水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#9-4

#9 侵蝕。
 4.妖獣の叫び

 

「そうかい……。君は、そんなに私の邪魔をしたいようだね」 
 シグレは、それだけ言うと、黙ったまま、白い歯を覗かせた。 
 瑞穂は段々と焦れてきた。胸の辺りが灼けるように熱い。息をするのが苦しくなってきた。焦らない方がいい……。瑞穂は自分に、言い聞かせた。だが、胸の灼けるような苦しみは、ゆかりへの心労が原因ではないことに、瑞穂は気付いていなかった。 
 処女雪のように白い瑞穂の肌が、みるみる紅潮していく。胸の中にできている、血液の溜まった袋が、今にも破裂しそうな感じがした。なぜだろう……。焦ってはいけない。それは、わかってる。なのに、どうして、胸が苦しいの? 
「この人は……死んでいるんですよね?」 
 瑞穂は、黒こげになって死んでいる男に目をやった。再び髪を掻き上げて、シグレは答える。 
「邪魔だったから、殺した。それだけだよ。そして……」 
 シグレは瑞穂を睨んだ。瑞穂は、思わず後ずさった。それまでひたすら隠し通していた、凶悪で残忍な牙が、シグレの瞳に宿っていたからだ。彼の心の牙は、鋭利で長く、多くの人間を噛み殺したことの証である黒血が、こびりついていた。 
 恐い。正直に瑞穂は感じた。 
 ……こんな邪悪な雰囲気をもつ人間がいるなんて……。 
 青年の、シグレの眼が、妖しい、紫のような色を帯びていた。殺してやる。殺してやる。 
「そして……」彼は、本当に牙を剥いた。「君も、邪魔だよ。だから、殺す」 
 どうして? 恐怖に押しつぶされそうになりながらも、とっさに瑞穂は思った。たしかに私は、この人の計画を邪魔しようとしている。でも、それだったら、もっと他に対処する手だてがあったはずだ。なぜ私を、この部屋に誘き寄せるようなことをしたんだろう……。 
「目覚めろ……。目覚めるんだ。お前の出番だ……」 
 ぼそぼそと呟いた後、白衣の胸ポケットから、シグレは小さな四角い箱を取りだした。おそらく特殊電波発生装置を遠隔操作する機械なのだろう。シグレは指で箱の機器類を手早く操作した。窓際により、微笑みを強くする。 
 地響きがした。壁は激しく揺れ、破片が飛び散った。 
「一体……何をしたんです?」 
 飛んでくる破片を避けながら、瑞穂は訊いた。シグレは答えない。揺れ動く壁の一点を、じっと見つめるだけだ。 
「お前を殺す妖獣を呼んでいるんだよ」 
 興奮からか、シグレの声色は上擦っていた。拳を奮い立たせ、激しく揺れる壁を指さし、彼は叫んだ。 
「リリィよ。あの女を……洲先瑞穂を殺せ!」 
 茶色い壁が、華美な装飾を施された本棚ごと弾け飛んだ。その奥に、暗闇が覗いている。 
 瑞穂は身構え、弾け飛んだ壁の奥に存在する闇に、視線をやった。唸り声が響いてくる。赤い瞳を輝かている。こちらを、瑞穂の方向を、じっと睨み付けている。 
 真紅の瞳が眩いばかりの光を放った。光に照らされ、獣の全身が映しだされた。獣だ。野獣だ……。瑞穂は見た。言葉にすることができないほど、おぞましい容貌をした獣を。 
 獣は咆哮した。窓ガラスが、振動している。妖獣の叫びは、コガネシティ全域に響きわたった。――それが、彼女の心の叫びであることに、瑞穂が気付くはずもなかった。

 

○●

 殺したやる。殺してやる。射水 氷は蒼白な顔で、一位カヤの微笑みを見つめていた。 
 余裕の現れか。それとも、単なる虚仮威しなのか。カヤは無防備のまま、氷の前の立ちふさがっている。 
 沈黙を決め込んだまま、特殊電波を発信し続けるラジオ塔は、異様な狂気を漂わせていた。まだ、特殊電波の出力は、コガネシティ全域のポケモンを操れるほどには達していないだろう。だが、長期戦は危険だ。いつ、出力が上がるかわかったものではないからだ。 
 ――殺してやる。 
 氷は頑なに握りしめた拳を解いて、電灯の光に照らされているカヤの全身を睨みながら、心の奥底で呟き続けた。お前の、その微笑みは、もう見飽きたのよ。そして……いつも、この微笑に、私は怯えていた。いつも。いつも。私が始めて、この女と出会ったときから、私は恐れて、怯えていたのよ。でも、もう、終わりにする。絶対に、これが最後よ……これで最後にするのよ…… 
「また、怯えているわね?」 
 カヤは、言い放った。自分の心情を言い当てられ、氷の頬が引きつった。これ以上、なにも悟られまいと、ぐっとカヤの全身を睨み付けた。足もとのライチュウが、電撃を帯びた尻尾を人質の子供達へと向けているのが見える。 
「怯えてる。恐がってるわね」 
 笑った。嘲笑った。純粋に、笑った。それで、氷の怒りが増大することを、カヤは知っているようだった。だから、笑うのだ。 
「やっぱり、私が恐いのね? 恐いんでしょ?」 
 氷は答えない。睨み付けていた瞳に、力を込める。 
「私を睨み付けるのは、あんたが恐がっている、なによりの証拠なのよ。恐がっているのがバレないように、そうやって私のことを睨み付けてるんでしょう?」 
 氷は答えない。蒼白だった頬に、にわかに赤みがさしている。恐くない。恐くない。恐くなんかない! 怯えてなんかいない! 否定すればするほど、深みに填っていくことに気づけるほど、氷は落ち着いてはいなかった。カヤを殺す。目的が直前まで迫った氷の精神は、かつてないほど高ぶっていたのだ。 
「そんなに怯えなくても、私は、あんたをを殺したりはしないわ」 
 わざとらしく、優しさを帯びた口調で、カヤは語りかけた。 
「怯えないで……氷。私が今、一番恐れているのは、あんたを失うことなのよ……」 
 カヤの言葉に嘘はない。彼女は、氷を、自分の最良のペットを失うことを、真に恐れていたのだ。 
「黙れ。……死ね。お前なんか、しね。」 
 震える声で、氷は言った。乾ききった唇が、紫色に変色している。瞳は焦点を失い、細い指が壊れた玩具のように、不規則に揺れ動いていた。 
「黙れ。喋るな。口を動かすな。余計なことを。さっきから。なんなのよ。うるさいのよ……」 
 自分でも驚くほどの早口だった。そして、氷は、自分がとても動揺していることに、今更ながら気付いた。 
 氷の言葉に、カヤは耳を傾けてはいないようだった。腰に手を当て、見つめるだけ。哀れな少女の、小さな身体を見つめるだけだ。 
「恐がることはないのよ。怯えることはないのよ、氷……。私は、許してあげるわ。だから、戻ってきて。戻ってくるのよ……」 
「黙れ」 
 先程よりも、強い口調で、氷はカヤの言葉を遮った。 
「私は、騙されない。お前を殺すという決心に、迷いなどない」 
「”私は騙されない”か……、面白いことを言うわね」 
 不気味なほどに、カヤの表情が、笑みを帯びている。 
「それじゃ、はやく殺してよ。私を。……でも、死ぬのは私だけじゃないけどね」 
 カヤは、チラリと横目で人質となっている子供達を見やった。子供達は各々、縛られて気を失っており、ライチュウの電撃が鼻先まで迫っていた。 
 卑怯な。氷は、わなわなと震える拳を抑えながら、思った。 
 平然とした表情で、カヤは手を振り上げ、服の袖から鋭利な刃物を取りだした。刃渡り30センチ。よく研ぎ澄まされており、銀色に眩しく光っている。柄は真紅に染まっていた。 
「覚えてる? この刃……」 
 ――あれは……。 
 覚えていないはずがない。かつて私を、怯えさせた刃。恐れさせた刃だ。私の胸を裂き、私の腕を斬り、私の瞳を刳り貫いた、あの刃だ。 
「悔しいでしょ? 私はあんたを愛していたのに、あんたはそれに応えてくれなかった。仕方なかったのよ。お仕置きしてでも、苛めてでも、殴ってでも、蹴ってでも、殺してでも、あんたに、私の愛を理解して欲しかったのよ……。わかる? だから、殺して。私を殺してよ……ね。そして、私の愛を理解してよ」 
 氷は、妖艶なカヤの瞳から視線をそらさずに、口元を苦々しく歪めた。この女は、いつも口先だけだ。いつもだ。いつも、口先だけで、喋りまくる……。どんな理由を付けても、この女は、私を傷つけた。私を殺そうとした。『愛』なんてデタラメだ。昔から、この女は、私を虐めることの理由をこじつけてきたのだから……。今も、そう言うことで、私の動揺を誘おうとしているに違いないのだ。 
「黙れ」 
 既に氷は、元の冷静さを取り戻していた。焦ってはいけない。私は、もう子供ではないのだ。子供であってはいけないのだ。 
 カヤは、手に持った刃を、舌で舐めながら、細目で氷の姿を見た。 
「どうして、私を殺そうとしないの? なんで動かないの?」 
 氷とは逆に、カヤの方が戸惑っているようだった。 
 カヤを睨み付けながらも、氷は一歩も動こうとはしなかった。怯えているわけではない。恐がって、足が竦んでいるわけでもなかった。 
 右手で刃を構え、左薬指の爪を噛みながら、カヤは思いついたように目を見張った。 
「あんた……変わったわね」 
 カヤは、刃を握りしめている。小刻みに柄の部分が震えていた。 
 氷は動かない。呆然と立っている。まるで、凍り付いたかのように。 
「あんた、人質を殺したくないのね。そうでしょ? 変わったわね……昔のあんただったら、人質のことなんか、考えもしなかったのに……」 
 微かに、氷は頷いたようだった。そして、言った。掠れた声だったが、確実にカヤに届くように、区切りをつけながら、言い放った。 
「約束……したから……」

 

○●

 暗闇から姿をあらわした獣は、見れば見るほど、おぞましい容貌をしていた。鋭い瞳は、血を求めているかのように真紅に光り輝いており、狼のような、ヘルガーのような身体の全身が、こげ茶色の毛に覆われている。表皮は柔らかそうなゼリー状で、桃色の光沢をしていた。牙は鋭い。腕ほどに長い爪は、一瞬で瑞穂の胴体を切り裂くこともできるだろう。 
 床の赤い絨毯が、妖獣の気迫で震えている。 
 咆哮した。振動で、窓ガラスが一斉に粉砕され、外へと弾き飛ばされていった。 
「これが……ケモノ……妖獣なの……」 
 瑞穂は視線を巡らせた。妖獣の全身を見つめれば見つめるほど、身体の気力が萎えていくような感じがする。呆然と立ちつくしながら、瑞穂は微動だにできないでいた。 
 シグレは、ガラスの破片で切った足から鮮血を吹き出しながら、叫んだ。 
「どうだ。これだ! 妖獣だ! お前を殺すために、造ったのだ。私が造ったのだ……!」 
 瑞穂は束の間、思った。このヒト、狂っている……。狂ってるよ。私の目の前のケモノよりも、狂っている。おかしいよ。このヒト……。 
 整った瑞穂の雪肌の頬を、雹よりも冷たい汗が伝った。恐怖からではない。純粋に、ヒトをヒトでなくならせる狂気に、本能が危険信号を発しているのだ。 
「私が……私が造ったのだ。もう、いいだろう? 洲先瑞穂。すべてを吐き出せ。お前が知っている、我々の秘密の全てを、吐き出せ! お前は危険すぎる。だから、ここで死ぬんだ。それが、幸せなんだよ。お前の、義理の妹も、お前がここで死ぬことを、望んでいるんだからな」 
 私が造った……? このケモノを造りだしたのは、人間……このヒトだというの? 
 瑞穂は思わず後ずさっていた。あまりに多くの事柄で混乱しているのではなかった。一つだけ、解ったのだ。そして、その事実に戦慄していたのだ。 
「氷ちゃんは……射水 氷ちゃんは……あなたによって、造られたんですね……?」 
 単なる思いつきだったが、瑞穂は確信していた。 
 氷が、シグレのことを語るときに呟いた一言。 
(ある意味で……私の命の恩人よ……。) 
 命の恩人……。彼女は、射水 氷は、あの時、洞窟で獣へと変貌していた。そして、その時の射水 氷と、今目の前にいる獣は、とても雰囲気が似ているのだ。 
「そうだ。彼女は、私の最高傑作だった。おとなしく、攻撃的ではない。被験者とするには、もってこいのタイプだったよ……。そうか、お前は、氷とつるんでいるんだったな」 
 やっぱり予想通りだった……。瑞穂は足下が、震えてくるのを堪えた。シグレの言葉から推測すると、射水 氷は、もともとは『普通の人間』だったことになる。被験者? このヒトが、氷ちゃんに、何かの実験をしたというわけ? 
 思考の錯綜する中、飛んできた鋭い獣の爪を、瑞穂は横飛びで避けた。 
「つるんでいるわけじゃないです。友達です」 
「彼女に、友達などいない!」 
 声を張り上げ、シグレは言い返した。興奮で、顔が紅潮している。 
 部屋の、局長室の空気が、一瞬にして止まった。瑞穂も、獣すらも、動きを止めた。 
「彼女は、射水 氷は、ずっと独りぼっちだった。姉とも満足に会うこともできず、あの女に五年も虐められ続けたんだからな。普通の人間だったなら、もうとっくの昔に死んでいたはずだ」 
 瑞穂は、息を呑んだ。獣も、爪を振り回しながらも、何故か動揺しているようだ。 
「そんなことはどうでもいい。妖獣よ、早く洲先瑞穂を殺せ」 
 赤みを束の間失っていた獣の瞳が、シグレの言葉に反応し、鮮血を浴びたように真っ赤に染まった。醜く歪曲した牙を獣は剥きだしにし、瑞穂の身体を裂き喰らおうと、飛びかかってくる。瑞穂は身を翻し、獣の攻撃を避ける。だが、いつまでも避けていることなどできるはずもない。 
 だが、急がなければ、特殊電波の出力が上がり、ジョウト地区全域にまで広がってしまう。 
 モンスターボールを腰のポーチから取りだし、瑞穂は見つめた。ポケモンでなければ、獣の脅威を退けることは、不可能に近い。だが、特殊電波の影響下で、ポケモンをだすことは、自殺行為だ。特殊電波に、唯一耐性のあるナゾノクサも、先程の戦いで傷を負ってしまっている。 
「リンちゃんに……賭けてみるしかない……」 
 小声で瑞穂は呟き、モンスターボールを天井へと放った。 
 シグレは怒鳴っている。予期してもいない瑞穂の行為に、驚いているようだった。 
「馬鹿な。ここで、ポケモンをだすのが危険だということが、解らないのか?」 
 床へと落下していくモンスターボールを見つめ、瑞穂は答えた。 
「解りません」 
「自棄になったのか……。愚かな」 
「違います」と、瑞穂は首を横に振った。「ただ単に、今の状況が解らないだけです」 
 もちろん嘘だ。これは賭なのだから。自棄になったというのも、あながち間違いではない。 
 リングマの入っているモンスターボールが、真っ赤な絨毯の上に落下して、閃いた。 
 獣は、口から溶解液を吹きだしてくる。瑞穂は、溶解液を器用に避けながら、リングマの巨体にしがみついた。リングマの瞳は、真紅に染まっている。わなわなと震えながら、苦しそうにその場にしゃがみ込んでいる。瑞穂は耳元で囁いた。 
「苦しいんだね……。リンちゃん、心で戦っているんだね。……ごめん。一瞬だけでいいから、私に力を貸して……。おねがい」 
 瑞穂を振りほどき、リングマは咆哮した。獣が、一瞬だけ怯んだ。 
 やはりリングマも操られているのだ。特殊電波の束縛からは、逃れることはできないのだ。頭の中で響く。私は『リリィ』と。ポケモン殺セ、いや違ウ、子供を殺セ、と。しきりに響いてくる。耳元から、可憐な声が響く。おねがい……私に力を貸して、と。 
「リンちゃんは、操られたりなんかしないよね? 大丈夫だよね?」 
 こんなことで……こんな電波なんかで、リンちゃんが、リンちゃんでなくなってしまうはずがないもの。信じてる。 
 信じていたから、モンスターボールを放ったのだ。 
 蹲り、呻くリングマの口元から、涎が溢れ出た。堪えている。目の前の瑞穂を、切り裂いたりしないように堪えているのだ。過ちは、二度と繰り返さない。二回も同じ間違いをしたら、いけないって、姉さんが……。 
(それで、ぱぱにおしりをたたかれちゃったの……竹刀で。すごく、いたかった……) 
 痛いんだ……。ボクは、何も感じないけど。切り裂かれた姉さんは、すごく痛いんだ。 
(ぱぱ、わたしのことがキライなんだ。だから、あんなこと、へいきでできるんだよ……。いたいの。すごくいたいの……。いすにすわれないくらい……いたいよぅ) 
 ボクは、姉さんのことがキライじゃない。泣き虫でも、弱虫でも、姉さんが、姉さんであり続けるなら、ボクは姉さんのことが好きだ。だから、傷つけたくない。傷つけたくない。だれだよ『リリィ』って。ボクの名前は『リン』だ。 
 ――私は、リリィ。……違う。私は、リリィなのよ。違うんだ。 
 リングマは狂ったように、赤い瞳で瑞穂を直視した。綺麗な瞳、小さく細い体躯。雪のように白い肌。幼い頃から、ずっと見続けてきた自分の姉であり、友達である瑞穂と、なんら変わっているところはなかった。 
 ――私は、リリィ。それは違う。リリィよ。違う、違うんだ。 
 瑞穂は無防備のまま、苦しんでいるリングマの姿を、切なそうに見つめている。 
 一閃。 
 破壊光線の光が、部屋を黄金色に染めた。轟音を響かせ、衝撃波が辺りに広がっていく。リングマの口から放たれた破壊光線が、瑞穂の白く小さな身体の、影を掻き消した。

 

○●

「約束? つまんなーい……。全然、つまんない理由よね」 
 カヤは、ふてくされたように呟いた。先程とは、態度がまるで違う。いや、もはや性格が入れ替わったかのようだ。 
 氷は思った。この女は、一体いくつ、心に仮面を隠し持っているんだ……。 
「あんた、あの娘に相当、影響を受けているようね。たしか名前は、瑞穂っていったわよね」 
「調べたのね」 
 手に持った刃を振りかざし、カヤは微笑を浮かべた。 
「そうよ……。ついでに、いいことも教えてあげようか?」 
 いいこと? この女の言う”いいこと”など、悪いことに決まっている。氷は心の奥で身構えた。この女、何を言おうとしている? 
「あんた知らないみたいね。あの娘。名字が”洲先”っていうのよ。つまりフルネームは洲先瑞穂よね」 
 動揺から、氷の顔が強張った。白い床に映りこんだ自分の顔の口元が、軽くひきつっている。 
「嘘よ」氷は、小さな声で言った。 
「本当よ。なんなら、本人に訊いてみたらどう? まだ生きていれば、の話だけど」 
「偶然、名前が同じだっただけよ」 
 肩をすくめ、ナイフの刃を光に照らして、カヤは言った。 
「でも、”洲先”って、かなり珍しい名字よ。そんなに、いるかしら? それに、あの娘は、間違いなく、”あの洲先瑞穂”よ……。信じるか信じないかは自由よ。」 
「そんな……」 
 呆然と氷は宙を見つめた。 
 カヤは、焦れたように刃を振り回している。 
「そんなことは、もういいわ。はやく、私を殺してよ」 
 氷は動かない。いや、動けないのだ。カヤは、子供達や局員を人質に取っている。迂闊に動くことは出来ない。 
 相手に悟られぬよう、氷は横目で、縛られている子供達に目をやった。先程と同じく気絶している。はやく、助けださなければ……。しかし、動くことはできない。 
「それじゃ、こうすればいいのね?」 
 カヤが、突然に言った。氷にはなんのことだか、理解できなかった。 
 刃をカヤは横一線に、素速く振った。人質の幼い女の子の頬を、刃が掠める。 
 氷は、突然の出来事に固まっていた。思考だけが、なんとか現状を理解しようと働いている。 
 幼い女の子が目を覚ました。いつの間にか、頬から、血が噴き出している。目を見開き、驚いた表情のまま、女の子は自分の血を見た。痛みを遅れながらに感じた。泣き出す。痛々しく頬を押さえて、女の子は泣き叫んだ。イタイよぅ。イタイよぅ。ママ……イタイよう。 
 小さな声で、しゃくりあげながら、幼い女の子は泣き続けている。頬からの出血が、女の子の顔全体に広がっていた。 
「なにするの……!」 
 氷は、女の子の元へと駆けていた。知らぬ間に、駆けていた。待ってましたとばかりに、ライチュウの電撃が氷を阻む。氷は弾き飛ばされた。 
 再び、カヤの手の刃が空を斬った。鮮血が飛んだ。氷は見た。カヤは笑っていた。 
 首が飛んでいた。女の子の、涙と血の混じった瞳が、みるみる濁っていく。ドスン。音をたてた。湿った音だった。女の子の首は、リノリウム製の床に叩きつけられていた。女の子の血が、白い床を深紅に染めていく。か細い泣き声は、気付いたときには消えていた。 
 カヤは、女の子の頭だけを、氷の元へと蹴り飛ばした。「これ、あげる。」 
 壁にもたれて倒れている氷の視界に、女の子の首が入り込んできた。見つめている。血の色に染まり、真っ青になった女の子の顔は、氷の顔を見つめている。 
 痛いよう。痛いよう。お姉ちゃん。痛いよう。首と、ほっぺたが、痛いよう。 
 感情の失せた表情で、女の子の首は訴えかけてくる。氷は、女の子の首から視線をそらした。女の子の首のない死骸の股座から、屎尿が滲み出ていた。 
 異変に気付き、他の子供達も目を覚ました。口々に悲鳴をあげる。目の前に、異臭を放つ、首のない屍体があるのだから、無理もなかった。 
 カヤは、笑みを浮かべたまま、刃を振り上げた。 
「やめて……やめて! やめて!」 
 氷が叫んだ。自分でも、信じられないほどの大声で、叫んだ。だが、鮮血と、首が飛ぶ度に、氷の声は掠れ、小さくなり、最後は呟きへと変わった。精気の失せた、冷たい瞳を天井へと向ける。呆けたように氷は呟き続けることしかできなかった。 
「やめて……やめて……。やめてください。やめてください……」 
 最後に残ったのは2人の女の子だった。他の子供達には首がなかった。死臭を放つ、ただの屍体になっていた。 
 氷は立ち上がった。これ以上、誰も殺させない。そして、駆けた、氷は。女の子の悲鳴が聞こえる。 
「いや! 助けてぇ……。ママぁ。やだぁ……。イタイよ。イタイよぅ! ママぁ!」 
 耐えきれなくなって、氷は目を閉じた。悲鳴が途切れた。 
 肩に丸いものが当たった。カヤが投げつけたのだろう。さっきの女の子の首に、違いなかった。首は落ちた。湿った音が、また響いた。間に合わなかった。氷の目に、涙が滲んだ。 
 泣くことなど、忘れていた。忘れていた筈だった。胸元に、生暖かい液体がこびりついている。酷い異臭が、氷の鼻をついた。屍体が、腐敗するにはまだ早い。これは、屎尿の臭いなのだろう。 
 眼を見開いた。怨磋に充ちた瞳だった。 
 これで私は、私の心は、また死んだ。殺された。許さない。お前など、絶対に許すものか! 
 最後の女の子が叫び声をあげている。カヤは刃を振りかざした。 
「あんたのためなのよ! あんたのためを思ってやってやったのよ! それなのにその態度は、なによ! あんたは私を殺したいんでしょう? そのためには、人質は邪魔だったでしょう? だから、殺してあげたのよ。優しいでしょ? 私は、優しい人間だからね……」 
 ほざけ、カス。氷は心の奥底で叫んだ。腕を前へだし、アーボへと変貌させ、カヤへ向けて伸ばした。だが、間に合わない。カヤの刃が、最後の女の子の首へと迫っていた。このままじゃ、間に合わない。 
 その時だ。その瞬間に、銃声が鳴り響いた。 
 カヤの肩から、血が吹き出て、刃がぽろりと床へ落ちた。冷たい音をたてる。 
 氷は、銃声の響いた方を見つめた。カヤも見た。 
 青年だった。サングラスをかけ、黒服を身に纏った青年だった。手に持った銃の銃口から煙が出ている。 
「法柿! あんた、なに馬鹿なことしてんのよ」 
 法柿と呼ばれた青年は、銃を構えたまま、カヤの言葉に言い返した。 
「馬鹿はお前だ。死にたくなかったら、消えろ!」 
「あんた、裏切ったわね。……氷とデキてたとか?」 
「似たようなもんだ。それよりも、早く失せろ!」 
「あんたも殺してやる。私は、みんなを愛しているのに、馬鹿だから、みんな気付かないんだ! こんなに私は優しいのに、だれも誉めてくれない。みんな、殺してやる!」 
 カヤは、忌々しげに吐き捨てて、窓をぶち破って、飛び降りた。背中から、機械仕掛けの翼が飛び出す。グライダーの要領で、空を飛び、カヤの姿は雲の奥へと消えた。 
 氷は、気が抜けたように、その場に座り込んだ。そして隣で蒼白の表情のまま竦んでいる、人質の子供の中で唯一生き残った女の子に、話しかけた。 
「大丈夫……だった?」 
 首を振った。少女の瞳は、正常ではなかった。 
「こないで……。こっちにこないで……」 
 譫言のように呟くと、女の子は立ち上がった。氷は驚いて、顔を上げた。 
「あなた……何を言って……」 
「こないで! 嫌! いやぁ!」 
 女の子は、怯えを通り越して、狂っていた。駆けていく。割れた窓へと駆けていく。泣きながら。出口を目指して。安全な場所を目指して。狂気に取りつかれた、この少女は、自らの創りだした幻に惑わされていた。安全な場所はどこ? あそこだ!  
「その子を止めて!」 
 最後の力を振り絞って、氷は法柿に叫んだ。もう、二度と喋れなくなるのではないかと思った。法柿は女の子を止めようと走った。だが、狂気に走った女の子には、間に合わなかった。 
「助けて! 助けてよぉ! みんな、どこにいるの! どこに隠れてるの……!」 
 ドスン。 
 落ちた。4階の割れた窓から、地上へ、一瞬のうちに。 
 法柿は、窓から下を覗き込んだ。そして、氷の顔を見据え、首を横に振った。 
 氷に、法柿の姿は見えていなかった。何も、見えていなかった。頭で何かが響いている。ドン。ドスン。女の子が落ちたときの音が。 
 自分の姉も、死の間際に、この音を聴いたのだろうか。

 

○●

 部屋にたちこめていた煙がはれた。 
 瑞穂は立ち上がり、口から煙りを吐いているリングマの姿を見つめた。 
「ありがとう。リンちゃん」 
 それだけを言った。リングマは小さく頷いた。瑞穂は、呆然と立ちつくしているシグレの方を向いた。 
 シグレは苦々しい表情で瑞穂を睨んだ。瑞穂が臆することはなかった。整然とした表情をしている。今すぐにでも駆け寄って、瑞穂の小さな身体をねじ切って、殺してやろうとも思った。だが、それすらもできない。背後から、瑞穂を庇うように、特殊電波から解放されたリングマが立っているのだ。 
 舌打ちし、シグレは後ずさる。まさか、こんな事になるとは思ってもいなかったのだろう。 
 そう、『リリィ』は、リングマの破壊光線によって破壊された。あの時、瑞穂へと放たれた筈の、リングマの破壊光線の軌道が、途中でズレたのだ。破壊光線は瑞穂の肩を掠め、ラジオ塔に設置しておいた、特殊電波発生装置を貫いたのだ。 
 獣は我に返ったように辺りを見回し、己の醜い姿を恥じるかのように吠え、忽然と煙の奥に姿を消した。 
 そして、破壊光線の煙は消えた。後には、沈黙だけが残っていたというわけだ。 
「お前……ワザとやったな? 初めから、電波の発生装置を破壊するつもりだったんだな……?」 
 シグレは瑞穂に訊いた。窓際により、拳を握りしめている。 
「はい。でも、リンちゃんがちゃんと装置は壊してくれるかどうかは、賭けのようなものでした。氷ちゃんから、局長室に特殊電波の発生装置がある、と聞いたときから、まず真っ先に装置を壊そう、と考えていました。ユユちゃんを助けるのは、その後でもできますから」 
 冷静に話す瑞穂を、シグレは片腕を振り上げて、制した。 
「まだ、終わらないよ……。確かに、この計画は決して成功したとは言えない……。だが、まだ私には次がある。このまま終わるような小者ではないよ、私は」 
「あなたは逃げられません。この塔は包囲されています。もうすぐ、警察の人達も来ますよ」 
 微かに指を動かし、シグレは微笑んだ。瑞穂は幼い顔で、怪訝そうに白衣の彼を見つめた。 
「君は、甘いよ」 
 風が吹いた。どうして? 瑞穂は考えた。ここは、建物の中の筈なのに、どうして風が……?  
 シグレの白衣の中から、白い霧が吹き出した。 
 瑞穂はリングマに抱きかかえられた。風は、少女が立っていられないほどの強風になっていたのだ。白い霧が吹き荒れる。嵐のように、吹雪のように渦巻いたそれは、赤い絨毯に吸い込まれるように姿を消した。 
 シグレは消えていた。 
 リングマの腕から離れ、瑞穂は辺りを見回した。本当に、シグレは消えていた。逃げたのだ。どうやって、逃げたのだろう。どんな仕掛けで? でも……それよりも、先にユユちゃんを助けなきゃ。 
 氷は、局長室に妹が、つまり、ゆかりがいるだろう、と言っていたのを思い出した。 
 瑞穂は、獣が出てきた壁の穴から、隣の部屋を覗き込んだ。闇の奥に、横たわる女の子の姿が見える。 
「ユユちゃん!」 
 戦慄しながら瑞穂は、声をかけた。女の子は、声に反応して起きあがる。間違いなく、ゆかりだった。 
 ――ユユちゃんは、あの獣がいた部屋に閉じこめられていたんだ……恐かっただろうな……。 
 それでも無事でよかった、という安堵の気持ちが、瑞穂の心の中に湧き上がってきた。 
 ゆかりは、ぼんやりと瑞穂を見つめていた。……お姉ちゃん? お姉ちゃんやの? 
 跳び上がった。火がついたように泣きだし、瑞穂の、細く柔らかい身体に抱きついた。 
「お姉ちゃん……。恐かった……怖かったよぅ……」 
 しゃくりあげ、泣きじゃくる、ゆかりの頭を撫でながら、瑞穂は座り込んだ。よかった。本当に、ユユちゃんが無事でよかった……。 
 瑞穂は白い腕で、ゆかりの身体を思い切り抱きしめた。よかった。本当によかった……。 
 そこで、止まった。瑞穂は、身体の動きを止めた。腹の奥で、何かが破裂した。先程から感じていた、胸の焦げるような痛みが、喉元まで広がってきた。 
 思わず瑞穂は、自分の口を押さえつけた。何かを吐き戻したようだった。掌が、赤く染まっていた。血に溢れていた。ゆかりが、瑞穂の様子に気付いて、悲鳴をあげた。 
 リングマが駆けつけてきた。瑞穂を抱き起こす。少女の口の周りが、血にまみれていた。 
 瑞穂は喘ぐ。上体を起こして、苦しげに血を吐いた。吐血した。 
「お姉ちゃん! どないしたん? どないしたん……?」 
 ゆかりは、目の前が真っ白になっていた。混乱していた。悲鳴をあげ、叫ぶ。 
「よかった……ユユちゃんが無事で……よかった……」 
 それだけを瑞穂は呟いた。口から吐き出される血が、少女の言葉を遮った。そして倒れた。リングマの腕から、こぼれ落ちるように、瑞穂の身体が床に落ちた。 
 鮮血が波打った。柔らかい音がした。瑞穂の瞳が焦点を失っていた。 
 血の色をした絨毯よりも残酷に、瑞穂の身体は真紅に染まっていた。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。