水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#11-1

#11 幻牙。
  1.黒い霧雨

 

 黒い手が、そこまで迫っていた。
 霧状の闇が、背後で、邪悪な笑みを浮かべながら集まっている。光を閉ざす狭く高い森の奥に、普通ではあり得ない特殊な力が満ちている。
 細々と輝く月の光をものともせず、影は身体を取り戻した。集結していく霧の中で、新しい身体は膨らんでいく。時間と共に失ったはずの、闇を纏った実体が。
 目を見開く。瞬時のうちに。血のように赤い、海の底のように妖しい色をした瞳。狡猾さを隠すことのないそれは、独りの女性を見つめていた。
 どこにでもいそうな普通の女性だった。おそらくポケモントレーナーなのだろう。肩には進化ポケモンイーブイが、ちょこんと乗っている。
 影は身を起こした。口を開く。鋭い牙が黒く光っている。身の回りに漂っている黒い霧を吸い込む。影が、大きく膨らんでいく。やがて影は空を覆い、月の光を掻き消した。
 異変に気付いて、女性は振り向いた。目の前では、不気味に蠢く黒い影が、その瞳が、女性の姿を捉えている。
 自分を狙っているんだ。女性はすぐに身の危険を感じた。首筋に、生温い汗が滲む。イーブイは女性の肩から飛び降り、影を睨みながら、牽制でもするかのように唸っている。
「なに……これ……?」
 一歩後ずさる。湿った地面の柔らかい感触が、恐怖をさらに身近に感じさせる。これは現実だと。決して幻などではない、本当の闇であると。
 影は口を大きく開いている。今にも、女性を飲み込んでしまうほどに。その奥にはピンク色の舌が、うねうねと気味悪く動いている。
「ブイちゃん。逃げよ」
 唸り続けるイーブイを抱きかかえ、彼女は影に背を向け全力で走り出した。辺りに生い茂る草を必死でかき分ける。足音は止まらない。息が弾む。それでも彼女は止まらない。
 不意に彼女は倒れた。何かが足に引っかかったのだ。しかも転んだ拍子に膝を擦り剥いたらしく、血が滲んでいる。ゆっくりと起きあがり額の汗を拭うと、彼女は足もとを見やった。
 腕だった。黒い腕。地面に広がる影から、伸びるようにして彼女の足を掴んでいる。女性は目を剥いた。そして悟った。逃げられないと。
 この森の影すべてが、あの化け物の一部なのだから。どこまで逃げても、逃げられるはずがないのだ。自分の足下から黒い影が伸びている限り――夜が続く限り。
 腕が伸びた。黒い地面に真っ赤な瞳が開いた。見つめる。獲物の姿をじっと見つめる。口を開く。鋭い牙が見える。
 女性は胸に抱いたイーブイを庇うようにして影と向かい合った。もう、逃げることはできない。逃げる気力すらなかった。呆けたように、空の月を見上げ、涙を流しながら笑うしかなかった。なぜ笑うのか。恐怖に苛まれていたはずなのに、どうして笑うことができるのか。そこまで彼女は考えることができなくなっていた。
 黒い影の罠――催眠術にすでに彼女はかかっていたのだから。恐怖で我を失った人間の心を弄ることなど、影にとっては造作もないことなのだから。
 夜明けまで、彼女の笑い――悲鳴は途切れることはなかった。

 

○●

「目が覚めたか?」
 声が聞こえる。目を開く。朧気な景色が、時間と共にはっきりと見えてくる。声の主――老人は『彼』の方を見据えながら、話していた。
「不思議なものだ……おまえはあれから、ずっと眠っていたんだぞ。そして、ずっと夢を見ていた。勝手に覗かせてもらったよ。あの事件の夢を見ていたのはわかっているんだ。それにしても非道い……あれは本当に非道い事件だったな」
 手に持ったライターをつける。赤々と燃えさかる小さな炎。彼の瞳が、大きく見開かれた。
「忘れるな……あの時の理不尽さを忘れるな。悔しさを、憎しみを、恨みを――忘れるな。それが、おまえの力となるのだから……」
 老人が話し終えないうちに、彼は立ち上がった。何故かはわからない。ただ、なんとなく聞こえるのだ。立ち上がれ、と……自分の声が。
「どこに行くんだ?」
 年齢のせいで掠れてしまった老人の声は、既に彼には聞こえていなかった。歩き出す。声の示す先へ。そこで、自分の探していたものが見つけられるような気がしたから。
 老人は、彼の後ろ姿を眺めていた。止めても無駄なことを承知しているかのように。
「おまえも……彼女も……もう死んだんだ。どこを探しても、見つかる筈がないのに――」
 咳き込む。老人は諦めたように首を振り、しわがれた声で、いつまでも嘆いていた。

 

○●


 カーテンが風に吹かれてはためいている。塚本大樹は立ち上がり、音をたてないようにゆっくりと窓を閉めた。偶然にも見上げた先に月が見える。細々として、弱々しい光を放つ月。それと共に浮かび上がる、鮮烈なイメージ。
(妹は、いつも月を眺めていました。哀しいときも、哀しいときも、哀しいときも……)
「おいおい、なにボーッとしてんだよ?」
 職場、コガネポケモン研究所の同僚が、大樹の肩を叩いた。心配そうに眉をひそめている。
「いや、なんでもないよ」
 大樹は軽く首を振ると、自分の席に座った。大きく息を吐く。もうすぐ就業時間も終わるのだから、せめてそれまではしっかりしていなくてはいけない。そう、心の中で自分に言い聞かせた。
 瑞穂がコガネシティを発ってからというもの、大樹はぼんやりとすることが多くなった。当然、仕事上のミスも目に見えて増えていた。先程も、研究用のアンプルを取り違え、大目玉を食らったばかりだった。
 何をするときも、常に大樹は考え事をしていた。大事な実験の際も、食事中も、夢の中でさえ考え続けた。「ノイローゼじゃないのか?」と職場の友人が心配して言うほどに。大樹は、自分の悩みを誰にも――瑞穂にさえも、打ち明けていなかったのだ。
 射水 冷と名乗った少女の言葉の一言一言が、胸の中でしこりとなって残っている。彼女は何だったのか。自分で、自分のことを「以前に死んだ」と言っていた。霊――いままでそんな非科学的なものを信じたことなどなかった。信じていなかったからこそ、余計に衝撃が大きかったのかもしれない。
 わからないのは、なぜ急に霊の姿を見ることができるようになったのか、ということだった。考えられる可能性は一つだけ――あの時ぶつかった、黒いローブの男。その男の持っていた、奇妙な水晶玉。その出来事の直後に、射水 冷と出会ったのだ。
(だから私は死ぬしかなかった。これ以上――妹を悲しませたくなかったから。妹を悩ませたくなかったから。妹には普通の女の子として生きてて欲しかった――)
 背中から絶え間なく鮮血を吹き出しながらも話し続ける、冷の悲しげな面持ちが、大樹の脳裏に焼きついていた。まるで、真紅の翼をはやした天使のような、幻想的な、現実離れした美しさ。だが、可憐な姿とは裏腹に、彼女は永遠の苦痛に耐えなければならないのだ。
 それほどの代償を払ったのに、現実は彼女の望みとは正反対の方に進んでいる。そのことを大樹は、射水 氷と出会うことで、瑞穂から事情を説明されたことによって知った。
 事実を、まだ冷は知らない。
 教えてあげなければならない。余計なお節介かもしれない。事実を聞いてとても悲しみ、嘆くかもしれない。だが、何も知らずに、ただ妹の幸せだけを願って死んだ冷があまりにも哀れだった。
 仕事が終わると、大樹はすぐさま路地裏へと走った。冷に事実を――射水 氷のしようとしていることを教えるために。
 路地裏は静かだった。ひんやりとした空気が、頬を撫でる。迷路のようにうねっている金属製のパイプの先端から、蒼い雫がしたたり落ちた。思わず身震いしてしまうような気味の悪い音が響く。
 ゆっくりと大樹は辺りを見回した。星一つ輝かぬ夜空に、コガネ百貨店の電飾が映える。あの建物――コガネ百貨店の屋上から、冷は飛び降りたのだ。
 彼の心の中は、その中心は寒々としていた。なによりも悲しかった。両親も、故郷も、命すら失ってしまった少女が。その境遇が。彼女の選ばざるを得なかった、最後の選択肢が。
 射水 冷のいる場所が近づいてくる。大樹は小さく俯いた。彼は、射水 冷からことのすべてを聞かされて以来、心の動揺をひどく恐れていたのだ。ただでさえ大きく振れる、心の振り子。これ以上振りが大きくなれば、自分から離れて、どこかへ飛んでいってしまうかもしれないから。
「探して……みんな探してよぅ……」
 女の子の声だった。水たまりを新聞で叩くような音と共に、小さな女の子の声が、大樹の頭に響いた。彼は思わず振り向いた。こんな時間に、こんな場所に、女の子が独りでいては危険だからだ。
 壁に寄り添うようにして、女の子は立っている。ボロボロに引きちぎられた洋服を羽織っているだけで、ほとんど全裸に近かった。そして、表情がなかった。首から上の部位が存在していなかったのだ。
「だれか探して……私のからだ……痛いよ……体中が痛いよぅ……」
 大樹の顔が、色を失った。驚愕で、叫び声をあげることもできなかった。
 一見して、彼女が霊であることはわかった。わかってはいても、衝撃は相当なものだった。よく見ると、瑞穂とさほど変わらない年齢の子のようだ。細々とした体つきもよく似ている。首がないことを除けば。
「だれか……そこにいるの?」
 首のない少女の霊は、大樹にまとわりついてきた。ひんやりと冷たい肌触りが襲う。彼は後ずさった。怯えに顔をひきつらせながら。
「お兄ちゃん……探してよ……私ね……鋭田美子っていう名前なの……探してよ、私のからだ……」
 鋭田美子という名前には、聞き覚えがあった。つい最近、この街でバラバラにされて殺された、9歳の女の子の名前だ。彼女の屍体を調べた結果、二人の犯人が上がったものの、その内の一人は行方不明となり、もう一人は自宅で惨殺死体となって発見されたという奇怪な事件だったため、よく覚えていたのだ。
 大樹は怯えた表情のまま、美子の霊を振りほどいた。何か言葉にならぬ声で叫いたあと、一心不乱に逃げた。彼女の声は追いかける。
「探してよ……逃げないで……あと、頭だけなの……そしたらママに会えるの……」
 美子の声は聞かないようにした。頭を振りながら、彼は逃げ続けた。何も考えず、ただ走り続けた。気がついたとき、大樹はコガネ百貨店の誰もいない屋上で立ちつくしていた。
 街が見える。多くの霊が見える。みな探している。失った筈の自分自身を。永遠の苦痛に耐えながら。だがそれが報われることはありえない。彼らは、彼女らは、永遠に苦しむだけの存在。
 気が狂いそうだった。辺りを見回し、ラジオ塔が視界に入った瞬間、大樹は吐いた。惨たらしい数日前のラジオ塔占拠事件。その被害者たちの姿に、耐えきれなかったのだ。
「塚本さん……どうしたんですか?」
 冷の姿がぼんやりと浮かび上がる。彼女は大樹に話しかけた。屋上のベンチに力なく座り込んだ彼の横から、覗き込むように。怯えきった表情を心配そうに見つめながら。
 大樹は、その声が救いであるかのように頷いた。大きな安堵が、心の中でじわじわと広がっていくのが自分でもわかった。
「どうして……こんなことに……」
「え?」冷は、射水 氷とそっくりな、その顔を傾げている。
「なんで僕は、人の魂を見ることができるようになったんだろう。こんな”力”なんて、僕はいらないのに……」
 頭を抱え、現実から逃避するかのように大樹は苦しげに呻いた。無数の記憶の欠片が見える。一つ一つに、無残に死んだ人々の苦痛に歪む様が映る。舞う鮮血。四散した屍体。血腥い腐臭――
「どうして……急にこんな”力”が……」
 冷は目を細めたまま、大樹の姿を見つめている。何も言わずに、ただ立ちつくしていた。
「あ――」
 突然、大樹は顔を上げ、声を出した。それまでと違う、驚きに満ちた声だった。冷は不思議そうな表情で小首を傾げたまま、彼の呟きを聞いた。
「感じる……北に……エンジュシティに、大きな霊を感じる……それも、二つ」
「二つの巨大な霊……エンジュシティにですか?」
 大樹の顔は青ざめていた。言葉では形容しようのない恐怖を、冷は大樹の表情を見ただけで感じ取った。
「一つは、限りなく黒くて……もう一つは、限りなく白い」

 

○●

 頭上を覆い尽くしている枝葉の隙間から、朝焼けの空が見えた。朝の日の光とは思えないほどの眩しさを湛えて。まるで、これから起こる惨劇を予知しているかのような、鮮烈な血の色をもって。
 瑞穂は眠たげな目を擦りながら、不吉な空を眺めていた。その表情は暗く、悲しい思い出の甦るたびに影を帯びた。
 誰も救えなかった――無力な自分。泣き叫ぶヒメグマと、彼の目に浮かんだ狂気の欠片。そして自分を自分でないものにした、救いようの無い殺意。すべてが――すべてが悲しく、何もすることのできなかった、一つの記憶。
 だが、自分は帰ってきてしまった。エンジュシティへ行くには、この森を通るしかないのだから、仕方がなかった。もう、二度と来るつもりはなかったのに。
 先の見えない森の木々の間を歩きながら、ゆかりはしきりに辺りを見回していた。
「ヒメグちゃん。今頃、どないしてるんやろ……」
「どうだろう。やっぱり、まだ私たち――人間のことを怨んでいるかもしれない。無理もないよね。あんなことされたら、誰だって怒るよね」
 ゆかりは目に一杯の涙を浮かべて、反論した。
「そんなん……悲しすぎるやん」
 瑞穂は、ゆかりから目を背けただけで何も言わなかった。沈黙が落ちる。ふと、森には似つかわしくない異様な静けさが辺りに満ちていることに気付いた。動物の気配が無い。まるで森全体が精気を失っているようだった。
「ねえ、ユユちゃん――」
「なに?」
「なんだか――変じゃない? この森。前に来たときよりも――」
 二人は不安感を抱きつつ歩き、森の中央にある草原にでた。そして見つけた、懐かしさよりも先に。それまで感じていた違和感の一端を。湖の水が赤く、血の色に染まっていることに。
 自分の目を疑いつつも、瑞穂とゆかりは湖に駆け寄った。湖の底を覗き込む。二人は、息を呑んだ。何を言うこともできなかった。ただただ眼前の事実に打ちのめされるだけだった。
 湖の底には、あの時に出会ったリングマ達の屍体が沈んでいた。彼らの屍体から滲み出るエキスが、湖を真紅に染めていたのだ。もはや、彼らは原形を留めていない。黒ずんだ屍体から、淀んだ死臭が放たれている。
「これは……一体……」
 ゆかりを胸に抱き、瑞穂は呆然と呟いた。その時、背後に弱々しい気配を感じた。
 瑞穂は振り向いた。目の前に倒れていたのは、左腕の無いヒメグマ――あの時に出逢った、悲しい思い出の中にある、彼だった。
 ヒメグマは呆然と瑞穂を見ていた。感情を感じさせないその瞳が、彼が受けた心の傷の深さを物語っている。何も言わず、何に対しても反応を示さずに、ただ見つめているだけ――
「ヒメグちゃん。ここで、なにがあったの?」
 瑞穂の問いにも、彼は答えなかった。震えるように首を振ると、背を向けて走り出した。
「待って! ヒメグちゃん」
 逃げるヒメグマを瑞穂は追いかけた。時折ヒメグマは立ち止まり、怯えた表情で振り返る。まるで、どこかへ案内しているようだと、瑞穂は思った。
 辿り着いたのは、森の深部だった。鬱蒼と生い茂る木々が朝日を遮蔽している。辺りは薄暗く、じめじめと湿った空気が身体を包むように蔓延している。
 激しい悪寒を感じたのは、その時だった。ゆかりをその場に座らせると瑞穂は、立ちすくむヒメグマに声をかけた。
「ヒメグちゃん――?」
 ヒメグマは無言のまま、右手で前方を指し示した。瑞穂は視線を移し、何かを抱きかかえるようにして横たわっている女性の姿を見た。息を呑み、すぐさま女性の側に駆け寄る。意識を失っているようだった。顔色は青白く、細々とした呼吸が彼女の様態の悪さを表している。腕に抱かれていたのは、怯えきったイーブイだった。
 当惑している瑞穂の傍らで、ヒメグマは牙を剥いている。何かを警戒しているようだった。
 タイミングを合わせたように悲鳴が聞こえた。ゆかりの声で。瑞穂は悲鳴の発せられた方向へ振り向いた。突如として視界が影に落ちた。先程から感じていた悪寒が急に頂点に達し、体中を冷たい液体が流れるような感覚に身悶えた。身体が思うとおりに動かない。視線の先では、ゆかりが黒い霧に包まれている。泣き叫んでいる。何が起こったのか。自分でも解らないまま、瑞穂は力なく倒れた。
 朦朧とした意識の中で、瑞穂はなんとか顔を上げた。見えるのは暗闇と、邪悪な意志を秘めた、二つの妖しい瞳。その奥で、ゆかりが笑っている。焦点の合っていない歪んだ目で。
 反射的に、瑞穂は腰につけているモンスターボールを取ろうとした。だが、震える指先では掴むことすらままならない。苦痛に顔をしかめながら、瑞穂は隣で同じように倒れているヒメグマに、小さな声で話しかけた。
「ヒメグちゃん……お願い……このモンスターボールのボタンを……取って……」
 ヒメグマは返事をしなかった。人間の言うことに、耳を傾けるつもりなどないのだろう。
「ひ……ヒメグちゃん……お願い……このままじゃ、みんな殺されちゃう……ヒメグちゃんは、このままでいいの?」
 瑞穂は諦めなかった。ヒメグマは目を閉じ、しばらく思案していた。そして、首を横に激しく振りながらも、震える手を伸ばし、モンスターボールを掴んだ。ほとんど自棄に近かった。
 妖しい瞳が、ギラリとこちらを睨む。ヒメグマはそれよりも一瞬早く、瑞穂にボールを手渡していた。瑞穂の掌から光が洩れる。影は目を細め、驚きを露わにした。雄叫びと共に、閃光の中からリングマの巨体が飛び出したのだ。
「リンちゃん! 破壊光線を!」
 リングマは口から破壊光線を発射した。鋭い衝撃波が地面を抉る。熱線は影へと突き刺さり、轟音を響かせながら相手を崩壊させていく。白煙がもうもうと上がる。吹き飛ばされた木々と同様、影は跡形もなく姿を消していた。
 影が消えたことによって身体の呪縛が解かれたらしい。瑞穂は立ち上がると、ヒメグマを抱きかかえ、ゆかりのもとへと駆け寄った。ゆかりは気を失っている。これといった異常は無いようだった。胸元に黒い痣のようなものができていること以外は。
「ガウッ!」
 突如、リングマが吠えた。瑞穂は振り返る。小さな黒い霧の塊が彼女の背後に迫っていたのだ。
 瑞穂は思わず飛び退いた。リングマが素速く歩み寄り、鋭い爪を振り下ろす。だが黒い霧は傷つくこともなく、二つに分裂し、リングマヒメグマの首もとに飛びかかった。リングマは藻掻いた。ヒメグマは苦しそうに身を捩っている。
「り……リンちゃん……ヒメグちゃん……大丈夫?」
 リングマの顔を下から覗き込むようにして瑞穂は訊いた。リングマヒメグマは答えることなく地面に倒れた。その身体に――リングマヒメグマの首もとに、ゆかりと同じような黒い痣が浮かび上がっている。まるで衣服についた、しつこい染みのように。
 瑞穂は立ちつくしていた。朝の日差しが、容赦なく彼女らの胸に刻まれた黒い痣を照らし出している。そしてそれは、じわじわと魂を蝕んでいた。食い物にしていた。
 白い瑞穂の頬を、黒い液体が伝っていく。ゆっくりと見上げた空は霧雨に覆われていた。夜のように不安げな、黒い色をした。

 

○●

「塚本さんには、死んだ人間の心が見えるんです……。だから、たぶん塚本さんが見たのは、この街で死んだ――殺された女の子の残留思念なんですよ――」
 大樹は力なく頷いた。ベンチに支えられるようにして座っている彼の表情には、疲労が色濃くでている。
「あの子……顔がなかったんだ……首から上が。そのせいで泣くことも、何か見ることも、何かを聴くこともできないんだ――」
 項垂れた。細々とした息づかいが、彼の動揺を物語っている。朝焼けの空に視線を送りながら、大樹は語った。
「あの子は、ずっと迷子なんだ――心細くて……寂しくて……必死で親を探してるうちに、夜になって――悪い男たちに殺された。両足を斬られて、両手を斬られて……それでもなんとか逃げ出したくて、抵抗して……最後に首を斬られた」
「非道い……事件ですね」
 冷が憤ったように呟いた。彼女にとっては、他人事でない事件だった。
 彼は再び頷く。そして続けた。
「まだ……あの子は迷子のつもりなんだ。顔がないから、何も見ることができないし、何も聴くことができない――泣くことさえも。だから首さえ見つければ、親を探すことができると思っているんだ――」
 大樹は、それだけ言うと黙り込んだ。細めていた冷の瞳が、先程よりもさらに細くなった。その視線の先には、彼の苦悩がある。見えないものが見えてしまうことの痛み。知らなければよかったと悔やむ心の、傷。
「辛いと思います――私の苦しみを知って、私よりも苦しんでしまう塚本さんですからね――こんな時に不謹慎ですけど、私は、そんな塚本さんが好きです」
 目を閉じたまま、大樹は立ち上がった。冷の方を見やり、大きく息を吸い込んだ。深呼吸でもするかのように。
「そうだったよ――君に伝えなきゃいけないことがあったんだ」
「なんです?」
 正面から冷を見据え、大樹は言い切った。
「君の妹は、もう過去から逃げないよ。彼女は未来のために、自分の生きる道を見つけたから――」

 

○●

 彼は目を閉じていた。
 暗闇に沈む視界の中を、無数の光が交差していく。やがて光は一つに集まった。彼は小さく息を吐き、光の方へと手を差し伸べる。力が、光から逆流してきた。体中に力が漲る――
 そこで目を開く。手と足を組み、彼は冷たい床の上に座っていた。限りなくゆっくりと顔を上げる。音をたてることもなく立ち上がった。足の裏に、ひんやりとした感触を噛みしめながら。
 窓の外を覗き込んだ。霧雨がふわり、街や人々に溶けこむようにして漂っている。ただの霧雨ではなかった。黒い色に染まった霧雨だった。邪悪な色の塊だったのだ。
 彼は表情を変えなかった。睨むように目を凝らし、黒い霧を見続けているだけだった。
「奴が――奴が帰ってきたのか――?」
 右手を振り上げ、彼は指を鳴らした。それに応えるようにして、影の中から黒いポケモンが姿をあらわした。両目は充血したように赤く、白い歯を剥き出しにして、ニヤついたような顔をしている。シャドーポケモンのゲンガーだった。
 背を向けたまま、彼はゲンガーに命じた。
「ゲンガー、外の様子を見てきてくれ。だたし無理せず、何かあればすぐに僕に知らせること。いいな?」
 軽く頷き、ゲンガーは再び影の中へ、吸い込まれるようにして消えた。あとには、彼の足音だけが残っていた。場は薄暗く、なにものの気配もない。彼の姿は、もうそこにはなかったのだから。
 彼は建物の外に出ていた。霧雨で濡れることも厭わずに、遠くに見える高い塔――スズの塔を眺めている。その眼差しは鋭利で、彼の気持ちの高ぶりがあらわれていた。
「どうして――どうして、こんな――」
 歯を食いしばる。
「不幸が戻ってくる。多くの死が、復讐を思い出す――誰が、どうやって奴を甦らせたんだ……何のために――?」
 無数の霧雨が、彼の身体につき、伝っていく。髪の毛から水滴が滴り落ち、水たまりに流れ込む。ただ時だけが無情に過ぎていく。
「今日の天気は……荒れそうですね」
 容赦なく降り注ぐ雨よりも冷たげな声が、背後から響いた。少年の声だった。彼は振り向き、怪しむような目つきで相手を見つめた。
 立っていたのは、銀髪の少年だった。耳に鍵状のピアスをつけ、透けるような白い頬に、黒々としたタトゥが刻まれている。彼は身構えた。普通とは違う、異質なものを少年に感じたのだ。微笑んででもいるかのような表情で、少年は続ける。
「もうすぐ来ますよ――奴が」
「どうして、それがわかるんだい?」
 できる限り感情を隠して、彼は訊いた。白い歯を出して、少年は苦笑している。
「僕も、感じることができるんですよ。あなたの恐れている”奴”がすぐ近くまできていることに。あなたも、感じているでしょう?」
 曖昧に彼は頷いた。
「僕は忠告しにきたんです。あなたは、奴と戦ってはいけない……と」
「それは、なぜだい?」
「あなたが死ぬからです。あなたは僕にとって、死んではいけない人間なのです――奴は多くの人を殺すでしょう、その死人の中に、あなたが仲間入りしてしまうのは、僕にとって不都合だからです」
 彼は一歩、少年に詰め寄った。唇を軽く噛みながら、聞き返す。
「君にとって、不都合? それは、どういうことだい?」
 少年は空を見上げた。幾重もの水滴が、流れていく。黒く染まっていく。
「あなたは鳳凰接触する資格のある、唯一の人間だからです。あなたがいなければ、滅んだあとの世界を再生できませんからね」
 霧雨は、いつのまにか大粒の滝となって空から降り注いでいた。雨のざわめきが、二人の男の沈黙を、さらに重苦しいものにしている。
 かなりの時間が経ってから、彼は少年に訊いた。
「君は、何者だ? 奴を、ここへ誘き寄せたのも君なのか?」
 少年は、ゆっくりと首を横に振り、否定した。
「違いますよ――今日は、見物させてもらうだけです。これから起こる、死の活劇をね――僕は、もうすこし時を待ちます。すべての人間を裁く時を」
「すべての人間を……裁く? 何のために……どうやってだい?」
「あなたも知っているはずだ。過去から今にわたるまで、人間が罪を犯し続けたことを……人が、世界のバランスを破錠させ続けていることを」
 彼は黙り込んだ。遠くにそびえ立つスズの塔に威圧されているような気がした。過ちを犯し続ける人間――それを象徴するかのように、天高く伸びる塔。それが、スズの塔の本来の存在意義だった。人間が過去に犯した罪の戒めという、消えることのない、哀しい存在意義。
 思わず、彼は視線をそらした。雨に打たれ続ける。体中が、黒く染まる。どうにも、自分が小さく感じられた。唇を噛みしめる。身体を流れる雨の勢いは、衰えるどころか、さらに激しく彼の身体を伝っていく。
「君は知るべきだよ」彼は呟いた。雨音に掻き消されるくらいの、小さな声で。
 視線を元に戻したとき、少年の姿はそこにはなかった。少年は立ち去っていた。先程まで少年の立っていた地面に、足跡が残っている。そこに水が溜まり、雨の滴によって広がっていく。震えるように小刻みな、暗い憎悪を感じさせる、静かな波紋が。
 彼の目は、物憂げに虚空を見つめていた。銀髪の少年の姿を、その場に思い浮かべ、呟き続けている。
「君は、何も知らない――すべてを知っているつもりで、実は何も知らない。だから、君の言葉は空虚なんだ。たしかに君の言葉は間違っていないかもしれない……人が、愚かな過ちを犯し続けているのは事実だ……だけど、そのことで『すべての人間』を裁こうとするのが、もっとも愚かなことだと……君は知るべきなんだ」
 雷鳴が轟く。黄色い閃光が、黒雲を突き抜けていく。彼の言葉が、それらの音に掻き消されていく。
「人間という存在は悪ではない、もちろん善でもない……人は皆、それぞれ違うのだから」
 その時、彼の携帯電話が鳴った。濡れた手を気にすることもなく、彼は電話をとった。相手は、初めて聞く声の持ち主だった。幼い少女の声だ、と彼は直感した。
「もしもし?」
 声の調子で、相手がひどく慌てていることがわかった。ただごとではない、と彼は思った。片耳を塞ぎ、電話からの声に集中する。少女の声は、洲先瑞穂と名乗り、早口で訊いてきた。
「ゴーストタイプポケモンの専門家……マツバさんでしょうか?」
 彼は答えた。「そうだが、何か?」

 

○●

 大樹は自宅のマンションに戻り、ソファにぐったりと横になっていた。コガネ百貨店の屋上で、一晩中、恐怖を堪え続けていたのだから無理もなかった。
 隣では、冷が物珍しそうに大樹の部屋の中を見回していた。いつまでも、屋上で話すわけにはいかないから、と大樹がついてくるように言ったのだ。自由に移動できるところを見ると、自縛霊ではないらしい。
「どうしたの? 辺りをそんなに見回して……」
 うっすらと瞼をあけて、大樹は訊いた。冷は恥ずかしそうに俯いて答えた。
「忘れていたんです、私は。普通の人の部屋というのを。組織で働かされていた頃は、私のすること、すべてが監視されていました。収容所の部屋は、天井も壁も濁った灰色をしていて、粗末なベッドが一つ置いてあるだけで。生きた心地がしませんでしたよ……気が狂いそうで……」
 大樹は目を開いた。細々と話し続ける冷に、哀しげな視線を送る。
「でも、私はまだマシだったんです。妹は、氷はもっと非道い環境のもとで過ごしていた。私たち姉妹は、組織内では一度も顔を合わせたことがないんです。だから組織から逃げるとき、妹の部屋の前に来て、私は愕然としました……鉄格子で囲まれていたんです。そして、その鉄格子は、あの子の血で真っ黒に染まっていた――そして、なによりも、あんなに明るかった妹が、別人みたいに……」
 冷は唇を震わせている。怒り。それは組織全体に向けられているものではなく、1人の女に集中していた。
「法柿君が、私と妹の脱出に協力してくれたのも、あの女のすることに耐えられなかったからなんです。前にも、お話ししたと思いますけど、あの女……一位カヤは……」
 視線を落として大樹は、瑞穂の言っていたことを思い起こした。そうなの……名前は、たしかカヤ……いちいカヤだったと思う。言葉にはできないくらい、恐ろしい人だった。だって、ラジオ塔に見学に来ていた子供を……。
 涙ぐんでいた。肩が震えていた。瑞穂は枕に顔を押しつけ、嗚咽しながら言い放っていた。「それぐらいの哀しみを背負ってるの……私なんかよりも、ずっとずっと深くて重たい哀しみを。私は、それが恐い」
 瑞穂は恐れていた。一位カヤ自身よりも、彼女の心を救いようがないほど歪めた、その環境を。虐待を『愛』であると言い切る、その価値観を。
 浮かび上がる、大樹の記憶が。暗い視界の先に、頬を涙で濡らした射水 氷の顔が見える。だが、その表情は、冷の言うような孤独な仮面ではなかった。もう、少女は独りではなかった。瑞穂に抱きかかえられるようにして嗚咽する氷の泣き顔は、哀しみに満ちていたが、安堵に――微かな暖かみも帯びていたのだから。
「でも……君の妹は、もう独りじゃないよ」
 大樹は再び、冷の表情を見つめた。彼女の顔からは、先程までの険しさは消えていた。
「そうですね……塚本さんの言う、その子なら……妹を救ってくれるかもしれません。いずれ妹が真実を知って、傷ついたとしても……支えになってくれるかもしれません」
 苦笑した。惨めさを噛みしめるように。冷の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「駄目ですね、私……人に頼ってばかりで……氷の姉である資格なんて無いですね」
「そんなことはないよ。君は誰よりも、妹のことを心配しているんだから……」
 瞼が重い。大樹は目を閉じ、横になった。
 何気なしにつけたテレビからは、天気予報が流れている。大樹は目を閉じたまま聞き流していた。だが、やがてそのことの重要性に気付くと飛び起き、テレビの画面を食い入るようにして見つめ始めた。記者とキャスターとの会話に聞きいる。
「ええ……今は、やんでいるようですが、いつまた『黒い雨』が降りはじめるかわかりません……」
「『黒い雨』が人体へ与える影響はあるのでしょうか?」
「わかりません。エンジュシティは、現在、市民に外出を控えるよう緊急警報をだしておりますが……」
 大樹は立ち上がった。小綺麗に整理されたデスクの上に放置されているノートパソコンを開く。メールソフトを起動させ、彼は一通のメールを開いた。差出人の名は、洲先瑞穂。
『大樹くん、お元気ですか? こっちは、私もゆかりちゃんも元気です。私はいま、エンジュシティ近くの森にいます。明日にはエンジュシティに着けると思います。それでは、また連絡しますね』
 彼はノートパソコンを閉じた。力なくソファに座り込むと、頭を抱えて蹲る。大樹の異常に気付いて、冷が話しかけてきた。
「塚本さん、どうしたんですか? まさか……」
「思い出した……瑞穂ちゃんは今、エンジュシティにいるんだった。あの邪悪で、黒く塗りつぶされた街に――」
 テレビのブラウン管は映しだす。黒い雨が降り注いだあとのエンジュシティを。何もかもが黒く染まった、邪悪な妖気漂う街を。大樹は思わず息を呑んだ。
 傘をさした記者が、マイクを片手にカメラに向かって何かを話している。ひどく焦った様子だった。黒い水たまりを指さし、ことの異常さを強調している。
「今、入りました気象庁の発表によりますと、黒い雨が人体に及ぼす影響は無いようです。ただ、なぜ黒い雨が降ったのか、などの原因については、いまだハッキリとは……」
 紅い風が吹いた。束の間の異様な静寂がブラウン管を通じて感じ取れた。記者は口を開けたまま、目を見開いたまま血を吐いているのが見える。カメラが、レンズが血の色に染まった。遅れて、誰かの悲鳴が空を切った。
 記者は絶命していた。表情は変わらず、血の気だけが引いていく。彼の身体は腰の辺りで両断されていた。上半身が傾き、倒れた。その弾みで眼鏡が落ちて、赤と黒に淀んだ水たまりへと沈んでいく。残された下半身は立ちつくしたまま、黒い地面を赤へと染め直していた。
 冷は即座にブラウン管から目をそらした。怯えを隠しきれずに、大樹の肩へとしがみつく。
「何が……今、何が起こったんですか?」
 大樹は呆けたように画面を見つめていた。ブラウン管には、もう記者の屍体は映っていなかった。『しばらく おまちください』の画面に切り替わっている。
「見えた……ほんの一瞬だけど、確かに見えた……」
「塚本さん? 何を……何を見たんですか?」
 大樹は見ていた。偶然ではあったが、目に焼き付いていた。真紅の刃が、疾風の如き速さで記者の胴体を切り裂く、その瞬間を。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。