水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#15-3

#15 天使。
  3.白炎の堕天使

 

 ベランダから見上げる夜空に、白い霞が浮かび上がっては消えていく。星は瞬かず、月も闇に食われた空の下では、その輪郭は、より一層はっきりと認識できる。
 塚本大樹は、無言のまま深く息を吐き、眩しげに目を細めた。軽く口笛を吹いてみる。生温い風に乗って、音は彼の意図した以上に遠くへと響き、街に犇めくネオンの光と喧騒に掻き消された。
「どうして、こんなに人が死ぬんだろう。こんなに静かなのに」
 人の意思。それが、白く半透明な霞の正体。この街で死んだ人間の残留思念が、行く当ても無く、闇夜の中を彷徨っている。
 背後からニュース音声が聴こえる。部屋でつけっぱなしにしているテレビからだった。シロガネ山の中腹で、二人の男性が焼死体で発見されたこと。惨殺死体で発見された少女、鋭田美子を殺害した犯人の一人が、いまだに消息不明であるということ。近隣の共産主義国が、周辺諸国の国民を拉致していること。情報は無秩序に垂れ流され、そこに時折、偏向したイデオロギーが剥き出しになる。
 手すりにもたれたまま、BGMのようにニュース音声を聞き流していると、その音に紛れて、少女の声が聞こえた。今にも泣き出しそうな、か細い声だった。彼は、虚ろな意識のまま振り向いた。
 胸元を中心として、冷たい感触が広がった。小さな女の子が、大樹に飛びついていた。彼は慌てて少女を抱きかかえ、何事かと少女の表情を見下ろした。
 少女は、クリーム色のフードを頭からすっぽりと被り、半透明な身体を小刻みに震わせている。彼女は、夜空に漂う靄と同じ、死んだ後に残された意識だけの存在だった。ただ違うのは、単なる白い霞の塊ではなく、半透明ではあるが、ちゃんとした身体を持っている。それだけ、少女の持つ残留思念が深く現世に食い込んでおり、強い未練を残しているということだった。
 抱きかかえられた勢いで、少女の被っていたフードがとれた。そこには、何も無かった。本来、あるはずの首も頭も、声から想像できるあどけない表情も。大樹に見えるのは、グロテスクな断面。鋸か何かで強引に首を捩じ切られた、頭部の無い胴体だけが、心細げに大樹の胸に身体を埋めていた。
 大樹は絶句した。喉元まで込み上げる呻きと吐き気とを堪えながら、彼は少女を凝視した。話しかけようにも、口を開くことができなかった。口を開けば、震えを帯びた呻きが漏れるだけで、それは少女を非道く傷つける音だから。
 沈黙の中で、少女は戸惑うように彼を見上げるそぶりを見せた。実際、少女は大樹を見上げたのだろう。だが、首が無い為に、肩が微かに動いただけのようにしか見えない。
「あ、ごめんなさい」
 少女、鋭田美子は慌ててそう言い、大樹から離れた。と同時に、首の断面を隠す為に被っているフードが外れていることに気づき、短く小さな悲鳴を上げた。涙声だった。少女はその場に蹲り、傷口を隠すようにフードで押さえつけた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
 美子がフードを被りなおし、痛々しい断面が隠れたことで、大樹はようやく声を出した。喉を絞るような、抑えた声で彼は訊く。
「お姉ちゃんが──」
 冷のことだ。大樹は思わず部屋の中へと視線を巡らせた。誰もいない。つけっぱなしのテレビ画面だけが、目まぐるしく入れ替わる。ニュースが続いていた。
「冷ちゃんが、どうしたの?」
「お姉ちゃんが、消えたの」
「消えた?」
 大樹は聞き返した。突然のことに動揺を隠せず、語尾が掠れている。大樹の強い声に怯え、美子は身体を竦めた。
「一緒にテレビを見てたら、何かを思いついたように急に立ち上がって、そしたら、お姉ちゃんの身体がスーッと薄くなって」
「それで、消えた?」
 大樹の言葉に、美子は何度も頷いて見せた。嘘はついてないよ、と。
 部屋に戻り、大樹はテレビを消した。生暖かい部屋の中を見回す。冷の姿は見えない。
 大樹は足元に違和感を感じた。彼は視線を下ろし、床に敷かれた絨毯を見た。濡れているかのような妙な冷気が、大樹の足に染み付いている。大樹は屈みこみ、冷たい部分に触れた。彼の様子を見つめ、美子が遠慮がちに呟いた。そこは、さっきまでお姉ちゃんが座ってた場所だよ、と。
 冷たさが、掌を通じて大樹の身体に広がった。その瞬間、冷の声が、彼の頭に響いた。

 

○●

 生きている。私は、まだ生きている。
 射水 氷は、心の中で呟いた。何の感慨も無く、ただ淡々と事実を確認するような口調だった。
 両腕の焼ける熱さも、痛みも感じない。背中にごつごつとした感触だけがあり、それが妙に気に障った。洞窟の中で、ずっと岩にもたれたまま気を失っていたのだろう。幾重もの尖った岩が冷気を纏ったまま、氷のか細い背中に食い込んでいた。
 薄暗い洞窟の剥き出しになった岩の上で、私は気を失っている。打ち捨てられた人形のように野晒しのまま、眠っている。
 傍観者からの視点で自分の様子を、気を失っている様を想像し、彼女は自嘲的に微笑んだ。なんて惨めな格好で、私は眠っているんだろう、と。
「どうして、殺さなかった?」
 氷は上体を起こし、瞳を開いた。暗い洞窟の中で、仄かな白い光を身に纏った少女が、橘 沙季が腰の高さほどの岩に腰掛けていた。胸元には金の毛皮を持つロコンが静かな寝息を立てている。沙季は母親が子供の寝顔を眺めるときに見せるような、優しい目でロコンを見つめていた。その眼差しからは、氷へと剥き出しにした憎悪の面影は欠片も感じられなかった。
「どうしてって?」
 ロコンを抱きかかえたまま、沙季は氷の方へと視線を移した。そして微笑む。ロコンへ見せた微笑とは違う、別の意味を持った笑みだった。まるで──そう、あの女が時折見せた、嘲りの表情のような。
「だって、あなたも人間じゃないみたいだし」
 沙季は短く言った。微かに狼狽する氷を尻目に、言葉を継ぎ足す。
「かといって、私たちとも違う、ポケモンとも違う。まったく異質の存在」
 何かを呟こうと小さく口を開いた氷を、沙季は首を振って制した。薄く微笑んだまま、氷の腕を見つめる。
「腕の火傷、大丈夫みたいね。これも、あなたが人間じゃ無いからよね?」
 氷は沙季の声には応えずに俯き、炎に焼かれていた筈の両腕を見つめた。あれだけの炎に包まれながらも、腕には火傷も傷も残ってはいなかった。アーボの頭部の形をした薄い皮だけが、氷の足元に落ちている。火傷の部分が脱皮をした後の、抜け殻に違いなかった。
「驚いたわ。あんな姿になるなんて」
 沙季はさりげなく呟いた。氷は上目遣いに沙希を睨み、下唇を噛んだ。羞恥心で頬の辺りが熱い。彼女は、誰にも見られてはいけない、死んでも見られたくない、おぞましく醜悪な姿を無防備のまま晒してしまった事に気づいた。
 沙季の眼は、すでに氷の身体を捉えておらず、少女の狼狽える瞳を見据えていた。不意に、氷は自分のすべてを見透かされているような気がした。醜く汚らわしい姿だけでなく、少女の内側に張り付いた、非道く弱く、脆い部分。壊れかけた心。そこから染み出てくる愁いと、滝のように漏れ出る怯え。
 逃げるように視線を外した氷に、追い討ちをかける形で沙希は何かを呟いた。氷は何も聴かなかった。これ以上、沙季に狼狽える姿を見せるわけにはいかなかった。だが、珍しい物を見た後のような高揚した沙季の口調に、氷は胸の中にざらつく様な感触を覚えた。
「あれは、私が望んだ姿じゃない」
 私は、見世物でも珍獣でもない。
「じゃあ、あなたこそ、何者なのよ」
 沙希は立ち上がり、蹲る氷へ見下すような視線を向けた。いつしか逆転していた。探る者と暴く者の立場が。沙季はこうも言った。私の正体を探るくせに、自分の正体は隠すのね。
「私は、人間よ」
「あなたは人間じゃないでしょう? 見た目は少女でも、本当の姿はおぞましく、醜い。一言で言うなら、そう、化け物よね」
「私は、人間でいたいの」
 短く氷は言い放つ。なるべく低い声で聞こえるよう、朴訥に冷静に喋ったつもりだった。だが、語尾が裏返っていた。ヒステリックな呻き声が洞窟に響き、少女は自分の耳を疑った。同時に、膝に雫が滴った。呆然とした表情のまま、氷は頬に触れた。涙が手の甲に滲みた。
 氷は濡れた手の甲を見つめたまま、凍ったように動きを止めた。ただ、唇の端だけが微かに動き、声にならぬ息遣いが、白い息として細々と漏れている。白い息が頭上で散るのを眺めながら、氷は思った。
 今なら解るよ。姉さんの気持ち。知らない内に、涙が溢れるこの気持ち。涙が止まらない、止められない気持ち。
 氷は目じりに涙を溜めていた。顔を歪めるでもなく、嗚咽を漏らすでもなく、無言のまま、仮面のように動かない表情のままで、彼女は溢れ出た涙が流れるのを待った。
 涙は流れなかった。いつしか、普通に泣くこともできなくなっていた。
 こんな、表情まで、感情まで死んでしまった私が、本当に人間と呼べるのだろうか。人間と名乗っていいのだろうか、と氷は微かに思った。
 沙季は、固まったまま動かない少女の肩を抱き、囁いた。
「ごめんなさいね、あなたを蔑むようなような事を言って。でも、私はあなたに解って欲しかったの。自分以外の存在を認めない、人間の愚かさをね」
 二の腕で瞳に溜まった涙を拭い、氷は横目で沙希の口許を睨み、彼女の言葉を聞いた。先ほどまでの潤んだ瞳の痕跡はすでに無く、氷の視線は細く鋭かった。
「あなたは人間でいたいのかもしれないけれど、人間はあなたのことを人間とは認めないわ。隠していても、いずれ誰かに本性を見破られる。そのとき、あなたは人間として築いてきたすべてのものを失うの。他の人間がよってたかって、あなたを壊すの。それでもいいの?
 少しぐらいなら、人間でないことを気にしない人間もいるとは思うけど、あなたはその範疇を超えている。人間にとって、あなたは少女の皮を被った化け物なんだから。そして、少女と化け物とのギャップが激しいほど、人間はあなたの本性に嫌悪感と殺意を抱く」
 初めて鏡で自分の本当の姿を見たときの記憶が、氷の脳裏を掠めた。その時の鏡には、自分の姿は映っていなかった。不気味に蠢く触手を纏った獣が、荒い息遣いで、こちらを睨んでいるのが見えた。氷は真っ先に悲鳴を上げた。女の子の声ではない、獣の呻くような声を聴いた。それが自分の声であり、必然的に鏡に映る獣の姿も同様であると認識した途端、自分を中心として地軸が傾くような感覚に襲われた。のけぞるように鏡から離れると、次の瞬間には、伸びた腕が鏡を叩き割っていた。破片が降り注ぎ、全身に突き刺さったが、醜い自分の姿に対する悪寒と吐気は、痛みなど欠片も感じさせなかった。氷は、ただただ胃の中のすべてを、込み上がってくる不条理な感情も、それ以外の感情もすべて、げえげえと吐き出す事しかできなかった。
 だから、言われるまでも無いことだった。そんなことは、自分が一番よく理解しているのだから。
 沙季は、無言のまま佇む氷の首筋に腕を回し、耳元に軽く息を吹きかけた。彼女は他愛の無い事を暫く喋った。その口調はいつしか変わっていた。先ほどまでの嘲るような、棘のある口調とは違う、甘えるような声だった。だが声から感じ取れる、危険な香りは増していた。氷は警戒するように目を細め、彼女の言葉を待った。沙季は氷の様子を悟ったのか、即座に本題を切り出した。
「だから」妖しげな目で氷の首筋を眺め。
「私たちと一緒にいて欲しいの。そして、あなたの力で、私たちを守って欲しい」
 来た、とばかりに肩に触れる沙希の手を払い除け、氷は立ち上がった。訝しげに彼女の顔を見つめる。
「それが、私を殺さなかった理由ね」
「ええ。本当なら殺してた。あなたが、人間じゃないことが解ったから。私達に近い存在だったから、途中で炎を弱めたの」
「本当なら、殺していた──?」
 何かの焦げる臭いが、鼻を突いた。氷は沙希の背後に無造作に置かれた茶色の布切れに注意を向けた。少女は徐に沙季を押しのけ、布切れを引き剥がし、隠されているそれを見つけた。
 炭だった。人の形をした炭が、折り重なって積み上げられていた。氷は思わず息を呑み、沙季に焼き殺された人間の成れの果てを、水晶のように澄んだ瞳に焼き付けていた。
「大人も子供も見境無しね」
「ええ。死体が見つかると厄介だから、ここまで誘い出して殺すの。そのおかげで、シロガネ山には人が近づかないようになった。さっきの二人の場合は、急いでたからしょうがなかったけれど」
「子供を殺す必要は無いと思う」
 沙希は悲しげに目を細めた。まるで、自分の意思に、氷が異を唱えるのを嘆くような瞳をしていた。
「子供は、無邪気なだけよ。邪気が無いんじゃない、邪気を知らないから、余計にたちが悪いの。愉しみのために、このロコンのような弱い存在を抵抗無く殺す。この子の親も兄弟も”これ”に殺されたのよ」
 沙季は氷の横に立ち、炭化した人形を平べったい掌で掴み取った。握り締められた拳は憎しみに震え、手の中の炭は粉々に砕けた。指の隙間から黒い粉がざらざらと耳障りな音を立てながら零れ落ちていく。
 沙季の様子を横目で見つめながら、氷は腰の辺りに手を添えた。静かに腕を振り上げる。その手には拳銃が握り締められていた。少女は、銃口を沙季の鼻先に突き付け、言い放った。
「協力はしない。子供を躊躇い無く殺すような奴には」
「それが、あなたの答え?」
 氷は視線を沙季へと向けたまま、頷いて見せた。引き金に指をかける。だが、沙季は突き付けられた銃口を気にも留めず、氷へと話しかけた。
「子供も大人も人間には違いない。だから殺すの。それに、大人を殺すよりも、子供を殺したほうが、効率がいいでしょう? 生き残る為に、私達は戦わなきゃいけないのよ。だから、あなたの力も必要なの」
 沙季の声で、胸元で眠っていたロコンが眼を覚ました。寝惚け眼で辺りを見やる。その眼が氷の視線とぶつかった。相変わらず、底の見えない色をしている。氷は眉を顰め、避ける様に視線を外した。
「あなたも解っているでしょう?」
 寝惚けたままのロコンを地面に下ろし、沙季は続けた。
「このままだと、私達は人間に殺される。人間は私達”能力者”や、あなたのような存在を認めない。何故なら、私やあなたの”能力”は人間の存在を脅かすものだから。人間にとって危険な存在だから。人間は、その圧倒的な数で私達を狩り始める。私達”能力者”やあなたのような人間で無い存在は、滅ぼされる」
「まさか」
「その時になって、後悔しても遅いわ。人間は、自分と同じ存在以外のものに対しては、とても冷酷で残虐になれる生き物よ」
 あの女の姿が、カヤの甲高い呻き声が脳裏を過ぎったのは何故だろう。氷は奥歯を噛み締め、こめかみの辺りを指で押さえた。だが、カヤに虐げられていたときの記憶は蘇ってこなかった。カヤを殺す以前は、頻繁に悪夢の中で少女を苦しめたにも関わらず。代わりに思い出されるのは、カヤの死体を食べている、自分の姿。床に散った肉片を本能の赴くままに貪り喰らっている、獣の姿だった。
 あの姿をみたら、あんな化け物をみたら、人間なら誰だって恐れを抱くだろう。何に対する恐れか。喰われる事に対する恐れ。あの化け物に殺されてしまうかもしれない恐怖。だから、人間は化け物を殺す。誰も気にも留めない。少女の皮を被った、気色悪い化け物をどう殺そうが。誰も、何も、感じない。
「それは、私達も同じね。人間だけじゃない」
 氷は明後日の方を向き、呆然と呟いた。唐突な氷の呟きの意味を図りかねたのか、沙季は小首を傾げた。
「何を言っているの?」
 氷は、初めて人間を殺した時の事を思い出していた。その人間は組織の秘密を探っていた男だった。名前は知らない。散々躊躇ったあげく、氷はその男を背後から撃ち殺した。そうしなければ、自分が殺されていたから。
 それから、沢山の人間を殺した。殺したというよりも、生きたまま食べた。氷が望んでそうしたのではなく、生きる為に喰らい尽くすしかなかった。喰われた者の中には大人もいたし、氷と同じ世代の少女もいたが、詳しいことは、もう覚えていない。
「人間が生き残る為に私達を殺すというのなら、私達だって、生き残る為に人間を殺している。だから、同じだと言っているの」
 氷は、初めて自分の意思で人間を殺した時の事を思い出した。殺したのは、姉を犯した男だった。氷が男を見つけたとき、男は既に死にかけていた。放っておけばその場で野垂れ死んでいただろうから、氷は男の腹を軽く突いてやるだけでよかった。少女は男の腹に”牙”を抉りこませ、内臓をぶちまけた。死体は食べた。
 男の仲間も、探し出して殺した。あの時、氷は自分が笑っていた事も思い出した。男の眼球を足の指先で潰しながら、快感を感じていた事も、下着が冷たい汗と体液でぐっしょりと濡れていた事も思い出した。
「あなたは私の事を”人間とは違う”と言う。確かに、私の身体は人間ともポケモンとも、あなたのような特殊な力を持ったポケモンとも違う。
 でも、私は人間なの。だから憎い。子供を殺して、そこに何の躊躇いも後悔も罪悪感も抱かない、あなたの事が憎い」
 突然、沙季の瞳が蒼色に輝いた。氷の右手首から炎が迸る。氷は咄嗟に拳銃の引き金を引いた。弾丸は僅かに照準を外れ、沙季の肩に食い込んだ。
 沙季の肩が砕け、鮮血と砕けた骨が壁に飛散した。だが、彼女は痛みを感じてはいないようだった。平然と氷の姿を見据え、理解出来ないとでも言いたげに軽く首を振っている。
「どうして、そこまで人間に拘るの? 人間の味方をするの? あんな残虐で、醜くて、生きる価値も無い存在に」
 氷の右腕は燃え続けている。それを庇うように、少女は身体を屈めた。
「それならあなたも、私も生きる価値の無い存在よ。あなたは、人間を躊躇いなく殺した。私も、何回も人間を殺した。ポケモンを殺す残虐で愚かな人間と、そこには何の違いも無い。それなら、私は人間の側につく。私は人間だから。人間でいたいから」
「だから、どうして? 人間は間違いなく、あなたを殺そうとするわ。あなたの事を醜い化け物と騒ぎ立てて、容赦なく私刑にするのよ」
「あの娘は、そんなことしない」
 氷は右腕を包み込む熱と痛みに耐え切れず、その場に蹲っていた。燃え続ける部位を隠すように左の掌で覆っている。焼け爛れる拳は、痛みかそれとも沙季に対する怒りからか小刻みに震えていた。
 沙季は氷の姿を見下ろし、憐みの眼を向けた。
「お願いだから、私の言う事を聞いて。私はあなたを殺したくない。あなたは人間とは違うし、あなたが死ねば子供が悲しむ。あなたの子供がね」
 その刹那、沙季の身体が吹っ飛び、洞窟の内壁に叩きつけられた。ごつごつとした壁に赤黒い血が勢いよく飛び散る。だが、それは沙季の血ではなく、彼女の胸元で、燃えながら不気味に蠢く、氷の右腕から噴き出す鮮血だった。氷は自らの腕を引き千切り、沙季へと思い切り投げつけていた。
 腕の欠けた右肩を、その傷の断面を左の掌で押さえながら、氷は壁に横たわる沙季を睨みつけた。蒼白な、表情の無い顔の中で、瞳だけが血走ったように赤みを帯びている。その色は、少女の指の隙間から止め処なく溢れる血の色より、遥かに鮮やかだった。
「あら、気づいていないとでも思ったの?」
 沙季は言った。氷は血塗れになった掌を握り締め、口許を歪めた。微かに覗く牙が、擦れる様な鈍い音を奏でている。
「やっぱり、そこのモンスターボールに入っているアーボックハブネークは、あなたが産んだのね」
「どうして、気づいた」
「ボールの中に入っていても見えるのよ。あの2匹は、あなたと同じ眼をしている。あなたの事を、主人とも友達とも思っていない。血のつながった母親と思っている。あなたは気づかれないようにしていたつもりみたいだけど、あなたがボールに注ぐ視線は、母親のもの以外の何物でもなかったわ」
 即座に、氷は床に落ちた拳銃を左手で拾い上げた。銃声が洞窟内に響いた。氷は容赦なく、沙季の身体を撃ち抜いていた。沙季は全身に弾丸を受け、瞳を見開いたまま絶命した。無数に開いた傷からは鮮血が噴き出し、彼女の胸に抱かれていた氷の右腕を包み隠した。
 氷は、拳銃を握り締めた腕を静かに下ろした。荒い息で、自らの吐き出す白い息を、その先に霞んで見える沙季の屍体を呆然と眺めていた。
「それで終わり?」
 沙季の声が聞こえた。初めは幻聴かと思った。目の前には沙季の屍体が転がっている。沙季の声であるはずが無かった。氷は瞳を泳がせ、静かに声のする方へと振り返った。
「あなたが殺したのは、私の幻よ」
 銀の毛皮のキュウコンが佇んでいた。射る様な瞳で氷を見据え、キュウコンは沙季の声で嗤った。氷は沙季の屍体へと視線を戻した。沙季の屍体は既に無かった。いや、初めからそんなものなど存在していなかった。萎えて痙攣している、氷の焼け焦げた右腕が転がっているだけだった。
「可哀想な子。でも、私に協力してくれないのなら、燃やすしかないわね」
 キュウコンの鋭い眼が、妖しく蒼い色を帯びた。氷は身構えた。即座に、焼けるような痛みが、少女の全身を包み込んだ。
 だが、その痛みは長くは続かなかった。全身に広がった熱は急速に冷めた。氷は閉じていた瞳を薄く開き、キュウコンの様子を伺った。
 キュウコンは硬直していた。見開かれた瞳からは、光が失せていた。同時に、白い霧が洞窟の深部から発生した。白い霧はキュウコンの身体に絡みつき、やがてキュウコン自身を飲み込み、包み隠した。
「何が、起こったの?」
 氷は呆然と呟き、辺りを見回した。背後に人間の気配を感じる。振り返ると、黒い法衣を全身に纏った怪しげな男が、霧の奥に消えたキュウコンの姿を眺めていた。男の手には透明な水晶玉が握り締められていた。氷は、その水晶玉に良く似た宝玉を、どこかで見たことがあるような気がした。
「誰?」
 低く抑えた声で、訝しげに氷は男に問いかけた。男は氷の事など、彼女が血塗れであり、右の腕が千切れている事すら、見えていない様子だった。問いかけには答えず、男は氷へと近づいた。
「近寄るな」
 咄嗟に左腕に握り締めた拳銃を突き出し、氷は男を威嚇した。
「あなたは、一体──」
 そこまで言いかけて、氷は眼前から男の姿が消えた事に気づいた。男は、氷のすぐ横に立っていた。振り返る暇すらなく、氷は背中の辺りに、男の大きな掌が触れるのを感じた。彼女の瞳が、法衣の狭間から覗く男の顔を、歪んでいるかのような口許を捉え、そこに危険な何かを感じた瞬間、背中に触れる男の指先の感触が、より強く彼女の中に食い込んだ。氷は背中に、肩から腰の辺りにかけて、弾けるような衝撃と、それに伴う痛みを感じた。
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。氷は洞窟の外へ弾き飛ばされていた。鬱蒼と生い茂る木々の中に、氷のぼろ布のようになった身体が突っ込んだ。岩の破片や小枝が全身に突き刺さり、背中は中央の部分からばっくりと裂け、砕けた骨が覗く。
 辺りは暗くなり、雪が降っていた。氷は痙攣する首筋を左手で押さえつつ、微かに首を上げた。洞窟の奥を見やる。黒い法衣の男が、白い霧へ、持っていた水晶玉を掲げている。霧の中から腕が伸びるのが見えた。キュウコンの腕でも、沙季の腕でも無い、華奢で細い少女の腕だった。霧の中から伸びる腕は、男の掲げる水晶玉に触れた。白い腕は暫くそのまま動かず、やがて水晶玉から指先を離し、霧の中へ溶けるように消えた。
 男は何かを感じ取ったかのように、急に振り返り、洞窟の外へと出た。茂みの中に沈み込んだ氷を一瞥した後、辺りを見回す。氷は男の声を聞いた。思っていたよりも野太い声で、男は遠くの誰かに話しかけるような口調で言った。
「意外に早かったな。だが今更、邪魔をしたところで、もう遅い」

 

○●

 強い”能力”の胎動を感じた。それはかつて、彼女が死の間際に感じたそれと同質のものだった。背筋が震えた。また、誰かが死ぬ。今、燻っている”能力”が覚醒すれば、多くの人が死ぬ。漠然とした不安が胸に浮かび上がったが、彼女は強引にその思考を掻き消した。
 陽炎ミルは黒いローブの後を追い、シロガネ山のカントー側に広がる樹海の中を進んでいた。黒いローブの男が残していった白い意識の気配は、次第にその濃さを増していく。自然と、ミルの歩く速度も早くなる。
 不意に頬に冷たい物が触れた。雪が降っていた。ミルは思わず立ち止まり、両手を広げて降り注ぐ雪を掬った。掌につんと冷たい感触が広がり、雫となって滴り落ちる。
 ミルは濡れた手を胸元にあて、自分の鼓動を感じた。まだ、失っていない、と心の中で呟く。感覚も心も、昔のまま変わっていない。ただ、身体が少しづつ喪われていくのは、削られていくのはどうしようもないけれど。
「ここで決着つけないと、もう時間は無い」
 崖から転落して死んだミルを生かし続ける”虹の瞳”は、完全にミルを生き返らせた訳では無かった。そもそも、生き返らせるという解釈そのものが間違っていた。”虹の瞳”の効果は、ただ単にミルの残留思念を身体に留まらせているに過ぎなかった。
 ミルの故郷は、大昔から二つの宝玉を祀り、護っていた。その為、幼いころから彼女は宝玉の言い伝えを聞かされて育った。
 ”虹の瞳”は『復活』を、”深海の涙”は『祝福』を意味し、前者は死の淵に立つ人間の魂を甦らせ、後者は死んだ人間の魂を、さらに深いところまで沈める。だが、それは宝玉を”鍵”とした場合に発揮される力であり、ミルには扱いきれるものではなかった。それはミルも知っていたし、覚悟もしていた。
 だが、実際に嘔吐し、そこに自分の腐乱した内臓を見たとき、ミルはそこに払拭しようのない絶望を感じた。今の自分は、ただ動くことができるだけの、腐りかけの屍体である、と否応なしに再確認させられた。ゾンビと同じではないかとすら思った。
 ミルはもう一度、確かめるように呟いた。迷っている暇も、悲しんでいる暇もミルには与えられていない。何故なら──
「もう、時間は無いんだから」
 濡れた手を握り締めたとき、近くで銃声が響いた。ミルは我に返り、音の響いた方向を見やった。木々に阻まれて何も見えなかったが、銃声の響いた先は、ミルが目指す先、つまり黒いローブの男が向かった先と、同じだった。ミルは胸騒ぎを覚え、音の響いた方向へと小走りに向かった。
 再度、銃声が響いた。ミルは走り出していた。辿り着いた先は、一見すると何も見当たらない、樹海の中にぽっかりと空いた空白のような、広場だった。
 ミルは注意深く辺りを見回し、洞窟を発見した。洞窟は、鬱蒼と生い茂る蔓や苔に包まれ、まるで他者の意思によって、ひた隠しにされているかのようだった。
「洞窟の中に、誰かいる」
 ミルは遠くに転がる岩の後ろに隠れ、洞窟の様子を伺った。
 濡れた布で壁を打ち付けたような音が、洞窟の中から響いた。同時に、真紅に染まった何かが勢い良く洞窟から飛び出し、木々の中に突っ込んだ。肉を潰すような、生々しい湿った音が聞こえ、鮮血が辺りに飛散した。うごぇ、という掠れた呻きが血に塗れた木々の間から漏れる。
 洞窟の中から、背の高い人物がうっすらと浮かび上がった。ミルは目を凝らした。体つきから男と解った。掌に、光る何かを握っている。黒い法衣に身を包んでいる。そこまで認識すると同時に、ミルはその男の名を、憎々しげに呟いていた。
「ファルズフ。こんどこそ、逃がさない」
 ファルズフは洞窟から出ると、訝しげに辺りを見回した。やがてミルの気配に気づいたのか、岩の方へ視線を向け、野太い声でミルに話しかけた。
「意外に早かったな。だが今更、邪魔をしたところで、もう遅い」
「あんた、こんな所で、今度は何をするつもりなのさ」
 ミルは立ち上がった。岩に身を隠したまま顔だけを出し、ファルズフを睨みつける。掌に触れる岩肌を強く握り締め、怒りに震える指先を抑えつける。
「あの御方が、復活されるのだ」
「あの御方?」
 ミルは眉を顰めつつ、腰にかけたリザードンモンスターボールに手をかけ、男へと放り投げた。
「何にしたって、これ以上、その宝玉の力は使わせない」
 ボールが開き、閃光の中からリザードンが飛び出した。リザードンは勢いに乗って低空を旋回し、ファルズフへ火炎弾を放った。だが、ファルズフは掌を掲げ、もう片方の手に握り締めた宝玉の力で、火炎弾を撥ね退けた。
リザードン、翼で打つ!」
 ミルは叫んだ。遠距離の攻撃が当たらないのであれば、近距離でそれも直接攻撃するしかない。リザードンは頷き、ミルの真上すれすれを滑空した。大きく羽根を広げて上昇すると、ファルズフへ目掛け、一気に急降下する。
 男は掌を上空に掲げた。リザードンの鋭く尖った羽根の先端が男の身体に触れる前に、リザードンは弾き飛ばされた。まるで見えない壁が男を囲んでいるかのように、ミルには思えた。
 リザードンは重心を崩し、岩場に墜ちていく。落下点に、先端の尖った岩が聳えているのが見え、ミルは慌ててボールを突き出した。岩の先端が背中に食い込み、貫通するぎりぎり寸前のところで、リザードンは赤い光に吸い込まれ、ボールへと戻った。
「やめておけ」
 男は言った。嘲るような口調だった。
「さっきも言っただろう。もう遅い。今更何をしても、あの御方は復活する。これ以上邪魔をすれば、そこの子供のように、潰れる事になるぞ」
「潰れる、子供?」
 ミルは咄嗟に、先ほど血飛沫の上がった茂みを見やった。白い指先が見えた。男が言うように、子供の手だった。華奢な手首から、女の子のものだと解った。少女の二の腕は、血に塗れていた。血は乾き、黒く濁っている。血の隙間から見える肌は色を失い、辺りに薄く積もった雪の中に溶け込んでいた。もう、死んでいるのだろう。
 ファルズフの表情が歪んでいた。その顔はフードの陰に隠れていたが、ミルには、男が少女の惨たらしい屍体を見つめ、嗤っているのが解った。ミルは男が屍体を見つめる隙に、少女の元へと駆け寄った。
 少女の身体は、複雑に絡み合った蔦と枝の中に埋もれ、腕だけがそこから突き出していた。ミルは徐に茂みへと手を伸ばした。枝が掌に刺さる。植物独特の青臭い臭いと、錆びた血の臭いが混じり、ミルの鼻を衝く。ミルは息を止め、一気に少女を隠す蔦や枝を掻き出した。
 ミルは少女の身体を見つめ、息を呑んだ。少女の片腕は引き千切れ、無くなっており、背中は柘榴のようにはち切れ、砕けた背骨が筋肉や内臓に深く食い込んでいた。だが、それよりも、ミルは少女の顔に見覚えがあることに驚きを覚えた。
「氷ちゃん──」
 血塗れで横たわる少女は、射水 氷だった。ミルは震えた。全身が、身体の芯から、小刻みに震えた。
 忌わしい記憶が、ミルの脳裏に蘇った。時折、夢に見るおぼろげな映像とは違う、痛いほどに鮮明なイメージだった。
 少女の皮を突き破り、蛇の形をした夥しい数の触手が伸びる。触手は誰かを喰らっている。ミルは目を凝らす。じっとみつめ、触手の隙間から見えるのは、鼠の化け物だった。化け物は、触手に貪り食われて人としても獣としての形すら喪っていた。触手の根本には、少女の首だけがあり、少女の首もまた鼠の肉片を口に含み、咽ながらも咀嚼している。
 氷が瞳を開き、ミルを覗き込んだ。ミルは思わず顔を引きつらせ、後ずさる。
「生きてる。生きてるの?」
 氷は震えるように頷き、何かを言いかけて血を吐いた。黒く汚れた氷の口許が、鮮血に塗り潰される。
「知り合いか? それなら、あの御方が裁くまでも無く、私がまとめて葬ってやろう」
 ファルズフは言い、少女達へ掌を掲げた。もう片方の手に握り締められた水晶の力が、掲げられた掌に、その指先に集中していく。ミルはその様子を肌で感じ取った。胸元の”虹の瞳”が仄かに熱を帯びている。男の持つ”深海の涙”のエネルギーに反応しているのだろう。
 そこまで考えて、ミルは理解した。何故、ファルズフへの攻撃が当たらないのか。何故、射水 氷は身体が潰れるほどの重症を負ったのか。
「あんた、深海の瞳のエネルギーをダイレクトに放出できるの?」
「そうだ。あの御方を媒介にし、この水晶の力を直接、指先から放出できるのだ。特に今は、あの御方の調子が良い。お前達を潰すなど、造作も無いことだ」
 男の掌から青白い光が漏れた。ミルは咄嗟に身構えた。男の指先に集中したエネルギーの波が、ミルの頬を掠める。ミルは歯を食いしばり、目を閉じた。氷と同じように砕ける自分の身体を想像する。氷ちゃんならまだしも、私なら即死だろうな。瞼の裏に浮かぶのは、真っ黒な絶望だけだった。
 男は腕を突き出した。衝撃波は男の掌から放たれた。だが、その衝撃波は少女達の頭上を霞め、背後に犇めきあう木々をなぎ倒し、岩を砕いた。
「狙いが、外れた?」
 ミルはおずおずと瞳を開き、ファルズフの方を見やった。男の掌は、ミル達よりも僅かに上へと向けられていた。後少しでも男の掌が下に向けられていれば、ミルと氷は衝撃波に飛ばされ、遥か後方に転がる岩のように砕け散っていただろう。
「ぐ、誰だ?」
 ファルズフはミル以上に驚きの表情を浮かべていた。その口許から嫌らしい笑みは消え、苦痛に歪んでいた。
 ミルは男の脇腹に、何か小さな物が食い込んでいるのを見た。暗闇のせいでよく見えなかったが、それは瞬時に男の身体を離れ、空中で回転した後、先ほどまでミルが隠れていた岩の天辺に着地した。
 雲が晴れ、星の光が辺りに降り注いだ。茶色い体毛が見えた。それは顔を上げ、男を睨んだ。小さな身体からは想像もできない、鋭い瞳が見えた。唸り声が聞こえた。怒りを帯びた声だった。そこで初めて、ミルはそれがイーブイであることに気づいた。憎しみに満ちた形相からは、可愛らしいイーブイの面影は全く感じられなかった。具現化した怨嗟が、イーブイの皮を被っているのではとすら思えた。
イーちゃん
 女の子の、それもとても幼いであろう声が聞こえた。
「あの男の人が、そうなんだね?」
 イーブイは女の子の声に頷いた。
「誰だ?」
「あなたが、その水晶玉の力を使って、エンジュシティで黒い霧を蘇らせた人ですね?  その水晶玉を奪う為に沢山の人を殺して、グラシャラボラスという船を沈めた、ファルズフって人ですよね?」
 瑞穂の声だと、ミルは気づいた。ミルは声のするほうへ視線を移した。瑞穂はいつの間にかイーブイの背後に立っていた。腕を伸ばし、イーブイの頭を軽く撫でている。イーブイは不意に怒りを忘れたかのように顔を綻ばせ、瑞穂の細く華奢な胸元に頬を寄せた。
「違いますか?」
 瑞穂は、不安げに顔を曇らせた。
「ああ、そうだ。お前は何者だ」
「ですよね」
 イーブイの頭から手を離し、瑞穂は横目でミル達を見つめた。そしてミルの横に倒れている血まみれの氷の姿を認め、顔を強張らせた。
「お前も、あの御方の邪魔をするつもりか。ならば、あの子供と同じように潰す」
「そうやって、氷ちゃんとミルちゃんを傷つけたんですね」
 瑞穂は男の言葉が耳に入らなかったかのように、ファルズフを睨みつけた。
イーちゃん、そろそろ時間だね」
 瑞穂はイーブイの頬を撫でる。イーブイは一瞬だけ、寂しげに瑞穂へと微笑みかけると、躊躇いがちに視線をファルズフへと移し、睨みつけた。瞳は鋭くなり、微かに血走っている。それは、瑞穂へ見せていた笑みとは全く正反対のものだった。
 暗がりの中に、柔らかな光が広がった。光はイーブイを包み込んでいた。瑞穂は瞳を細め、イーブイの様子を見つめていた。
 光が治まった。イーブイの姿は消えていた。そこにあるのは、闇だけだった。瑞穂は優しげな表情で闇へと手を伸ばし、撫でるような手つきで掌を滑らせる。
 闇から仄かな、円の形をした光が、幾重も浮かび上がった。赤紫の大きな瞳が、ぎょろりと辺りを見回す。瞳は瑞穂を見据えた。
「いこうか、キーちゃん」
 瑞穂は闇へと話しかけた。仄かな光は、細々と降り続く雪に反射し、闇の輪郭をはっきりと照らした。瑞穂の掌の先には、イーブイから進化したブラッキーが静かに佇んでいた。
 ブラッキーは瑞穂の言葉に小さく頷き、憎悪に満ちた赤紫の瞳を、黒いローブの男へと向けた。

 

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※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。