水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-5

#15 天使。
  5.人間の価値

 

「十歳の誕生日。その日に私は殺された。兄上様の手によって」
 ラツィエルは瑞穂を、その澄んだ瞳を見つめながら、ゆっくりと語った。腰まで伸びた銀髪に、雪の粉が舞い降り、雫となって頬や首筋を伝うと、白と紺の巫女装束を濡らす。少女は一度、小刻みに顔を振り、滴る雫を振り払った。髪飾りのリングが揺れる。降り注ぐ雪の間を縫うように優雅に揺れる、仄かな明かりを宿したリングを見つめ、天使の輪のようだと瑞穂は思った。
「私は兄上様を愛していた。だから、兄上様が望むものは、私が用意して、兄上様に差し上げてきた。人間の命も、ポケモンの命も、私自身の愛撫も、囀りも、料理も、処女すらも。
 だけど、兄上様は私を殺した。兄上様が私が死ぬ事を望んだから、私も兄上様に殺されてあげた」
 指先が見えた。白い指先。紫色の光沢を放つ、研ぎ澄まされた爪。ラツィエルは腕を上げ、その指先を瑞穂たちへと向けていた。半歩後ずさり、瑞穂は身構えた。腰のモンスターボールへ、リングマのボールへ即座に手を伸ばす。
 ラツィエルは一瞬、視線を瑞穂の手許へと向けたが、特に気にする様子も無く語り続けた。
「あの時、兄上様は、私の胸元に剣を突き立てた。痛かったよ。そのまま兄上様は剣を抜いた。血が沢山出たよ。何回もそうやって剣を抜き差しして、最後は剣を捨てて、私の頭を掴んだ。振るの。身体に穴が開いているのに、兄上様は私の頭を掴んで、何回も振って、壁に打ち付けるの」
 瑞穂は背筋に冷たいものを感じた。舞い降りる雪のせいではない、辺りを包む寒気のせいでもない、もっと別の生理的な悪寒を感じた。感覚が麻痺したように、背中にぴったりとくっつくミルの体温が感じられない。感触はあるのに、悪寒だけが身体の芯を支配する。
「もうその時に、私は死んでた。だから、別の場所からその様子を眺めてたの。もう死んでいるのに、兄上様は執拗に、私の抜け殻を打ち付けて、最後には拳で顔をめちゃくちゃに殴りつけるの。私は白目を剥いていた。顔の骨は砕けて、せっかくの可愛い顔が、私でも自分の顔だと解らない位に崩れて、歪んでた。
 一時間くらい経って、やっと兄上様は、私の身体を壊すのをやめた。兄上様は掴んでいた私の頭を首筋を離して、抜け殻を、屍体を床に棄てた」
 非道いよね。ラツィエルは言い、同意を求めるような眼差しを、瑞穂たちに向けた。
 ラツィエルの言葉に擦り込まれた傷を、その苦痛を、自分も感じてしまったかのように瑞穂は顔を顰め、眼を細めた。微かな同情と、強い憎しみや憤りの交じり合った混沌とした色をした瞳で、ラツィエルを見つめ返す。
「だから、復活する為に沢山の人を殺す必要があった、ということですか。人を、ポケモンを殺して、その命を吸う為に?」
「私のような”憑依”の能力者は、死んで身体を喪っても、他の命を吸い続ける事で、魂だけの状態を、つまり意識だけを保ち続ける事ができるから。もっとも、能力者でなくても、強い未練とかがあれば、意識を残したり、現世に干渉する事もできるけど」
 瑞穂はラツィエルを睨みつけた。
「あなたが、宝玉で復活させた黒い霧も、その一種ですね」
「そうだね。ファルズフに取って来て貰った”深海の瞳”は、私の”能力”を完全に覚醒させる為に必要だったけど、私が考えていた以上の力を持っていた。だから黒い霧を復活させて、人間を殺して、もっと効率よく命を吸う事を思いついたの。私の理想の身体さえ、すぐ見つかればよかったんだけど、なかなか見つからなかったから、その分だけ命も沢山吸わないといけなかったの」
「その為に、自分が蘇える為に?」
 ミルは自らの身体を支えていた瑞穂を押しのけて、ラツィエルの正面に立った。肩を怒らせ、頬を引きつられていた。歪んだ口許の隙間から、噛締められた歯が覗く。
「何が、言いたいの?」
 ラツィエルは笑いながら、無邪気に小首を傾げる。ミルの声や表情が何故、怒気を含んでいるのかを、本当に理解していないかのようだった。長い銀髪は静かに揺れ、天使の輪から放たれる澄んだ金属音とともに、纏わりついた雪の粉を振り撒く。その微笑みは、一片の汚れも見えない、白く清純なものに見えた。
 まるで本当の、天使の微笑みのようだ。
 瑞穂はミルの肩越しに、ラツィエルの笑顔を眺めながら思った。今まで見たどの笑顔よりも、ラツィエルの笑みは硝子のように透明で、濁りや汚れは一片も見えない。だが、この微笑みが殺すのだ。こんな汚れ無き微笑みでも、こんな風に笑える少女でも、沢山の命を潰して、そこから染み出た汁を啜って、それでも尚、何も感じずに笑っていられる。
「いくら自分が蘇る為だからって、他の命を犠牲にするなんて、許されるわけ無いじゃないさ!」
 ミルは一気に捲くし立てた。ラツィエルは微笑みを動かさず、瑞穂たちへ突き立てた指先を妖しげに動かした。白い火柱がミルの足元を跳ねる。ミルは驚いてのけぞり、体勢を崩して瑞穂の身体にしがみついた。
「自分を知らないことって、ここまで愚かなんだね。そんなだから、兄上様に存在まで否定されるんだよ。せっかく私は、人間を守ってあげようとしているのに」
「人間を守る?」瑞穂は訝しげに呟いた。
「だって人間がいないと、甘いお菓子も食べれないし、テレビも、映画も見れないじゃない。
 何より命が吸えないから。新しい身体になった以上、昔みたいに細々と命を啜ってても、この身体は維持できないよ。人間には、減った分だけ増えてもらわないといけないの。だから、私は兄上様を止めて、人間をあるべき形に導く為に蘇ったの」
 人間に”あるべき形”なんて無い。瑞穂はラツィエルの言葉を聞いて、心の奥底で即座に呟いた。それは、彼女にとって都合の良い形であるだけだ。人間を適度に増やして、減らない程度に磨り潰して、そこから命の汁を絞り出す。それは黒い霧による殺戮や、やグラシャラボラス沈没のような哀しい事が、際限なく永遠に繰り返していくということ以外の何物でもない。
「それじゃまるで、家畜ですね。私たちは」
「家畜だよ。だって、人間も同じ事をしているでしょ。だから、”家畜”っていう言葉も存在するわけだし。それに人間は、同じ人間同士でありながら、お互いに殺しあうじゃない。戦争って言うんだっけ? この辺りでずっと戦争が続けば、私も無駄な力を使わなくてすむんだけどね」
 瑞穂は押し黙った。ラツィエルの言葉をすべて受け入れたわけでは無い。確かにラツィエルの言うことの大半は事実で、そこに人間という存在の抱える矛盾が、無数に存在しているのだろう。
「で、次は何がいいかな?」
 レストランで追加メニューを選ぶような愉しげな、無邪気な口振りでラツィエルは言い、辺りを見回した。瑞穂を一瞥し、何かの答えを待っているかのような表情を浮かべる。その時、瑞穂は遠くの夜空に、チカチカと瞬く光の点を見た。ラツィエルはすぐさま瑞穂の視線を追い、同じようにそれを、雪の闇を飛んでいく、ジャンボ旅客機を見つめた。
 ラツィエルの薄紅色の唇が緩み、微かに開かれた口から白い歯が覗いた。瑞穂へと向けていた細い指先を、徐に飛行機へ向ける。瑞穂は、背筋が凍るのを感じた。
「あれが墜ちたら、中に乗ってる人間と、墜ちた場所の人間、ぜんぶ死ぬよね」
 瑞穂は手に触れたボールを強く強く握り締め、大きく見開いた瞳で、ラツィエルを睨みつけた。ミルは顔に驚きと困惑とを綯い交ぜにした表情を浮かべた。氷は興味なさげに背を向け、後方に落ちていた拳銃を、だらりと垂れた左腕で拾い上げ、握り締める。
「ぜんぶ、死ぬよね?」
 ラツィエルは瑞穂をしっかと見つめたまま、同じ呟きを繰り返した。少女の紫色の爪が、不気味で鮮烈な光を帯び始める。何も言わず、何も言う暇も無く、瑞穂は素早く手にしていたモンスターボールを、その開閉スイッチを擦った。ラツィエルの爪先が火炎の輝きを放つよりも一瞬早く、瑞穂の掌は眩い閃光に包まれた。閃光は放物線を描きつつラツィエルの眼前へと降り立ち、野太く低い咆哮を響かせながら、その巨体を露わにした。そこにはリングマが立っていた。リングマは再び咆哮し、降りしきる雪と、凍りついた空気とを震撼させた。
 ラツィエルの指先から、輝きが失せた。彼女は露骨に顔を顰め、まるで大好物のお菓子を突然取り上げられた幼子のような恨めしげな瞳で、自分の前に立ちはだかるリングマの巨大な身体を見据えた。
「”能力者”か。まだ、存在していたんだ。兄上様も詰めが甘いね。まぁ、まだ完全に覚醒してないようだからしかたないかな」
 能力同士が相殺され、ラツィエルの能力は無効化されたようだった。だが、ラツィエルはマイペースを崩さず、子供のような不機嫌で浮かない表情のまま、瑞穂の方を見た。瑞穂は身構え、ラツィエルを睨み返し、悲痛な声で語りかけた。
「やめてください。あなたにとって、その程度の価値しかない人間でも、私たち人間にとっては、同じ存在なんです。だから、死ぬのは哀しい。死ぬのを想像するだけでも、特に大切な人ならなおさら、哀しいんですよ。私は、死ぬという現象自体は怖くない。私は、既に死んでいても、いつ死んだって、おかしくない身体だから。
 でも、他の人間は違う。普通の人間は、何処にでもいる人間は、沢山いるからこそ、あなたにとっては価値が薄いのかもしれないけど、自分がいつ死ぬのかも知らないんです。いつか死ぬとは知っていても、遠い未来のことだと信じて疑わない。だから、怖いんですよ。突然、自分の存在が、自分の意識や感情や積み上げてきたものが消えて、何もかもすべてを失って、無にしてしまうのが怖いんですよ。私は、自分が死ぬことより、そういう突然命を絶たれてしまう人たちの絶望や恐怖や愁いや憎しみを想像するほうが怖いし哀しい。だから、誰にも死んで欲しくない。殺さないでください」
「無理だよ。命を吸わないと、ちょっと疲れる。それに人間が死んだって、人間でしょ? 別に私は哀しくないよ」
 黙り込んだまま、瑞穂は上目使いにラツィエルを、少女の満面の笑みを見据えた。愁いや動揺が欠片も見当たらない、偽りでない少女の笑顔に、瑞穂は何を言っても無駄だと、意味が無いということを漠然と悟った。焦燥でも諦めでも絶望でもない、ただ実感があるだけだった。
 価値観が、生命観が違った。そもそも彼女らに、そういった概念があるのかすら怪しい。人間にポケモンに、その存在のひとつひとつに、感情や尊厳とかいったものがあるということを、天使である彼女にとって卑賤な存在であるそれらに、そんなものがあるなどということは理解できない。だから、人間を家畜と呼べる。愚かだと罵り、まるで消しゴムの滓を吹いて棄てるかのように、あっさりと何も感じずに、非道く殺せてしまう。
 瑞穂は、ラツィエルへ投げ掛けるべき言葉を、考えるのを止めた。少女に何かを言って、宥めて、説得して、命乞いをして、それで終わるのなら、終わりにできるような悲劇なら、初めから悲劇などにはならないはずだということを、知ったから。
 何も言わずに立ち竦んでいる瑞穂を眺め、ラツィエルは、ふと何かを思いついたかのように顔を上げた。不機嫌そうな表情を消し、元の汚れ無き微笑みを浮かべて、少女は呟いた。
「でも、いきなり欲張るのはよくないかな。まずは──」
 ラツィエルは軽く掌を振った。瞬間、霧が少女の周りを包み込み、少女の白い身体は、同じ色である白い霧に紛れて見えなくなった。リングマは即座に、屈強な腕を勢い良く横へと振り切り、霧を吹き飛ばす。だが、晴れた霧の中に、ラツィエルの姿は既に無かった。リングマと瑞穂は驚いて辺りを見回す。ワンテンポ遅れて、リングマの背後から雪を踏みしめる足音が響き、彼は音を頼りに振り返った。
 銀の毛皮を纏ったキュウコンが、佇んでいた。リングマは虚を衝かれたような表情を浮かべる。キュウコンは小さく細い顔に薄笑いを浮かべ、口を開いた。白い炎を帯びた熱風が放たれ、リングマの身体を包む。
 リングマは雄叫びをあげ、勢い良く両腕を広げた。白い炎を弾く。素早くキュウコンの懐に詰め寄り、屈強な腕を、その先端にある鋭利な爪をキュウコンへと振り下ろす。キュウコンは軽い身のこなしで軽々とリングマの腕を避け、空中で一回転し、再度リングマの背後へつく。リングマの腕が地面を打ち、爆発音にも似た轟音と共に、積もっていた雪が一斉に舞い上がった。
「リンちゃん、上から炎が!」
 瑞穂の咄嗟の一声で、リングマは頭上から降り注ぐ火炎放射を寸前で避ける。空中を舞う間に放ったのだろう。雪の上に佇むキュウコンは口の端を歪め、引きつったような笑みを見せている。そのキュウコンの笑みに、瑞穂はふと違和感を感じた。
「その微笑みは、違う──あれは」
 呟いた瞬間、首筋に柔らかい何かが触れた。背後にぴったりとくっつく感触に、瑞穂は硬直した。顔を少しだけ動かし、背後に寄り添うそれを確かめる。白い指が、喉の辺りを這うように動く。うなじの辺りに滑らかな頬が擦れる。瑞穂は驚いて声を上げた。喉を押さえられていた為に掠れた声が、雪上の闇を一瞬、凍りつかせた。
「そうだね。たしかに、あんなのは私じゃないよ」
 ラツィエルは、瑞穂の小さな身体を、背後から抱きしめていた。しなやかな掌を、平べったい胸の辺りへ動かし、揉みしだく。顔を、鼻先を瑞穂の首筋へと接近させ、匂いを嗅ぐ。
「どうして、あなたが。それじゃ、あのキュウコンは一体」
「”傀儡”だよ。まさか、あれが私の本体だとでも思ったのかな」
 瑞穂の声を聞き、リングマは彼女の置かれている状況に気付いた。炎を吐き続けるキュウコンを半ば無視し、彼は振り向いて、攻撃的な前傾姿勢をとった。だが、ラツィエルの身体がぴったりと瑞穂にくっついているを認め、仕方なしに動きを止めた。下手にラツィエルを刺激すると瑞穂が更なる危険に晒されるのは明らかであったし、何より瑞穂とラツィエルの距離が近すぎて、攻撃すれば、瑞穂をも傷つけてしまう恐れがあった。それはミルも同様で、後ずさるように二人から離れることしかできなかった。
「まずは、あなたの命から吸わせてよ。お腹が空いてるの。あなたの命が一番新鮮で、美味しそうだから」
 ラツィエルの妖しく光る爪が、瑞穂の脇腹に浅く食い込んでいた。食い込んだ爪の先端から針ほどに鋭い熱が刺し込まれ、身体の芯を炎で炙ったような激痛が、瑞穂の小さな身体を貫く。苦痛に身悶え、少女はか細い呻きを発した。弱々しい声にも関わらず、瑞穂の顔は噴出す汗に濡れ、酷く紅潮していた。
 突然、銃声が轟いた。ラツィエルは反射的に身を翻し、寸前で銃弾を避ける。その拍子にくっついていた身体同士が離れた。リングマは即座に巨体を動かし、瑞穂の小さな身体を抱き寄せ、共に雪のクッションへ突っ込んだ。瑞穂の火照った身体は雪の上に投げ出される。苦しげに咳き込みながらも瑞穂はすぐさま起き上がり、体勢を立て直した。銃声の鳴る方と、ラツィエルの方とを同時に見やる。
「それなら、殺すしかない」
 それまで後ろの方から静かに事を眺めてた射水 氷が、硝煙の微かに立ち上る拳銃を握り締めたまま、誰に向けるでもない呟きを漏らしていた。ラツィエルは銃弾の掠めた頬を掌で押さえ、相変わらずの微笑みを浮かべ、氷と対峙した。
「だからって、いきなり撃つんだ。あれだけ近づいてたら何もできないと思ったのに、気をつけてなかった。でも、あの娘に当たったらどうするつもりだったのかな。あなたもあの娘と同じように人間が死んだら悲しいんでしょう? それとも、あなたは人間じゃないから、その娘のことなんて、どうでもいいのかな」
 ラツィエルは掌で頬を押さえたまま、相変わらずの微笑みを浮かべていた。
「別に、人間が死ぬのが悲しいとか、誰にも死んでほしくないとか、そういう優等生な考えには興味無い。人間にも、こいつは死んでいい、むしろ死ぬべきだと思えるようなのもいるし。そうでしょう? 瑞穂ちゃん。たとえば――」
 氷はとある人物の名を口にした。瑞穂は顔を微かにひきつらせ、哀しげに俯いた。それはかつて、幼い瑞穂を虐め続け、しまいには彼女の飼っていたポケモンを玩具のように殺した女の名だった。
「どうして、そのこと知ってるの」
 か細い声で問いかける瑞穂を素知らぬ顔で受け流し、氷は続けた。
「でも、私は人間だから。人間だから、人間を守りたいわけじゃない。私をこんな身体にしたのも、人間であるわけだし。私はただ、瑞穂ちゃんが、大切な人が苦しむのを見たくないだけ。大切な人が殺されそうになるなら、私は大切な人を殺そうとする存在を殺す。いえ、殺すしかない」
 氷は拳銃を握る左手の指先に力をこめた。瞳を細め、ラツィエルを睨み、銃口を、照準をラツィエルの肩の辺りへと合わせる。
「その為に、大切なものを守るために、この力がある。さっきは、瑞穂ちゃんに当たらないように撃っただけ。次は、あなたに当たるように、撃つ」
 ラツィエルは、氷の言葉を嘲るように肩を竦めた。
「結局、人間だって自分勝手な存在じゃない。自分の為、自分の自己満足のためだけに、他者を殺す。それと、私のやろうとしている事、何が違うのかな」
「同じよ。人間は、そういうもの。たとえ瑞穂ちゃんが、他の誰かが否定しても、その事実は変わらない。でも、自分の為だけじゃない。人間は誰かの、大切な人のためにも、戦うことができる。あなたのように自分の為だけに、何かの見返りを求めて、むやみに他者を犠牲にしているわけじゃない。でも、結局それはエゴで、あなたと同じであることに違いは無い。だから、エゴがぶつかり合えば、お互いに殺しあって、大切なものを守らないといけない」
「それで、人間になったつもりなのかな? でも、そうやって守ってても、あのキュウコンのように、最後は守っていた存在に、裏切られることになるかもね」
 一瞬だけ、佇む瑞穂の横顔を流し見てから、氷は小さく口を動かし、握り締めた拳銃の引き金を引いた。
 銃口が火を噴き、銃声の響き渡る刹那、瑞穂は氷の呟きを聞いた。誰かに語りかけるような呟き。だが、その相手はラツィエルという少女へ向けたものではなかった。微かな甘えを含んだ少女の口調は、自分へと、もしくは身近な誰か、両親か姉妹へ向けられているもののように思えた。
「もう、覚悟はできてるよ」
 白い炎が舞った。”傀儡”と呼ばれたキュウコンが、放たれた銃弾へ向け熱風を吹きかけた。銃弾は勢いを失い、溶けて雪の上へと落ちる。
 キュウコンが飛び上がり、氷と瑞穂の前に立ちはだかった。傀儡の名のとおり、ラツィエルの意思によって操られているのだろう。
「沙季──」
 氷は、眼前に立ちはだかったキュウコンのかつての名を呟いた。少女は、拳銃のグリップを腰のモンスターボールの開閉スイッチへと押し当てた。開閉スイッチが微かに光を帯び、その光は拳銃へと移った。再び、拳銃をキュウコンへと向け、氷は引き金を引いた。
 銃口の上部に取り付けられたレーザーサイトから光が放たれ、アーボックへと姿を変えた。アーボックは即座に鋭い牙を剥き出し、キュウコンへと飛び掛る。
 キュウコンが跳ねた。アーボックの身体が雪の中に突っ込む。間髪いれず、アーボック長い尻尾がキュウコンの腹を打ち付けた。キュウコンが体勢を崩して倒れる。その隙をついて、アーボックキュウコンの首筋に目掛け、毒針を放った。キュウコン倒れた姿勢のまま、熱風を毒針へと噴きかける。アーボックは身を屈めて熱風を避け、雪を弾きつつキュウコンの懐へ潜り込み、牙を剥き出した。
 キュウコンアーボックの戦いを、瑞穂とミルはただ眺めていることしかできなかった。だが、不意にリングマが小さな声で、何かを言いたげに呻いた。瑞穂は頬をざらざらの舌でなめられたような不快感を覚え、リングマに促されるまま、ラツィエルへと注意を向ける。白い天使の少女は、静かに紫色の爪を氷へと向けていた。もう片方の掌で頬を押さえいる。その指は震え、頬と掌の隙間からは血が濃く滲み出ていた。指先が震える程の明確な殺意の中で、無邪気な笑みだけが、浮いていた。
「リンちゃん。岩石封じ!」
 瑞穂は反射的に呟いていた。リングマは彼女の指示を待っていたかのように、即座に腕を振り上げ、地面を打った。鋭い振動が雪の奥底、地表を伝わり、ラツィエルの足元で炸裂した。降り積もった雪が抉れ、先端の研ぎ澄まされた岩が突き出る。岩はラツィエルの周りを覆うように絡み付き、少女の注意と、身体の自由とを同時に奪った。リングマは咆哮する。と同時に、ラツィエルの爪に燈っていた光が失せた。先程と同じように、能力が相殺されたのだ。
「本当に、能力者って厄介だね」
 ラツィエルは呟き、指を鳴らした。一瞬、ラツィエルの指先は瞬き、その身を雁字搦めにしていた岩は、白い火に包まれて溶けた。炎は濃霧として闇に散り、少女の掌へと結集し、やがて灰色の薙刀へと変化した。
「カオスインフェルノ──」
 宣告するような口調で、ラツィエルは言った。薙刀が色を帯び、少女は両手でそれを握り締め、銀色の刃先を瑞穂とリングマへ向けた。リングマは身構え、瑞穂もまた護身用の小刀を取り出す。
「みんな、ここで殺しておいたほうが、いいかもしれないね。特にそのリングマ。覚醒しかけているから”感染”するかもしれない。”感染”するとしたら、トレーナーである、あなたになる可能性も高いし」
「感染? どういう、意味ですか」
 瑞穂は問いかけた。だが、ラツィエルは応えずに微笑むだけだった。瑞穂は、ラツィエルの身体が動くのを見た。その得体の知れない笑みが、純白の頬から滲む真紅の血が、残像だけを残して、消えた。リングマの脇を、風が吹いた。続いて、霧が流れた。瑞穂は瞳を見開き、小刀を前へと突き出した。金属同士のぶつかり合う音が鳴り響く。リングマの脇腹がすっぱりと裂け、鮮血が迸り、二人の少女を、瑞穂と彼女に対峙するラツィエルとを頭から濡らした。
「くっ──、リンちゃんを、傷つけないで!」
 ラツィエルの薙刀を、瑞穂の握り締めた小刀の刃先が受け止めていた。ラツィエルは一端、力を緩めて再び刃を振り下ろす。瑞穂は、血に塗れて倒れたリングマに注意を払いつつ、ラツィエルの刃を的確に受け止めた。逆に、瑞穂は力を込めて、刃を押し返す。ラツィエルは思わぬ反撃に体勢を崩しかける。薙刀の柄を地面に突き立てて転倒を防ぎ、紫紺の指先を瑞穂へと向ける。白い炎が闇を斬った。だが、瑞穂の姿は既にそこには無い。
 瑞穂は、ラツィエルの頭上を舞っていた。すれ違いざま、瑞穂の刃がラツィエルの肩を切りつける。鮮血が、瑞穂の指先までを濡らす。堪らずラツィエルは呻き、背後に着地した瑞穂の頬を、素早く拳で打ちのめした。瑞穂はラツィエルの拳を避けきれず、その身体は雪の上に倒れた。ラツィエルは隙を逃さず、薙刀の先端を瑞穂の左太腿へと差し込んだ。皮の破ける生々しい音が聞こえると同時に、激痛から瑞穂は悲鳴を上げた。ラツィエルは嗤った。血塗れでもがく瑞穂へ、薙刀を再び振り下ろす。その刃は、今度は少女の首筋を狙っていた。
 不意に、横からの圧力にラツィエルは体勢を崩した。ミルが咄嗟に、ラツィエルの身体めがけて体当たりをしていた。その拍子に刃は目標を外れ、瑞穂の左肩とその下に敷かれた紅く染まった雪に突き刺さった。
「もう、邪魔だよ」
 ラツィエルはミルの身体を押しのけ、指先でミルの腹を突いた。白い炎がミルの腹で燃え上がり、服を焼いた。ミルは倒れ、雪の中でもがく。だが、ミルに纏わりついていた炎は、すぐさま掻き消えた。能力が相殺されていた。ラツィエルは気配を感じたのか、背後を振り返った。
 脇腹を切り裂かれたはずのリングマが、立ち上がっていた。ラツィエルが攻撃に転ずるよりも先に、彼は腕を振った。少女の、ラツィエルの華奢な身体は勢い良く吹っ飛び、岩石封じの残り火の中へと突っ込んだ。リングマは絶え絶えになった息で、瑞穂の身体を抱き起こした。
「そんなに抵抗するなら、本気を出しちゃうよ」
 おぼおろげな意識の中で、瑞穂はラツィエルの囁くような声を聞いた。この期に及んでも、まだ愉しそうな、マイペースな声に、少女は戦慄を感じた。
 燻り続ける白い炎の中で、ラツィエルは起き上がり、立ち上がった。瑞穂も同じように、リングマの腕から降り、不安定な雪の足場の感触を確かめるかのように、ゆっくりと立ち上がる。左太腿を刺された痛みを堪えつつ、瑞穂はラツィエルを見据えて、涙声で呟いた。
「やめてください。もう、やめてくださいよ」
「駄目だよ。そんなこと言っちゃ。家畜は、命乞いなんてしないよ。素直に、私の糧になって。あなたの新鮮な命が、欲しいの。それに──」
 ラツィエルは視線を動かし、瑞穂を庇うように立っている、血塗れのリングマを見やった。
「兄上様じゃないけど、それを生かしておくのは危ないな。私の能力を、こんなに頻繁に無効化できるなんて。それこそ、感染でもしたら大変だよ」
 足元に落ちていた薙刀を拾い上げ、ラツィエルは微笑みと共に、その刃先をリングマへ向けた。
「今なら死にかけだから、楽に殺せるし」
 不意に、ラツィエルの眼前に何かが落ちた。雪の白い粉がふわりと舞う。それは、ラツィエルが傀儡と呼んでいたキュウコンの瀕死の身体だった。背中にアーボックの毒牙によると思しき傷が刻まれている。ラツィエルは微笑みの中に微かな狼狽を見せた。眉を顰め、少女は視線を動かす。牙を剥き出したアーボックに守られるようにして、氷は立っていた。
「沙季を──いえ、そのキュウコンを殺したら、あなたはどうなる?」
 氷は拳銃を構えながら、ラツィエルへと問いかけた。銃口キュウコンを、また即座にラツィエルをも撃ち抜ける方向に向けられている。
「やめてくれないかな。せっかく見つけた身体なのに。それを壊されたら、また理想の身体を探さないといけなくなる。それに私は、ピストル程度の衝撃じゃ、殺すどころか封印すらできないよ」
「でも、痛かったでしょ?」
 ラツィエルの瞳から、笑みが消えた。天使のように澄んでいた瞳に、別の色が混じっていた。氷に撃たれた頬の傷が、それとも瑞穂の斬られた肩の傷が疼いているのか、少女はしきりに息を吐き、身体を揺らしている。
「だから、狙っていた瑞穂ちゃんや、天敵ともいえるリングマを後回しにしてでも、まず私を殺そうとした。痛みを感じるということは、肉体そのものには限界があるということ」
「何が、言いたいの?」
 氷は静かに顎を引き、拳銃の引き金に指をかけた。一瞬だけ、瑞穂たちを見やる。瑞穂もリングマも出血が激しく、立っているのも辛そうだった。ミルは腹部に酷い火傷を負って、雪の中に蹲っている。瞳を細め、氷はラツィエルへと視線を戻し、少女の形だけの微笑みを、その中で怨嗟か怒気に澱みきっている瞳を、睨みつけた。
「ここは、去ってほしい。たしかに今の私達に、あなたの存在は殺せないのは、良く解った。でも私は、沙季を──キュウコンを、もしくは、あなたの瞳孔でも撃ちぬいて、あなたの身体を壊すことはできる。さっきのように、沙──いえ、キュウコンを使って銃弾を防ぐことも、もうできない。ただ、あなたの身体を壊せば、身体を失ったあなたは意識を維持する為に、また関係の無い人間やポケモンを殺して命を啜る。それは瑞穂ちゃんが悲しむことだから、できればしたくない。瑞穂ちゃんが、さっきあなたを刺し殺さなかったのも、恐らくその為」
「つまり、お互いに手加減してたってことだね。いいよ、今日はここまでにしようか。どうせ、そこのリングマは兄上様が処理するだろうし。それに──」
 ラツィエルは、瑞穂を流し見た。リングマに支えられてなんとか立っている瑞穂は、ラツィエルの視線を認めて息を呑んだが、怯むことなく大きく見開かれた瞳で見つめ返す。
「あの娘の命、いくらなんでも新鮮すぎて気味が悪い。まるで赤ん坊みたいな──」
「余計なこと言わずに、去って」
 氷は拳銃を突き出した。ラツィエルは怪訝そうに瞳を細めたが、特に気にする様子も無く、足元に倒れたキュウコンの身体を抱きしめた。少女とキュウコンの身体が、濃い霧に包まれて見えなくなった。やがて霧は雪と闇とに紛れて消えた。後にはただ、無数の足跡と、白い炎の残滓という、争いの痕跡だけが放置されていた。

 

○●

「やはり、ラツィエルか」
 何事も無かったかのような静寂。辛うじて視界を確保できるほどの闇。次第に深さを増していく雪の上に立ち、サリエルは独りでに呟いた。
 あちこちで燻っていた白い炎は薄灰色の燃え滓となり、無数の足跡の名残と共に、降り注ぐ雪に隠されつつある。何も知らずに立ち寄ったならば、数時間前、この場所で幼い少女達が、己の自我を剥き出しにして、殺し合いをしていたなど、思いも寄らないだろう。
 サリエルの鼻腔を、少女特有の甘く擽ったい香りが通り過ぎた。続いて、短い金属音。気配を察知して背後を振り返るよりも早く、彼は、あどけない少女の声を聞いた。
「高みの見物とは、兄上様もやることが姑息ですね」
 彼と同じ、銀色の髪。肩の辺りについたリング状のアクセサリ。白と紺の巫女装束。そこに佇むのは、紛れも無く彼の妹、彼が殺したはずの妹、ラツィエル・アクラシエルだった。
「漠然と気づいてはいたが、まさか本当にお前だったとはな。今から考えれば、ファルズフ裏切りの第一報を聞いたときの、やけに媚びたお前の態度で気づくべきだった。だがしかし、ファルズフを唆して、”深海の涙”を奪い、隠れて復活の機会を窺っていたとは、お前の方がよほど姑息だと思うがな」
 嫌味のようなサリエルの言葉を、ラツィエルは顔いっぱいの笑みを浮かべて受け流した。ラツィエルの笑みに、サリエルは違和感を覚えた。彼の知るラツィエルは、こんな笑みを浮かべない。常に寂しげな瞳を泳がせ、自分の後を何も言わずについてくるような、従順で大人しい妹の筈だった。だからこそ、漠然と感じていたラツィエルの策にも、有効な対策を取ろうと思うまでに至らなかったのだ。
「媚びてはいません。私は、心の奥底まで兄上様を愛していますよ。ただ、一時でもあんな女のことを、射水 氷のことを考えた今の兄上様は、愛するにも、新たな処女を捧げる価値もありませんが」
「つまり、僕の為に蘇ったわけではない、ということか。さっきも、瑞穂とか言う”能力者”の所有者に、僕の邪魔をするとか言っていたが」
 ラツィエルは愉しげに頷いた。
「だって、人間は面白い生き物ですから。人間の創造するものは、どれも美しく、おいしく、楽しい。それを滅ぼすなんて、もったいないです。それに──」
「本性を現せ。何が目的だ」
 サリエルは感情のこもっていない平べったい声で、告げた。ラツィエルは言葉を失い、一瞬、鼻白んだが、すぐに小首を傾げ、甘えるようなゆるい口調で言った。
「兄上様が、欲しい。兄上様の力を、その男の部分を、心や意識を。そして、兄上様の力で、兄上様の男の部分で、私は更なる快感を得るの」
 サリエルは僅かに顔を顰めた。ラツィエルの顔が仄かに紅潮し、白い指先が興奮からか小刻みに震えている。
「そして、”ルファエル”を探す。探し出して、ルファエルの力も、私のものにするの。そうして、もっと凄い快感を得る。もっと、もっとキモチ良くなるの」
 ”ルファエル”の名を聞き、サリエルは驚いたように、細めていた瞳を見開いた。
「ルファエル──生きているのか?」
「ええ。だって、ザカリアスに命じて、あの子を堕とさせたのは私だもの。いつか、あの子も私のものにする為に、あえて殺さないでいたの。それに私と同時に10歳になるでしょう。もし、ルファエルが兄上様を殺してしまったら、兄上様を私のものにできなくなる。だから、堕としたの。堕としたくらいであの子が死んだりしないのは、兄上様が一番ご存知のはずだけど」
「ルファエル・アクラシエル。お前の双子の兄であり、つまり、お前と同じ能力を持っているから、か。だが一度、他の身体に憑依してしまえば、探すのは容易ではないと思うが」
 ラツィエルは何度も小さく頷いた。笑みを浮かべたまま、両腕を広げる。霧が、少女の周りを包み込んだ。少女の姿が、霧に包まれて薄く、見えなくなっていく。
「だから、兄上様が欲しいっていうのもあるね。兄上様が、私のものになれば、ルファエルを探すのも少しは楽になる」
 言い残し、ラツィエルは消えた。いや、立ち去った。まだ復活したばかりで本調子ではなく、サリエルと今すぐ戦うのは不利だと判断したのだろうか。サリエルは片手を振って、後に残った靄を振り払う。彼は雪の中に立ち、遠くの空に満ちた闇を見据えながら、独りごちた。
「”アーティラリー”、急がなくてはいけないようだな」
 彼は夜空に背を向け、音も立てずにその場を去った。だから、彼は見ていなかった。墨を流し混ぜたような闇が、次第にその巨体に飲み込んでいた光を吐き出していく、幻想的な光景を。

 

○●


 氷は囁いた。これが”雪の花火”と呼ばれるものだと。千年に一度、この星に接近し、7日間だけ夜空にその存在を示す彗星、通称”千年彗星”による、美しい幻影であると。
 瑞穂とゆかりは、氷に言われるままに夜空を見上げ、ほぼ同時に息を呑み、感嘆の溜息を漏らした。
 漆黒の闇を切り裂くように、千年彗星の輝きが広がっている。彗星はそれ自身が輝いているだけでなく、長い尾を優雅にたなびかせていた。彗星の尾は、宝石の欠片を鏤めたように煌き、ゆるやかに振り続ける雪の結晶がその光の点と線とを反射して繋げ、幾何学的な模様を創りだしている。それは、宝石と貴金属とを繋ぎ合わせた装飾品の輝きにも似ていたが、闇よりも深く、月を飲み込むほどに大きな輝きは、それらの比にはならないほどの存在感で、瑞穂達を圧倒した。雪の澄んだ色と、千年彗星の光とが交錯した、まさに雪の花火と呼ぶに相応しい幻想的な光は、その広がりに、その大きさに反して、音も無く静かに夜空を彩っている。
 氷は不意に視線を落とすと、横目で瑞穂を流し見て、呟いた。
「怪我は、大丈夫?」
 瑞穂は、自分の肩と太腿に巻かれた包帯と、そこに僅かに滲んでいる血の色を確かめるように見つめた。まだ痛むのか、時折、少女の口許は歪む。だが、瑞穂は軽く拳を握り締め、苦痛を悟られないよう笑顔をつくり、首を小さく横へと振って見せた。
「大丈夫だよ。そんなに傷は深くなかったし」
 氷は頷き、瑞穂から逃げるように視線を逸らし、夜空を再び見上げた。瑞穂は氷の隣に寄り添い、同じように暗闇に浮かんだ雪の花火を見つめながら、何気なく問いかけた。
「私のこと、どこまで知っているの?」
 瑞穂の腰に、暖かい身体が触れた。ゆかりが瑞穂の細い身体を掴んでいた。瑞穂の問いに含まれた棘を敏感に感じ取ったのか、ゆかりは押し黙ったまましがみついている。
「何のこと?」氷は小さな声で応えた。
「とぼけないで。氷ちゃんは、私のことを知ってたでしょう? ヒワダタウンの旅館で初めて会ったとき、先に話しかけてきたのは、氷ちゃんだった。どこかで逢ったことがなかったかって、言ってたよね」
 氷は何も言わない。瑞穂は焦れたように、僅かに表情を強張らせた。
「昔、私が大怪我させた子の名前を知ってたね。ラツィエルって人が、何かを言おうとしていたとき、それを制止したね。
 私、ずっと思ってた。氷ちゃんは、何かを隠しているって。前に会ったときは、いろいろあったから、それどころじゃなかったけど、そろそろ教えて欲しい。
 この前、私があの組織に拉致されたとき、カヤって人は言ってた。私の父さんが、組織の研究に関わっていたって。私は、既に殺されているはずだ、って。氷ちゃんは、私の知らない私のことを、どこまで知って──」
 氷は微動だにせず、瑞穂の言葉を聞いていた。やがて瞳を細め、彼女は呟いた。
「言いたく無い。少なくとも瑞穂ちゃん自身のことは、私からは言えない」
「どうして?」
「私は、瑞穂ちゃんの悲しむ顔を見たくない。だから、このまま何も知らないでいて欲しい。でも、どうしても知りたいのなら、それは止めない。どうせ、あの病院に行けば、すべて知ることになる」
 氷は瑞穂の顔を見据えた。
「カヤは、あの病院の地下に組織の研究施設があると言っていたでしょう? 私は、その施設でこの身体にされた。だから検査の為、定期的にあの病院に通っていた。だから、お互いに気づいていないだけで、瑞穂ちゃんと逢ったこともあるかもしれない。少なくとも、洲先祐司──瑞穂ちゃんの父親には会ったことがある。そして、”あの場所”にも、行ったことがある。いえ、私はこの身体になる為に、”あの場所”に行った」
「あの場所?」
「研究施設のさらに地下に、それはある。カヤも時雨も知らない施設。ただ、そろそろ発見されるかもしれないけれど。私は、あの場所で、初めて洲先瑞穂の名を、存在の理由を知った。もっとも、瑞穂ちゃんのことを、いろいろと知っているのは、組織にいた頃にいろいろ調べたからで、それとは関係ないけれど」
 瑞穂は、不思議そうに小首を傾げた。
「私の、存在の理由?」
「悪いけど、これ以上は、何も言いたく無い。あの場所への行き方は教えてあげられるから、あとは自分で調べて。でも、さっきも言ったけど、私は瑞穂ちゃんに何も知らずにいて欲しい」

 

○●

「これで良かったの──」
 射水 氷は誰もいない中で、呟いた。今頃、瑞穂は山小屋で眠っているのだろうか。それとも、氷の言葉を頭の中で反芻し、眠れない夜を過ごしているのだろうか。いずれにしても、瑞穂がこのまま何も知らずにいられるとは考えにくく、また氷もそれを解っていた上で、瑞穂に”あの場所”への行き方を教えた。ほぼ確実に、瑞穂は病院の地下の更に地下に設けられた施設に向かう。そこで、真実を知ることになる。
 氷には、もう何もできない。恐らく、時雨は切り札を使うだろう。こんどこそ、確実に瑞穂を亡き者にする為に。そして、それが更に瑞穂を悲しませることだろう。
 それでも、氷は何もできない。ただ、遠くから彼女が苦しむのを眺めることしか、できない。瑞穂が氷にしたように、慰めることも、励ましたりすることも、できない。何故なら、氷の悲しみと、瑞穂がこれから苦しむことになるであろう悲しみは、完全に別種のものだから。
 遠くで銃声が轟いた。こんな夜中にも、狩人はいる。撃たれたのだろう、苦しげな獣の鳴き声が聞こえた。幼い獣の声だった。氷には、沙季のもとから逃げ出した、金色のロコンの声に聞こえた。鳴き声、いや泣声は次第に激しさを増し、何かを叫ぶ人間の声が続いて響いた。再度の銃声とともに、ロコンと思しき獣の声は消えた。獣は痙攣した呻きを漏らし、それも何かを吐き戻す音を最期に、途絶えた。
 氷は俯き、哀しげに瞳を細めた。
「姉さん──あの娘は、私を恨むかもしれない。本当に、これで良かったのかな」
 不意に、暖かい何かが氷の背中を包んだ。氷は振り返ろうとした。だが、体が動かなかった。懐かしい温もりに、氷は一瞬、我を忘れた。
 姉の香りがした。暖かなそれは、氷の身体を抱きしめた。風の吹きぬける音がする。それは、氷の耳元に囁いた。
「姉さん?」
 温もりは消えた。まるで姉の意識が、風と共に通り過ぎたようだった。氷は夜空を見上げ、瞳を閉じた。千年彗星の輝きが、残像として瞼の裏にぼんやりと浮かび上がる。
「そう、だよね。姉さんが私を信じてくれたように、私も瑞穂ちゃんのこと、信じてあげないといけないね」
 射水 氷は雪の上に横になり、千年彗星の明かりに照らされながら、短くも深い眠りについた。
「雪の花火、本当に綺麗だよ。姉さん」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-4

#15 天使。
  4.喪失の子羊

 

 風は感じない。そのせいか、雪はゆっくりと、まっすぐ闇の中を落ちて行く。白い首筋に、肩に、握り締められた手の甲に、綿のような雪が降り、それは触れた瞬間にとろけて肌を濡らした。
「行こうか、キーちゃん」
 瑞穂は傍らに佇むブラッキーに囁くと、暗闇に溶け込んでいるかのような、漆黒のローブを纏った男の姿を、しっかりと見据えた。
 再び雲が星の光を遮り、夜の闇は一面を暗く塗りつぶしていた。ブラッキーの身体から発せられる仄かな光だけが、辺りを照らしている。その頼りない光を雪が反射し、その光の破片は、静かに少女の周りを舞う。張り詰めた空気に不釣合いな幻想的な光景だった。
 ファルズフは、ミルが言っていた通りの不気味な男だった。ミルは男のことを忌々しげに語っていた。なんの前触れもなくあらわれて宝玉を奪った。客船グラシャラボラスを沈め、エンジュシティで黒い霧を蘇らせた。この男の、ファルズフのせいで、ミルの故郷の人々は、グラシャラボラスに乗っていた人々は、エンジュシティの人々は死に絶え、その哀しみはリリィとライムという、更なる悲劇の発端をも生み出した。
 ファルズフは、予期せぬ少女の介入に、微かに狼狽しているようだった。だが、その口許は歪んだ笑みを湛えている。威嚇でもするかのように、男は掌を瑞穂へと掲げてみせた。
 瑞穂は、ミルへ氷の事を頼むと声をかけ、身構えた。
「あなたは何の為に、こんな事をするんです?」
 かつて、陽炎ミルがしたであろう問いを投げ掛ける。無駄と思っていても、どうせまともな答えは返ってこないと解っていても、瑞穂は男に訊かずにはいられなかった。
「何の為に? それを知って、どうするというのだ。何ができる?」
 ファルズフは嗤った。その瞬間、男の掌に青い血管が浮かび上がった。空気が震える。衝撃波が少女へと放たれたのだ。
 瑞穂は跳んだ。衝撃波が足元を掠める。土煙が舞い、岩が砕ける。少女は男の頭上で身体を捻らせ、彼の背後に着地した。同時に叫ぶ。
「キーちゃん。騙し討ち!」
 衝撃波の巻き起こす土煙の中から、無数の光の輪が浮かんだ。ブラッキーだった。ブラッキーは縫うように衝撃波を避け、防御壁を作り出す暇すら与えずに、男の懐へと潜り込んだ。
 頭上を飛び越えていく瑞穂へと注意を向けていた男は、咄嗟の攻撃に対応しきれなかった。咄嗟に拳を握り締め、噛締めた白い歯を剥き出し、突っ込んでくるブラッキーへと拳を振り下ろす。だが、拳は空を切った。そこにブラッキーはいなかった。光の輪の残像だけが、男の腕の辺りにちらついている。男は驚きの声を発した。体勢を整え、辺りを見回す。
 音がした。ファルズフの身体が、その顔が大きく左右へと振れた。ブラッキーの身体が、男の左頬へ食い込んでいた。
 男は倒れた。ブラッキーは男の首筋にしがみついている。ファルズフは弱々しい手つきで、ブラッキーを振り払おうと手を振った。だが、その手はブラッキーには触れず、ただ光の間を往復する。ブラッキーは赤紫の瞳を広げ、男の顔を睨んでいた。男の首筋に牙をやり、噛み付く。ファルズフの悲鳴と呻きが、闇の中から響いた。
 ブラッキーは、口許にこびり付いた男の鮮血を雪へと擦りつけ、瑞穂の足元へと寄り添った。黒い体毛は雪によって、白に覆われている。
 瑞穂にも、ブラッキーと同じように薄く雪が積もっていた。肩や首筋が凍みる。服が滲みるのと同時に、少女は頬にかさかさとした感触を覚え、濡れた手の甲で頬を拭った。乾いた感触は消え、手の甲は、血に染まっていた。ファルズフの血ではなった。”天使”を名乗る少年、サリエルを殴りつけたときに、彼の血飛沫が少女の顔に飛び散っていたのだ。少女は軽く手を振り、血の混じった水を払い落とした。
 男は首筋の傷を押さえつつ、立ち上がった。黒い法衣のフードは破れていた。今まで隠れていた男の素顔が覗く。瑞穂は男の顔を見た。黒々としたタトゥが、額から鼻にかけて這うように刻まれている。それはサリエルや、リングマの母親を殺した初老の男に刻まれていたそれと、酷似していた。
「何者だ。お前は?」
 男は呻くように、怒りを露わに瑞穂へと問いかけた。
「さっきも、同じ事を訊かれました。サリエルって人に」
 瑞穂はあえて、サリエルの名を出した。身体に刻まれた同じような形のタトゥ。ファルズフがサリエルと繋がりが、共通項があるのなら、何かしらの反応があると思ったのだ。
 サリエルの名を聞き、ファルズフの顔が引きつった。怯えていた。血塗れの手で額のタトゥを押さえる。指先が震えている。
サリエルを知ってるのか?」
 読み通りだった。瑞穂は男の額にあるタトゥを見据え、やはり、と呟いた。男に出くわしたときから抱いていた、サリエルが突然、自分のもとを立ち去った原因がこの男にあるのではないかという漠然とした考えは、確信へと変わった。
「やっぱり、サリエルって人と、関係があるみたいですね。そのタトゥ。その手から放たれる衝撃波。あなたも”能力者”ですか?」
「お前は何者だ。そこまで知っているとは。まさかお前が、あの御方の言っていたルファエルか?」
 ファルズフは瑞穂の問いには答えず、逆に問い返してきた。瑞穂は男の発した”ルファエル”という言葉の意味を考えながら、そうとは悟られないよう、冷静に応えた。
「私は、何でも無いですよ。ただの人間です。天使でも、特殊な能力を持っているわけでもない。何処にでもいる、ただの子供です。それより、あなたこそ一体――」
 瑞穂の言葉が遮られた。ガスの洩れるような、静かで、それでいてやけに耳に残る音によって。少女はファルズフに注意を払いつつ、音のする方を見やった。音は洞窟の奥から聞こえていた。
「洞窟の中から、霧が?」
 洞窟から、白い霧が溢れ出ていた。少女は思わず呟き、その霧の奥に、蠢く人影を見た。

 

○●

 朦朧とした意識から抜け、最初に見たのは、どこかで見たことのある少女の顔だった。誰だろう。誰だっただろうか。
 射水 氷は、少女の小麦色の肌や、顔をまじまじと見つめた。少女は見つめられているのに気付いたのか、訝しげに、躊躇いがちに氷へと問いかけた。
「だ、大丈夫なの? 生きてる?」
 すらりとした長身に似合わない、頼りなさげな声だった。声を聞いて、氷は少女の名を思い出した。陽炎ミルと言っていた。組織に連れ去られた瑞穂を救出する際に、一緒についてきた少女だ。そして、氷の本当の姿を知っている、数少ない人間の1人。
「この程度で、私が死なないのは、知っているでしょう?」
 氷は冷たく呟き、上半身を起こした。夜になっていた。月や星の光は雲に遮られ、辺りは墨を撒いたように暗い。その闇の中で、ぼんやりとした光が浮かんでは消え、何かのぶつかり合う音が響く。
「何が、起こったの?」
「瑞穂ちゃんが、助けてくれたのさ。あの黒尽くめの――ファルズフって言うんだけど、あいつが、氷ちゃんに大怪我させて、あたしと一緒に殺そうとしたの」
 ミルの説明は要領を得なかったが、氷は大凡の所を理解した。眼が暗闇に馴れる。闇の中で光るものの正体は、ブラッキーの紋様だった。ブラッキーは男の顔へ突進し、倒れた男の首筋に噛みついた。男が、情けない呻き声を漏らした。ブラッキーは振り払おうとする男の手を避け、瑞穂のもとへと戻ると、彼女の足下に寄り添った。
 瑞穂は身構えていた。首筋を押さえながら立ち上がる男を注意深く見据え、何か問いかけている。
「それより、大丈夫なの? なんか、体中が傷だらけだけど、そんな平気な顔してさ。痛くないの?」
 ミルが痛々しげに眉を潜め、氷へ訊いた。
「別に」
「そうなんだ。痛く、ないんだ」
 ミルは寂しそうに俯いた。氷は、ミルの表情の変化を見た。だが何故、彼女が寂しげな表情をするのか、どうしてそんなに俯くのかは解らなかった。氷はミルの顔を覗き込み、微かに首を横へと振った。
「だけど、痛みを感じないわけじゃない。ただ、身体が反応しなくなってるだけだから。だから、別に痛みを感じないわけじゃないの。何も感じないわけじゃない」
 言い訳のようだった。どうして、こんなに言い訳じみた言い方をしているのだろう。別に嘘はついていない。痛みはある。熱さも、額や腕に降り積もる雪の冷たさも感じる。それは、本当の事で、ただ身体が、表情がいちいちそれらに反応しなくなっているだけなのだ。
 氷は不意に、ミルの腕を掴んだ。自分でも、何故そうしたのか意味が解らなかった。ミルは瞬時に顔をひきつらせた。明らかに、怯えていた。ミルは反射的に腕を引き、氷から離れた。ミルの腕の生暖かい感触だけが、氷の指先に残った。
「あ。別にあたしは――」
 ミルはばつが悪そうに顔を伏せた。殆ど下を向いていた。
「別に、気にしてない」
 言葉とは裏腹に、氷の言葉は小さく、沈んでいた。どうしてだろう。今まで組織で、化け物のように、気色の悪い物のように、扱われるのには馴れていた筈なのに。どうして、こんなに哀しいのだろう。手を振り払われて、何故、いまさら少しだけ、本当に少しだけ傷ついているのだろう。
「私は、大丈夫だから。傷もすぐに再生するから」
 自分で自分に言い聞かせるように、氷は呟いた。情けない声だった。まるで、今にも泣きそうで、それを必死で堪えているような声だった。
「再生って、”あの姿”になるの?」
 ミルは、氷が触れた二の腕を、もう片方の掌でさすりながら、恐る恐る訊いた。
「ええ、ほんの少しだけ。あの姿、気持ち悪いと思う?」
「だから、あたしは別に、なんとも」
「正直に言って。気持ち悪いでしょう?」
 氷に問いつめられ、ミルはだいぶ躊躇ってから頷いた。
「気持ち悪いっていうか、怖い。さっきだって、別に氷ちゃんに触られるのが嫌なんじゃなくて、なんていうか、その」
「何なの?」
「喰べられると思った。あの時、あの、あの化け物を喰べた時みたいに。それが怖かった」
 氷はミルから視線を外した。これ以上、ミルの怯える表情を見たくは無かった。ただ怯えているのでは無い。氷を見て、氷の存在を認識した上で、怯えている。それが氷には、たまらなく辛い。
 全身の傷が疼いた。氷は首を横へ向け、傷を見た。茶色く泡立っている。裂け目から覗く肉が、不気味に蠢いている。氷は咄嗟にミルへと声をかけた。
「見ないで」
「え?」
「再生が始まる。あの姿になる。だから、私のことを見ないで」
 ミルは何気なく、氷の傷へと視線を向けた。彼女の瞳は、氷の傷口を捉えた瞬間、大きく見開かれた。何かを堪えるような声が漏れる。悲鳴とも、呻きとも聞こえる声だった。もしかしたら、その両方かもしれない。
 傷口から、ぬらぬらと湿った異物が突き出ていた。鱗のような硬質の皮膚を持つ、触手だった。その先端には鋸のような牙が生え、知性の欠片も無い瞳が、時折ぎょろりと辺りを見回す。
 異臭を放つ体液と無数の触手が犇めきあう。生々しい音が身体中から聞こえてくる。その音に、ミルの呻き声は遮られた。視界が失せた。顔も触手に覆われ、いや顔からも触手が生えたのだろう。身体の芯を、不快感が這いずった。
 最後に見えたのは、ミルの青ざめた表情だった。見るなと言った筈なのに、彼女の瞳は氷を、いや触手に埋め尽くされている”化け物”を、じっと見つめていた。汚物でも見るような、侮蔑の眼差しだった。その眼差しは残像のように、氷の意識にこびり着く。その刹那、秘部から得体の知れない体液が漏れた。生温い感触が、”化け物”の太股あたりに広がる。
 氷は思わず、呟いた。見ないで。恥ずかしいよ。恥ずかしいから、見ないで。お願いだから、もう、私を見ないでよ。だが、その声は獣の呻きにしか聞こえなかった。人間の言葉としては、意味の無いものだった。

 

○●


 氷は意識を取り戻した。辺りは白い霧に包まれていた。上半身を起こし、辺りを見やる。だが、霧が濃すぎて何も見えなかった。
「大丈夫?」
 すぐ側で、ミルが囁いた。
「あれから、どのくらい経ったの?」
「そんなに経ってないよ。1、2分位だった」
 氷の身体には、その裸体を包む隠すように明るいオレンジ色の布がかかっていた。ミルがかけたのだろう。氷は布を胸元まで手繰り寄せ、ミルへと訊いた
「全部、見たの?」
「うん。それと、ごめん。吐いちゃった」
 見ると、ミルのすぐ側に生えた木の根に、ミルのものと思しき嘔吐物がへばりついていた。
「悪いけど、嘘はつけないね。やっぱり、あの姿はちょっとね。当分、夢にでてきそう」
 ミルはちらりと自分の嘔吐物を見やり、力なく微笑んだ。
「そうね。私も、そう思う。だけど、あれが私の本当の姿だから」
 氷は俯き、呟いた。ミルの侮蔑の眼差しが、脳裏に甦った。
「それは──それとこれとは違うでしょ」
 ミルは首を横へ振った。氷は俯いていた顔を上げ、ミルを見た。ミルは真剣な眼差しで氷を見つめ、咎めるような口調で早口に捲し立てた。
「あれは確かに氷ちゃんの、もう一つの、別の姿かもしれないけど、あれは氷ちゃんの本当の姿なんかじゃないでしょ。あたしは、今の姿が、この小さな女の子の姿が、氷ちゃんの本当の姿だと思うよ。どうして、そうやって自分の事を悪く言うのさ。どうして、瑞穂ちゃんや、あたしのことを試すようなことを言うのさ。
 さっき、氷ちゃんの”あの姿”を見て、その様子を見て、なんとなく解ったよ。氷ちゃんは、ただ裏切られるのが怖いだけさ。氷ちゃんは、すごく卑怯で臆病な、ただの子供だよ。ああ言うことばっかりいって、本当は慰めて欲しい、そうじゃないよと言って欲しいだけの、寂しがりやな子供さ。違う?」
 氷は押し黙った。ミルの言葉は、微かに怒気を含んでいた。
「そりゃ元々は、あたしが氷ちゃんを理解してあげられなかったから、なんだけどさ。それにしたって、卑屈になりすぎだよ。もうちょっと、素直になったっていいじゃないさ。あたしは別に、今の氷ちゃんの事、嫌いじゃない。ちょっと変わってるけど、悪い子じゃないのはわかるからさ」
 氷は何も言わず、ミルの言葉を聞いていた。まるで、怒られた直後の幼子のように身を強張らせている。何故、何も言い返せないのだろう。ミルの言っていることが正しいから? 違う。私は、そんなこと考えていない。慰めてもらおうなんて、思っていない。なら何故、反論できないのだろう。私は何を考えているのだろう。何を、どうしたいのだろう。
「私は、違う。だけど、なんて言っていいか、解らない。どうして、何も言えないのか、わからない」
 ミルは、だらりと垂れている氷の掌をとり、強く握り締めた。
「氷ちゃんは、怒られたことが無いだけだよ。だから――」
「2人とも、危ない!」
 突然、瑞穂の声が響いた。ミルと氷は咄嗟に声のする方を向いた。最初は、雪玉かと2人は思った。だが、それは雪でも冰でも無かった。炎。氷はそれが炎であると知った。白い炎だった。氷は左手を翳し、防御の姿勢をとる。だが氷の身体は、地面を離れて浮いた。ミルが素早く、氷の小さな裸体を抱きかかえ、白い炎の塊を避けていたのだ。
 白い炎の第二波が、霧と降りしきる雪の中から迫った。氷はミルに抱かれたまま、炎を目で追った。避けられない。そう氷が思った瞬間、ミルは突然、炎へと背を向けた。炎がミルの背中を炙る。ミルは痛みと熱に悲鳴をあげた。氷を放り投げ、縺れるように倒れると、ミルは雪の中で藻掻いた。
「ミルちゃん」
 放り投げられた拍子にまとわりついた雪を払い落とし、氷は立ち上がった。身体を覆い隠していた布が落ちる。氷の白く透き通った裸体が露わになった。氷は裸であることを気にも留めず、ミルのもとへと駆け寄る。
「どうして、私を庇うようなこと。自分だけ逃げたらよかったのに。私はあの程度じゃ死なない」
 火傷したミルの背中に雪を押しつけながら、氷は理解できないとでも言いたげに、首を振った。
 ミルは苦しげに身を捩り、氷の顔を見据えた。
「だって怪我したら、また”あの姿”になるじゃないさ。氷ちゃん”あの姿”になるの嫌でしょ。恥ずかしいんでしょ」
「それは、そうだけど」
「だったら、素直になりなよ。人間でいたいんでしょ? だったら、もっと自分を大事にしなよ。あたしだって、氷ちゃんのあんな辛そうな姿、見たくないんだから」
 この娘は、何を見たのだろうか。氷はミルの背中にポケモン用の火傷治しを吹き付けながら、考えた。替えの服を身につけ、ミルの身体を起こすのを手伝うときも、ずっと氷は、思考の片隅に疑問を残していた。
「泣いてたから」
 ミルは、ぼそぼそと呟いた。氷の疑問を、その訝しげな目つきや、無言の動作から悟ったかのようだった。
「泣きながら、触手を叩いてた。ちっちゃい手で。まるで、ディグダ叩きみたいに。そうやっていく内に、どんどん氷ちゃんの身体が、触手に飲み込まれていって、まるで溺れてるときみたいな表情で氷ちゃんは叫んだんだよ。”見ないで”って。涙をぼろぼろ流しながら。まるで小さな――今でも小さいけどさ、もっと小さな子供みたいだった」
 ミルはゆっくりと起きあがり、木の幹にもたれた。氷の着ている紺のワンピースの肩の辺りを指で撫でる。氷は恥じるように俯いた。
 そんなことを、泣きながら叫んだのだろうか。ミルの言うとおり、幼子のようになっていたのだろうか。あの時の氷の記憶はおぼろげではっきりとしない。いつもそうだ。あの醜い姿になるとき、いつも氷の意識は途絶え、まるで別の何かに、自分という存在が飲み込まれていくような感覚だけが残っているだけだから。
「その時、解ったんだよ。氷ちゃんは、人間だって。ただ、他の人と違う身体を持ってるだけだって。自分でも、自分のことが怖い、気持ち悪いんだって。私が、氷ちゃんのことを怖い、気持ち悪いと思っているのと同じように。
 本当の氷ちゃんは、今、ここに座ってる氷ちゃんであり、その根っこにあるのは”あの姿”になる直前に、泣き喚いていた幼稚園児みたいな氷ちゃんなんだよ。少なくとも、あの化け物みたいな姿は、氷ちゃんじゃない。だって、あれは氷ちゃんが望んだ姿じゃないから。
 だから、氷ちゃんの裸の、無防備な姿を見たときには、可哀相だと思った。同情とか、そう言うのじゃなくて、ただ氷ちゃんを助けて上げたいと思った。だから、もう氷ちゃんのことは怖いとは思わないし、気持ち悪いともあんまり思わない。それだけさ。それに――」
 氷ちゃんが人間じゃないって言うんだったら、あたしだって、人間じゃないと思うからさ。
 氷は、ミルの最後に言い放った言葉の意味が解らなかった。どういう意味なのか、それを聞き直そうとしたとき、再び瑞穂の声が響いた。白い炎が、霧を突き抜け氷達の眼前まで迫っていた。
 炎は掻き消された。小さなポケモンが、炎を遮っていた。瑞穂のグライガーだった。グライガーは羽の皮膜で、氷達を炎から守っていた。
「ご、ごめん。大丈夫だった?」
 霧をかき分け、ポニータが跳んできた。ポニータの背中には、しがみつくように小さな少女が乗っていた。瑞穂だった。
「あの白い炎はなんなのさ。おもきり、火傷したよ」ミルは真っ先に訊いた。
「よく解らないけど、あの洞窟の中から霧がでてきて、それから突然、炎が飛んできたの」
 霧が晴れてきた。氷は洞窟の奥を見やった。ぼんやりと、人の影が見える。氷と同じくらいの背丈だった。だが、不意にその人影は大きさを変えた。
「あれは――」
 氷は言葉を失った。洞窟から姿をあらわしたのは、橘 沙季だった。彼女は精気の失せた瞳で、辺りを見回していた。譫言のように何かを呟いている。氷は耳を澄ました。
「たすけて」そう言っていた。
「ロコン。たすけてよ。くるしいよ。なんだか、あたまがおかしいの。私が、なんだか別の何かになっちゃったみたい。わたしのこころが、ワれてしまったみたい」
 氷はロコンを探した。ロコンは、いた。沙季の立つ3メートル程先に聳える岩の隙間に隠れていた。沙季は氷より少し遅れて、ロコンを見つけた。沙季は歪んだ笑みを浮かべ、ロコンのもとへ歩み寄った。
「ろ、ろこん。たすけて。わたしをたすけて」
 赤い火花が散った。沙季の顔が焼けた。ロコンは背中の毛を逆立て、跳び上がった。震えていた。その瞬間、氷はロコンと眼があった。いつもと同じ、得体の知れない瞳をしている。いや、違う。
 あれは怯えている眼だ。怯えているのを、怖れているのを悟られないために、大きく目を広げ、感情を読まれないようにしていただけだ。だから、あんなにも不気味で、まるで仮面のようだったのだ。ロコンはずっと、自分と違う存在に対して、橘 沙季に対して怯えていた。
 逃げ出すことも出来ないほどに怯えていたのだろう。今から思い起こせば、ロコンの瞳は、その小さな身体は、常に硬直しきっていた。だが、今は違った。沙季は明らかに弱っている。彼女の呪縛から逃れるのなら、今しかない。
 ロコンは呻った。立て続けに火の粉を沙季へとぶつけた。沙季は何が起こったのか理解できていないようだった。呆然と身体に降り注ぐ火の粉を眺め、なおもロコンへと助けを求め続けた。
「やめてよ。どおして、こんなことするの? たすけてよ。すごく、すごく、くるしいの」
 ロコンは逃げ出した。金の毛皮は雪がまとわりついて、白っぽくなっていた。瑞穂の足もとを通り過ぎ、氷の肩を跳び越え、頭を大きく揺らしながらロコンは樹海の奥へと消えていった。
 氷はロコンを見送ると、沙季へと視線を戻した。沙季の眼から、光は失われていた。口から涎を垂らし、全身を痙攣させている。まるで気が違ったかのような、不明瞭な呟きと動作。
「ろこん。どおして、わたしのこと、うらぎるの。わたしがなにをしたの。わたしは、なんなの? わたしはだれなの? わたしは――」
 不意に沙季の瞳が白く濁った。彼女の身体から、白い何かが吹き出した。眼から、口から全身の毛穴から。それは一瞬で沙季の身体を包み込んだ。霧だった。水蒸気のように勢いよく、煙のように濃密な、白い霧。その不気味な霧は、瑞穂や氷達の周りを漂う。
「あれは、一体」
 霧が渦巻き、夜の闇の中を舞った。霧は、今にも崩れ倒れてしまいそうな、力の抜けた沙季の身体を覆い隠した。次の瞬間、霧の奥から、先程と同じような、白い炎が飛び出した。炎は瑞穂達を狙っていた。
「グラちゃん、お願い!」
 瑞穂は眼前に迫った炎を睨み付けながら、グライガーへ声をかけた。グライガーは瑞穂の声に頷き、羽で身体を包むと、炎の中へと飛び込んだ。炎は、グライガーの防御皮膜に遮られ、弾けて消えた。
 霧の中から、腕が覗いた。足が見えた。霧の中に、洞窟の中で蠢いていたのと同じ人影が見えた。人影は、霧の中で腕を広げた。生暖かい風が吹いた。霧が一斉に飛び散る。人影は、その姿を露わにした。子供だった。それも、瑞穂や氷と同じ年頃の少女だった。少女は、得体の知れない微笑みを湛えていた。
「沙季が、いない?」
 氷は沙季を探した。沙季の姿は何処にも見当たらなかった。微笑み続ける少女だけしか、そこにはいなかった。
「私は――”さき”なんて名前じゃないよ」
 少女は氷の方へと向き直った。そして、愉しげに眼を細め、話しかけた。
「よろしく、射水 氷ちゃん。兄上様の、初恋の化け物さん」

 

○●

 視界を遮っていた白い霧は、一瞬のうちに掻き消えた。弾け飛んだ靄の残滓は瑞穂の頬を掠め、肩の辺りまで沈むと、やがてその色を失った。澄んだ暗闇の中を、小さく儚い雪の粉が、消えてしまった靄の埋め合わせでもするかのように、止め処なく舞い降りていく。
 霧の中から現れた少女は、瑞穂たちへと向き直った。微笑みをつくり、氷へと何かを語りかける。瑞穂は、氷の表情を伺った。氷は瞳を細め、訝しげな、そして微かな怒りを含んだ眼差しで少女を見つめ返している。
「氷ちゃん、あの娘のこと、知ってるの?」
「知らない。少なくとも、私は知らない。でも、あの娘は、私の事を”化け物”と呼んだ。私の事を、知っている。恐らく、彼女は──」
「私だよ。これが私だよ。私の本当の姿。私の望む、真実の、偽りの無い、汚れを知らない処女の身体」
 少女はわざとらしく大きな声を発した。言葉を遮られ、氷は微かに眉を顰めて口を噤む。瑞穂は少女へと視線を戻し、少女の姿を、その様子をつぶさに見つめた。
 降りしきる雪よりも深い、澄んだ銀色の髪をしていた。その色は、研ぎ澄まされた刃物の輝きを思い起こさせる。銀髪は腰の辺りにまで伸び、少女はしきりに掌で撫で付けている。
 巫女装束に似た、白と紺の不思議な衣服を身に纏い、少女は愉しげに辺りを見回していた。少女特有の華奢な身体は瑞穂や氷と同じほど白く、さらにその銀髪と衣服の為に、全身が白いような錯覚を覚える。細い指先が、その白さに似合わない紫色の爪が、長い髪の肩辺りに嵌めた輪の形をした装飾品に触れ、冷たい金属音を奏でる。少女は金属音をきっかけに瞳を広げ、銀髪から掌を離し、真面目な表情で呟いた。
「宣告します。私の名前は、ラツィエル──ラツィエル・アクラシエル」
 少女が自らの名を語った瞬間、彼女の胸元に、痣のようなものが浮かび上がった。瑞穂は即座に、それがタトゥだと悟った。形や刻まれた部位こそ多少違うものの、それは紛れも無く、ファルズフや、サリエルと名乗る少年、そしてリングマの母親を殺した初老の男に刻まれていたタトゥとほぼ相違無いものだった。
「あなたは何者ですか?」
 瑞穂は訊いた。ラツィエルと名乗った少女は、身体に薄く降り積もった雪を軽く振り払い、満面の笑みを浮かべ、応えた。
「私のこと? 私は、天使だよ」
 ラツィエルは嘘でも冗談でも無い、何気ない様子でその言葉を発した。”天使”であると。瑞穂はサリエルの言葉を思い出した。人間とは違う存在。人間達は、自分達の都合に合わせて、彼らを悪魔だと、そして”天使”であると呼んだということ。
 思案する瑞穂をよそに、氷は口を開いた。
「その天使とかいうのが、どうしてここにいる。沙季は、どこへ消えたの?」
「ここにいるよ」
 ラツィエルは自分の胸元に手を当て、意外なほどあっさりと答えた。
 その瞬間、瑞穂は、ラツィエルの胸元に浮かび上った紋様が、細い指先の隙間から覗く黒々としたタトゥが、蠢いているかのような錯覚を覚えた。それは、少女の白い胸元を黒色のアリアドスが徘徊しているようにも見えた。
「つまり、あなたも能力者ということですか」
「ええ。これが私の能力。”憑依”の力。だから、あのキュウコンの身体は、もう私のものなの」
キュウコンの身体?」
 洞窟から出てきた女の人の事を言っているのだろうかと、瑞穂は首をかしげた。だが、あれはどうみてもキュウコンでは無かった。15、6才ほどの女性にしか見えなかった。
「さっきの女のことよ」
 事情を知らない瑞穂に説明するように、氷は言った。
「あれは、千年以上生きたキュウコンが人間に化けた姿。つまり、自在に変化する事ができる身体。あのラツィエルという女にとって、都合の良い身体」
 氷は紫紺の瞳で、ラツィエルの白い全身を見据えた。ラツィエルは微笑んでいた。満足げに頷いている。
「そうだよ。でも、大変だったんだよ。なかなか条件が合わなかったから。まずメスじゃないと駄目だし、ポケモンは見た目が微妙だし、人間は淫乱で処女は少ないし。私の望む姿になれて、処女なのは、この身体しかなかったの」
 そこまで言うと、ラツィエルは恍惚とした表情で、あらためて自分の身体を舐める様に見つめた。
「何の為に、それに処女である必然は?」
「兄上様は、処女を好むから。それだけよ」
 瑞穂と氷は顔を見合わせた。訝しげに眉を顰め、氷は言った。
「あなたの兄というのは、サリエルという男ね?」
「知ってるの? サリエルって人のことを」
 瑞穂は驚いたように、氷へと訊いた。
「ええ。丁度、瑞穂ちゃんと知り合ったばかりの頃に、あの男の方から私に接触してきた。あの頃、私はコガネシティで──」
 何を思ったのか、氷は瞳を細め、瑞穂から視線を外した。か細い声は次第に掠れ、語尾は声として聞き取る事ができなかった。
「でも、最近は会ってない」
「それは、あなたがもう処女じゃないからだよ。さっきも言ったけど、兄上様は処女が好みだから」
 ラツィエルは笑った。氷を嘲っているかのような笑いだった。氷は表情こそ変えなかったが、口許から何かの軋む音が漏れた。
「それよりあんたは、あんた達は何でこんな事をしたのさ」
 瑞穂の肩にもたれるようにして、ミルは立ち上がった。火傷の痛みに微かに顔を顰めながらもラツィエルを、そしていつの間にか、彼女の後ろで静かに佇むファルズフをしっかと睨みつけている。
「あんたの後ろにいる、ファルズフって奴のせいで、みんな死んだ。いや、そもそも深海の涙が盗まれたとき、あたしの意識を乗っ取ったのは、あんただった。元々あんたが全部仕組んだ事なんでしょ?」
「うん。でも、私が完全に再生するには、深海の涙が必要だったから。しかたないよ。悪いのは私じゃなくて、ファルズフだ」
 ラツィエルの顔から拭ったように笑みが失せた。つまらなそうに後ろのファルズフへと振り向く。ファルズフは途端に身を強張らせた。
「ラツィエル様。そんな奴らと話をしている場合ではないと思いますが。我々にはまだ やらなければならない事が──」
「うるさいよ」
 少女は腕を上げ、紫色の爪をファルズフへと向けた。ファルズフは顔を引きつらせ、後ずさった。ラツィエルの指先から白い閃光が迸る。瞬時に男の身体が、その全身が白い炎に包まれて、燃えた。男の身悶え呻く声が、暗闇の中に木霊す。
 白い炎は、降り注ぐ雪の中で燃え続けた。蒸気に霞んだ火柱は、積み上げられた雪が光を浴びて、煌いている様にも見える。
 眺めるだけならば、それは幻想的な光景だった。だが、頬にじりじりと張り付いてくる熱は、耳に響いてくる男の泣き声は、幻想とは程遠い血腥い現実。
 瑞穂は、炎の美しさに、ラツィエルの無邪気な笑みに内包された、見た目とは相反する、狂気にも似た凄惨さに戦慄した。
 男の声が途絶えた。ラツィエルは瑞穂たちに背を向け、男の残骸へと駆け寄った。男の残り滓は、一部だけが小さな白い炎として燻り続け、大半は灰となって雪のうえに散っている。その死に様は、山の中腹で見つけた、二つの焼死体と酷似していた。
「死んじゃえ」
 男は既に絶命していた。少女は愉しげに呟きつつ、徐にその灰の中へと腕を突っ込んだ。灰に埋もれていた宝玉を、深海の涙を掴み上げ、自らの首へとかける。
「殺した?」
 瑞穂は呆然と、少女と男の屍体とを見つめる事しかできなかった。あまりに一瞬の出来事に、身動きすらとれなかった。
 ラツィエルは再び瑞穂たちへと振り返った。髪飾りのリングが澄んだ金属音を響かせる。
「これで、悪い奴は殺したよ。もう、文句無いよね?」
 瑞穂は急に肩が重くなるのを感じた。肩にもたれたミルの身体が震えていた。
「あんたが、殺したんだね?」
 ミルはゆっくりと言葉を一句一句紡ぐように喋った。瑞穂は初めのうち、ミルが何を言っているのか、何の事を言っているのか解らなかった。だがやがて、背中に響くミルの鼓動を、腰の辺りに食い込むミルの指先の力を感じ、その意味を悟った。
「今のを見て確信したさ。あたしの村の人たちを殺したのも、あの船を沈めたのも、エンジュシティで”黒い霧”を復活させたのも、ファルズフって奴の考えじゃない。確かにあの男も、それで人殺しを愉しんでたかもしれない。だけど、それを望んだのは、人やポケモンが死ぬのを望んだのは、あんただろ?」
 ミルの問いに、ラツィエルは低くため息をつき、呟いた。
「これだから、”イモータルの能力者”は嫌いだ。あの時、ちゃんと殺した筈なのに、そうやってしつこく私につきまとってくる。まあ、確かにファルズフは頭が悪かったから、私がいろいろ教えてあげたよ。いっぺんに沢山の人間を殺す方法とか」
「何の為に! 意味も無く人を殺して、何になるのさ」
 ミルだけでなく、瑞穂も同じ疑問を抱いていた。宝玉を手に入れるだけなら、村の人間を全員殺す必要は無い。いくらミルが宝玉を取り戻そうと追ってくるとは言え、脅しの為だけに船を沈める必要は無い。まるで、初めから人間を殺すことだけを、それも一度で大量に殺すことを目的としているとしか思えなかった。
「命を吸う必要があったからだよ」
 ラツィエルは言った。小指で首にかけた宝玉をゆっくりと撫でている。
「私はね、十歳の誕生日に兄上様に殺されたの。兄上様や私のような上級の天使は、十歳になると本格的に”能力”が覚醒するからね。
 兄上様から聞いてると思うけど、”能力者”同士だと”能力”が相殺されてお互いに無効化される事がある。普通の”能力者”なら、敵対する相手の”能力”だけが相殺されるんだけど、上級天使は”能力”が強すぎて、味方の”能力”まで相殺して、無効化しちゃうことがあるの。でも、それだと”能力者”である意味が無いでしょう?」
 炎が消えた。男に原形と呼ばれるものは残っていなかった。濁色の灰が、降り積もった純白の雪を醜く汚しているだけだった。
 明かりが失せ、ラツィエルの周りが仄暗い闇に包まれた。瑞穂は頷くかのように静かに顎を引き、大きく瞳を見開いて、白い少女の姿を凝視した。ラツィエルの胸元に浮かんでいるタトゥが、またも蠢いて見える。アリアドスが幾重もの足を広げて、少女の身体に、白い皮膚にぺったりと張り付いている。瑞穂には、そのように思えてならなかった。
「だから、殺されたの。天使を統括するべき、”主”たるべき、私のような上級天使は、お互いの”能力”を、配下天使の”能力”を無効化してしまわないように、常に一人でいる必要があるから。その為には、既存の”主”と十歳になり覚醒した”主”の候補が、殺しあうしかないの。親子であろうと、兄妹であろうと、生身で殺しあうしかない。そうして、より強い上級天使が”主”となる。それが、ルールだから。そういう規則だから」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-3

#15 天使。
  3.白炎の堕天使

 

 ベランダから見上げる夜空に、白い霞が浮かび上がっては消えていく。星は瞬かず、月も闇に食われた空の下では、その輪郭は、より一層はっきりと認識できる。
 塚本大樹は、無言のまま深く息を吐き、眩しげに目を細めた。軽く口笛を吹いてみる。生温い風に乗って、音は彼の意図した以上に遠くへと響き、街に犇めくネオンの光と喧騒に掻き消された。
「どうして、こんなに人が死ぬんだろう。こんなに静かなのに」
 人の意思。それが、白く半透明な霞の正体。この街で死んだ人間の残留思念が、行く当ても無く、闇夜の中を彷徨っている。
 背後からニュース音声が聴こえる。部屋でつけっぱなしにしているテレビからだった。シロガネ山の中腹で、二人の男性が焼死体で発見されたこと。惨殺死体で発見された少女、鋭田美子を殺害した犯人の一人が、いまだに消息不明であるということ。近隣の共産主義国が、周辺諸国の国民を拉致していること。情報は無秩序に垂れ流され、そこに時折、偏向したイデオロギーが剥き出しになる。
 手すりにもたれたまま、BGMのようにニュース音声を聞き流していると、その音に紛れて、少女の声が聞こえた。今にも泣き出しそうな、か細い声だった。彼は、虚ろな意識のまま振り向いた。
 胸元を中心として、冷たい感触が広がった。小さな女の子が、大樹に飛びついていた。彼は慌てて少女を抱きかかえ、何事かと少女の表情を見下ろした。
 少女は、クリーム色のフードを頭からすっぽりと被り、半透明な身体を小刻みに震わせている。彼女は、夜空に漂う靄と同じ、死んだ後に残された意識だけの存在だった。ただ違うのは、単なる白い霞の塊ではなく、半透明ではあるが、ちゃんとした身体を持っている。それだけ、少女の持つ残留思念が深く現世に食い込んでおり、強い未練を残しているということだった。
 抱きかかえられた勢いで、少女の被っていたフードがとれた。そこには、何も無かった。本来、あるはずの首も頭も、声から想像できるあどけない表情も。大樹に見えるのは、グロテスクな断面。鋸か何かで強引に首を捩じ切られた、頭部の無い胴体だけが、心細げに大樹の胸に身体を埋めていた。
 大樹は絶句した。喉元まで込み上げる呻きと吐き気とを堪えながら、彼は少女を凝視した。話しかけようにも、口を開くことができなかった。口を開けば、震えを帯びた呻きが漏れるだけで、それは少女を非道く傷つける音だから。
 沈黙の中で、少女は戸惑うように彼を見上げるそぶりを見せた。実際、少女は大樹を見上げたのだろう。だが、首が無い為に、肩が微かに動いただけのようにしか見えない。
「あ、ごめんなさい」
 少女、鋭田美子は慌ててそう言い、大樹から離れた。と同時に、首の断面を隠す為に被っているフードが外れていることに気づき、短く小さな悲鳴を上げた。涙声だった。少女はその場に蹲り、傷口を隠すようにフードで押さえつけた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
 美子がフードを被りなおし、痛々しい断面が隠れたことで、大樹はようやく声を出した。喉を絞るような、抑えた声で彼は訊く。
「お姉ちゃんが──」
 冷のことだ。大樹は思わず部屋の中へと視線を巡らせた。誰もいない。つけっぱなしのテレビ画面だけが、目まぐるしく入れ替わる。ニュースが続いていた。
「冷ちゃんが、どうしたの?」
「お姉ちゃんが、消えたの」
「消えた?」
 大樹は聞き返した。突然のことに動揺を隠せず、語尾が掠れている。大樹の強い声に怯え、美子は身体を竦めた。
「一緒にテレビを見てたら、何かを思いついたように急に立ち上がって、そしたら、お姉ちゃんの身体がスーッと薄くなって」
「それで、消えた?」
 大樹の言葉に、美子は何度も頷いて見せた。嘘はついてないよ、と。
 部屋に戻り、大樹はテレビを消した。生暖かい部屋の中を見回す。冷の姿は見えない。
 大樹は足元に違和感を感じた。彼は視線を下ろし、床に敷かれた絨毯を見た。濡れているかのような妙な冷気が、大樹の足に染み付いている。大樹は屈みこみ、冷たい部分に触れた。彼の様子を見つめ、美子が遠慮がちに呟いた。そこは、さっきまでお姉ちゃんが座ってた場所だよ、と。
 冷たさが、掌を通じて大樹の身体に広がった。その瞬間、冷の声が、彼の頭に響いた。

 

○●

 生きている。私は、まだ生きている。
 射水 氷は、心の中で呟いた。何の感慨も無く、ただ淡々と事実を確認するような口調だった。
 両腕の焼ける熱さも、痛みも感じない。背中にごつごつとした感触だけがあり、それが妙に気に障った。洞窟の中で、ずっと岩にもたれたまま気を失っていたのだろう。幾重もの尖った岩が冷気を纏ったまま、氷のか細い背中に食い込んでいた。
 薄暗い洞窟の剥き出しになった岩の上で、私は気を失っている。打ち捨てられた人形のように野晒しのまま、眠っている。
 傍観者からの視点で自分の様子を、気を失っている様を想像し、彼女は自嘲的に微笑んだ。なんて惨めな格好で、私は眠っているんだろう、と。
「どうして、殺さなかった?」
 氷は上体を起こし、瞳を開いた。暗い洞窟の中で、仄かな白い光を身に纏った少女が、橘 沙季が腰の高さほどの岩に腰掛けていた。胸元には金の毛皮を持つロコンが静かな寝息を立てている。沙季は母親が子供の寝顔を眺めるときに見せるような、優しい目でロコンを見つめていた。その眼差しからは、氷へと剥き出しにした憎悪の面影は欠片も感じられなかった。
「どうしてって?」
 ロコンを抱きかかえたまま、沙季は氷の方へと視線を移した。そして微笑む。ロコンへ見せた微笑とは違う、別の意味を持った笑みだった。まるで──そう、あの女が時折見せた、嘲りの表情のような。
「だって、あなたも人間じゃないみたいだし」
 沙季は短く言った。微かに狼狽する氷を尻目に、言葉を継ぎ足す。
「かといって、私たちとも違う、ポケモンとも違う。まったく異質の存在」
 何かを呟こうと小さく口を開いた氷を、沙季は首を振って制した。薄く微笑んだまま、氷の腕を見つめる。
「腕の火傷、大丈夫みたいね。これも、あなたが人間じゃ無いからよね?」
 氷は沙季の声には応えずに俯き、炎に焼かれていた筈の両腕を見つめた。あれだけの炎に包まれながらも、腕には火傷も傷も残ってはいなかった。アーボの頭部の形をした薄い皮だけが、氷の足元に落ちている。火傷の部分が脱皮をした後の、抜け殻に違いなかった。
「驚いたわ。あんな姿になるなんて」
 沙季はさりげなく呟いた。氷は上目遣いに沙希を睨み、下唇を噛んだ。羞恥心で頬の辺りが熱い。彼女は、誰にも見られてはいけない、死んでも見られたくない、おぞましく醜悪な姿を無防備のまま晒してしまった事に気づいた。
 沙季の眼は、すでに氷の身体を捉えておらず、少女の狼狽える瞳を見据えていた。不意に、氷は自分のすべてを見透かされているような気がした。醜く汚らわしい姿だけでなく、少女の内側に張り付いた、非道く弱く、脆い部分。壊れかけた心。そこから染み出てくる愁いと、滝のように漏れ出る怯え。
 逃げるように視線を外した氷に、追い討ちをかける形で沙希は何かを呟いた。氷は何も聴かなかった。これ以上、沙季に狼狽える姿を見せるわけにはいかなかった。だが、珍しい物を見た後のような高揚した沙季の口調に、氷は胸の中にざらつく様な感触を覚えた。
「あれは、私が望んだ姿じゃない」
 私は、見世物でも珍獣でもない。
「じゃあ、あなたこそ、何者なのよ」
 沙希は立ち上がり、蹲る氷へ見下すような視線を向けた。いつしか逆転していた。探る者と暴く者の立場が。沙季はこうも言った。私の正体を探るくせに、自分の正体は隠すのね。
「私は、人間よ」
「あなたは人間じゃないでしょう? 見た目は少女でも、本当の姿はおぞましく、醜い。一言で言うなら、そう、化け物よね」
「私は、人間でいたいの」
 短く氷は言い放つ。なるべく低い声で聞こえるよう、朴訥に冷静に喋ったつもりだった。だが、語尾が裏返っていた。ヒステリックな呻き声が洞窟に響き、少女は自分の耳を疑った。同時に、膝に雫が滴った。呆然とした表情のまま、氷は頬に触れた。涙が手の甲に滲みた。
 氷は濡れた手の甲を見つめたまま、凍ったように動きを止めた。ただ、唇の端だけが微かに動き、声にならぬ息遣いが、白い息として細々と漏れている。白い息が頭上で散るのを眺めながら、氷は思った。
 今なら解るよ。姉さんの気持ち。知らない内に、涙が溢れるこの気持ち。涙が止まらない、止められない気持ち。
 氷は目じりに涙を溜めていた。顔を歪めるでもなく、嗚咽を漏らすでもなく、無言のまま、仮面のように動かない表情のままで、彼女は溢れ出た涙が流れるのを待った。
 涙は流れなかった。いつしか、普通に泣くこともできなくなっていた。
 こんな、表情まで、感情まで死んでしまった私が、本当に人間と呼べるのだろうか。人間と名乗っていいのだろうか、と氷は微かに思った。
 沙季は、固まったまま動かない少女の肩を抱き、囁いた。
「ごめんなさいね、あなたを蔑むようなような事を言って。でも、私はあなたに解って欲しかったの。自分以外の存在を認めない、人間の愚かさをね」
 二の腕で瞳に溜まった涙を拭い、氷は横目で沙希の口許を睨み、彼女の言葉を聞いた。先ほどまでの潤んだ瞳の痕跡はすでに無く、氷の視線は細く鋭かった。
「あなたは人間でいたいのかもしれないけれど、人間はあなたのことを人間とは認めないわ。隠していても、いずれ誰かに本性を見破られる。そのとき、あなたは人間として築いてきたすべてのものを失うの。他の人間がよってたかって、あなたを壊すの。それでもいいの?
 少しぐらいなら、人間でないことを気にしない人間もいるとは思うけど、あなたはその範疇を超えている。人間にとって、あなたは少女の皮を被った化け物なんだから。そして、少女と化け物とのギャップが激しいほど、人間はあなたの本性に嫌悪感と殺意を抱く」
 初めて鏡で自分の本当の姿を見たときの記憶が、氷の脳裏を掠めた。その時の鏡には、自分の姿は映っていなかった。不気味に蠢く触手を纏った獣が、荒い息遣いで、こちらを睨んでいるのが見えた。氷は真っ先に悲鳴を上げた。女の子の声ではない、獣の呻くような声を聴いた。それが自分の声であり、必然的に鏡に映る獣の姿も同様であると認識した途端、自分を中心として地軸が傾くような感覚に襲われた。のけぞるように鏡から離れると、次の瞬間には、伸びた腕が鏡を叩き割っていた。破片が降り注ぎ、全身に突き刺さったが、醜い自分の姿に対する悪寒と吐気は、痛みなど欠片も感じさせなかった。氷は、ただただ胃の中のすべてを、込み上がってくる不条理な感情も、それ以外の感情もすべて、げえげえと吐き出す事しかできなかった。
 だから、言われるまでも無いことだった。そんなことは、自分が一番よく理解しているのだから。
 沙季は、無言のまま佇む氷の首筋に腕を回し、耳元に軽く息を吹きかけた。彼女は他愛の無い事を暫く喋った。その口調はいつしか変わっていた。先ほどまでの嘲るような、棘のある口調とは違う、甘えるような声だった。だが声から感じ取れる、危険な香りは増していた。氷は警戒するように目を細め、彼女の言葉を待った。沙季は氷の様子を悟ったのか、即座に本題を切り出した。
「だから」妖しげな目で氷の首筋を眺め。
「私たちと一緒にいて欲しいの。そして、あなたの力で、私たちを守って欲しい」
 来た、とばかりに肩に触れる沙希の手を払い除け、氷は立ち上がった。訝しげに彼女の顔を見つめる。
「それが、私を殺さなかった理由ね」
「ええ。本当なら殺してた。あなたが、人間じゃないことが解ったから。私達に近い存在だったから、途中で炎を弱めたの」
「本当なら、殺していた──?」
 何かの焦げる臭いが、鼻を突いた。氷は沙希の背後に無造作に置かれた茶色の布切れに注意を向けた。少女は徐に沙季を押しのけ、布切れを引き剥がし、隠されているそれを見つけた。
 炭だった。人の形をした炭が、折り重なって積み上げられていた。氷は思わず息を呑み、沙季に焼き殺された人間の成れの果てを、水晶のように澄んだ瞳に焼き付けていた。
「大人も子供も見境無しね」
「ええ。死体が見つかると厄介だから、ここまで誘い出して殺すの。そのおかげで、シロガネ山には人が近づかないようになった。さっきの二人の場合は、急いでたからしょうがなかったけれど」
「子供を殺す必要は無いと思う」
 沙希は悲しげに目を細めた。まるで、自分の意思に、氷が異を唱えるのを嘆くような瞳をしていた。
「子供は、無邪気なだけよ。邪気が無いんじゃない、邪気を知らないから、余計にたちが悪いの。愉しみのために、このロコンのような弱い存在を抵抗無く殺す。この子の親も兄弟も”これ”に殺されたのよ」
 沙季は氷の横に立ち、炭化した人形を平べったい掌で掴み取った。握り締められた拳は憎しみに震え、手の中の炭は粉々に砕けた。指の隙間から黒い粉がざらざらと耳障りな音を立てながら零れ落ちていく。
 沙季の様子を横目で見つめながら、氷は腰の辺りに手を添えた。静かに腕を振り上げる。その手には拳銃が握り締められていた。少女は、銃口を沙季の鼻先に突き付け、言い放った。
「協力はしない。子供を躊躇い無く殺すような奴には」
「それが、あなたの答え?」
 氷は視線を沙季へと向けたまま、頷いて見せた。引き金に指をかける。だが、沙季は突き付けられた銃口を気にも留めず、氷へと話しかけた。
「子供も大人も人間には違いない。だから殺すの。それに、大人を殺すよりも、子供を殺したほうが、効率がいいでしょう? 生き残る為に、私達は戦わなきゃいけないのよ。だから、あなたの力も必要なの」
 沙季の声で、胸元で眠っていたロコンが眼を覚ました。寝惚け眼で辺りを見やる。その眼が氷の視線とぶつかった。相変わらず、底の見えない色をしている。氷は眉を顰め、避ける様に視線を外した。
「あなたも解っているでしょう?」
 寝惚けたままのロコンを地面に下ろし、沙季は続けた。
「このままだと、私達は人間に殺される。人間は私達”能力者”や、あなたのような存在を認めない。何故なら、私やあなたの”能力”は人間の存在を脅かすものだから。人間にとって危険な存在だから。人間は、その圧倒的な数で私達を狩り始める。私達”能力者”やあなたのような人間で無い存在は、滅ぼされる」
「まさか」
「その時になって、後悔しても遅いわ。人間は、自分と同じ存在以外のものに対しては、とても冷酷で残虐になれる生き物よ」
 あの女の姿が、カヤの甲高い呻き声が脳裏を過ぎったのは何故だろう。氷は奥歯を噛み締め、こめかみの辺りを指で押さえた。だが、カヤに虐げられていたときの記憶は蘇ってこなかった。カヤを殺す以前は、頻繁に悪夢の中で少女を苦しめたにも関わらず。代わりに思い出されるのは、カヤの死体を食べている、自分の姿。床に散った肉片を本能の赴くままに貪り喰らっている、獣の姿だった。
 あの姿をみたら、あんな化け物をみたら、人間なら誰だって恐れを抱くだろう。何に対する恐れか。喰われる事に対する恐れ。あの化け物に殺されてしまうかもしれない恐怖。だから、人間は化け物を殺す。誰も気にも留めない。少女の皮を被った、気色悪い化け物をどう殺そうが。誰も、何も、感じない。
「それは、私達も同じね。人間だけじゃない」
 氷は明後日の方を向き、呆然と呟いた。唐突な氷の呟きの意味を図りかねたのか、沙季は小首を傾げた。
「何を言っているの?」
 氷は、初めて人間を殺した時の事を思い出していた。その人間は組織の秘密を探っていた男だった。名前は知らない。散々躊躇ったあげく、氷はその男を背後から撃ち殺した。そうしなければ、自分が殺されていたから。
 それから、沢山の人間を殺した。殺したというよりも、生きたまま食べた。氷が望んでそうしたのではなく、生きる為に喰らい尽くすしかなかった。喰われた者の中には大人もいたし、氷と同じ世代の少女もいたが、詳しいことは、もう覚えていない。
「人間が生き残る為に私達を殺すというのなら、私達だって、生き残る為に人間を殺している。だから、同じだと言っているの」
 氷は、初めて自分の意思で人間を殺した時の事を思い出した。殺したのは、姉を犯した男だった。氷が男を見つけたとき、男は既に死にかけていた。放っておけばその場で野垂れ死んでいただろうから、氷は男の腹を軽く突いてやるだけでよかった。少女は男の腹に”牙”を抉りこませ、内臓をぶちまけた。死体は食べた。
 男の仲間も、探し出して殺した。あの時、氷は自分が笑っていた事も思い出した。男の眼球を足の指先で潰しながら、快感を感じていた事も、下着が冷たい汗と体液でぐっしょりと濡れていた事も思い出した。
「あなたは私の事を”人間とは違う”と言う。確かに、私の身体は人間ともポケモンとも、あなたのような特殊な力を持ったポケモンとも違う。
 でも、私は人間なの。だから憎い。子供を殺して、そこに何の躊躇いも後悔も罪悪感も抱かない、あなたの事が憎い」
 突然、沙季の瞳が蒼色に輝いた。氷の右手首から炎が迸る。氷は咄嗟に拳銃の引き金を引いた。弾丸は僅かに照準を外れ、沙季の肩に食い込んだ。
 沙季の肩が砕け、鮮血と砕けた骨が壁に飛散した。だが、彼女は痛みを感じてはいないようだった。平然と氷の姿を見据え、理解出来ないとでも言いたげに軽く首を振っている。
「どうして、そこまで人間に拘るの? 人間の味方をするの? あんな残虐で、醜くて、生きる価値も無い存在に」
 氷の右腕は燃え続けている。それを庇うように、少女は身体を屈めた。
「それならあなたも、私も生きる価値の無い存在よ。あなたは、人間を躊躇いなく殺した。私も、何回も人間を殺した。ポケモンを殺す残虐で愚かな人間と、そこには何の違いも無い。それなら、私は人間の側につく。私は人間だから。人間でいたいから」
「だから、どうして? 人間は間違いなく、あなたを殺そうとするわ。あなたの事を醜い化け物と騒ぎ立てて、容赦なく私刑にするのよ」
「あの娘は、そんなことしない」
 氷は右腕を包み込む熱と痛みに耐え切れず、その場に蹲っていた。燃え続ける部位を隠すように左の掌で覆っている。焼け爛れる拳は、痛みかそれとも沙季に対する怒りからか小刻みに震えていた。
 沙季は氷の姿を見下ろし、憐みの眼を向けた。
「お願いだから、私の言う事を聞いて。私はあなたを殺したくない。あなたは人間とは違うし、あなたが死ねば子供が悲しむ。あなたの子供がね」
 その刹那、沙季の身体が吹っ飛び、洞窟の内壁に叩きつけられた。ごつごつとした壁に赤黒い血が勢いよく飛び散る。だが、それは沙季の血ではなく、彼女の胸元で、燃えながら不気味に蠢く、氷の右腕から噴き出す鮮血だった。氷は自らの腕を引き千切り、沙季へと思い切り投げつけていた。
 腕の欠けた右肩を、その傷の断面を左の掌で押さえながら、氷は壁に横たわる沙季を睨みつけた。蒼白な、表情の無い顔の中で、瞳だけが血走ったように赤みを帯びている。その色は、少女の指の隙間から止め処なく溢れる血の色より、遥かに鮮やかだった。
「あら、気づいていないとでも思ったの?」
 沙季は言った。氷は血塗れになった掌を握り締め、口許を歪めた。微かに覗く牙が、擦れる様な鈍い音を奏でている。
「やっぱり、そこのモンスターボールに入っているアーボックハブネークは、あなたが産んだのね」
「どうして、気づいた」
「ボールの中に入っていても見えるのよ。あの2匹は、あなたと同じ眼をしている。あなたの事を、主人とも友達とも思っていない。血のつながった母親と思っている。あなたは気づかれないようにしていたつもりみたいだけど、あなたがボールに注ぐ視線は、母親のもの以外の何物でもなかったわ」
 即座に、氷は床に落ちた拳銃を左手で拾い上げた。銃声が洞窟内に響いた。氷は容赦なく、沙季の身体を撃ち抜いていた。沙季は全身に弾丸を受け、瞳を見開いたまま絶命した。無数に開いた傷からは鮮血が噴き出し、彼女の胸に抱かれていた氷の右腕を包み隠した。
 氷は、拳銃を握り締めた腕を静かに下ろした。荒い息で、自らの吐き出す白い息を、その先に霞んで見える沙季の屍体を呆然と眺めていた。
「それで終わり?」
 沙季の声が聞こえた。初めは幻聴かと思った。目の前には沙季の屍体が転がっている。沙季の声であるはずが無かった。氷は瞳を泳がせ、静かに声のする方へと振り返った。
「あなたが殺したのは、私の幻よ」
 銀の毛皮のキュウコンが佇んでいた。射る様な瞳で氷を見据え、キュウコンは沙季の声で嗤った。氷は沙季の屍体へと視線を戻した。沙季の屍体は既に無かった。いや、初めからそんなものなど存在していなかった。萎えて痙攣している、氷の焼け焦げた右腕が転がっているだけだった。
「可哀想な子。でも、私に協力してくれないのなら、燃やすしかないわね」
 キュウコンの鋭い眼が、妖しく蒼い色を帯びた。氷は身構えた。即座に、焼けるような痛みが、少女の全身を包み込んだ。
 だが、その痛みは長くは続かなかった。全身に広がった熱は急速に冷めた。氷は閉じていた瞳を薄く開き、キュウコンの様子を伺った。
 キュウコンは硬直していた。見開かれた瞳からは、光が失せていた。同時に、白い霧が洞窟の深部から発生した。白い霧はキュウコンの身体に絡みつき、やがてキュウコン自身を飲み込み、包み隠した。
「何が、起こったの?」
 氷は呆然と呟き、辺りを見回した。背後に人間の気配を感じる。振り返ると、黒い法衣を全身に纏った怪しげな男が、霧の奥に消えたキュウコンの姿を眺めていた。男の手には透明な水晶玉が握り締められていた。氷は、その水晶玉に良く似た宝玉を、どこかで見たことがあるような気がした。
「誰?」
 低く抑えた声で、訝しげに氷は男に問いかけた。男は氷の事など、彼女が血塗れであり、右の腕が千切れている事すら、見えていない様子だった。問いかけには答えず、男は氷へと近づいた。
「近寄るな」
 咄嗟に左腕に握り締めた拳銃を突き出し、氷は男を威嚇した。
「あなたは、一体──」
 そこまで言いかけて、氷は眼前から男の姿が消えた事に気づいた。男は、氷のすぐ横に立っていた。振り返る暇すらなく、氷は背中の辺りに、男の大きな掌が触れるのを感じた。彼女の瞳が、法衣の狭間から覗く男の顔を、歪んでいるかのような口許を捉え、そこに危険な何かを感じた瞬間、背中に触れる男の指先の感触が、より強く彼女の中に食い込んだ。氷は背中に、肩から腰の辺りにかけて、弾けるような衝撃と、それに伴う痛みを感じた。
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。氷は洞窟の外へ弾き飛ばされていた。鬱蒼と生い茂る木々の中に、氷のぼろ布のようになった身体が突っ込んだ。岩の破片や小枝が全身に突き刺さり、背中は中央の部分からばっくりと裂け、砕けた骨が覗く。
 辺りは暗くなり、雪が降っていた。氷は痙攣する首筋を左手で押さえつつ、微かに首を上げた。洞窟の奥を見やる。黒い法衣の男が、白い霧へ、持っていた水晶玉を掲げている。霧の中から腕が伸びるのが見えた。キュウコンの腕でも、沙季の腕でも無い、華奢で細い少女の腕だった。霧の中から伸びる腕は、男の掲げる水晶玉に触れた。白い腕は暫くそのまま動かず、やがて水晶玉から指先を離し、霧の中へ溶けるように消えた。
 男は何かを感じ取ったかのように、急に振り返り、洞窟の外へと出た。茂みの中に沈み込んだ氷を一瞥した後、辺りを見回す。氷は男の声を聞いた。思っていたよりも野太い声で、男は遠くの誰かに話しかけるような口調で言った。
「意外に早かったな。だが今更、邪魔をしたところで、もう遅い」

 

○●

 強い”能力”の胎動を感じた。それはかつて、彼女が死の間際に感じたそれと同質のものだった。背筋が震えた。また、誰かが死ぬ。今、燻っている”能力”が覚醒すれば、多くの人が死ぬ。漠然とした不安が胸に浮かび上がったが、彼女は強引にその思考を掻き消した。
 陽炎ミルは黒いローブの後を追い、シロガネ山のカントー側に広がる樹海の中を進んでいた。黒いローブの男が残していった白い意識の気配は、次第にその濃さを増していく。自然と、ミルの歩く速度も早くなる。
 不意に頬に冷たい物が触れた。雪が降っていた。ミルは思わず立ち止まり、両手を広げて降り注ぐ雪を掬った。掌につんと冷たい感触が広がり、雫となって滴り落ちる。
 ミルは濡れた手を胸元にあて、自分の鼓動を感じた。まだ、失っていない、と心の中で呟く。感覚も心も、昔のまま変わっていない。ただ、身体が少しづつ喪われていくのは、削られていくのはどうしようもないけれど。
「ここで決着つけないと、もう時間は無い」
 崖から転落して死んだミルを生かし続ける”虹の瞳”は、完全にミルを生き返らせた訳では無かった。そもそも、生き返らせるという解釈そのものが間違っていた。”虹の瞳”の効果は、ただ単にミルの残留思念を身体に留まらせているに過ぎなかった。
 ミルの故郷は、大昔から二つの宝玉を祀り、護っていた。その為、幼いころから彼女は宝玉の言い伝えを聞かされて育った。
 ”虹の瞳”は『復活』を、”深海の涙”は『祝福』を意味し、前者は死の淵に立つ人間の魂を甦らせ、後者は死んだ人間の魂を、さらに深いところまで沈める。だが、それは宝玉を”鍵”とした場合に発揮される力であり、ミルには扱いきれるものではなかった。それはミルも知っていたし、覚悟もしていた。
 だが、実際に嘔吐し、そこに自分の腐乱した内臓を見たとき、ミルはそこに払拭しようのない絶望を感じた。今の自分は、ただ動くことができるだけの、腐りかけの屍体である、と否応なしに再確認させられた。ゾンビと同じではないかとすら思った。
 ミルはもう一度、確かめるように呟いた。迷っている暇も、悲しんでいる暇もミルには与えられていない。何故なら──
「もう、時間は無いんだから」
 濡れた手を握り締めたとき、近くで銃声が響いた。ミルは我に返り、音の響いた方向を見やった。木々に阻まれて何も見えなかったが、銃声の響いた先は、ミルが目指す先、つまり黒いローブの男が向かった先と、同じだった。ミルは胸騒ぎを覚え、音の響いた方向へと小走りに向かった。
 再度、銃声が響いた。ミルは走り出していた。辿り着いた先は、一見すると何も見当たらない、樹海の中にぽっかりと空いた空白のような、広場だった。
 ミルは注意深く辺りを見回し、洞窟を発見した。洞窟は、鬱蒼と生い茂る蔓や苔に包まれ、まるで他者の意思によって、ひた隠しにされているかのようだった。
「洞窟の中に、誰かいる」
 ミルは遠くに転がる岩の後ろに隠れ、洞窟の様子を伺った。
 濡れた布で壁を打ち付けたような音が、洞窟の中から響いた。同時に、真紅に染まった何かが勢い良く洞窟から飛び出し、木々の中に突っ込んだ。肉を潰すような、生々しい湿った音が聞こえ、鮮血が辺りに飛散した。うごぇ、という掠れた呻きが血に塗れた木々の間から漏れる。
 洞窟の中から、背の高い人物がうっすらと浮かび上がった。ミルは目を凝らした。体つきから男と解った。掌に、光る何かを握っている。黒い法衣に身を包んでいる。そこまで認識すると同時に、ミルはその男の名を、憎々しげに呟いていた。
「ファルズフ。こんどこそ、逃がさない」
 ファルズフは洞窟から出ると、訝しげに辺りを見回した。やがてミルの気配に気づいたのか、岩の方へ視線を向け、野太い声でミルに話しかけた。
「意外に早かったな。だが今更、邪魔をしたところで、もう遅い」
「あんた、こんな所で、今度は何をするつもりなのさ」
 ミルは立ち上がった。岩に身を隠したまま顔だけを出し、ファルズフを睨みつける。掌に触れる岩肌を強く握り締め、怒りに震える指先を抑えつける。
「あの御方が、復活されるのだ」
「あの御方?」
 ミルは眉を顰めつつ、腰にかけたリザードンモンスターボールに手をかけ、男へと放り投げた。
「何にしたって、これ以上、その宝玉の力は使わせない」
 ボールが開き、閃光の中からリザードンが飛び出した。リザードンは勢いに乗って低空を旋回し、ファルズフへ火炎弾を放った。だが、ファルズフは掌を掲げ、もう片方の手に握り締めた宝玉の力で、火炎弾を撥ね退けた。
リザードン、翼で打つ!」
 ミルは叫んだ。遠距離の攻撃が当たらないのであれば、近距離でそれも直接攻撃するしかない。リザードンは頷き、ミルの真上すれすれを滑空した。大きく羽根を広げて上昇すると、ファルズフへ目掛け、一気に急降下する。
 男は掌を上空に掲げた。リザードンの鋭く尖った羽根の先端が男の身体に触れる前に、リザードンは弾き飛ばされた。まるで見えない壁が男を囲んでいるかのように、ミルには思えた。
 リザードンは重心を崩し、岩場に墜ちていく。落下点に、先端の尖った岩が聳えているのが見え、ミルは慌ててボールを突き出した。岩の先端が背中に食い込み、貫通するぎりぎり寸前のところで、リザードンは赤い光に吸い込まれ、ボールへと戻った。
「やめておけ」
 男は言った。嘲るような口調だった。
「さっきも言っただろう。もう遅い。今更何をしても、あの御方は復活する。これ以上邪魔をすれば、そこの子供のように、潰れる事になるぞ」
「潰れる、子供?」
 ミルは咄嗟に、先ほど血飛沫の上がった茂みを見やった。白い指先が見えた。男が言うように、子供の手だった。華奢な手首から、女の子のものだと解った。少女の二の腕は、血に塗れていた。血は乾き、黒く濁っている。血の隙間から見える肌は色を失い、辺りに薄く積もった雪の中に溶け込んでいた。もう、死んでいるのだろう。
 ファルズフの表情が歪んでいた。その顔はフードの陰に隠れていたが、ミルには、男が少女の惨たらしい屍体を見つめ、嗤っているのが解った。ミルは男が屍体を見つめる隙に、少女の元へと駆け寄った。
 少女の身体は、複雑に絡み合った蔦と枝の中に埋もれ、腕だけがそこから突き出していた。ミルは徐に茂みへと手を伸ばした。枝が掌に刺さる。植物独特の青臭い臭いと、錆びた血の臭いが混じり、ミルの鼻を衝く。ミルは息を止め、一気に少女を隠す蔦や枝を掻き出した。
 ミルは少女の身体を見つめ、息を呑んだ。少女の片腕は引き千切れ、無くなっており、背中は柘榴のようにはち切れ、砕けた背骨が筋肉や内臓に深く食い込んでいた。だが、それよりも、ミルは少女の顔に見覚えがあることに驚きを覚えた。
「氷ちゃん──」
 血塗れで横たわる少女は、射水 氷だった。ミルは震えた。全身が、身体の芯から、小刻みに震えた。
 忌わしい記憶が、ミルの脳裏に蘇った。時折、夢に見るおぼろげな映像とは違う、痛いほどに鮮明なイメージだった。
 少女の皮を突き破り、蛇の形をした夥しい数の触手が伸びる。触手は誰かを喰らっている。ミルは目を凝らす。じっとみつめ、触手の隙間から見えるのは、鼠の化け物だった。化け物は、触手に貪り食われて人としても獣としての形すら喪っていた。触手の根本には、少女の首だけがあり、少女の首もまた鼠の肉片を口に含み、咽ながらも咀嚼している。
 氷が瞳を開き、ミルを覗き込んだ。ミルは思わず顔を引きつらせ、後ずさる。
「生きてる。生きてるの?」
 氷は震えるように頷き、何かを言いかけて血を吐いた。黒く汚れた氷の口許が、鮮血に塗り潰される。
「知り合いか? それなら、あの御方が裁くまでも無く、私がまとめて葬ってやろう」
 ファルズフは言い、少女達へ掌を掲げた。もう片方の手に握り締められた水晶の力が、掲げられた掌に、その指先に集中していく。ミルはその様子を肌で感じ取った。胸元の”虹の瞳”が仄かに熱を帯びている。男の持つ”深海の涙”のエネルギーに反応しているのだろう。
 そこまで考えて、ミルは理解した。何故、ファルズフへの攻撃が当たらないのか。何故、射水 氷は身体が潰れるほどの重症を負ったのか。
「あんた、深海の瞳のエネルギーをダイレクトに放出できるの?」
「そうだ。あの御方を媒介にし、この水晶の力を直接、指先から放出できるのだ。特に今は、あの御方の調子が良い。お前達を潰すなど、造作も無いことだ」
 男の掌から青白い光が漏れた。ミルは咄嗟に身構えた。男の指先に集中したエネルギーの波が、ミルの頬を掠める。ミルは歯を食いしばり、目を閉じた。氷と同じように砕ける自分の身体を想像する。氷ちゃんならまだしも、私なら即死だろうな。瞼の裏に浮かぶのは、真っ黒な絶望だけだった。
 男は腕を突き出した。衝撃波は男の掌から放たれた。だが、その衝撃波は少女達の頭上を霞め、背後に犇めきあう木々をなぎ倒し、岩を砕いた。
「狙いが、外れた?」
 ミルはおずおずと瞳を開き、ファルズフの方を見やった。男の掌は、ミル達よりも僅かに上へと向けられていた。後少しでも男の掌が下に向けられていれば、ミルと氷は衝撃波に飛ばされ、遥か後方に転がる岩のように砕け散っていただろう。
「ぐ、誰だ?」
 ファルズフはミル以上に驚きの表情を浮かべていた。その口許から嫌らしい笑みは消え、苦痛に歪んでいた。
 ミルは男の脇腹に、何か小さな物が食い込んでいるのを見た。暗闇のせいでよく見えなかったが、それは瞬時に男の身体を離れ、空中で回転した後、先ほどまでミルが隠れていた岩の天辺に着地した。
 雲が晴れ、星の光が辺りに降り注いだ。茶色い体毛が見えた。それは顔を上げ、男を睨んだ。小さな身体からは想像もできない、鋭い瞳が見えた。唸り声が聞こえた。怒りを帯びた声だった。そこで初めて、ミルはそれがイーブイであることに気づいた。憎しみに満ちた形相からは、可愛らしいイーブイの面影は全く感じられなかった。具現化した怨嗟が、イーブイの皮を被っているのではとすら思えた。
イーちゃん
 女の子の、それもとても幼いであろう声が聞こえた。
「あの男の人が、そうなんだね?」
 イーブイは女の子の声に頷いた。
「誰だ?」
「あなたが、その水晶玉の力を使って、エンジュシティで黒い霧を蘇らせた人ですね?  その水晶玉を奪う為に沢山の人を殺して、グラシャラボラスという船を沈めた、ファルズフって人ですよね?」
 瑞穂の声だと、ミルは気づいた。ミルは声のするほうへ視線を移した。瑞穂はいつの間にかイーブイの背後に立っていた。腕を伸ばし、イーブイの頭を軽く撫でている。イーブイは不意に怒りを忘れたかのように顔を綻ばせ、瑞穂の細く華奢な胸元に頬を寄せた。
「違いますか?」
 瑞穂は、不安げに顔を曇らせた。
「ああ、そうだ。お前は何者だ」
「ですよね」
 イーブイの頭から手を離し、瑞穂は横目でミル達を見つめた。そしてミルの横に倒れている血まみれの氷の姿を認め、顔を強張らせた。
「お前も、あの御方の邪魔をするつもりか。ならば、あの子供と同じように潰す」
「そうやって、氷ちゃんとミルちゃんを傷つけたんですね」
 瑞穂は男の言葉が耳に入らなかったかのように、ファルズフを睨みつけた。
イーちゃん、そろそろ時間だね」
 瑞穂はイーブイの頬を撫でる。イーブイは一瞬だけ、寂しげに瑞穂へと微笑みかけると、躊躇いがちに視線をファルズフへと移し、睨みつけた。瞳は鋭くなり、微かに血走っている。それは、瑞穂へ見せていた笑みとは全く正反対のものだった。
 暗がりの中に、柔らかな光が広がった。光はイーブイを包み込んでいた。瑞穂は瞳を細め、イーブイの様子を見つめていた。
 光が治まった。イーブイの姿は消えていた。そこにあるのは、闇だけだった。瑞穂は優しげな表情で闇へと手を伸ばし、撫でるような手つきで掌を滑らせる。
 闇から仄かな、円の形をした光が、幾重も浮かび上がった。赤紫の大きな瞳が、ぎょろりと辺りを見回す。瞳は瑞穂を見据えた。
「いこうか、キーちゃん」
 瑞穂は闇へと話しかけた。仄かな光は、細々と降り続く雪に反射し、闇の輪郭をはっきりと照らした。瑞穂の掌の先には、イーブイから進化したブラッキーが静かに佇んでいた。
 ブラッキーは瑞穂の言葉に小さく頷き、憎悪に満ちた赤紫の瞳を、黒いローブの男へと向けた。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-2

#15 天使。
  2.生贄の復活祭

 

 全国でも有数の標高を誇るシロガネ山。青い空と白い雲とに彩られた山の中腹に、静かに広がっている樹海。それはさながら、澄んだ泉の底深くに溜まっている汚泥のようであり、夢のような夜景の最深部に溢れている、喧噪にも似ていた。どれも、遠くから眺めるだけならば、素晴らしく美しく癒やされるものなのだろうが、その裏側には、奥底には、醜く荒んだ現実が隠れている。
 逆に言えば、醜さを上手くカモフラージュできるからこそ、万人に受け入れられ、賞賛されるのかも知れない。
 それは私も同じだ。と、射水 氷は思った。私も、可愛らしい少女の皮を被って、醜い姿を隠しているに過ぎない。そして、自分の身体を包む皮は薄く脆く、ちょっとしたことで破けて、醜い姿を晒す。口からだらしなく臭い涎を垂らし、全身をグロテスクな蛇の触手が這い回る、あの汚れた姿を晒す。
 静まり返った木々の隙間を縫うように女は歩き、氷は無言のまま後に続いた。氷は不意に、身体が傾くのを感じ、慌てて近くに生えていた木の幹にしがみついた。暗い思考は途切れた。緊張の糸が切れたかのように小さく息を吐き、足もとを見やる。地表に食い込んだ木の根っこが、氷の華奢な足に噛みついていた。天然の罠だった。
「大丈夫? この辺りは足場が悪いから、気をつけて」
 背後の気配が揺らいだのを感じ取ったのか、女は振り向いていた。女の胸には、金の毛皮を持つロコンを大事そうに抱きかかえられている。ロコンの瞳は、相変わらず円らで、好奇心に満ちた視線をあちこちに巡らせていた。
 氷は軽く頷いて見せ、慎重に足場を確かめながら再び歩き始めた。だが、氷は何度も地面に躓き、その度に近くに木々にしがみつく。体勢を立て直し、氷は女の背中を縋るように目で追った。女は、氷とは対照的な馴れた足取で、足もとを確かめることもなく、流れるように進んでいた。細い足腰からは想像もつかない、強靱な跳躍力だった。
 女に案内された場所は、こじんまりとした木造の小屋だった。深く暗い樹海の中に隠れるようにして建っており、氷も最初は、そこに小屋があることに気付かなかった。目を凝らし、手を伸ばして触れてみて、そこに壁の感触を感じ取って初めて、小屋が見えたような気がした。幻に首を突っ込んだような、化かされたような感覚に、氷は目眩を感じた。
 中に入り、女は安心しきったように溜息をつくと、胸に抱いたロコンを降ろした。簡素で、生活感の感じられない部屋だった。トイレも、キッチンも見当たらなかった。喫茶店にあるような2人掛けの椅子とテーブルが中央に置いてあるだけで、他に家具と呼べるような物は無かった。
「そこのソファに座ってて。紅茶はレモンがいい? それともミルク?」
「どちらでも。ただし、冷たいのにして」氷は辺りを見回しつつ「それよりも、ソファなんて何処に――」
 ソファはあった。氷の背後に、紺のソファが横たわっていた。氷は瞳を細め、睨むように女を見つめた。女は紅茶を煎れていた。湯気が見えた。湯気の奥から、女の手が見えた。そしてその手は、薄いピンクのティーポットを掴んでいた。
「どうして、そんな目で私を見るの?」
 女は口許に薄笑いを浮かべながら言った。視線を自分の指先に向けたまま、独り言のように呟いていた。
「あなたは誰?」
 氷は訊いた。苛立ちと敵意を微かに含んだ、短いが鋭い口調だった。即座に腰の拳銃を引き抜けるよう掌を開き、呼吸を整えた。返答によっては、威嚇ではなく、撃ち殺すのもやむを得ないと、氷は指先に力をこめた。
「あぁ。そういえば自己紹介してなかったっけ。私の名前は沙季。橘 沙季。あなたは?」
射水 氷」
「変わった名前ね」
「私が訊きたいのは、名前じゃない。あなたの正体。本当の姿」
 沙季と名乗った女は、手を止めた。掴んでいた筈のティーポットは、立ち上る湯気の中に吸い込まれるように消え、細く長い指と木製の壁とが、くっきりと氷の瞳に映った。氷へと振り向く沙季の表情は、冷たく尖っていた。眉を潜め、先程までとはうって変わった鋭い瞳で、氷の顔を覗き込んでいる。
「鼻が利くのね。いつから気付いたの? 私が人間じゃ無いことに」
「最初から。焼き殺された密猟者を目の前にして、何喰わぬ顔でロコンを抱いたときから。人間の焼屍体を気にも留めずに、ポケモンの心配だけをする、あなたの行為には違和感がありすぎる。それに――」
「それに?」
 沙季は上目遣いで氷の口許を見やり、小首を傾げた。彼女の背後に立つ壁が、穏やかな木目調の色彩が次第に薄れ、暗い灰色の岩肌が微かに見えた。
 瞼の裏に霧が張り付いたような感じだった。氷は拳銃のグリップを握り締め、手に力をこめた。視界が霞む。頭の芯を紐で縛られたような不快感があった。
「その幻惑。それではっきりと、あなたが人間ではないと確信した。馬鹿な人間は騙せても、私は騙せない」
 沙季は言い訳も反論もしようとせず、黙り込んで氷の顔を眺め続けるだけだった。氷は彼女の目に、瞳に、その瞳を包み込む色に、既視感を覚えた。ロコンの瞳と同じだ。好奇心に満ちた、真っ直ぐな視線。
 小屋は消えた。簡素な内装も、家具も、微かに漂う木の香りも、掃いたように消えた。すべては幻惑という、偽りの感覚だった。頭の芯の締めつけられるような不快感と、霧のように朧気な視界も、同時に消えた。足下から冷気が伝った。
 そこは、ほの暗い洞窟の中だった。岩場での乾ききった風や樹海の湿った空気とは違う、静まり返った冷気が氷の白い肌をつつく。
「あなたはポケモンね? この幻惑をつかって、人間に化身しているだけのポケモン
「ええ。そうよ」
 機械的で、ぎこちない笑みを浮かべながら沙季は頷いた。この笑みも偽物だ。だからこんなにも作り物のようで、底が浅い。所詮はポケモンが、人間の表情を真似ているに過ぎないのだから。
 沙季の仮面のような笑みを睨み付け、氷は腰の拳銃を引き抜いた。一瞬の早業だった。引き金に指をかけ、銃口を彼女の額に押しつける。
「あの男2人を、密猟者を焼き殺したのも、あなたね?」
「その子を、ロコンを殺そうとしていたから。だから、”能力”をつかった。それだけよ」
 小さく俯き、足下に佇むロコンを見やりながら、沙季は呟いた。平坦な口調で、その表情も微笑みを浮かべたまま固まっていた。だが、仮面の奥から覗く瞳だけは、鋭利な刃物のような銀色の輝きを放っていた。縁差に満ちた銀色の眼は、額に突き付けた銃口を、その奥に佇む氷を見据え、蝋燭の灯火のように揺れていた。
「金色の毛皮は珍しいから、この子は密猟者にずっと狙われてる。この子を殺して、その屍体の皮を剥ぎ取ろうとしてるのよ。正気じゃないわ。私はずっと見てきた。この子と出会う前から、見てきた。人間は醜くて、愚かで、生かす価値のない生き物であることを。だから、殺すの。人間は、この子を狙う人間は、みんな殺してやるの」
「ずっと見てきた――?」
「こう見えても、私は千年以上生きてるのよ。私が”能力”を自在に操ることが出来る特殊な存在だからなのか、元々私の種族が長生きなのかどうかは分からないけれど」
 氷は肩の力を抜き、銃口を沙季の額から外した。
キュウコンね? 昔話によく出てくる。千年以上生きる特殊なキュウコンは、人間に擬態することができるって」
 沙季の顔から笑みが消えた。彼女は仮面を外した。生暖かい風が、氷の頬を撫でた。空気が澱み、視界を再び朧気な靄が包み込んだ。
 炎が見えた。白に近い、銀色の炎。だが、それは炎ではなかった。銀の毛皮を持つキュウコンの、九本の尾を神々しく広げて佇む姿が、暗闇の中で輝く炎に見えたのだ。それは幻惑などというまやかしではない、現実の光景だった。
 銀色のキュウコンは、少女の姿の時とは対照的な鋭い瞳を氷へと向け、低い唸り声を上げた。氷は掌に力を込めた。標準を再び、相手へと定める。その瞬間、拳銃を握っていた右腕に激痛が走った。燃えていた。赤々とした炎に包まれ、右腕は燃えていた。
「どう? これが私だけの特殊な力――”フレイム”の能力」
 キュウコンは人間の言葉で、そう言った。言いながら白煙に包まれ、少女の姿へと戻った。少女は薄い笑みを浮かべ、痛みに呻く氷の姿を眺めた。
 燃えつづける右腕の炎を振り払おうと、氷は左手で燃え盛る部位を叩いた。炎は左腕にも燃え移った。氷は歯を食いしばり、灼ける両腕を岩肌に擦り付ける。手にしていた拳銃が地面に落ちた。鉄の芯が地面を叩き、その音が響くより先に、氷は膝から崩れ、倒れた。

 

○●

 血の匂いだ。あの時、確かに小さな柔らかい体を抱きかかえながら、この匂いを嗅いだ。火薬の灼ける香りを。四散した肉片が放つ死臭を。谷底から吹き上がる乾いた風は、死の匂いを運び、辺り一面に容赦なく撒き散らした。
 幼い瑞穂は泣きながら、涙に覆われた瞳で、それを見た。屍体を見つめた。見てしまった。忘れない。忘れようもない。記憶という名のフィルムに焼き付けられて、昔のことを思い起こす度に、色褪せることのない光景が、打ち捨てられた屍体が、屍体の浮かべる惨めな表情が、脳裏に浮かぶ。
 瑞穂は崖の淵に立ち、吹き上がる風を浴びていた。あれから数年経った今でも、血の匂いは消えていない。むしろ想像力という羽根をつけて、記憶の中の匂いは、光景はより凄惨なものへと飛躍しつつある。見下ろせば、血塗れのリングマの屍体が、今でも転がっているような気がして、瑞穂はそれが錯覚だと理解していても、谷底を見下ろすことはできなかった。
「こんな所に僕を案内して、何を見せてくれるのかな?」
 瑞穂の背中を眺めながら、サリエルは言った。感情のこもっていない、平べったい声だった。瑞穂はゆっくりとサリエルの方へと振り向き、彼の顔を見つめ返した。小さな背中を、激しい勢いの風が撫でる。少女は押し出されるように一歩前へと進み、強風に乱れた髪を手で押さえた。
「この場所に、見覚えはありますか?」
「さぁ。始めてくる場所だよ。シロガネ山に、こんな場所があるなんてね」
「そう、ですか」
 少しだけ肩をすくめ、瑞穂は上目づかいにサリエルを見つめ続けた。その視線は次第に鋭くなり、やがて睨むような目つきへと変わった。サリエルは口許に笑みを浮かべたまま、溜息をついた。
「君は何が言いたい? 山小屋の電話から、警察に通報できたんだから、それで終わりだろう。わざわざこんな所に、それも2人きりで、僕を呼び出す理由は何だ」
 瑞穂は口を開いた。暗く沈み込んだ眼を細め、少女はもう一度、同じ言葉を発した。
「本当に、この場所に見覚えはありませんか?」
 彼は顎を引いた。口許の笑みを掌で隠し、微かに苛立ちの表情を浮かべる。
「無いよ。記憶に無いね」
「私はありますよ。ここで、この場所で――」
 言いながら、瑞穂は腰のモンスターボールの開閉スイッチを指先で擦るように押し、リングマを外へと出す。リングマは、少女とは対照的な、強靱な巨躯を強張らせ、低い唸り声を上げた。少女と同じようにサリエルを睨み、今にも噛みつきそうな形相をしている。
「この子の母親が殺された。殺したのは、手の甲にタトゥのある、初老の男です。男は不思議な形をした銃で、この子の母親を、リングマを撃ち、谷底へと落とした」
「それで?」
「男は相手の死を確認すると、その場から去りました。でも、その場にいたのは、初老の男だけじゃなかったんです」
 サリエルは口許にあてていた掌を降ろし、顔いっぱいに笑みを浮かべた。彼の瞳は大きく見開かれ、少女の小さな体を食い入るように見つめていた。
「言いたいことは解ったよ。その場所に、僕も居たと言いたいのだろう?」
「違いますか?」
 訊きながら、瑞穂は掌を握りしめた。指先が怒りに震えるのを悟られないために。少女のその仕種は、自分の考えの正しさを確信しているということを意味していた。
 ボールの中で怒りに震えるリングマの呻きを聞いたとき、瑞穂は思い出していた。母親のリングマを殺した、黒いタトゥのある男の姿と、その男の背後で笑みを浮かべ、初老の男に指示を出す少年の姿を。
 小銃を構えた男の事ばかりが印象に残っていたため、少年のことは記憶の奥底に埋もれ、忘れていた。だが、一度思い出してしまった記憶は、今にも触れられそうなほどに鮮明で、細部まで正確に映しだされていた。少女自身の成長によって、その時に少女の理解し得ない部分が、覆い隠していたフィルターが剥がれ落ちていた。
「いや、僕もたった今、思い出したよ。」
 サリエルは動揺することもなく、言い放った。喋るたびに頬に刻まれた鋭いタトゥが不気味に、それ自身が意志を持っているかのように蠢いた。
 瑞穂は黒い部分を見つめた。それは初老の男の手の甲に刻まれたタトゥに似ており、彼の背後に立ち、無邪気に微笑む少年の頬に刻まれているものと、同じ色、同じ形をしていた。だからこそ、瑞穂は記憶の奥底に埋もれていた少年の姿を、鮮明に思い出すことが出来たのだ。
「だいぶ昔の事だけど、確かにここでリングマを殺した。殺したのは僕じゃないけど、指示を出したのは僕だよ」
「どうして、殺したんですか? 何の罪もないポケモンを――」
 掌を掲げ、サリエルは瑞穂を制した。
「今、この世界に罪の無い存在なんてものは無い。人間は、僕らから”禁断の果実”を盗んだという原罪を負っている。そんな愚かな人間と共に暮らすポケモンも同じ罪を負って当然だろう。特に、盗まれた果実の恩恵を最も受けている”能力者”の罪は重いよ」
「禁断の果実? それに能力者って、まさか」
 能力者。サリエルの放った言葉に、瑞穂は狼狽えた。能力者という存在が何であるのか、思い当たる節があったからだ。
「ex能力を持つ、ポケモンのことですか?」
「知っているのか。それなら話は早いよ」
 サリエルは驚いたように微かに目を開き、深い笑みを浮かべた。
「君たち人間は、能力者のことをそう呼ぶらしいね。能力者とは、禁断の果実から放たれた種を遺伝子に秘めた、特殊な個体のこと。僕らにとって、彼等は最も許されざる存在であると同時に、最も厄介な存在でもあるのさ」
「厄介な存在? 普通のポケモンには無い、特殊な能力を持っているからですか」
「いや、それだけじゃない」
 折角だから教えてあげるよ。彼はそう言い、瑞穂の隣で構えるリングマに視線を移した。頬のタトゥを指先で軽く撫でる彼の瞳は、感情の見えない冷たい色から、妖しい色へと変化していた。僕のことを理解してもらうためにも、大切な話だからね。
「能力者は、他の能力者の力を相殺することが出来るからさ。つまり、能力者同士では、お互いの特殊能力が発動しない。もっとも、それはお互いの能力が同等の場合だけどね」
 確かにそうだ。そんなことを、同じようなことを、あのロケット団の研究者も言っていた。瑞穂は記憶を探り、exポケモンの研究者だった、柊博士の言葉を思い起こした。ex特性体に対抗できるのは、ex特性体だけ。何故なら、ex特性体同士では、ex能力は働かないから。
「あなたはex特性体――能力者をつかって何かを企んでる。でも、他の能力者が邪魔だった。他の能力者によって、自分のポケモンの能力が無効化されてしまうから。だから、殺した。リンちゃんのお母さんも、その能力者だったから。だから殺したんですね?」
「ああ」
 そっけなく、サリエルは答えた。
「でも、大事な事を忘れている」
「大事なこと?」
「今、僕がここにいる理由だよ」
 瑞穂は即座に彼の言葉の意味を理解し、身構えた。サリエルは耳の、鍵の形をしたピアスに手をかけていた。彼は腕を上下に降り、少女達へ突き刺すような鋭い視線を向けた。握り締めた鍵型のピアスは長く伸び、剣へと変化していた。その切っ先は、リングマの喉元へと向けられている。
「リンちゃんも、その能力者なんですね?」
「そうだよ。能力者の持つ種は、遺伝子に隠されている。だから遺伝するんだ。そのリングマの能力は予知能力、”フォーテル”。低級の能力だけど、覚醒されると厄介なんでね」
 胸元を掌で押さえつつ、瑞穂はリングマを見上げた。昔から勘が鋭かったけど、まさかex特性体だったなんて。そう言えば――瑞穂は混乱しつつある頭の中を、必死で整理した。コガネシティで私が襲われたとき、リンちゃんは私の場所を知っていた。それだけじゃない、リンちゃんのお母さんが殺されたときも、リンちゃんは最初からすべてを知っているみたいだった。でも、リンちゃんの勘が特別鋭かったわけじゃない。リンちゃんは、最初から見えていた。最初から、少し先の未来を知っていたんだ。
 サリエルは剣の中央部にはめ込まれていたモンスターボールから、月形のポケモン、ルナトーンを繰り出した。ルナトーンは瑞穂の肩の辺りまで浮かび上がり、小さな少女と大きなポケモンを見下ろした。そして、サリエル自身も、剣を握り締め、身構えた。
 瑞穂は軽く唇を噛み、サリエルと彼のポケモンを見た。腰から護身用の小刀を取りだし、威嚇するかのように構えて見せる。サリエルと少女は、お互いに身構えたまま暫くの間、沈黙の中で対峙した。
「そのナイフで僕を殺すかい? でも、僕はハルパスとは違うよ。相手が子供だからと言って、油断もしないし、手加減もしない」
「ハルパス──? やっぱりあの人も、あの森のリングマ達を殺して、ヒメグちゃんに非道い事した人達も、あなたの仲間なんですね」
「あの森のリングマも、能力者だったからね。君のリングマと同じ、予知能力を持っていた」
 少女の握り締めた小刀の先端が、小刻みに震えていた。それは未知の存在の対する恐れではなく、理不尽なものに対する怒りから来ていた。
「リンちゃんは殺させない。リンちゃんのお母さんを殺した、あなたを、私は許さない」
「君が僕をこんな所に連れてこなければ、僕はリングマだけを殺して、君を殺さずにすんだかもしれないのに。そんなに、そのポケモンが大事か?」
 いきり立ったように歯を食いしばり、瑞穂は右腕を大きく振るった。小刀は空気を切り裂き、谷底から吹き上がる風は、支えを失った柱の如く不規則に揺らいだ。
 顔を上げ、少女はサリエルを射るような鋭い視線で睨んだ。強い風が、薄青色のツインテールを弄り、彼女の感情の波に同調しているかの如く、激しく揺れている。
「当たり前じゃないですか。リンちゃんは、私の友達であり、私の大事な家族なんですよ! 見殺しになんて、出来るわけ無いですよ」
「それなら、僕に殺されるしかないね。まぁ、どちらにしろ裁きの日が訪れれば、君達は滅ぶのだから。すべての人間は、愚かで醜く利己的で、生存する権利など欠片も無いのだから」
 少年は微笑み、リングマはその不気味な笑みへの怒りを抑えきれず吼えた。轟音が辺りに聳える岩肌を震わせ、谷底へと響き渡った。今にもサリエルに飛び掛らんとするリングマの巨体を片手で制しつつ、瑞穂は訝しげに小首を傾げた。
「あなたは何者なんです? どうしてそんなに、人間の存在を歪めて捉えるんですか? あなたも、そんな人間の1人じゃないですか」
「違うよ」
 少年は言った。瑞穂は不意に、視界の中央に立つ少年の姿が遠ざかるのを感じた。今まで、噛合わない会話を繰り返しながらも、そこに彼はいた。だが、この瞬間、少年は少年でない、別の種類の物に変わり、中身のない外枠だけが取り残されているような気がした。
 サリエルは言葉を続け、小さな少女を真正面から見据えた。不気味な視線に、瑞穂は思わず視線を逸らそうとした。だが、身体は動かなかった。少年の視線に身体の芯を射抜かれ、そしてその傷口から全身の力が抜けていくようだった。
「動けないだろう? 僕も”能力者”なんだよ。能力者の力は、何もポケモンに限定されたものじゃ無いからね」
「人間が──ex能力を?」
 動かない身体に苦悶の表情を浮かべながら、瑞穂は呟いた。
「僕は人間とは違う。姿は似ているけれど、人間とは、まったく別の次元の存在さ。かつて人間たちは、自分たちの都合に合わせて、僕らのことをこう呼んだ。悪魔だと、そして天使であるとも」
 瑞穂は少年の言葉に驚きを露わにした。途端に、全身を激痛が襲った。驚きの表情を浮かべる間もなく、少女は悲痛な呻きを上げた。
 庇うように少女を抱きかかえ、リングマは咄嗟にサリエルの方向を見た。少年は瞳を細め、少女の全身を舐めるように執拗に見つめていた。原理は解らなかったが、リングマは瑞穂の苦しむ原因が、サリエルの視線にあると気づいた。
 巨体に抱いた少女をそっと手放し、リングマは野太い咆哮を辺りに響かせ、サリエルへと飛び掛った。サリエルは瑞穂から視線を外した。と同時に、瑞穂は脱力し、その場に倒れた。冷たい地面にぐったりと横たわる瑞穂の小さな身体。全身から滲む汗が衣服を濡らし、手足が微かに痙攣している。
 サリエルは視線の矛先を、リングマに向けた。リングマは一瞬、分厚い硝子の壁に阻まれたかのように動きを止め、沈黙したが、すぐさま腕を振り回し、その場で一度、大きく口を開き、鋭い牙を剥き出したまま吠えた。
 少年は軽く舌打ちした。
「覚醒しかけている──か。僕の”グレア”の能力を中和するとはね」
 リングマは太い腕を振り上げ、サリエルの頭部めがけて振り下ろした。即座にルナトーンが、防御に回る。ルナトーンはリングマの力に吹き飛ばされ、後方に聳える岩肌にぶち当たった。
 ルナトーンの身体の一部が砕けた。サリエルは横目でその様子を眺め、手にした剣を静かに、だが素早く横へと振った。剣先が空を切り、リングマの腹を掠める。
 リングマはもう片方の腕で、サリエルの脇腹を殴った。少年は手にした剣を正面に構え、彼の拳と、衝撃の瞬間に伸びきる鋭い爪を防ぐ。鈍い金属音が2、3度鳴った。
 サリエルは剣でリングマの攻撃を防ぎ続けた。チラリと、後方に倒れるルナトーンを見やる。ルナトーンが少年の視線に呼応するかのように仄かに輝き、瞳を開くと、再び宙へと浮かんだ。
「ルナトーン、サイコキネシス
 ルナトーンの念動力が、リングマの巨体を吹き飛ばした。その隙に、サリエルは体勢を立て直し、より一層鋭く、リングマを睨み付けた。
 リングマの動きが止まった。彼は困惑した表情で自分の手足を交互に見た。サリエルは素早い動きでリングマに肉薄し、剣を彼の肩へと差し込んだ。食い込んだままの剣を、執拗に捻る。
 リングマの肩に激痛が走った。痛みと同時に、少年の束縛が消えた。低い唸りを上げながら、彼は一歩下がり、威嚇するように両腕を前へと突き出した。破壊光線を撃つ直前の、リングマ特有の構えだった。
 手足の震えと痛みを必死で堪えつつ、瑞穂は上半身を起こした。口許に光を湛え、今にも破壊光線を撃たんとするリングマの巨体が、朧げな視界に飛び込んできた。少女は目を見開き、焦りを滲ませつつ何かを叫んだ。だが、その声も、その視界も、リングマから放たれた破壊光線の光に塗り潰された。
 光は暫く渦巻き、やがて薄くなり、消えた。辺り一面を衝撃波がなぎ払い、クレーターのように地面が抉れていた。
 クレーターの中心部に、リングマは立ち尽くしていた。力を振り絞り、彼は息を荒げたまま、少年が立っていた場所を見た。
 サリエルは何事も無かったかのように、身体に降り注いだ埃を払っていた。少年の上方には、ルナトーンが浮かび、少年を守る為のリフレクターを張っていた。
「この程度なら、僕が直接、裁くまでも無かったな」
 サリエルは呟き、剣を振り上げ、リングマの肩をめがけて切り裂いた。リングマは咄嗟に剣先から逃れようと身体を動かしたが、破壊光線を発射した反動のために、避け切る事ができなかった。剣は容赦なく先ほどの傷口へ突き刺さり、彼の肩肉の一部を削ぎ落とした。リングマは破壊光線が効かなかったことと、肩を切り裂かれた激痛によって錯乱し、後ろへと倒れた。砂埃が舞い、茶色のカーテンの後ろから、少年の酷薄な顔が覗いた。
「脆いな。君の母親と同じように、ぐちゃぐちゃにしてあげるよ」
 少年は蔑みと憐みの入り混じった口調で、リングマに囁いた。手にした剣を何度かリングマに振り下ろし、突き刺す。鮮血が迸った。砂山を踏み潰す子供のように、サリエルは愉しげに、だが憎しみの宿ったような執拗さで、剣を振るった。最初のうちは低く唸っていたリングマも、激しくなる痛みと、少年の得体の知れない憎しみに困惑し、巨体に似合わぬ掠れた鳴き声を上げ始めた。
 突然、少年が倒れた。乾いた音が響き、赤い飛沫が上がった。何度か同じ音が響き、最後には湿った音へと変わった。
 リングマは肩の傷口を手で抑え、ゆっくりと起き上がった。少年の上に、何かが覆いかぶさっていた。それはか細い腕で、少年の顔を何度も打ちつけていた。サリエルは声も出せぬまま、地面へと押し付けられ、身体の上に圧し掛かる、それのされるままになっていた。
 痛みを堪えつつ、リングマはそれの顔を覗き込んだ。小さな少女の、瑞穂の顔があった。瑞穂の顔には、深い影が差し、表情を読み取ることができなかった。
 瑞穂はぜいぜい言いながら、サリエルの頬を叩き続けた。時折、苦しげに歯を食いしばり、掌が痙攣してもなお、少女は止めなかった。
 サリエルの顔から、血が吹いた。鼻血だった。少年は呆然とした様子で、瑞穂の掌に翻弄されていた。やがて痛みを認識したのか、情けない呻きが漏れた。瑞穂は疲れ果て、少年の上に座り込んだまま、茫洋とした瞳を泳がせていた。
 サリエルは即座に、足で瑞穂を突き飛ばした。瑞穂はそのまま後ろに倒れ、リングマに抱きかかえられた。少年は掌で顔を抑えながら立ち上がった。指の隙間からは、鼻血が止め処なく垂れている。だがその血を気にも留めず、サリエルは瑞穂とリングマを呆れた様子で見つめた。
「やるじゃないか。人間のくせに、僕を殴るなんて。僕に血を流させるなんて。”能力者”であり、”天使”である僕を傷つけることができるなんて。君こそ、何者だ?」
 瑞穂はサリエルの問いかけには答えず、僅かに怒りを含んだ口調で言い放った。
「リンちゃんは殺させないって、言ったじゃないですか。私には、力も、特殊な能力も無いですけど、あなたには負けない。負けられないんですよ。リンちゃんを守る為なら、私はあなたを殺してもいい」
 少年は血塗れの顔を歪め、嘲笑した。
「僕は死なないよ。少なくとも、君には殺せない。僕は、邪魔な”能力者”を滅ぼすよ。そして、神は人間を一掃する。君も、君の仲間も、すべては裁かれる。僕は、新しい世界への扉を開ける、”鍵”なんだよ」
 二の腕で顔にこびり付いた鼻血を拭い取り、サリエルは剣を構えなおした。だが、少年は急に動きを止めた。訝しげな表情を浮かべ、剣をピアスへ戻す。静かに瞳を閉じ、遠くの何かを感じ取っているかのような、耳を澄ますような素振りを見せた。
 瑞穂は突然のサリエルの挙動に、困惑した様子で立ち尽くしていた。リングマは唸り声を上げたまま、身構えている。
 サリエルは目を開いた。横目で瑞穂たちの様子を見つめ、残念そうに一言、呟いた。
「予定変更だ。君たちは後回しにすることにしたよ」
「どういう意味です?」
「君たちの相手をしている場合じゃなくなったんだよ」
 サリエルは指を鳴らした。ルナトーンが瞳から極彩色の光線を放った。リングマは瑞穂を庇うように抱きかかえたが、光線は瑞穂たちには当たらず、足元に命中した。光線がはじけ、土埃が煙幕のように少女たちを包み込んだ。煙の晴れる頃には、サリエルの姿は消えていた。
「逃げた──?」
 その時、瑞穂のモンスターボールが再び震えた。イーブイモンスターボールだった。少女はすぐにボールに触れた。リングマと同じ怒りの感情が、ボールから瑞穂の中へと逆流した。
イーちゃん?」
 瑞穂は思わずイーブイモンスターボールから手を離した。指先が痛いほどに痺れていた。大人しく穏やかなイーブイからは考えられないような、獰猛で怒りに満ちた、くぐもった唸り声が響いてくる。
 姉さん。
 リングマは肩の傷を腕で押さえながら、瑞穂へと話しかけた。
 このイーブイ、怒ってるよ。すごく怒ってる。僕は、こんな怒りは、大事な誰かを殺されたときしか知らない。僕は、このイーブイのこと、あまりよく知らないけど、僕と同じように、大事な誰かを──。
 瑞穂は首筋に冷たい汗が滲むのを感じながら、小さく頷いた。
イーちゃんは、元々私のポケモンじゃ無かった。あの森で”黒い霧”に襲われて、親のトレーナーを殺されてるの」
 このイーブイ。「嫌な臭いがする」って言ってるよ。「あの人が襲われて、消えちゃったときと同じ臭いがする」って。
「もしかして、”黒い霧”を復活させた張本人が、この近くにいる──?」
 胸騒ぎを抑えながら、瑞穂はリングマの肩を治療した後、イーブイを出した。イーブイは短い牙を剥き出し、普段とは明らかに異なる唸り声を発しながら、一目散に駆けていった。
 瑞穂はイーブイの後を追った。ふと見上げた空は、夕闇に染まっていた。空は、やがて白と黒に飲み込まれた。黒は夜の闇。朔の夜なのか月は見えず、明かりと呼べるのは、星々の光だけだった。それさえも、何かに遠慮しているかのように、細々としている。
 そして白は、踊るように降り注ぐ、妖精かと見紛うほどに美しい雪だった。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-1

#15 天使。
  1.滅びのメシア

 

 炎が爆ぜた。紅蓮の鮮やかな輝きを纏った、灼熱の炎だった。炎は岩肌を灼き、焼け焦げた岩はマグマの如く溶けていた。微かに透ける岩の表面から、ゆっくりと流動する高温の腑が覗く。
 続けざまに炎は空を翔た。薄青色の空を残像で裂きつつ、炎は1人の男を包み込んだ。
 男は黒いローブと不気味なオーラを纏い、魔術師のような妖しい出で立ちをしていた。眼前に迫った炎を避ける素振りも見せず、男は左腕を掲げた。垂れたフードに隠れ、男の顔を、そこに刻み込まれた表情を確実に伺い知ることは難しかったが、そこからは紛れもない笑みが漏れていた。僅かに露出した口許は嫌らしく醜く歪み、その歪みに引きずられるように炎は不自然に軌道を反らした。炎は明後日の方向へと着弾し、掃かれた煙のように消えた。
 陽炎ミルは眉を潜めた。少女は掌でリザードンの肩を握りしめ、年の割にはすらりと伸びた体躯を屈ませる。リザードンは、背中に跨るミルを振り落としてしまわない程度に飛行速度を速めた。
 ミルは歯を食いしばり、ぺったりとリザードンの背中に張り付いていた。華奢な背中にのし掛かる空気は重い。今ほど豊満な胸を疎ましいと思ったことは無かった。風に煽られて激しく靡く三つ編みの金髪は、のたうつ蛇を連想させた。その連想は、忌まわしい汚れた記憶を否が応にも少女に思い出させた。バケモノの記憶。蛇のバケモノの記憶。ミルは脳裏に浮かぶ記憶を振り払うように、さらに掌に力を込めた。
 リザードンは岩肌スレスレに滑空した。男の間合いから離脱すると同時に急上昇すると、リザードンは今一度、大口を開け、火炎弾を放った。
「執拗だな。無意味だということが解らないか? 私にはそんな攻撃は効かない」
 ローブの男、ファルズフは声を張り上げた。左手を先程と同じように掲げ、炎の軌道を反らす。彼の手には、ミルが取り返そうとしている宝玉、深海の涙が、不気味なほど澄んだ輝きを湛えていた。
 ファルズフを中心に旋回を続けるリザードンの背中に掴まりながら、ミルは悔しげに舌打ちをした。あの男の手に深海の瞳がある限り、こちらの攻撃は効かない。男は宝玉に宿る力を利用して、強固な防御壁のような物をつくりだしているのだろうか。
「くそっ、折角あの男を追いつめたのに、これじゃ埒があかないじゃないさ」
 だが、やるしかない。ミルは眼下に立つローブの男を睨み付けながら、胸の奥で呟いた。やっと、この男を追いつめたのだ。この近くには巻き添えになる人間もポケモンもいない。すべてを飲み込む冷たい海も無い。あの男から、宝玉を取り戻すなら、今しかない。
 リザードンの肩から片方の手を離し、ミルは首からかけたもう1つの宝玉、虹の瞳を強く握った。お守りのように宝玉を胸へと抑えつけながら、少女は意を決し、吹っ切れたような強い口調で叫んだ。
リザードン! 火炎放射!」
 リザードンはミルの声に叫びを返した。彼は竜のように美しく逞しい巨体を、さらに高く飛翔させた。その尻尾の先にたぎる炎と同じ色の翼を巧みに羽ばたかせ、リザードンは三度、男へと炎を浴びせた。
「無駄なことを――」
 半ば呆れたように、男は左腕を振り上げた。だが、炎は先程までと違い、不自然に軌道を変えることは無かった。男は慌てて身を翻し、降り注ぐ炎の塊を避けた。
「な、どういうことだ。私の、宝玉の力が発動しない?」
 男は、ミルにもはっきりと解るほどに狼狽していた。黒いローブの端を握りつぶし、彼は顔を顰め、空を仰いだ。誰かを探すような、縋るような瞳と目が合い、ミルは反射的に顔を反らした。
「あの男――何かを捜してる?」
 怪訝そうに見つめるミルを余所に、ローブの男は小さく息を吐いた。茫洋と空を仰ぎ見るその視線にはリザードンも、その背中に跨るミルも映ってはいないようだった。遠くを見つめていた。遙か遠くを。
「なるほど、そういうことですか。解りました。では、案内をお願いできますか?」
 誰かに話しかけているような口調で、男は独り言を呟いた。焦りの表情から一転、男の口許にはあの嫌な笑みが甦っていた。捉えどころの無い男の呟き声に、ミルは声に成らぬ不安を抱いた。
 リザードンが吠えた。不意に、自分を支える背中の重心が狂った。振り落とされそうになるのを、ミルは咄嗟にリザードンの首にしがみつくことで堪えた。彼は不安定な軌跡を描きつつ、空に踊っていた。
「ちょっと、どうしたのさ! あたしを落っことすつもり? しっかり飛んでよ」
 ミルの叱咤に、リザードンは反応を示さなかった。ミルは怪訝そうに、リザードンの顔を覗き込む。彼の瞳からは意志そのものが消えていた。剥き出しの白目が、痛いほどにミルにその事実を知らしめた。リザードンは、彼自身の声でない、ローブの男の声でもない、まったく別の声で、聞き覚えのある忌まわしい声で、はっきりとミルへ語りかけた。
 邪魔をしないで。やっと――やっと見つけたんだから。
 ミルの目が眩んだ。それは眩しさからくるものではなく、反転する風景への戸惑いからきていた。彼女は目を閉じ、リザードンの首筋を掴んだまま、共に墜ちた。
 岩肌が轟音を響かせて崩れた。少女の墜ちた場所を中心に、土煙が舞っていた。
 暫くして、ミルは起きあがった。辺りに漂う土煙に咽せながら、彼女は足下に突っ伏すリザードンをたたき起こした。リザードンは呆けたようにミルを見つめると、やがて思い出したように、大きく目を見開いた。手探りで記憶をまさぐる内に、彼はその中に横たわる空白に気付いたのだろう。
「やっぱり、憑依されて操られてた訳か。あんたも進歩無いね。もう少し、しっかりしてくれなきゃ困るじゃないさ」
 ミルは肩を竦めた。申し訳なさそうにリザードンは俯いた。彼女は小さく溜息をつき、慰めるように訊いた。
「まぁ、あたしも人のことは言えないけどさ。で、大丈夫なの? リザードン。あたしは何とか平気だったけど、怪我とかしてない?」
 首を振るリザードンの全身をミルは眺めた。小さな擦り傷は身体のあちこちにあったが、大きな怪我などはしていないようだった。逆に言えば、リザードンの身体が強靱だったお陰で、ミルは無傷で立ち上がることができたのだろう。彼の擦り傷は、ミルを落下の衝撃から庇った証拠に違いなかった。
 崩れた岩肌の欠片の上に飛び乗り、ミルは悔しげに辺りを見回した。誰もいない。拭われた窓の曇のように、男の姿は忽然と消えていた。ミルはおさまりかけた土煙を踏みしめ靴音を鳴らし、昂揚した気持ちを発散させるしかなかった。
「あそこまで追いつめたのに、逃げられるなんて」
 言いかけて、ミルは背後を振り向いた。胸元で揺れる水晶を握り締め、ミルは身体の芯にある感覚を研ぎ澄ました。
 黒いローブの男の感覚が――深海の涙にまとわりついた得体の知れない意志の力が、尾を引いたように残っていた。ミルは黙ったまま、掌を感じるままにその方向へと伸ばした。途端に、痺れるような凛とした刺激が指先に走った。ミルは驚いて手を引き、間違いない、と呟いた。
「あの男の感覚がまだ残ってる。ってことは、これを辿っていけば、あいつに追いつける」
 少女はひび割れた岩肌を跳び越え、足早に男の残した気配を辿った。

 

○●

 シロガネ山は死んだ山ではないと、昔、彼女の記憶に従うならば大昔に、本当の姉が教えてくれたことがあった。
 あの山はね、眠っているの。死んでいるわけじゃないんだよ。静かに、力を蓄えているの。だから、いつ目覚めて、噴火して、私達を食い尽くしてしまうか、解らないんだよ。
 少女は、姉の言葉を聞いた日から、悪夢に魘されることが多くなった。それこそ、その後に見る悪夢に比べれば他愛のない、子供の悪夢なのだけれど、少女はその悪夢を忘れたことが無い。本当の悪夢に埋もれても、夢で見た光景を忘れることはなかった。かつては恐いだけで、早く忘れたいと願った悪夢も、今となっては、記憶にもない故郷と両親を思い出す唯一の方法なのだから。
 陽炎ミルが黒いローブの男を追っているその時、射水 氷はその山の梺で、小さくこじんまりとした岩に腰を下ろし、短い休憩をとっていた。殺伐とした風景を、剥き出しの岩肌を眺めながら、少女は本当の姉の言葉を反芻していた。
 何故、そんなに昔の事を思い出すのだろうかと、少女は考えていた。一位カヤが死んでから、少女の回想にかつての組織での記憶が映しだされることが無くなった。
 代わりに思い出すのは、組織に拉致される前の記憶だった。自分が人間を捨てる以前の事。少女の記憶の中で唯一、楽しいと思えた時期。
「あの頃に、戻りたいの?」
 少女は自問した。口に出して言ってみて、もう一度、心の奥底で訊ねてみる。もう一度、あの頃に戻りたいんでしょう?
 腰が痺れるように冷たい。少女の座る岩は、いつまでも冷え切っており、温もりを宿す気配は無い。少女は人間では無いのだから。小さな白い掌で二の腕を掴んでみても、同じような冷気が掌に広がるだけ。少女には、体温と呼ばれるものが無いのだから。
 それでも、体温が宿っていた頃の記憶は、少女に温度を感じさせた。冷たいものに触れれば冷たいと感じ、温泉のお湯に触れれば火傷だけでなく、痛みと熱さを伴った。だが、温もりを持たぬ少女にとって、他の人間から感じる温もりは、虚しさ以外の何者でもなかった。
 子供の頃、今でも子供だけれど、もっともっと幼かった頃、少女は姉と共に雪の花火を見に行ったことがある。両親が寝静まった頃を見計らって、少女達は夜の町を走った。
 仄かに自分達を、自分達だけを照らす薄暗い外灯の中を走り抜ける間、少女はずっと姉の掌を握っていた。冷たく頬を突き刺す風と、掌の温もりが、同じ自分の感覚であることに、少女は不思議な、それでいて柔らかい混乱を感じた。
 姉は、着いたよと言った。少女は俯いていた顔を上げ、夜空を見上げた。月が見えた。”千年彗星の欠片”と呼ばれる、色とりどりの流星に彩られた月と、深々と降り注ぐ雪が重なり合い、少女は”雪の花火”の意味を知った。だが、姉は続けて、少女に言った。これはリハーサルなんだよ、と。本当の雪の花火は、今から5年後の”千年彗星”が降り注ぐ夜に見えるんだ。でも、ここからじゃ見えない。千年彗星が見えるのは冬じゃないから。その時に雪が降ってて、千年彗星が見える場所は、シロガネ山の頂上しかないんだって。でも、シロガネ山は、今は誰も入っちゃいけないの。
 氷は訊いた。シロガネ山って、もう死んでる山なんでしょ? 全然恐くないよ。
 無邪気に呟き、不思議そうに小首を傾げる幼い氷の肩を、姉は優しく掴み抱き寄せた。白く甘い息を耳元に吹きかけながら、姉は囁いた。
「この山は死んでいない。深い沈黙を保ちつつ、その根に力を蓄えている」
 でもね、逆にこの山が死んじゃうと、大地が枯れちゃうんだって。とっても大事な山なのに、生きることも、死ぬことも許されないって、ちょっと可哀相だよね。
 両腕を抱き、氷は自分の肩を撫でるように掴んだ。肩に凍みる掌の冷たさに涙を滲ませながら、氷は姉の体温と、耳元に吹きかかる、くすぐったい囁きを思い出していた。だが、それも今となっては、虚しい記憶でしかない。少女は、子供とは思えないような、澄んだ鈴の声で呟いた。
「私は、あの頃に戻りたい。でも、そこに姉さんはいない。誰もいない。昔の私も、私の中にはもういない。姉さん、私はこれから、どうしたらいいと思う?」
 呟きに答えは返ってこない。氷は同じことを呟き続けた。愚かな問いを、空中へと投げかける自分を惨めだと感じながら。同じ動きを繰り返し続け、それを止めることができない人形のようだと、玩具のようだと思いながら。声はやがて掠れ、視界に映る掌は、ゆっくりと歪んでいく。
 静寂が怒声に掻き消されたのは、その時だった。氷は即座に上半身を伸ばし、瞳だけを泳がせて辺りの様子を伺った。続いて、音を立てないように立ち上がる。岩肌に反響する怒鳴り声に耳を澄ましながら、少女は腰に吊った拳銃のグリップに手をかけた。声を通じて感じる殺気に、氷は神経を研ぎ澄ます。
 岩影に身を潜め、氷は声のする方向を覗き込んだ。2人の男が、何かを追いかけている。その眼は大きく見開かれ、醜く歪んだ唇からは、噛みしめられた鋭い歯が覗いていた。獲物を狙う、狩人の眼だった。
 男の一人が、小銃を構えた。片目をつむり標準を絞り込むと、引き金に指をかける。氷は即座に、小銃の指し示す標的へと視線を移した。
 金色の何かが跳んでいた。氷は目を凝らし、岩の隙間を跳ぶそれを見つめた。小さなポケモンだった。眩いほどの金色の毛皮を纏った、複数の尻尾を持ったポケモンだった。ポケモンは逃げていた。小さな身体を岩をよじ登り、幾重にも折り重なった複数の尻尾を震わせながら、必死で逃げていた。
「ロコン――それも、色違い」
 氷は思わず、その名を呟いた。一般に、ロコンの身体は明るい茶色である。だが、極稀に色違いと呼ばれる、色の違うポケモンが見つかることがある。あのロコンも、その色違いの一種なのだと、氷は悟った。
 銃声が轟いた。小銃の先から火が噴き、金色のロコンの足もとを砕いた。ロコンは飛び散った石の破片に驚き、毛の逆立った背中を大きく震わせて、そのまま岩と岩の隙間に転げ落ちた。か細い鳴き声が、キュンと一声だけ鳴った。
「手こずらせやがって。やっと見つけたってのによ」
 自動小銃を構えた男を尻目に、もう一人の男が吐き捨てるように呟いた。男は小銃を構えている男に片手で合図をし、小銃を地面へと降ろさせると、軽々と岩を跳び跳び越えていった。彼は、ロコンの落ちた岩の隙間の上に屈み込み、ロコンを捕らえようと隙間の奥へと腕を伸ばす。尻尾を掴まれたのか、ロコンの悲痛な叫びが木霊した。
 岩影に身を潜めたまま、氷は男達の様子を眺めた。ロコンの悲鳴を静かに聞いている少女の瞳は、傍観者のものだった。白く華奢な指先は、腰に吊した拳銃の硬質なグリップを撫でるだけで、握る素振りは見えない。
 炎が見えた。氷は、一瞬だけ我が目を疑った。だが、即座に自分の見ている光景が、現実であるという認識が追いついた。指先で弄んでいた拳銃のグリップを、少女は握り締めた。
 男の腕は燃えていた。男は瞳を見開き、驚きに満ちた声で叫んだ。
「おい、なんだよこれ! あ、熱い――!」
 男の叫びは、溢れんばかりの炎に飲み込まれた。屈強な二の腕も太股も、身を包み、喰い尽くさんとする業火の前には無力だった。岩の上に立つ男の姿は、既に人間の原形を留めない、炎の柱と化していた。
 男は燃え続けた。シロガネ山特有の乾いた強風が吹くまで、炎の十字架は渦巻いていた。炎が消え、岩肌の上に晒された男は炭化していた。棒立ちの惨めな姿のまま、風に煽られて男は倒れた。炭化し脆くなった男の身体は、粉々に砕け散った。
 重い静寂の中、ロコンが呆然とした様子で岩の隙間から顔を覗かせた。無邪気で怯えたような表情をし、頭の上に降りかかる炭の欠片に咽せている。
 もう一人の男は、突然の出来事に頬をひきつらせていた。相方が前触れもなく炎に飲み込まれ、殺されたのだから無理もなかった。男の顔は得体の知れないものへの恐怖心に歪んでいる。彼は錯乱状態の中で、岩の隙間から自分を覗き込むロコンを認めた。意味の解らない叫びが、発狂の声が響いた。彼は咄嗟に小銃を構えた。その銃口は、ロコンへ向けられていた。
 燃えた。男が小銃の引き金を引くよりも速く、彼の身体も炎に包まれた。炎に、全身を駆ける熱さに身悶え、彼は小銃を落とした。ロコンは、燃える彼の姿と岩の上に捨てられた小銃とを交互に、つぶらな瞳で見据えていた。ロコンの瞳には底のない沼のような、不気味な静けさがあった。沈黙の瞳の中で男は崩れ落ち、灰となって小銃の上に降り注いだ。
 氷は握り締めた拳銃を戻し、岩影から抜け出て、ロコンの目の前に立った。風に舞い、顔に降りかかる男達の灰を片手で振り払いながら、少女はロコンに話しかけた。
「今の男達は、あなたが殺ったの?」
 ロコンは応えなかった。氷の言葉の意味を理解しているかどうかすら定かではなかった。小首を傾げ、不思議そうに氷の顔を覗き込んでいる。
「その子は悪くない。その子に、これ以上近づかないで」
 女の声に、氷は顔を上げた。ロコンの背後に、1人の女性が佇んでいた。いつの間に、ここまで移動したのだろうか。先程まではいなかった筈だと考える内に、女性はロコンに近づいていき、大事そうに抱え上げた。
 ロコンは彼女の胸に潜り込み、腕の隙間から氷を覗いている。先程までと同じ、不思議そうな好奇心に満ちた瞳だった。氷はロコンから視線を外し、それを抱える女性の姿を眺めた。彼女も氷を見据えていた。敵意は感じられなかったが、警戒心を多分に含んだ目つきだった。
「あなたは? そのロコンのトレーナー?」
「違う。この子は、野生のロコン。私の友達よ」
 嘘をついているとは思えなかった。ただ、本当の事を言っていると、信じることもできなかった。氷は自分自身の主観に疑問を抱いていた。嘘に騙されるのは、もう沢山だったから。誰かを信じるという事に対して、酷く臆病になっていた。
 氷は気付かれないように腕を降ろし、即座に拳銃を引き抜けるよう身構えた。
「今の炎を見た? そのロコンを捕まえようとした男達が、突然、発火して死んだ」
「知らないわ。私は、ハンターに捕まりそうになったこの子を、助けようと必死で追ってきただけだから」
 素っ気ない女の答えに、氷は苛立ちを覚えた。
 嘘だ。それは嘘だ。氷は、女の整った顔立ちを凝視しながら、微かな声で呟いた。小さな疑いの火が、胸の奥で大きく揺れ動き、炎として燻った。
 氷の呟き声が聞こえたのか、女は言葉を区切った。胸に抱いたロコンを気に留めた様子で、氷にぎこちなく微笑んで見せる。
「こんな所で立ち話もないわね。聞きたいことがあるのなら、私の家でしない?」
 作り笑みを浮かべる彼女の言葉に、氷は無言で頷いた。女の乾ききった口調に、継ぎ接ぎだらけの微笑みに、ある確信と不安を抱きながら。

 

○●

 水色のツインテールを風に靡かせながら、少女は立ち尽くしていた。
 洲先瑞穂が初めて屍体を見たのは、4歳のときだった。轟く銃声と、地を這う呻きに引きずられるように、幼い少女は切り立った崖へと駆け寄り、崖の下を覗き込んだ。丁寧に敷き詰められた血の絨毯と、それに相反するように乱雑にぶちまけられた内臓の破片が、幼い瑞穂の視界を覆い尽くしていた。身体の芯を釘打ちされたかのように、身じろぐこともできぬまま硬直した。
 メスのリングマの屍体だった。少女が抱きかかえているヒメグマの母親だった。ヒメグマは、少女の胸にしがみつき、ただひたすら泣き続けていた。まるで、初めからすべてを知っていたかの如く。
 以後、瑞穂の眼前に屍体がちらついた。父の営む病院で事件に巻き込まれ、多くの人間が発狂して死んだ。その被害者の中には、瑞穂と親しくしていた、同じ年頃の少女も混じっていた。彼女の最期の日、瑞穂は彼女の惨めな死に様を見た。涎にまみれた口許からは舌が飛び出し、明後日の方向を向いている濁った瞳は、真っ赤に腫れ上がっていた。シーツは排泄物に汚れ、獣が暴れた後のように乱れていた。
 大学の携帯獣医学科に入り、何度も死んだポケモンの屍体を解剖した。薬臭い獣の腹にメスを入れ、グロテスクな内臓を掻き回した。ひんやりとした腹の奥に手を突っ込んでも、生きていたときに宿っていたはずの温もりは感じられなかった。
 斬り殺された者、喰い殺された者、くびり殺された者。その区別に関わりなく、少女は屍体を見るたび、屍体に傷をつける度に泣いた。屍体の状態によっては、吐くことも珍しくなかった。屍体が増える度に、少女の心の傷は増した。傷の上には瘡蓋ができ、傷を強固に包み隠した。10歳を迎える頃には、少女の心は傷つくことの痛みを忘れた。
 瑞穂は断面を剥き出した岩の上に立ち尽くし、呆然と二つの屍体を眺めていた。まだ、あどけなさの残る幼い顔つきをしていたが、その幼さに似合わぬ、冷え切った表情をしていた。かつての少女なら、その場で崩れ落ち、眼前に転がる不幸に、またそれに鉢合わせてしまった自分を呪うかのように、嗚咽を漏らすはずだった。
「炭化してる。普通に燃やしただけじゃ、こうはならない」
 屍体は両方とも焼け焦げ、完全に炭化していた。瑞穂は訝しげに呟き屈み込むと、原形を伺い知ることすらできぬ屍体の様子をつぶさに観察した。
 非道いものを見過ぎたと、瑞穂は心の奥底で囁いた。10歳になり旅に出てからは、感覚は麻痺するどころか、狂ってしまった。屍体を見ても、ただ見ただけでは、以前のような愁いや無力感が湧くことは無かった。それは、馴れという言葉では説明できなかった。
 昔は、死という概念が、ただひたすら恐かった。初めて屍体を見たとき、瑞穂は恐怖のあまり引きつけを起こした。悪夢に魘され、身悶える内に失禁した。だが、成長の過程で、旅の道筋で、多くの非道い死と、その残留物である屍体を見続け、少女は悟った。死そのものは、恐怖ではないと。本当に少女が恐れていたのは、死に至る経緯と結果。絶望と苦痛の中で、今まで積み重ねられ、これからも積み上げられたであろう記憶が失われていくこと。
 だから、憎しみも愁いも無くなった。自分の知らない人間だから。自分の知らないポケモンだから。どんな記憶を積み重ねてきたのかを知らないから。意識の消えゆく刹那、どんな種類の絶望を抱いたのかを知らないから。
 石を蹴る音が聞こえた。瑞穂は、背後に佇むゆかりをチラリと見やった。ゆかりは小さな岩に座り込み、足をバタつかせていた。見ない方が良いよという瑞穂の言葉に素直に従い、両方の掌で顔を覆っている。瑞穂は自分のような冷め切った感慨を、幼いゆかりに抱かせたくは無かった。
 瑞穂は視線を戻し、焼け焦げた屍体の一部を指先で軽く触れた。屍体は脆く、砂のように崩れた。いくら炭化しているとはいえ、ここまで脆くなるのは異常としかいいようがなかった。
「火をつけて燃やしたんじゃない。まるで、人間そのものが燃料になったみたい」
「何故、そう言い切れるのかな?」
 少年の声が、沈黙の中で波紋のように広がった。瑞穂は指にこびり着いた灰を、煙草の火でももみ消すかのように払い落とし、立ち上がった。首を擡げ、声のする方を見やる。少女は茫洋とした、掴み所の無い瞳をしていた。それは非道い場面に出くわした直後に、少女が決まって浮かべる、感情の見えない表情の一部だった。
「あなたは?」
 艶やかな銀色の髪を左手で掻き上げ、少年は口許に笑みを浮かべて立っていた。見慣れぬ法衣を身に纏っており、透けるような白い頬に、黒々とした鋭いタトゥが刻まれている。瑞穂と同じように、小柄で華奢な体つきだったが、彼女よりもいくらか年上のようだった。余裕を象徴するかのような口許の笑みに、大人の片鱗が見てとれる。それは、瑞穂を包み込む大人びた雰囲気よりも、さらに成熟しており、冷酷で無慈悲な印象すら与えた。
 少年は、怪訝そうに眉を潜める瑞穂を眺め、緩んだ口許を引き締めた。
「その屍体が、ただの屍体でないと言い切る根拠は?」
「骨まで燃え尽きてるからです。人間の骨は燃えにくくて、骨まで焼き尽くすには、相当な熱と時間が必要なんです。けど、この場所には、時間をかけて燃えた形跡も、焼却に使った装置の跡も残ってないですから」
「で、人間が燃料になったとしか思えない、と?」
 少年の言葉に、瑞穂は頷いて見せた。だが、少女の瞳には、薄く疑惑の色が浮かんでいた。澄んだつぶらな瞳には、不釣り合いな色だった。
「あなたは誰です? シロガネ山は、一般の人は立入禁止の筈ですけど」
 言ってしまってから、瑞穂は思わず口を噤んだ。立入禁止の場所に、許可もなく入り込んでいるのは自分も同じだった。それどころか、少年の方こそ、きちんと公の許可を取っている可能性もあるのだ。
「それは僕も訊きたいね。こんなに小さな女の子が、立入禁止の場所で何をしているのか」
 瑞穂は不服そうに唇を噛んだ。小さい、幼稚園児みたい、という言葉は、瑞穂に対する禁句だった。少女は大人びた性格とは対照的な、一向に成長する気配を見せない幼い体躯に、酷い劣悪感を抱いていた。途切れがちに曇った声が聞こえ、瑞穂はチラリと声のする方を覗いた。ゆかりが、掌で顔を覆い隠したまま身体をくの字に曲げて、必死に笑いを堪えていた。それが、瑞穂の憮然とした表情に拍車をかけた。
「気に障った? それなら謝るよ。悪かったね」
 少年の口許が再び緩んだ。先程までの正体不明の笑みではなく、明らかに少女の事を笑っている。憐れみとも、蔑みともとれる口調に、頬の辺りが熱くなるのを瑞穂は感じた。
 少年はサリエルと名乗った。シロガネ山に生息するポケモンを観察するために、無許可で入山したという。瑞穂は少し警戒を解き、自分も無許可で入山したことを告げた。
トキワシティへ行きたいんですけど、シロガネ山を通らないと、凄く遠回りなんです。無許可なのはいけないと思ってはいたんですけど」
 シロガネ山はジョウト地方カントー地方の境に跨るようにして聳える、全国でもかなりの標高を誇る休火山だった。西側は剥き出しの岩肌に覆われ、東側には深い樹海が裾野まで広がっている。一般人が立入禁止になっているのは、樹海や洞窟に、力量が高く凶暴なポケモンが多く生息するためだった。
 サリエルは、瑞穂の背後に突っ伏している二つの屍体へと視線を動かした。
「とりあえず警察に通報しなければね」
 瑞穂は頷き、腕にしたポケギアを見やった。画面には、圏外と表示されていた。少女は思わず遠くを、梺から続く風景を見渡した。ミニチュアのようなジョウトの町々が覗いた。途端に、胸の底から息苦しさが沸き上がった。自分が、隔離されているような錯覚すら覚えた。
「圏外で電話が通じない。山を降りるしかないですね」
「それなら、山頂近くにある山小屋に行った方が早いよ。山小屋なら、電話が通じているはずだ」
 瑞穂はサリエルの意見に同意し、山小屋へ向かう事にした。少女は屍体が崩れるのを防ぐため、携行していたシートを屍体へと被せた。シートの隙間から、灰がこぼれた。屍体は既に人型ですらなく、黒い粉末の集合でしかなかった。
「馴れているみたいだね」
「え?」
 山小屋へ向かう途中、サリエルは囁いた。感心しているようでもあり、今のこの状況を愉しんでいる口調のようにも思えた。彼の真意は、白い頬に刻まれたタトゥのように黒々としており、伺い知ることはできなかった。
「その様子だと、屍体を見るのは初めてじゃないね。僕には解るよ。非道いものを、沢山見てきたんだろう?」
 突然の問いかけに、瑞穂は動揺を隠しきれなかった。険しい岩肌を上る足を一瞬だけ止め、少女は驚いたように視線を巡らせた。
「どうして、解るんですか?」
「普通の子供は、人間の屍体にああも冷静に対処できないよ。パニックに陥るだろうね。とすると、以前にも似たような、いや、もっと非道い経験をしたと考えるのが自然だろう」
 サリエルの指摘に、瑞穂は視線を落とした。沈鬱な面持ちをしながら、その表情を時折歪ませながら、澄んだ水面の底に溜めた汚物を吐き出すように少女は呟いた。自分の周りで、次々と人間やポケモンが死んでいくこと。自分でせいで、自分が不甲斐ないせいで死んでしまった人もいるということ。
 サリエルは、瑞穂の話を聞いた。それまでの饒舌が嘘のように、無言のまま耳を傾けていた。彼は一通り瑞穂の話を聞き終え、溜息混じりに呟いた。
「実は僕もね、非道いものを沢山見てきたんだよ。非道いこともした。後ろからついてくる女の子は、君の妹かい?」
 ゆかりの事を訊いていた。瑞穂はサリエルの、非道いこともしたという言葉に、若干の引っかかりを感じながら、彼の問いに答えた。
「まぁ、姉妹みたいな関係と思っていただいて、問題ないですよ」
「僕にも妹がいた」
 サリエルは出し抜けに呟いた。それまでの柔らかく滑らかな口調から、余分なものを削ぎ落としたかのように、堅く冷たい口調へと変貌していた。彼の中に隠されていた影が急に浮かび上がって、言葉と言葉の繋がりを、それまでの口調と、その後の口調を絶ちきってしまったかのように思えた。
 瑞穂は彼の口調に戸惑いを覚えた。先程の何かを仄めかすような言葉といい、彼は何かを伝えようとしている。何か途方もないことを。少女がそう考えるのと同時に、腰が震えた。か細い少女の身体が、細かい振動に包まれた。瑞穂は腰の辺りを探るように手で押さえ、曖昧に問いを返した。
「妹さん?」
「ああ。丁度、君くらいの年齢だった。よく僕に懐いてきてね。可愛い妹だったんだ」
 震えていたのはモンターボールだった。瑞穂は中身が誰なのかを確かめるため、ボールを軽く掴んだ。リングマのボールだと判明すると同時に、小さな呻きが聞こえた。ボールに直に触れている瑞穂にしか聞こえないほどの小さな音だったが、指先の震えと同調し、瑞穂の胸中に実際の音量以上に響きわたった。
「どうしたの?」
 瑞穂はボールを撫でながら、小さく囁いた。リングマは答えなかった。呻きを上げ続けながら、小刻みに震えていた。震えるボールから指先を離し、瑞穂は思案するように掌を動かした。指先には、震え続けるモンスターボールの感触が、こびり着いた血糊のようにしつこく残っていた。指先に残った感触から連想できるのは、怒りの感情だけだった。瑞穂には、リングマが何かに対して怒っているとしか思えなかった。
「だけど、妹は死んだ」
 サリエルは短く言い放った。瑞穂は指先の動きを止めた。リングマの動きの周期が短くなり、さらに激しく振動した。少女は振動に翻弄されそうになるのを必死で堪えつつ、サリエルを凝視した。
「亡くなった?」
「殺したんだ」
 瑞穂は、彼の言葉の意味を考えなければならなかった。朧気だった言葉の意味が、思考によって晴れていくにつれ、少女は気色ばんだ。サリエルは確実に、殺したと言った。殺されたのではなく、殺したと言った。
 少女の表情が凍りついた。サリエルは、瑞穂の反応を、その内に満ちた感情を見透かしているかのように、短く付け加えた。
「僕が、この手で殺したんだ」

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。