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ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#10-1

#10 過去。
  1.霞んだ記憶

 

 遠い、深い夢を見ていたような気がする。 
 現実――血生臭い惨劇――に疲れ果てたのだろうか。 
 『死』というものを意識したのは、もう何回目なのだろう。考える度に、足下から善もなく悪もない影が忍び寄ってくる―― 
 それは恐怖。こわいよ。私は死にたくないよ、という危険信号。 
 心の奥底で、浅はかな本能が叫んだ。――私は、死にたくない。 
 これは『隔離』なのだ。 
 死――自分の終わり――を、はっきりと意識したとき、人間は現実が見えなくなる。そして狂うのだ。叫ぶのだ。理性を失った獣となるのだ。誰でも、死ぬのは怖いから―― 
 『死』という『現実』から、自分の意識を隔離するのだ。 
 そして今、洲先瑞穂の意識は夢の中にあった。いや、そう感じるだけだ。これは夢なんだ。そう自分に言い聞かせているだけだ。 
 腹部に信じられないほどの激痛が走っていた。口から滴る液体は唾液ではなかった。血だった。瑞穂の掌を、口から吐いた血が鮮やかに彩っていた。 
 ――綺麗だなぁ―― 
 意識の消えゆく刹那、瑞穂は思った。 
 これは夢だ。夢に違いない。だから言えた。これは夢だから。痛くても、本当――つまり現実で――は痛くないから。 
「よかった……ユユちゃんが無事で……よかった……」 
 泣き叫ぶ、ゆかりの頬を見つめた。触れる。冷たかった。涙で濡れていた。その、ゆかりの首筋に……何か見える。小さな文字が刻まれている。 
 『sl/Hsf132-0s(y)』 
 なんだろう、これは――

 

○●

 白いベッド上で瑞穂は眠っていた。 
 純白な肌が時折、微かに動くことで、辛うじて生きているように見える。そうでなければ精巧にできた人形と見紛ってしまいそうだ。 
 ゆかりは沈鬱な面持ちで、瑞穂の寝顔を眺めていた。顔色が悪い。思い詰めているのだろうか。こうなったのは自分のせいだ、と。 
 開けっ放しの窓に据え付けられたカーテンが風に揺られて、静止したかのように静かな、部屋の空気を押し揺るがしている。稀に窓から覗く夜景は、今のゆかりの心を映しだしているかのようだ。 
 純黒の空。星も月も輝かず、コガネシティは闇に堕ちている―― 
 その時、音がした。ゆかりは眼を見張った。カサリ、と硬そうな布団が波打った。 
 細々とした寝言が途切れる。呆然とゆかりが見つめる目の前で、瑞穂は半身を起こしていた。可愛げな欠伸をして、まぶたに溜まった涙を拭う。 
「お姉ちゃん」 
 ゆかりは上の空の意識で呟いた。瑞穂は、ゆかりを見た。 
 沈黙が来た。だが、重苦しいものではない。お互いの『生』を確かめあうための沈黙なのだ。 
「お姉ちゃん……!」 
 俯いて、ゆかりは、べそをかきはじめた。泣きはらして赤くなった頬を涙が伝う。小さな部屋の灯りに照らされて、涙は輝いていた。 
 星のようだ。夜空を流れる流星よりも綺麗だな―― 
 そんなことを思いながら、瑞穂はゆかりの手をとった。瑞穂の掌は雪のように白い。 
「ユユちゃん。無事でよかった。ほんとに、よかった」 
 ゆかりは、瑞穂の手を握りしめた。数滴、涙が落ちた。 
「お姉ちゃん、アホや。ウチのことなんかより、自分の身体を心配してや……。ごめんやけど。ちゅうか、ごめんなさい……。ウチが勝手なことしたから、お姉ちゃんが、こんなことに……」 
「無理してなかったつもりだったんだけどね……。昔から私、よく言われてたの。あんたは気付かない内に無理をしてるから気をつけろ、って。その通りになっちゃった」 
 穏やかに瑞穂は微笑んだ。その微笑みの先に『死』があると思うと、ゆかりはやるせない気持ちに包まれた。 
「ところで、ここ、どこ?」 
 瑞穂は辺りを見回しながら訊いた。白い壁、白いベッド、白いカーテン。視界に入ってくるもの、すべてが白い。まるで、部屋全体が外の闇を恐れてでもいるかのような感じがした。 
 ゆかりは溜息をついた。安堵と、不安が入り混じっている。 
「病院や。コガネ中央病院の308番室やで。お姉ちゃん、血を吐いて運ばれてきたんや。ホンマにビックリしたで、いきなりぎょうさん、血を吐くんやもん」 
「病院、か……。そうだよね。そうだよ、夢なわけないもんね……」 
「ノゾミお姉ちゃんは、『ないぞうが傷ついただけで、たいしたことない』って言うとった。そんでな『ないぞうよりも、心ぞうのほうがしんぱい』なんや、って」 
「うん。明日、望ちゃんに詳しいことを訊いてみる」 
 瑞穂はベッドの上に横になった。ゆかりは、瑞穂の体を見つめた。こうしてみると、瑞穂がひどく弱々しく見える。微動だにしない。これでは、本当に人形と間違えてもしかたがない。 
 作り物のように可愛らしい瑞穂の顔が、天井を向いていた。遠い、何かを見ているような目つきだった。思い出か、思い出したくない過去か。 
「お姉ちゃん」 
「ユユちゃん」 
 2人の言葉は、タイミングを合わせたように同時に発せられた。 
「あ、あの、お姉ちゃん。訊きたいことがあるんやけど」 
「私は、ユユちゃんに言いたかったことがあるの……」 
 躊躇いがちに、ゆかりは布団に手をかけた。硬かったが、瑞穂の暖かみが感じられた。 
「一緒に、ここで寝てもええかな……?」 
「うん。いいよ」 
 並ぶようにして、同じベッドに2人は横になった。 
 瑞穂が目を閉じる。ゆかりも、それに倣った。眠ったわけではない。視界を閉ざしただけだ。2人だけで語り合うのに、部屋の灯りも、簡素な白い天井も不要だからだ。 
「お姉ちゃん……病院の院長さんの、娘なんやってね……」 
 目を閉じたまま、ゆかりは訊いた。 
 瑞穂は驚いたようだった。慌てているようでもあった。声を聞けば、それがわかる。 
「知ってたんだ……。あの事件のこと、お姉さんのこと、私のことも」 
「詳しくは知らへん。だから、訊いてるんや」 
 軽く、瑞穂は息を吐いているようだ。息づかいが聞こえてくる。 
「そうだよ。私は、トキワ・洲先クリニックの院長だった、洲先祐司の娘。洲先クリニックは、3年前の不整脈用剤点滴混入事件のあった病院なのは知ってるみたいだね。その事件で、ユユちゃんのお姉さんが、亡くなったことも――」 
「お姉ちゃん。そのこと、最初から――ウチと始めて逢ったときから――知ってたんやな?」 
 ゆかりの問いに、瑞穂は目を閉じながら首を横に振った。 
「え……知らなかったよ」 
「嘘や。お姉ちゃん、事件で死んだんがウチの姉ちゃんや、って知っとったから、ウチのお姉ちゃんになってくれたんやろ? 罪ほろぼしのために……」 
「それは誤解だよ。昨日、始めて知ったんだから。ユユちゃんのお姉さんが、ほたるちゃんだったってことに――」 
「え?」ゆかりの声は、驚きを帯びていた。「なんや。姉ちゃんの名前まで知ってるん?」 
 目を閉じたまま、瑞穂は手を伸ばした。灯りの紐を引く。電灯が消えた。白一色だった部屋も、光がなければ、ただ闇に沈むだけ―― 
 闇を祓うように、瑞穂の白い掌が、ゆかりの頬を優しく撫でた。温かい。 
 ゆかりは、瑞穂の細く華奢な体躯を抱きしめた。細々とした胸の鼓動が聞こえる。 
「知ってるよ。ほたるちゃん――つまりユユちゃんのお姉さんのこと、よく知ってる」 
「なんでなん? なんぼなんでも、あの事件で死んだ人、全員の名前を覚えてるわけないやろ?」 
 無言のまま時が過ぎた。カーテンのはためく音だけが、辺りに溶けこんでいく。 
「覚えてるよ。だって私は、あの事件の唯一の生き残りだもの」 
 瑞穂は切なげに、胸の奥に隠したはずの苦しみを再び直視しているかのような、悲しそうな声で呟いた。 
「もう、あの事件から3年も経つんだね――」

 

○●

 冬は終わろうとしていた。春は目前まで迫ってきている。 
 トキワシティ、洲先クリニックの病室の窓から、瑞穂は見上げた。透けるような晩冬の空を。空を覆っていた雪は溶け、風は厳しさを緩め、葉を失った木々には、小さな新しい緑が見える。 
 思わず、瑞穂は溜息をついた。 
 ――もう、入院してから、何日経ったのだろうか。恐ろしく長い時間のような感覚だったが、まだ3日しか経っていない。乾いた空気の病室で、寂しさが、心の奥から膨らんでくるのがよくわかった。 
 胸は、まだ痛む。締めつけるような苦しさが、不安と寂しさを、なおさら大きくするのだ。 
 ――このまま、私は死ぬのかな。 
 父は言っていた。お前が助かるためには、心臓を移植するしかないんだよ、と。 
 生まれつき、心臓は悪かった。それはお母さんからの遺伝だ、と父からも聞かされた。助かるためには、心臓を移植するしかないんだ――助からなかったら、私は死ぬんだ。 
 瑞穂は、窓から視線をそらした。寒々とした空が、心にまで凍みてきたのだ。 
 ふと、枕元に目をやった。指輪が一つ置いてある。拾い上げ、瑞穂は見つめる。透けるように蒼く輝く宝石の埋め込まれた指輪だ。ヒメグマフシギダネがくれたものだった。入院のため、家を出ようとしたときに、お守りとして手渡してくれたのだ。家を離れる、不安と心細さから、啜り泣く瑞穂の掌に、こっそりと――内緒だよ――って。 
 どこかから拾ってきたのだろうか。落とし物かもしれない。じっくりと、瑞穂は見つめた。裏側には、空翠と書かれていた。空翠――人の名前だろうか―― 
 指輪を眺めているうちに、どういうわけか悲しくなってきた。心が、沈み込んでいく。ヒメちゃんに、ダネちゃん。大樹くんに、望ちゃんに――逢いたいよ。寂しいよ。寂しいよ。独りぼっちは嫌だよ――おうちに帰りたいよ。 
 その想いは、涙となって、澄んだ瞳からこぼれた。一筋、二筋――とどめなく流れ落ちた。 
「悲しいの?」 
 声は訊いた。瑞穂は、涙を慌てて拭い、声の方を向いた。 
 隣のベッドで横になっている、女の子だった。肩まで伸びた黒髪に、小麦色の肌をしている。足にはギブスがしてある。ケガをして、ここに入院している患者なのだろう。活発そうな印象を受けたが、どこかおっとりとした話し方をする女の子だった。 
「悲しくなかったら、泣かないよ。寂しいから、泣くんだもん――」 
 嗚咽しながら、瑞穂は呟いた。どこか悲しげに瑞穂を見つめながら、女の子は呟いた。 
「寂しいよね……私も、寂しい。家族と離れていなくちゃいけないなんて。でもさ、そんな風に、いぢいぢ泣くのはよくないよ。泣くんだったら、泣いた後に、笑えるようじゃなきゃ」 
「泣いた後、笑う?」不思議そうに、瑞穂は小首を傾げた。 
「だって悲しみや、寂しさを振り払うために、人は泣くんだもの。泣いた後、笑えなきゃ、泣く意味なんてないよ?」 
 微かに、瑞穂は微笑みを浮かべた。ほんの微かな――「変なの。でも、そうだよね」 
「わかってくれた? ……ところで、あなた名前は?」 
「瑞穂――洲先瑞穂っていうの。瑞々しいの『みず』に、稲穂の『ほ』って書いて」 
 女の子は、小さく欠伸をした。目を擦りながら、瑞穂に笑いかける。 
「私は、ほたる。百合ほたる。漢字の『蛍』じゃなくて、ひらがなで『ほたる』。それにしても、洲先だなんて妙な名字だね――って、あれ? たしかこの病院も……」 
 頭に手を当て、ほたるは考えるような素振りを見せる。すかさず、瑞穂は付け加えた。 
「あ、この病院の院長が、私のパパなの」 
 ほたるは驚いたように、眼を見開いた。 
「へぇ、そうなんだ。でもさ、それだったら、こんな――って言ったらなんだけど、大部屋じゃなくて、もっと高級な個室にしたらよかったのに。瑞穂ちゃんの父さん、融通がきかないタイプ?」 
「そうじゃなくて、私が『特別扱いはしないで』って頼んだの。パパは、かなり厳しい人だけど、こういうときだけは優しくて『いいのか? うちの病院の飯はまずいぞ』って、自分の病院なのに――」 
「厳しい、ってどのくらい?」 
「3年前、学校で苛められるのが嫌で家出したら、竹刀でお尻、100回くらい叩かれた。顔を真っ赤にして『男なら逃げるな』だって。私、女なのに――」 
「そりゃ、ひどい」と、ほたるは痛そうに顔を歪めた。 
「キレちゃったら、見境がなくなっちゃうの。まぁ、私もそうなんだけど……。その後パパ、学校に殴り込みに行って、いろいろあって、結局、私は退学処分」 
「あらら……」 
 瑞穂は、にこやかに笑ってみせた。ほたるも、つられて笑い出した。 
 この病院で、一緒に笑うことのできる友達ができた――それは嬉しいことであり、思わぬ転機でもあった。だが、それは予測もできない終わり方を迎えることになるのだが――

「心疾患?」 
 ほたると親しくなってから数日後、瑞穂は自分を蝕んでいた病の名を打ち明けた。明日に控えた手術が、不安でたまらなかった。だから、誰かに聞いて欲しかったのだ。 
 慰めなんていらない。ただ、聞いて欲しかっただけ―― 
「うん。心臓がね、突然止まっちゃう病気なの。遺伝性らしいんだけど……」 
「遺伝性……」 
「そうなの。だから、私のママも、私を生んだ直後に心臓が止まって死んじゃった――」 
 風が吹いた。思いのほか、冷たい風だった。冬が戻ってきたかのようだった。北風は、瑞穂に囁いていた。 
 ――忘れ物をした。お前の命を、お前の魂を―― 
 北風が窓から吹く度に、瑞穂は怯えた。――忘れ物をした。お前の魂を奪うのを忘れていた―― 
 追いかけてくる。死の影は、確実に、瑞穂の足下に忍び寄ってきていた。 
 あの日も、風は冷たかった。瑞穂が、倒れた日だ。大学の道場で剣道の稽古をしていたときだった。風が振り下ろした竹刀に触れた。そして突然、胸元を締めつけられたような痛みが走った。胸を押さえた。地面が音をたてた。倒れたのだ。呻いた。誰かが近寄ってきた。盛んに話しかけてくる。瑞穂は呻くだけだ。意識が遠いものになっていった。だが、痛みだけは、いつまでも瑞穂の胸に居座り、消えることはなかった―― 
 今でも、あの時のことを思い出すたびに、瑞穂は額に冷たい汗を浮かべる。 
「どうしたの瑞穂ちゃん。顔色、悪いよ?」 
 ほたるは心配そうに語りかけた。我に返り、瑞穂は蒼白のまま、首を横に振った。その動きに呼応するかのように、北風は病室に渦巻く。瑞穂のツインテールの髪が、風に吹かれて揺れた。 
「大丈夫。でも、やっぱり怖い。だめ、怖いよ。私、もう――」 
「元気だしなよ。そん気持ちじゃダメだよ。……ところで、手術って、どんな手術なの?」 
 いくらか顔色を元に戻して、瑞穂は答えた。 
「心臓移植」 
「移植?」 
 ほたるは青ざめた。小麦色に焼けた頬が、瞬時に蒼白に変わった。瑞穂の手術の病状の重大さに、いまさらながらに気付いたからだろうか。 
 ほたるの様子には気付かずに、瑞穂は俯いた。もうだめだよ、私――死んじゃうよ。死にたくないよ―― 
 じっと、ほたるは瑞穂を見つめている。真摯な眼差しだった。瑞穂は目をそらしたかった。だが、動くことが出来ない。目をそらしたら、逃げたことになるから。 
 風は凪いでいた。瑞穂は窓の外を横目で見やった。薄暗く悲しげな空が、瞳に映る。 
 ほたるは、できる限り元気な声を出した。 
「そう……なんだ……。大丈夫だよ。きっと手術は成功するよ」 
「ありがとう、ほたるちゃん。ほんとに、ありがとう――」 
 そして、瑞穂の手術の日がやってきた。手術の直前。冷たく白い瑞穂の拳を握りしめ、ほたるは言った。 
「帰ってきてね。約束だよ」――掌は離れた。だが、ほたるの柔らかい感触は残っていた。やがて、麻酔によって薄れる意識の中で、瑞穂は呟いた。誰にも聞き取れないような小さな声で、「負けない……絶対に私は――」 
 6時間にも及ぶ、大手術だった。いつしか、ほたるは眠っていた。 
 そして、時は流れた―― 
 長い時だった。まるで数ヶ月も経ってしまったような感覚がした。冬が終わり、春がやってきた。桜の花はつぼみを付け、風も温かくなった。 
 ほたるは待ち続けた。毎朝起きると、すぐに隣のベッドを確認した。誰もいない、白いベッドがあるだけだったが、それでも、ほたるは待ち続けた。瑞穂の帰ってくる日を。 
 そして、瑞穂が手術をうけた日から、一週間が経った。 
 温かい春風の感触が、ほたるの体を撫でるように吹いていた。ほたるは目覚めた。上体を起こし、いつものように、窓を見つめた。目を擦り、呟く。 
「瑞穂ちゃん――」 
 横のベッドには、静かな寝息をたてる、瑞穂の姿があった。瑞穂は、帰ってきたのだ。死の影を、振り払ったのだ。 
 ほたるの声に気付いて、瑞穂は目を見開いた。そして横になったまま、ほたるを見つめ、微笑んだ。 
「瑞穂ちゃん。成功……したんだね? 心臓移植の手術」ほたるは訊いた。 
「うん」 
 明るく瑞穂は頷いた。ほたるは瑞穂の手を握りしめながら、喜んでいる。 
「よかったね瑞穂ちゃん。退院したら、一緒に遊ぼうよ。私、妹がいるんだ……」 
「ほたるちゃん、妹がいたんだ。羨ましいな……私、一人っ子だから。腹違いのお姉さんはいるけど、ほとんど会ったことないし……」 
「だから、一緒に遊ぼうよ。私の妹、ちょっと生意気だけどね」 
 そう言って、ほたるは笑った。瑞穂も微笑む。瑞穂とほたるの笑いに誘われたかのように、温かい風が部屋を包んだ。 
 だが、その時だった。 
 せっかくの暖かい風と、和やかな雰囲気を吹き飛ばすような不気味な視線に、瑞穂は気付いた。病室の入り口に隠れながら、何者かが、じっと瑞穂とほたるを見つめているのだ。 
 思わず瑞穂は振り向いた。そして、思いがけない相手の姿に、息を呑んだ。 
 ショートカットの髪をした女の子だった。女の子は病室のドアの影から、瑞穂達の様子を伺っていたのだ。 
 瑞穂に見つめられ、怯えたようにショートカットヘアの女の子は、首をすくめた。紫色のショートカットの髪が、はらりと揺れている。 
 そして、目があった。女の子の不思議な瞳に、瑞穂は見入っていた。水晶のように澄んだ瞳をしている。だが、その奥に怯えがあった。少なくとも瑞穂には、それがわかった。 
 怯えている。何に怯えているの? 私にはわかる。この子は怯えている。私も、昔は怯えていたから。苛められて、怯えながら暮らしていたから―― 
 女の子は後ずさっていた。怯えに負けないようにするためか、拳を強く握りしめている。 
 いつしか瑞穂は、自分が睨まれていることに気付いた。女の子は、瑞穂を睨み付けていたのだ。 
(どうして、私のこと睨むの?) 
 呟きながら、瑞穂には、なんとなく女の子の気持ちがわかっていた。――怖いんだ、あの子、私のことが。怖いから、睨み付けなきゃ、怖さに負けてしまいそうになるんだ―― 
「どうしたの? 瑞穂ちゃん」 
 ほたるが瑞穂の顔を覗き込みながら、訊いてきた。小さく首を横に振り、瑞穂は「なんでもないよ」と答えた。再び、病室の入り口の方を見つめたが、女の子の姿は、もうなかった。 
 瑞穂は小首を傾げながら横になると、ほたると一緒におしゃべりを続けた。 
 しばらくして、看護婦が点滴のために、病室に入ってきた。栄養補給のための点滴の針を腕に刺してもらうと、瑞穂は目を閉じる。 
 頭の中がぼんやりとしてきた。朦朧とした意識の中で、呻き声のような音が聞こえてきた。なんだろう。瑞穂は身を起こそうとしたが、その身体は動かなかった。まるで全ての感覚が停止したような感じが襲ってくる。胸の奥で、新しい心臓が激しく鼓動した。 
 耐えかねて目を見開く。体中に汗が浮いているのに気付いた。白い筈の天井が、真っ赤に染まっている。水槽の中の金魚のようにパクパクと口を開閉させ、喘ぎ続ける瑞穂の耳には、自分の名を呼び続ける医師の声が反響していた。 
 苦しい―― 
 思わず瑞穂は呟いていた。だが、その声は風に浚われ、虚しく消えた。

 悪夢のような『トキワ総合病院・薬物混入事件』から、3週間が経過した。 
 熱狂したマスコミの過剰報道は終息するどころか、さらに加熱する様相を呈していた。10人以上もの死者をだし、20人以上の人間が脳や心臓に後遺症害を被ったという事件の重大さを考えれば当然なのだが、その報道の方向性は、いささか常軌を逸するものになりつつあった。犯行に使用された薬物が、病院から盗まれたものであると発覚したからだ。 
 事件の舞台となったトキワ洲先クリニックは、世間から非難の目で見られながらも、未だに存在していた。もっとも、それは事件の後処理が残っていたからであり、もはや閉院は免れない状態にあった。 
 暖かい春風とは対照的な薄暗い病室で、瑞穂は赤く泣きはらした眼をベッドへと向けている。口に手を当て、怯えたように震えながら、ベッドの上の少女を見つめていた。 
「ほたるちゃん――」 
 少女、ほたるは瑞穂の蒼白な顔を見つめて、笑った。微笑み返す気持ちが、瑞穂にあるはずがなかった。ただ、黙って沈黙していた。 
 虚ろな瞳で、ほたるは辺りを見回していた。ひきつった口許から、涎が滴っている。糸を引いて、ぎらぎらと不気味に涎は光っていた。 
 瑞穂は後ずさった。俯いて肩を小刻みに震わせている。涙が頬を伝って、床へと落ちていく。押し殺したような嗚咽が漏れた。 
 ほたるは窓の外を見つめていたが、突然、奇声を発し始めた。猿のように叫き散らしながら、瑞穂を睨み付けていた。不意に、罪の意識を瑞穂は感じた。それほどに、ほたるの瞳には恨みがこもっていた。 
 周りにいた大人達は項垂れながら、口々に呟いている。 
「もう、だめだな」 
 そんな囁きが聞こえる度に、瑞穂は萎縮したように肩を落とし、震える拳を握りなおした。 
 泣き続ける瑞穂の肩に、父親は手をかけた。促されて、瑞穂は病室を後にした。だが、瞼の裏には、狂ったほたるの形相が焼きついており、消えることはなかった。 
 百合ほたるは、既に自我を失っていた。記憶も、意識も薬物によって掻き消されていた。獣同然となった、ほたるの脳には、『自分』を破壊した者に対する憎悪と、同じ事故に遭いながらも『自分』を失わなかった瑞穂に対する嫉妬が、怨念となって残されているだけだった。 
 瑞穂は苦しんだ。夜になりベッドに潜り込むたび、ほたるの奇声が、曳光騨のように尾を引いて戻ってくるのだ。瞼を閉じれば、ほたるの恨みの瞳が、じっと見つめているのだ。自分も気が狂ってしまうのではないか。それほどまでに、瑞穂は恐怖した。 
 涙目で飛び起きても、助けてくれる人は誰もいなかった。足下に、投石によって砕け散った窓ガラスの破片が散乱しているだけだった。鮮血に染まった素足を眺めながら、瑞穂は譫言のように呟いていた。 
「死にたい。もう死んだ方が、いい――」 
 外から男の声で罵声が響いた。続いて、割れた窓から石が飛び込んできた。瑞穂に避ける暇はなかった。石は瑞穂の脇腹に直撃した。苦痛に顔を歪め、ベッドの上に蹲る。他にも2、3個、石が投げられてきた。 
 脇腹を押さえながら、瑞穂は窓を見つめた。窓の奥に終わりのない闇が映った。 
 永久に続く、心の闇が。

 

○●

「それから一年後、ほたるちゃんは亡くなったの」 
 目を閉じたまま、瑞穂は言った。その口調は、どこか切なげだった。ゆかりはゆっくりと目を開き、暗がりに沈む瑞穂の横顔を、沈鬱な面持ちで見つめた。 
 二人とも、泣いてはいなかった。泣くには、時が経ちすぎたのか。それとも、あまりに急いで話したので、実感が湧いてこないだけなのか。それはわからない。ただ、ひどく寒々とした気持ちが、お互いの胸の奥でうずいていた。 
 自分の内にある傷をえぐりだすかのような痛々しさを感じさせる口調で、瑞穂は続ける。 
「ほたるちゃんのお父さんが――つまりユユちゃんのお父さんなんだけど――アルコール中毒で錯乱状態になって、その勢いで、ほたるちゃんの首を絞めて殺したの――」 
「そやったんか……」 
 ゆかりは目を閉じた。瑞穂の暖かい手を握り、寄り添う。自分でも驚くほどに冷静だった。涙がこみ上げてこないのが不思議だった。 
 震える声で、瑞穂は言った。 
「ユユちゃん」 
「ん?」 
「ごめん」 
「なんで、お姉ちゃんが謝るん? そんな必要ないやん。お姉ちゃんは、なんも悪くないやん。お姉ちゃんかて、辛い思いしたんやろ? なんでウチなんかに謝らなあかんの――」 
 不意に泣きたくなって、ゆかりは黙り込んだ。涙を流さないように、口もとに力を込める。胸の辺りが、痺れるような痛みに包まれていた。 
 瑞穂は何も言わなかった。抱きかかえるように、ゆかりの背中に手を回した。胸の辺りに、ゆかりのすすり泣く音が響いている。 
「知らない方が良かった。何も知らん方が良かったわ。何も聞かんで、今まで通り、お姉ちゃんと一緒にいれば良かったんや。そやったら、こんな悲しい気持ちにならんで済んだのに、こんな泣かんでもよかったのに――」 
「そうだね――私も、ここまで言うべきじゃなかった。言いたくなかった。ユユちゃんには、何も知らずに、これからのことだけを見ていて欲しかった。このことで、ユユちゃんの悲しみを繰り返させるようなことはしたくなかった。でもね――」 
「でも……なんやの?」 
「傷つくことを恐れたら、何もできないし、何もかも知らないままで終わっちゃう。そんなの、私は嫌だな。だって人間は、傷ついて、その傷を自分の力で克服するたびに成長するんだと思うの。生まれてから、一度も傷ついたことのない人なんて、本当にいたら気持ち悪いよ。」 
 胸の中で、ゆかりが小さく頷いた。何度も何度も、自分に言い聞かせるように。 
「今日はありがとうな。助けてくれて……。お姉ちゃんの言いたいこと、ようわかる。ウチ……絶対、乗り切ってみせるで。姉ちゃんのこと……父さんのこと、母さんのこと、冬我兄ちゃんのこと……乗り切ってみせる……」 
 ゆかりの涙声は、やがて細々とした寝息となった。水たまりを行き交う波紋のように、静かな部屋に広がっていく。瑞穂は、ゆかりからゆっくりと手を離し、カーテンの隙間から覗く夜の闇を眺めた。 
 傷つくことを恐れたら何もできない――私は、何を『知ろう』としているんだろう。 
 眠気で、ぼんやりとした意識の中で、瑞穂は考えていた。自分の知るべきことを。未だに自分の中に残る『傷』の真実を。『傷つく』という代償を払い、『知る』ことの果てに何も残らないかもしれないのに、どうしてこうも惹かれるのだろうか。 
 パパ――父さん――お父さんは、どうして私の前から消えたの? どうして逃げる必要があったの? そもそも、『どうして、あんな事件が起こったの?』 
 それだけではない。紫色の髪をした、射水 氷という少女。特殊な装置を埋め込まれたナゾノクサ。謎の力をもったグライガー。 
 今、どこにいるの? 私は知りたい。知らなければならない。どんなに傷つこうとも、あの事件の真実を知りたい―― 
 白いベッドの上で、二人の少女が眠っている。1人は辛い過去を乗り越えるための、もう1人は辛い過去の真実を知るための決意に満ちていた。 
 たとえ、どんなに傷つこうとも、自分が自分であるかぎり、その傷を乗り越えることができると信じながら。乗り越えなければならないと、自分に誓いながら。

 

○●

 

 

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。