水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#10-2

#10 過去。
  2.紅翼の霊

 

 暗闇に沈む部屋に、ぼんやりと白い裸体が浮き出ていた。
 射水 氷は、コガネホテルの一室から夜景を眺めていた。壁により掛かるようにして、物憂げな瞳を宙へと泳がせている。その表情は、あくまで無表情で、まるで白い仮面を被っているようだった。
「眠れないのか?」
 ベッドに横になりながら、心配そうに法柿祐介は訊いた。だが、氷は答えなかった。魂の抜けたような、青白い指先が、微かに振れただけだった。指先の動きに呼応するかのように、唇が震え始める。彼女の口許から、冷たい吐息が漏れていることに気付き、法柿は痛々しげに少女から目を背けた。
「私……何をしてるのかしら……」
 氷は呟いた。今にも消え入りそうな小さな声だった。窓ガラスに額をつけ、空の闇を見据えながら、寒々と両腕を抱えている。街の騒音は厚いガラスに阻まれて聞こえない。何も聞こえはしない。
 今の法柿にとっては、沈黙こそがもっとも苦痛だった。氷の言葉、一言一句全てが直接、彼の胸に響くから。いつしかその言葉が、少女の救いを求める悲鳴に聞こえるから。
 所詮は幻聴に過ぎない。だが彼は、そこに紛れもない過去を見るのだ。何をすることもできなかった自分。目の前の少女1人すら、助けることのできなかった記憶。
「みんな、死んだ……」
 氷の透き通った瞳が潤んでいた。法柿は俯き、唇を噛んだ。血が滲む。口の中に鉄の味が広がった。
「死んだ。姉さんも、父も母も……私の大切な人は、みんな死んでいく。私に関わった人は、みんな死んでいく……」
 心の奥底にしまい込んだはずの記憶が、鮮烈に脳裏をよぎる。背中が砕け、裂け、真っ赤に染まっていた姉の姿。黒く焦げ、顔すらも見分けられないほどに灼けた、父と母の焼屍体。斬殺された幼い子供達の首。助けを求め、狂い、5階から死へと落下した少女の、四散した肉片。
 皆、助けを求めるように、あんぐりと口をあけ、声にならぬ叫びをあげている。こちらを驚いたような形相で、睨んでいる。睨み付けている。――おまえのせいだ。おまえのせいで、死んだんだ。おまえのせいなんだ。
 法柿は何も言えなかった。彼には、ただ彼女の言葉に耳を傾けることしかできない。
 細々とした声を、搾りきるように話す、氷の横顔は切なげだった。
「もうよせよ、氷。こんなこと言って、なんになるんだ」
 思わず、法柿は言った。氷は彼の顔を見つめ、哀しげに目を細めた。
 物音一つたてず、氷は立ち上がり、法柿のすぐ側に横になった。無表情なままの顔を枕に押しつけ、くぐもった声で呟いた。声がしだいに震えを帯びてくるのが、法柿にはわかった。氷は震えている。呪われた自分の運命を恐れているのだ。
「教えて法柿。どうして私の周りの人は、みんな死んでしまうの? それなのに、どうして私だけは、死んでも死ねないの?」
「そんなこと訊かれても……」
「あのまま死んでいればよかった。その方が楽だった。あの冷たい河の底で、死ぬのも悪くない」
「どうしたんだよ。おまえらしくないな」
 氷の震えが、ピタリと止まった。部屋の空気が動きを止めた。氷はゆっくりと横目で法柿を見つめた。彼は氷の瞳に、圧迫感のようなものを感じた。
「あの子たち……私がいなければ、あの女にあんな事を言わなければ、死なずにすんだかもしれない。あんなに恐がっていた。最後に何も見えなくなって、あの子は落ちて、死んだ」
「それか……そのことか……だけどな、いちいちそんなことを気にしていられる立場か? 変だよ。昔のおまえだったら、そんなことは気にもしなかった」
 すがるように、氷は法柿の掌を握りしめた。法柿は驚き、額の汗を拭った。彼の指先がじわじわと濡れていく。氷は法柿の指をしゃぶるように舐めていた。
「あの女の子に逢ってから……私は変わったのかもしれない」
「女の子?」
「法柿も知っているはず……そう、洲先祐司の”戸籍上の”一人娘、洲先瑞穂」
 先程までとは違う汗が、法柿の全身に浮き出た。指先を舐め続ける氷の手を払い除け、しばし呆然と考えるような素振りを見せた。
「その子は、死んだはずじゃなかったのか?」
「だから明日、それを確かめる……あんなことは一度だけで、もうたくさんだから……」
 氷は上目遣いで法柿をじっと見据え、這うように近づくと、彼の胸に火照った頬を擦り寄せた。目を閉じる。抱きしめる。男の胸を、透き通った雫が伝っていく。
 法柿は静かに氷を抱き寄せ、ベッドの底に沈んだ。

 

○●

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 差出人:洲先瑞穂 宛先: asuki8162@rau.pokenet.**.**
 件名:こんにちは
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 大樹くん、こんにちは。瑞穂です。久しぶりですね。
 元気ですか? 私は、とても元気でいます。
 私は今、コガネシティに来ています。
 たまには一緒に、食事でもしませんか?
 宜しければ、メールください。
 明日の午後3時、コガネラジオ塔の前で待っています。
 
 きせき みずほ:yot235@poi.freeways.**.**
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○●

 塚本大樹は、コガネシティの中央通りをひた走っていた。
 彼は、約束の時間に遅れそうになっていた。上司である京橋教授が、急に資料整理の仕事を押しつけ、そのせいで遅れてしまったのだ。携帯獣研究所の新米研究員である大樹が、上司の命令に逆らえるはずがなかった。
「瑞穂ちゃんと会う約束がある」なんてことを、教授なんかに言わなければよかったと、彼は心の底から後悔していた。悔しさで思わず歯を噛みしめるほどに。
 元トキワ大学教授である京橋元一郎は、陰湿な男だった。ことあるごとに、大樹に嫌がらせをするのだ。もう、70も近い年齢だというのに、その陰湿さは衰えるどころか、年を追うごとに増している。
 白い雲が矢のように頭上を通り過ぎ、ループする。周りの人々をかき分け、前へと進む。腕時計が2時56分を指したとき、大樹は立ち止まり、息を弾ませながら、先の見えない中央通りの向こう側を見つめた。
 このままでは間に合わない。約束の時刻に遅れてしまう。すぐ側のベンチに腰掛け、大樹は激しく鼓動する胸を押さえつけた。背中の方では風を切って、車が走っている。遠い音が近くなり、彼の身体を突き抜けて、また遠くへと去っていく。
「どうしよう。このままじゃ、瑞穂ちゃんとの約束に遅れちゃうよ」
 疲れ果て、大樹は項垂れた。その時、ふと眼前の薄暗い路地裏に目がいった。普段は、絶対に足を踏み入れることのない、光の届かない空間。
 ベンチから立ち上がり、大樹は路地裏に足を踏み入れた。躊躇している暇など無かった。約束の時間に間に合うためには、この路地裏を通るしか方法が無かったのだから。
 頭上から光が漏れる。スープをこぼした後のように転々と続く光の筋を追いかけるように、大樹は走った。左に曲がり、右に曲がり、直線を駆け抜けて、また右に曲がる。すると、その途端――
 倒れた。突然、誰かにぶつかってしまったのだ。こんな怪しげな路地裏になど、誰もいないだろうと思って油断していたのだ。
「いたた……すみません。急いでたので」
 大樹は立ち上がり、相手に頭を下げた。薄暗いせいで、相手の姿はよく見えなかった。相手は、じっと大樹の足もとを見つめている。大樹は気になって、自分の足もとの方を見た。
 透明な、水晶のような丸い珠が転がっていた。握り拳くらいの大きさで、中央から不思議な光を放っている。大樹は、その水晶玉のような物に、言いしれぬ不安のようなものを感じた。
 かがみ込み、両手で持ち上げて、大樹はまじまじと光と陰を発する珠を観察した。見れば見るほど、冷たく不可思議な光だった。
「触れるな。返せ」
 男の声だった。相手は、音も立てずに立ち上がり、大樹の手から水晶玉を取り上げた。何故か、慌てている様子だった。
「あ。あなたのだったんですか。どうも、すみませ……」
 そこで大樹の言葉は止まった。驚きと恐れの表情を浮かべている。目を見開き、口が大きく開いている。相手の顔を見つめ、相手の全身を眺め、相手の瞳から逃げるように視線をそらした。
 相手の格好が普通ではなかったのだ。黒尽くめのローブに、黒いマフラーを、顔を隠すように頭から被っている。瞳だけが、ぎらぎらと不気味に輝いていた。
 大樹は身じろぐこともできなかった。目を剥いたまま、立ちすくんでいる。
 男は何も言わずに、水晶玉を懐にしまいこむと、そそくさと立ち去った。相手の姿が見えなくなるのを確認し、大樹は気が抜けたように溜息をついた。
「なんだったんだろ、今の人……」
 腕時計が鳴った。3時になったことを告げるアラームだった。結局、約束の時間には間に合わなかった。大樹は項垂れ、なかば自棄になって、再び駆け出した。
 路地裏を抜け、大通りに出た。明るい光に、大樹は眩しさを覚えた。思わず目を細め、空を見上げる。コガネ百貨店が視界に入ってきた。ラジオ塔は、ここから歩いても2分といったところだろう。
 いつ見ても高い建物だな。百貨店を眺めながら大樹は思った。そう言えば、数週間前に、飛びおり自殺が起こったのも、この建物だっけ。
 大樹は、視線を数100メートル先のラジオ塔へと戻した。すると、目の前にを立ちふさがるようにして、少女が1人立っているのが見えた。紫色の美しいロングヘアーをしている。少女は、じっと大樹の方を見つめていた。
「あの……何かあるんですか?」
 思い切って、大樹は訊いてみた。少女はビクリとした様子で後ずさり、震える声で聞き返した。
「私の姿が、見えるんですか……?」
 少女は俯き、強張ったような肩を震わせている。
 その瞬間、大樹は息を呑んだ。
 突如として、彼女の背中から眩い光とともに、真紅の翼があらわれた。大きく、鮮やかで、優雅な翼――恐ろしささえ感じるほど、美しい光景だった。少女の姿が、優しさに溢れた天使のように映った。
 だが、それは翼ではなかった。背中の傷から夥しく吹き出す、鮮血だった。あまりに激しく吹き出すので、翼と見紛ってしまったのだ。
 突然の事に、慌てている大樹を落ち着かせるように、少女は小さく呟いた。
「心配しないでください。大丈夫ですから」
「でも、血が……痛くないの?」
「痛いです……でも、しかたないんです」
 大樹は微動だにせず、少女の姿を見つめた。背中からの出血は止まる気配すらない。そのかわりに鮮血は、透明となり消えていく。そのため地面に血の跡は残らなかった。
 救いを求めるように辺りを見回してみた。人々は誰も少女を気にしている様子はない。皆、知らぬ顔をして過ぎ去っていく。おかしい。大樹は思った。これは、幻なのではないのか?
「他の人――つまりボク以外の人には、きみの姿は見えないの?」
「はい。私に気付いてくれたのは、あなたが初めてです」
 心の中で、大樹の思考の奥底で、囁く声。これは幻だ。夢だ。とびきりの妄想だ。
 だが、現実に目の前に少女は立っている。白い肌。冰のように澄んだ瞳。紫色の長髪。純白のワンピース。そして、真紅の翼のように見える、激しい鮮血。眼前の、どれもこれもが現実だった。幻などではなかった。
「きみは、何者なの? どうして、ここに――僕の目の前にいるの?」
 ほとんど錯乱した状態で、大樹は訊いた。語尾が裏返っている。
 俯いたまま、少女は冷たい瞳を地面へと向けていたが、やがて落ち着き払った様子で答えた。
「私は、射水 冷といいます。以前、この建物から飛び降りて死んだ――」

 

○●

「何も……知らない?」
 射水 氷は、無表情なままで呟いた。
 もう、空は夕闇に染まっていた。オレンジ色の日の光が、ラジオ塔の窓ガラスに反射して、大地を赤く染めている。紅葉色に灼けた地面の上、ラジオ塔の正面で瑞穂と氷は二人きりで鼻を突き合わせていた。後ろの方では、緊張した面持ちのゆかりが、瑞穂の背中越しに氷を見つめている。
「うん……でも、何で私が自殺したことになってるんだろう。たしかに、死にたいと思ったことはあるし、そういうデマも流れたけど……」
「デマ……ね。そう……ありがとう」
 一通り『3年前の事件』のことを瑞穂から訊きだした氷は、それだけ言うと、その場を立ち去ろうと背を向けた。
「ちょっと待って」
 瑞穂の声が追いかける。氷は立ち止まり、静かに振り向いた。光が射し込む。眩しさに思わず目を細めた。瑞穂の顔が見える。その整った顔の、瞳の奥に不透明な哀しみが映っていた。
「どうして……あの事件に私が関わっていることを知ってるの?」
「さぁ……」
「答えて。確かに『3年前の事件』は、たくさん報道されたよ。だけど、私の実名までは公表されなかったはず。それなのに、どうして私のことを――」
「言いたくない」
 知らぬ間に瑞穂は前へ一歩踏み込んでいた。表情を変えずに、氷は小さく息をはいた。
「言いたくない……って、それじゃ分からないことだらけだよ。そもそも、氷ちゃん……あなたは何者なの? あのシグレって人は”最高傑作”って言っていたけど、それって――」
 氷は微かに首を横に振り、瑞穂の言葉を制した。何かを諦めたように肩をすくめ、手早く髪を撫でると、瑞穂の瞳を直視した。
 背中で小さくなっているゆかりを後ろ手で宥めながら、瑞穂はごくりと唾を飲み込んだ。氷は語ろうとしている。自分のことを、自分に話そうとしている。水色の髪の毛が、はらはらと揺れた。
「私は、射水 氷――出身地はシマナミタウン。だけどその町は、もうデータ上には存在しない。私も、5年前にデータから姿を消した――そう、5年前に私は死んだ」

 

○●

 忘れもしない、五年前の12月29日。町の人達は、新年を迎える準備を急いでいる頃だった。
 あの時、午後7時47分、私と姉さんは、家で両親と一緒にいた。ケーキが私の前に出てきた、蝋燭に火が灯った。私は息を吸い込んだ。一足早い、私の誕生パーティーを締めくくるために。
「母さん、見て。外……窓の外を見て」
 姉さんが、突然騒ぎ出した。窓の外を指さして、大声で。父も、母も、窓の外を見つめて、驚いていた、吸い込んでいた息を吹きながら、私も窓の外を見つめた。
 オレンジ色に照り光る夜景が見えた。私は立ち上がった。母と父も立ち上がった。姉さんは座り込んだまま、怯えていた。
「姉さん。燃えてるよ。ねぇ、真っ赤に燃えてるよ。火事かな? 本当に凄く燃えてる。なんか、綺麗だよね。すごいよ」
「氷、騒がないの。静かにして」
 母は、そう言いながらも落ち着かない様子だった。私は、座り込んだままの姉さんに寄り添った。
 天井が崩れてきた。あっと言う間の出来事だった。まばたきする暇もなかった。気付いたときには、母の足は破片の下敷きになっていて、父は腹から血を吹き出しながら、その場に突っ伏していた。
 私と姉さんは空を見上げた。崩れた天井の隙間から覗くのは、淡いオレンジ色の炎と、血の色よりも鮮やかな炎が渦巻く様子。炎の奥に、今まで一度も見たことのない奇妙な形の機械が朧気に映っていた。後になって知ったことだけど、それはロケット団の試作型人造巨兵、ウルフェスだった。
 機械頭部のアイセンサーが、私と姉さんの姿を捉えた。姉さんは立ち上がり、私を引きずるようにして外へ出た。私は恐怖した。悪夢の中でさえ見たこともないような現実に恐怖していた。
 燃えている。すべてが燃えていた。辺りの家も、道路も、人々も。倒れた。すべてが崩れた。焼け落ちた。力つきて、炎に灼かれ、事切れていく命。そして悲鳴。
 機械は腕部からレーザー光線を地面へ向けて照射した。光線の照射された跡には、何も残らなかった。続いて、その周りから炎があがった。私は確信した。この機械が、町を燃やしたんだ……と。
「逃げなきゃ……氷、早く逃げなきゃ」
「姉さん。でも、母さんと父さんが……」
 私は、焦る姉さんを余所に、燃えさかる家を見つめた。このまま両親を見捨てたくはなかった。でも、私には何もすることはできなかった――
 機械のレーザー光線が、家を切り裂いた。二つの断末魔の悲鳴が、私の耳に届いた。家は先程よりもさらに激しく燃えていた。やがて、爆発した。
 私は泣き叫んだ。そして、両親の名を叫び続けた。誰も、私の言葉に答えてはくれなかった。
 両親が死んだ時のことは、もう私の記憶にはない。時折、夢の中で思い出すことはあるのに、思いだそうとすると思い出せない。
 ただ、泣きながら走っていたことしか覚えてない。姉さんに叱咤されながら、ぼろぼろになりながら走った。いつしか、炎は見えなくなった。
 命を繋ぎ止め、町から逃げてきた人は、私たちだけではなかった。気がついたときには、数十人が集まっていた。みんな、あの機械に追われていた。緑色をした、奇妙な形の悪魔に。
 そして遂に、私たちは逃げ場を失った。小さな、流れの強い川が、目の前を流れていた。機械はすぐ背後まで迫ってきている。皆、怯えていた。川の中に飛び込む人もいたけど、流されて、消えた。無理もなかった。12月に――冬に川に飛びこんだんだもの。
 機械は私たちの目の前で止まった。人々は息を呑んだ。男の悲鳴が聞こえた。私は声のした方を見つめた。若い女の人の、身体が左右に裂かれている屍体が横たわっていた。血は流れていなかった。焦げ臭いにおいが辺りに漂っていた。機械のレーザー光線で真っ二つにされたのだと、すぐに分かった。
 私は屍体の側に近寄った。屍体は、頭蓋から足まで両断されていた。私のよく知っている人だった。パン屋のお姉さんだった。私は睨み付けた、機械のアイセンサーの部分を。
 高笑いが聞こえた。女の声だった。子供の――女の子の声だった。私は立ち上がった。腕を振り上げて、叫ぼうとした。だけど、その時には、左腕の感覚はもう無かった。灼けるような臭いが鼻をついた。私の腕だけが、女の人の屍体の上に転がっていた。
 痛みは感じなかった。熱いとだけ感じた。誰かが、私の身体を強く抱きしめた。姉さんだった。痛みは感じなかった。立っているのかどうかすら分からなかった。宙に浮いているような感じがした。
 突然の悪寒で目覚めたときには、私は川の中にいた。必死に藻掻いたけれど、片腕だけではどうしようもなかった。水の冷たさが、身体の芯まで浸みてきた。叫いた。意識を保つために、私は必死で叫んだ。
「寒いよ。寒いよ……」
 叫ぶたびに、口の中へ水が入り込んでくる。薄れゆく意識の中で、私は何もできなかった自分を怨んだ。

 あれから、どれほどの時が経ったのかはわからない。
 私は意識を取り戻した。暗い部屋だった。ロケット団の地下秘密基地の一室であると、あとから教えてもらった。
 目の前には、白衣の男が立っていた。あなたも知っている男、シグレ。私はとっさに逃げようとした。でも、身体は動かなかった。シグレは笑いながら言い放った。
「無理だよ。きみの身体は動かない」
「卑怯よ。こんなことするなんて、卑怯よ」
「私は何もしていない。きみの身体が、使い物にならなくなっているだけだ」
 シグレの言葉を聞いて、私は首を回すと、ベッドに横たわる自分の身体を見つめた。左腕は焼き切られていた。残りの四肢は、腐ってでもいるかのように黒ずんでいた。腐臭が鼻に漂った。私は思わず、顔を背けた。その反動で雫が滴った。知らぬ間に、私は泣いていた。喉をひきつらせながら、むせび泣いていた。
「私の身体……どうしちゃったの? 変だよ。ぜんぜん動かないし、変な臭いがするよぉ。でも、痛くないの……どうしちゃったの? 私の身体、おかしくなっちゃったの?」
 無言のまま、シグレは頷いた。男の口の端に、うっすらと笑みが浮かんでいたことを、私は今でも覚えている。
「どうして? それに姉さんは? 姉さんも死んじゃったの?」
「きみの姉さんは無事だ。いま、別の場所で治療を受けている」
「それじゃ私は? 私はどうなるの? この身体はどうなるの?」
「長期にわたって冷たい水に晒されていたキミの身体は、重度の凍傷によって、皮下の筋肉組織や骨組織が完全に壊死し、腐敗した状態になっている。奇跡的にも無事だったのは、内蔵の一部と脳だけだ。キミ、自分の身体を鏡でみてみるかい?」
 私は激しく首を振った。体中が腐敗している――そんな自分の姿など見たくもなかった。
「私……死ぬの?」
「嫌かい?」
「嫌だ。死にたくないよぉ。私、死にたくないよ。なんで……なんで、こんなことになるの――」
「元に戻る方法が――助かる方法が、一つだけある……」
 シグレは言った。私は、泣きはらした醜い顔を、彼へと向けた。
「ただ……そのためには、自分を捨てなければならない。そして、過去を背負わなければならない。それが、生き延びることと引き替えの代償だ。無理強いはしない。別に私は、キミが死ぬことを選んでも、困りはしないから。どちらにしろ、キミは私の実験材料になるのだから――」
「生きたい……死にたくない……こんな、こんな死に方したくないよ……」
 私の目から、大粒の涙が溢れ出た。死にたくない。こんな――こんなに惨めな死に様は晒したくない。ここで死んだら、何のために母と父を見捨てたのか――いろいろな思いが、私の頭の中で交錯していた。そこで導き出された答えは、ひとつだけ。
「死にたくないよぉ。助けて――私を助けて――」

 

○●

 ラジオ塔前のベンチに座りながら、氷は自分の小さな掌を見つめていた。
 辺りは、もう暗くなっていた。街灯の光が、瑞穂の悲しげな表情を照らし出している。ゆかりは、瑞穂の右手を握りしめ、黙り込んだまま俯いていた。
 腕の時計は6時を示ていた。瑞穂はゆっくりと、掌を見続けている氷の横顔を伺った。お互いに、一言も発しなかった。なんと言ったらいいのか、分からなかったのだ。
 淡い色をした三日月が、雲の隙間から顔を出している。氷は顔を上げ、月を眺めた。月の光が、シャワーのように氷の身体を流れていく。眩しそうに目を細め、氷は微かに息をはいた。
 静かだった。少なくとも、3人のいる空間は。そこだけが、別世界のように沈黙に包まれていた。街に溢れるネオンの光も、道路をひっきりなしに駆け抜ける騒音も、瑞穂は感じ取ることができなかった。それほどの衝撃が、彼女の神経を麻痺させていたのだ。
 氷は、瑞穂の顔を見やった。思わず目があった。瑞穂は、今にも泣き出しそうな表情をしている。氷は少しだけ戸惑いを感じ、それを悟られないように、小さな声で呟いた。
「アーボ……」
「え?」
「死滅寸前だった私の身体は、アーボの細胞と融合させることで、再生していった」
「どういうことなん?」
 怯えてでもいるような掠れた声で、ゆかりは訊いた。
「蛇ポケモン・アーボは強力な自己再生能力をもつポケモン。アーボの細胞と融合することで、氷ちゃんの身体に自己再生の能力が備わり、重度の凍傷から回復した――ってことだよ。たぶん。それにしても……人とポケモンの細胞を融合させるなんて――」
「倫理的に許されることではない……と言いたいのね」
 瑞穂は、ハッとしたように氷から目を背け、黙り込んだ。頷くことはできなかった。それは、『今、ここにいる』射水 氷の存在を否定することになるから。
 細い目を瑞穂へと向けながら、氷は掌を前へと突きだした。恐る恐る、瑞穂は彼女の掌を見つめた。
 掌は変色していく。紫色へと。指先が次第に短くなり、パックリと腕が裂けたかと思うと、その先から剥き出された牙があらわれた。氷の腕は、一匹のアーボの頭へと変貌していた。
 ゆかりが小さく悲鳴をあげて、瑞穂の腰に飛びついた。瑞穂はゆかりを抱きしめ、獣の獰猛な顔を直視した。怯え続けるゆかりの横顔をチラリと眺め、氷は瑞穂に向き直った。
「これが……新しい身体を得た代償。私は人間でも、ポケモンでもない存在。人間として普通の生活を送ることも、野生のポケモンとして調和のとれた自然の中で暮らすことも許されない存在」
 哀しげに目線を落として、氷は続けた。
「細胞融合の処置を受け、回復した私は、ロケット団の――組織の中で暮らさなければならなかった。上から作戦の指示があれば、命令されるままに動くしかなかった――そして、あの女が副長をしていた部隊、『影の妖星』に配属された」
「あの女って……一位カヤって人のことだよね」
「そう。私は、あの女の……玩具同然だった。ペットと同じだった。でも、そうなるのは当然だったのかもしれない――」
 脳裏に鮮やかに甦る記憶。体中から滴る鮮血、立ち上がる自分。鞭で打ちつけられ、蹴られ、殴られ――それでも死ぬことのできない苦痛。全身を駆ける電撃。それでもなお続く悪夢、終わることのない苦痛――何度も何度も、嘲罵されながら言い聞かされていた言葉――
「私は、人間ではないのだから――」
「そんなことないよ!」
 瑞穂は首を激しく横に振り、氷のアーボ頭の手を握りしめた。氷は少しばかり驚いた様子をし、身を強張らせている。
 射水 氷が数年ぶりに見せた驚きの表情を、じっと見つめながら瑞穂は何度も首を振った。指先には、強い力がこもっていた。
「氷ちゃんは人間だよ。どんなに他の人と違う身体でも、人間だよ。それに――誰だって普通に暮らす権利がある。誰だって、自分のいるべき場所がある。まだ氷ちゃんは、自分の生き方を、自分のいるべき場所を見つけていないだけだよ。普通に生きることが『許されない』なんて、おかしいよ」
「ウチも……そうやと思う」
 ゆかりが、瑞穂の肩越しに氷を見つめながら、細々と呟いている。
「それに、誰かて、自分がどう生きるべきかを、探しているんやと思う。それは、今から始めても遅くはないで」
「どう、生きるべきか――を探す。姉さんは、それを望んでいたのかもしれない――」
「姉さん――?」瑞穂は訊いた。
「ええ。姉さんも、私と同じように組織の中で育てられた。もっとも、私とは別々の場所だったけど。私が死にそうなほど辛いとき、1人で泣いていると、いつも来て慰めてくれたの。私がこの世で唯一、信頼していた人よ――」
 彼女の言葉を聞き、ゆかりは思わず、瑞穂の横顔を眺めた。瑞穂の肩を握りしめ、背中に顔を押しつける。暖かい。目を閉じ、深く息を吸った。
「その、お姉さんも、細胞融合を――?」
「いいえ。姉さんは、私ほど重傷ではなかったから、細胞融合の処置を受ける必要はなかった。ただ、命令でラッタの細胞を融合されたことはあるけど、失敗した。細胞が融合したにもかかわらず、ラッタの形質が発現しなかったの。でも、そんなことは、もう関係ない。姉さんは――」
 氷の瞳は、明らかに愁いに満ちていた。声を落とし、力なく項垂れているようにも見える。そんな氷の様子に、瑞穂は少しだけ驚いていた。いままで終始、冷静な態度を貫いていた氷が落ち込む様など、想像できなかった。それほどに、辛い過去だったということか――瑞穂の心は沈んだ。
「姉さんと私は、法柿の協力によって、組織からの脱出に成功した――」
「法柿?」
ロケット団員――私たちと同じように、ロケット団によって家族を失った孤児よ。彼は、ロケット団に所属しながら、ずっと私たちを脱出させようと考えていた。ロケット団への復讐のときに、利用するためにね」
 本当にそうなのだろうか? 話しながら氷は考えていた。法柿は、本当に自分達を利用するために、脱出計画を実行したのだろうか?
「脱出のあと、私と姉さんはコガネシティに潜伏していた。でも姉さんは――死んだ。コガネ百貨店の屋上から飛び降りて、死んだ」
 瑞穂は可愛らしい顔を、痛々しげに歪めた。氷は細い目の奥に、光るものが映った。いつしか氷の腕は、元の細々とした少女のものに戻っていた。言葉遣いすら、幼子のものに変わっていた。
「――姉さん、酷いよ。私だけ、置いてきぼりにするなんて……私だけ、苦しめるなんて……信じてたのに、ずるいよ。卑怯だよぅ……姉さんのバカ――」
 氷は倒れるようにして、瑞穂の胸に頭を押しつけた。涙声だった。震える声で呟き続けていた。瑞穂は、嗚咽する氷の身体を抱きしめるだけで、何も言えなかった。
 月の光が冷たく照らす。哀しみに満ちた、少女の姿を――

 

○●

「遅れて、ごめん! ちょっと、事故に巻き込まれちゃったんだ……」
 大樹は頭をかきながら、瑞穂に向かって頭を下げた。瑞穂は何も言わなかった。大樹は背中に脂汗が浮いてくるのを感じた。……もしかして、瑞穂ちゃん、怒ってる?
 チラと横を向き、瑞穂は驚いたように目を見開いた。
「あ、大樹……くん?」
「え? あ、うん。久しぶり。大樹――塚本大樹だよ」
 怒ってはいないようだった。それどころか、魂が抜けたかのような、気落ちした表情をしている。大樹は心配になって、訊いてみた。
「どうしたの? 元気、ないみたいだけど」
「そう……かな。でも、大樹くんも、なんだか青ざめた顔してるよ?」
 大樹はドキリとした。動揺を隠すようにして、あたふたと辺りを見回すと、少女の姿が見えた。紫色の髪をしている。泣きはらしたような赤い目を擦りながら、上目づかいに大樹の方を睨んでいる。静止し、少女の姿を見据えた。声が出なかった。突然、逃げ出したい衝動に駆られた。
 立ちすくむ大樹を尻目に、氷は静かに立ち上がった。
「私、帰る。なんだか、今日は調子が悪い――普段は、こんなことしないのに――」
「うん」
 氷は背を向け、コガネシティの闇の中へと消えていく。
 しだいにぼやけていく少女の後ろ姿を眺めながら、複雑な思いで大樹は考えを巡らせた。――もしかして、あの子が射水 氷――?
「今の女の子は?」
射水 氷ちゃん。いろいろ――大変みたいなの」
「そうだろうね……」
「え? なんで、大樹くんが――」
 大樹は慌てたように手を振った。
「いや、なんでもないよ」
 大きく息をはいて、瑞穂は、完全に寝入っているゆかりを抱き起こした。つとめて明るい声を出し、大樹の顔を見上げた。
「それじゃ、行こうよ」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。