水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#3-1

#3 姉妹。

 1.秘事は青空に消え

 

 

 月の光を浴びながら、少女は物思いに耽っていた。 
 滑らかで雪のように白い肌が、より一層、白色を帯びている。強すぎず弱すぎず、汚れた下界を優しく照らすその光は、物事を考えるときには最良の光だった。 
 少なくとも少女は、そう思っていた。 
 穏やかになれる。そんな感じがした。だが、この日だけは違っていた。歯を噛締め、食いしばる乾いた音が、コガネホテルのバルコニーに響いている。艶やかで腰のほうにまで達している、紫色のロングヘアが細やかに揺れている。 
「なによ――それ」 
 もう何十回、同じことを呟いたのだろうか。他に言うべき言葉など見つかるはずがないのに。慰め、守ってくれるはずの親もいない。帰るべき故郷もない。そして唯一の肉親であり、もっとも信頼し、もっとも頼りにしていた姉も、ベッドに篭り、この世界のすべてとの接触を拒むかのように、眠っている。少女の姉は、この街の、コガネシティの汚らわしい男達に犯されていた。 
 何故、こうも悪いことばかりが、続くのだろうか。 
 無表情のまま、少女は月を見上げた。丸いが少しだけ欠けている月が、硝子のように透き通った瞳に映った。漆黒の空に彩られた宝石のように、月は輝いている。だが、それがどんなに幻想的でも、美しかったとしても、少女の心を癒やすことはできなかった。 
 何故なら、少女の心の傷まで月の光は届かないから。暗く濁った心の表面を照らすことはできても、一番奥の、一番深い部分にある傷までは届かないから。 
「なによ――それ」 
 同じことを、何回くらい呟いたのだろうか。少女は思考の片隅で考えた。私は何をしているのだろう。何で、こんなことに、なっちゃったんだろう。 
 黒々としたノースリーブのワンピースが怒りに震え、風に煽られてはためいた。冷たい冬の風が吹いている。空気は微かに死臭を含んでおり、少女はそれを吸い込むのを拒否するかのように軽く息を吐いた。鋭利な表情とは不釣り合いな、可愛らしい黄色のリボンが、はらはらと風に吹かれて揺れた。 
 ゆっくりと少女が後ろを振り返ると、ガラス越しに姉の姿が見えた。布団を頭から被り、なにかに怯えているように眠る姉の姿は、痛々しく虚しかった。 
「なによ……それ……」 
 洲先瑞穂が、コガネジムのベッドの中で、アカネと共に静かな寝息をたてていたとき、少女はいつまでもコガネシティを見下ろしながら、同じ呟きを発し続けていた。  

 

○●

 体が、軽いような、重いような……不思議な感覚の中に彼女はいた。目の前では、記録映画のように、自分の姿が映し出されている。所々、白い靄がかかっていて、全体像は見えないのだが、紛れもなくそれは自分の記憶だった。 
「これは、夢なの?」 
 彼女は訊いた。答えは返ってこない。その代わりに、目の前のスクリーンは別の記憶を映しだした。 
 映像の中で、何かが彼女の体を強く押さえつけていた。激痛が彼女を襲う。彼女は抵抗していたが、相手の力に押されて、なす術は無かった。 
「ねぇ、答えてよ……。これは、なんなの? どこなの?」 
 彼女は叫んだ。 
 月の光が照らされた。その”何か”の全体像が、一瞬だけだが彼女の目に映った。それは男だった。いや、野獣の一人だとでも言った方が適切かもしれなかった。 
 彼女は恐る恐るスクリーンを凝視した。そこには紺のジャンパー、黒いジーパンを着た、長髪の男がニヤニヤと笑っている様子が映し出されていた。 
 男は彼女の髪の毛を引っ張り、その場に引きずり倒していた。嫌らしい笑みを浮かべながら、男は彼女の身体を舐めるように見つめた。 
「い……いたぃ……ぅぅ……」 
 彼女は、か細いうめき声をあげた。引きずり倒されたときの痛みで蹲っている。その時、彼女は男の二の腕にタトゥのような模様を見つけた。ニドリーノのタトゥのように見えた。すると、目の前のスクリーンが、突然真っ暗になり、何も映っていない状態になった。 
「なに……? どうしたの……。ねぇ、どうしたの?」 
 彼女の問いかけは、モヤモヤとした不思議な空間に、虚しく響いた。 
 暫くして、再びスクリーンに、自分の姿が映し出された。先程よりも、多少時間が経過しているらしい。 
 彼女は犯されていた。金髪の男は、犯されている彼女の身体を眺めている。スクリーンの中の彼女は、ただ呆然と、焦点のあっていない瞳で夜空を見上げているだけだった。苦しいのか、時折、顔を歪めて悲痛なうめき声を発している。 
「きゅ……くぅぅ……」 
 彼女の頭についた水玉模様のリボンが、狂ったように揺れていた。細く華奢な身体が、折れてしまいそうなほどに彼女は身体を捩り、男の身体に抗っている。 
「や……やだ……」 
 思わず彼女は呟いた。彼女の目の前で、記憶の中で、彼女は泣き叫んでいた。 
「ねぇ、やめて! 誰か、この映像を停めて! お願い!」 
 彼女の叫びは誰にも届かない。何故なら、スクリーンの中の自分自身の声に、掻き消されてしまったのだから。 
 背中を砕かれたような痛みに、彼女は泣き叫んだ。男は彼女の足首を掴み、子供の玩具のように乱暴に握り締めている。男の臭い息が鼻先を掠めた。彼女は顔を背けたが、男の汚い身体は、既に彼女の身体を浸食していた。異物が彼女の細い身体を貫いていた。 
「ああ……や……や……」 
 ……嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……。 
 彼女の頭には、拒絶の叫びが鳴り響く。しかし、それは無意味であり、なにより手遅れだった。 
「誰でも、いいから、はやくこの映像を停めてっ!」 
 半ば自棄になって、彼女は叫ぶ。 
「やめてっ! やめてよっ!」 
 叫ぶと同時に、彼女は目を閉じた。スクリーンの中の自分は、涙声になりながら、細々とした苦悶の悲鳴をあげていいた。 
 救いはなかった。自分の身体と精神が音を立てて崩壊する音が、彼女の耳に鳴り響くだけだった。最後に聞こえる硝子瓶の鳴る音だけが、不協和音として彼女の耳に焼きついた。

 

○●

 朝日は既に、かなり上方に昇っていた。朝と言うよりも昼に近かった。コガネホテルの足下からのびる影も、次第に短くなっていく。 
 眠っているように静かな303号室は、突然の叫び声で目を覚ました。 
「いや……あぁッ!」 
 掛け布団を蹴り飛ばし、叫び声を上げながら射水 冷は飛び起きた。悪い夢でも見ていたのか、全身から汗が滲み出ている。羽織っていたパジャマは、ぐっしょりと濡れていた。 
 物音で異変に気づき、彼女の妹である射水 氷も目を覚ました。バルコニーでそのまま寝入ってしまっていた妹は、ゆっくりと部屋の方を覗き込んだ。姉はベッドから転げ落ちている。飛び起きた反動で足を痛めたのか、その場で蹲っていた。 
「姉さん?」 
 氷は小さな、虫の鳴くような声で呟いた。滑るようにしなやかに部屋の中へ入り、妹は蹲る姉を抱きかかえた。 
「姉さん、大丈夫? 落ち着いて。ここには、私達しかいない」 
 妹に言われ、冷は落ち着きを取り戻した。痛みを堪えて、疲れ切ったようにベッドに座り直す。 
「大丈夫? 姉さん」 
 目を細めて冷を見つめ、氷は心配そうに呟いた。だが、表情は微動だにしない。無表情という仮面が張り付いたまま、凍りついているかのようだった。姉である冷ですらここ数年、氷が感情を表に出したところを見たことがない。 
「大丈夫だよ……ちょっと、足を打っただけ」 
 静かに俯き、冷は言った。 
「姉さん」 
「ん……なに?」 
「生身の身体じゃ、この寒さは辛いでしょ。なにか、暖かい飲み物でも飲む?」 
 痛みのために、冷は今まで気付かなかったが、この部屋には暖房が無かった。いくら昼頃だとはいっても、凍てつくような冬の寒さは厳しかった。 
 冷は首を縦に振りながら、氷に訊いた。 
「うん、そうね。暖かいもの欲しいな。ミルクティーとか、ある?」 
「ミルクティーね。わかった」 
 氷は、ショルダーバッグの中からティーバッグを取り出した。ティーバッグを入れたティーカップに、ポットの熱湯をそそぎ込む。紅茶の良い香りが部屋に充満した。冷蔵庫からミルクを取りだし、紅茶へ注ぐ。 
 ティーバッグを取り出してから、ミルクティー完成まで、ほんの数秒だった。冷は、氷の異常なまでの手際の良さに、いつもながら驚いていた。 
 逆に言えば、つい最近まで、こんな事ばかりをさせられていたことを意味していた。それを思うと、何故もっと早く、この計画を実行しなかったのかと悔やんでしまう。 
 なにより、氷が可哀相だった。あの時の、一番、辛かった時期の氷のことは、もう思い出したくもない。 
 でも――今でも、その状況は、あまり変わっていないのかもしれない。 
 ――だって、私は。 
「姉さん。ミルクティーできた」 
 氷は、冷の目の前でティーカップを持ちながら立っていた。 
「あ……ありがとう……」 
 そう言って、冷は氷からミルクティーを受け取ると、一口すすった。甘く暖かなミルクティーが、のどを通って、お腹へと伝っていく。冬の冷気に冷やされた、冷の体はホンの少しだけ暖かみを取り戻した。 
「どう? 姉さん。おいしい?」 
 ミルクティーにつかったミルク瓶を冷蔵庫にしまいながら、氷は訊いた。冷は、はにかみながら微笑んで見せた。 
「うん。おいしいよ。氷のつくる料理は、なんでもおいしいもの」 
 姉の笑顔を見て、氷は一安心したのか軽く息を吐いた。 
「よかった、姉さんに喜んでもらえて」 
 氷はミルク瓶を冷蔵庫の中に押し込んだ。ミルク瓶は冷蔵庫の中のジュース瓶とぶつかり、カチャカチャと冷ややかな音をたてた。 
 その瞬間、冷の眼の色が変わった。 
「あ……あぁ」 
 乾いた叫び声を上げ、冷は蒼白になった顔をふるふると左右に振った。彼女は悪夢の最後に聞いた、あのミルク瓶の冷ややかな音を忘れてはいなかった。 
 夢で見た、スクリーンの情景が、今、自分の目の前で再生し始めた。 
 コレハ、ゆめナノ? ネェ、こたエテヨ……。コレハ、ナンナノ? ドコナノ?! 
「い……いや……ぅぅ……」 
 突然、冷は呻き声をあげた。そして苦しそうに表情を歪め、身体を無理矢理に捩った。 
 姉の不可解な行動に気付いた氷は、驚いて冷に話しかけた。 
「姉さん? 姉さん、どうしたの? どうしたの」 
 妹の問いかけで、冷は正気を取り戻した。冷は怯えた様子で、目の前に立ちつくしている氷の顔を見つめた。 
「……た」 
 思うように声が出ないのか、意味の分からない言葉が姉の口から発せられた。 
「え? 姉さん、今なんて――」 
 言ったの? 
「……見えた」 
 だから、なにが……? 
 と言いたいのを、氷は堪えた。表情から察するに、良からぬものを見て――思い出してしまったのだと、推測したからだ。 
 細々と、冷は呟いた。 
「もう、二度と思い出したくない、昨日の夜の――夢」 
「――夢?」 
 思わず、氷は聞き返した。 
「それは、確かに――」 
 夢だった方が、良いに決まってる。 
 夢だった方が、どれだけ楽なことか。 
 夢だった方が、これほど苦しまずにすんだのに。 
 夢だった方が……、いえ、夢であってほしかった。 
 ……でも、これは、現実なの……。 
「なんで……」 
 逃げようとするの? 
「どうして……」 
 逃げようとするの? 
 氷は、次から次へと沸き上がる言葉を、心の中でかみ殺した。今の姉に、そこまで言うのはあまりにも酷だから―― 
 冷の白く細い腕に鳥肌がたっているのに、氷は気付いた。 
 ミルクティーを一気に飲み干した冷は、突然、布団の中に潜りこんだ。甦った悪夢よりも非道い記憶が、か弱い冷の心を突き刺していた。 
 ――闇――暗闇――ギラつク男の眼――叫ビ、呻き、悲鳴、羞恥、血涙、恐怖、死――? 
 いつしか、冷は震えていた。 
「姉さん……」 
 氷は悲しい瞳で、姉を見つめ続けることしかできなかた。それでも尚、その表情は変わらなかった。 
「嫌……もう疲れた……」 
 布団の中から、冷のくぐもった声が聞こえてくる。その声は、哀しみに満ちていた。 
「疲れたって――姉さん。私達は、まだこれから」 
 溜まりかねて、氷は言った。その瞬間、冷は再び布団から飛び起きると、氷を睨み付けながら言った。 
「これから……? 私に、これから何があるって言うのよ……?」 
 冷は、体ばかりではなく、唇に至るまで震えさせながら続けた。 
「これからなんて、なにもない。なにも良い事なんてあるわけないよ。それに、なんで、あんな目に……あうの……氷も一回、同じ目にあってみたら解るわ。死にたくなるよ。絶対。あぁ、もう、……いやだいやだ……イヤダイヤダ……」 
 氷は、姉をを見つめたまま制止していた。 
「もう嫌だよ……辛いよ……死にたいよ……」 
 冷の眼は、沢山の涙で溢れていた。氷にとって、そんな姉を見るのは辛かった。 
「そんな事……言わないで。それに、姉さんが死んじゃったら、私はどうなるの……どうすればいいの?」 
 錯乱していた冷の表情が、少しだけ元に戻った。 
「姉さん、死んじゃったら、私は独りぼっちになるの……? そんなの……」 
 嫌に決まっている。 
 氷は、冷を強く抱きしめていた。一晩中、外で眠っていたせいなのか、雪のように冷たい肌が、ヒヤリと冷の体を包んでいた。 
「ひ……ひょう……」 
 驚いた。 
 ”あの事件”以来、氷が、感情に流されることなど、初めてだったから。そのことに関しては、冷は、少しだけ嬉しく思う。しかし冷は、そんなことに喜んでいられるほど、穏やかな精神状態ではなかった。 
「誰だって、いつかは一人にならなきゃ、ならないのよ。私だって、この間まで一人だった」 
 冷は、つっけんどんに答えた。 
「どうして。私がいたじゃない――」 
 氷の心配も、今の冷にとっては、なんの意味もなかった。つまり、冷の受けた精神的な傷が、それほど深かったという事だった。 
 恐怖からか、唇が震え、言葉が良く聞き取れなくなり、冷は明らかに取り乱しているように、氷には見えた。 
 2、3度、問答を繰り返す内、冷の眼から涙が溢れ出た。それはポロポロと、毛布に落ちて染み込んでいく。 
「姉さん、本当に大丈夫?」 
 あまりの姉の取り乱しように、さすがの氷も顔を強張らせた。冷は、なにも答えなかった。これが答えだ、と言わんばかりに、ボロボロと涙だけがこぼれ続ける。蒼白く震える冷の顔は、もはや既に自分の姉ではないように思えた。 
 氷は、ゆっくりと冷の背中をさするが、冷の様子は一向に落ち着かない。 
「もう……泣かないで……」 
「あなたに、私の何がわかるの? 解らないわ。理解してほしいなんて思わない。だって絶対に解らないんだもの! 私の気持ちなんて、誰も解らないのよっ!!」 
 冷の取り乱し方は、頂点に達していた。体は涙のシャワーで濡れ、なおかつ震えは、おさまる気配すらない。 
「解らない……私の気持ちなんて誰にも……、絶対に解らないわ!」 
 その叫びと共に、冷は嘔吐した。吐いたのだ。あまりの緊張に、胃が耐えきれなかったのだろう。先程飲んだミルクティーが、次から次へと逆流していった。ツンとする胃酸の臭いが、部屋にたちこめる。 
「……あ……、あ……氷……?」 
 暫くしてから、正気に戻った冷は、おそるおそる氷を見上げた。氷は悲しげに項垂れていた。 
 ただ、一言呟いた。 
「姉さん……、涙」 
「え? ……あぁ……」 
 相変わらず、冷の眼からは、涙が溢れ出てたままだった。 
「とまらない」 
「……なんで……。とまらない……?」 
「そう、とまらない……」 
 涙が、止まらない。 
 止めようと思っても、いうことを聞いてくれない。涙顔のまま冷は、氷に語りかけた。 
「氷……ごめん……」 
「いいよ……、気にしてないから。でも……」 
 氷は、眼を閉じた。 
 冷は、訊く。 
「でも……、なに……?」 
「姉さん……最近、変わったよ……昔と全然違う……」 
 私が……? 
 他に……、誰がいるの? 
「そんな……だって……」 
 そこまで言いかけて、冷は、慌てて口をつぐんだ。

 私は、誰なんだろう。 
 射水 冷……氷の『姉』。 
 ほんとに、そうなのかな……。 
 私は、本当に、氷の『姉』なんだろうか。 
 もしかしたら、違うかもしれない。 
 氷にとっての『姉』は、こんな、ひ弱な女じゃないはず。 
 私は、変わったんだろうか。 
 あの世界で生きるために、変わることを強制されたのかもしれない。 
 それとも、氷にとっての『姉』は、最初から私じゃないのかもしれない。 
 それって……。 
 まさか……、まさかね……。 
 まさか……。それでも……。それじゃ……。そんなの……。 
 『妹』は、……でも、そのうちに……。

「そ……、そうよね。た……たしかに……たしかに、私は変わった」 
 口では、そう言っているが、明らかに冷は狼狽していた。そんな冷の様子を見て、氷は心配になった。 
「あ……、姉さん……。私、そんなに酷いこと言った……?」 
 それを聞いて、冷は慌てて首を横にふった。 
「違う……違うよ……」 
「それじゃ……、どうして……」 
 そんなに、狼狽えているの……? 
 そう、訊きたかったが、やめた。姉が、元に戻っただけで、十分であり、それ以上無駄なことはしたくなかった。 
 氷が黙ったままでいるのを、冷は静かに見つめている。 
 ……もう、遅い……なにもかも……。 
 そう、冷は思った。 
 そして、心に決めた。 
 これ以上、氷が傷つくのを見たくないから……そして自分も……。 
 まだ黙っている氷に対して、冷は立ち上がり言った。 
「ちょっと、散歩に行ってくるね」 
「え……? でも……」 
 心配そうな氷をよそに、冷は、ドアを押して外に出た。 
「大丈夫……。私なら……大丈夫だから……」 
 やっとのことで、冷の瞳から涙が消えた。 
 氷は、悲しそうな様子で冷の後ろ姿を眺めていた。

 

○●

 つきぬけるような青空の中で、太陽は燦々と照り光っている。人口密集地コガネシティで、雲もなくこれほど天気のいい日は、数ヶ月ぶりだった。 
「はぁ……」 
 そんな青空に一番近い場所、コガネ百貨店の屋上のベンチで、コガネジムのジムトレーナー少女アスカが、プリンを頭に乗せて、ため息をついていた。 
「ウチって、なんでこんなに口が悪いんやろか……」 
 そう言うとアスカは、ガクッと項垂れた。 
 深く落ち込んでいるアスカとは対照的に、頭に乗っている『風船ポケモン』プリンは嬉しそうに、買ってもらったアイスキャンデーを、ペロペロと嘗めている。 
「はぁ……。いっつも、いっつも……余計な事ばかり言うてしまうし……」 
 そんな、アスカの事など気にもせず、プリンは陽気に小躍りした。 
 落ち込んでいるアスカは、陽気なプリンの行為に、嫌気がさしてきた。ついに我慢できずに首を激しく横にふった。 
「ぷ……ぷりゅり? ぷりゅ~!」 
 頭から振り落とされたプリンは「なにすんのよ?!」と、でも言いたげな表情で、アスカを睨んだ。アスカも負けじと、プリンを睨みながら言い放つ。 
「あんたバカやろ!? ウチが、こんなに落ち込んどるのに、よりによって頭の上で暴れるやなんて……、いったいどういう神経しとるんや?」 
 バカと言われてプリンは、さらに憤慨した。 
 ポケモンであるプリンには、言葉の正確な意味までは解らなくとも、相手の表情や、言い方、声色などで、大体の意味なら解るのだ。 
「ぷりゅりゅ! ぷりゅり!」 
 そう言うと、ぷくぅ~と、プリンの体が膨れる。 
 これこそプリンが、「ふうせんポケモン」に分類される所以だ。 
 いつものアスカならば、膨れたプリンの可愛さで、怒りも収まるのだが、今日だけは違っていた。 
「いっつも、いっつも、膨れりゃええいうもんやないで! それになんやねん。ウチのアイスキャンデー。ほとんどなくなってもうとるやんか!」 
 アスカは、プリンの手元を指さした。丸々と膨らんだプリンの短い手には、嘗められて元の4分の1くらいの大きさになってしまった、アイスキャンデーが、しっかと握られている。 
「それ、ウチのアイスキャンデーやで! 返してや!」 
 そう言うと、アスカはプリンのアイスキャンデーめがけて、手を伸ばした。しかしプリンは、ぴょんと跳び上がり、アスカの腕を避けた。 
 小馬鹿にしたような、プリンの態度に、アスカはとうとう本気で頭にきた。 
「いい加減にせんかい! なんで、ウチの言うこと、聞いてくれへんねん!!」 
 顔全体を真っ赤にし、湯気を上げながら、アスカは大声で叫んだ。そのあまりの形相に、いままでやりたい放題だったプリンも、さすがに怖じ気づいてしまったようだ。 
「ぷ……ぷり、ぷりゅ~……。!」 
 拍子に、プリンは、背中から転んだ。アイスキャンデーは手から離れて、どこかへ飛んでいってしまう。 
 起きあがったプリンは、いまにも泣きそうな顔を、アスカに向けた。 
「な……なんやねん。そ、そんな顔しても無駄や。ウチには通用せえへんで!」 
 そうアスカに言われて、プリンはぷいっと横を向いた。それを見て、アスカは呆れ、思わずため息をついた。 
「なんや……、やっぱり、嘘泣きやったんかい」 
 そのとき、後ろからアスカを呼ぶ、若い女の声が聞こえてきた。 
「あの……、このアイス、あなたのですよね……?」 
 そう言われて、アスカが振り向いた先には、アスカと同じくらいの年頃の女性が、ドロドロになったアイスキャンデーを手に持って、立っていた。女性の紫色の髪は艶やかで、童顔なアスカとは対照的に、どことなく大人の雰囲気を漂わせている。 
「あ、そやで、ありがと……」 
 そこまでお礼を言いかけて、アスカの顔色が一気に、青ざめた。相手の女性の肩には、溶けたアイスキャンデーの一部がベットリとへばりついていたのだ。プリンの投げたアイスキャンデーが、彼女に当たってしまったということは容易に想像できた。 
「あの……、どうかしました?」 
 真っ青な顔のアスカを見て、彼女は首を傾げた。 
「あ、ご……ごめんな。その洋服代は、ウチが弁償するから……、許してや……。あ、ほら、プリン! あんたも謝りんかい!」 
 アスカは、足下で拗ねているプリンを担ぎ上げた。 
「もしかして……、これのことで、謝ってくれているんですか?」 
 彼女は、肩についている洋服のシミを指さしながら言った。 
「ホンマに、ごめんな。洋服代は絶対に弁償するから……」 
 頭を下げたアスカを見て、彼女は、手をふりふりしながら応じた。 
「い、いいですよ。弁償なんて……」 
「へ?」 
 予想だにしなかった答えに、アスカは呆然と彼女の顔を見つめた。 
「ど、どういうことなん……?」 
「弁償だなんて、大袈裟ですよ。なにも、そこまでしなくても……」 
「でも……、なんか、悪いなぁ……。その洋服、高そうやし……」 
 アスカは、彼女の着ている服を、マジマジと見やる。それに気付いたのか、彼女も自分の服を、チラリと見た。 
「この服は、一昨日、妹がつくってくれたんです。『寒いでしょ』って」 
「そやったら、なおさら……」 
 彼女は、少し俯いて、首を横にふる。 
「とにかく、いいんです。もう、私には必要ないですから」 
「そ……そうなん……? ほんまに、ごめんな」 
 アスカがそう言うと、彼女は完全に溶けてしまったアイスキャンデーを手渡して、展望テラスの方へ、行ってしまった。 
 脱力したように、アスカは、その場に座り込んだ。 
「変なの……。弁償する、言うてんのに」 
 口ではそう言いながらも、アスカは多少、ホッとしていた。 
 弁償するとは言うものの、結局、お金を持っていないアスカは、アカネに事情を説明して、お金を貸してもらうしかない。そんなことになったら、アカネになんと言われるか……、たまったものではないのだ。 
「まぁ……、よかったかな……」 
 そう呟くと、アスカは、抱いていたプリンを、地面に降ろした。 
「もとはといえば、あんたが悪いんやで」 
 プリンを、叱りつけた、その時だった。

 ……きれいナ、あおぞら……。

 さっきの彼女の声が、聞こえたような気がした。アスカは、ふと彼女がいるはずの、展望テラスを振り返った。 
「あれ……、おらへん」 
 彼女の姿は、そこにはなかった。

 ドスッ! 
 グワシャッ!

 その音は、アスカの耳に、長く焼き付くことになる。

 

○●

 

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。