水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#13-2

#13 断罪。
  2.始まり無き罰

 

 凪いでいた海が狂ったことに気付く者はいなかった。夜の闇が、グラシャラボラスを沈めることになる狂気を包み隠していたのだから。
 冷たい電灯の光に溢れた一室。リリィは俯きながらベッドに座り、ライムは壁にもたれて窓の外を見つめていた。黒い空には、月も星も見えない。
「今夜は、新月だったっけ?」
 不意にライムは話しかけた。リリィは何も答えない。口を噤んだまま、上目遣いにライムを睨む。
「どうして睨む?」
 呆れたように訊くライムに、リリィが口を開いた。
「さあ、どうしてだろう――少なくとも、あんたは睨んだからって、私のことを殴ったりしない」
「あのさ、その”あんた”って呼び方はやめてくんないかな。僕にはライムって名前があるんだから」
 ライムは苦笑した。窓から視線を外すと、リリィの座るベッドに横になる。
「どうして、あんた――いえ、ライムは私に構うの?」
「また、同じこと言わせる気? 僕はもう、君を泣かせたくないよ」
 おもむろにリリィは立ち上がった。振り向き様にライムの頬を張り飛ばそうと掌を伸ばす。音は鳴らない。ライムは、まるでリリィの行動を予測していたかのように、彼女の細い手首を掴んでいた。リリィは後ずさる。だが、ライムはそれを許さなかった。
「は、離して――」
「嫌だ」
 ライムはリリィをベッドの中へと引きずり込んだ。怯えたように身を縮めるリリィへと覆い被さると、彼は冷たい光を邪魔だとばかりに、電灯を消した。
 室内に闇が流れ込んできた。何も見えず、波の音と船のエンジン音以外は何も聞こえない。ライムの細く硬い身体の感触と体温を感じながら、リリィは不本意ながらも目を閉じた。
 最期の夜は長く、まだ始まったばかりだった。

 

○●

「人間――か。私もライムも人間なんかじゃない。人間は、ここまで愚かではないし、これほどまでに卑怯ではない」
 瑞穂の問いかけに、リリィは呻くように呟いた。彼女の開かれた瞳は細く、そして仄かに紅い。鮮血の色、猛火の色、痛みの色。内に沈んでいる哀しみと、その裏側に張り付いた怒りが、彼女の身体をゆっくりと流動し、瞳から洩れている。
 リリィの瞳を見つめながら、瑞穂は思った。何を悲しんでいるのか、何に怒っているのか。類似する二つの感情はいずれも、自分にも、ライムにも向いてはいないのではないか。
 ライムは瞳の輝きを一層強め、リリィへと話しかけた。
「勝手に囀っていろリリィ。俺はもう、愚かで醜い人間などではない。人間とポケモンの時代は終わり、俺やお前のような、イグゾルトの時代が始まるのだ」
「イグ――ゾルト? それは一体――」
 ライムの語る謎の単語に、瑞穂は首を傾げた。
「人間には、関係の無いことだ。俺とリリィだけの問題だ」
 そう言った途端にライムは、まだ鮮血の乾かぬ刃を振り上げた。鮮血の飛沫が、天井へと飛び散る。背中の羽根を高速で羽ばたかせ、一瞬でリリィの眼前へと潜り込んだ。
 リリィは頭部の葉っぱカッターで、ライムの刃を受けとめた。反動をつけ、頭上の二つの刃をすり抜けるようにして跳び上がり、カッターをライムの肩へと食い込ませる。
「無駄だ」
 ライムの身体に傷はなかった。リリィの葉っぱカッターは、ライムの身体に触れる寸前で、仄かに赤みを帯びた透明な壁に阻まれていた。
「なに、あれ――」ミルは呆然と立ち尽くしたまま、瑞穂の細い腕をつついた。
「光の壁だよ。でも、ハッサムがそんな技を覚えるなんて聞いたことがない」
 瑞穂が言い終わるよりも速く、鋭い刃メタルクローがリリィの鼻先を掠めた。銀と紅の残像が、リリィを弾き飛ばす。壁に叩きつけられたリリィへ体躯を傾けながら、ライムは視線だけを瑞穂の方へと向けた。
「俺を、ポケモンなどと一緒にするな」
「でも、どう見たって、あなたはポケモンだよ。心はともかく、少なくとも見た目は」
「変わっていないな。前と同じだ。気に入らないことを、次から次へと――だが俺は違う、今日は調子がいい。人間を殺すことに躊躇いは無い」
 そこまで言い切ると、ライムはメタルクローと羽根を同じ周期で動かした。猛烈な風が舞い起こり、瑞穂のツインテールが忙しなくはためく。
「この風は、まさか――リンちゃん、お願い!」
 リングマは雄叫びを上げ、横からライム目がけて突進した。二つの巨体が横倒しになり、タイルの床を粉々に粉砕する。後には、土煙が朦々と舞い上がった。瑞穂は身を乗り出し、土煙の先を凝視した。
 先に身を起こしたのはライムの方だった。
「殺す」
 ライムは吐き捨てるように呟くと、両腕を広げ、羽根の舞い起こす風へメタルクローを合わせた。突風と銀色の粉末が混ざり、壁や床がヤスリで削ったかのように消滅していく。
「やっぱり、銀色の風!」
 瑞穂はミルとゆかりを突き飛ばすと身を伏せた。頭上から銀色の粉末と、削れた壁の破片が降り注ぐ。細い瑞穂の胸に顔を埋めながら、ゆかりは叫いた。
「お姉ちゃん! こんなん喰らったら、死んでまうで」
「そうだね。でも、私たちにはリンちゃん達がいるから、大丈夫だよ」
 瑞穂の言葉に呼応するかのように、ライムの背後から床タイルの破片が弾けた。土煙と粉塵の中から、太い腕が伸び、ライムの首筋を掴んだ。
 瑞穂は、全身に浴びた塵を払うと立ち上がった。蹌踉めきながらも身体を起こしているリリィを、流すように一瞬だけ見やり、そのままリングマへ視線を滑らせる。
「リンちゃん! 瓦割り!」
 リングマは爪を引っ込めると拳を握り締め、ライムを覆う光の壁を殴りつけた。ガラスの割れるような音が響き、光の壁が崩れていく。
「無駄だと言っている」
 ライムが強い口調で嘲った。だが、瑞穂は動じず、砕け散る光の壁を見据えている。光の壁の破片が反射する、強い輝きを、じっと。
 ライムは悟った。すぐさま振り返った。リリィが立っている。ただ、立っているのではなかった。頭上の葉っぱに太陽の光を蓄積していた。ライムは身を翻すよりも速く、瑞穂は口を動かした。
「ナゾちゃん、ソーラービーム!」
 レーザーのような光の帯が幾重も、ソーラービーム発射の刹那、辺りを駆け巡った。
「くっ――だが、光の壁が壊されようと、当たらぬ強攻撃は、当たる弱攻撃に劣るだけのこと!」
 ライムは、ビームを避けようと羽根を羽ばたかせ、浮かび上がった。
「岩石封じ!」
 地面が揺らいだ。リングマは地面に腕を突き刺した。地面が裂けていた。屍体とタイルの破片に溢れた床を突き破り、岩石のように堅い土が、ライムの身体を覆うようにして盛り上がった。
「何だと――」
 ライムの言葉は、ソーラービームの轟音が掻き消した。強烈な閃光がライムの動きを封じていた岩を溶かし、ライムの身体自身を吹き飛ばした。
 光は治まった。ソーラービームの軌跡に沿って抉れた地面だけが、威力の凄まじさを物語っている。瑞穂はゆっくりと両目を開き、所々に硝煙の上がる室内を見回した。一歩外へ踏み出した途端、血腥い死臭が鼻をつく。
 ライムは倒れていた。目を閉じている。気絶しているのだろうか、その身体は動かない。
「お姉ちゃん、もう大丈夫やろか」
 全身の力が抜けてしまったかのように床に座り込み、ゆかりは訊いた。身体と同じように、力の抜けた声だった。
 ゆかりの問いかけに、瑞穂は小首を傾げた。口は半開きのまま硬直している。声も出さずに、ライムの焼け爛れた身体を見つめ、呆然と立ち尽くしているだけだった。
「人間が、人間ごときが――」
 呻き声がライムの身体から響いた。瑞穂は口を閉じ、汗ばんだ掌を握りしめた。
 立ち上がる。瞳を開く。ライムの視線は紅い光の線となって、瑞穂とその背後に立つリリィへと向けられていた。瑞穂は眩しそうに目を細めた。
「あなたは何者なんですか? それに――」
「お前こそ誰だ」ライムは吐き捨てるように叫んだ。
「何故、俺の邪魔をする?」
「私は、ただ誰にも死んで欲しくないだけですよ」
 ライムは両腕を広げた。
「では、俺はどうなってもいいと? 既に死んでしまった奴など、どうでもいいと? とんだ偽善だな」
 羽根を広げ、ライムは浮かび上がった。見下すような彼の表情に、瑞穂は首筋に突き付けられたナイフの冷たさと同じものを感じた。恐怖とは違う、純粋な悪寒。
「既に死んでしまった? あなたがですか?」
 瑞穂の言葉は、銀色の風に真正面から切り裂かれた。ライムの身体を中心として渦のような砂埃が舞い上がる。瑞穂は身を屈め、徐々に視界から遠ざかっていくライムを凝視した。
「追いかけて――」
 リリィが言った。瑞穂は振り向き、彼女の顔を見据えた。蒼白な、それでいて表情の見えない顔をしていた。だが、瑞穂は見抜いていた。彼女の瞳は、眩い光よりも、何よりも雄弁に、内に溢れる哀しみと焦りを周囲に漏らしていることを。
「追いかけて、どうするの? どうするんですか?」
「ライムの逃げる先に、あの男がいるから。それに――」
「あのハッサムを、このまま野放しにしておくことはできない。それは私も同じですよ」
 瑞穂は暗い微笑みを返すと、リリィの背後で無造作に倒れている無数の屍体を見渡した。いずれの屍体も、身体と首が切り離された、非道い形をしている。
「たしかに、あのポケモンをこのまま逃がしたら、とんでもない事になるかもね」
 ミルは腰のベルトに付けたモンスターボールを手に取り、放りあげた。
「出番よ、リザードン
 ミルはリザードンを繰り出し、その背中に飛び乗った。
「あんな虫ポケ、私のリザードンなら、すぐに追いつけるよ。2人とも早く乗って」
 リザードンは空へと飛び上がった。瑞穂は目を凝らして地上を眺めた。だが、探す必要はなかった。ライムは、地上に目立つ目印を描いていたのだから。鮮血の線と、その周りに転がる屍体という目印を。

 

○●

 チョウジタウン手前にある洞窟の入口。地面に散らばる屍体は、そこで終わっていた。瑞穂達はリザードンから降り、洞窟から流れる川の奥を見据えた。
 瑞穂は、狭い洞窟の壁に触れないように中へと入った。
「間違いない」リリィは短く言った「ここにライムはいる。そして、あの男も――」
「さっきも言ってましたけど、あの男って、誰です?」
 リリィを胸に抱き上げ、瑞穂は訊いた。
「わかりやすく言うなら、私とライムを造った人間」
 足が一瞬だけ止まった。背中が微かに震えた。体温が一気に下がったような気がしたのは、洞窟の冷たく湿っぽい空気に触れた為でも、頬に雫が垂れた為でもなく、胸の奥の――ちょうどナゾノクサを抱いている部分の、冷たく重い感情が胎動したからだった。
「ちょ、ちょっと待っち。あんたを”造った”ってどういう事よ」
 ミルは横から首を突っ込み、リリィの顔をまじまじと見つめた。
「正確に言うなら、私の意識を――」
 リリィの声は、途中で途切れた。ミルは眉を潜める。
「ちょっと、何さ。途中で止めないでよ」
「ミルちゃん、静かに」瑞穂は制した。
「何でさ」
「足音が聞こえる」
 ミルは瑞穂と同じように耳を澄ませた。確かに聴こえる。タイルの床と革靴の奏でる、乾いた音が。
「私に訊くより、本人から直接訊いたほうが分かりやすいわね」
 リリィが呟くのとほぼ同時に、瑞穂達は広い部屋へと出た。明るく白い照明と灰色の床が見える。洞窟の中であることを忘れさせてしまうほどに整然とした室内を見回し、瑞穂は小さく呟いた。
「ここは――」
「ようこそ、そして、おかえり」
 男の声が反響した。若い声ではなく、低く厚みのある声だ。瑞穂がそう感じたとおり、声のする方に立っていたのは白衣を纏った老人だった。老人は遠い目で少女達を見つめ、一瞬含むような、そして不可解な笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、リリィ。まさか、生きていたとは思わなかったが」
「そう簡単に殺されるつもりはない。少なくとも、このままでは」
 老人もリリィも切迫し、張りつめた空気が、お互いを威圧していた。瑞穂は声も出さず、ただ呆然と立ち尽くして、2人の言葉を聞いていることしかできなかった。
 リリィの細い瞳は、老人に対する嫌悪の感情で溢れていた。だが老人は、リリィを自分の娘でも見るような眼差しで見つめている。小さな笑みの正体は、そこにあった。
「このままでは死ねない? それなら――」老人は首を傾げた「お前は、何がしたいのだ?」
「罪を」
「罪――?」
 リリィの言葉の欠片を、瑞穂は不思議そうに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「罪を、あんた達の犯した罪を裁きたいだけ」
「私たちの犯した罪? たしかに、お前から見れば、私がしていることは罪なのだろうな。罰を受けなければならないのだろうな。私のしていることは、正義ではない。だが、この星にとって必要なことだ」
 老人の背後から、紅い物体が跳び上がった。リリィは一瞬だけ上方を見やり、後ろへ下がった。次の瞬間、リリィの立っていたタイルが粉々に砕けた。突き刺さっているのは、目玉のような模様の付いた、真紅の刃。引き抜き、リリィへ構え直すライムの巨体。
「残念だが、リリィ。お前では、ライムに勝てない。さて――」
 老人は、攻防を続けるリリィとライムを尻目に、瑞穂達へと向き直った。
「自己紹介が遅れた。私は、柊と言う者だ。見ての通り科学者でね、昔はよく柊博士と呼ばれていたものだ――」
 懐かしむように目を細め、柊と名乗った老人は天井を見上げた。
「柊博士――もしかして、あの――」
 聞き覚えのある名だった。瑞穂は記憶を巡らせ、冷たく感情のない声を脳裏で再生した。射水 氷の声だった。俯き、拒絶しているような細い瞳で地面を見つめながら、呟く声。
「あなたは、ロケット団の科学者ですね? 『リリィ』という、特殊電波発生装置を開発した」
「ああ、確かにロケット団に協力したこともある」
 柊は事も無げに言い放った。
「だが、私はロケット団の考えに共感したわけでも、脅迫されたわけでも無い。ただ、彼等の資金力と、最新の設備、そして私の手足となって働く多くの団員達は魅力的だった。悪く言えば、利用させてもらったと言うべきか」
「そこまでして、あなたは何がしたいんですか?」
 瑞穂は訊いた。蒼白な顔に浮かび上がる冷たい汗と微かな震え。少女の感情はそこに浮き出ていた。暗い穴に落ち込むような愁いと、その裏で藻掻く怒り。
 柊は、目の前に立つ小さな身体を眺めた。少女は幼い顔に不釣り合いな、冷めた眼をしていた。その大きく見開かれた瞳の奥に絶望の色が見える。老人は怪訝そうな表情を浮かべたまま、少女の問いに答えた。
「人間の為に、ポケモンを滅ぼす」
 瑞穂の瞳の色が濃くなった。
 少女の瞳を、柊は観察し続けていた。子供とは思えないような、聡く澄んだ眼をしていると、彼は思った。だが、彼は瞬時に眼を背けた。他でもない瑞穂の瞳から。
 ほんの一瞬、瑞穂は柊を睨んでいた。老人の思考は凍りついた。まるで、その瞬間だけ、少女が少女ではない、別のものに変化したように彼には思えた。
「何故です? 人間もポケモンも、お互いに助け合って生きている筈です。それなのにどうして。意味がわかりせん」
 少女が問いかける。語尾の掠れた言葉が、室内に虚しく響く。
 柊は我に返り、瑞穂の顔へと再び視線を向けた。少女の瞳は、大きく見開かれていた。先程の鋭さは欠片もなく、代わりに目尻には涙が滲んでいた。
ポケモンを滅ぼすって、誰にそんなことする権利があるんですか!」
「では、我々が滅びるかね?」
 老人の芯の強い声に、瑞穂は押し黙った。冷たい沈黙の中で、リリィとライムが、果てのない戦いを続ける音が響く。
ポケモンが――人間を滅ぼすって、そう言いたいんですか? あなたはそう思ってるんですか? そんなことあり得ないですよ」
「本当に、そう思うかね? 後ろの君も」
 柊の視線が、瑞穂の後ろに立つミルへと移った。
 ミルは慌てて顔を背けた。まるで、老人に見つめられることが、見つめ合うことが汚らわしいことであるかのように。
 視線をそらしたまま、掠れた声でミルは呟いた。
「確かに、こないだのカイリューの時みたいに、ポケモンが人を傷つける事もあるし、下手したら殺すかもしれない」
「ミルちゃん――」瑞穂は振り向いた。言いたいことが胸に詰まったのか、声が途中で途絶えた。
「でもさ、だからって大袈裟じゃない、おじさん。瑞穂ちゃんの言うように、ポケモンの全部が全部、人間を襲ったりするわけないじゃないのにさ」
「そうですよ。それに物理的にも、ポケモンが人間を滅ぼすなんてできるわけ――」
 顎を上げ、柊は眼を細めた。腕を伸ばし、壁に剥き出しになった装置に手を触れる。老人の足下に無造作に置かれていたディスプレイが、音もなく不気味に映像を映しだす。
「確かにポケモンが人間の脅威となる可能性はあっても、人間を滅ぼすことはできないだろうな。普通なら。常識で考えるのならば」
 柊の声に合わせるようにして映像は流れる。焼け焦げた草むら。地面から噴きだす煙。炭化した人間とポケモンの屍体。その中央から放たれる強烈な電撃の柱と、光りに隠れた一匹のポケモンのシルエット。
「これはエレブーだ。知っているとは思うが、発電所付近などに生息する、ごくありふれたポケモンだ。だが、このエレブーは普通のエレブーでは無い。普通のエレブーは、人間を炭化させるほどの電撃を出すことなどできない」
「それじゃ、一体――」
 呆然と呟く瑞穂の声は打ち消された。他ならぬ老人の声によって。
「ex――エクストラだ」
「エクストラ? 何なんですか、それは」
「通常とは異なる、特殊な能力のことだ。このエレブーは、ex特性「エナジーチャージ」を持つ。半径1キロ以内にいる電気系ポケモンの電気を奪い、自分のエネルギーとする特性だ。そして、こうなる」
 柊はディスプレイへ視線を向けた。映像の中で、エレブーは狂ったように叫んでいる。叫びながら、放電を続けている。焼け焦げた屍体が、電撃によって粉々に砕けていく。そこで映像は途切れた。
「あの――このエレブーは、どうなったんですか?」
「死んだ。吸収したエネルギーに耐えきれずに、自壊した」
 瑞穂は顔を伏せた。沈鬱な表情が、水色のツインテールとそれの作り出す影に隠れた。
「屍体はロケット団が回収し、最終的に私の元に提供された。エレブーだけではない、様々なポケモンのex特性体を、私は解析した」
 柊はディスプレイの電源を消し、言葉を続けた。
「ex特性体の能力の種類は、間接的予知能力のような微力なものから、街一つを消滅させるほどの強力なものまで多岐にわたったが、そのすべての個体に3つの共通点が認められた。
 1つは、形質及び中枢神経に特殊変異を起こさせる因子を遺伝子レベルで持っていること。ex特性体の特殊能力は、この遺伝子に起因しているようだ。2つ目は、キャプチャーネットの干渉を無効化することができるということ」
「つまり、モンスターボールで捕獲することができない?」
「そうだ。そして3つ目は、別個体のex特性を中和することができるということ。簡単に言えば、ex特性体同士では、ex特性は働かないということだ。そこで――」
 柊は、戦い続けるリリィとライムを見やった。瑞穂は、老人の眼差しに不気味なものを感じた。自分の子供を見つめるような暖かな瞳の中に、冷たく黒い色が秘められていた。微笑んでいる。お互いが傷つけ合い、殺し合うのを見て。
「私はロケット団の提供した、普通のナゾノクサハッサムに人工的なex特性を持たせた。中枢神経を変異させる電波発生装置を埋め込むことによって」
「それが、イグゾルト――ですか。でも、何のためにそんなこと」
「ex特性体は危険な存在だ。人間を滅ぼしかねない能力を持っているのだからな。人間を守るためにも、ex特性体を根絶する必要があったのだ。ex特性体に対抗できるのは、ex特性体以外に考えられなかった。exalt――イグゾルトならば、キャプチャーネット無効化以外のexの特徴をすべて備えている。当然、ex中和特性もな。それに加え、イグゾルトはex特性体を感知する能力も持つ」
 柊の表情が強張った。
「だが、ナゾノクサハッサムには、ex特性体を狩ることができなかった。彼等には、他のポケモンを狩る理由が無かったから。そこで私は、カイリューex特性体によって殺された人間の意志に目を付けた。ex特性体を憎む心を植え付ければ、何も言わずとも彼等は狩りをしてくれる」
 瑞穂は息を呑んだ。震える身体を堪えつつ視線を反らし、リリィとライムを凝視する。小刻みに揺れる視界の中で、二つの意志は争い続けていた。
「君たちも知っているだろう。グラシャラボラス沈没の事件。あれもex特性体によって引き起こされた悲劇なのだよ」
「違う! あれは――」ミルは叫んだ。
「なんだね?」
「な、何でもない」
 俯いたまま呟くミルを、柊は怪訝そうに見つめた。
「まあ、いいだろう。私はロケット団員を現場へ派遣し、一番損傷の少なかった屍体――リリィとライムを回収した」
 瑞穂は、横目でミルを見やった。ミルは黙ったまま口を噤んでいる。暗い瞳だけが、老人を睨み付けていた。
「リリィとライムの脳波を抽出加工し、電波発生装置のソフトに組み込んだ。その過程でポケモンの意志に介入することのできる電波を開発できたのは、ロケット団にとって嬉しい誤算だったろうがな」
 ミルは小声で瑞穂へ囁いた。
「たぶん、リリィとライムって子の身体は、深海の涙の影響を受けてたんだと思う。だから、屍体に痛みが少なかったんだよ。ポケモンの意志に介入することのできる脳波だって、深海の涙の”力”が、2人の身体に残ってたに違いない」
 瑞穂は小さく頷き、喋り続ける老人を見つめた。
ナゾノクサexalt特性体はリリィとして生まれ変わり、ハッサムexalt特性体はライムとして生まれ変わった。だが問題は、意志介入電波はポケモンの身体に非常に負担をかけると言うことだ。その為に当初は、長時間リリィやライムでいることができなかった。もっとも、リリィはナゾノクサと意志を共有することで、ライムはハッサムの意志を封じることで乗り切ったようだがね。
 問題はもう一つあった。イグゾルトはex特性体を感知する能力をもつが、exalt特性体をより強く関知することが分かったのだ。当然、リリィとライムが真っ先に戦いを始めた。そこで私は、ウバメの森でお互いを戦わせ、勝利した方を計画に使うことにした。結果は、ライムが勝利した」
 そして私と出会った、と瑞穂は心の中で呟いた。出会ったときの鋭く紅い、ナゾノクサの瞳。哀しい瞳。脳裏に甦る光景が、瑞穂の心の奥底を抉る。
「非道い――」
 瑞穂は顔を上げ、老人へ言葉を叩きつけた。
「非道いですよ。リリィさんとライムさんは、同じ仲間だったのに、お互いを戦わせるなんて」
「人間のためだ。exを滅ぼすためには、仕方のないことなのだ。それとも、君はexによって沢山の人間が死んでもいいと思うのか?」
「あなたの自信作のライムも、人を殺しましたよ。exではないポケモンも。それも、沢山」
「小さな犠牲だ」
「生きてるんですよ。一人一人が。物じゃないんです。まして、兵器でも、壊れたからって取り替えの効く部品でもない。あなたは、その区別が付かなくなってる。狂ってますよ。狂ってます」
 唇を噛みしめ、瑞穂は吐き捨てた。額に浮いている汗は、怒りからか、錯乱の兆しか。
 柊は瑞穂の言葉へ耳を傾けていた。動じることなく、強張った顔のまま老人は口を開いた。
「さっきの映像で、エレブーex特性体に殺された者の中に、私の息子がいる。だが、息子の屍体は私の元へは届けられなかった。炭化し、存在そのものが消滅してしまったのだから無理もないがね。代わりに来たのは、私の息子を殺したポケモンの屍体だ。奴の屍体を前にして、私は決心したのだよ。こいつらを滅ぼそうと。息子を殺された怒りなどではない。そんな私怨などではない。これは私の使命なのだよ」
「それなら、なおさら分かるはずです。大切な誰かを失ったとき、殺されたときの哀しみが。あなたなら、こんな破滅的な方法でなく、もっと他の方法を見つけだせたはずです」
「分からないな。他の方法など、見つけだす必要は無い。君の目から見れば、私は狂っているように見えるかもしれない。だが私にとっては、これが最良の方法であり、正義なのだよ」
 瑞穂はモンスターボールを手に取った。放心したような蒼白な表情で老人を見つめ続けながら、その手を振り上げる。
「誰かを殺す正義なんて、そんなの間違ってますよ」
 放たれたモンスターボールから、リングマが飛び出した。
「お願い、リンちゃん! 2人を止めて」
「手を出すな!」
 リリィの声が部屋に響いた。強い叫び声に、瑞穂は怯える子供のように身を竦めた。
「ど、どうしてです? こんなことしたって――」
「お願いだから、手を出さないで。これは私の問題だから。私闘だから」
 ナゾノクサは、リリィは一瞬だけ瑞穂へ微笑んで見せた。
 瑞穂は、いやいやするように首を横へと振りながら後ずさった。胸へと掴む掌は痙攣し、汗で濡れていた。
「ナゾちゃん――」
「ありがとう、私のこと助けてくれて」
 リリィの瞳が真紅の輝きを帯びた。全身が蒼く光り、風のように軽く、空中へと跳び上がった。
 身体が軽い。リリィは人間だった頃には感じることの無かった感覚に酔っていた。自分の体液で歪む視線の先に見えるのは、紅い巨躯。落ちていく時間に比例して、彼の身体が大きく見える。
 そこで記憶が甦る。切り裂かれた仲間の身体。彼女の最期の呟き。――私の身体、何処に行ったの?
 落ちた。リリィの頭部の葉っぱが、ライムの瞳に突き刺さった。鮮血が飛び散る。リリィの身体を紅く濡らしていく。
「痛いな――リリィ、何故俺の言うことが分からないんだ、お前は!」
 ライムは叫んでいた。叫ぶ度に瞳だった部分から液体が迸る。
「痛いわけない。私もあんたも、もう死んでるんだから。ここにいたらいけないんだから」
「俺はライムだ。俺達を殺した奴が憎くないのか!」
「憎いも何も、私たちが憎むものはもう無いの。私は、見えない憎しみに操られてるあんたを――ライムを見ていたくない。もう、終わりにしよう。もう、終わってる筈なんだから」
 リリィは頭部の葉っぱを引き抜いた。ライムの眼から血とも体液ともつかぬ液体が噴きだす。
 天井へと跳び上がるライム。天井が濡れる。紅く染まる。そして天井から床へ鮮血が滴り落ちる前に、リリィの身体が中奥から引き裂かれた。リリィの背後で浮かんでいるライムの刃から、透明でヌルヌルとした液体が滴り落ちる。
 ライムは刃を振るった。小さな身体リリィの身体が風圧に跳ね飛ばされる。リリィは壁に打ちつけられた。粘液が床と壁に飛び散る。
「どうして、罪を重ねる? これ以上、誰かを殺してなんになる? それでライムの憎しみが消える?」
 今にも消えてしまいそうな掠れた声で、リリィは問いかけた。
 濡れた身体が熱い。限界が来ているのだ。薄れていく意識の中で、記憶が再生されていく。もう顔も思い出せない母の声や、目の前で天井に押し潰されて死んだ父の肉片。全身に降り注いだ、ナゾノクサの体液の感触。楽しいこともあったはずなのに、何故か思い出すのは哀しいことだけ。
「誰かを殺すと、哀しくないの? あんたは楽しんでいるの?」
「違う――誰かの死ぬところを見ていれば、お前が死ぬところを思い出さずにすむからだ」
「でも、あんたは私を殺そうとしている」
「そんな醜い姿になったお前を見ていたくないから。リリィは、俺の中にさえいればいいから」
 リリィは目を閉じた。体液の混じった唾を、床へ吐き付ける。
「私が――」
 目を開く。一段と強い真紅の光が、リリィの瞳に宿っている。
「私が、もう死んでいるように、あんたも――ライムももう死んでいるのね。もう、何処にもいない」
「俺はライムだ。他の誰でもない。ハッサムでも、人間でも無い。ライムだ」
 ライムは両腕を振り上げた。刃の先端が銀色に輝き始めた。
 リリィは壁に弾みをつけて飛び出し、ライムの懐へと飛び込む。刃が、リリィの足と頬を切り裂く。迸る体液。床に音もなく落ちる、リリィの頬と左足。
「ナゾちゃん! だめだよ! これ以上は無理だよ」
 瑞穂の叫び声が聞こえる。涙声だ。一瞬だけ、リリィは視線を瑞穂へと向けた。少女の顔が見える。初めて出会ったときと同じ、穏やかな顔をしている。優しくて、澄んだ眼をしている。
 リリィは片目をつむって見せた。瑞穂の表情から、血の気が引いていくのが見えた。ただでさえ白い肌が青ざめていく。リリィの瞬きの意味を、少女は悟ったのだ。
 ライムの胸に飛びつき、リリィは囁いた。
「私たちは、もう死んでいる。存在してはいけない」
「俺は、ここにいる!」
「あんたは殺しすぎた。私も、あんたを止められなかった。その罪は終わらない。でも、私たちが受けるべき罰は、私たちがこの身体で生まれ変わる前から始まってた――もう、ここで、終わりにしようよ」
 リリィの身体が蒼く光った。閃光が部屋全体を舞い、白い光がすべてを覆い隠していく。すべてを。
 ナゾノクサソーラービームは、山を突き抜け、空まで伸びていった。光の帯の中に見えるのは、2つの意志と、一欠片の狂気。

 

○●

「これが、あなたの正義ですか?」
 瑞穂は心の中で、何度も呟いた。何度も。
 これが、あなたの正義ですか? 聞こえていますか? あなたの考えていることを、私はもっと知りたかった。こんな結果になっても、あなたは自分の正義を貫くのですか? あなたの正義は、どれだけの命を奪えば気が済むのですか?
 辺りは瓦礫と岩石に囲まれていた。ナゾノクサソーラービームによって、柊の研究所は崩壊したのだ。リングマが岩石封じで守ってくれなければ、瑞穂達も柊と同じ姿になっていたに違いない。
 テレビほどの大きさの岩は、彼の頭だけを潰していた。鮮血が惨めに、老人の白衣を紅く染めている。股間の辺りに見える染みは、彼の排泄物だろうか。瑞穂は、何も言わずに視線を外し、老人の屍体に背中を向けた。
 屈み込む。無造作に転がるナゾノクサの身体を抱きかかえた。頭が裂けている。涎のような体液が止めどなく垂れるその隙間から、親指ほどの大きさの機械の破片が見えた。砕けていた。彼女は、死んでいる。
「ナゾちゃん――ナゾちゃんでいいよね? 初めて会ったときから、ずっとそう呼んでたんだから。だから――返事してよ。返事して――」
 瑞穂はその場に座り込んだ。嗚咽を堪える音が漏れる。胸に抱きかかえたナゾノクサの体液が、瑞穂の胸を濡らしていく。
 リングマグライガーが心配そうに、瑞穂とナゾノクサを覗き込む。ポニータは一人咽ぶようにして嘶いている。イーブイだけが、虚ろな瞳で空を見つめている。
「お姉ちゃん、あのな――」
 何かを言いかけたゆかりの肩に、ミルは手をかけた。ゆかりは、ミルの長身を見上げた。彼女は目を閉じて静かに首を振っていた。
「今は、何も言わない方がいいって、わかるでしょ?」
「そやけど――」
 自分が辛いとき、瑞穂は自分のことを慰めてくれた。声をかけて嘆きを聞いてくれた。そう言おうと口を尖らせたが、ゆかりの反論は、ミルの沈鬱な表情の前に消えた。
 瑞穂は座り込んだまま、ナゾノクサの冷たい亡骸を霞んだ瞳で見つめ、涙混じりの声で呟いた。
「非道いよ――ナゾちゃんを返して――」
 少女の潤んだ声に耐えきれず、リングマは自分の耳を覆った。
 それでも、少女の声は消えなかった。消えるはずがなかった。

 

○●

 誰かの泣き叫ぶ声が聞こえる。
 子供の声だ。女の、子供の声。
 時折、しゃくりあげるようにして泣き、治まったかと思うと、また爆発でもしたかのように泣き狂う。
 彼は、これに似た鳴き声を聞いたことがあった。何処でだろうと、記憶を巡らせる。浮かび上がるのは、綺麗な顔をした、名家のお嬢様の顔――
 俺はなんと言って慰めていただろうか。

 荒れ狂う海に、彼は少女を庇うようにして立っていた。
 目の前に、頭上に見えるのは巨大なポケモンが2匹。お互いに争いあっているように見える。
 少女が突然、彼の元を離れて走り出した。彼は追いかけた。少女は吐いていた。虚ろな瞳を空へと向け、その場に力なく座り込むと、泣き叫んだ。
 彼は駆け寄ろうと足に力を込めた。だが、その足は空を踏んだ。船が傾いたことによって、少女と彼は投げ出された。
 少女は沈んでいく。魂が抜けてしまったかのような瞳は、何も見てはいなかった。少女の心は、死んでしまっているかのようだった。
 彼は少女を抱きかかえた。少女は動かない。赤い液体が少女の胸元から滲み出た。
 冷たくなっていく。
 彼は少女を揺さぶる。動かない。動かない。動けと叫ぶ声。
 声は聞こえなかった。それよりも大きな音が、彼の頭上から迫っていたから。
 彼は空である筈の場所を見上げた。そこに空はなかった。見えるのは、巨大な背中。迫ってくる、悪魔のような黒い天井。
「ふざけるなよ――僕が何をしたんだよ。この子が何をしたんだよ! なんでこんな所で殺されなきゃならないんだよ! 何で僕たちだけなんだよ! ふざけるなよ!」
 天井は容赦なく、彼の身体を海へと押し込んだ。体中の穴という穴から海水が入り込み、彼の全身を犯してもなお、彼は叫び続けていた。
「せっかく、この子に会えたのに――何でだよ! 殺してやる――みんな殺してやる。この子を殺したポケモンも、僕を殺そうとしたポケモンも――みんな、みんな、人間もみんな殺してやる。だから、僕はここで死ぬわけにはいかないんだよ! 死にたくないんだよ!」
 彼は絶命した。冷たい海中の光景が、忽然とフェイドアウトした。

 岩と瓦礫に挟まれて、親指ほどの大きさの機械が紅く光っていた。
 近くに見える屍体は、紅くて大きい虫ポケモン――彼の身体だったもの。
 機械は、記録しているメモリーを延々と繰り返した。何度も何度も死を繰り返した。
 メモリーとメモリー間で時折、彼は考える。もう、終わりにしたいと。
 だが、記憶の反芻は終わらない。
 誰かが、スイッチを消してくれるまでは。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。