水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#11-3

#11 幻牙。
  3.白い微笑

 

 真紅の瞳、刃、闘気――いや、血塗られた殺気。
 瑞穂は、手に握っていたポニータモンスターボールを地面に置いた。ボールは壊れており、ひび割れの隙間から火花を散らしている。その小さな炎の欠片よりも鮮烈な赤を帯びた、屈強な体躯が眼前に立ちふさがっていた。見えるのは、赤という色だけ。真紅に秘められた、狂気という感情の一端のみ。
 その身体は、黒雲の隙間から細々と差し込む太陽の光に照らされていた。朝焼けのような鈍い輝きが眩しい。驚きを隠しきれない目つきで、瑞穂は、ハッサムの全身を見つめている。そしてハッサムもまた、驚いたように目を剥いて、瑞穂と、彼女を庇うように構えているナゾノクサへ、交互に視線を通わせていた。
 瑞穂は横目で、ポニータの傷口を眺めた。首筋からの夥しい出血が、瑞穂の掌を、足下に広がる水たまりを、血の色に染めている。唇の端を軽く噛みしめると、瑞穂は屈み込み、震える指先でポニータの背中を撫でた。
「ポニちゃん。大丈夫だから……すぐに、止血するからね」
 微かにポニータが頷いた。だが、それとは裏腹に、みるみる鬣の炎は小さくなっていく。瑞穂はポーチから包帯と抗菌ガーゼを取りだして傷口を縛り、止血の処置を施した。
 ナゾノクサは、ハッサムと対峙していた。お互いが、いつでも攻撃できるように刃を構えている。その構えのまま、一寸の隙も見せることなく、ハッサムは泥濘のようになった地面を踏みしめた。盛り上がった泥から、鮮血の混じった水が滲み出ている。
 瑞穂は向かい合っているナゾノクサハッサムに視線を向けた。ハッサムの両眼が、次第に赤い輝きに満ちていくのが見える。そして、彼と同じようにナゾノクサの瞳も、真紅の色に――狂気の欠片を秘めし色に変貌していた。両者の瞳は、黒雲に阻まれた薄い闇の中で、妖しく光っている。
 背筋の凍るような驚きと確信とが、同時に瑞穂の胸に広がった。かつてウバメの森で発見した、ナゾノクサ達の凄惨な死骸の山。彼らの屍に刻まれていた、鋭い刃で切り裂かれた傷痕。そして、ツクシの言っていた切り裂き魔。赤い瞳を持った『紅の刃と蒼い風』。ナゾノクサハッサム
 この二人が、『紅の刃と蒼い風』ではないのか? 少なくとも、ウバメの森で起こったナゾノクサの大量虐殺事件に、何らかの形で関与していることは間違いない。瑞穂は息を呑んだ。血塗れの拳を握りしめ、眼前の静かな睨み合いを見守る。
 ハッサムナゾノクサは、爛々と輝く赤い瞳で、お互いを見つめていた。
「リリィ……やはり生きていたか。どうやって生き延びた?」
 若い男――少年のような声で、ハッサムナゾノクサに話しかけた。瑞穂は目を剥いたまま、小声で呟いた。
「人間の言葉を喋った……!」
 ポニータから落馬した直後に聞いた『リリィを消し去らなければ』という声と、同じ声だった。だが、瑞穂はポケモンが人間の言葉を話したことよりも、『リリィ』という名が出てきたことに驚愕していた。
 ロケット団がラジオ塔で使用した特殊電波発生装置『リリィ』が、瑞穂の脳裏に甦った。そして思い出した。『リリィ』に操られているポケモンは、瞳が赤い色に染まることを。
 瑞穂の視線がナゾノクサへ向いた。ハッサムは紛れもなく、ナゾノクサのことをリリィと呼んでいる。それがナゾノクサの本当の名前なのか、それとも、ナゾノクサの頭部に埋め込まれている特殊電波発生装置『リリィ』のことを指しているのか。瑞穂には確認のしようがなかった。
 ナゾノクサが口を開いた。若い女の声がした。悲しみに沈んだような口調だった。瑞穂は息をひそめ、彼らの会話に聞き入った。
「ライム……ライム・シャクジエル。おまえは、どうして無意味にポケモンを傷つける? 殺そうとする?」
「忘れたのか? あの日のことを。俺はポケモンが憎い。それだけだ。だから殺す。傷つける。それが無意味なことだとは思わない」
「自分もポケモンのくせに……」
 ナゾノクサは、上目使いでハッサムを睨み付けた。
「おまえも、多くのポケモンを傷つけてきたではないのか? リリィ・エルリム」
「そんな名前は、もう捨てたわ。あの事件の記憶と一緒にね」
 瞬息の間に、二人の姿が瑞穂の視界から消えた。何かの弾ける音が響く。紅い閃光が二つ、空を切り裂くように舞っている。ナゾノクサの葉っぱカッターと、ハッサムのメタルクローがぶつかり、小気味よい金属音を奏でている。
 瑞穂の眼では、ハッサムナゾノクサの姿を捉えることはできなかった。凪いでいた風が、旋風となって、泥濘状の地面に幾重もの痕を残している。それほどまでに彼らの動きは素速かった。二人の争いを、瑞穂は、ただ見ていることしかできなかった。
 殺し合い。理解し合えないもの同士の争い。瑞穂は二人が争う理由など知らない。だが、そこになにか、二人の巻き起こす旋風の奥に、大きな悲しみが満ちていることに気がついた。誰かを憎まなければ、生きていくことすらできなくなるほどの悲しみが。悲しみは怒りへと姿を変えて、鋭い風として吹き荒れ、総てを切り刻む。
「あの事件を忘れただと? どうしてだ? おまえだって、あれほどポケモンを憎んでいたではないか!」
 ハッサムの鋭い刃が、ナゾノクサの足もとを掠めた。ナゾノクサの左足首に傷口が開いた。体液が滴る。
「忘れたわ。悲しみも、怒りも――いつまでも、それを引きずる生き方なんてしたくないから。おまえは、自分の憎しみを逃げ道にしているだけだ。誰かを憎むことで、悲しみを必死に隠そうとしているだけなのよ。あの男に利用されていることがわからないの?」
「ご主人様は、俺達の憎しみをはらす機会を与えてくれたんだぞ?」
 頭部から分泌された溶解液を、ナゾノクサハッサムの左目へ忌々しげに吹き付けた。ハッサムは首を激しく横に振り、溶解液を振り払う。刃を突き出す。刃はナゾノクサの頬を掠めていく。
「可哀想なヒト……憎しみが、何もかも曇らせてしまったのね」
「おまえはどうしたんだ? 何があった? なぜ簡単に憎しみを捨てられる?」
 葉っぱカッターがハッサムの腹部に突き刺さった。紫色の体液が、ハッサムの動きに呼応するかのように溢れ出てくる。ここぞとばかりにナゾノクサは、ハッサムの懐に飛び込み、彼の胸元を切り裂いた。
「昔の私は、自分自身を制御できなかった。憎しみを、怒りを、背負ってしか生きるしかなかった。だから、いったん発作が起きてしまえば、人間であろうとポケモンであろうと、見境無く傷つけていた。あの男の――あの爺の目論見どおりにね」
 発作――何のことだろうかと、瑞穂は思い起こした。見境無く、誰かをを傷つけること、殺すこと。初めて出会ったときのナゾノクサがそうだった。まるで狂気に翻弄されているかのように。
「だけど私はもう、昔の私じゃない。憎しみも、怒りも、捨てたわ。私自身のためにね――それ以来、発作は起こらなくなった」
 ハッサムは己の傷を気にもとめず、ナゾノクサの小さな身体へ、刃を振り下ろした。ナゾノクサは跳び上がり、刃を避ける。刃は大地に突き刺さり、地面を深く抉った。
「誰が、おまえをそんな腑抜けにした? おまえだけは――俺の憎しみを、悔しさを理解してくれると思ったのに――」
「人間も、ポケモンも変わる。憎しみに引きずられるままに時を忘れた、おまえとは違う。私は、身体と精神を、このナゾノクサと共有してきた。そして、あの女の子――瑞穂ちゃんの友達として、いろいろな人間や、ポケモンを見てきた」
 連続で向かってくる高速の刃を、ナゾノクサは華麗なフットワークでかわしていく。ハッサムは、その鋭い眼光で彼女を睨んだ。怨磋の瞳だった。
「精神を共有――いかにも、腑抜けらしい考えだ。俺は殺した。ハッサムの精神など、殺してやったよ」
「私も――殺してしまうところだった。でも、瑞穂ちゃんに助けられてから、私の中の憎しみは消えていった」
「なぜだ?」
「瑞穂ちゃんは教えてくれた。憎しみは、さらに大きな憎しみを呼ぶだけだと。だから、憎しみも、悲しみも、怒りも――余計な負の感情など背負わずに、自分は自分のままであればいい――と」
 ハッサムの瞳が、一段と鮮やかな輝きを放ち始めた。
「俺は、そんな生き方はしたくない。俺の中の憎しみは、俺自身が決着をつける!」
「まだ解らないの? おまえのしていることは、私たちのような……」
 不意にナゾノクサの瞳から、赤い光が失せていった。力なく息を吐き、脱力たかのように、その場に倒れ込んだ。赤い瞳の状態を保つことは、ナゾノクサの心と体に大きな負担をかけているのかもしれない。彼女は気を失っていた。
 ナゾノクサとは対照的に、眩しいほどの赤い光がハッサムの瞳に満ちていた。彼の瞳から、意識は消えていた。発作――瑞穂は、とっさに思い浮かべた。見境がなくなる、自分自身を制御できなくなる、とナゾノクサは言っていたことを。その根源は怒り、憎しみ――負の感情。その爆発。
 奇声が聞こえた。ハッサムは刃を振り上げている。瞬く間にナゾノクサを掴みあげ、上空へと放りあげた。跳び上がる。刃を突き上げ、ナゾノクサの体躯を貫いた。ヌメヌメとした体液が迸る。瑞穂の頬を、飛び散った体液が濡らしていく。
「ナゾちゃん!」
 ナゾノクサは水たまりの上に墜ちた。水飛沫があがり、泥水と共に、彼女の体液が地面に弾けた。ハッサムは刃を下に突きだした。もう一度ナゾノクサを貫こうと、急激な速さで落下してくる。
 瑞穂はナゾノクサを庇うようにして、ハッサムの真下に飛び込んだ。ハッサムの刃が、容赦なく瑞穂の頭上に迫ってくる。足下に転がっていた拳大の石を拾い上げ、瑞穂は頭上を見上げた。真紅の色をした、鮮血と体液に染まった刃が見える。刃は白い光を帯びていた。迫ってくる。瑞穂の身体を両断してしまうほどの勢いで。
 瑞穂は握りしめた石を振り上げた。刃が触れる。石から、刃から火花が散る。瑞穂は腕を押し上げた。ハッサムが体勢を崩す。その隙に、瑞穂は跳び上がった。白く細い足で、ハッサムの脇腹を蹴りつける。
 ハッサムは泥水の中へ倒れた。瑞穂もナゾノクサに被さるようにして、水たまりに転げ落ちた。苦痛に口の端を歪めながら、上体を起こす。瑞穂の顔と髪――全身が泥水で汚れていた。茶色く濁った雨水が、ツインテールの先端から滴っている。
「解らない……私には、あなた達が傷つけあわなきゃいけない理由は解らない。だけど……」
 ハッサムは立ち上がった。瞳の色は、先程よりも鮮やかさを欠いている。どうやら『発作』は、治まったらしい。
 瑞穂は泥水にまみれた蒼白な顔を、微かに横に振っている。荒い息で、上体だけを起こしたままだった。握っていた石を投げ捨てる。石は真っ二つに切断されていた。掌は血で紫色に滲んでいる。不安げな、悲しげな想いが、澄んだ栗梅色の瞳に溢れていた。
「これ以上、ナゾちゃんを傷つけないで! 無意味に誰かを傷つけないで!」
「邪魔をするな……俺は、できれば人は殺したくはない。発作が起きてしまえば、話は別だがな」
 渾身の力を込めて、瑞穂は立ち上がった。だが、蹌踉けている。立っているだけで精一杯だった。右の掌からは、鮮血が止めどなく流れている。
「死ぬわけにはいかないの。私は行かなきゃいけない……私にはやらなきゃいけないことがあるの。邪魔はさせない。ナゾちゃんも、ポニちゃんも、みんな……もう、誰も殺させない」
 ハッサムは刃を瑞穂の喉元に突きつけた。瑞穂は息を呑んだ。
「そこをどけ。死にたいのか?」
「死にたくないよ……」
 瑞穂の胸元から、鮮血が吹き出した。シャワーのように大地に降り注ぐ。ハッサムの刃が、瑞穂の右胸を切り裂いたのだ。辺り一面が、みるみるうちに血の色で満たされていく。苦痛に喘ぐ、瑞穂の悲鳴が空を切った。だが、瑞穂は動かない。瞳を見開き、痛みと恐怖に震える足を、血の滲む両手で支えながら立っている。
「そんなことじゃ……その程度じゃ、私は殺せない。死ぬわけにはいかない」
 切り裂かれ、血に染まった服の隙間から、純白の肌が覗いた。傷からは止めどなく鮮血が溢れている。
 ハッサムは蔑むように一度、眼を細めた。刃を振り上げる。瑞穂は刃の先端を見つめた。血が滴っている。多くの生き物達を傷つけた証だった。消えることのない、染みついている血の臭いが漂ってくる。
 目に見えぬ程の速さで、刃は振り下ろされた。瑞穂の頭蓋を容赦なく両断するために。
 ガラスの割れるような、弾けるような音がした。
 同時に、眩い光が瑞穂の身体から溢れ出た。ハッサムの刃は軌道をそれ、そのしなやかな巨体ごと、弾き飛ばした。ハッサムは地面に倒れた。顔をもたげ、驚きで見開かれた眼を、瑞穂へと向ける。瑞穂は呆然としており、戸惑いの表情を浮かべていた。
「これは……」
 瑞穂の周りには、光の粉が無数に漂っていた。キキョウシティを――瑞穂を護るために死んだ少年、冬我の形見。凍らされ、焼かれ、黒々とした骨だけになった彼の身体にこびり着いていたものだった。瑞穂は光の粉を、小さなビンに詰め、常に携帯していたのだ。
 白く、眩い光の中で、身体が震えるのを瑞穂は感じた。恐怖ではない。痛みでも、悲しみでもない。どんな感情も、感覚も入り込む余地を感じさせない光だった。
「また、言わなきゃ……」
 ハッサムは後ずさった。光の中で泳いでいるかのような瑞穂を睨み付け、彼は土煙と共に姿を消した。去った後には、残像だけが尾を引いているだけだった。彼の溢れんばかりの憎しみを纏った、真紅の閃光が。
「ありがとう」瑞穂は、その場に座り込み呟いた。「助けてくれて……」
 風が、光の粉を押し流していく。瑞穂はゆっくりと立ち上がり、黒雲の漂う空を見上げた。光の粉は、黒雲を押しのけながら、太陽の光の中へと消えていった。青空が、雲の隙間から覗いている。瑞穂は足下に倒れていたナゾノクサを抱きかかえ、光に照らした。ナゾノクサが目を開く。無言のまま、瑞穂の澄んだ瞳を見入っている。
「ナゾちゃん、大丈夫?」
 赤い瞳の状態でなければ、人間の言葉を話すことはできないのだろう。ナゾノクサは何も言わずに、小さく頷いた。涙に濡れた瞳は、憂いに満ちている。彼女は、内に秘めた悲しみを隠すかのように瞼を閉じて、再び眠りについた。
 ナゾノクサをボールに戻し、瑞穂はポニータに視線を向けた。首筋からの出血は止まったが、傷自体が消えたわけではない。気を失っており、いつ呼吸困難に陥っても不思議ではなかった。間の悪いことに、モンスターボールも壊されてしまっている。
 瑞穂はポニータを背負いあげた。鋭い痛みが、胸の辺りを貫く。胸元からの出血は止まっていなかったのだ。苦痛に顔をしかめながら、瑞穂は一歩ずつ、泥濘の上を歩きだした。待っている人のもとへ、向かうために。
「わからない……わからないよ……どうして傷つけあわなきゃいけないの? どうして、みんな争いをするんだろう」
 歩きながら、瑞穂は呟いていた。そうしなければ、今にでも力つきてしまいそうだから。何もかもが、悲しすぎるから。虚しさで、胸が張り裂けそうだから――こんなの、こんな争い、こんな傷つけあい、無意味だから。
「痛いよね? ポニちゃん……私だって痛い。こんなに痛いのに、どうして……」
 出血は止まらない。一歩、一歩、足を踏み出すたびに傷から溢れ出てくる。鮮血は瑞穂の全身を赤く染めていた。目の前が、視界がピンク色に滲んでいる。体中から、釘を打たれたような鋭い痛みが走る。
「でも……何か、理由があるんだよね。悲しい理由が――」
 額から汗が滲んだ。頬をつたい、首筋を流れ、鮮血と交わって、地面へと垂れていく。一滴、二滴、やがて滝のように激しい勢いとなり、鮮やかな赤みを帯びていく。
 遠くにマツバが見えた。駆け寄ってくる。瑞穂は荒い息をしたまま、彼を見つめた。視野が狭くなっていく。暗くなっていく。マツバは、遠くから何かを叫んでいる。聞こえない。瑞穂は彼の名を呼んだ。
 声がでなかった。代わりに、身体から抜けるようにして、意識が途絶えた。

 

○●

 瞳を開いた。誰かの顔が見える。女の子の、涙に濡れた幼い笑顔が。頬を濡らしながら、女の子は何かをしきりに呟いている。
「お姉ちゃん……」
 ゆかりだった。彼女は、瑞穂の目覚めを認めると、すぐさま胸の中に飛びついてきた。全身の痛みは消えていた。いや、ただ感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。その証拠に瑞穂は、ゆかりの暖かみも、腕の柔らかさも感じることができなかった。
 焦点が合ってきた。辺りを見回す。どうやら、病室のようだった。白い壁、白い床、白い天井。消毒液の臭いも漂ってくる。瑞穂は半身を起こし、指先で、ゆかりの頬を流れる涙を拭った。
「ユユちゃん。無事だったんだね」
「うん――」
 瑞穂は朦朧とした意識の中で、ゆかりの身体を抱きしめた。くぐもった嗚咽が聞こえてくる。ひんやりとした風が吹き、瑞穂の水色のツインテールを靡かせた。風は凪いでいる。
 窓ぎわで、青い空を見上げるようにして、マツバは座っていた。横目で瑞穂を見つめ、ひとつ軽い息をつき、彼は微笑んだ。視線をもとに――窓の外に広がる青空へと戻すと、小さな声で言った。
「心配はいらない。黒い霧は滅びた。それに、みんな無事だ――僕も、君の友達もね」
「マツバさん――あの……」
「聞かなくてもわかる。厄介なことに巻き込まれたみたいだね」
 瑞穂は驚いたように、表情を強張らせた。綺麗に澄んだ瞳が、まんまると見開かれている。
「どうしてそれを――」
「『千里眼をもつ修験者』の名は伊達じゃない。君に何があったのか――それぐらいはお見通しさ。そう言えば、君から電話をもらったとき、勝手ながら君の過去も覗かせてもらったよ」
「私の過去を……ですか?」
「悪人だと困るからね。幸い、君は清らかな心の持ち主だったけど。なんなら言い当ててみようか? 君の好きな男性の名前とか……」
 瑞穂は赤くなった頬を隠すかのように掌で顔を覆うと、子供っぽく唇をとがらせた。
「それ、ぷらいばしーの侵害ですよ」
 マツバは微笑を口許に浮かべた。瑞穂も彼につられるようにして微笑んでいたが、ふと真顔に戻った。そんな少女を、ゆかりは不思議そうに見上げている。火照った胸もととゆかりの背中を、白く柔らかい掌で撫でながら瑞穂は訊いた。
「マツバさんは、どう思います? ナゾちゃんと……あのハッサムのこと」
「さあ、どうだろう。肝心のナゾノクサが事情を説明できないのでは、どうしようもない――何かの拍子に、また人間の言葉を話せるようになればいいんだけど」
「そうですね……それと……」
 瑞穂は一瞬、躊躇うように目線を落とした。興味深げに、マツバは少女に視線を向ける。透けるように白く、整った少女の顔は、明るい幼さのなかに、どこか暗い大人びた雰囲気を秘めていた。彼はそこに、言葉にできないような深い悲しみを見つけた。
「なんだい?」
「結局――黒い霧は、何がしたかったんです? どうして、無意味に人を傷つけようとしたんですか?」
 声のトーンが落ちた。瑞穂の声は、暗く沈んでいた。
「争うことに、何の意味があるんですか?」

 

○●

 200年前――人々は争った。戦いをした。このエンジュの地で。
 その戦いは、争いは――喧嘩でも、競技でも、試験でない。
 ――ただの殺し合いだった。
 一部の無能な権力者の、『力』を求めるあまりの狂気から生まれた戦争。その戦禍は、善良で争いを好まない人々をも巻き込んだ。街全体を炎が包み、スズの塔を始めとした、多くの建物が灰となって、赤い空に消えていった。人間とポケモンの命と共に。
 そして争いは終わった。死者・行方不明者、3万2千人という、最悪の結末をもって。生き残った人々は、束の間の平穏を喜び、争いの記憶を深い闇の中へと葬ってしまった。犠牲となった魂の嘆きも知らずに。
 火矢に貫かれた少年。捕らえられ、斬首された少女。見せしめのために、全身の皮を引き剥がされた女。手首を締め上げられ、冷たい水の中へと投げ捨てられた赤ん坊。
 彼らの悲しみに満ちた心だけが、現世に残った。孤独に殺されてしまうことの淋しさ。恨み。憎しみ。長い年月のもとで、それらは霧に染みつき、一匹のゲンガーに取り憑いた。霧は、暗く闇に沈み込んだ彼らの心を象徴するかのように黒い色をしていた。
 人々は忘れていた。過去の争いを。それによって無惨に殺された人々の憂いを。
 忘れることは罪だから――何も知らないことより愚かだから。それは逃げていることと同じ。過去の悲劇を繰り返してしまうかもしれないから。二度と――二度と忘れさせないために。永遠に争いが起こらないために。
 彼らは手段を選ばなかった。失われた記憶を――それを忘れてしまった人々の心に、自分達と同じような淋しさを、憎しみを、恨みを、哀しみを思い出させるために、狂気を剥き出しにした。悪霊と呼ばれようが、亡霊だと蔑まれようが。
 長い時が、悲しいだけの感情が、人の心から、人間らしさを抜き取ってしまった。争いなど無ければ。彼らは死なずにすんだ。苦しまずにすんだ。狂気以外の感情を失うこともなかった。
 そして生き残った人々も忘れさえしなければ、過去から逃げたりしなければ、こんなことにはならなかった。彼らの淋しさを慰める人が、1人でもいれば――

 忘れてはいけない。痛みから、現実から、過去の過ちから眼を背けてはいけない。マツバさんは、そう言いたかったんだと思います。死んでしまえば、誰だって独りぼっちだから。それは寂しいことだから。このまま、忘れられるのは嫌だから。
 そういえば今日、危ないところで友達が助けてくれたんです。数日前に、私のせいで亡くなった彼が。もちろん、死んでしまった人が甦るはずはないです。でも、私は信じたい。彼が会いに来てくれたんだと。
 私が、死んでしまった彼にしてあげられることは、何もないから。せめてもの償いは、忘れないこと。そうすれば、いつでも会えるような気がするから。

 

○●

「この女の子が瑞穂ちゃんですか? 子供っぽくて可愛いですね。それで、このメールが……」
 瑞穂からのメールを読み返し、射水 冷は大樹の座っているソファを振り向いた。
「あ……」
 大樹はいなかった。外へとつながっているドアが、半開きのまま放置されている。冷は辺りを見回した。間違いない。大樹は外に出かけたのだ。
「でも、どこに……まさか……」
 冷は立ちつくしていた。そして気付いた。彼は、大樹は、現実から逃げるようなことはしない。その時、冷は背中の辺りに激痛を感じた。鮮血が背中から吹き出している。動揺したときは、いつもこうなるのだ。もう痛みには、馴れていた。
 だが今度は違う。違う種類の痛みだった。射水 冷は唇を噛みしめ、外へと飛び出すと、一目散に大樹の後を追った。

 塚本大樹は、薄暗い路地の奥にいた。ビルとビルの狭間から覗く夜空には、まばらながらも星が瞬いている。ビルの谷間から吹き抜ける風は冷たい。
「たしか、この辺りだったはず……」
 大樹は足を止め、闇の色に塗りつぶされている壁の周りを見回した。
「捜しているんですね?」
 冷の声のする方へと、大樹は振り向いた。今にも風に浚われてしまいそうな、心細げな表情を浮かべた冷が立ちつくしていた。彼女は細めた瞳で、大樹の足もとを見つめている。
「うん……君も、手伝ってくれる?」
 冷は微かな笑みを浮かべた。だがそれは闇に阻まれ、大樹には見えない。ここでは総てが、闇に飲み込まれていくのだ。
「こんなところで……寂しかっただろうね」
「そうですね……」
 瞳を閉じ、冷は両手を広げた。背中から鮮やかな鮮血が吹き出した。光を纏っている。仄かな光を放ちつつ、鮮血は翼のような形になった。真紅の翼。暖かな光だった。だが彼女の顔は、その癒やしの光とは対照的に苦痛に歪んでいる。
 光は照らし出した。蹲っている少女の姿を。首から上を失った、幼女の無惨な裸体を。大樹は視線を下げる。少女の前へ屈み込むと、できる限りの優しい声で話しかけた。
「鋭田美子ちゃんだよね……?」
 少女はビクリとした様子で、身体を強張らせた。顔がないので表情までは読みとれないが、きっと怯えたような顔をしているだろうと、大樹は思った。
「誰……? 私の首、捜してくれるの? それとも――」
 また、私を虐めに来たの? もう一度、バラバラにするの? 嫌だ。やめてよ。だから夜は嫌いなの。男の人が、意地悪するから――非道いことするから――
 少女は呟いた。涙声だった。冷は唇の端を噛みしめ、眼を背けている。
「誰も……少なくとも僕は、君のことを虐めたりしない。約束する」
「ほんと? ほんとに……? それじゃ、捜してくれるの?」
「うん……一緒に捜そう。時間はかかるかもしれないけど、きっと見つけだそう」
 おそるおそる大樹は、少女の小さな掌に触れた。冷たい。ひんやりとしている。やがて、その感触が全身に広がった。少女は、大樹にしがみついていた。泣きついていた。嗚咽に霞む声が、救いのない夜空に虚しく木霊す。
「お兄ちゃん、ありがとう――恐かった……すごく恐い……だから、凄く嬉しい――」
 大樹は、何も言わずに小さく頷いた。そうだ、誰だって独りなのは嫌なのだ。寂しいおもいはしたくはないのだ。だから、忘れてはいけない。射水 氷のように、立ち向かわなくてはいけない。過去から、自分から、恐怖から、孤独から、痛みから――逃げてはいけない。
 今、自分が抱きしめている現実から、眼を背けてはならないのだ。

 

○●

「でも、それは口で言うほど簡単じゃないよね――」
 瑞穂は沈んだ口調で呟き、そして繰り返した「簡単じゃないよ」
 目の前には、彼女の墓がある。黒い霧に呪い殺された、イーブイのトレーナーだった女性の墓が。墓石に縋り付くようにして、イーブイがぐっすりと眠っている。安心しきっている。なぜなら、この下には、主人が眠っているのだから。
 イーブイには、まだ彼女の死が理解できていないのかもしれない。いや、それを認めたくないだけなのかもしれない。人間もポケモンも同じだ。残酷な現実からは、逃げること以外の防御法はないのだ。
 瑞穂はイーブイを抱き上げた。イーブイの瞳が、うっすらと開かれた。つぶらな眼をしている。その奥に、暗い光が混じっている。哀しみの色が。
「あのさ……これから、どうするの?」
 瑞穂の問いかけに応えるかのように、イーブイは墓を見据えた。そして、もう一度、瑞穂の顔に視線を移す。見比べているようだった。やがて、イーブイの眼に涙が浮かんだ。こぼれ落ち、瑞穂の白い肌を滑るようにして流れていく。微かに呻くような声がする。嗚咽だった。哀しみを堪えれば堪えるほど、涙は溢れてくるのだろう。
「忘れたくても、忘れられない過去。忘れてはいけない、それなのに消えていく思い出――こんなの非道いよ。結局、悲しみだけが残っただけ。わからないよ……どうしてこうなるんだろう」
 イーブイは答えなかった。心が枯れ果てるほどに、涙を流し続けた。そして、赤く腫れた眼を気にもとめずにイーブイは瑞穂の胸から飛び降りた。無言のまま、睨むような目つきで瑞穂の澄んだ瞳を眺めている。
イーちゃん……その気持ちわかる。私も、好きな人を失ったことがあるから――もう、何回も。その度に思うの。どうして自分は何もできなかったのか――どうして、こんな悲しい思いをしなきゃいけないのか――」
 イーブイは俯いていた。耳だけが震えている。
「だから忘れたかった。現実から逃げたかった。だから――」
 瑞穂はポーチからモンスターボールを取りだした。イーブイの前へ、そっと置く。屈み込み、イーブイの顔を正面から見据えながら、瑞穂は言った。
「逃げればいい――いつか立ち止まって、振り返って、現実を直視できるようになるまで、逃げていればいいんだよ。だれもイーちゃんのことを縛り付けたりしないし、急かしたりもしない。逃げること自体は悪い事じゃないもの……逃げ続けて、いつまでも現実から眼を背け続けてちゃ駄目だけど――今すぐ総てを受け入れる事なんて、誰にもできないから……いつか、イーちゃんが現実に立ち向かえるほど強くなるまでは、この中に逃げていればいい……」

 瑞穂は立ち上がった。手にはモンスターボールが握られている。大事そうにボールをポーチにしまうと、瑞穂は後ろに振り向いた。
「ヒメグちゃん。そこで、ずっと見てたの?」
 片腕のないヒメグマが立っていた。彼は瑞穂の問いかけに頷いた。
「ヒメグちゃんも、私と一緒に――」
 彼は首を横に振った。それは否定の印以外の何ものでもない。
 鋭い目つきで、ヒメグマは瑞穂を睨んでいる。だが、彼の表情は悲しみに押し流されるかのように沈み込んだ。先程までの激しさは欠片もなかった。彼は瑞穂の足下に詰め寄ると、片腕を差し伸べた。
「ヒメグちゃんは、これから独りで生きていくんだね――だから、最後のお別れを言いに来てくれたんだよね?」
 ヒメグマは恥ずかしそうに俯くと、こっくりと頷いた。瑞穂は小さく朗らかな笑みを浮かべて、彼の手を握りしめた。
「まだ、人間のことを許せない気持ちはあるよね――だけど、いつかは解り合える日が戻ってくると信じてる。争いや憎しみが、いつか途絶える日が――」
 憎しみは悲しみを生み、悲しみは憎しみを甦らせる。いつか、その連鎖を断ち切らなければならないと、瑞穂は思っていた。そうできると信じていた。
 やがて、自分自身が悲しみに囚われることになるとも知らずに。

 

○●

 黒い霧は、影へと堕ちていた。もはや、以前ほどの力はない。瞳を開いても、見えるのは殺伐とした森の風景だけだった。その時、影の視線は1人の男を捉えた。
「たしかに……この地に残っていた、恨みの霊の力は増しました。今、エンジュシティは大変な騒ぎです」
 男は黒い法衣を着ていた。その手には、透明な水晶玉が握ってある。大粒の涙のように透明な宝玉から、あの特殊な力が溢れてくることに、影は気付いた。手を伸ばす。今にも水晶に手が届きそうになった瞬間、男は水晶を懐にしまい込んだ。
 黒い法衣で身を隠している男は、束の間、驚いたような表情をしている。だがその表情は、次第にひきつっていき、笑みへと変わった。突然、頭上から大金が降ってきたときのような顔。企みが成功したときのような、恐れに満ちた笑顔。
「これが……この水晶の力なのですね?」
 誰も答えない。深夜の森の沈黙。
 沈黙は、闇を意味した。この森全体が、いまだに影の支配下にあったのだ。滅びかけている黒い霧の中心部から、鋭い爪が伸びた。爪は、男の頭部を狙っていた。それをよこせ。不思議な力を秘めた、その水晶玉をよこせ。黒い霧はそう言うよりも早く、行動に移していたのだ。
 だが、鋭い爪が男の頭部を貫くことはなかった。その寸前に動きを止めていた。男は背を向け、焦ったような足取りで森を去っていく。力を秘めた水晶玉が、遠ざかっていく。それでも影は動くことが出来ないでいた。小さくなっていく。闇が薄くなっていく。何かを考える暇もなく、影は完全に消滅していた。
 影の意識の消え去る刹那、男を庇うように立ちふさがる、白い微笑みが視界を掠めた。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。