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ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#7-3

#7 視界。
 3.最期の景色は

 

 

「ずるいよ。私たち……」 
 血の気の失せた顔で、瑞穂はぽつりと呟いた。冬我は、瑞穂の表情を見つめたまま、何も言わない。普段よりも更に白くなった瑞穂の幼顔が、先程とは違う不思議な、上品な妖艶さを帯びていた。 
 ごくり、唾を飲み込んだ。胸が熱くなった。冬我は頭を振った。こんな時に、不謹慎だ。 
「ずるいよ……何も……何もしないなんて」 
「でも、ボク達が行ったところで、足手まといになるだけだよ……?」 
「それは……そうだけど……」 
 ゆかりが二人の腕を握る力を強めた。睨み付けているような形相をしている。 
「だけど……どうして、あのフリーザーは人を襲うのかな……。さっきからずっと気になってたんだけど」 
「まるで、殺気に操られているような感じだよね」 
「殺気……か。狂ってるよ……。おかしいよ。こんなことするなんて」 
 狂ってる。狂気。赤い瞳。殺気。人形。傀儡。 
 瑞穂は、それまで漠然と感じていた既視感がなんであるかを思い出した。殺気だ。狂気だ。幾つもの、無数に散らばる点が、瑞穂の頭の中で、答えとなる一つの面を形成したのだ。 
「一欠片の狂気……」 
「今、なんて言ったの?」 
「冬我くん。双眼鏡、持ってる?」 
 手渡された双眼鏡で、瑞穂はフリーザーの頭を覗いた。フリーザーは瑞穂とは反対側の方向を向いて、啼いている。だが、何も見当たらない。思い過ごしかと思った、その瞬間、フリーザーが上昇した。首筋が見えた。 
「やっぱり……」 
「ねぇ、どうしたの?」 
 瑞穂は冬我に双眼鏡を返し、フリーザーの首筋に目をやった。首筋には、先端に発信器がついている注射器のようなものが食い込んでいる。 
 双眼鏡をはずして、冬我は瑞穂を見やり、訊いた。 
「あれは……なんなの?」 
「特殊な電波を発生させる装置」 
 ポケモンは、ある特殊な波長の電波によって、精神的や肉体的に強い影響を受けるといわれている。首筋や頭部に刺さった電波発生装置は、ポケモンの体内を流れるヌクレドシオを利用して稼動し、ごく微弱な電波を発生。ポケモンの中枢神経、もしくは大脳の動物的機能を狂わせる。その結果、ポケモンは意思や感情を失い、特殊電波の命令通りの行動を強制させられる。 
「それじゃ、あの首筋に刺さっているのが、フリーザーを狂わせている……の?」 
 瑞穂から一通りの説明を受けた冬我は、小さくフリーザーを指さして訊いた。 
「たぶん……じゃなかった。間違いないと思う。私のナゾノクサも、同じ装置を頭に埋め込まれているんだけど、あのフリーザーと暴れ方がそっくりだったから。もっともナゾちゃんに埋め込まれているのは、フリーザーのとは少し構造が違うみたいなんだけど。原理は同じものだと思う」 
「それじゃ、あの装置さえ取り外せば……」 
フリーザーの暴走を止めることができる。それも、フリーザーを傷つけずに」 
「でも、どうやって装置を取り外す? 暴れるフリーザーには近づけないよ? キキョウジムのトレーナーの人達も、当分は戦えない」 
 指を立てた。自分の胸へと指して、瑞穂は言った。 
「私が行く」 
「え?」 
「私の体重くらいだったら、グラちゃんでも十分に飛べるもの。それで……」 
「ダメだ」冬我の口調は普段にも増して強かった。「無茶すぎるよ」 
「でも、他に方法が……」 
「確実性がなさすぎるよ。大型の鳥ポケモンでもフリーザーの速さには対抗できないんだよ? グライガーで近づいても、冷凍ビームで打ち落とされるだけだ」 
 俯いて、瑞穂は口を閉じた。眼の色は悲しげで、涙が浮いている。 
 このまま、ここで観ていろっていうの? 逃げたままでいいの? 卑怯だよ、そんなの。私は、黙ってみていることなんてできない。 
 瑞穂の潤んだ瞳が訴えてくるかのように、冬我には思えた。だが、このまま行かせて、無駄に瑞穂を死なせたくはない。絶対に無理なのだから。 
「無理じゃないよ……」 
 顔を上げ、意外にしっかりした声で瑞穂は言った。瞳は、もう潤んではいない。 
「地上からリンちゃんの破壊光線でフリーザーの進路を阻む。フリーザーは身動きがとれなくなるから、その隙に近づいて、装置を取り外すの」 
「破壊光線は、強力すぎて連続では打てないはずだろ? それじゃフリーザーの動きには間に合わないよ」 
「連弩って知ってる?」 
「なに、それ……?」 
「大弓のことなの。同時に何本もの矢を射ることができるんだって。弓道をしてる私の友達が教えてくれたの」 
 それとこれとなんの関係が。そこまで考えて、冬我は出かかった言葉を飲み込んだ。 
「破壊光線を、同時に二発撃つ……」 
「うん……正確には三発。フリーザーを囲むようにに撃つ。そして動けなくなっているフリーザーに、近づいて装置を取り外す。」 
「そんなこと……できるの?」 
「リンちゃんならできると思う。私は信じてるし。リンちゃんもそれに応えてくれるはず。ただ……三発分のエネルギーを同時に発射するから、反動で、リンちゃんは当分、破壊光線は打てなくなる」 
「チャンスは一度きりってことだね」 
「これで成功する確率はぐっと高くなったよね。だから、私が……」 
「そうだね。だけど、キミじゃ駄目だ。ボクが行く。鳥ポケモンに馴れたボクが行った方がいい。瑞穂ちゃんは、リングマに指示をしてくれるだけでいいから」 
「そんな……」 
 慌てたように瑞穂は首を振った。瑞穂の表情が沈み込んでいく。 
「危ないよ」 
「大丈夫……大丈夫だから」 
「でも」 
「ボクを、信用できないの?」 
「信用してるよ。だから……恐いの。死んじゃうかも……ううん、死んじゃうよ。装置を取り外せても、間違いなく、その直後に冷凍ビームを浴びちゃうんだよ?」 
「瑞穂ちゃんは……そのつもりだったんだろう?」 
 瑞穂は俯いた。嫌だ。小さく呟いて、胸を押さえつけた。鼓動が胸をつたって掌に響いてくる。強い鼓動だった。胸が苦しいのだ。 
「お姉ちゃん……!」 
 それまで黙っていたゆかりが金切り声をあげていた。顔を上げ、瑞穂は身を乗り出した。そこに、既に冬我はいなかったのだ。 
「ごめんな……オニドリル……。すぐに、すぐに終わるから。頑張ってくれ」 
 傷ついたままのオニドリルに跨り、冬我は空を翔ていた。フリーザーの元へと向かっている。 
「冬我くん! やめて……」 
「ごめん。勝手なことして。でも、この街はボクの住む街なんだ。だからボクが守る。キミを巻き込んじゃって、ごめん。でも、手伝ってくれるよね……お願いだから」 
「嫌だ。嫌だよ。そんなの。私が行く」 
 冬我は何も言わずに、上空へと飛び去っていった。オニドリルは大声で冬我の決意を表すかのように啼いた。 
 瑞穂は叫んだ。風に邪魔されるため、声は冬我の元まで届くはずもない。塔の階段を駆け降り、瑞穂はモンスターボールを力の限り投げた。 
 リングマが飛び出してくる。瑞穂は上空のフリーザーを仰ぎ見ながら、言った。 
「わかるよね? さっき言ったこと、覚えてるよね? できるよね?」 
 しっかりと頷き、リングマフリーザーを睨み付ける。口を開け、破壊光線のエネルギーを溜め始めた。 
 息を切らせて、ゆかりが飛びついてきた。瑞穂にすがるように、ゆかりは涙声で訴えている。 
「撃って! 兄ちゃんを撃ってや! 打ち落としてや!」 
「ユユちゃん……」 
 瑞穂は首を横に振った。胸の奥が泣いている。首を横に振った自分に、冷徹な自分に失望している。
 そうではないと、瑞穂は打ち消した。彼は決意したのだ。犠牲となる決意を。だから邪魔をしてはいけないのだ、と思いこんだ。そうでもしなければ、本当に冬我を撃ち落とす指示を与えてしまいそうになる。 
「なんでなん? あのままやったら冬我兄ちゃん……冬我兄ちゃんが……」 
 泥雪の地面に顔を埋めながら、ゆかりは泣き出した。肩が揺れている。しゃくりあげ、ゆかりは泥まみれになった顔で、瑞穂の足にしがみついて懇願した。 
 やめさせて。はやく冬我を撃って。やめさせて。 
 心の奥が騒がしい。瑞穂は自分の頬を叩いた。蒼白だった顔に、少しばかり赤みがさした。 
「やめさせてや! 冬我兄ちゃんは、お姉ちゃんのことが……」 
 そこまで言うと、ゆかりは諦めたようすで、ぐったりと雪の地面に横たわった。上空では冬我がフリーザーへと一直線に向かっている。冬我は叫び声をあげた。 
 フリーザーは冬我に気付き、冷凍ビームを発射した。冬我はオニドリルに指示を出して避けた。 
 赤い瞳をさらに輝かせ、フリーザーは羽ばたく。吹雪が舞い起こった。オニドリルは上昇し、吹雪を避けると、嘴をフリーザーへと向けた。 
 フリーザーがオニドリルへと翼を広げて向かっていく。 
「リンちゃん。破壊光線!」 
 瑞穂は叫んでいた。リングマは3本の光の帯を撃ちだした。雪で覆われた地面が反動でひび割れる。衝撃波が地上を駆けた。泣いたままのゆかりを抱き寄せ、瑞穂は地面に伏せた。 
 前方。フリーザーの後方。左方。三方位を破壊光線に遮られ、フリーザーは動きを止めた。右方向から、オニドリルが接近してきた。フリーザーが首を擡げ、蒼い光を撃ち放つ。オニドリルは避けなかった。冬我がフリーザーの首筋へと手を伸ばした。力の限り引き抜く。抜けた。やったよ。やったんだ! 冬我は喜びの声をあげたかった。 
 声が出なかった。辺りの景色が蒼い。体中が、感覚を失ったかのような脱力感に包まれた。眼を閉じた。何も見えなかった。体全体が燃えるように熱くなってきた。衝撃が走った。墜ちたのか。 
 暗い、闇の中に墜ちていくのを、冬我は確実に感じていた。

 眼を開いた。瑞穂がゆかりを抱きながら冬我を見つめている。ゆかりの眼からは涙がとめどなく流れていた。 
「やったよ。成功した」 
「うん……うん……」 
 瑞穂は人形のように、ただ頷くことしかできなかった。 
 冬我の全身は凍りついていた。頭だけは、凍ってはいない。それでも手の施しようがなかった。 
 そこは路上ではなかった。野戦病院のようだ。冬我の体は何層もの毛布にくるまれている。瑞穂達の背後には、冬我の憧れであったキキョウジムのリーダー、ハヤトが顔を伏せて立っていた。 
オニドリルは……?」 
 頷かなかった。瑞穂は悲しげに首を横に振った。 
「ごめんな……」それだけ言った。「もうすぐ、行くから」 
「いやや! そんなん! だって、冬我兄ちゃん……お姉ちゃんのこと……」ゆかりは冬我に抱きついた。 
「いいよ。もう……。しかたないよ」 
 泣きじゃくるゆかりの頭を撫でながら、冬我はかすかに笑っている。やがて俯いている瑞穂を見やった。 
「本当なら、私が……」 
「違う。キミが、こんなになる必要はないんだ。ここは僕の住む街なんだから」 
「でも……」 
「ボクで……最後だね」 
「何が……?」 
「犠牲さ」 
 瑞穂は、まるで胸を射抜かれたように、その場に蹲った。肩が小刻みに揺れている。俯いているので、涙が流れているのかどうかはわからないが、しきりに頬を掌で拭い、涙声で瑞穂は呟いた。 
「冬我くんが……冬我くんが犠牲になる必要がどこにあるの? わからないよ。私がやるって言ったのに。……ひどいよ。私、ずっと冬我くんを殺したことになる。そんなの嫌だよ。私も行く。冬我くんと一緒に行く……」 
「やめてよ、そんなこと。瑞穂ちゃんがいなかったら、ボクはたぶん無駄死にしていたと思う。ボクの最期に、少しでも意味をくれて……ありがとう」 
「そんな……。どうして? この街のために、なんで冬我くんが犠牲にならなきゃいけないの? 冬我くんには、夢があるんでしょう? ジムリーダーになるんじゃないの? 飛ばなきゃ。飛んでよ。大空を鳥ポケモンにのって優雅に飛ぶところを、私に見せてよ。見たかった。冬我くんが、山を越えて、空を越えて、風を超えるところ、見たかったのに」 
「見せただろう? つい、さっき」 
 立ち上がり、瑞穂は冬我の肩に手をかけた。冷たかった。体は既に死んでいるのだ。 
「不思議だよ」 
「何が……?」 
「冷たくないんだ。寒くないんだ。むしろ……暑いくらいだよ。凍ってるのにさ」 
 何も答えられなかった。なんと言っていいのか、わからなかった。 
「綺麗じゃなかった。この街、さっき墜ちるとき、見えたけど、全然綺麗に見えなかった。地面は泥でどろどろだし、ビルは薄汚れているし……」 
「どうしたの……? 突然……」 
「ボクは、美しいこの街を守りたかった。でも、さっきは綺麗に見えなかったんだ。でも、ポケモンセンターで、キミと一緒に街を眺めたときは、とても綺麗にみえたんだ。キミと一緒だったから、ボクはこの街を美しいと思えるようになったんだ」 
「気のせいだよ。きっと」 
「違うよ。キミがいたから、キミと一緒に眺めたら、この街を美しいと思えるようになったんだ。見せて……この街を。美しいこの街を。キミと一緒に見る。美しいこの街を」 
 頷いて、瑞穂は窓を開け、冬我を抱き起こした。ゆかりも手伝った。 
 窓から、キキョウシティの街を三人で眺める。美しいと思った。冬我は涙を流し始めた。 
「ほら……綺麗な街だろ。ありがとう。キミがいたから……」 
 冬我の声は途切れた。瑞穂は顔を伏せ、しゃくりあげながら冬我をベッドへ寝かせた。 
 キミがいたから。そう呟いた冬我の瞳から、光が失せた。 
 だが、冬我の視界には、三人で見たキキョウシティの美しい景色が、いつまでも映りこんでいた。

 

○●

 重苦しい沈黙が続いた。ナエは空になったカップを置いて、瑞穂を見た。少女は静かに俯いている。育ちが良いのだろう。まだ子供のくせに、礼儀は心得ているようだ。 
 目の前に置かれているレモンティーに、瑞穂は手をつけようとしなかった。既にお茶は冷めている。
「もう、ないのに……」 
 ナエは呟いた。瑞穂は申し訳なさそうに、ナエから目をそらした。 
「いくら美しいからって、死んだら、もう、ないのに。冬我にとっての、この街は、もう、存在しないのに……」 
「そう……ですか……」 
 瑞穂はナエの言うことを積極的に肯定する気はなかった。冬我の死が、無駄になってしまうようで、忍びなかったのだ。 
「冬我にとっての、あなたは、もう、ないのに。死んでしまったら、もう、誰もいないのに。なにもないのに。存在しないのに。夢も、親も、明日も、昨日までの思い出も、もう、ないのに。消えてしまうのに……」 
 ナエの呟きは、正しかった。 
 冬我は死んだ。そして、冬我の世界は、冬我の視界は消滅したのだ。 
「そう……ですね……」 
 曖昧に応えた。瑞穂は、冬我の最期をすべて語り尽くしたのだ。もう語ることは、なにもない。一息つき、レモンティーを飲もうとした。すぐに思い直して、その手を止めた。 
 ナエが、鋭い目つきで、瑞穂を見つめている。 
「命をかけてまで、街を救うことがそんなに大事なの……? 消えたのは、あの子の世界だけじゃない。私の視界からも、あの子の……冬我の姿は消えた。もう、二度と帰ってこない。残された者の気持ちも、考えてよ……」 
「すいませんでした。私が、冬我くんを殺したようなものです」 
「あなたがいなければ、すべてが滅んだ。私は、その方が良かった。こんなに悲しまずにすんだもの。あのまますべて滅んだ方が良かった」 
「私は、そうは思いません」 
 瑞穂は俯きながら、呟いた。 
「みんな滅んだら。みんなの世界が消えてしまいます。そんなの嫌です。冬我くんも、嫌だと思います。だから、冬我くんは犠牲になったんです。本当は、私がそうするべきでした」 
 鋭く睨まれたような気がして、瑞穂は肩をすぼめた。 
「どうして、冬我を止めてくれなかったの?」 
「冬我くんが、決めたことだからです。止めたくありませんでした。というより止められませんでした。無理に止めたら、冬我くんの死は、無駄になってしまうと思ったんです」 
「違うわ。あんたは、死にたくなかった。口だけで、そう言って、冬我をそそのかしたんじゃないの? だから、平気で冬我を死に急がせた。あんたが、自分を守るために冬我を犠牲にしたんじゃないの?」 
「否定、しません。冷静に考えれば、そういう面もあったかもしれません。だから、あえて、否定はしません。でも、あなたに、信じてもらえないのは悲しいです。私は冬我くんを信じていました。冬我くんも私のことを信じてくれました」 
 瑞穂の白かった頬が、ピンクに火照っている。怒りを堪えているようにみえた。 
「レモンティー……飲まないの?」 
 突然、ナエは話題をレモンティーへと向けた。瑞穂は相手に気付かれないように、深い溜息をついた。 
「飲みます。ナエさんのオススメですから……」 
 カップを手に持った。重い。喉が渇いているから、飲めば楽になれるのだ。 
 口にカップをあてた。しかし、飲まなかった。 
「どうしたの?」 
「やっぱり、嫌です」 
「何が……?」 
 カップをテーブルに置いて、瑞穂は、ナエの歪んだ顔を直視した。 
「私は、まだ、死にたくありません」 
 ナエの顔が、更にひきつった。瞳には驚きの色が浮いている。 
「何を言っているの?」 
「私は、冬我くんのためにも、生きなければならないんです。私がここで死んだら、あの世で冬我くんに怒られると思うんです。それに、ユユちゃんを独りぼっちには、したくありません。私は死んじゃいけないんです。死ぬことは許されないんです。たとえナエさんには傲慢に映っても……。大事な、大切な人と引き替えに繋ぎ止めた命だから。ここで死んだら、冬我くんに嫌われちゃいます」 
「何を言っているのよ!」 
 たまりかねて、ナエは叫んだ。ウェイトレスが驚いてこちらを振り向いた。 
「お客様……他のお客様の……」 
「わかっているわ」 
 ウェイトレスが去り、ナエは瑞穂を睨んだ。冬我の母という仮面が剥がれ、凶悪な、純粋な憎悪が顔を覗かせている。 
「ナエさん……最初から、私を、殺すつもりだったんですね?」 
 喉がヒクついている。こめかみに汗を浮かべ、ナエは瑞穂から視線をそらした。 
「なんの……ことよ……?」 
「しらばくれないでください。これは、シアン化カリウム……青酸カリ、ですね?」 
 黙ったまま、ナエはテーブルを見つめている。瑞穂は震える足もとに力を込めて、続けた。 
「匂いでわかります。私、こういうのには少しだけ詳しいんです。このレモンティーには、間違いなく、毒、が混入されています。もちろん、私を殺すために」 
「だれが、入れたのよ?」 
「あなたです」 
「いつ? 私はレモンティーには触れていない。私が、毒なんて、いつ入れたのよ?」 
 瑞穂はレモンティーの側に置いてあった、グラニュー糖の袋をつまみ上げた。ナエの眉が動いた。袋の先端を瑞穂は凝視した。 
「グラニュー糖の袋。あなたは、あらかじめこの袋の中に、毒を仕込んでおいたんです。そして私にレモンティーを注文させ、毒入りグラニュー糖の袋を手渡す……。私の記憶では、この袋は、あなたが私に手渡してくれたものですよ……。」 
 何も言わなかった。ナエはただ、黙って窓の外を眺めていた。 
「私を、許してはくれませんよね……。私は冬我くんを殺しました。それは事実です。言い逃れは、できません」 
「許せないわよ」ナエは、静かに、しかし恨めしく呟いた。「許せるわけ、ないじゃない」 
 立ち上がり、怒りの形相で、ナエは瑞穂を睨んだ。瑞穂も、ゆっくりと立ち上がり、ナエの悲しい瞳を見つめている。 
「あんたが殺したようなものよ。冬我は、死なずにすんだ。あんたがいたから、冬我は死んだ。あんたが死ねばよかったのよ。どうして、あんたが生き残って、冬我が死ななきゃいけないのよ!」 
 唇を噛みしめながら涙を浮かべている瑞穂の眼を見つめ、ナエは心の奥の怒りをぶちまけた。胸ぐらを掴むと、瑞穂は怯えたように首を横に振っている。絞め殺したかった――ナエは手に力を込めた。 
「すいませんでした。ナエさんの言うことは、正しいと思います……。私が、かわりに死ねば良かったんです。でも、冬我くんのしたことは間違っていません。それに、どうして、ナエさんは自分の視点からしか物事を考えないんですか? あなたは、本当に、冬我くんの母親なんですか? ちゃんと冬我くんの気持ちを考えたことがあるんですか?」 
「あんたに言われたくないわ。冬我を殺した、あんたに言われたくはない」 
 首を絞められて、苦しげに、瑞穂は口を開いた。よだれが一筋、口から滴り落ちた。それでもなお、瑞穂はナエに語り続けていた。首を横に振っているが、抵抗しているわけではなかった。 
「私なんかを殺して、なんの意味があるんですか? 冬我くんが悲しむだけなんじゃないんですか? あなたは、自分の失ったものを必死で補おうとしている。でも、こんなことをすればするほど、ナエさん……あなたの失ったものは……冬我くんは、あなたから遠ざかって行くんじゃないんですか?」 
「知らない。知らないわよ。私はあんたが憎い。それだけよ。冬我を殺したあんたをね」 
「どうしてそんなに自分勝手なんですか? 今になって、冬我くんの言っていた意味がわかるような気がします。自分だけが正しいと思うな。これって冬我くんが、あなたに抱いていた感情じゃないんですか?」 
 首を絞める力が緩んで、瑞穂はその場に崩れ落ちた。咳き込みながら、瑞穂は口元をフキンで拭った。 
 呆然とした表情で、ナエは虚空を見つめている。蹲るナエ。呻くような嗚咽が聞こえてきた。瑞穂は悲しげにナエを見下ろしながら、一言だけ、呟いた。 
「ごめんなさい……」 
 涙に濡れた顔を、ナエは持ち上げた。瑞穂は背を向け、歩き出した。呼んでも振り返ることはないだろう。ナエは瑞穂の背中に向けて、言った。 
「私は、気付かなかった。冬我の心の中を。待って、洲先さん……。拾ってあげて」 
「拾う……?」 
「あの子の骨を、拾ってあげて。私は、結局最後まで、あの子の気持ちに気付けなかった。あなたにはあの子の骨を拾う資格がある。今、気付いたのよ。あの子が、あなたに抱いた気持ちが……。あの子は、この街のために死んだわけじゃない。あなたのせいで死んだわけでもない」 
 瑞穂は俯いた。ナエは立ち上がり、瑞穂を鋭く睨み付け、呟いた。 
「あの子は……冬我は、あなたのために死んだのよ」

 

○●

 突き抜けるような青い空の下。瑞穂は、独りで緑の丘の上に佇んでいる。 
 瑞穂は結局、ナエを許した。ナエはあれきり何も言わなかったが、小さく頷いてはいた。大切な人を失えば、自分もああなってしまうのだろうか。考えても、答えはでない。 
 ナエは結局、瑞穂を許した。どうして突然、許してくれたのか、よくはわからなかった。 
 黒々とした骨だけになった、冬我の体を思い出して、瑞穂は悲しそうに空を見つめた。誰だって、死ぬのだ。だが冬我は早すぎた。もちろん、自分だって同じなのだが。 
 穏やかそうな冬我の顔も、焼け、他の死人と同じように頭蓋だけとなって、集骨室で晒された。竹の箸で拾い上げた冬我の腕の骨は、生きているときとは対照的に、平べったく、細かった。 
 骨壺へと冬我の遺骨を納めると、ゆかりは途端に、わっと泣き出した。箸を持つ手が震えていた。 
 光り輝くフリーザーの粉が骨壺から吹きだしていた。フリーザーから装置を引き抜いたときに、冬我の体に付着したものなのだろう。瑞穂はこっそりと小さなガラス瓶に、粉を詰めた。形見にしようと思ったのだ。 
 あのあと、フリーザーは何処へともなく飛び去っていった。街は、元の姿を取り戻した。雪も、降らなくなった。それでも、瑞穂はこの街を、美しいとは思えないでいた。いや、もう、永遠に美しいとは思えないであろう。 
 瑞穂はモンスターボールを握りしめ、大空へと放った。眩いばかりの光と共に、元気になったオニスズメが飛び出した。羽ばたいて、瑞穂の周りをまわっている。 
「オニちゃん……。もう、あなたは、自由だよ。どこへでも、行っていいんだよ。もといた場所に、帰るんだよ。それと……ごめんね。殴ったりして」 
 瑞穂は手を振った。オニスズメの背中から、何かが落ちた。瑞穂はかがみ込み、それを見つめた。紙だった。死ぬ前に、冬我がオニスズメに託した、メッセージだった。

 ……きせき 瑞穂ちゃんへ。 
 汚くて、読みづらい字でごめんなさい。 
 口ではああ言いましたが、たぶんキキョウジムの人達でもフリーザーにはかなわないと思います。 
 そうなったとき、瑞穂ちゃんは、きっと自分がフリーザーを倒そうとするでしょう。 
 ケガをした自分のポケモンを、ボロボロになりながらも守り抜いた瑞穂ちゃんですからね。 
 そして、瑞穂ちゃんは、フリーザーに殺されます。 
 そんなのは、嫌です。 
 だからボクは、瑞穂ちゃんが無茶なことをしようとしたときには、 
 瑞穂ちゃんの代わりに死のう、と決心しました。 
 だからきっと、ボクは死んでしまうでしょう。 
 いえ、瑞穂ちゃんがこの手紙を読んでいるということは、すでにボクは死んでいるということですね。 
 いまさら遅いかもしれませんが、ボクは、瑞穂ちゃんのことが好きです。 
 そのことを相談したら、ゆかりちゃんは、なぜかとても喜んでくれました。 
 それまで敵意を剥き出しにしていたのがウソのようでした。 
 その時、ゆかりちゃんは言ってくれたんです。 
「男の子やったら、命をかけてでも、女の子を守らなあかんで」って。 
 ゆかりちゃんの一言がなかったら、ボクは死ぬ決心がつかなかったと思います。 
 ありがとう。ボクの言ったことを、素直に認めてくれたのは、瑞穂ちゃんが初めてでした。 
 それに、瑞穂ちゃんと一緒にいると、なぜか楽しかった。 
 忘れません。だから瑞穂ちゃんは、いつまでも瑞穂ちゃんのままでいてください。……氈瓜 冬我。

 瑞穂は空を仰いだ。人に見られたくない何かが、瞳からこぼれ落ちそうになったから。 
 丘の緑が、風に吹かれて波打っていた。さわさわと風の音がざわめく。 
 泣いてはいけないのだ。自分に、何度も言い聞かせた。息をはいたが、胸の奥の闇は消えない。 
「お姉ちゃん……」 
 背中の方から、ゆかりの涙声が聞こえた。腕で涙を拭いながら、ゆかりは小刻みに震えている。手に持っていた手紙を、瑞穂はすぐにウエストポーチにしまい込んで振り向いた。瑞穂は吸い込むように、ゆかりを抱き寄せる。涙が胸に染みていく。 
「ウチが、殺したんや」 
 ゆかりは呻いた。瑞穂の肩を強く握っている。 
「ウチ……冬我兄ちゃんに余計なこと言ったんや。だから、冬我兄ちゃん……」 
「違うよ」 
「なにが違うん……?」 
 涙にまみれたゆかりの顔を見つめ、瑞穂はハンカチを取りだし、ゆかりの顔の涙を拭った。 
「冬我くんは、私のせいで死んだの。だから、私が殺したようなものなの……」 
 暫くして、ゆかりは立ち上がった。上空を回り続けるオニスズメを仰ぎ見ながら呟いた。 
「……もし、お姉ちゃんが死んどったら。冬我兄ちゃんの心も、死んでしもたと思う」 
 小首を傾げ瑞穂は、空を見上げているゆかりを見つめた。 
「冬我兄ちゃんは、お姉ちゃんのことが、好きやったんやもん」 
 もう、何も言えなかった。 
 瑞穂は飛び去っていくオニスズメの背中を見つめ、目を閉じた。 
 目を開いたときには、オニスズメは既に青空の奥に消えていた。 
 苦しいだけだった。罪悪感に心が苛まれていく。忘れようとしても、絶対に忘れられない、悲しい罪悪感。だが、彼は瑞穂がが苦しむのを望んではいないはずだ。恐らく、彼は自分の死で、瑞穂が苦しむのを予想していたのだろう。だから手紙をオニスズメに託したのだ。 
 ……私が、冬我くんにしてあげられる唯一の罪滅ぼしは……私は、私のままでいること……。 
 ……私が、いつまでも、いつもの私でいること……。 
「さようなら」 
 それだけ言って、瑞穂は丘を駆け降りた。ゆかりが慌てたように、瑞穂の後を追いかけていく。もう二度と、振り返ることはなかった。そんな必要はなかった。 
 冬我と眺めた最期の景色が、いつまでも瑞穂の視界にあるのだから。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。