水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#9-1

#9 侵蝕。
 1.消えた妹

 

 

 遠い空の海で、笑みもなく佇む君。 
 波に揺られて、風と戯れて、時は漂う。 
 私が、舞い降り、話しかけても。 
 壊れた、眼差しのまま、何も言わないのは、どうして?

 割れた硝子を見つめ、自分を眺める君。 
 嘘でかためて、幻想に泳いで、我を偽る。 
 誰かが、恐れて、語りかけても。 
 怯えた、微笑みを浮かべ、逃げてしまうのは、どうして?

 蝕まれた記憶に、自分を閉じこめて、君はどこまで、駆けるのか 
 枯れ果てた思い出に浸るだけじゃ、駄目だと気付いて――

 

○●

「……と、言うわけで、超人気アイドル、此花みなとちゃんの新曲、『霞んだ記憶』でした。ところで、この曲は、みなとちゃんが自分で作詞したんだってね?」 
「はい。そうなんです。……実は、数年前の自分にあてたメッセージでもあるんです」 
「数年前の自分って?」 
「今でこそ、楽しく仕事をさせてもらっていますけど、昔はいろいろあって……」 
「へぇ……。今をときめく、みなとちゃんにも、そういう辛い時期があったんだね」 
「誰にでもあると思います。でも、そういう時だからこそ、逃げずに立ち向かうことが必要だと思うんです」 
「すごいね。まだ10歳なのに、とてもしっかりしているよ。……おっと、今日はここでお別れ。司会は、塩谷ポン太。ゲストは、此花みなとちゃんでした。それでは、また来週! ばよならさーん!」

 此花みなとは、ラジオ番組の収録を終え、ラジオ塔の外へと出た。 
 疲れた様子で、額に冷たい汗を浮かべ、誰でも簡単にできるような、軽い溜息をついた。救いを求めるかのように、みなとは夜空を見上げる。厚い黒雲に阻まれて、星はおろか、月すらも見えない。墨を流したような、黒々とした闇が延々と広がっているだけだ。 
 小さく息をはき、みなとは俯き、胸元の辺りをゆっくりと撫でた。 
 そう、霞んだ記憶。この歌を聴く度に心が重くなり、気分が憂鬱になる。辛いときこそ逃げてはいけない。確かに自分はそう言った。だが、あの時、自分は惨めに逃げていたのだ。 
 なんでこんな詞を書いちゃったんだろう……。みなとは悔いていた。唇を噛み、闇を見渡す。 
 結局は嘘なのだ。この詞は。そして、もしかしたら、今の自分の存在すらも、偽りかもしれない。不安定な自分に怯えながら、それでも私は、現実に流されて生きていくしかないのだろうか……? 
 そんな筈はない。私は私だ。自分の意志で生きているんだ。誰かの思惑に乗せられているわけではない。 
 頭の中の不安要素を必死に否定するため、みなとは首を激しく横に振った。 
「いよいよ明日か……」 
 突然、背後から聞こえた声に、みなとは驚いて振り向いた。ラジオ塔を前に、暗がりの中で黒尽くめの男が2人、呟き合っているのが見える。みなとは思わず後ずさった。怪しむように2人の男に目を凝らす。相手は、みなとの姿には気付いてはいないようで、喋るのをやめようとはしなかった。 
「そうだな。明日ですべてが決まる。すべてが……」 
「楽しみだな」 
「ああ……」 
 語り合いながら黒尽くめの男達は、ネオンの灯りが眩しいほどに輝く街道へと歩き出した。みなとは、じっと男達の背中を見つめている。 
 視線を感じたのか、黒尽くめの男の1人が、みなとの方へ振り向いた。みなとの肩が強張った、全身が凍ったように動かなくなった。瞳だけが、男を凝視している。 
 若い男だった。サングラスをかけているので、表情までは読みとれなかったが、白い首筋などを見れば、端整な顔立ちをしていることがよくわかった。 
 みなとは、ごくりと唾を飲み込んだ。足下が、寒々と震えている。この街、コガネシティでは、真夜中に街をふらついているような男と目が合うことは、そのまま死を意味すると言っても過言ではないのだ。ましてや、みなとは、巷で人気のアイドルである。 
 だが意外なことに、サングラスの男は、すこし微笑んだだけで、みなとから視線をそらした。歩いていく。男達は、ネオンの眩い灯りの奥へと消えていった。 
 男達の姿が見えなくなると、みなとはホッと胸をなで下ろした。ヘッドライトの光が瞬く。みなとは眩しそうに目を細め、こちらへと走ってくる白い車に目をやった。白い乗用車は、みなとの前で停車した。窓が開き、ドライバーは、みなとの方へ顔を出した。 
「ごめんね、みなとちゃん。遅れちゃって」 
 ドアから身を乗り出して、マネージャーが言い訳がましく、遅れてしまったことを謝った。 
「大丈夫です。それに私、そんなに待ってませんよ」 
 みなとは作り笑いをして、車の後部座席に座った。 
 エンジン音が響き、車は、騒がしいコガネシティの街を静かに駆けていく。街の騒音は、分厚いガラスに遮られて車内には聞こえない。窓の外を眺めながら、みなとは思い出していた。そして、考えた。 
 彼の――サングラスの男の微笑みの意味を。

 

○●

 同じ頃。 
 此花みなとが、明日開催されるコンサートライブの打ち合わせの為に、コガネ中央ホールへ向かう車中で、溺れるような苦しい仮眠をとっている頃。 
 コガネシティ郊外の自然公園。暗く静まり返った園内で、ゆかりは見つめていた。ベンチの上でタオルにくるまりながら、寝息をたてている瑞穂の、可愛らしい寝顔を。 
 公園には、瑞穂とゆかりの姿しか見当たらなかった。小さな虫の集っている頼りなさげな灯火の光を浴びて、瑞穂の顔は、いつもよりも更に白く見えた。 
 細く小さな指で、ゆかりは瑞穂の柔らかそうな頬に触れた。瑞穂は声にならぬ寝言を呟いて、寝返りをうっている。 
 ゆかりは思い詰めたような表情で、瑞穂を起こさぬように、静かに立ち上がった。草原の辺りを、遠い眼で見つめている。ゆかりは、数日前の事件を思い起こしていた。 
 地獄を見た。確かに、自分はあの時、地獄を見たのだ。森の奥、瑞穂が木刀で、自分達を襲った男達を殴り倒していくのを。吠え、狂ったように、意味不明なことを宣い、木刀が折れるまで男達を叩きつけていた。 
 確かめるかのように、ゆかりは俯いて、瑞穂の小さくて愛らしい寝顔を見据えた。信じられない気持ちの方が強かった。自分より年上とは言っても、瑞穂は所詮子供なのである。 
 だが、現実に瑞穂の小さな掌には、木刀で男達を殴り倒したときの痣が薄く残っている。間違いない。綺麗な水色の髪を振り乱しながら、男達を殴り倒した少女は、姉――瑞穂なのだ。 
 そう思う度に身体が震え、声が出なくなる。 
 あの事件以来、ゆかりは、瑞穂に話しかけられる度に身を強張らせ、引きつった笑みを見せるしかなかった。瑞穂は、ゆかりの態度の変化に気付いているはずだ。誰も何も言わないが、重苦しい雰囲気は確かにある。 
 そんなのはもう嫌だ。今までと同じように、瑞穂と接したい。心の中で、ゆかりは叫んだ。だが、心が瑞穂と接することを拒んでいるのも、また事実なのだ。 
 二の腕で、涙の浮いた眼を擦り、ゆかりは呆然と辺りを見渡した。息を呑む。言葉では説明できないような、懐かしい衝動が、ゆかりの身体を突き抜けていた。 
「ここ……お姉ちゃんと、出会った場所や……」 
 ゆかりは、誰にも聞き取れないような小さな声で呟いた。 
 瑞穂と初めて出会った場所が、今、自分達が夜を過ごしている自然公園だったのだ。あの時、この……ゆかりの目の前にあるベンチで、寂しそうに、疲れたように瑞穂は眠っていた。まだ寒い時期だった。ゆかりは声をかけて、瑞穂を起こし、ビスケットを一枚、分け与えてあげた。余程お腹が空いていたのだろう。ポケモン用のビスケットを、なんの抵抗もなく食べてしまったのだから。 
 ありがとう。瑞穂はそう言った。頬が熱い程に火照ったのを、ゆかりは今でも覚えている。嬉しかったのだ。どうして、その一言だけで嬉しく思ったのかはわからない。赤い夕焼けを背景に、微笑んだ瑞穂の優しげな顔は、ゆかりの記憶に今もなお焼きついて消えることはない。闇の中、病院の屋上で飛び降りようとした、ゆかりを救ったのは、瑞穂の優しい笑顔だったのだから。 
「お姉ちゃん……、優しすぎるんや。お人好しすぎるんや……」 
 その分、恐ろしかった。優しすぎるが故に、誰かを傷つけようとする者への怒りも激しかった。ゆかりは、瑞穂の暴走を目の当たりにしていたのだ。 
 普段の、穏和で優しい瑞穂の面影など微塵も感じられなかった。鬼と言ってもいい。鬼と言うに相応しかった。優しいが故に、感情を抑えきれなかった、哀しい鬼……。 
 瑞穂は滅多なことで怒るような少女ではない。少なくとも、自分自身のことでは怒ったりはしないだろう。強い子なのか……。ゆかりは思った。瑞穂は優しいながらも、強い意志を瞳に宿らせているのだ。だからこそ、強いからこそ、すべてを独りで背負い込んでしまうのかもしれない。当然、怒りも。 
 不意に、ゆかりは自分を情けなく感じた。瑞穂の優しさに守られているだけの自分が悲しかった。甘えていて、いいのだろうか? 本当は独りで生きて行かなくてはいけないのではないのだろうか? 
 胸の辺りが痛くなってきた。ゆかりは苦々しい表情で、駆け出していた。 
 今までずっと、瑞穂のことを、自分の姉だと思いこませてきた。甘えていたのだ。瑞穂にとっては、いい迷惑だったのではないか? 優しすぎる瑞穂だからこそ、何も言わずに、姉の役を演じてくれているだけではないのか? 
 余計な考えが、次から次へと頭の中に浮かんでくる。心細さが、胸に湧いてくる。頭の中の考えを振り払うかのように、ゆかりは自然公園を抜け、コガネシティをひたすら走った。 
 いかがわしい男達がじろじろと、走り続けるゆかりの姿を見つめている。数人の不良がゆかりへと近づいてきた。彼らの目には、不気味な色が浮かんでいる。ゆかりは立ち止まりもせずに、チッと舌打ちすると、目にも止まらぬ速さで、大きく手を広げた男達の脇をすり抜けた。男達は驚いたように、ゆかりを振り向く。 
「あんたらみたいな、アホに捕まるウチやないで!」 
 挑発するかのように舌を出し、ゆかりは男達を嘲笑い、叫んだ。いきり立ったように、数人の男達は大声で怒鳴りながら、ゆかりの後を追いかけていく。 
 ゆかりは、ニッと笑い、路地裏の闇に身を潜めた。男達が路地裏へと押し込んでくる。だが、そこに、ゆかりの姿は既になかった。

「ちょろいもんやな……」 
 あっさりと不良達から逃れたゆかりは、肩をまわしながら得意げに呟いた。夜のコガネシティなんて恐くない。なんといっても、ゆかりにとっては住み慣れた街なのである。昔は、何回か危ない目にもあっていたが、それは、もう慣れっこになっていた。 
 暗い路地裏を、しばらく歩いて、ゆかりは急に立ち止まった。目の前には、濁った灰色のビルがそびえ、黒雲に覆われた空へとのびている。 
 ゆっくりと、ビルを見上げた。玄関の上に小さく「パレス・コガネ」の文字が読みとれる。マンションの名前だ。マンションは名前に似合わず、今にも崩れ落ちそうなほど、老朽化が激しい。 
 小さく、ゆかりは顔をしかめ、落ち着きなさそうに掌を動かしている。 
 真夜中なので、静かに、音をたてないように、玄関からビルの中へと入っていく。どういうわけか、エレベーターの電源が落ちていた。しかたなく、ゆかりは階段を駆け上る。足音が響いた。一段、一段と足をかけるごとに、心臓の鼓動が激しく高鳴る。 
 古い建物だった。気休めのような、細々とした灯りに照らされた周りの壁には、細かいひび割れが見える。 
 402号室に着いた。茶色のドアの前で、息を切らして、ゆかりは立ちつくしていた。ドアのノブに手をかける。動かない。鍵がかかっているのだ。ゆかりはしゃがみ込み、足下に置いてある萎びたチューリップの植えてある植木鉢の下に指を入れた。何かが指に引っかかる。ゆかりは指を引いた。マリルのマスコット人形と一緒に、鍵が出てきた。 
 鍵を開け、402号室の中に足を踏み入れた。薄暗い部屋の中で、ゆかりは座り込み、辺りを見回した。自然に、深い溜息が出てくる。 
「ウチ……帰ってきたんや……」 
 呟いて、ゆかりはドアの方を振り向いた。黄色い傘が置いてある。自分の傘が。座り馴れたソファ。ほとんど座ったことのない学習机。8の部分が欠けてしまっている、テレビのリモコン。桃色の絨毯。煙草の煙で汚れた壁に刻まれた、微笑ましい落書き――。見るもの、視界に入ってくるもの、すべてが懐かしかった。 
 帰ってきたのだ。自分の家に。かつて家族と共に過ごした、我が家に。 
 楽しい思いでは皆無に等しかった。どちらかといえば、辛い思い出の方が多い。それでも、懐かしかった。故郷に帰ってきたような感じがした。瑞穂と一緒に旅をしていたときにはなかった、別の心地よさがあった。 
 深く息を吸い込んで、ゆかりは床に寝転がった。天井を見上げ、手を広げた。 
 長い時間が流れた。目を見開いたまま、暗い窓の外を見つめている。 
「何や……変やな……」 
 ゆかりは怪しむように呟いた。天井が……つまり五階が、やけに騒がしいのだ。忙しなく足音が響き、カセットテープを回すような音や、話し声のような音も聞こえる。 
 耳を澄まして、ゆかりは立ち上がり、ふらつく足取りで、部屋の外へ出た。上の階が騒がしいのとは対照的に、下からは何の音も聞こえてはこない。ゆかりは階段を駆け降りた。 
 三階には、人の気配がなかった。チャイムを押しても、ドアを叩いても、何の反応もなかった。 
 誰もいない……? あるのは、ただ、静寂だけだ。そう言えば、外からビルを見上げたときには、窓に明かりは見えなかった。いくら真夜中とは言っても、まだ12時だ。一部屋ぐらい明かりがついていても、よさそうなものだ。 
 このビルには、誰も住んでいない? そうとしか考えられない。 
 更に不思議なのは、五階だ。足音がしていたのに、明かりがついていなかった。五階だ。五階には、誰かがいる。ゆかりは五階へ上がろうと、階段に足をかけた。 
 なにがあるんだ、五階には。不気味な足音、機械音、囁き声……。廃墟と言ってもいい古びたマンションの秘密が、五階に集約されているような気がした。 
「こんな所で……こんな時間に……悪い子だ。悪い子供だ」 
 声が聞こえた。若い……青年といってもいい男の声が、階段に響いた。ゆかりは声のする方を見つめた。白衣姿の若い男がいた。上方の階段に腰掛けて、笑っている。 
 驚き、身構えるゆかりを嘲笑うかのように、白衣の青年は立ち上がり、語りかけた。 
「おっと……。驚かせてしまったようだ……。すまないね」 
 ゆかりは、いつでも逃げ出せる体勢をとって、青年に訊いた。 
「あんた……誰なん? ここで、何してるん? ここに住んどった人達は……」 
「上で……ゆっくり話そう」 
 大きくかぶりを振り、ゆかりは怯えたような目つきで、後ずさった。 
「い……いやや!」 
 青年は失笑した。腕を組み、勝ち誇ったように、ゆかりを見下ろしている。 
「逃げられないよ。キミは」 
 青年の言葉に意味に気付いて、ゆかりはすぐに背後を振り向いた。黒服の男が3人、ゆかりを取り囲むようにして立っている。 
 悲鳴をあげる暇もなかった。取り押さえられ、口をふさがれた。青年が、抵抗し暴れるゆかりに近づいてきた。懐から注射針をとりだし、ゆかりの腕に差した。薬を注入する。ゆかりは虚ろな瞳で、黒服の男を見て、続いて青年を凝視し、やがてぐったりと倒れた。 
「連れて行け。上に」 
 青年は、黒服の男達に命じた。冷たく、残忍さを帯びた口調だった。

 

○●

『計画は、順調。決行は、明日の正午。午前11時以降に「コガネ・パレス」の五階へ行け。詳しい資料を残しておく』 
 射水 氷は、その二行の文だけを確認し、ベッドの上に横になった。コガネホテルの、薄暗い部屋の中で、パソコンのディスプレイだけが、妖しく光っている。 
 来るべき時が、来たのだ。奴等にとって、最大の好機が。 
 半身を起こして、氷は部屋の周りを見つめた。真っ暗な窓の外には、星の輝きすらない。輝いているのは、獲物を狙う猛獣のような、自分の瞳だけ。 
 ギラギラと血を求めるように輝く瞳を眺め、氷は頭の中で、先程の考えを静かに修正した。 
 来るべき時が、来たのだ。奴等にとって……そして『私にとって』、最大の好機が。 
 パソコンの電源を消した。部屋の中は、完全な闇に包まれ、閉ざされた。闇の中で、氷は思い起こしていた。戻ってきたのだ。この部屋に。姉と最後に話した、この部屋に。 
 コガネホテルの303号室に……。 
 なぜ自分が、忌まわしい思い出のある、この部屋を指名したのかはわからない。いや、今までだって、自分は、あえて辛い思い出のある方へ向かっていた。復讐と称しながら、かつて自分を虐め抜いた、あの女に会おうとしたではないか。 
 なぜ、自分は、辛い道を選ぶのか。答えは見つからない。だが、その答えを見つけたとき、自分は幸せになれるのか? 
 ……そもそも……私に幸せになる権利など、あるのか……? 
 固いベッドに身を沈め、氷は目を閉じた。眠気が、頭をぼやかせていく。頭の中に、あの男の……頬にタトゥをした少年の言葉が響いた。 
(……人間は、存在自体が罪なんだ) 
 では、自分はどうなる? 朦朧とする意識の中、氷は考えた。償うことのできない罪を着せられ、挙げ句、人間でないモノにされた、自分はどうなる? 
 彼は……、あの男は間違っている。人間は、存在自体が罪なのではない。人間は、人間であることを意識したときから、延々と罪を背負ってきたのだ。一番最初に、人間が人間であることを発見した人間が犯した大罪を、今も人は知らない内に背負っているのだ。 
 そして、自分がいる。償われることのない罪のしわ寄せが、自分に降りかかってきたのだ。 
 緩やかに意識が途絶えていく。しばらくし、氷の寝言だけが聞こえはじめた。 
「私は……なんなの……?」 
 誰なのだろう。自分は。自分とは何なのだ―― 
 答えは、誰も知らない。知るはずがないのだ。その答えは自分の手で見つけだすべきものだから。

 

○●

 目覚めたとき。ゆかりは消えていた。寝ぼけ気味の目を擦り、瑞穂は自然公園を見渡した。だが、朝日に満ちた広場には人の姿は見えない。 
「ユユちゃん……? どこにいったの……?」 
 瑞穂は、公園のベンチから跳び上がった。もう一度、念を押すように辺りを見回し、慌てたように時計を見た。9時24分だった。 
 腕を組み、瑞穂は考えていた。……どういうこと? ユユちゃんは、どこにいったの? 
 何者かに襲われたり、さらわれたとは考えにくい。いくら熟睡していたといっても、ゆかりの助けを求めて大声を出せば、起きて気がつくはずだ。 
「まさか……」 
 自らの……ゆかり自身の意思で、立ち去った? 考えられるのは、それしかない。……でも、何のために? 
 そこまで考えて、瑞穂は思いだした。自然公園の近くには、コガネシティがある。コガネシティは、ゆかりの故郷。ゆかりが、かつて家族と住んでいた場所だったはずだ。 
「間違いない……」 
 瑞穂は呟き、コガネシティを目指して走り出した。 
 ゆかりは、自分の家に行ったのだ。瑞穂と出会うより以前に、家族と共に住んでいた、自分の家に。 
 何でもっと早く気付かなかったんだろう。瑞穂は、自分の頭を蹴飛ばしてやりたくなった。……でも……どうして私に黙って、自分が住んでいた家に行っちゃたんだろう……。答えは、すぐに見つかった。簡単なことだ。ゆかりは、見ていたのだ。今まで漠然と考えていたことが、一気に現実味を帯びて、瑞穂の背中にのし掛かってきた。 
 あの時……、暴走した私が、男達を木刀で殴り倒したところを見ていたんだ……。 
 事件以来、ゆかりの、瑞穂に対する態度が微妙に変わったのも、そのことが原因に違いない。 
 推測が、確信へと変化した。そう、ゆかりは、心細かったのだ。信じていた瑞穂に、信じられない形で裏切られ、ゆかりは救われたかったのだろう。 
 ふと、不安が瑞穂を襲った。……それは奇怪だ。ゆかりは、瑞穂に何も告げずに自分の家へと向かったのだ。つまり、瑞穂が目覚めるまでには戻ってくるつもりだったのではないか? もしかして、ゆかりは、何かトラブルに巻き込まれたのではないか……? 
 瑞穂の中で、不安が大きくなった。早く……一刻も早く、ゆかりを見つけなければ。 
 考えが纏まったと同時に、瑞穂はコガネシティに足を踏み入れていた。 
 さて、これからどうしよう。瑞穂は、新たな問題に、頭を悩ませた。……どうやって、ユユちゃんの住んでいた家を探す……? 
 あらかじめ住所を聞いておけばよかった、と瑞穂は後悔したが、今更そんなことを悔やんでも、遅い。 
「どこにいるの……ユユちゃん」 
 呟いて、瑞穂はコガネシティの人混みの中へと、進んでいった。

 

○●

 ころさないでください。 
 ……殺さないでください。なんて言った? 恥さらしで惨めな言葉を、もう一度……。 
 殺さないでください。 
 痣だらけの身体で身を捩り、涙か涎だか、よくわからない液体を床へと滴らせ、幼き少女は、許しを……いや、救いを乞うている。 
 少女は全裸だった。身ぐるみは数時間前に剥ぎ取られ、ゴミのように打ち捨てられた。 
「お前なんかに、服を着る権利なんて無いよ」 
 ご主人様に、上司に、あの女に、そう言われれば、少女は納得するしかなかった。納得しなければ、叩かれ、蹴られ、頬を容赦なく張り飛ばされるのだから。 
「お前は、何も人間語は喋らなくてもいいの。ただ、呻きをあげて、私を楽しませてくれればそれでいいの」 
 ご主人であり、上司でもある、あの女は言った。逆らうな。喋るな。なぜなら、おまえは人間ではないから。 
 身体が、どうのこうのと言う問題ではない。心すらも、人間であってはならないのだ。 
 あの女……。少女は、主人であり、上司でもある女を『あの女』と、心の中では蔑していた。 
 あの女。あの女。あの女……。何の権利があって、私を、壊すの? 私を壊そうとするの? 
 その女は、一位カヤという名だった。もっとも少女は一度たりとも、その名を口に出して言ったことはない。言ったら、殺される。何かを話したら、私は壊される。 
 恐怖が染みつき、いつしか少女は何も話せなくなった。言葉を失ったのだ。だが、完全に言葉を失ったわけではなかった。 
「許してください……」 
 惨めに白い裸体を晒しだして、少女は消え入りそうな、細い声で言うしかなかった。言ったとしても、許してもらえるわけがないのに……。 
 第一「許して」と言わなければならないようなことなど、何もしていないのだ。まるで自分の存在自体が罪であるかのように、あの女と目が合う度に、誰も知らない部屋に連れてこられ……。 
「殺さないでください……」 
 許しを乞うのだ。救いを乞うのだ。私を殺さないで。やめてやめてやめて。手首と、手足を縛られ、少女は壁に張り付けにされ、電気ポケモンの電撃を浴びせかけられたり、踏まれたり、刺されたり。時には、性器を弄ばれることもある。 
 やがて、床には鮮血が満ちる。赤い血ではない。黒々とした、ケガレた血が。 
 死ぬ。私は、死ぬ。違う。死ぬんじゃない……捨てられるのだ。冷たくなって、動かなくなって、ゴミのように捨てられるのだ。あの女にとっての私は、死ぬ者ではない。壊れる物……なのだから。 
「このままじゃ……私、死んじゃいます……」 
 『死ぬ』んじゃない。『壊れる』のよ。女は笑いながら言っていた。 
「壊れる……私、壊れちゃいます……」 
 口から、苦しそうに涎を流しながら、鮮血の泉で少女はのたうった。誰かが、少女の耳元で囁いてきた。優しい声だった。優しい声……。 
「大丈夫。あなたは、死なない……。絶対に死ぬことはない」 
 どうして? 訊きたかったが、少女の口から言葉が発せられることはなかった。どういう意味なの……? 姉さん……。 
 確かに姉の声だった。耳元の優しい囁きは、間違いなく姉の声だった。 
「あなたは絶対に死ぬことはないのよ……なぜなら……」 
 少女は、姉の答えを待った。頭の中を衝撃が走るまでは。 
 手首の縄が擦り切れた。少女の身体は、はり倒されて、吹っ飛んでしまったのだ。 
「お前は、もうとっくの昔に死んでいるんだ。だから、これ以上、死にようがないんだよ」 
 あの女の、けたたましい叫び声が響いた。姉の優しい声は、どこかへ消えていた。空耳だったのだ。もう、自分は狂っているのかもしれない、とさえ少女は思った。 
「これが、証拠だよ」 
 苦しそうに横たわる少女を羽交い締めにし、あの女はポケットから紐をとりだした。少女の首に巻き付け、紐をぐぃと絞める。少女は顔を歪ませ、暴れた。涎が口から溢れる。溢れて、首もとの、あの女の手を濡らした。 
 白目を剥いていた。少女は、真っ赤に染まっていながらも蒼白な裸体のままで、死んでいたのだ。 
 女は、動かない少女を蹴り飛ばした。死んでいた筈の少女の指が、ピクリと動いた。ニヤリと、いやらしい笑みを浮かべ、女は腰につけていた、ポケモン用の電磁ネットを手に取った。 
 少女の屍体の背中を突き破り、無数のアーボが顔を出した。憎悪を剥き出しにして、アーボ達は女へと向かっていく。 
 女は電磁ネットを放った。電磁ネットは展開し、少女の屍体を取り囲んだ。アーボが苦しそうに身を捩り、倒れていく。少女の屍体が立ち上がり、膨らんだ。 
 全身の皮を突き破り、アーボ達が飛び出してきた。少女は異形の化け物へと姿を変えていた。だが、姿を変えたところで、電磁ネットを破ることはできなかった。 
 萎んでいく。少女の異形の身体は、元の小さな可愛らしい子供の姿へと戻っていた。死んでいた筈の少女は、目を見開いた。立ち上がり、怯えたように女の方を見た。 
「勝手に逃げることも、死ぬことも、私は許さないよ……。だって、お前は、私の……最高のペットなんだから」

 またか。また、発作が起きたか。過去のことが、過去の恐ろしい思い出が、急に幻のように目の前で再生される、発作が。 
 雪のように白い肌を、寒々と撫でながら、氷は首を小さく横に振った。否定しているのだ。……私は、あんなに惨めだったか……? 
 理性は答える。そうだよ、さっきのように、私は惨めに怯えていたのだ。だが、感情は頑なに反論する。違う! 私は惨めじゃない。惨めじゃない。惨めじゃない。 
「どっちでもいい……。私は、今、私のやらなければならないことをするだけ……」 
 理性は自分に、そう言わせる。だが、感情は納得しない。 
 否定しろ! 私は虐められてなんかいない。惨めなんかじゃない。どっでも、よくない! 
 氷は、キッと窓の外を睨みつけた。理性が、感情を抑えていくのが、自分でもわかる。 
 ベッドから立ち上がり、鏡の正面にある時計をチラリと覗いた。9時48分か。問題の時間までには、まだ多少の余裕がある。 
 氷は鏡を見つめながら、首筋を撫でた。細く、白い首筋には『sl/Hsf23-0s(y)』と刻印がなされている。 
 時が来たのだ……。鏡に映った、美しい自分の姿を見つめながら、氷は思った。あの女を……カヤを、今度こそ殺してやる。 
 氷の黒いワンピースを、窓から入り込んだ日の光が、妖しく照らし出していた。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。