ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#7-2
#7 視界。
2.神の殺気に
街が見える。灰色の雲のから覗く街は、人々に溢れていた。
翼を振り下ろすと、空気が裂かれた。冷たい風の奥に、赤い瞳が爛々と輝いている。
狂気は叫び、雲を振り払い静寂の中に身を寄せた。嵐の前の静けさだろうか。
殺せ。殺せ。殺気に満ちた声だけが聞こえる。殺せ。殺せ――抵抗すらできなかった。抗うことは許されなかった。殺せ。殺せ――
5歳くらいの子供がこちらに気付き、指さして、何かを言っている。ねえ、お母さん、あれ、なんなの?
幼子は、それきり何も言わなかった。不思議そうに小首を傾げたまま、動かなかった。母親は悲鳴をあげ、幼子に駆け寄る。信じられない。顔にそう書いてある。
殺した。次を殺せ。
幼子の母親は、そのまま動かない。ひきつった表情のまま、動かない。倒れる。湖の冷たい水が、二人を飲み込んでいく。消えていく。沈んでいく。
空気が凍った。人々も凍った。笑顔も、愛も、夢も、希望も、神の殺気に凍らされ、砕けた。寒々とした街から、悲鳴が途絶えるとき、狂気に踊らされている神は、人々の前に姿をあらわした。
伝説は、常に最悪の形でやってくる。
アイスクリームで治ってしまうほど、ゆかりの怒りは浅かったようだ。笑みを浮かべ、ぺろぺろとアイスを舐め回すゆかりの姿を見て、瑞穂は胸をなで下ろした。
「もう……調子いいんだから」
苦笑し瑞穂は、冬我の方に向き直った。「ありがとう」
冬我もまた、財布をしまいながら笑っている。先程までの険悪な雰囲気は既に消えていた。
「ところで冬我くんは、鳥ポケモン使いなの?」
一呼吸置いてから、瑞穂は訊いた。
冬我の、オニドリルへの指示の方法やタイミングの取り方は、明かに鳥ポケモンに精通していることを示している。なにより鳥ポケモンを好きなのが先程の会話でわかった。
冬我は小さく頷き、窓を通して空を見上げた。
「ボクは、鳥ポケモン専門のジムのリーダーになるのが夢なんだ」
「そうなんだ……あれ? それじゃ……」
「うん。キキョウジムのリーダーのハヤトさんは、ボクの憧れなんだ」
輝いていた。冬我の眼が、大空を舞う鳥ポケモンへの夢の眼差しに、燃えていた。
「大地を超え、空を超え、風を超えて、山を越える……凄いと思わない? 大空を飛ぶんだ。自由自在に」
瑞穂は微笑みながら冬我を見つめ、呟いた。
「本当に、鳥ポケモンが好きなんだ……」
「え……?」冬我は照れくさそうに舌を出した。「わかる?」
「よくわかる……。冬我くんの気持ち、私にもわかる。私も、ポケモンが好きだから」瑞穂は俯いた。「……好きなのに……」
傷つけた。それも、自分の拳で。自分の事しか見えていないからこうなるのだ。自分のポケモンだけを守ろうとするから、傷つけてしまったのだ。
ああするしかなかった。それは言い訳に過ぎない。言い訳に。
事実なのだ。どう真実が主観によって歪められようと、事実であることに違いはないのだ。
私は、オニスズメを殴った。傷つけた。その事実だけは消えない。
「どうしたの……?」
冬我に言われ、瑞穂は何事もなかったように顔を上げた。少しばかり瑞穂は青い表情をしている。冬我は瑞穂の心情を感じ取っていた。だが、あえてそのことには触れなかった。
「瑞穂ちゃんは、これからキキョウジムでジム戦をするんだろう?」
「うん。グラちゃんの傷が癒えたら、キキョウジムに行こうと思うの」
「そうなんだ……ボクも一緒に行っていい?」
不思議そうに瑞穂は小首を傾げた。
「いいけど……どうして?」
「キミが、ハヤトさんと、どんな試合をするのか観てみたくて」
瑞穂は冬我と一緒に窓の外を眺めていた。こうしてみるとこの街も綺麗だな。ふいにそう思った。
しばらくして、ゆかりが肩を引っ張ってきた。口の周りについているアイスクリームを、瑞穂にティッシュで拭ってもらうと、治療室の扉を指さして言った。
「さっき、ジョーイさんがお姉ちゃんのこと呼んどったで」
消毒液の臭いが立ちこめる暗室。治療準備室でジョーイは独り佇んでいた。
瑞穂が声をかけると、ジョーイは振り向き、一枚のレントゲン写真を指さした。写真に映されていたのは、ポニータでもグライガーでもオニスズメでもなかった。
「これ……見えるかしら?」
ジョーイは言った。瑞穂は頷いて、写真に映された異物を見つめる。
「これが……ナゾちゃんに……?」
小さな、しかし異物。ナゾノクサの左前頭部には、くっきりと丸い影が映っている。瑞穂にはそれが、異物が埋め込まれているように見えた。
「あなたのナゾノクサ。頭に何かを埋め込まれているわね……。なにか、心当たりはある?」
「ないことは……ないです」
ジョーイは机の上に置かれていた診療簿を取り、瑞穂へと手渡した。
診療簿の内容を舐め回すように瑞穂が読んでいる間、ジョーイは思惟しながら呟いた。
「あなたは、ここに来たとき言ったわよね。あのナゾノクサは普通のナゾノクサじゃない、って。時折、眼が赤く光って破壊衝動に駆られることがあるから調べてください、って。確かに普通じゃなかった。もっとも……その年で”破壊衝動に駆られる”なんて小難しい言葉を使うあなたも普通じゃないけれど」
「何かしらの形で結果が出てくることは予想してましたけど、まさか外科的な処置がなされていたとは、思いもしませんでした……」
そこまで言って、瑞穂の眼の動きが止まった。診療簿に気になる項目を見つけたのだ。
「あの異物は、なにか特殊な電波を発しているみたいですね」
「そうね。とても微弱で、なんとか計測できる程度の電波だから、ポケモンには影響ないと思うけど。さしずめ、特殊電波発生装置……といったところね」
「あの、何かの条件が重なると電波の出力が強くなる、ということは考えられませんか?」
「十分に考えられることだと思うわ。もっとも、電波発生装置の大きさから考えたら、どんなに出力を上げても、半径2cm以上に影響を与えるのが精一杯ね」
「それで十分ですよ。中枢神経は異物の半径2cm以内にあるんですから」
ジョーイは振り向き、レントゲン写真を見つめた。白い影となって映し出されている異物は、ナゾノクサの中枢神経部分から5mm程しか離れていない。
一通り写真を見てからジョーイは、再び瑞穂の方を見やった。瑞穂は診療簿に見入っている。
「取り除けるかしら……」
「女医さんは……自信あります?」
「残念だけど、私には無理だわ。あなたなら……あなたならできるかも」
すがるようにジョーイは、瑞穂の幼げな白く整った顔を、期待の眼差しで見つめている。
だが、瑞穂は視線を診療簿から床へと落とし、ゆるゆると首を横に振るだけだった。
「あと、5mmほど中枢神経から離れていれば、なんとかできるかもしれませんけど……、無理です。間違いなく中枢神経を傷つけてしまいます」
「そう……たしかに難しいわよね」
「オペは、諦めた方がいいと思います」
曖昧に頷くと、ジョーイはナゾノクサの入っているモンスターボールを手に取った。
「頭部に葉液が溜まっているみたいだから、ドレナージしておくわね」
「おねがいします」
瑞穂は丁寧に頭を下げ、振り向くと、扉のノブに手をかけた。ジョーイの声が追いかけてきた。ノブを握ったまま、瑞穂は相手の顔を見つめた。
「なんですか?」
「あなたのグライガー、どこにもケガなんてしていなかったわよ」
「そんな……。確かにグラちゃんは……」
オニスズメによって、全身をつつかれていた筈だ。さっき見たときは、間違いなく体中に嘴の痕が残っていたのだから間違いない。
「そんな筈は……」
あり得ない。瑞穂は細々と、小さな声で呟いた。
「自分だけが正しいとは思わない方がいい……か。あの子が言いそうなことだわ」
ナエは苦笑し、コーヒーに映りこんだ自分の顔を見つめた。瑞穂は一息つき、レモンティーに手を伸ばた。不意に、それまで流れていたBGMが途切れた。店内は異様な静けさに包まれている。
「人間は、みんなそれぞれ違うものね」
「はい……」
「あの子は……正しいことをしたのかしら」
瑞穂はレモンティーを飲もうとした手を急に止め、ナエの顔を怪訝そうな表情で見つめた。瞬間、どぎまぎした様子でナエは目をそらす。こめかみには、汗が浮いていた。
ティーカップを置いて、瑞穂は蒼白くなった顔で言った。
「どういう意味ですか? 冬我くんがしたことは、正しいことじゃないんですか?」
「あなたから見たら、あの子のしたことは正しいかもしれない。でも……それは、あの子がするべきことじゃない。自分の命を捨ててまで、正しいことをするべきなの?」
カップを置いた。瑞穂は何も言えないまま俯いている。ナエは続けた。
「正しいわ。あの子がしたことは、間違ってはいない。でもそれは、あの子が望んだことなの? あの子自身は、本当にそれでよかったの?」
肩をすぼめて瑞穂は、ナエの言葉を、その奥に詰め込められた心情を考えていた。
冬我が望んだのか。周りの人間が……もちろん自分を含めて……冬我に責任を押しつけたのか。だから、自分は裁かれかけたのか。裁かれた方が良かったのか。
それはわからない。真実など、いくらでも曲げられる。人は、それぞれ違う眼界を持っているのだから。
ただ、瑞穂は漠然と感じていた。彼の最期の言葉。彼の瞳に最後に映った世界。
彼は言ってくれた。見つめてくれた。そして、教えてくれた。
「冬我くんは、これで……自分で最後にしたがっていたみたいです」
「何を……?」
「犠牲を」
風が吹いてきた。雪は固く、雹のようになり地面に降り注いでいる。
キキョウジムへと続く道は、泥雪に覆われ、まるで腐ってでもいるかのように見える。空は灰色の雲に覆われていた。時折、小さく揺らぐが、太陽は姿をあらわさない。
濡れた靴底を疎ましく思いながら、瑞穂は胸に抱いたグライガーを見つめていた。
「おかしいなぁ……。確かにケガをしてたはずなんだけど」
グライガーは眠っている。寝息が胸の奥まで響いて、瑞穂は心地がよかった。
瑞穂の様子を横目で見ながら、冬我は腕を組んで、考え事をしているように小さく唸った。
「ボクも見たけど。確かに、あの時、グライガーには傷があったよ」
「そうだよね……どうして今は無傷なんだろう……」
紫色をしたグライガーの表皮を、白い指で優しく撫でながら瑞穂は呟き、考えた。
自分のグライガーは、普通のグライガーとは違う、特殊な力をもっている。今まで一緒に過ごしてきて、それだけはわかっていた。ただ、なぜ特殊な力をもつのか、具体的にどのような力を持っているのかまではわからない。
瑞穂は思いだしていた。以前にも同じ様なことがあったかもしれない。
「そうだ……」
「なに?」
「前にも似たようなことがあったの。以前、ウバメの森でグラちゃん、木を切る特訓をしてて、その時、ハサミはボロボロになっちゃったの。でも、よく考えたら、そのあと見たときにはハサミの傷は綺麗に治っちゃってた」
「本当に?」
「うん……間違いない」
冬我は不思議そうな顔で、グライガーの寝顔を見つめた。
瑞穂はグライガーの額についた雪を払いながら、呟いた。
「普通じゃ、考えられないよね……?」
「たしかに、そうだね」
二人の会話には興味を示さずに、ゆかりは空を見つめていた。雲は嫌いではなかった。だが、こうも曇りばかりが続くと、飽きてくるのだ。
「あ……あれ、なんやろ……」
ゆかりは思わず呟いていた。雲の奥に、奇妙な光を見たような気がしたのだ。瑞穂は、ゆかりの言葉に反応して、空を仰いだ。
空が渦巻く。嵐のように激しく風が舞い起こっているのだろう。なにも不思議なことではない。ただ、嵐の中心だけが異常だった。
「赤い……。光ってる……」
思ったことが、そのまま口に出た。冬我も空を見て、首を傾げている。
「ここ最近、本当に変な天気が続くね。それに……」
「どないしたん? 冬我兄ちゃん、なんや落ち着きないで」
ゆかりは訊いた。小さく頷くと、冬我は心配そうに呟いた。
「帰ってこないんだ」
「誰が……?」
「オニドリルさ。いつもは、しっかりと帰ってくるはずなのに……」
雲の流れが、少しばかり乱れた。ゆかりは大声を上げて、空を指さした。
「あれ……! 冬我兄ちゃんのオニドリルちゃうん?」
冬我は再び空を見上げた。雲を突き破って、こちらへと迫ってくる小さな鳥が、オニドリルが見える。
目を凝らして瑞穂はオニドリルを見つめた。息を呑む。全身傷だらけだった。瑞穂たちから見て、前方の地面へと墜ち、そのままぐったりと動かなくなった。
「お……オニドリル……!」
すぐさまオニドリルに駆け寄り、冬我はオニドリルの全身の傷を見回した。血に染まった羽毛の奥には、擦り傷のような軽傷から、骨が剥き出しになっている程の重傷まで、無数の傷が点在している。冬我はオニドリルを抱き寄せ、応急処置用に携帯している脂を傷口に塗りつけた。
朱に染まった手で、モンスターボールを取りだすと、冬我は顔を強張らせて呟いた。
「誰が、こんなことを……」
「あれ?」
冬我の後ろで、瑞穂が不思議そうな声をあげた。冬我は振り向いて訊いた。
「どうしたの?」
「オニドリルの羽根の先を見て……ほら」
言われて、冬我はオニドリルの羽根の先を見やった。羽毛をむしり取られ、晒された表皮が黒く変色している。先の方では、小さく透明な何か……。氷だ。氷の塊が付着している。
「凍ってる……?」
「うん」
瑞穂は顔を空へと向けた。雹が頬を貫いたような痛みが走った。
空気が冷たくなっていくのは、肌ですぐに感じることができる。あまりの寒さに鳥肌が立った。
雲に阻まれた赤い光は、相変わらずその場で、上空で佇んでいる。次の瞬間、閃光が迸った。蒼い、美しいとも思えるような澄んだ光が雲を突き抜けた。強風が踊った。瑞穂はゆかりを抱きかかえる。
何層にも重なる灰色の雲が、吹き飛ばされた。神々しい、蒼い鳥ポケモンが下界を見下ろしているのが見えた。
オニドリルは弱り果てた息づかいで、空を翼で指し示した。
冬我はゆっくりとモンスターボールを押しあて、オニドリルを戻すと、上空の鳥ポケモンを見つめた。氷のように透き通っている、美しい翼を広げて、鳥ポケモンは高い声で鳴いた。
「あのポケモンは、フリーザー……!」
「フリーザー……?」
「そうだよ。伝説のポケモン、フリーザーだ」
瑞穂は図鑑を取りだして、参考の欄を開いた。フリーザーの項はすぐに見つかった。
ボタンを押した。ポケモンにまつわる伝説を、ポケモン図鑑は素っ気ない声で話し始めた。冬我は図鑑の説明を暗記しているらしく、小さな声で口ずさんでいる。
鳥肌の立つ二の腕をさすりながら、瑞穂はその声に聞き入った。
「フリーザーは、冬を司る鳥の神である。
雪のふる場所にフリーザー在り。冬の訪れを告げながら、各地を飛び急ぐ鳥、フリーザーなり。
雹の墜ちる場所にフリーザー在り。下界の汚れた殺気嘆きながら、雲上で悲しむ鳥、フリーザーなり。
霧の満ちる場所に、フリーザー在り。自分の存在を悟られぬよう、霞噴く鳥、フリーザーなり。
吹雪の荒れる場所に、フリーザー在り。怒りで我を忘れる、蒼い翼の神の鳥、フリーザーなり」
それきり図鑑は沈黙した。神の鳥、フリーザーは不気味なほど静かに、辺りを見回している。
瑞穂は冷たくなった二の腕を掌で震えるようにさすった。鳥肌は治まったが、体の芯からくる震えは止まらなかった。息を呑む。フリーザーを見つめる。
フリーザーの瞳は赤く爛々と光っていた。妖しいほどに。色香すら感じられた。だが、殺気だった。瑞穂は見とれそうになる自分に言い聞かせた。あの瞳の奥にあるのは、紛れもない殺気なのだ。どこかで見たことのある色だ、と瑞穂は感じていた。狂気を帯びた、真紅の色を。
「こっちにくるで!」
叫ぶと、ゆかりはとっさに、瑞穂の水色の髪を左右で束ねた、ポニーテールを引っ張った。
冬我は立ち上がる。フリーザーを直視している。瑞穂は我にかえり、視線をゆかりへと向けた。空気の震えで、フリーザーが一直線にこちらへと迫ってくるのがよくわかる。
「冬我くん。はやく逃げなきゃ……」
「冬我兄ちゃん?」
瑞穂とゆかりは口々に冬我に話しかけたが、彼は取り合わない。じっと睨み付けている。鳴き声が聞こえた。フリーザーだ。迫ってきている。すぐ目前まで。
業を煮やして、ゆかりは冬我の脇腹を蹴りつてた。目を丸くしている瑞穂を余所に、ゆかりは強引に冬我の手を引いて、路地裏へと隠れるように入った。
「兄ちゃん。目ぇ覚めたか?」
風圧の刃が頬を掠めた。泥雪がはぜて散らばっていく。コンクリートビルの外壁が、見るも無惨に削ぎ落とされていく。
瑞穂は純粋に恐怖した。翼が少しばかり触れただけなのに、コンクリートのビルでさえああなるのだ。人の体などは、造作もなく破裂し四散するだろう。想像して、瑞穂の肩が、びくりと跳ね上がった。路地裏に逃げ込むのが、あと少しでも遅れていたら、瑞穂たちも巻き込まれていただろう。
危ないところだった。そう安堵すると共に、沸き起こる恐怖心が瑞穂の心を侵食していく。
仁王立ちでゆかりは、呆然と視線を宙へとむけている冬我に話しかけた。
「目ぇ覚めたか、ってウチは訊いとるんやけど?」
「覚めたよ。でもさ、蹴ることないじゃない……」
「蹴られるのと、死ぬのと、どっちがええんや?」
「両方とも、勘弁してよ」
フリーザーが空中で旋回し、瑞穂を狙って急降下をはじめた。口元から蒼い光を発射した。跳ねた。瑞穂の体が、バネのように跳び上がった。蒼い光が、先程まで瑞穂の立っていた大地を凍てつかせた。
「はやく……! もっと奥に逃げて!」
瑞穂は叫んだ。粉雪が覆い被さってくる。横に飛び込み、すんでの所で避けた。唖然とした様子で冬我は、フリーザーの攻撃を避けていく瑞穂を見つめている。小柄でひ弱そうに見える瑞穂の白い体の何処に、フリーザーの猛攻を避ける程の力が隠されているのか。
焦った様子で瑞穂は急かした。かがみ込んで翼を避ける。
「どうしたの? はやく……」
「逃げろって言われても……瑞穂ちゃんはどうするの?」
「私は大丈夫だから」
「でも……」
「ええから行くで! ウチらがいても、足手まといになるだけや」
ゆかりが身構える。もう一発蹴りこもうとしているように見えた。シャツの袖を引かれ、冬我は路地裏の奥へと逃げ込んだ。
冬我とゆかりが安全な場所に逃げ込んだことを確認すると、瑞穂はモンスターボールを取りだして、投げた。ボールが開いて、リングマが飛び出す。瑞穂はそのまま倒れ、リングマに抱きかかえられた。
息が切れている。趣味の剣道のおかげで瞬発力には自信があったが、体力はほとんどないのだ。
「リンちゃん。お願い。相手を追い払うだけでいいから……無理はしないで」
荒い息で瑞穂は言い、数歩退いた。
リングマは咆哮する。全身の筋肉に力を入れて、拳をフリーザーへと突き出す。掠りもしなかったが、リングマは吠えたまま足を踏み込んだ。大地が震撼した。雪と共に、砕けた地面が砂埃となって辺りに蔓延した。
瑞穂は隙を見逃さず、リングマを戻して、路地裏に走って逃げ込んだ。
戻ったときには、フリーザーの姿は消えていた。
降ってくる雪は先程よりも量を増した。もっとも、視界が遮られるほどでないのが、救いだった。
「ねえ、冬我くん」瑞穂は削ぎ落とされた壁を見つめながら呟いた。「オニドリルは……」
「うん。さっきのフリーザーにやられたんだ。オニドリルはフリーザーのことをボクたちに知らせようと……」
冬我は拳を握りしめた。既にそばにはフリーザーの気配はない。どこかへ飛び去ったのだろう。
腕のポケギアのスイッチを入れて、瑞穂はラジオの声に耳を傾けた。予想通り、フリーザーに関する報道がされていた。
「キキョウシティ近辺に突如出現した謎の生命体による被害は、キキョウシティ郊外で少なくとも、死者24人、行方不明者13人で、今後さらにその数は増えるものと予想されます。行方不明者の方の氏名は以下の通りです。キキョウ区、南雲善之ちゃん、南雲喜子さん、平池聡美さん……」
瑞穂はポケギアのスイッチを切った。ゆかりがこちらを見つめている。
「どうしよう」
「どうしようもないやん」
「そうだよね……」
立ち上がり、冬我は空を眺めていた。冷たい風が路地裏を駆けていく。
「あれは……!」
冬我は叫んだ。瑞穂も空を見上げる。幾重もの影が瑞穂の視界を横切った。
鳥だった。大勢のピジョンが人を乗せて空を翔ている。キキョウジムのトレーナー達だと、すぐに理解できた。ピジョン達の先鋒では一際大きなピジョン、いやピジョットが一軍を仕切っている。
啼いた。いや、吠えたと言った方が正しいかもしれない。一声で一軍は上昇を始めた。
「すごい……すごいよ」
興奮したまま、冬我は一軍を見送った。顔は朱色に染まり、声が上擦っている。
「今のが、キキョウジムの……?」
「そうさ。キキョウジムの精鋭トレーナー達さ! すごいなぁ……」
「感心してる場合じゃないよ。今の人達……」
「あの人達なら、フリーザーを倒せるよ」
瑞穂の首が小さく動いた。ゆかりの肩を抱き寄せて、冬我の瞳を凝視した。
「でも、まだ、フリーザーが人を襲う理由がわかっていないのに……」
「フリーザーを放っておいたら、みんな死ぬ」
言われて、瑞穂は押し黙った。
外壁を削がれたビルの中から、ラジオのニュースが聞こえてきた。
死者28人。たったの5分間で、4人も増えている。
悲鳴が聞こえた。途切れた。
断末魔の叫びが、途切れた。
誰かの泣く声が聞こえる。胸の奥が空洞になったように、冷たくなっていくのを瑞穂は感じた。いつの間に、この街はこうなってしまったのだろう。先程までは、なんともなかった筈なのに。
災いが襲ってくるときには、前触れなんてないのかもしれない、と瑞穂は思った。
「とにかく、一度、ポケモンセンターに戻ろう」
冬我が言った。瑞穂は頷いて、歩き始めた。
鳴き声が聞こえなくなった。ただ、なにやら叫く声だけが風にのって聞こえてくる。
これが、犠牲か。瑞穂は俯き、息をはいた。
今は、フリーザーの赤い瞳だけが、脳裏に焼き付いている。体が震えた。怖い。恐い。ここまで純粋な恐怖を感じたことが、かつてあっただろうか。
既に、31人が殺されているのだ。
瑞穂は、叫び声をあげたい気持ちを、懸命に堪えることしかできなかった。
夢ではない、と自分に言い聞かせた。
あれから7時間も経過している。既に、灰色だった空は、赤黒く染まっていた。
視線の先では次々と閃光が迸り、「翼」という名の刃が舞っている。
もう、震えてはいなかった。もっとも馴れたとか、度胸がついたわけではなく、目の前の出来事が、夢であるかのように見えてしまうようになっただけだ。
「ここからなら……よく見えるだろ?」
握りしめた拳を胸にあて、冬我は瑞穂の方を向いて、訊いた。瑞穂は唇のはしを噛みしめながら頷く。胸の奥の、どこかに窮屈な感じがあったが、意識しないようにした。
黒く汚れた木製の手すりを強く握って、瑞穂は目の前の死闘を見つめている。
マダツボミの塔は、キキョウシティでもっとも高く、歴史を誇る建造物である。伝説では巨大なマダツボミからつくられたと言われているが、真偽は定かではない。
どちらにしろ、空で行われるフリーザーと、キキョウジムトレーナー達の血みどろの死闘を静観するにはもってこいの場所であることは確かだ。
もちろん瑞穂には、このまま黙って、戦いを観ているつもりはなかった。それは冬我も同じだろう。冬我は片手にモンスターボールを握っている。瑞穂もいつでもモンスターボールを取り出せる構えでいる。今すぐにでもフリーザーを抑えるための戦いを始めることはできる。
だが、二人はそれ以上、動かない。お互いの顔を見つめ合っているだけだ。もう片方の腕を、ゆかりがしっかりと握っているため、これ以上前へ進めないのだ。ずっと、ゆかりの視線が二人の背中を見つめている。少女の瞳には行かせまいとする意思が見てとれた。
行かせない。絶対に行かせない。行ったら、このまま還ってこないかもしれないのだ。そんなのは嫌だ。1秒たりとも独りになるのは嫌だ。ゆかりの目に涙が浮いた。
瑞穂は手に持ったモンスターボールを胸に胸に押しあてた。どうしたらいい? 訊いたのだ。リングマは何も語らなかった。何も言わないことが、彼の答えだった。昔から、そうだった――
絶叫が響いた。フリーザーの啼声が辺りの空気を押し揺るがす。刀のように鋭い翼が空を斬った。十体いたピジョンとトレーナー達も、いまではたったの四体へ減っていた。フリーザーの力は圧倒的だった。冷凍ビームが自由自在に飛び、ピジョン達の退路をふさぐ。動けないでいるピジョンの元へ目にも止まらぬ速さで飛び、翼を振りかざす。ピジョンはなんとかかわした。他のピジョンが一斉に、フリーザーの背後から攻撃を仕掛ける。突如、フリーザーが体中に纏っている光の粉末が、きらびやかな光を放った。
ピジョンの起こした強風攻撃が、光の力のよってねじ曲げられ、一瞬のうちに、その威力を失う。
フリーザーは身を翻し、背後のピジョン達に向き直った。散開しようとするのを見越したように、フリーザーは冷凍ビームを発射し、ピジョン達の進路を阻む。
身動きのとれなくなったピジョン達は、恐怖にとり憑かれている瞳をフリーザーへと向けた。ピジョンとトレーナーの眼界からフリーザーの姿が消えた。
刹那。霧に紛れたフリーザーの巨体が、浮かび上がるようにピジョンの鼻の先にあらわれた。ピジョンは上昇する。間に合わなかった。フリーザーの翼がピジョンの腹を少しばかり裂いた。苦痛に呻きながら、ピジョンは体を捩り、墜ちていく。
フリーザーは、もう片方の翼で、ピジョンに乗っていたトレーナーを薙ぎ払った。宙に、トレーナーの体が浮いた。フリーザーの斬撃。体が肩から腰の辺りまで裂ける。悲鳴すら上がらなかった。ピジョットに乗っているリーダーらしき男は、退却を命じたようだった。
鮮血が飛んだ。いつの間にか、もう一人の体がピジョンから墜ちかけていた。
どうした? リーダーらしき男は声をかけた。相手は答えなかった。瑞穂は奥歯を噛みしめ、目を伏せた。冬我は頬を紅潮させ、現実を直視している。
腕が落ちた。喘ぐような声で、腕を裂かれた男は助けを求めている。
蒼い閃光が彼を覆った。悲鳴は凍りついた。墜ちていく。墜ちるところまで墜ちて、砕けた。主を失ったピジョン達は、叫びながら、全力で、フリーザーの元から逃げ去っていた。
いつしか、ジムトレーナー達は消えていた。フリーザーは赤い瞳で勝利の味を噛みしめているようだ。
叩き落とされた者、殺された者、逃げ去った者。方々に散っていったのだ。
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。