水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#8-3

#8 無力。
 3.哀しき強襲

 

 

 天井の窓から、夕焼けの赤い光が注ぎ込んできた。 
 大広間の中央に位置する食卓の上に、色取り取りの食事が並べられている。 
 暗い面持ちで席に着き、サリエルは溜息をついた。3日前の、あの喧嘩騒動から、妹とは口を利いていない。妹と話せないことが、こうも辛いことなのか。 
 サリエルは憔悴しきった心を抱きながら、天井を見上げ、もう一度、溜息をはいた。 
 ラツィエルが――妹が無表情のまま、サリエルの真正面の席から、兄の姿をじっと見つめてくる。思わず、サリエルは俯き、目の前に置かれている前菜を口に含んだ。いつもとは違う味がした。決して美味ではない。だが、味の付け方が、とても繊細だった。 
 知らぬ間に、ラツィエルと目が合っていた。不安げに兄の顔色を伺い、妹は訊いた。 
「あの、兄上様……」 
 3日ぶりに聞く、妹の声である。不意に胸が熱くなった。 
「今日の夕食は、私がつくったのですよ」 
 やはり、そうか。喉元まで出かかった言葉を、サリエルは飲み下した。 
「ほう……。どういう風の吹きまわしだ?」 
 訊いてから、サリエルは己の愚問を恥じた。 
 理由など、解りきっているではないか! ラツィエルの表情が一瞬だけ不満そうに歪み、兄を睨んだ。サリエルは逃げるように視線をそらす。妹は悲しげに呟いた。 
「私は、いにしえの慣習に従い、兄上様と、明日、殺し合いをしなければならないのですから」 
 そんなことは、いまさら言われるまでもない。だが、こちらから訊いてしまった以上、仕方がない。
 王家の子は、10歳になると――即ち大人となると、他の兄弟と殺し合いしなければならないのだ。そうすることで、”あの力”を最も多く受け継いでいる人間が、生き残ることになる。数百年もの昔からある、しきたり……、決まり事なのだ。例外は許されないのだ。 
「もう、その話はよそう……。そうか、ラツィエルがつくったのか……おいしい。おいしいぞ」 
 前菜を貪りながら、サリエルは言った。ラツィエルが、はにかむように微笑んでいる。妹の笑顔を見るのは、久しぶりのような気がした。 
 和やかな雰囲気のなか、レミエルが大広間に入ってきた。 
「どうした? レミエル」 
「はい。派遣したハルパスからの連絡が途絶えています」 
「どういうことだ?」 
「何かアクシデントにあったものと思われます。それと……」 
 レミエルの浅黒い顔が、醜く歪んだ。 
「渦巻島のファルズフが消息を絶ちました」 
「裏切ったな……」 
「おそらく」 
 拝跪して、レミエルは立ち去っていった。 
 それまで黙っていたラツィエルが口を開いた。 
「兄上様。明日の朝食も、私がつくろうと思います」 
 頷き、サリエルは妹の顔を直視した。微笑んでいる。最後の笑顔かもしれない。 
 明日は、妹の10歳の誕生日なのだから。

 

○●

 いつもと変わりのない夜がやってきた。まんまるとした月が星空に浮いている。白銀の月の光が、血塗れの森の惨状を、余すところなく照らしていた。 
 死んでいる。死んでいた。光があっても、死に顔すら見ることができない。隻腕となったヒメグマを抱きながら、瑞穂は、母親であるメスのリングマの屍体を見つめていた。 
 破裂している。辺りに鮮血と肉片を撒き散らし、屍体は殆ど原型をとどめてはいない。微かに火薬の匂いがしている。”炸裂弾”か……。瑞穂は直感で、リングマ達に使われた兵器を思い浮かべた。 
 炸裂弾とは、体内で弾頭が爆発を起こすという、残虐な殺戮兵器のことである。旧世紀の世界大戦時に開発されたらしいが、詳しいことはわかっていない。チョウジタウンの平和資料館に幾つかが展示されていたので覚えていたのだ。 
 辺りの木には、血糊がこびりつき、吐き気のするような死臭が蔓延している。 
 似ていた。瑞穂は思いだしていた。かつての自分の体験を。6年前の惨劇を。あの時も、リングマの屍体は破裂していた。普通では考えられないほど、四散していたのだ。あの時のリングマにも炸裂弾が使われていたのだろうか。 
 共通点は他にもある。どちらの事件も、犯人は体にタトゥをしていた。そして、事件が起こることを、あらかじめヒメグマが予知していた……。 
 辛い沈黙の時間が過ぎた。言葉も出さずに、瑞穂の腕に抱かれたヒメグマは目を見開き、現実を直視している。耳をつんざくような叫び声の後、瑞穂は凄まじい衝撃に弾き飛ばされ、その場に倒れた。母親の無残な屍を目の当たりにしたヒメグマは、狂ったように瑞穂の腕を振り払っていたのだ。 
 片腕を失っているからか不器用に近づき、辺りの地面に散乱した母の屍体、肉片を掻き集めた。ぐしゃぐしゃのミンチの化け物のような肉片を抱き潰し、ヒメグマは泣き、叫き続ける。 
 生臭い血にまみれたヒメグマを見ていられなくなり、瑞穂はその場を立ち去った。 
 野生のリングマ達を見渡す。 
 ……既に死んでいたリングマが12匹。瑞穂の治療中に死んでしまったリングマが2匹。瑞穂の治療によって一命を取り留めたリングマが13匹。深い傷を負っていないリングマは皆無だった。 
 ゆかりの近くに座り込み、瑞穂は訊いた。 
「どう? ユユちゃん。落ち着いた……?」 
 何度訊いても、ゆかりは何も答えてくれない。寝袋に身を包み、怯えたように震え続けているだけだ。譫言のように、何かを呟いているが、声が小さくて聞き取れない。 
 ゆかりの傷も酷いものであった。左太股に、刃物ですっぱりと斬ったかのような深い傷がある。 
 無言のままで立ち上がり、瑞穂は周りの様子を見つめた。野生のリングマたちが騒がしい。無理もない。首領格のリングマが殺されてしまったのだから。いや、本当に殺されたのかどうかもわからない。それくらいに、屍体が散乱していたのだ。 
「あの、ナゾちゃん……」 
 瑞穂は、木の枝の上に立って月の光を浴びているナゾノクサに話しかけた。振り向いて、ナゾノクサは枝から飛び降り、瑞穂の正面に座った。月の光を全身に浴びたおかげで、背中の傷は完全に癒えている。 
「どう……しよう。こんなことになるなんて……。非道いよ。酷すぎるよ……」 
 ナゾノクサは、無表情のままで小さく頷いた。どこか遠くを見つめているような目つきだった。 
 その時、背後から、リングマグライガーが近づいてきた。グライガーは俯き、瑞穂の胸の中へと飛び込んできた。泣いている。よほど恐い思いをしたのだろう。リングマは悔しそうに唇を噛みしめ、月を仰ぎ見ているだけだった。 
 近くから、感覚的には遠くから、母を理不尽に惨殺されたヒメグマの、狂った叫び声が聞こえてくる。噛み砕く音。吐き戻す音。何かを飲み込んでいるような不気味な音―― 
「なに? 今の音……」 
 瑞穂は不安を感じて、立ち上がった。音のする方へと駆ける。 
 立ち止まり、息を呑んだ。胸に抱いていたグライガーが、驚いて首をすくめた。小さな悲鳴をあげると、瑞穂は足下が震えだすのを抑えきれなくなった。 
「ヒメグちゃん……なにを……なにしているの……?」 
 腐敗臭を発している、ぐしゃぐしゃな屍肉を、ヒメグマは貪り喰らっていた。眼に狂気の色が見てとれる。狂っていた。母親を惨殺された衝撃で、狂っているのだ。 
 怯え、グライガーが瑞穂の腕の中で震えている。ナゾノクサは不快な表情で、眼を背けていた。 
 呻き、のたうち、火がついたようにヒメグマは母の屍肉を吐き戻す。口元が真紅に染まっている。再び、片腕だけで屍肉を鷲掴みにし、喉の中へ押し込む。吐き出す。屍肉を貪る。涙を流し続けながら、ヒメグマはその行為を繰り返した。 
 瑞穂は、そのまま力なく座り込んだ。足の震えが治まる気配はない。 
「お……お姉ちゃん……」 
 振り返ると、ゆかりが呆けたように立ちつくしていた。ふらつく足取りで、瑞穂の隣に崩れるように座りこみ、呟いた。 
「ウチ……なんや、コワれてもうた……みたいや」 
 聞きながら、瑞穂は何も言えないでいた。黙って、俯き、体中の震えに耐えるしかなかった。リングマは、母の屍肉を喰らい続けるヒメグマを羽交い締めにして、取り押さえている。 
「もう眠られへん……。夢、見そうや……。笑顔」 
 腹の中の、胃液にまみれた屍肉が、ヒメグマの口から溢れ、吹き出している。 
 小首を傾げて瑞穂は、ゆかりの顔を見つめた。ゆかりの口から、不気味な抑揚を持って発せられた”笑顔”という言葉の意味が分からなかったのだ。 
 酸っぱい臭いが辺りに広がってくる。顔を両腕に押しつけ、ゆかりは、むせび泣き始めた。 
「笑ってたんやで……アイツら。あんな、非道いことしといて、笑ってたんやで……」 
 腹から吐き戻された汚物の中でヒメグマは、リングマに抵抗し、暴れている。 
 現実から逃げるように血糊に満ちた地面を見つめ、ゆかりは語った。”炸裂弾”が命中して、リングマ達が次々と破裂し絶命していく中で、男達は笑っていたのだという。 
 笑っていた。その事実だけが、瑞穂の頭の中に響いた。動悸がしてきた。胸の奥で、ばくばくと音がする。 
「いやや……。こんなん、もう嫌や……。う……うぅ……。ウチもオカシクなる。このヒメグちゃんみたいに、狂って、狂って、オカシクなって死んでしまうんや――」 
 ヒメグマは動かなくなっていた。失禁し、眼を剥いたまま悶絶していた。汚物が口に溢れている。ゆかりはヒメグマを見つめ、小さく呻き、身を捩ると、ヒメグマと同じように嘔吐いた。 
 瑞穂の瞳が、どこか遠くを見つめているようだった。普段、絶対に見せることのない、怒りに満ちた表情をしていた。 
 非道い。非道いではないか。瑞穂は思った。許せない。絶対に許せない。どんな理由があっても、こんな非道いことをする人は許せない。――殺してやる。殺してやる。 
 布巾でゆかりの口元の嘔吐物を拭い取ってあげながら、瑞穂は心のどこかが音をたてているのを感じていた。殺してやる――そう、太いゴム紐が、引っ張られて勢いよく切れるときのような音が。 
 ブチッ、っと。

 

○●

「ハルパス様……御加減はいかがでございましょうか」 
 手下の男が聞いてきた。ハルパスは、ヒメグマによって切り裂かれた足先を見つめたまま、叫んだ。
「大丈夫だ。明日の朝、森を出発する。あいつらにも伝えておけ」 
 敬礼し、手下の男は、すぐ側の手下達の集まりへと走っていった。 
 悔しさにハルパスは身を奮わせていた。油断した。子供だと思って、甘く見ていた。それがこのザマだ。見事に爪先を切り裂かれ、そのせいで帰投の予定が大幅に遅れてしまった。救援を呼ぼうにも、通信機もヒメグマによって破壊されてしまい、どうしようもできないでいるのだ。悔やもうにも、悔やみきれない―― 
 殺気だった。あのヒメグマの眼に宿っていたのは、殺気以外の何ものでもなかった。 
 もう、そのことは忘れよう。溜息をつき、ハルパスは自分に言い聞かせた。どちらにしろ、あのヒメグマは叩き伏せ、片腕を少しずつ切り落とた後、木に張り付けにした。今頃は、腐れ死んでいるはずだ。惨めに野垂れ死んでいるはずだ。 
 顔を醜く歪めて、ハルパスは豪快に笑った。――ざまをみろ。吹き出すように笑い続けた。焼いた肉を手にとって、歯で食いちぎり、飲み込む。あんな事は、忘れてしまえばいい―― 
 その時、地面が揺れた。爆音が響く。閃光が辺りを眩しいほどに照らした。 
「なんだ! 何が起こった!」 
 ハルパスは近くに置いてあった、炸裂弾をこめた施条銃を手に取り、叫んだ。爆発の起こった方を見やる。ハルパスは、驚きで目を見開いていた。 
 少女だ。水色の髪を左右で束ねている、幼い少女が、爆発の光に照らされている。逆光で表情までは、よく見えない。肩を奮わせ、佇んでいた。 
「子供……だと?」 
 首を傾げながらハルパスは少女を見つめた。背後の闇にはリングマが見える。破壊光線をいつでも撃てる体勢をとっていた。 
 少女が軽やかに手を振り上げる。闇の奥から破壊光線が飛んできた。 
 ハルパスはとっさに破壊光線を避けた。背後で森の木々が爆音を響かせて吹き飛ぶ。爆発の閃光が少女の表情を一瞬だけ照らした。少女の顔を見て、身が震えるのをハルパスは感じた。 
 少女は幼いながらも、可愛らしく端整な顔立ちをしていた。ただ、その中で、眼だけが異様だった。怒りに満ちている。単なる怒りではなく、狂気を帯びているのだ。 
 言葉も忘れ、ハルパスは少女の瞳に釘付けになっていた。まるで、金縛りにあっているかのようだ。少女が息を弾ませているのが、遠くからでも空気のざわめきで感じ取れる。 
「殺してやる。殺してやる。殺してやる……」 
 呟いている。いつしか、頬に汗が浮いている。瞳には涙が浮いている。歯を食いしばりながら、少女はハルパスを睨み付けている。 
 ハルパスの部下達が、戦闘の構えをとっていた。おぼつかない足取りで、ハルパスは部下達の集まりに身を寄せた。 
「ハルパス様。ご無事で……?」 
「ああ。はやく……あの子供を追い払え」 
 思い出した。リングマを殺し、逃げる途中で出会った少女だ。ハルパスの背中を、冷たい汗がつたった。 
 少女の周りを炎が囲った。もの凄い速さで、こちらへと突っ込んでくる。いつのまにか少女がポニータに乗っていることに気付いた。ポニータは火炎を放射してくる。 
 部下が施条銃を持ち上げ、一斉に炸裂弾を撃ちだした。ポニータは跳び上がり炸裂弾を避ける。少女はモンスターボールをとりだして、投げつけた。ボールが開く。ナゾノクサが飛び出して、はっぱカッターを連射した。施条銃が切り刻まれた。部下達が恐れからか、ハルパスの背後で固まっている。 
 少女が地面に降り立った。上空からグライガーが飛んできて、少女に木刀を手渡した。 
 燃えさかる森の光を背に受けて、少女はハルパス達を見つめている。 
 空を見上げ、少女はモンスターボールへと、ポケモン達を戻した。 
「なんのつもりだ……?」 
 ハルパスは少女を睨んだ。少女の周りには敵しかいない。味方はすべてモンスターボールの中だ。 
「殺してやる」 
 異様な殺気を放つ瞳をハルパスへ向け、少女は木刀を手に、身構えた。 
ポケモンをつかわずに、俺を殺せるとでも、思っているのか?」 
 呆れたように、ハルパスは訊いた。相手が独りになったことへの安堵からか、少しばかり高圧的な態度をとっているようだ。なんといっても、相手は、幼い少女が独りだけなのだ。 
「……守る」 
 少女は呟いた。ハルパスは、なんと言っていいかわからずに黙っている。 
「傷つくのは、私だけでいい。私以外は、誰も傷つかなくていい。もう、嫌なんです。だから……誰も殺させない。誰も、傷つかせない。誰も犠牲にしたくない。痛みを受けるのは、私だけで、もう、十分。だから、はやく、私を殺してください。はやく、殺してやる……」 
 狂っているのか……? ハルパスは暗闇に染まった少女の全身を見つめた。 
 少女は木刀を振り上げ、斬りかかってきた。ハルパスは避け、少女の腹に蹴りを打ち込んだ。だが、彼は目を疑った。目の前に少女の姿は既になかったのだ。確かに、少女の小さな腹を思い切り蹴りつけた筈だった。 
 首を傾げていると、背後に、おぞましい気配を感じた。ハルパスは急いで振り向き、眼を剥いた。少女は、月の放つ冷たい光を浴びて、何事もなかったかのように立っている。足下では、数人の部下がのたうちまわり、次々と倒れていた。死んではいない。急所がギリギリのところでずれているのだろう。それが、少女に残された最後の正気であるかのように。 
 無事だった部下は、すぐさま短銃を構えたが、撃つ暇もなく、少女の木刀で打ち倒された。あとにはハルパスと、少女だけが残された。 
 ハルパスは後ずさった。少女の、小さな体のどこに、大の男を何人も打ちのめす力が隠されているのだろうか。 
 少女はハルパスへと歩み寄り、手に持った木刀を握りなおした。とっさに短銃をとりだし、ハルパスは少女へ発砲した。銃声が響く。少女は目にも止まらぬ速さで弾を避け、木刀でハルパスの小手を打ちつけた。短銃が地面へと落ちた。少女はなおも、ハルパスの体を、木刀で打ちつけていく。 
 骨の折れる音が聞こえた。体勢を崩して、思わずハルパスはその場に倒れた。木刀の叩きつける音は止まない。森の静寂は、男の悲鳴に掻き消されていた。再び、骨が折れると音が聞こえた。悲鳴も聞こえる。命乞いをしているのか。許すものか。悲鳴は泣き声に変わった。許すものか。 
 浅黒い皮膚から血が滲み、鮮血が吹き出した。少女の白い肌が、男の血の色に染まっていく。木刀が空を裂き、男の体を容赦なく打ち続ける。 
 泣き声すら聞こえなくなった。木刀が、断末魔の悲鳴をあげ、根本から折れた。少女は折れた木刀の先端を拾い上げ、ハルパスの脇腹に突き刺した。火をつけたように、ハルパスは泣きわめいた。よろよろと立ち上がり、拳で殴りつける。ハルパスの拳を軽くあしらい、少女は膝を、男の股間へと突き上げた。 
 最後の悲鳴だった。ハルパスは口から茶色い泡を吹きながら、倒れた。悶絶した男の身体を、少女は忌々しげに、踏みにじった。 
 殺してやる。殺してやる。頭の奥で、自分の中の怒りが、囁いてくる。 
 これでいいのか? これが、自分の望んだことなのか……。少女は思った。体中から、生温い汗が浮かんでくる。 
 これが、自分なのか。私のなのか。私の本当の姿なのか。違う。こんなの私じゃない。 
 男を踏み続けていた足を止め、少女は震えたように身を捩り、後ずさった。 
 こんなの、私じゃない。こんなことをしていては、いけない。冬我くんは、私が私のままでいることを望んだのに……。 
 怯え、肩を奮わせながら、少女は男達の元から逃げるように去っていった。

 

○●

サリエル様」 
 レミエルが背後から、妹の鮮血に染まったサリエルを呼んだ。全身を鮮血に染め、白目を剥いて死んでいるラツィエルの亡骸を、サリエルはそっと床に寝かせた。 
「どうした、レミエル」 
 太い眉を動かして、サリエルの様子を伺いながら、レミエルは言った。 
「連絡が途絶えていたハルパスが、昨夜に見つかりました。任務には成功したようですが、何者かに襲われたようで、ひどく怯えていて、もう使いものにはなりません」 
 侍女に体中の鮮血を拭かせながら、サリエルは冷たい瞳を宙へ向けた。 
 レミエルは拝跪して、ラツィエルの小さな屍体を抱き上げた。見開いている白目を隠すため、彼は指で、ラツィエルのまぶたをおろした。赤い血が数滴滴り落ちる。 
 ラツィエルの銀色の艶やかな髪が、真っ赤に染まっていた。 
 表情を歪め、レミエルは屍体から眼を背けていたが、思い出したように呟いた。 
「それと、サリエル様。射水 氷という名の女について調べたのですが……」 
 一瞬にしてサリエルの顔色が変わった。レミエルの方に向き直り、唇を小さく噛んでいる。 
「何か、わかったのか?」 
「いえ……。シマナミタウンという街の出身であるということ以外は、あまり……」 
 眼を細め、考える風な素振りをしながら、サリエルは呟いた。 
「シマナミタウン……? 聞いたことのない名前だな」 
「そうです。この、シマナミという街は、5年前に消滅しているのですから」 
 不思議そうに小首を傾げ、サリエルは訊いた。 
「消滅した……?」 
「正確には、地図上から姿を消したと言うことです」 
「何故?」 
 申し訳なさそうに、レミエルは首を横に振った。 
「どういう経緯だったかまではわかりませんが、その女は数ヶ月前まで、ロケット団に所属していたようです」 
「それは、知っている。……そして、あの女は、人間ではない……」 
 それきり、何も言わずに、サリエルは血生臭い部屋を後にした。レミエルが小さく頭を下げている。鮮血を洗い流すためにシャワーを浴び、タオルで身体を拭きながら、妹のことを思い浮かべた。自分が王となるために殺してしまった、妹のことを。 
 兄妹はもういない。皆、死んだ。6人いた兄妹のうち、2人は自分が殺した。それが決まりなのだ。数百年も続いた、しきたりなのだ。 
 頬の黒いタトゥを、指で撫でた。痛いほどに、熱いものが心の奥に入り込んでいた。 
 テーブルの上を見つめる。手つかずのまま、朝食が放置されている。妹のつくった最後の食事―― 
 手を付ける気にはなれなかった。タオルを羽織ったまま、サリエルはゆっくりとテーブルに近づいた。トーストとコーンスープ。既に、冷めている。 
 拳を握りしめ、歯を食いしばり、サリエルは吠えた。震え、小さく蹲った。侍女が、驚いて近づいてくる。手で侍女を追い払うと、サリエルは床を激しく叩きつけた。 
 死の間際に、妹は、ラツィエルは、サリエルの耳元で小さく囁いていた。妹の最後の言葉が、サリエルの脳裏をよぎり、染みついていく。ラツィエルの最期の言葉が。 
 ……兄さんは、滅びの救世主です……。 
「ボクが……滅びのメシアだって……? 滅びの救世主だって……?」 
 ……だから、兄さんは死んではいけないんです……。 
「死ねるものか……。お前を殺してまで掴んだ生存だから……。死ねるものかよ……」 
 ……兄さんは、不幸です。最後の最後まで、背負わなければならないものがあるから……。 
「不幸だよ。お前を失ったボクは、今、一番不幸だよ……」 
 ……兄さんは、私を殺せませんでしたね……。兄さんは、結局、私を超えられなかった……。 
 時がとまった。衝撃に打ちのめされたように、呆然とサリエルは呟いた。 
「ラツィエル……どういう意味だ? ボクは、お前を殺した。ボクは最初から、お前を超えていた。なのに、ボクがお前を殺せなかったとは、どういう意味だ? ボクが、お前を超えられなかったとは、どういう意味だ?」 
 不意に、妹に、空の彼方から笑われたような気がした。サリエルは立ち上がり、妹の亡骸が安置されている場所へ走った。 
 妹は死んだように眠っている。いや、眠っているかのように死んでいた。 
 自分が殺したのだ。だが、自分は妹を殺せなかった……? どういう意味だ。 
 ラツィエルの屍体を舐めるように見回して、サリエルは戦慄した。 
「今すぐ……この屍体を捨てろ! 今すぐだ!」 
 叫きながら、サリエルは逃げるように駆けていた。妹の亡骸が、死んだ直後とは違い、かつてないほどの微笑みを湛えていたのだから。

 

○●

 目が覚めたときには、もう昼間になっていた。 
 悪い夢を見ていたような気がした。瑞穂は背伸びして、隣で眠るゆかりを見つめた。 
 夢ではなかった。鮮明に覚えている。思い出すと同時に、背筋が凍った。あの時の、暴走したときの自分が、自分でない別の者のような気がしてならない。確かに、あの時、自分は、自分であることを捨てていた。冬我の望みを、あっさりと裏切ってしまった自分が情けなかった。 
 無力なのだ。結局、人を傷つけただけで、誰を守ることも、救うこともできなかった。自分は、自惚れていたのか。お互いを傷つけ合うことしかできないのか……。 
 ゆかりが目を覚ました。辺りを見回しながら立ち上がり、瑞穂の顔を眺める。瑞穂は無理に微笑んで見せた。途端に、ゆかりの頬が引きつった。 
「ユユちゃん……?」 
 何も言わずに、ゆかりは瑞穂から目をそらした。膝が小刻みに震えていた。怯えている――瑞穂は肌で感じた。もしかしたら……ゆかりは見ていたのかもしれない。自分でなくなった、自分の姿を。瑞穂であることを捨てた、瑞穂の姿を―― 
 ゆっくりと、瑞穂はゆかりの肩に手をかけた。ゆかりはビクリと身体を震わせ、恐怖に満ちた瞳を瑞穂に向けた。 
「瑞穂お姉ちゃん……どないしたん……?」 
 瑞穂お姉ちゃん。ゆかりは、たしかに瑞穂のことを、そう呼んだ。 
 そんな呼ばれ方をされたのは初めてだった。それまでは、普通に、お姉ちゃん、と呼ばれていたのに。 
 思い過ごしかもしれない。自分に言い聞かせ、瑞穂は訊いた。 
「もう、大丈夫……?」 
 引きつった笑顔をつくって、ゆかりは頷いた。 
「だ、大丈夫やで……。瑞穂お姉ちゃん。だいぶ、落ち着いたわ……」 
 瑞穂の手を振り払うかのように、後ずさり、ゆかりは荷物を整理し始めた。 
 やはり、見たのか? 暴走した自分の姿を、ゆかりは見てしまったのか? 
 俯き、瑞穂はリングマモンスターボールから出した。驚いた様子で、ゆかりが振り向いてきた。思わず目が合った。 
 やはり怯えている。何事もなかったかのように、視線をそらして、ゆかりは荷物の整理を再開した。
 瑞穂は暗い面持ちで、リングマに囁いた。 
「リンちゃん……。やっぱり昨日の夜に、私、おかしくなっちゃったのかなぁ……。ユユちゃんが見てたみたいなの。昨日の夜の私を……。みんなは恐がってなかった?」 
 リングマは曖昧に頷き、呟いた。 
 ……姉さんが怒ると、物凄く恐くなるのは、この間までボクしか知らなかったからね……。 
「それじゃ、やっぱりみんな私のこと、避けてる……?」 
 ……それはないよ。あらかじめボクが、そのことは、みんなに説明しておいたから。姉さんは滅多に怒らないけど、いったん怒りだすと死人がでるぞ、ってね……。 
「リンちゃん。それは、言い過ぎだよ……」 
 ……そうかなぁ? 昨日、モンスターボールの中から見てたけど、凄かったよ、姉さん……。 
 溜息をついて、瑞穂は肩を落とした。 
「やっぱり、もう……その話はやめて……。おねがい」 
 森の奥から、ガサリと音がした。すぐさまリングマは身構える。瑞穂は、茂みの中を凝視した。 
「ヒメグちゃん……!」 
 森の茂みの中からあらわれたのは、ヒメグマだった。狂い、悶絶したあと、ヒメグマは死んだように眠り続けていたのだ。 
 だが、なんのために? 片腕だけで茂みをかき分け、わざわざここまで来たのだろうか。 
「どうしたの……?」 
 切り落とされていない方のヒメグマの腕に、瑞穂は手を差し伸べながら訊いた。瞬間、手に激痛が走った。瑞穂は自分の手を庇うように押さえた。手の甲から血が滲み出ている。爪で引っ掻いた痕が、しっかりと残っていた。ヒメグマが、瑞穂の手の甲を切り裂こうとしたのだ。 
 血が滴る手の甲を押さえながら、瑞穂は慌てたように呟いた。 
「痛い……どうしたの? どうして……こんなのことするの?」 
 ヒメグマの表情が歪み、一瞬にして変貌した。 
 瑞穂は息を呑んだ。隣のリングマが、固唾を呑んでヒメグマを見つめている。牙を剥きだし、目をつり上げ、瞳の奥に凶暴な色を帯びたヒメグマの顔があった。それまでの、可愛らしく、優しげなヒメグマの顔が、醜く、おぞましい狂気に満ちた顔に変貌したのだ。 
「ひ……ヒメグちゃん……」 
 ヒメグマは叫んだ。牙を突き立て、猛り立った。 
 ……人間、ミンナ殺した! 人間、嫌い! お前、人間、デテイケ……! 人間はみんなを殺した! 人間なんて嫌いだ! お前、人間だろ? はやく出ていけ! 出ていけ。人間なんて、はやく、この森から出ていけ! 
「……う……うん……」 
 両手で顔を覆い、瑞穂は小さく、何度も頷いた。反論など、できなかった。ヒメグマへの怒りで唸っているリングマも、すぐにモンスターボールに戻した。 
「行こう……ユユちゃん……」 
 背を向け逃げるように立ち去ろうとする瑞穂達に、ヒメグマはなおも罵声を浴びせ続けた。 
 ……出ていけ! 人間出ていけ! 死ね! 消えろ! 生き物のクズ……! 
 ゆかりの手を引いて、瑞穂はいつしか駆けていた。ヒメグマの罵倒が、背後から迫ってくる。一刻も早く森を抜けよう。その一心だった。ゆかりは、怪訝そうな目つきで瑞穂を見つめている。 
 自分は無力だ。 
 誰も守れない。誰も救えない。 
 挙げ句の果てに、一瞬だけといえども、自分すら捨ててしまった。そして、自分を捨てて、何があった? 結局、何もできなかったではないか。 
 ……クズ! 生き物のカス! 生きる価値もない、ゴミ! 人間め……! 
 ヒメグマの言葉が痛い。それでも、やがて、聞こえなくなった。森を抜けたのだ。前方にはコガネシティへの細い一本道が続いている。 
 目を閉じ、胸に手を当てて、瑞穂は誓った。もう、二度と、絶対に自分を見失わない。もう、二度と、絶対に自分が自分であることを捨てない……。 
 ……自分は無力なのだ。だから、自分を見失った。自分の力の及ぶ範囲で、藻掻くしかないのか……。 
 今は、ただただ、力のない自分を悔いるしかなかった。 
 ヒメグマの叫びが、ここまで響いてきた。間違いなく、その声は狂っている。 
「もう、私は、絶対に自分を見失わない……」 
 そう、絶対に自分を見失わない。冬我は、それを望んだのだ……。もちろん、自分も。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。