ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#2-3
#2 傷痕。
3.交錯する辛い思いで
体中の体液が、吹き出してしまうのではないだろうか。
そう思えるほどに赤い体液は、鮮血は激しい勢いで瑞穂の胸から噴きだしていた。全身を駆ける痛みの原因を確かめるため、瑞穂は自分の胸を恐る恐る見やった。
瑞穂の右胸は鋭く切り裂かれていた。薄青色をしたポロシャツの裂け目からはリングマの爪痕が覗き、白い肌は裂けていた。真紅に染まっているのが見える。乳白色の皮膚の裂け目からは、真っ赤な胸の肉がはみ出し、吹き出す血によって踊っていた。
「リ……リンちゃ……ん……?」
暫くしてから、途切れ途切れに瑞穂は言った。涙と鼻水にまみれた顔が血色を失って、次第に青白く変色していく。
リングマは、目を細めながら瑞穂を見つめていた。彼の腕は、瑞穂の血で真っ赤に染まっていた。時折、その雫が爪の先から滴り落ちる。
瑞穂は顔を上げ、リングマを悲しい瞳で睨んだ。リングマの血塗られた鋭い爪の先には、瑞穂の小さな乳首が張り付いている。少女は目を見開き、言葉にならない悲鳴を上げた。
「あ……あぁぁ……ぅ……」
少女は蹌踉めきながらコガネジムの外壁にもたれ、激しく嘔吐いた。
「う……ぇぇ……ぅ……」
呻くような声が出た。朝に食べたものが弾かれたように、次々と胃の中から駆け上ってくるような気がした。そうしている間にも、激しさを増していく胸の出血。
体中のものを、全て吐き出し終えた瑞穂は、萎れた草木のように、その場に倒れこんだ。ドス、と音がした。30キロに満たない軽い身体であろうとも、この時ばかりは重そうに響いた。血の水たまりに落ち込んだ瑞穂は、それでもなお、身体を捩らせて意識を保とうとつとめた。だが、体を捩らせれば捩らす程、意識は遠のいていく。
瑞穂の体は動かなくなった。リングマは、微動だにしなくなった少女の身体に触れた。彼は、息を呑んだ。急に怯えたように辺りを見回し、首筋に滲んだ汗を拭う。足下が震え始めた。
「瑞穂ちゃん! どこいったんや!」
張り上げるようなアカネの声が、リングマの耳の中に飛び込んできた。リングマは身を起こした。逃げるように、慌ててその場を走り去った。
少女は取り残された。置き去りにされた瑞穂は、だた独り血塗れに沈んでいる。
コガネジムのロビーにある、ソファーの上で、瑞穂は意識を取り戻した。
瑞穂は、ゆっくりと目を開いて半身を起こすと、辺りを見回した。着ていた水色のポロシャツは脱がされており、その代わりに包帯が体を包んでいた。目の前には、心配そうな顔をしたアスカが、じっと瑞穂を見つめている。アスカは、瑞穂が目を覚ましたことに気がつくと、さっと振り返ってアカネを呼んだ。
「アカネさん、瑞穂はんが、目を覚ましました」
ミルタンクの体調を看ていたアカネは、アスカの声に頷くと、瑞穂の顔を覗き込んだ。具合の悪そうな顔を無理に緩めて微笑み、アカネは訊いた。
「どや? 瑞穂ちゃん。胸の傷の具合は。痛かったら、病院いこか?」
胸の具合――そうだ、私は。
胸を切り裂かれたことを思い出した瑞穂は、急いで自分の胸の具合を確かめた。血が吹き出ていた傷口はガーゼで覆われていた。手際よく止血されており、痛みも少ない。どうやら、そんなに心配することはなさそうだ。
「大丈夫みたいです。そんなに痛むわけじゃないですし」
アカネとアスカは胸をなで下ろした。
「それは良かったわ。まぁ、血はぎょうさん出とったけど、傷のほうは意外に浅かったようやし」
安心からか、アカネは少しだけ明るさが戻った。横からアスカが口をはさむ。
「それもあるけど、ウチのカンペキな応急処置のおかげです。アカネさんは隣で、泣きながら右往左往してただけですやん」
「ウチがいつ、泣きながら右往左往したんや?」
「嘘いわんといてください。そういえば聞きましたよ、瑞穂はんのリングマ相手に手も足も出なかったって」
そこまで言って、アスカは慌てて口をつぐんだ。リングマの事に触れられたくないのは、アカネだけではなく瑞穂も同じである。
「あっ! そや、コガネ百貨店に買い物にいかなあかんかったんや。ちょっと、出てきます」
自分の失言をもみ消すように、わざとらしくアスカは言った。
「それなら、ウチがいったるで」
アカネの言葉を無視して、アスカは立ち上がった。逃げるように部屋を後にする。2人きりになった部屋で、瑞穂はポツリと呟いた。
「あの……アカネさん……?」
瑞穂は、おずおずとアカネの様子を伺っていた。
「ん、どないしたん?」
「ミルタンク、大丈夫ですか? あんなに怪我させちゃって。ごめんなさい」
「瑞穂ちゃんは、謝ることも心配することあらへん。それにミルタンクは大丈夫やで。なんていうても、ウチの自慢のミルタンクやさかいな。一晩、安静にしとったら、すぐに良くなる。それよりも――」
アカネは急に真剣な顔つきになった。
「なぁ、瑞穂ちゃん。あのリングマの事なんやけどな」
微かに俯いた瑞穂の表情を直視しながら、アカネは続けた。
「進化したばっかりやろ、あのリングマ」
「どうして、解るんですか?」
瑞穂は顔を上げ、驚きに目を見開いた。アカネは、やっぱり、と言いたげに肩を竦めていた。
「解るで、そのくらい。瑞穂ちゃんのリングマ、ヘンやったからな。瑞穂ちゃんの指示を聞かず、さらに反抗までしとった」
締めつけられるような痛みを堪え、瑞穂は掌で胸を押さえた。鼓動の音が響く。次第に大きくなっていく響きが、少女の動揺を物語っていた。
「そうなんです。リンちゃん――私のリングマ、進化した途端に変わっちゃった。姿だけじゃなくて、性格まで。あの頃の、優しかった頃からは想像できないほど」
壁に掛かった時計の鳴る音が部屋を包んだ。瑞穂は言葉に詰まったのか唇の端を噛みしめ、壁に掛かった時計を見やる。
「進化した時は嬉しかったです。でも、進化してすぐに抱きしめたとき、リンちゃんは遠くを見てました。怒っました。私は進化してから一度も、リンちゃんを外へは出しませんでした。恐かったから。だけど、そのせいで私のこと、嫌いになっちゃたのかもしれません」
「それは、ちゃうと思うで」
不意にアカネは口を挟んだ。
「違うとは?」
「あのな、あのリングマは、自分の力を制御できへんかっただけや。急激な進化に、リングマ自身がついていかんのや」
「だけど! リンちゃんは、私の言うことを聞いてくれませんでしたよ」
「そやない」アカネは首を振った。
「リングマも戸惑ってるんや。自分の力にな。どんなに力があっても、その力を制御する強さがないと、意味が無いんや。そして、こないだまでヒメグマやった――小さな子供に、そんな強さがあるわけない」
アカネの言葉の意味を飲み込みきれずに、瑞穂は顔を強張らせた。だから、どうしたの? だからって、私の言うこと聞かなくてもいいのかな。だからって、私のことを、傷つけるなんて酷いよ。
「それじゃあ――」
瑞穂はアカネの顔を見る気にはなれなかった。弱々しい声で、反論するしかなかった。
「どうしろって言うんです? 私に。どうせ私は、小さいし力も無いですよ。この間も、ポケモンバトルで負けました。負けた相手に、罵倒されましたよ。こんな弱い私に、どうしろって言うんです? ただ、ニコニコして周りの人の機嫌を伺ってるだけの私に、何ができるんですか!」
瑞穂は立ち上がった。涙に溢れている目の周りが、真っ赤に腫れていた。噛みしめた唇から、音にならぬ呻きが響いた。
「なぁ、瑞穂ちゃん」
掴み所の無い、不安定な苛立ちを紛らわすように、瑞穂はコップの水を呷った。少女の背中を追いかけるように、アカネは落ち着いた様子で話しかけた。
「あんた、あのリングマに何を言ったんや? ウチのミルタンクに破壊光線を撃った時は、まだリングマは力を制御できないだけやった。反抗するにしても、モンスターボールを弾くだけで、瑞穂ちゃんに危害は加えてへん。凶暴なりにも、分別はあったんや。なのに、リングマは瑞穂ちゃんを切り裂いた。何を言ったんや、もしくは、何をしたんや?」
「嫌いって、言いました。大嫌いって」瑞穂の声は、そっけなかった。
「私、何か悪いこといいました? だって――」
掌を前へ突きだし、アカネは瑞穂の言葉を制した。
「後悔してへんのか? ほんまに、リングマのことが嫌いになったんか?」
瑞穂は押し黙った。
「瑞穂ちゃんは、リングマとどのくらい一緒におったんや? 1ヶ月? それとも半年?」
「もっとです――」
「それなら、もう解ってるはずやろ。力を制御できないリングマの弱さを助けてあげられるんは、自分しかおらへんってことに。リングマが、自分の力に戸惑ってるんは、瑞穂ちゃんが、正面からリングマに向きやってあげへんからや。上辺だけで喜んで見せたって、リングマは恐がられていることに気付いてるで」
瑞穂はコップを握り締めていた。小刻みに震える背中を見られたくなかった。惨めだった。
「だから、どうすればいいんです? 私は、リンちゃんよりもずっと小さくて、力もないんですよ。それに、恐いです。また、いつ切り裂かれるか――今度は、殺されるかもしれない」
蹲る瑞穂の肩に、アカネは手をやった。さするように、揺するように瑞穂の身体を撫でながら、アカネは呟いた。
「理解してやるんや。さっきも言うたけど、リングマは力はあるけど弱いんや。だから、力を制御できない。あの子の強さになってあげられるんは、あの子を一番理解しているはずの、瑞穂ちゃんしかおらんのやで。弱いとか、背が低いとか、そんなん関係ない。今まで一緒にいたのは、瑞穂ちゃんが、あの子より力があったからか? あの子より大きかったからか?」
違いますよ、と瑞穂は呟いた。
可愛かったからとか、よく懐いてくるとかじゃないですよ。もちろん、私の方が喧嘩が強かったからとか、何でも言うこと聞いてくれるからでも無いです。そんな、言葉で簡単に説明できるような理由じゃない。
旅にでたのだって、別にポケモンバトルがしたかったわけじゃない。ただ、あの子と――リンちゃんと色々な場所へ行ってみたかったから。
「関係無いんや。進化しようが、性格が変わろうが、お互いが持ってるもんに変わりは無いんや」
瑞穂は頷いた。アカネに抱きしめられるように立ち上がり、嗚咽した。
「思い出してみるんや。初めて出会ったときの事を。自分にとって、あの子が何なのかも、思い出せるはずやから」
夕日は沈みかけていた。淡い緋色に沈んでいるウバメの森に、一匹の大きなリングマが蠢いていた。コガネシティから逃げてきた、瑞穂のリングマだった。
数日前、まだヒメグマだった頃のリングマが、瑞穂と一緒に特訓をしていた場所だった。彼は今、目の前の巨木をじっと見つめていた。その巨木には、無数の小さな傷跡が残っていた。
傷跡を見つめながら、リングマは思っていた。僕は、なんであんな事したんだろう。
見た目とは裏腹に、リングマの一人称は”僕”だった。凶暴そうなリングマの姿でありながらも、心は大人しかったヒメグマの時と、何ら変わっていない。
でも、何かが違う。
それがわからないから、こんな所で独りぼっちなんだ。
僕が姉さんのために「強くなりたい」って願ったら、いつの間にか、僕の体は大きくなってた。姉さん――とっても喜んでくれてた。だから、僕も凄く嬉しかった。
――でも、本当に何かが違うんだ。
あの日以来、この身体になってからずっと、僕が僕で――自分が自分でなくなったような気がしてならないんだ。
リングマは拳を強く握ると、目の前の巨木にむけ長い爪を振り回した。ズドン。巨木は、大きな音を立てて、リングマの脇に倒れる。
この爪が――リングマは自分の掌を見つめた。血糊は乾いていた。色は消えず、こびり着いている。
この爪が、姉さんを傷つけたんだ。僕、どうかしちゃったの? どこかがおかしいの?
リングマは、横倒しになった巨木に、なおも鋭い爪を振り下ろす。横倒しのまま巨木は、バリバリと音をたてて粉砕された。
ヒメグマとリングマの最大の違い。それは、自然界で生きるための本能の有無なのかもしれない。子供のヒメグマは、親に守られながら生活している。しかし一度、大人のリングマに進化してしまえば、たった1人で生きていかなければならない。それも弱肉強食の世界で。
いかに人間に育てられたヒメグマであろうとも、進化して、大人になれば、眠っていた闘争本能、防衛本能が目覚めても、なんら不自然ではないはずだ。事実、ヒメグマは進化してから、本能の声に言われるままに行動していたのだから。
あのとき、本能は教えてくれた。僕は強い、と。そして、人間は弱い、と。
僕はリングマなのに、姉さんは人間なんだもん。なんで僕の方が強いのに、僕より弱い姉さんの言うこと聞かなきゃいけないの? 僕の方が力は強いし、体も大きいし。僕は、僕のしたいように、やりたいようにしてるだけなのにさ。
それなのに姉さんは、僕のこと怒ってさ――弱っちいくせに。だから、無視してやったんだ。ボクの方が、強いんだもん。姉さんみたいな弱っちい奴に文句なんて言わせない。なのに、偉そうに――すこしだけ怒りながら――文句を言うから。
僕の方が強いんだぞ! って、教えてやろうと思ったんだ。でも、そしたら、姉さん、すごく悲しそうな顔したんだ。そして、姉さん――こう言った。
昔の方が良かった――大嫌い――って。
――酷いよ。
リングマは、遠くに微かに見える夕日に向かって咆哮した。
彼は、リングマは、姉と慕う瑞穂のために、力を得るために、自分を捨てた。それなのに、姉は彼の事を嫌い、あげく、昔の方が良かった等と、暴言を吐いた。それは、彼にとって、耐え難い苦痛であることに違いなかった。
気付いたときには、姉は胸から血を吹き出しながら、棒っきれのように倒れていた。爪には姉の小さな乳首がこびり付いていた。腕は姉の返り血で真っ赤に染まっていた。
彼は、そこでやっと、自分のしたことの重大さに気がつき、ここまで逃げてきた。
リングマは、粉々になった巨木が散らばる地面を激しく叩く。ウバメの森全体に響くような大きな音がし、地面が地震のように震えた。
ヒメグマの時の面影をまったく残していない、リングマの鋭い目から、今まで我慢してきたものが流れそうになった。その度に、リングマは地面を叩いて堪える。叩く、叩く。
彼の悲しみの分だけ、ウバメの森は悲鳴をあげ、生い茂る木々を揺らした。
その時だった。リングマの頭の中で、何かが弾ける音がした。再び、野生の本能が、彼に語りかけてきたのだろうか。
何か、イヤな予感がする。
リングマは、地面を叩くのをやめた。何だか、とても嫌な予感を感じ取っていた。それは昔、彼の――リングマの両親が死んだときに感じたものと、全く同質のものだった。
また、誰かが死ぬ。昔と同じように。誰か、誰だろう。大切な誰か。大切な、誰か。今のリングマにとっての、大切な誰か。
考えるまでもなかった。そんなの、1人しかいないではないか。
姉さん?
瑞穂が死ぬ。誰かに殺される。
だが、不吉な予感を感じ取っていながらも、リングマはその場から動かなかった。助けになんか、いきたくなかった。誰が、助けになんかいくもんか。
リングマは、心の奥底で呟いた。
いい気味だ――あんな奴、僕を嫌いな奴なんて、あんな小さくて、自分勝手な女なんて、死んじゃえばいいんだ――
雪が積もっていた。切り立った崖には、寒さに負けずに草木が生えている。皮膚を突き刺すような冷たい風が、深い谷を越えて吹き荒れていた。
どこだろう、ここ。
始めてくる場所ではないような気がした。なんだか、どこかが、懐かしいような気がする。
不意に、小さな子供の声が聞こえてきた。ふと、後ろに目をやると、比較的傾斜が緩やかな坂に、子供が2人遊んでいる。その内の1人は青い髪をした人間の女の子……まだ、4歳くらいだ。もう1人は、とても小さな、子供のヒメグマ。
はしゃいで、じゃれあっている2人の子供を見つけ、思い出した。これは、子供の頃の――6年前の自分なんだと。
女の子は、ヒメグマとは2週間前に知り合ったばかりだった。学校で苛められたのをきっかけにして、父親に内緒で家を出てきた――つまりは家出だった。
泣きながら、走りながら、やってきた場所は、一般人は立入禁止のシロガネ山だった。険しい山道を、暫く無言で歩いているうちに足は疲れ、また空腹にも耐え切れずに、女の子はその場に座り込んだ。
おなかすいた。もう、かえろう。女の子は気まぐれな思考を巡らせて、そう思った。だが、日は既に暮れてしまっていた。いつのまにか道に迷ってしまっており、帰ることもできない。暗闇の中で女の子は、急に心細くなった。
女の子は座り込んだまま、わぁわぁと泣き出した。
「くらいよぉ、さむいよぉ……、ぱぱごめんなさい、たすけて!」
女の子が、そう叫んだ、その時だった。目の前の大きな岩の後ろから、パパでもなく父さんでもなく……、母親の身体が覗いた。リングマの。
「あぁ……。た、たべられちゃうよぉ」
女の子は、メスのリングマを見て、驚きのあまり後ろに転んだ。転んだ拍子に足を捻ってしまった。もう、痺れて歩けない。
リングマは、じりじりと女の子の方に迫ってくる。
「たすけて、たすけて……」
一歩も動くことが出来ないままに、女の子は助けを求め続けた。しかし、誰にも聞こえていない。目の前のリングマを除いては。
だがリングマは、女の子の目の前で立ち止まると、ゆっくりとしゃがんで腕に抱いていた何かを降ろした。
「え……?」
思わず呟いた女の子の足下には、小さな小さなヒメグマが、にこやかに微笑んでいた。それが、なにを意味しているのか、女の子には、なんとなく理解できた。
「このこの……おともだちになってほしいの?」
女の子は、怖ず怖ずとリングマに聞いた。
リングマは、微かに頷いたようだった。
その後、3日後に大捜索の結果、女の子は発見されて連れ戻された。しかし、それでも女の子は、放課後に隙を見つけては、ヒメグマの所に遊びに行っていた。
「ひめちゃん! つぎ、なにしてあそぶ?」
鬼ごっこの後、荒い息のまま女の子は、ヒメグマと並んで座りつつ訊いた。
「『ふたりかくれんぼ』する?」
ヒメグマは首を横に振った。
「う~んと……、じゃあ、『ふたりだるまさんがころんだ』しようよ!」
ヒメグマは、またも首を横に振った。女の子は、ヒメグマが自分からかっていることに気付いた。ちょっとした苛立ちで、プクッと頬が膨れる。
「もぉ~……ひめちゃん、なにしたいの?」
ヒメグマは、楽しそうに笑うと、地面に爪で何かを書きだした。四角い箱のようなモノを書き終えたヒメグマは、女の子の方を向いて、それを指さす。
「わかった! ひめちゃんは、『ふたりかんけり』がしたいんでしょ?!」
思わず女の子が言うと、ヒメグマは、うんうんと頷いた。その瞬間、ヒメグマの頭の中で、何かが弾ける音がした。
「じゃ、やろう! 『ふたりかんけり』!」
女の子は、そう言うと勢いよく腰を上げた。しかしヒメグマは、動こうともしない。
「あれぇ? どおしたの、ひめちゃん」
ヒメグマの様子が、おかしいことに気付いた女の子は、ヒメグマの顔を覗き込んだ。そして、女の子は言葉を失った。さっきまでの笑顔とはうってかわって、ヒメグマの表情は、今にも泣き出しそうだった。
「どおしたの? どおしたの? どこかいたいの?」
女の子の呼びかけにも、ヒメグマは全く反応しない。やがて、ヒメグマの瞳からは大粒の涙が次々とこぼれてきた。
呆気にとられている女の子を尻目に、ヒメグマは泣き、悲鳴をあげ続けた。
「キュ~! キュー! キュー!」
いつの間にか、ヒメグマの柔らかそうな体毛は、涙で濡れていた。
「どおしたの……? ひめちゃん……」
銃声が響いた。女の子は身体をひきつらせた。女の子の独り言も、ヒメグマの最後の悲鳴も、銃声によってかき消されていた。
「な……なに? なんなの?」
女の子は驚いて辺りを見回すが、周りは既に元の静けさを取り戻していた。しかし、その静けさは、長くは続かなかった。
ズドン、という轟音が、辺りに鳴り響いた。まるで、何かが墜落したような音だった。
「なんなの……なんか、こわいよ」
周囲の異変に、女の子は驚きを通り越して、恐怖すら感じていた。いつの間にか、ヒメグマは女の子に抱きついている。その眼は真っ赤に腫れ上がっていた。
「ひめちゃん。いちど、おかあさんのところにもどろうよ」
震えながら女の子は、ヒメグマに同意を求めた。だが、ヒメグマは答えなかった。ただ啜り泣く声だけしか、幼い瑞穂の耳には届いていなかった。
幼い頃の瑞穂が、ヒメグマと出会った場所……シロガネ山の深い谷。
その谷のすぐ横に洞窟がある。ヒメグマとリングマの寝床、つまりは巣だった。
「こんにちわ。おじゃまします……」
泣き疲れて寝入ってしまったヒメグマを抱きかかえながら、瑞穂はおそるおそる、洞窟を覗き込んだ。しかし、そこにいるはずの、リングマ……、つまりヒメグマの母親はいない。外を見回しても、リングマの気配すら感じられなかった。
こんなことは初めてだ。
いままで、ヒメグマと一緒に遊んでいるときは、絶対にリングマは洞窟の中で休んでいた。しかし今、そこにも、どこにも、リングマの姿は全く見当たらない。
洞窟の辺りに、大人の人間の足跡がいくつかあることに、瑞穂は気付いた。
なにが、あったんだろう――
瑞穂が一人で考え込んでいると、抱かれて眠っていたヒメグマが目を覚ました。
「あ……、ひめちゃん。おきたの?」
ヒメグマは、悲しげに俯いて、ただ手のひらに染み込んだ蜜を舐めるだけだ。瑞穂の問いかけには、全く答えない。
そんなヒメグマを、瑞穂はただ見つめることしかできなかった。
しばらくして、ヒメグマは震える指で、谷の方を指さした。それに気付いた瑞穂は、おそるおそる、谷の方へと歩み寄った。
その日、瑞穂とヒメグマは、一日中、言葉を失ったままだった。
意を決して覗き込んだ、その谷底には、破裂したリングマの亡骸が転がっていたのだから。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。