ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#5-2
#5 妖魔。
2.愚かなる暴挙
明日の幻影は、夢のままで消えて。
残された希望、涙に、溶けこむ。
忘れたいと思う気持ちだけ、憎悪、呼び覚ます。
燃える荒野で、出会った君は、狂い、吠えたてる。
それだけ、これだけ、どうしたかな。
あれだけ、それだけ、どこにいる。
君だけ、あれだけ、なんだかな。
これだけ、君だけ、そこにいる。
田舎の朝は、早い。寒々とした薄暗い霧の中、老人達はジョギングで清々しい汗を流している。
「おはようございます」
瑞穂がそういうと、老人達は朗らかに挨拶を返し、微笑んだ。
「かわいいお嬢ちゃん。こんな朝早くから、お散歩かい?」
「あ、はい。気持ちよさそうだったので……」
「そうじゃろ、そうじゃろ」と、ジャージを着た老人の1人が頷いた。
「この辺りは自然がおおいからの。都会とは違い、空気もうまい」
大きく深呼吸した老人に倣って、瑞穂も深く息を吸い込む。汚れのない自然な空気は、体の中を洗い流してくれるような気さえしてきた。
空翠。
そんな言葉が、瑞穂の頭に浮かんだ。どこか懐かしい言葉。なぜだろう。どこかで聞いたことのある言葉だった。
「くうすい……」
思わず呟いた瑞穂の言葉を、老人の1人が聞いていたらしい。
「お嬢ちゃん、難しい言葉を知っているのぉ……感心じゃな」
それだけ言って会釈すると、老人達は走りだし、霧の向こうへと消えていった。辺りを見回しながら、瑞穂はゆっくりと歩き出した。どこかでポッポの鳴き声が聞こえる。
散歩をしようと思ったのは、気持ちよさそう、というだけではなかった。もう一つ理由がある。変な夢を見た。そして、まだ暗い内に目が覚めてしまったからなのだ。
白髪混じりな50歳ほどの初老の男。瑞穂の父親が、こちらを見つめていたのだ。
(あ……パパぁ!)
即座に瑞穂は父親に駆けていく。3年前に瑞穂をのこして行方を眩ませた、薄情な男に。男は、蔑むような目つきで、瑞穂を睨み続けていた。瑞穂は立ち止まり、そのあまりの形相に震えた。
(パパ……どうしたの。どうして、そんな目で私を見るの?)
あれが本当の、瑞穂のパパの素顔なのよ、と誰かが背中から語りかけてきた。
だれ?と振り向いたその先には、自分とそっくりな、水色の髪をした女が悲しげに見つめている。紛れもなく、それは写真と夢の中でしかみたことのない、瑞穂の母親だった。
(ママ……。ママだよね……?)
母親は頷いた。そして、消えていく。
どこにいくの? せっかく遭えたのに!
父親も遠ざかっていく。瑞穂を睨み付けたまま……。
ねぇ、まってよ。また、私だけ仲間外れ……、独りぼっちなの?
そこで、夢から抜け出した。
「なんだか……嫌な、夢だったなぁ……」
大切な……、大切な思い出を汚されたような気がした。
寒々とした霧の中を、瑞穂はゆっくりと歩き続けている。そんなぼんやりとした気分を消し去るかのように、ふいに声が聞こえた。
「なにをするんや! やめろ! やめんかい! そうか……おまえらかっ!」
小さくて、よくは聞こえない。おそらく口を塞がれているのだろう。
「あ、なに……何の音?」
瑞穂は不安を感じ、すぐさま声のする方へと走った。
一本道に差し掛かり、目の前には大きな屋敷が建っている。間違いなく、あそこから声が聞こえてきたのだ。瑞穂が屋敷に近づこうとすると、屋敷から車が凄い勢いで飛び出し、瑞穂の脇を通り過ぎた。驚いて振り返り見ると、運転席と補助席に黒服の男が乗っている。そして後部座席では、老人が1人、なにかをしきりに叫んでいるが、窓ガラスに阻まれ聞こえない。
老人は後ろの一本道で突っ立ちながら、こちらを見つめている瑞穂に気付いたようだ。チラリと瑞穂を見やると、声を出さずに口だけ動かした。それは、まぎれもなく……、た・す・け・て・く・れ。……助けてくれ、と言っている。
老人の目が次第に虚ろになっていく。瞼をおろし、老人は動かなくなった。
我に戻り、必死で車を追いかける瑞穂だったが、車は朝焼けに照らされながら、彼方へ消えた。
モンスターボールを持ってきていればよかった、と瑞穂は後悔したが、もう遅い。
突然のことに足が震えている。これって、もしかして……。
「誘拐……だよね」
風が冷たい。霧は晴れ、黒雲の隙間から弱々しい太陽の日差しが瑞穂の白い頬を照らしていた。
急いで屋敷へと引き返すと、立派な門から、中の様子を覗き込んだ。誰もいない。先程の老人は、この屋敷の持ち主なのだろう。主人のいない屋敷は、どこか寂しげな雰囲気に染まっている。
とにかく、一度戻ろう、と瑞穂は思った。もしかしてツクシ君なら、この屋敷のことについて、何かを知っているかもしれない。
雨が降り出した。民宿の隣にある食堂「ヒノキ屋」で朝定食を食べながら、氷は窓の外を見つめている。
白いご飯に、白味噌の味噌汁は、この国の定番の朝食メニューだ。サットカムの照り焼きは、火加減が丁度よく、元プロである氷も思わず感心するほどだった。
「お姉ちゃん! どこいっとったん!」
昨日、風呂場で出会った女の子が、青髪の少女、瑞穂を見つけて大声で叫んでいた。
瑞穂は雨に濡れて、びしょびしょのまま、ゆかりに謝った。
「ごめん。散歩に行ってたの」
「ウチ、ホンマに心配したんやで……」
「あ、それよりも、ユユちゃん、はやくきて……」
「お姉ちゃん。朝ご飯は……?」
盆の上に乗っている朝食を一気にかき込むと、ゆかりの手を引いて、瑞穂はヒノキ屋を後にした。
何をそんなに慌てているのだろう……、と氷は、その一部始終を見ながら思った。
味噌汁を啜りながら、もう後戻りはできない、と肝に命じた。決意はできている。昨日垣間見た夢が、その気持ちを強くかためた。
許せない。許せないからこそ、こうして、ここまで来たのだ。
朝食を終え、外へ出ると、雨は季節外れの雪へと変貌している。この空が、この冷たい雪が、今の私の気持ちなのだろうか。いや違う、違うはずだ。
そう自分に言い聞かせて、氷は歩き出した。
ツクシと一緒に、その屋敷に着いたときには、既に大粒の雪が舞い降りてきていた。
まったく、この真冬の降下隊は、作戦決行の日付を間違えたとしか思えない。
「すごい雪……、こんな季節に、なんだか変だね……」
ラジオの天気実況では、気象予報士が狼狽えながら、異常気象、と言っていた。異常気象、と言えば聞こえはいいが、実際には気象予報士が皆、勘違いを起こしただけかもしれない。そうとしか考えられぬほど、異様……異常な気象なのだ。
「異常気象かぁ……。お姉ちゃんも、今日は異常起床やったし」
ラジオの音を聞いて、ゆかりは嘲るように言ってのけた。瑞穂は、寒いよ、と窘めるに留まった。そんな事でいちいち苦笑していたら、体が持たない。
屋敷内部を片っ端から探索したが、特に怪しいものは見当たらなかった。いや、怪しいものどころか、家の中はふだんとあまり変わっていないように見える。
「やっぱり、勝手に忍び込んでよかったのかな……」と、瑞穂が不安げに呟いた。
本来ならば、警察を呼んで任せればいいのだが、間の悪いことに、この間のナゾノクサの大量殺害の現場検証で、皆が出払っているのだ。ただでさえ田舎の警察である。人材不足な感は否めない。
硬い表情を崩さずに振り向いたツクシは、静かに瑞穂の呟きに答えた。
「大丈夫。ガンテツさんは、ボクの知り合いだから」
ツクシの話すところによると、この屋敷の主人は、ガンテツという人であるらしい。ガンテツは、有名なモンスターボール職人であり、各地からボールの以来が殺到しているという。
たしかに屋敷には、モンスターボールの工房らしき小屋も見つかっているのだから、間違いない。
ジョウト地方だけでなく、全国にその名を知られる名工であるらしく、モンスターボールの製作依頼は、数えきれぬ程であるらしい。そのため、中には、依頼を断られてしまう人も少なくないという。
「そやったら、その爺ちゃんは、モンスターボールの依頼を断られた人に誘拐されたんやろか?」
ゆかりの言葉に、瑞穂は首を振った。
「でも、そんな人達には見えなかったよ」
「それじゃ、ガンテツさんをさらった人達って、どんな恰好をしてたの?」
「ええと……。全身、黒尽くめな、2人組の男だった」
気を取り直して、再び屋敷内の捜索を行ったが、やはり怪しいところは全く見当たらない。屋敷の玄関で、雪が延々と降るのを見つめながら、瑞穂は訊いた。
「それじゃガンテツさんは、こんな広いお屋敷で一人暮らしだったの?」
「いや。孫娘の女の子と一緒に暮らしてる。たしか……チエちゃんっていう名前だった。うーん、そうだなぁ……」と、ゆかりを指さし「この子と同じくらいの背丈だったと思う」
「ちょっと、待って」瑞穂はゆかりから目を離して、慌てたように口に手をあてた。「それじゃ、変だよ」
「なにが……?」
「だって私が、連れ去られるガンテツさんを見た時は、ガンテツさんは1人だった。女の子なんていなかったよ。」
「家出中やったとか?」
さりげなくゆかりを無視し、瑞穂は屋敷の中を見渡した。
「それに……、家の中が、まったく荒らされてない。あの時、ガンテツさんは、すごい声で怒鳴ってた。ものすごく抵抗したんだと思うの。それだったら、家の中が少しは荒れていたって……ううん、荒れてない方がおかしい」
「それって、どういう意味?」
ツクシの問いの答えに、瑞穂は詰まった。不自然だけれど、不自然である理由が見当たらない。ん? 待って、なにか忘れてない……?
虚ろな目でこちらを見つめながら、ガンテツは、た・す・け・て・く・れ……と確かに言っていた。
(なにをするんや! やめろ! やめんかい! そうか……おまえらかっ!)
『おまえら』……? ガンテツの残した唯一の手がかりが、頭に浮かんできた。
「あ……そうだ……」
なにか、ひらめいたような表情を浮かべ、瑞穂は玄関の床を見渡した。目を皿のようにして何かを探している瑞穂に、ツクシは声を掛ける。
「ねぇ、なにを探しているの?」
「たぶん、私の考えが正しかったら……あ!」と、瑞穂は食い入るように玄関の床を見つめた。
そこには、何か液体がこぼれた後のような、シミがついている。コンクリートの床に、水滴をこぼしたような小さなシミが、くっきりと。
「これは……何?」
恐る恐る訊くツクシに、瑞穂は意味深に頷き、そのシミの臭いを嗅いだ。
「間違いないよ……だとすると……」
なにが、間違いない、の?とツクシとゆかりは、瑞穂の顔を覗き込んだ。心配そうに見つめるツクシを、瑞穂は苦い表情で見上げた。
ポケギアに映しだされたマップを目で追いかけながら、瑞穂は言った。確信だった。
「ガンテツさんは……この、つながりの洞窟って場所にいる」
見上げた空に煌めく、あの青い光は、なんだろう。
青い光は、黒雲に紛れて、消えていく。光が空から漏れている。そして、雪となって地面へと舞い降りる。
つながりの洞窟を前に、氷は、雪の吹き荒ぶ空を見上げていた。今の私の心も、これほどまでに冷たく、荒んでいるのだろうか――
洞窟内へ入り、奥へと進む内に、体中に積もった雪が溶けて、冷水へと姿を変えていく。
姉さん。 私は、変わったの?
あの時……あの男達を殺したときに聞いた、自分の奇声。笑声。興奮。
快楽?
認めたくはない。しかし、認めざるをえない。それを清算するために、ここまでやってきたのだ。こんな凄惨な、復讐……逆襲……怨恨……私刑を行うために。
かなり奥まで進んで、なにかを感じたのか氷は立ち止まり、鋭い眼光で暗闇の先を睨んだ。足音が聞こえる。そして、足音は確実にこちらに近づいてくる。氷は静かに、しかし強く、地面を足で踏みならした。
「誰だ? そこにいるのは……」
その音を聞いて闇の奥から声が聞こえた。足音は早くなり、黒服の男が2人姿を現した。
「な……、おまえは……」
2人の黒服の男は、目の前の少女が氷であることを認めると、狼狽したような声をあげた。氷は微動だにせず、黒服の男達を、蔑んだように見つめている。
「バイカに……フクジュね……。まだ、覚えているわ」
黒服の男の片割れである、バイカは氷の言葉に反応し、唇を震わせた。その隣でフクジュは、信じられない、といった感じで、目を剥いている。
「てっきり、カヤさんに叩き殺されたのかと思ってた……」
「お……俺もだ……」
その2人の言葉が気に障ったのか、氷は一歩前へと歩み寄った。2人は思わず後ずさる。まったく表情を変えないまま、目を細めて、氷は2人を眺めた。
「あなたには……」と、バイカを指さし「5千8百9十2回蹴られたわ。……そして……」
妖しい瞳をフクジュを向けた。その瞳に、憎悪の炎がのたうっている。
「あなたには、」指先をフクジュへと移し「5千4百6回踏みつけられた」
ゆっくりと手を下げ、2人に向き直り、氷は不気味な笑みを浮かべた。
「覚えてる? 私は、覚えてる。覚えてる。覚えてる……」
蹴られる度に、殴り倒される度に、踏みつけられる度に、骨が軋んで砕ける音が、耳に聞こえると同時に、心は涙となり、明日も希望も幻として、夢として見ることも許されず、ただただ瞳から頬をつたって流れて、消えた。いつしか、涙すら、枯れ果て、憎悪で燃えるような荒野となった心は、自らの熱で溶け、歪んだ。
「あなた達は、あの女と一緒に、私を……私の心を殺した。何度殺したら、気が済むの? あなた達なんて、あの女がいなければ、何もできやしないくせに……」
「ふ……。おまえだって、カヤさんの前では、まるでネズミのように震えていたのにな。お笑いだったぜ。ごめんなさい、ごめんなさい、って泣きわめく、おまえの惨めさはよ」
氷は、その言葉に拳を震わせた。
笑っていた……永遠に続く泣き声は、自分のものだった。殴られ、蹴られ、踏みつけられ、それでも立ち上げる自分……そう、また殴られるために。
「それは、昔の話よ。今は違う……」
「ほう? どこが、どう違うんだ? おチビちゃんよぉ」
フクジュが、おどけたように氷をからかう。相変わらず、無表情のままで、氷は話を続けた。
「あなた達は、知らなかったみたいね。私の力」
「なんの話だ?」
「へん! 強がりも、いいかげんにしろよ。このクソガキ」
バイカがしびれを切らして叫んだ。氷は、男達を前に頬が緩むのを感じていた。雑魚だ。そう思った。こいつらの恐怖に歪む顔を想像し、ぺろりと舌をだして、氷は妖笑した。
尋常でない氷の様子に、すこしばかり戸惑っている2人の男に向けて、氷は訊ねた。
「あの女は……、カヤはどこにいる?」
「道に迷ったのか? だとしても、おまえみたいな生意気なガキに教えるかよ」
「そう。わかったわ、自分で捜す……」
氷は一言だけ呟き、小さく俯く。フクジュとバイカは、氷に背を向け立ち去ろうとした。
「……ったく、相変わらず、変なガキだぜ……なぁ? バイカ」
フクジュの問いに、バイカは答えなかった。不審に思い、フクジュは隣を向いた。バイカの姿はそこになかった。次の瞬間、ドス、という音でバイカがそこへ落ちた。
「おい! どうした?バイカ……。ヒぃッ……!」
変わり果てたバイカの姿を目の当たりにし、フクジュの体に電撃が走った。慌てて氷の方を向こうとした。だが、体が反応しなかった。動かなかった。首筋に激痛が走っっていたのだ。氷の瞳が襲ってきた。身を捩る、動けない。全身が痺れたように、麻痺したようになり、膝から崩れそうになるのを、持ち上げられた。
氷がこちらを……フクジュを見つめている。フクジュは、その氷の姿を見て、戦慄した。笑みを浮かべながら、氷は上擦った声で呟いた。
「それよ……。ソノ顔ヨ」
「おまえ……、なにものだ……」
「見ての通りよ」
意識が遠くなっていく。視界がぼやけていく。
体中の力が抜けていく……。
両手がだらりと、下がった。悲鳴を発した。聞こえない? もっと、もっと大きな声で叫んだ。聞こえない……!?
もっと。もっと。大きな声で叫んで、助けを呼ばなければ。
聞こえない。聞こえない。光は? どこにあるの?
胸の奥から聞こえる、心臓の波打つ音が消えていた。
氷の妖しい笑みは、萎んでいく汚れた瞳に焼き付いていた。
岩影に身を潜め、辺りに誰もいない、危険のないことを確認すると、瑞穂は安堵の溜息をもらした。つながりの洞窟に入って、すぐ絶叫が響いたときには、心臓が飛び出すほど瑞穂は驚いた。
「今の……誰の声だろう?」
洞窟の奥に進みながら、瑞穂は不安げに呟いた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今の声は、ガンテツさんじゃない」
「それなら……いいんだけど」
ヒワダタウン北部に位置するガンテツの屋敷から、このつながりの洞窟までは、走ったとしてもかなりの距離になる。雪の降る中、全速力で走ってきた瑞穂の、可愛らしい顔は蒼白になっていた。
荒い息をはきながら歩き続ける瑞穂を見て、ゆかりは心配そうに訊いた。
「お姉ちゃん……大丈夫なん? 顔、真っ青やで……」
「大丈夫だよ……。このくらい……」
「でも、お姉ちゃん……心臓が弱いんやろ?」
「大丈夫。ホントに大丈夫だから……」
洞窟の深部へと進むにつれて、辺りは暗さを増していく。ゆかりはメタモンを出して、懐中電灯へとメタモルフォーゼさせた。辺りは、ある程度の明るさを取り戻した。
メタモン電灯の灯りを頼りに前へと進みながら、ツクシは瑞穂に訊いた。
「ねぇ、瑞穂ちゃん」
「ん……どうしたの? ツクシ君……。」
歩きながら、瑞穂はツクシの方を向いた。先程よりはマシだが、まだ幾分顔色が悪い。庇うように胸を撫でるその姿は、どこか痛々しささえ感じさせる。
「なんで、ここにガンテツさんがいるってわかるの?」
「ここにいるのは、ガンテツさんだけじゃないと思う」
「それ……どういう意味なん?」
「まさか……」ツクシは、額に滲んだ冷汗を拭いながら「チエちゃんも、ここに?」
うん、と瑞穂は頷き返した。
「たぶん、そのチエちゃん、って子は、昨日の夜には、ガンテツさんをさらった人と同じ人に誘拐されてたんだと思うの」
「昨日の夜に!?」と、ツクシとゆかりは驚きの声をあげた。
「それでガンテツさんは夜中に、チエちゃんを捜して、ヒワダタウンを歩き回ったと思う。警察の人達は、丸々一日、ウバメの森の現場検証に行ってるから、自分で捜すしかなかった。でも、結局見つからなくて、帰ってきたところを、玄関に立ったところで狙われた……。あのときガンテツさんは『そうか、おまえらか!』って叫んでたから……」
「だから、家の中は、ほとんど荒れてなかった、ってわけだね?」
「うん」
再び頷いた瑞穂を見て、ゆかりが不思議そうに訊いた。
「そやけど、なんで、そんな回りくどいことしたんやろ?」
「ヘタに家の中で暴れられて、証拠を残したくなかったからだと思う。
ツクシ君の話だと、ガンテツさんは滅多に外には出ない人だったらしいから、買い物にでたチエちゃんをさらって、それを心配したガンテツさんが外に出るのを待ってたんだよ。きっと」
ゆかりは納得したように頷いたが、こんどはツクシが訊いた。
「でも、だからって、なんで、ここにいるってわかるの?」
「鎮静剤をつかってたから」
「鎮静剤……?」
「あ、ほら。あの、玄関の床に染み込んでた液体のことだよ。あれね、ケタミンっていう鎮静剤で、お年寄りや子供でも、比較的安全につかえるんだ。注射するときに抵抗されて、少しだけ、こぼれたのかも……」
「だけど、その鎮静剤と、この洞窟と、なにか関係あるの?」
「だって普通、相手をおとなしくさせるだけだったら、エーテル――クロロホルムでもいいけど――を嗅がせるだけで十分だもの。それなのに、わざわざ注射器を持ち出すって不自然だよ。だから、鎮静剤を打たなきゃいけないほど遠くに連れて行くんじゃないかな、って思ったの」
「そっか。それほど遠くにあって、人が隠れられる場所って言えば、この洞窟か、ウバメの森くらいだものね。それにウバメの森は、いま警察の人がいるから……」
「そういうこと。……それよりも、さっきの悲鳴は一体なんだろう……」
ドスッ。
そこまで言った瑞穂の背後から、何かが落ちてきたような音が聞こえてきた。
「なに?今の音……あっ……!」
振り返って瑞穂はそれを見た。少女の頬が、さらに蒼白くなり、口元が恐怖に歪んだ。
「なんやの? お姉ちゃん」
「見ちゃダメ」
「え?」ツクシが、何事かと後ろを振り向こうとする。「なにが落ちてきたの?」
「見ちゃダメっ!」瑞穂は静かに、それでいて強い口調で制した。
瑞穂の強い口調にただならぬものを感じたツクシは、そこで動きを止めた。
「そのまま……」瑞穂は、落ちてきた何か、へと近づく。「そこで動かずに待ってて」
「うん……わかった」
ツクシ達が立ち止まったのを確認すると瑞穂は、落下物を訝しそうに眺めた。死体……それも裸体だった。ふたつの死体が、地面に突っ伏した恰好で横たわっていたのだ。
瑞穂は思わず唾を飲み込んだ。眼を背けたいのだが、そういうわけにもいかない。
たぶん、男の人……と、頭の中で、瑞穂は小さく呟いた。出血はない。首筋に小さな傷があり、その周りが黒ずんでいる。死体は、水分が完全に蒸発しており、ミイラのように縮んでいた。あんぐりと開いた口からは夥しく唾液が溢れ、頭髪は見るも無惨に抜け落ちている。
恐怖に歪んだ表情で見開いている眼。そこに映っているのは何だったのだろう――
なにか、恐ろしいものでも見たような、怯えている眼球を、瑞穂はゆっくりと覗き込んだ。
「それは、なんなの?」
静寂の中、ツクシはおそるおそる訊いた。ゆっくりと立ち上がりながら、瑞穂は悲しそうに答えた。
「男の人の……遺体。2人いる」
「死体……?!」
驚いたような声をあげ、ツクシは振り向こうと、体を捩った。
「見ちゃダメ……。夢に出ちゃうよ?」
「う……うん。」ツクシは動きを止める。「そんなに酷いの?」
瑞穂は問いには答えなかった。だが、その沈黙が全てを語っていた。しばらく、ふたつの死相を見つめて、瑞穂は思いもよらぬ事を口走った。
「この人達……、ガンテツさんを誘拐した人達だよ」
「えっ?!」
「ホンマなん?」
ツクシとゆかりは一様に、驚いたような声をあげた。
「うん……。まだ、何かあるよ、この洞窟には……。私達の知らない、禍々しい何かが」
瑞穂のその悲しげな言葉を聞きながら、ツクシは再び歩き始めた。冷たい足音だけが、薄暗く、不気味な洞窟に響いた。
「とにかく、先に進もう……」
そこに誰かいる。
微妙な空気の変化を感じた氷は、すぐ近くにあった岩影に身を潜めた。向こうの様子を覗くと、そこには女と男が、縛られている老人に、なにかを話しかけている。老人は、既に虫の息になっており、険しい顔つきで、2人の女と男を睨み付けていた。
「なによ、その顔は!」
女はそう叫ぶが早いか蹴りつけ、老人の腹に食い込ませた。老人は、苦しそうに身を捩り、その場に倒れ、血を吐いた。
……非道い。
その老人にかつての自分の境遇を重ね合わせてしまった氷は、思わず眼を背けた。
……あの女……カヤは、昔とまったく変わっていない……。
でも、それも、もう終わり。私が、あの女を殺せば、全てが終わる……。
もう、あの女の幻覚に振り回されるのは、限界だ。あの女を殺せば、私は解放される。
いままでずっと彷徨ってきた迷宮の出口を、やっと見つけられる……。
「おまえら、なんぞに……このワシが言いなりになるとでも思うとったのか?」
血泡を滴らせながら、老人はカヤとヒエンを睨み付けた。ヒエンは腕を組み、カヤが老人を殺してしまわないように監視している。
白い歯を剥き出しにして、カヤは興奮したように叫んだ。
「ハハハッ……。いつまで、そんなこと言ってられるの?」
爪先を振り上げ、老人の顔面を蹴りつけようとしたカヤに、ヒエンが割って入った。
「やめろ。まだ、殺すな」
「どいてよ! こんなジジイ、とっとと潰してやるわ!」
「いいから、あの娘を連れてこい」
チッ、と舌打ちしながら、不服そうにカヤは洞窟の奥へと行き、縛られ、酷く怯えている女の子を連れてきた。カヤは、その場に女の子は突き倒した。
その女の子を見た途端、老人の顔が強張る。そして狼狽えたように、女の子の名前を呼んだ。
「ち……チエ……!」
「じいちゃん……た……たすけて……いた、い……いたいよぅ……」
女の子は老人を見つめながら、悲痛な呻き声をあげた。小刻みに身体が震え始め、涙が流れる。たすけて。たすけて。しゃくりあげながら女の子は、譫言のように呟いている。
老人の狼狽えように、ほくそ笑みながら、ヒエンは老人に言った。
「どうです? これで私達に協力していただけますかな?」
背後では、カヤが血走った目で老人を睨み付けていた。その気になれば、すぐにでも女の子を締め上げることが可能なムチを、その手に握っている。
老人は、生まれて初めて、恐怖というものに押し負けそうになった。そんな感情が顔に出ているのか、カヤは、ざまあみろ、といった表情をしている。
一段と大きな声で、ヒエンは強調した。
「教えていただけませんか? ジーエスボールとやらの在処を……」
「なんで……おまえ達が、GSボールを知ってるんや……」
老人の震えた問いに、ヒエンは微笑を浮かべながら答えた。
「私達の情報網を甘く見ないでいただきたいですな、ご老体。ジーエスボールなら、よく存じておりますよ。もっとも、実物を見たことはありませんが……、金と銀に光り、GとSの刻印がなされているモンスターボールであると言うことぐらいなら」
そこまで言って、チラリとヒエンは、老人の顔色を伺った。一見、丁寧に見えるヒエンの言葉には、『もし、偽物でも渡そうものなら、容赦はしない』という、無言の圧力が加わっていたことは、誰の目から見ても明かである。
「どうです? ジーエスボールの在処を教えていただけますでしょうか?」
「しかし……あのボールは……」
「別に構わないのですよ。そのかわり、お孫さんの命は保証しかねますが……」
ヒエンは冷徹な目で、カヤに合図を送った。
……そんなガキ、おまえの好きにしていいぞ。自由に、殺してもかまわない。好きにしろ。どんな風にでも、殺して、このジジイの前で、晒し者にしてやれ。
その合図を受け、カヤはにんまりと笑い、モンスターボールを地面へと叩きつけた。ボールから迸る光の中からあらわれたのは、電気ねずみポケモンのライチュウだった。濁った黄色い身体には、茶色い模様が浮かんでおり、可愛らしいが、どこか攻撃的な顔つきをしている。
カヤはライチュウのギザギザした尻尾を慎重につまむと、チエの口へと強引に押し込めた。チエは何も言うこともできず、ただただ涙を流し続けることしかできない。
こわいよ、いたいよ、たすけて……。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。