――」瑞穂は頬を紅潮させ叫んだ。
「何も、あんな方法で――全員を巻き込まなくてもいいじゃないですか!」
「だって、一人だけ殺したら不自然じゃない。それに、薬物混入で大勢の人間を巻き込めば、ターゲットが誰なのかを特定されずにすむ。すぐに偽の犯人を仕立て上げたから、警察も深くは追求しなかったしね。閉鎖した病院の跡地も組織の関連会社が買い取ったから、研究施設の存在は漏れなかった」
 カヤの得意げな説明を聞きながら、瑞穂は唇を噛みしめた。
「そんなことのために、沢山の人達を巻き込んだんですか――非道い。それで、私の父さんはどうなったんですか? 今も、ロケット団の研究に協力しているんですか」
「消えたわ。私が、あの事件を起こした直後にね。時雨は必死に捜しているみたいだけど、今も行方不明のままよ。でもね――」
 言いかけて、カヤは少女の二の腕に添えていたナイフを後ろへと放り投げた。ナイフは放物線を描きながら落下し、冷たい音を響かせる。その音と同時にカヤは短銃を引き抜き、瑞穂の眼前へと突き付けた。
 驚き唖然と口を開ける瑞穂の表情をつぶさに観察しながら、カヤは切りだした。
「事件の後、時雨は研究所の存在を隠すために邪魔な存在を次々と抹殺した。熱心なことに、私に任せずに自分でね。今でも、あんたのパパを必死で捜しているのも、他人に知られちゃ不都合な情報をあんたのパパが沢山もっているからよ。それを考えれば、不自然よね?」
「不自然――?」
 瑞穂は目の前に突き付けられた銃口を見据えていた。銃口の奥に覗くのは、混沌とした黒い闇と、血腥い火薬の臭い。
「あんたが生きてることが自体が、不自然よね」
 息を呑む音が、喉の辺りから聞こえた。瑞穂はハッとした様子で銃口から視線を外し、カヤの微笑んでいるのか怪しんでいるのか判別し難い顔を見やった。
 行方不明の人間を3年間も捜し続け、関係の無い多くの人間を殺してまで、時雨は研究所の存在を隠そうとしていた。なのに何故、その秘密に近い自分が、今まで狙われなかったのだろうか。何も知らなくても、父親を通して情報が漏れる可能性は十分に考えられるのに。そして、それほどの犠牲を出してまで隠そうとする理由が何処にあるのか。
「確かに、不自然ですね」
「でしょ?」
 銃口を瑞穂の眉間に押しつけ、カヤは呟いた。鉄の冷たい感触と、眉間の割れるような痛みに、瑞穂はくぐもった呻き声を発した。
「今なら殺そうと思えば、すぐに殺せるけど――あんたを今まで生かしておいた理由を教えてあげる。時雨は、確かにあんたを殺したと言っていた。首吊り自殺に見せかけて、殺したってね。だけど、あんたは生きて此処にいる。どうして、死んでないの? あんたは、何者なの? それが訊きたいの」
 瑞穂はすぐには言葉が出なかった。カヤの問いかけの意味が理解できなかった。一度殺した? 首吊り自殺に見せかけて?
「そんなこと、解らないですよ。大体、時雨って人とは、ラジオ塔の事件の時に初めて会ったんですよ。私を殺しただなんて――」
「それなら」カヤは愉快に微笑んだ「今、ここであんたを殺したら、どうなるのかしら。生き返るのか、それとも死んだままなのか。気にならない?」
 瑞穂は驚いて何かを口走った。だが、短銃の引き金を引く時の、胸の奥から沸き上がるような興奮に囚われたカヤに、少女の言葉は届かなかった。
 銃声が響いた。カヤの金切り声が、笑い声が、暗く湿ったコンクリートの壁に共鳴した。壁は震えている。怯え、頑なに身を強張らせる子供のように。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。