ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#6-2
#6 憑依。
2.追求→発見
~彼らは 意識 察知する力あり 外 拒む~
「こんな所で、悪いんだがね……」
「あ、いえ。気を使わないでください。私が、なんの連絡も無しに押し掛けたんですから……。こちらこそ、お忙しい中、突然お邪魔して、すみません」
ホコリまみれの第2研究室のパイプ椅子に腰掛けながら、韮崎は笑った。よどんだ空気が掻き回される。瑞穂は肺の辺りが苦しくなったが、なんとか堪えた。
韮崎は、しばらく笑い続けていたが、小首を傾げる瑞穂を前に真顔に戻った。
「いや失礼。だがね、ここ数ヶ月、私は忙しいなどと思ったことが無かったものだから。ここに来てからは、先程のように意味もなく、ずっと遺跡を眺めているのだよ」
瑞穂は、どう受け答えしていいのかわからず、困ったように俯いた。再び笑い出し、韮崎は続ける。
「遠慮しなくていいのだよ。笑ってくれても結構だ」
「あ、あのぅ……」
泣きそうな瞳で見つめられ、韮崎は、この少女の性格を思い出した。人に気を使いすぎる。自分そっちのけで、他人に尽くそうとする。自分だけを大切にする輩よりは、はるかにマシではあるが、それはいずれ身を滅ぼすだろう。
韮崎は、台座にもたれて眠っているゆかりへと目を移した。よほど疲れ果てていたようで、静かな寝息をたてている。
「おっと……洲先君は、そういう話は苦手だったんだな。ところで、あの子は?」
ゆかりへと向けられた韮崎の視点に気付いて、瑞穂は答える。
「妹です。……っていうのは冗談で、実は……」
瑞穂は、ゆかりが自分と一緒に旅をするまでの経緯を、韮崎に説明した。聞きながら、韮崎は俯いて、瑞穂の幼いながらも整った顔を見据えた。
「そうなのか……かわいそうにな……。父親も母親もいないとは」
「はい。それに私にはなんだか、それが他人事には思えなくて――」
痛々しげに呟く瑞穂の言葉が、韮崎の胸に重い影を落とした。ふと3年前、トキワ大学で先史学の研究をしていた頃に出会った、瑞穂の姿を思い出したのだ。
資料室の片隅で、白衣姿のまま泣き続ける瑞穂に、韮崎は思わず声を掛けた。あの時の怯えた表情。涙で潤んだ瞳――
怯えていた。無理もない。まるでこの世の全ての罰を受けているような表情。
(どうしたの? お嬢ちゃん)
瑞穂は答えられなかった。言葉にならぬ呻きをあげ、狂ったように涙を流しつづけるだけだ。
もう、死んじゃいたい。嫌なことばっかりなんだもん。
叫んだ。しゃくりあげながら赤く腫れた瞼を擦り、瑞穂はその場に座り込んだ。
生きていたって、死んでいたって、どっちもたいして変わらないじゃない!
瑞穂の叫びは、いつまでも韮崎の脳裏に灼きつくことになるのだ――
「先生……、どうしたんですか?」
心配そうな顔で瑞穂に見つめられ、韮崎は、はっとして辺りを見回した。
「いや……なんでもない」
この娘も、大きく美しくなったな。記憶と現在の交錯する意識の中、韮崎は思った。記憶のなかで泣き続ける稚児と、目の前の少女を重ね合わせてみる。
「そうか……、そうだな……。キミも、あの事件から立ち直ってくれたようだね」
「はい。よく言われます……。でも、ときどき思い出して、どうしようもなく悲しくなって、夜中に独りでメソメソしちゃう時もありますけど」
それは仕方ないことだよ、と韮崎は天井を見上げ、目線を遠くへ送った。
「もう、あれから3年も経つのか……。やはり、お父様の消息は、まだ掴めないのかね?」
「それは……」
突然の問いに、瑞穂は白い頬を縦に振り、寂しげな口元を噛みしめる。隣で、ゆかりは何かモゾモゾと寝言を呟いている。韮崎は瑞穂の澄んだ瞳を覗いた。
「父が……今、どこにいて、今、何をしているのか、なんて見当もつきません。第一、なぜ突然、父が失踪したのか。その理由すらも私には理解できないんですから」
韮崎が不思議そうに眉をひそめた。それと同時に、研究室の時計がアラームを奏でた。
「お父様の失踪の理由が理解できない……? なぜだね? 彼は、あの事件の責任を問われ、マスコミの糾弾に耐えきれず、キミを捨てて失踪した。その理由のどこが、理解できないのかね?」
「私には、父がそんな理由で失踪するとは、どうしても思えないんです」
「……と言うと?」
興味深げに、韮崎は瑞穂を促した。
「父は、事件直後、ひどく何かに怯えているように見えました。私は、あの事件には、まだ何か誰も知らない秘密があるような気がしてならないんです」
「誰も知らない……秘密……か。私は、考えすぎだと思うがね」
時計は12時を4分経過していた。消え入りそうなほど静かなアラームが鳴り止むと、韮崎は立ち上がり、瑞穂に手招きした。
「まぁ、キミもお腹がすいただろう? 私がおごろう。ゆかりちゃんも連れて、食堂までおいで。それに、さっきのことだけを言うために、キミはここまで来たわけじゃあるまい」
可哀相にね。
黒いタトゥの少年は言った。だが、その表情に憐れみの色は浮かんでいない。
「口先だけね……。あなたが私の何を知っているの……?」
体中にまとわりついた雪を気にもとめず、氷は訊いた。少年はジンジャーエールを飲み干し、仰ぐように喫茶店の天井を眺めている。
「寒くないの? そんな雪の中で。寂しくないの? 独りぼっちで」
氷は少年の言葉に苛立ちを感じた。質問の答えになっていないからだ。
沈黙の時がしばらく続くと、少年は落ち着き払った様子で窓の外へと睨みを利かせた。まるで、ボクの質問に答えろ、とでも言っているかのようだ。
氷は、動かなかった。雪の中に隠れるように視線を落とし、口だけを小さく動かした。
「寒くはない……。逆に生暖かいくらいよ」
「生暖かい……? マトモじゃ、ないね」
少年がかすかに笑ったように思えた。その微笑が、少年が自身の驚きを隠すためのものだと解ると、氷は少しばかり気が楽になった。
少年が自分の全てを知っているわけではない。そう感じたからだ。
この少年は、自分が風呂にはいるときに、冷水にしか漬かることを知らない。
この少年は、自分がシャワーを浴びるときに、冷水しか浴びないことを知らない。
一見特異に見えるその行動が、どれだけ氷の心の慰めになるかを知らない。凍りつくような冷たい水の中で洗われた者でなければ、その気持ちは解るまい。
窓の外で俯く氷を見つめながら、少年は苦笑した。
「キミは可哀相だ。孤独だ。不幸だ。美しいから、悩まなければならない。知っているかい? 結局、人生を最後まで生き抜くのは、醜い生き物だけなんだよ?」
「私も、十分、醜いわ」
「でも、今のキミは美しい。」少年は、「今のキミ」の部分だけを強調した。
「ねえ。」少女は怯むことなく訊いた。「私のことを、どこまで知っているの……?」
少年は答えた。頬の黒いタトゥが室内の照明を反射し、不気味に光っている。
「キミが、哀しい心を返り血で染めてから、ボクはずっと見ていた」
「変な表現を使わないで……」
「ありがとう」
「なによ……いきなり……」
「サミジマと、レライエを殺してくれて」
すぐさま氷は顔を上げた。頭に積もっていた雪が、ガサリと音をたてて地面へ落ちた。無表情であったが、その眼には恐れか、戸惑いの色が見てとれた。
「なぜ、そのことを……」
「彼らは、どうしようもなかった。ボクへの信仰心が薄かったから」
「信仰……? あの2人は、なにかの宗教にでもはいっていたわけ?」
「まあ、似たようなものだね」
そういえば、サミジマとレライエには、この少年と似たようなタトゥがあったような気がする。この少年は、私があの2人を殺してから、ずっと私のことを監視していたのか……?
柄にもなく、氷は不安になった。全てを、見ていた?
「神を信じるような人間には見えなかったけど、あの2人」氷は言った。
「信じてなかったさ。ボクも神なんて信じていないけど。彼らは、頭の構造が単純だった。だからボクは彼らを利用しようとしただけさ」
「利用……?」
「彼らをコガネシティで野放しにすることさ。警察が容易に彼らを取り締まれないようにすればいいのさ。そして誘う。この街で思いっきり、自由なことをしたいだろう? ……ってね」
意味が分からない。氷は小首を傾げた。また雪が音をたてて落ちていく。
「そのことに、なんの意味があるの……?」
「死人がでる」
少年は、氷の顔が強張っていくのを見つめた。ストローで空になったグラスを掻き回し、少しばかり溶けた氷を口に含んで噛み砕き、飲み込んだ。
「実際、彼らの働きは素晴らしかった」
「最低でも、5人は殺していたわね」
「正確には13人。死体が発見されるなら、まだ幸せな方だ。大抵は、ゴミみたいにされて、海に沈められてる」
「私の姉さんもいれれば、14人……。」
「あそこまで自分の欲情に素直な男は他にはいないだろうね」
「最低だわ。人間のクズよ」
「でも、そのクズを殺したのはキミだ。あの2人を殺して、キミは死人を増やした。ありがとう」
露骨に氷は嫌そうな表情をした。おまえの為にやったわけじゃない。
珍しいね、キミが感情を顔にだすなんて、と少年は再び苦笑した。
「で……」氷は少年の手元を見つめた。「死人を増やして、あなたは何をしたいの……?」
「ボクは何もしない。ただ……」
「ただ……?」
「裁きを待つだけ」
「裁き? 誰を裁くの……? 誰が裁くの……?」
少年は髪を掻き上げ、雪に埋もれる女を見据えた。氷は答えを待っている。余裕の微笑を口元に湛え、少年は深く息をついた。
「キミが知るべきではない。それに、信じないだろうしね」
氷は何も言わなかった、答えなかった。水晶のように澄んだ瞳を、ただ少年の方へと向けているだけだった。
無言の時が暫く続いた。少年は、ゆっくりと席を立った。
「傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、憤怒、貪欲……って知ってるかい?」
「七つの大罪……ね。それが、どうしたの……?」
これらは、大罪であると同時に、人間の意識でもある、と少年は説明した。
「人間である以上、罪からは逃れられない。キミにもあるだろう?」
「私は、傲慢よ」
「キミは蛇だものね」少年は苦笑した。「とにかく、みんな罪人なのさ。だから裁かれなければならない」
ふいに少年の瞳から光が消えた。なにか得体のしれぬものを睨み付けているような、見るもの全てを嫌悪するような、恐ろしい瞳をしている。
「ところで、アンノーン……って、知ってる?」
光が失せた瞳のまま、少年は氷に問う。氷は答えなかった。
「キミの遭遇したポケモンは、アンノーンとしか言いようがないな」
瑞穂から遺跡内で体験したことを聞いた韮崎は唸るように呟いた。
暖房の効いた研究所内の食堂。瑞穂はホットケーキを食べ終え、緑茶を啜っている。ゆかりは、カレーライスを脇目もふらずに口へと運んでいた。
湯飲み茶碗をテーブルの上へ静かに置くと、瑞穂は、正面に座っている韮崎へと視線を移した。左の頬に寒気を感じる。窓の外では、まだ雪が降り続いているのだ。
「あんのぉん……ですか?」
「そう。アンノーンに間違いない」
アンノーン。今まで何度か耳にしたことはあるが、実際に見たことは、これまで無かった。
ピンクのウエストポーチから電子式の図鑑を取り出して、瑞穂は検索のボタンを押した。
図鑑の画面が切り替わり、黒くて奇妙な形をしたものが映し出された。説明の声が鳴る。
『アンノーン……シンボルポケモン。昔の石版に記された文字に形状が酷似している。形状には個体差があり、現在26種類に分類される。古い遺跡などで発見されることが多いが、その生態については、研究が進んでおらず、まったくの謎に包まれている』
そっけなく説明を終えると、図鑑は沈黙した。すぐに瑞穂は図鑑をウエストポーチにしまう。
韮崎は咳払いを一つすると、コーヒーカップに手を付けた。
「今、聞いてもらったとおり、アンノーンは、全く謎に包まれたポケモンだ。いや、もはやポケモンと呼んでいいのかどうかも分からない」
「それは、どういう意味ですか……?」
コーヒーを啜る。韮崎は、湯気の向こう側に座っている水色の髪の少女に視線を送る。カップを置き、口元をティッシュで拭いとってから、答えた。
「アンノーンは、限りなく既存の生物概念から程遠いポケモンなんだ。ある日突然、増殖したかと思うと、次の日には、すべて消失していることもある。しかも、発見されるのは、決まって古代遺跡からなのも謎だ」
もっとも、そのことについては、私なりの仮説があるのだが……、と言いかけて、韮崎は慌てて口をつぐんだ。
「そうですね。私も初めて見たときは、ポケモンだとは思いもしませんでした。まるで……、幻を見ていたみたいで……」
「アンノーンを目撃した人は、大体似たような証言をしている。この遺跡でアンノーンが目撃されること自体は、さして珍しいことではないからね」
瑞穂は視線を落とした。時間帯のせいもあってか、食堂は大勢の研究員で賑わっている。
「実は……」瑞穂は声を潜めた。「一つだけ、気になることがあるんです」
「気になること……?」
「はい」腰に付けたモンスターボールを韮崎の前に出し「この子が、さっきからずっと怯えているんです」
韮崎は目の前に置かれたモンスターボールを見つめた。そして二度三度、解ったように小さく頷くと、言った。
「これも珍しいことではないよ。エスパータイプのポケモンにはよくあることだ。アンノーンは特殊な精神波を常に発生させているから、その影響をうけたのだろう」
「あの……グラちゃんは、エスパータイプのポケモンじゃ、ないんです」
瑞穂の言葉を聞いて、韮崎は眉を潜めた。「なんだって?」
「このモンスターボールに入っているのは、グライガーです」
すぐさま韮崎は身を乗り出した。カップが衝撃で揺れる。ゆかりは不思議そうに彼を見た。
そんなことがある筈ない。彼は言った。そんなことがある筈ないんだ。
「エスパータイプでもないポケモンが、特殊な精神波を感知することなど、できる筈がない……。それはキミも知っているだろう?」
「はい……知っています。ですけど、グラちゃんは本当に怯えているんです。それに――」
「それに……何だね?」韮崎は身を乗り出したまま、瑞穂を促した。
「私たちがアンノーンに襲われたとき、グラちゃんは普通ではない特殊な力を使っていました」
「特殊な……力?なんだね、それは?」
「サイコキネシスです」
韮崎は目を剥いて呟いた。そんなこと、あり得ない。
サイコキネシスとはエスパー系のポケモンが得意とする技である。脳から発している精神波を増幅し、強力な念動力を操ることができるのだ。
「グライガーはエスパータイプではない……。サイコキネシスを発動させることも、アンノーンの特殊精神波を感知することも常識ではありえない」
驚いている韮崎を、瑞穂はじっと見つめている。キミはどう思う? 韮崎の眼は、そう瑞穂に訴えていた。
「考えられるとするなら……、グラちゃんは、エスパータイプと同様の、超常能力を有しているのではないでしょうか?」
「しかし……なぜ……」
「思い当たる節があります」
再びウエストポーチの中から、瑞穂は茶色い破片を取りだして、韮崎に見せた。
「これは、グラちゃんのタマゴの殻です」破片の中央部を指さし「ここをよく見てください……」
破片には小さく刻印がなされていた。『sl/207f151mc(150)-1s(n)』と。
「それが、どうしたのかね?」
瑞穂は、グライガーが、ロケット団が処分しようとしていたタマゴから産まれたことを話した。
「たぶん、この刻印は、管理番号か何かだと思います」
「つまりキミは、超常能力を有するグライガーが、どこかに生息していて、それをロケット団が
乱獲している……と言いたいのだね?」
「そうです。もっともロケット団が、グラちゃんのタマゴを『処分』しようとした理由までは解りませんが」
瑞穂は破片をウエストポーチにしまいこんだ。韮崎は冷めたコーヒー飲み干して、黙っている。ただ一言、小さく呟いた。
「信じられん……」
「私もです」
韮崎は窓の外を、じっと見つめている。しかし、次に瑞穂の口から告げられた真実は、更に韮崎を驚愕させることになる。
「あと、気のせいかもしれないですけど……、変な声が聞こえたんです」
「変な声……?」
「女の人の声でした。助けて……って。あ、でも、たぶん気のせいです……」
韮崎は突然立ち上がった。蒼白だった。
「本当に……?」
相手の驚きように、瑞穂は戸惑った。「え、その……思い過ごしです」
「ウチも聞いたで!」ゆかりが横から口を挟む。カレーは既に平らげられていた。
韮崎は息を呑んだように見えた。忙しなく瞬きをすると、瑞穂の手を引いた。
「教えてくれないか? 声の聞こえた場所を」
「はい?」
「私の考えが正しいとすると……大変なことが、既に起こっているはずだ」
それは、歪んだ愛の形。
彼は罪を犯した。だけど、キミにも解るはずだよ。彼の気持ちが――そう、少年は言った。
いつの間にか少年は、氷の目の前に立っていた。白銀の髪の毛が雪と戯れている。
「解らないわ」氷は答えた。
「いや、キミには解るはずだ。孤独だった、彼の気持ちが。自分のために、アンノーンの力を彼は受け入れた。接続し、力を授与された」
氷は答えない。その瞳を足下へとむけ、俯いている。一歩一歩、少年は氷へと歩み寄っていく。
「アンノーンは、彼のような罪人の意識を察知し、具現化する力を持っているんだ」
「それは、さっき聞いた……」
「なぜポケモンが、そんな力を持っていると思う?」
氷は何も答えない。口を閉じたまま、微動だにしていない。
「なぜ、アンノーンは、古代文明跡から大量に発見されると思う?」
氷は何も答えない。妖しげな瞳が、いつもとは違う、悲しみに満ちていた。
「どうして、その古代文明は滅んだと思う……?」
氷は何も答えはしない。降りしきる雪の中、ただそこに存在するだけの少女なのだ。
古代人も、現代人も、過ちを犯したんだ。だから、裁かれなければならない。みんな、自分だけを大切にしているんだ。裁かれなければならないんだよ――自分以外はどうなってもいいと考えている愚かな人間を。
少年の憎悪とも、悲しみともつかぬ演説が、少女を苦しめていた。
「あなたに、人間を裁く権利があるの?」
氷は訊いた。少年は、とってつけたような微笑みを浮かべた。
「ボクが裁くわけじゃない」微笑み撤回し。
「彼も……いずれ裁かれる。そう、遠くはない、もうすぐ。キミにも、解るはずだ……解るはずだ……。キミは人間ではないのだから」
「私も……人間は嫌い……」沈黙。雪も止まったかのように。
「だけど……人間でも、すべてが愚かというわけではないわ」
「それは、キミが人間に甘い証拠さ」
再び、沈黙。空気も止まり。
「みんな……人間は、裁かれなければならない」
少年は、頬の黒いタトゥを指で撫でた。タトゥが波打つ。
「彼の……あの男の裁かれる時がきたみたいだ……ついてくるといい……」
少年は突然、氷に背を向けて、歩き出した。遺跡の方角へ。
「あの男には、正当な裁きが下される。キミも見てみるといい……」
そして、すべての人間への裁きが近づいていく。
ボクは、それを待っているんだ。
壁には先程と同じく、奇妙な模様が刻まれていた。
アルフの遺跡内部は、冷たく湿っている。韮崎は寒くないように、上着を羽織った。不気味なほどに静かな、恐ろしいくらいの静寂が辺りに広がっている。ただ足音だけが、木霊し、静寂の不協和音となっていた。
薄暗く、まるで空気のぼやけているような回廊を歩きながら、韮崎は独り言のように呟いた。
「あくまで、私の仮説に過ぎないのだが」と前置きし。
「アンノーンは、人間の意識……いや、心を察知し、それを具現化する力をもっている。……それは知っているね?」
「はい」瑞穂は頷く。「でも、それは単なる言い伝えじゃないんですか?」
「うむ……。アンノーンによって具現化された世界には、その人の心が投影される……。もっとも、それは、この遺跡から発見された碑文に、そう刻まれているに過ぎない。だがね、もし碑文に刻まれていることが本当だとしたら……」
「先生は、その碑文が真実を書き示していると考えているんですね」
韮崎は頷いた。そして、瑞穂を見下ろして言葉を続ける。
「今までに、アンノーンの捕獲例は数えきれぬ程あった。しかし、人間の意識を読みとり、それを具現化した前例はない……それゆえ人々は、碑文に刻まれた古代文明人からのメッセージを、本気にしなかった。だが、私はずっと疑問に思っていた。これほどの巨大な建造物を造りだしてしまうほど優れた文明を誇った人々が、なぜ碑文に真実を刻まなかったのか……」
瑞穂から視線をそらし、韮崎は辺りの模様を眺める。
「もしかしたら、古代文明人は碑文に真実を刻んでいたのではないか……そう思ったんだ」
「でも、アンノーンに人の意識を具現化する力はなかったんですよね……?」
「それが、私たち現代人の思い違いだとしたら?」
「え?」
空気が震え、瑞穂は息を呑んだ。韮崎は宙の一点を見据えている。
「アンノーンは個体によって幾つもの異なった形状をもつだろう? もしかしたら、それらが複数集まることによって始めて、人間の意識を具現化することができるのではないのだろうか……。私たちは、アンノーンの一体一体を別々に研究していたのだから」
「あの……。それと、不思議な女の人の声と、どう関係があるんですか?」
瑞穂に訊かれ、韮崎は懐から四つ折りになっていた新聞を取りだした。
目の前に差し出され、瑞穂は爪先立ちながら新聞を覗き込む。昨日付けの桔梗新聞だった。
呆然と新聞を眺める瑞穂に、韮崎が囁いた。
「ここを……」と、小さな記事を指さし「見てみるといい」
韮崎が指定した記事の見出しは『いま、怪談がブーム』となっている。
訳の解らないまま、瑞穂は新聞記事を読み続けた。そして、その一行を読んだ途端、あっ!と声をあげた。
アルフの遺跡では、ここ最近、若い女性が次々と行方不明になるという事件が続発している、と書かれていた。
歩調を早め、韮崎は言った。「アンノーンだよ……その事件の原因は……」
「でも、その事件と、アンノーンに……何の関係があるんですか?」
「誰かが、この遺跡で願ったんだ。アンノーンは、その願いを聞き入れ、具現化させた。行方不明になった女性達は巻き込まれ、アンノーンの創りだした意識世界に閉じこめられたのだろう。……いや、もしかしたら、彼女たちを閉じこめること自体が、目的なのかもしれない」
「な……、誰が……何のために、そんなこと……」
瑞穂の疑問に、韮崎は答えなかった。お互いに無言のまま、歩き続ける。
無限に続くと思われていた回廊は、しばらく歩いたところで終わっていた。回廊の先には、無数の石像が墓場のように整然と建てられている。
石像の一つ一つに、斑模様のコケが生え、積み重なっている年月の重みが伝わってきた。灯明台の頼りない灯りが、不自然なほどの表情をもって、瑞穂と韮崎を照らしていいる。
瑞穂の背丈の2倍、韮崎の背丈の1.5倍はある、巨大な石像を見上げ、その彫刻の細やかさに瑞穂は見惚れた。とても、1500年前に造られたとは思えない。
「これほどの細かい彫刻は、現代の技術でさえ、造るのは難しいのだそうだ」
歩きながら韮崎は説明した。瑞穂は躍動感溢れる石像を見つめ、思った。
これほどの優れた文明が、なぜ滅んだのか。
「神の命令に、背いたからさ」
遺跡内部の朧気な灯りが、少年の銀髪と鍵型のピアスをオレンジ色に染め上げていた。
少年は続けて言った。だから滅んだ。裁かれたんだ。
氷は何も言わない。澄んだ瞳だけが、濡れたように少年のいる風景を包んでいる。
少年の冷弁は止まらない。
――人間は、過ちを繰り返した――
「過ち……?」
「人間の意識は、強くなりすぎた……。欲望へと姿を変えてしまった。意識は言葉となり、言葉は偽りとなり――やがて、罪が生まれた」
「三流の詩──戯れのポエムね。まるで」
嘲るように鼻をならし、氷は少年から眼を背けた。
しかし、次に少年の口から発せられた言葉の意味が、氷の唇を強張らせた。
「人間は、存在すること自体が間違っていたんだ」
人間は、存在すること自体が間違っている。
「なぜ……?」氷は、訊いた。
「人間は、人間自身を、同種族ですら理解できないほど愚かなんだよ。理想を理想とも思わず……、ひたすら自分の視点からしか、物事を考えられないんだ。その結果がキミだ。人間は、キミのようなキメラを平気で生み出した。これは生命に対する冒涜だと思わないかい? 人間は神を気取っている……それも罪だ」
「私を否定しないで」氷は鋭い目つきで、少年の首筋を睨んだ。
「それに私はキメラじゃない……」
「だけど、人間でも、ポケモンでもない」
「確かに私は人間でも、ポケモンでもない。それに、自分の身体は嫌い……自分を呪うこともある。こんな身体になんてなりたくなかった。なんで、こんな身体にされなければいけないのか。ずっと考えたこともなる。でも、答えはでなかった。でるはずない。運が悪かった――その一言で、すべて説明がついた。納得できないけれど、そうとでも考えなければ、やりきれないのよ……。納得できる答えなんて、見つからないもの。だって、これは私が望んだこと。生きるために、私は自分の身体を売った。それだけのこと……なのに――」
そこまで言って、氷は自分の頬が濡れていないか、確かめたくなった。人前で涙を流すことは、心に傷をもつ少女にとって、耐え難い苦痛であるのだ。
少年に気付かれないよう、氷はさり気なく頬を小指で拭った。濡れていた。
少年に笑われた。そんなに苦しかったんだね……。同情ではない、嘲笑を含んだ言葉が氷を襲った。
少女は吠えていた。次の瞬間、腕だけが破裂し、紫色をした邪蛇が飛び出し、少年の頭を引きちぎろうと牙を剥きだした。
しかし、少年は動かず、少女の……氷の怒りに燃えた瞳を直視した。異形の右腕は少年の目前まで迫ってきている。
倒れた。口をあんぐりと開き、喘ぎながら首もとをしきりに掻きむしっている。白く濁った唾液が口元からこぼれた。充血した瞳は、そのまま相手へ向けられていた。まるで金縛りにあったように全身をヒクつかせ、呻き声を上げて、視線が地面に落ちた。
そこで不思議な痙攣は治まった。氷は震えながら起きあがり、少年を見つめた。直視できなかった。
「キミに、ボクを殺すことはできない。でも、ボクもキミを殺すことはできないけれど――」
氷は怯えたようにその場に座り込んだ。もう二度と、少年の瞳を直視できそうにない。
ボクが怖いんだね? あんた、私のことが怖いのね?
悪魔の声が、頭の中に渦巻いた。怖いの? 怖い? 怯えてるのね。私のことがそんなに怖い?
自分が、酷く弱々しく感じられた。
「ふふ……。そんなんじゃ、レライエやサミジマに、笑われるよ?」少年は笑った。
「ええ……そうね――」小さく弱々しい声が、氷の口から辛うじて発せられた。
かつて自分が裂き喰らったサミジマが、最期にみせた恐怖の表情を、氷は思い出していた。
私も今、あんな惨めな表情をしているのね――
※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを
再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。