水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#9-3

#9 侵蝕。
 3.少女の自我

 

 

「あなたの妹は……巻き込まれたのよ」 
 ラジオ塔、一階の中央フロアのソファに腰掛け、射水 氷は断言した。 
 壁に掛けられた時計が、11時47分と、時刻を示している。近くでは、社会見学であると思しき子供達が大勢来ており、耳を塞ぎたくなるほどに騒がしい。 
 瑞穂は、不安げな顔を強張らせて俯いていた。少女の白い頬には、血の気がほとんどない。 
「巻き込まれた……。何に?」 
 訊かれて、氷は面倒くさそうに、しかし表情には、その感情を出さずに呟いた。 
「奴等の、計画に――」 
 普段は、あまり喋ることに馴れていないのだろう。細々として、頼りなさそうな声だった。でも、それが、どこか大人びた印象を与えるのかもしれない……と、瑞穂は思った。 
 子供は可愛い。それでも必ず、その可愛さ……子供としての可愛らしさには、どこかしら粗があるものだ。しかし、瑞穂の子供としての可愛さには、不思議なことに粗はなかった。それとは逆に、氷は大人びた雰囲気の端々に、よい意味での子供としての粗が浮き出ている。つまり、瑞穂と氷は、持っている雰囲気が、まったくの正反対なのだ。そんな、自分とはまったく異なる魅力を持った射水 氷という少女は、瑞穂の目には新鮮に映った。 
 少しの間をおき、氷は続けた。 
「そして、私の復讐に。巻き込まれたのよ、あなたの妹は」 
 息をはく、そして氷は語った。あなたにだけよ、と念を押しながらも、はっきりと語った。奴等の……すなわち、ロケット団の計画を。 
「その計画は、『リリィ』と呼ばれるシステムが完成したときに、発案されたの……」 
 リリィ・システム(lily・system)。ロケット団の柊博士よって開発された、特殊電波発信装置。特殊な波長をもった電波によって、ポケモンの意識や感情を失わせ、思うがままに操ることができ、場合によっては、強引にポケモンを進化させたり、通常よりも高い戦闘能力を発揮させることもできる。 
 至極簡単に、氷は『リリィ』について説明し、瑞穂の様子を伺った。 
「それって……」 
 瑞穂は何か言いかけ、慌てて口を閉ざした。幸いなことに、近くにいた子供達の騒音が、瑞穂の言葉を掻き消してくれた。 
 ……それって、ナゾちゃんの頭部に埋め込まれている装置と同じ原理かも……。自分だけが知っている事実の重みに、瑞穂は思わず堅くなった。 
 考え込んでいる瑞穂を余所に、氷は微かに肩をすくめ、呟いた。 
「それと、この『リリィ』を開発した、柊博士は、システム開発後に消息を絶っているわ……」 
 暗黙に、博士は既に殺されているのだろう、という推測が示唆されていることに気付き、瑞穂は身震いした。今にも泣き出しそうな瞳で、氷を見つめている。……ユユちゃんは、大丈夫だよね……? 
 氷は何も答えない。ただ淡々と、ロケット団の『或る計画』についての説明を続けるだけだ。 
 リリィ・システムを使って、大規模な混乱を引き起こそう、と提案したのは、ロケット団の最高幹部で、シグレという男だったそうだ。 
「ある意味で……私の命の恩人よ……」 
 氷は小声で呟いていた。淡々とした口調で、一片の愁いも感じられない。どういう意味なのか瑞穂にはわからなかった。ただ、なにか背筋に冷たいものを感じた。 
 シグレは、青年といっていいほど若いらしく、ロケット団に入る前は大学の助教授だったそうだ。彼の発案した計画は許可され、さっそく実行に移された。 
 コガネシティのラジオ塔を占拠し、特殊電波をジョウト地区全域に発信する。 
 計画の内容を理解するのは容易だった。その分、瑞穂を襲った戦慄は、並大抵のものではなかった。白く細い腕で、寒々しく自分の体を抱きかかえる。瑞穂の身は震えだし、暫くの間、治まることはなかった。 
「そんな……そんなことしたら……!」 
 取り乱す瑞穂を、冷静に氷は制した。 
「静かにして。黙って、私の話を聞いて……」 
 ラジオ塔の占拠計画自体は、順調だったらしい。数週間前に、偽の局長を忍び込ませ、ラジオ塔のセキュリティシステムを、無効とすることに成功したのだ。 
「ちょっと待って。ど、どうやって、偽の局長を忍び込ませたの……?」 
 疑問に思い、瑞穂は訊いた。身体全体の震えは止まっていたが、膝の震えは、当分治まりそうにない。 
「停電を利用したの。いえ。停電を起こして、その隙に偽物と本物を入れ替えたのよ。もちろん、自家発電の備わった施設も、抜かりなくね……」 
 本物の局長は、停電中に殺された。停電は10分程度だったのだから、手早く行えば簡単に済む。遺体は暫く局長室に放置された後、バラバラにされロケット団のアジトの地下に埋められたという。 
「非道い……」 
 怯えたように瑞穂は呟いた。もう、震えてはいなかったが、寒々しく組んだ腕が強張っている。 
 氷は、瑞穂の呟きを無視して、少女から視線を外した。――知らない。氷は知らない。瑞穂の呟き、『非道い』の一番深い部分の意味を。 
 ……ユユちゃんのお母さんは、その停電が原因で亡くなったのに……。 
 どこまで非道なのだ。どこまで汚いのか。どこまで邪悪なのか。ロケット団は。もちろんロケット団が、自分達の引き起こした停電によって、1人の子供の母が死んだことなど、知る由もないことであろう。だが、瑞穂にとって、そんなことはどうでもよかった。非道い。瑞穂の心にあるのは、それだけだ。非道いじゃないか……こんなことをするなんて……。 
 瑞穂から視線をそらしたまま、氷は小さく息をはいている。 
「そしてコガネ・パレスを買い取り、そこを準備のためのアジトとした……」 
 ゆかりは、そんな危険な場所に迷い込んでいたのだ。他言され、計画が漏れるのを恐れたために、シグレは、ゆかりを捕らえたのだろう。 
 瑞穂は、今にも倒れてしまいそうなほど憔悴していた。 
 心配しないで。氷は、思わず言っていた。 
「大丈夫。あなたの妹は、殺されてはいないはずよ」 
 今、殺してしまうと後が面倒だから。喉まで出かかった言葉を飲み込み、氷は話を戻した。これ以上、瑞穂を心配させても、やっかいなことになるだけだ。そんな心理が働いたのだ。――心配なのは、あなたの方よ。大丈夫? 死にそうな顔してるわよ……。 
 氷は話を続けながら、不思議な気持ちになっていた。どうして私は、この瑞穂って名前の女の子に、気を使っているのだろう……? 
「ただ二つだけ、計画の実行に支障があった。一つは些細なこと。もう一つは、計画の存続に関わること」 
「計画の存続に、関わること?」 
 いくらか顔色を回復させ、瑞穂は聞き返した。ゆかりが無事だろうと聞かされて、少しは安心したらしい。 
「そう。肝心の『リリィ』が、あまりにシステムとして不安定だった……」 
 突然、操作を受け付けなくなり、暴走したりすることは日常茶飯事だったようだ。それでけでなく、システムによって操作中のポケモンの身体機能が、突然、低下したり、ひどい場合には、そのまま死んでしまうこともあったという。 
 それを聞いた瞬間、瑞穂の肩がビクリと動いたようだったが、氷は気にしなかった。 
「なにしろ、システムを開発した柊博士は行方不明だから、どうしようもなかった。この問題で重要なのは、機械(ハード)が悪いのではなくて、中身(ソフト)が悪かった、ということよ」 
 シグレは、さっそく問題点を見つけるため、特殊電波の内容を解析し始めた。だが、特殊電波の内容は異様に複雑で、シグレだけでなく、専門家にも解析はできなかったという。困り果てたシグレは無人になっていた柊博士の研究所を探り、一つだけ『リリィ』に関する資料を見つけた。 
「でも、その資料には、肝心なことは何も書かれていなかった。ほとんど、白紙に近かった。」 
 そして、最後の頁に、シグレを嘲笑うかのように一節の文章が印刷されていた。 
『人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪の許しを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜った精霊もまた、その証人である』 
「それ、どういう意味なんだろう……」 
 小首を傾げる瑞穂に、氷は微かに首を振って見せた。 
新約聖書の一節よ……深い意味などないと思うわ」 
 シグレは散々迷った挙げ句、実験を行うことにした。野生のポケモンに小型の電波発生装置を取り付け、自由に操れるときの電波の波長を抽出したのだ。 
「野生のポケモンをつかった……実験?」 
 瑞穂はごくりと唾を飲み込んだ。それってもしかして。それってもしかして―― 
「そのことについては、私も詳しいことは知らない。この計画書に、そう書いてあるだけ」 
 言いながら、氷は懐から白い冊子を取りだして、目立たないように開いた。 
「覚えている? 数日前、キキョウシティを襲った、蒼い鳥ポケモンの話……」 
 心臓が止まりそうな程、瑞穂は驚き、可愛らしいつぶらな瞳を、天井へと向けた。 
 ……あの時の、フリーザーが……。また、ロケット団だ。本当に、非道い……。 
「う……うん。覚えてる。非道い事件だったみたいだから……」 
 自分に言い聞かせるように呟いた、瑞穂の表情は翳りを帯びている。できる限り、瑞穂は、自分がキキョウシティでの事件に関わっていたことを、言いたくなかった。喋ると、思い出すと、いつまでも冬我の影がちらついて、辛いから。 
「そのポケモンが、恐らく計画のための実験台だったのよ……」 
 氷は、瑞穂の表情の変化に気付かないまま、言い放った。 
 実験によって『リリィ』は、完璧なものとなった。そして、今日の正午12時00分。計画は、万全を期して実行されるのだ。 
 一通り計画について説明し終えると、氷はソファから立ち上がった。 
「わかった?」 
「あの……」 
「なに……?」 
 躊躇いがちに、瑞穂は訊いた。 
「あなたは、これから、何をしようとしているの?」 
 2人の間に、沈黙が落ちた。 
 氷は、微動だにせず、瑞穂の表情を見つめていたが、やがて囁いた。 
「私は、奴等の計画を阻止する。そして、あの女を、一位カヤを殺す。」 
「『あの女』って、前に洞窟で逢った……」 
 ご名答。氷は頷いてみせ、ラジオ塔の一階を見渡した。 
「どこかにいる。あの女は、このラジオ塔のどこかにいる。だから私は、奴等の計画を途中で阻止するの」 
 拳を握りしめ、氷は天井の一点を見つめている。 
 ソファから立ち上がり、瑞穂は、氷の前に立った。瞳には、決意の色が見てとれる。 
「私にも、協力させて……」 
「いや」 
「どうして?」 
 睨むように瑞穂を眺め、静かな口調で、氷は言った。 
「あなたは、自分の妹を助ける方が先……。あなたの妹は、恐らくシグレと一緒にいる。そしてシグレは、5階の局長室で、状況を静観しているはずよ……」 
 呆然と瑞穂は立ちつくしていたが、やがて口元を引き締め、頷いた。 
「うん。わかった」 
「12時になったと同時に、1階のゲートが爆破される。隠れている奴等は、それと同時に飛び出して、爆発に動揺している人々を、人質にするはずよ」 
 横目でチラリと氷は時計を確認した。11時58分。もう、時間がない。 
「私は一階から上へ行きながら、奴等を追いつめる。あなたは、その内に五階へ行って、妹を助け、特殊電波を止めるだけでいいわ」 
「うん……」 
 時計の針が59分を指した。 
 小さく頷き、瑞穂は階段へ向かって歩き出した。 
「あの……」足を止め、瑞穂は振り向いていた。「最後に、気になったんだけど……」 
「なに?」 
「計画に支障がでた……って、さっき言ってたよね? 一つは重要なこと。それじゃ、もう一つの些細な支障って、なんなの……?」 
 氷は微かに唇を舐めた。口を開いて、瑞穂の質問に、できるだけ簡潔に答えた。 
「ラジオ塔占拠の際に、使用するはずだった一匹のポケモンが、逃げてしまったのよ」 
 沈黙。 
 悲しげに、氷から視線を外して、瑞穂は階段を上っていく。氷は、何も言わずに見送った。瑞穂は気付いたのだろう。私を。私の……射水 氷の悲しみを。 
 数歩、歩いて、氷は一階の中央で時がくるのを待った。もうすぐだ。もうすぐ―― 
 そして、爆音が響いた。悲鳴が、それに続いた。

 

○●

 暗闇で蠢く、不気味な獣の影を、シグレは眺めていた。 
 鎖につながれながら、天井を見上げ咆哮する獣の様は、『妖獣』と形容するに相応しい。ギラギラと永遠に得ることのできない獲物を求め、妖獣は泣いていた。自分を返せ! 私を返せ! 僕を返せ! 過去を、時間を、自由を返してくれ! 
 醜い獣から視線をそらし、シグレは手元の四角い箱に手を伸ばした。透明なプラスチック製のカバーを開け、彼は、箱の中の赤いボタンを、指で押した。 
 下の方から爆音が響いた。ラジオ塔の一階ゲートを爆破したのだ。 
 洲先瑞穂は死んだろうか? いや、この程度で死ぬような女ではないな、洲先瑞穂は。 
 シグレは部下に命じた。例のシステムでつくった特殊電波を、ラジオ塔から発信するのだ、と。ふと、あの老人……名前はなんと言っていたっけ……の言葉が脳裏に湧いた。 
(そうだな。名前を付けるとしたら、『リリィ』かのう……) 
 どうして『リリィ』なのだ? シグレは訊いたが、老人は答えなかった。 
(『ライム』でもいいのだが、それでは危険すぎるからのう……) 
 それだけ言い残して、老人は何処へと去っていった。システム自体は完成したのだ。だから、計画を他言しない限り、老人は何処へ行ってもよかった。だが、シグレは気になっていた。老人は何処へ行ったのか、なぜこのシステムに『リリィ』と名付けたのか。 
 妖獣は、シグレを睨み付けていた。鎖さえなければ、今にも襲いかかってきそうだった。シグレは妖獣の鎖を解いた。妖獣は吠え、シグレに牙を向けた。それでもシグレはたじろがない。笑みを浮かべ、妖獣を見やっている。やがて、妖獣の瞳の焦点があわなくなってきた。ぼんやりと辺りを見回している。 
 ……ワタシハ、リリィ? ニクイ、ワタシタチ、ポケモン、ニクイ……。 
 頭の中響いた言葉を最後に、妖獣は自我を失った。フリーザーをつかった実験の時と同じだ。シグレは、瞳が真紅に染まっていく妖獣を見て、思った。獣の心はリリィによって侵蝕され、獣はリリィの1人となったのだ。

 

○●

 爆発音が轟く。瑞穂は、3階から4階へ続く階段を駆け上りながら、爆発の音を聞いていた。腕のポケギアを見つめる。12時ちょうどだ。……急がなくちゃ! 
 4階について、瑞穂は気付かれないように屈みながら、こっそりと辺りを見回した。おそらく局員であろう数人の大人達が、黒服の男達によって縛られている。大人達だけではなかった。社会見学に来ていた子供達も、容赦なく縄で縛られている。 
「非道い……」 
 誰にも聞こえないほどの小さな声で、瑞穂は呟いた。黒服の男達は、笑みを浮かべながら、人質となった人々に嫌がらせをしている。 
 ゆかりの救出を優先すべきか……ここの人質を助けるのが先か……。 
「悩んでいる暇なんか、ないよね……」 
 微かに拳を握りしめ、瑞穂は立ち上がる。心の中で叫んだ。……ここにも、いますよ! 
 黒服の男達が一斉に、瑞穂の方向を振り向いた。 
「まだいたぞ!」 
「また、ガキか」 
「楽なもんだな……」 
 口々に呟きながら、黒服の男達は瑞穂へと迫ってくる。その瞳には、邪悪な炎がメラメラと燃え上がっていた。 
 黒服の男達は両手を広げ、覆い被さるように、瑞穂へ襲いかかった。息を落ち着かせ、瑞穂は男を直視した。睨んでいるだ。この……悪い人め! 
 瑞穂は跳び上がっていた。頭が天井を掠めた。華奢で細い体躯のどこにそんな跳躍力が秘められているのか、男達は目を剥いて少女を見つめた。だが、奴等に考える暇を与えるほど、瑞穂は悪人に優しくはない。瑞穂は男達の背後に着地し、モンスターボールを彼らに向けて放った。 
「やっぱりな……ポケモンを使うと思ったよ!」 
 空中でまわっている瑞穂のモンスターボールを見つめ、黒服の男の1人が得意そうに叫んだ。瑞穂には、彼らの言いたいことの意味がわかっていたが、あえて無視した。 
「今はな、ポケモンをつかっちゃいけない時間なんだよ。お嬢ちゃん」 
「そういうこと。そのポケモンちゃんは、お嬢ちゃんの命令を、いつものように聞いてくれたりはしないよ」 
 黒服の男達は、口々にいいながら、笑っている。無理もない。今、おそらく既に特殊電波は発信されているのだろう。氷が言うには、電波の出力をジョウト地区全域にまで上げるのに、3時間程度はかかるらしいので、他の地域での被害は当分心配することはない。 
 だが、ここは爆心地。特殊電波の発信源なのだ。そんな状況下で、ポケモンモンスターボールから繰り出すのは、自殺行為であるに違いない。 
 黙ったまま、瑞穂は、男達の言葉に耳を傾けている。微笑みを浮かべ、強い決意の眼差しで彼らを見つめながら、宣告するように一言だけ言った。 
「私は『命令』なんて、しませんよ」 
 モンスターボールから閃光が迸った。鮮血が舞う。男達の悲鳴が聞こえた。瑞穂は唇を噛みしめ、叫んだ。 
「ナゾちゃん! 剣の舞い!」 
 閃光の中からあらわれたのは、ナゾノクサだった。ナゾノクサは頭部の葉っぱを、刃のように振り回し、男達を翻弄する。少しでも動こうとすれば、音速の刃によって切り刻まれてしまうのだから、迂闊に動くこともできない。 
 いつしか男達は、一カ所に集まっていた。 
「今だよ、眠り粉!」 
 瑞穂が言うが早いか、ナゾノクサは眠り粉を噴射し、一瞬のうちに男達を眠らせた。 
 眠りこけた男達を確認すると、瑞穂は緊張を解いて、その場に座り込んでしまった。 
「ふぅ……恐かったぁ……」 
 肩の辺りから、生温い汗が滲んできている。安堵の溜息をもらすと瑞穂は、飛び込んできたナゾノクサを抱きかかえた。 
「予想通りで、よかった。ナゾちゃんがいなかったら、危ないところだったよ」 
 瑞穂は階段を駆け上っている最中に、ずっと考えていたのだ。……ナゾちゃんは、慢性的に特殊電波の影響を受けていた。もしかしたら、多少の電波になら、耐性ができているかもしれない……。 
 その予想は的中していた。実際に、ナゾノクサは自分の意識を保っていられた。 
「ありがとう。ナゾちゃん」 
 ナゾノクサの頭を撫でながら、瑞穂は立ち上がった。縛られている人質を解放しなければいけない。局員の大人達はまだしも、子供達は恐怖から、精神力は限界の筈だ。事実、子供達は、悲鳴も叫び声も上げることなく、眠っているかのように、ぐったりとしている。 
「大丈夫だった? ……というか、もう大丈夫だからね」 
 自分よりも年下の子供達に、声をかけながら、瑞穂は縄に手をかけようとした。 
 その瞬間、電撃が閃いた。瑞穂は弾き飛ばされた。机に、腹を思い切りぶつけて、床に倒れ込んだ。身体に激痛が走った。呻き声を上げ、思わず腹を押さえる。さすりながら、瑞穂は起きあがり、電撃の発射された方向を見やった。 
「そうは、いかないわ。大切な、人質さんを逃がすわけにはいかないものね」 
 女性だった。黒い衣装に身を包み、金色の長髪を靡かせて、女は瑞穂を蔑したような瞳で眺めていた。 
 瑞穂は女の顔を見た。何処かで見たことのある顔だった。そうだ……。思い出した。あの人だ。洞窟で、ガンテツさんを浚って非道いことをした人だ! 
「あなたが……一位カヤさん……ですね?」 
 女は微笑した。腕を組み、一歩ずつ、瑞穂へと近寄る。 
「そうよ……。私が、一位カヤ……。どうして、知っているわけ?」 
 もう一発、電撃が飛んだ。瑞穂は身を翻して、電撃を避ける。視線を巡らせて、カヤの足下に一匹のライチュウがいることに気付いた。瞳が真紅だ。あの時のナゾノクサと同じだ。特殊電波の影響を受けているのか……。 
「あら、ごめんね。今、この子は見境がないのよ。……で、どうして私の名前を知っているの?」 
 カヤは瑞穂は睨んだ。だが、瑞穂は怯むことなく、言い放った。 
「氷ちゃんから聞いたんです。あなたのことを殺す、と言っていました」 
 唇を噛みしめる。瑞穂の拳が、わなわなと震えていた。 
「一体あなたは、氷ちゃんに何をしたんですか……?」 
 窓から注ぐ日の光が、カヤの影を妖しく彩っている。飲み込まれそうなほど黒々とした小さな影に、瑞穂は言いようもない恐怖を感じた。 
 真っ青なリノリウムの床に映りこんだカヤの顔が、ひきつったような笑みを浮かべている。 
「2回。殺してやったのよ」 
 時がとまった。沈黙よりも、もっと重たい空気が、辺りに漂った。瑞穂は、心臓の鼓動が止まったかのような衝撃に、身じろぐことができないでいる。震え、掠れた声で、聞き返すことしかできなかった。 
「殺した……?」 
「そうよ。もっとも、氷は、殺されたことよりも、遊んであげたことを怨んでいるみたいだけど、逆恨みもいいところね……」 
「殺すよりも……非道いことをしたってことですね?」 
 カヤは、答えない。笑っているだけだが、それがすべてを物語っていた。 
「どうして……そんなことをしたんですか?」 
「氷をどうしようと、私の自由よ!」 
 叫んでいた。カヤは、瑞穂を睨み付け、そして白い歯を剥き出しにした。狂気だ。狂っている……。瑞穂はとっさに感じた。……この人も、電波にあてられているの……? 
「だって、氷は、私のペットなんだから!」

 

○●

「死ね」 
 冷ややかに、氷は呟いた。それが、死の宣告であるのだ。氷の、この言葉を聞いた人間は、皆殺されるのだから。 
 氷の両腕が紫色に変色し、掌はアーボの頭部となって、黒服の男の胸元に噛みついた。鮮血が、氷の頬を赤く染めた。黒服の男の断末魔の叫び声がラジオ塔の3階に響いた。窓ガラスや、机が震えている。恐怖の波に、皆が震えているのだ。 
 3階最後の男の、最期の悲鳴は、途切れた。 
 えぐりとられた男の心臓を地面へと叩きつけ、氷は辺りを見回した。あの女はいない……。どこにいる。どこにいる。早く出てこい。殺してやる。コロシテヤル。 
「あ……あぁ……う……」 
 震えた喘ぎ声が、氷の耳に届いた。氷は振り向き、人質となっている中年の男を見やった。他の人質は、気を失っている。子供も、大人も。この中年の男だけが、氷の異形の姿を見てしまったのだろう。 
 中年の男へと、氷は近づいた。 
「来るな、来るなぁ……化け物……バケモノ……!」 
 独特の臭いが、氷の鼻をひくつかせた。男の股間を見やる。失禁していた。氷は、手を振り上げた。男は絶叫した。 
「静かにして……」 
 氷は、男の後頭部を殴り、倒した。中年の男の頭が血の色に染まり、そのまま倒れた。殺したわけではない。気絶させただけだ。男の股間から流れ出た尿が、彼の足下で水たまりとなってしまっている。 
 見つめた。目を細め、思わず、氷は呟いた。 
「ついてないわね……」 
 その時だ。天井から、ドスンという、音が聞こえてきた。天井を見上げ、氷は手をかざした。上で……何が起こっている……? 
 氷は階段を上り、5階の様子を眺め、息を呑んだ。ボロボロになったナゾノクサを抱きかかえ、瑞穂が必死にライチュウの電撃を避けていたのだ。電撃が瑞穂の足もとを、襲う。瑞穂は跳び上がり、電撃をなんとか避けた。 
 ……何を、やっているの……? 氷は呆れた。 
 手を伸ばし、氷はライチュウを殴り飛ばした。ライチュウは吹き飛び、壁に頭をぶつけ、目を回したまま動かなくなった。 
 氷は瑞穂の前に立ちふさがる。そして、疲れ果て座り込んでしまった瑞穂を、見下ろした。 
「あ……氷ちゃん……」 
「何を――しているの?」 
 ぽかんとした表情で瑞穂は、氷の冷たい横顔を見つめた。氷は表情こそ変わらないが、怒っているような感じがした。 
「私は、『自分の妹を助けろ』と言った筈よ。そして、『あなたの妹は五階にいる』と教えてあげた筈よ……」 
「あの……それは……」 
「ここは、いつから五階になったの? ここは四階よ? 今まで、こんな所で何をしていたの?」 
 厳しい詰問に、瑞穂は反論する言葉を失ったしまった。 
 瑞穂は知る由もないだろう。氷が、『姉』を飛び降り自殺で失っていることを。自分だけをおいて、先に死んでしまった、無責任な姉にどうしようもない怒りを感じていることを。そして、その怒りが、自分の『哀しみ』と、『復讐』の原動力であることを……。 
 今、氷は瑞穂に、かつての自分の姉の姿を投影していたのだ。 
「無責任よ……」 
 唇を噛みしめ、瑞穂は申し訳なさそうに立ち上がった。 
「ご、ごめん……」 
「私に謝る暇があったら……」 
 ビクリ、と瑞穂の肩が怯えたように跳ね上がった。モンスターボールナゾノクサを戻す。 
「そ、それじゃ、お願い……。ここの人質の人達を……」 
「早く行け……!」 
 氷は怒鳴っていた。瑞穂が、驚いたように目を剥いた。自分でも、氷は驚いていた。……私が、怒鳴るなんて……そんなこと……。 
「い、行くから……」 
 落ち着きを取り戻し、小さく氷へと頷くと、瑞穂は、おぼつかない足取りで五階への階段を駆け上っていった。 
 氷は、呆然と少女を見つめる。そして、舌打ちした。チッ、と。瑞穂の後ろ姿が見えなくなると同時に、背後に凶悪な気配を感じたからだ。振り向いて、氷は鋭い形相で、女の姿を睨み付けた。カヤだった。 
 黒服に身を包み、美しい金髪を撫でつけながら、カヤは嫌らしい笑みを浮かべている。 
「見つけたわ――」 
 氷は、一言だけ呟き、鮮血に染まった頬を掌で擦った。雪のように白い肌が鮮血の下から覗いている。 
 カヤは、微笑を浮かべながら、目を回していたライチュウを蹴り飛ばした。ライチュウは目を覚まし、カヤの足下へ寄り添った。 
「殺す……殺してやる……」氷は呟く。 
「私を殺せるとでも……思っているわけ?」 
 カヤの口振りは、心底楽しそうだった。意地悪そうに唇を歪めると、黒い手袋に包まれた手で、氷を指さした。 
「あんた……さっきやけに喋ってたわね」 
 無表情を貫いていた氷の顔が、少しだけ驚いたような色を帯びてきた。氷の心情を、まるで見透かしているかのように、カヤは言った。 
「あんた、さっき怒鳴ってたわね……。面白いものを、見させてもらったわ」 
 堪えきれなくなったのか、カヤは吹き出した。 
 笑い転げる女を前に、氷は拳が震えるのを感じていた。だからなんなのよ。私が喋るのが、そんなにおかしい? 私が怒鳴るのが、そんなに笑える? 
「動かないでね!」 
 手を振り上げようとした氷を、カヤは叫び声で制した。ライチュウの尻尾を、人質の子供達へと向けながら、微笑みを絶やさないでいる。 
 ……動くと、人質を殺しちゃうわよ……! 
 あの女は、そう言おうとしているに違いなかった。

 

○●

 五階、局長室の重厚な扉が、瑞穂の目の前に立ちはだかっていた。 
「この中に……ユユちゃんが……」 
 瑞穂は1人で呟き、黒々とした重い扉に手をかけた。扉を開く。局長室の中は息苦しい雰囲気に包まれていた。白衣の青年が、窓の外を見つめながら立っている。瑞穂は、黙り込んだまま部屋の様子を伺った。 
 赤い絨毯が敷き詰められ、その上には高級そうなソファと机が置かれている。華美な装飾を施された本棚には、無数の本が敷き詰められていた。そして本棚に横たわるようにして、小柄な男の体躯が放置されている。男は、死んでいた。焼け焦げた身体からは煙が出ており、焦げくさい臭いが部屋に充満している。 
 瑞穂は怖ず怖ずと、一歩部屋へと踏み込み、白衣の青年の後ろ姿を眺めた。 
「あなたが、シグレさん……ですね?」 
 青年は、瑞穂を振り向いた。微かに笑みを浮かべているように見える。腕を組み、嘲るような目つきで、じろじろと少女――瑞穂の身体を観察した。 
「そうだ」 
 青年は口を開いた。想像していたよりも、見た目よりも、ずっと落ち着きのある声だった。 
「氷から、私の名前を聞いていたようだね。歓迎するよ、洲先瑞穂ちゃん」 
 彼の口振りに、瑞穂は一瞬、不気味なものを感じた。とびきり強烈な不安を。……まるで、私が、ここに来ることを本当に喜んでいるみたい……。 
 謀っているのか? あらかじめ決められたシナリオ通りに進まされているのか……? 
「どうして、私の名前を知っているんですか?」 
「調べたんだよ」 
 組んでいた腕を解き、シグレという名の青年は、左手で前髪を掻き上げた。その時、青年の左手の甲に、瑞穂は火傷痕のようなケロイドを見つけた。 
 シグレは笑っている。当然だ。もうすぐ、洲先瑞穂を殺せるのだから……。 
「君の妹が、私の計画の邪魔をしようとしたのでね。ゆかりちゃん……という名前だったかな」 
 やっぱり、この人は、ユユちゃんを知っている。瑞穂は、激しく鼓動する胸元を押さえつけ、シグレに訊いた。 
「ユユちゃんを……ゆかりちゃんを返してください」 
「嫌だ……と言ったら?」 
「そんなことを、あなたが言う権利はありません」 
 言ってくれるな。さすがは、洲先祐司の娘といったところか。口の端を引きつらせるようにして微笑み、シグレは心の中で呟いた。 
 真摯な眼差しのまま、瑞穂は青年を睨んでいた。掌を握り、一筋の汗が滴る。赤い絨毯に、少女の影が、暗い穴へ落ち込むように伸びていた。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。