水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#7-1

#7 視界。
1.魂に再会すると

 

 

 

○●

 異常だ。 
 風を切り空気を凍えさせ、雲の間を縫うように飛びながら、伝説の蒼い光は思っていた。 
 翼を振り、空を翔るその姿は、まさに伝説の名に恥じないほど優雅で気品に満ちている。 
 激しく鳴いた。野太い声が雲の中に響きわたった。 
 まるで不安に駆られるように飛び続けた。本来ならば、来てはいけない場所であるにも関わらず。 
 異常だ。もう一度、確かめるように考えた。おかしい。空気が乱れている。空も、雲も、太陽も、朝も、昼も、夜も、星も、月も乱れている。なにか強大な力によって、この星を構成する全てが、ねじ曲げられたようだ。 
 それ故に不安なのだ。 
 動揺していた。すぐそこまで接近している人間の気配にすら気づけぬ程、集中力が落ちていた。 
 ライトが眩しく光る。鋼の機体が唸りをあげて近づいてきた。人間の造り出した鋼の鳥であった。二発、誘導弾を鋼の鳥は発射した。身を翻しそれを避け、迎撃体勢にはいった。体の輝きと同じ青い光を、口から吹いた。爆音を響かせながら雲の中に消え、鋼の鳥は気配を消した。蒼い光線は雲を突き抜け、上方へと飛んでいく。辺りを見回す。下だ。 
 そう感じたときにはもう遅かった。鋼の鳥の先端から針のようなものが打ち出され、首筋に刺さった。痛みは感じなかった。なにも感じなかった。感覚が消えていた。 
 そして、知らないところで、意識しないうちに時は流れる。 
 感覚が、意識が戻ったのは、すべてが終わった後のことだった。

 

○●

 黒の嵐だった。 
 雪の嵐が止んだかと思えば、今度は涙の洪水が巻き起こっているのだ。 
 涙の一滴一滴は、ごく僅かであるが、すべてを集めれば雨を降らし、海をつくることができる。海は生命を生んだ。海が神の涙であって欲しい。意味もなく、そう思った。 
 生暖かい雪解けの風が、俯いている皆の間をすり抜け、少女の頬を貫いた。枯れ葉が落ちる。誰も、これから腐っていこうとする木々の方を見ようとはしない。すべては終わったのだ。 
 太陽が照り光り、それまで虐げられてきたことの欲求を吐き出していた。今日、熱射病で死んだ人間は、独りよがりな太陽の不幸な犠牲者だろう。 
 犠牲者。その言葉が心に引っかかり、瑞穂は胸が詰まった。表情が歪んでいないか、気になって窓ガラスに映りこんでいる自分の顔を覗き込む。いつもと同じだ。ただ、瞳に涙がたまっていることを除いて。 
 泣いてはいけない。自分に言い聞かせた。泣いてはいけないのだ。すべては終わったのだから。 
 鼻を啜り、瑞穂は、隣で俯いているゆかりの手を強く握った。ゆかりは驚いた様子で瑞穂の顔を見たが、すぐにまた俯きに戻った。ゆかりの眼は赤く腫れている。 
 棺が運ばれてきた。遺族の1人に無言のまま勧められ、瑞穂は棺を覗いた。あの時のままだった。彼の蒼白な顔は、どこか微笑んでいるように見える。 
 特別に美しいというわけではなかったが、どこかに人を和ませるような暖かみがあった。 
 棺の蓋を閉じ、釘を打つ。小石を手に持ち、遺族が打ちつけていく。音が鳴る。鎮魂歌か。 
 枯れ葉が踏まれた。誰かに。音をたて、ちぎれる。皆、棺を見つめていた。 
 竈の中に棺は押し込められ、前面に位牌と遺影が置かれた。彼は笑っている。 
 焼香した。瑞穂とゆかりもそれに続いた。竃に火が入り、煙と煙が空へと昇っていく。そして彼も魂も。もう二度と話すことも、触ることもできない彼は、雲の奥へと消えていった。 
 喪服姿の人々は、流れるように控え室へと入っていく。瑞穂もそれに続こうと思い、竃に背を向けた。 
「あの……」 
 自分を呼ぶ声に気付き、瑞穂は振り返った。中年の女性が独りで立っていた。気丈にも、その眼に涙はない。ゆかりに、控え室へ行っているように、と眼で合図をし2人きりになると、瑞穂は訊いた。 
「私……ですか?」 
 彼女は頷いた。また、生暖かい風が吹き、瑞穂の黒い服は揺れた。 
「私は、氈瓜トウガの母の、氈瓜ナエといいます」 
 ナエと名乗った女性は、軽く頭を下げ一礼した。瑞穂は彼女を見た。 
 彼女の顔は、彼の優しげな表情と、とてもよく似ていた。

 キキョウ通り沿いの喫茶店『枸櫞』に入り、ナエと瑞穂は腰を下ろした。 
 ナエはコーヒーを、瑞穂はナエに勧められて、レモンティーを注文した。ウェイトレスが去ると、瑞穂は訊いた。 
「あの……」 
「なに?」 
「こんな時に、喫茶店なんかにいて、大丈夫なんですか……? あ、余計なお世話ですね――」 
 運ばれてきた御絞りで手を拭きながら、ナエは息をはいた。窓の奥に目をやる。視線の先には騒音とともに黒い煙を吐きながら、車が行き来している。 
「まぁ、大丈夫ということはないけど、会葬者のお相手は夫がしてくれているし、それになにより……」 
 ナエは視線を落とした。人気アイドルの新曲がBGMとして流れている。耳障りだった。 
「どうしても、できるだけ早く、あなたと話がしたかったの」 
 彼女は顔を上げ、瑞穂の白く可愛らしい顔を見つめた。そこに、どこか既視感のようなものを感じて、ナエは目を見開いた。 
「あなた、どこかで見たことがあると思ったら……此花みなとに似ているって、言われない?」 
 此花みなと、とは可愛らしい童顔と抜群の歌唱力で、最近注目を浴び始めた人気アイドルのことである。今、流れているBGMも、此花みなとの曲だ。ナエは、それで思い出したのである。 
「はい……よく、言われます……。それよりも、あの、私と話がしたかったって、どういう意味ですか?」 
「トウガの……あの子の最期を聞きたいの」 
 瑞穂は止まった。眼を伏せ、声を絞るように言った。 
「すみませんでした……」 
「あなたが謝ることはないわ。あなたのお陰で、トウガは無駄に死なずにすんだんだから……。そうだわ、これを……」 
 ナエは懐から小さなバッジを取りだして、瑞穂に見せた。そのバッジがキキョウジムのジムリーダーに勝った証の、ウイングバッジであることに気付き、瑞穂は驚いた様子で、ナエを見やった。 
「どうしてこれを……? それに、なぜそのことを……」 
「昨日、キキョウジムのハヤトさんにお会いしてきたの……そこで、今日、あなたに逢うことをお伝えしたら、このバッジを渡すように頼まれたの」 
 バッジを受け取り、瑞穂は背中に汗が浮いていることに気付いて、体を震った。本来、貰うべきものでないことは解っていた。これは、自分が貰うべきものではない。だが、このバッジを受け取るべき人は、もう、この世にはいない。いないのだ。 
 胸が痛んだ。ナエも同じことを思っているらしく、顔を伏せている。 
「本当に……すみませんでした」 
 深く頭を下げた。瑞穂の肩は小刻みに震えている。ナエは慰めるように応えた。 
「謝らないで……。それよりも、聞かせてくれる? あの子のこと……」 
 小さく頷き、瑞穂はナエの顔を直視した。強い日差しがガラスで反射し、2人は眼を細める。もう、こんな形でしか償えない。そう思っていた。 
 もう、こんな形でしか、彼の魂とは再会できないのだから。

 

○●

 その日は雪が降っていた。 
 いや、その日に限らず、ここ数日、季節外れの大雪が続いていたのだ。気象予報士が口を揃えて異常気象と言っていた。原因は、特殊な寒気団によるものらしい。 
 さすがに、こうも雪ばかりが降り続けると、瑞穂もゆかりもいいかげんに飽きてくる。足を取られて歩きにくいし、着衣に雪が染み込むと、冷たいのだ。ゆかりなどはあからさまに空へ向かって罵倒を浴びせたほどであった。 
 だが、その日は違っていた。瑞穂だけでなく、ゆかりすらも雪に見とれた。美しかったのだ。それまでの不満を忘れさせてくれるほど青く澄んだ、輝きの雪。 
 瑞穂たちはキキョウシティ近くに差し掛かり、休憩所でひとまず休むことにした。そして雪に見とれた。 
「ねぇ、ユユちゃん」 
「ん……なんやの?」 
 言葉に反応し、ゆかりは瑞穂の方を向いた。 
「ここ数日、変な天気が続くね」 
「そやね……」ゆかりは頷く。「けどもう、ええ加減飽きてきたわ」 
「うん。こんなにずっと雪が降ってたらね……さすがに飽きちゃうよね」 
 美しいが、単調に降り続ける雪を眺め、瑞穂は小さく溜息をついた。ゆかりは肩をすくめ、灰色の空を仰ぐ。空はいつもと変わりはしない。いつまでも同じ。 
「変な天気って言うたら……何週間前やったかな、お姉ちゃんと出会う、ちょっと前にな……」 
 目線を遙か遠くへ向け、ゆかりは話し始めた。信じられないようなものを見たような眼をしていた。
「満月が続いたんや」 
「え?」 
 息を呑み、瑞穂は聞き返した。胸が奇妙な音をたてて鳴っているのが自分でもわかった。 
「それって……」そこまで言い、瑞穂は慌てて口をつぐんだ。 
「あの時、ウチ独りで家にいたんや。暇やったから、ずっと空みてて気付いたんや。あの日、2日連続で満月やった。昨日も、今日も満月やったんや」 
 ウチの気のせいかもしれへんけどな。その、ゆかりの付け足しは聞こえていなかった。瑞穂には、目の前で舞う雪が、なにか別のものに見えてきた。ぼやけてきた。 
 喉が意識してもいないのに唸っている。悲鳴のようなものが聞こえた。しかし、瑞穂の耳には入らなかった。羽ばたきの音。ゆかりが肩を揺すっている。激しく。 
 二度目の満月。あの時、リングマグライガーの背後に光っていた星は満月。満月だった。気のせいではなかった。たしかに自分は、2日連続で満月を見たのだ。たしかに月は、昨日も今日も満月だったのだ。なぜなのかは見当もつかない。ただ一つだけ言えることがある。 
 異常なことだ、ということだけ。 
「お姉ちゃん!」 
 大声でゆかりは瑞穂に言った。瑞穂はハッとして立ち上がった。次の瞬間、目の前を無数の羽音をたてながら、オニスズメの集団が通過した。羽ばたきの風が砂雪を巻き上げ、瑞穂は思わず顔を覆う。 
 羽音が過ぎ去った。なにか叫き声のような音が聞こえる。悲鳴のような音も、はっきりと聞こえる。瑞穂はすぐに駆け出し、いまだに風の震える中、オニスズメの集団を眼で追いかけた。 
 オニスズメは怒っている。凄まじい雄叫びを聞いて、ハッキリと感じた。怒りの対象は、なんなのか。そう思い、瑞穂は視線をオニスズメの追いかける方向へと向けた。 
 炎だ。白く赤く燃え上がる炎だ。見た途端、みるみる額に汗が浮いた。 
「あ……あれは……」 
 深く積もった雪に足を奪われながらも、瑞穂は走り出した。ゆかりが慌てて後を追いかける。 
 赤い炎は一瞬で白く翻り、飛び上がっている。喫驚し足がもつれ、そのまま瑞穂は雪の中に倒れた。ゆかりが寄り添い、なんとか抱き起こす。口に入った雪を吐き、ゆかりに礼を言い、空を見上げる。 
 どんよりと灰色に染まっている空の一点に、白い炎が揺らめいていた。 
 瑞穂はそこに馬の姿を見た。白い炎は、またメラメラと赤く濃くなる。影兎という言葉がよく似合った。着地し、たてがみが真の炎であることに気付いた。馬は尻尾を振り、火の粉が舞う。威嚇しているようだった。 
ポニータ……あれはポケモン……」 
 駆け寄りながら瑞穂は譫言のように呟いた。ポニータという名の馬のようなポケモンは尻尾を降り続けている。ポニータの周りの雪は水蒸気となり、後には茶色い地肌が剥き出しになった。 
 オニスズメポニータを睨み付けている。そして、鳴いた。オニスズメ集団の親玉による合図で一斉に襲いかかった。 
 よく見ればポニータは、盛んに燃えるたてがみ以外は、すり切れ、そこから血が滲み出ていた。オニスズメにやられたのだろう。長期間、駆けていたせいか、息も荒い。 
 瑞穂は跳び上がり、オニスズメの大群を押しのけモンスターボールを投げた。グライガーが飛び出す。突然のことに驚いたのか、怯んだのか、オニスズメの大群は少しだけ後退した。 
「こんなに大勢で、一匹を苛めるなんて卑怯だよ……。グラちゃん。オニスズメたちを追い払って!」
 そうだよ。卑怯、アンフェアだよ。こんなに大勢で。それに、よく見るとこのポニータ、まだ子供だし。 
 相手を傷つけない程度にグライガーがハサミを振るのを見ながら、瑞穂はポニータの首筋を優しく撫でた。先程は遠くから見ただけで熱く感じた、たてがみの炎だったが、今は不思議なことに、なにも熱くない。 
「グラー……ッ!」 
 鳴き声と雪が弾けた。雪の上に傷だらけのグライガーが横たわっている。相手が多すぎたのだ。瑞穂はグライガーを抱きかかえた。全身に嘴でつつかれた跡が残っている。思わずオニスズメを睨んだ。 
 オニスズメの一匹が執拗に瑞穂の胸に抱かれるグライガーに襲いかかろうと、嘴を前面に突きだした。 
 瑞穂は再び睨んでしまった。 
 拳が飛ぶ。血が舞った。雪が真紅に染まった。 
 激痛を感じ、手の甲を見て、瑞穂は息を呑んだ。皮が剥がれ、赤い血が滴っている。 
 殴っていた。 
 襲いかかったオニスズメの一匹が雪の上に転がっている。嘴が、あり得ない角度に曲がっている。オニスズメの一団が、明らかに狼狽えていた。 
 それまで人間の事など馬鹿にしていたのだ。自分が追いかければ逃げ出す。人間など、飼っているポケモンさえいなければ非力だ。そう思いこんでいた。常識が通用しない。目の前に立っている小さな少女ただ独りに、オニスズメたちは恐れ戦いていた。 
 瑞穂の膝は震えている。手の甲の出血は止まる気配がない。傷ついたグライガーが喘いでいる。瑞穂はリングマモンスターボールに手を伸ばしかけた。しかし途中で、首を振った。 
 自分でやるべきだ。なぜかそう思った。なんの前触れもなく。自分のポケモンを守るために、自分のポケモンを戦わせ傷つけても意味がないではないか。グラちゃんも、リンちゃんも、いつも私を助けてくれる。こんな時ぐらい、自分の力で守りたい。自分のポケモンもロクに守れないで、なにがトレーナーだろう。 
 ポケモンの力を借りなければ、自分のポケモンを守れないのなら、ポケモンポケモントレーナーになった方が、まだマシだ。 
 自棄を起こしたのか、意地になっているのか。それは瑞穂にも解らなかった。 
 瑞穂の気持ちに、オーラに圧倒されているのか、オニスズメの大群は微動だに出来ないでいた。たった独りの少女を相手に、である。一斉に襲えば、すぐに命を奪うことができるではないか。 
 誰も動かない。羽ばたきの風だけが瑞穂のシャツをなびかせている。 
 グライガーを抱く力が強くなった。ずっと見つめる。そうしないと負けてしまいそうだった。 
 痺れを切らし、オニスズメの親玉が雄叫びをあげた。誰も襲おうとしない。オニスズメの親玉だけが鋭い嘴を向け、接近してきた。風が舞い起こり雪吹雪が起こった。 
 睨んだ。瑞穂は傷ついていない方の拳をオニスズメに振り上げた。 
「ダメ……、なにもしないで。私は守りたいの。やめて……」 
 呟いていた。自分の声を聞きながら、瑞穂の体は浮き上がり雪の上に倒れた。瑞穂の拳を難なく避け、オニスズメが羽で激しい風を舞い起こしたのだ。 
 三度、親玉は啼いた。金縛りにあっていたような一群が、一斉に瑞穂へ襲いかかろうとした。 
「くっ……」眼を閉じた。ゆかりの呼ぶ声が聞こえる。 
 体中に痛みを感じた。つつかれている。鋭い嘴が瑞穂の白い皮膚に次々と食い込む。叫び声をあげた。負けるもんか。そう叫んだつもりだったが、結局ただの悲鳴に変わった。 
 情けない、非力だ、無力だ。そう思った。意識が遠くなる。強い風が吹いた。意識が流れた。 
 気を失ったら負けだ。気力で意識を引き戻し、ゆっくりと目を開けた。 
 オニスズメたちは、もうそこにはいなかった。体中の痛みも消えていた。体を起こし、辺りを見回して、瑞穂はそこに、それまでとは比べものにならないほど巨大な鳥を見た。 
「あ……! このポケモンは……」 
 長く鋭利な嘴と、凛々しく厳しい瞳がオニスズメたちを怯えさせていることに気付いて、瑞穂は立ち上がった。オニスズメの進化形である。啼かない、特に威嚇するわけでもない。だがオニスズメたちは恐れている。 
オニドリル……! 乱れ突き!」 
 突然、空から声が聞こえた。何かが着地した音を聞き、瑞穂は後ろを振り向いた。 
 穏やかそうな少年だった。雪をクッションにして空から舞い降りた少年は、意思の強さが凝縮されているような、黒く輝く瞳で、オニスズメたちを見つめていた。 
 オニドリルは嘴を大きく振った。空気が音をたてて震える。オニスズメたちは恐怖に駆られ、弾き飛ばされたように空へ空へと散っていく。後には親玉と、傷ついたオニスズメだけが残された。 
 胸を張り、今度こそ威嚇するようにオニドリルは啼いた。悲鳴をあげながら親玉も逃げだした。 
 少年は前へ歩み寄ると、瑞穂の足下に転がっている傷ついたオニスズメを抱き上げた。弾かれたようにゆかりが抱きついてくる。瑞穂の手の甲にある傷を見て、ゆかりは顔をしかめた。 
「あ……あの、助けてくれてありがとう」 
 礼を言う瑞穂の顔を、少年は睨み付け、すぐさま腕に抱いたオニスズメを見せつけた。オニスズメは苦しそうに身を捩っており、折れ曲がった嘴からは血が流れている。 
「非道いじゃないか……こんなことするなんて……」 
 唇を噛みしめ、少年は怒ったような口調で、瑞穂に言葉を叩きつけた。呼吸の小さくなっていくオニスズメを目の当たりにし、瑞穂はしょんぼりと俯いた瞳を地面へ向ける。 
「それは……その……」 
「理由なんて聞いても仕方がない。オニスズメを傷つけたのはキミだろ? だからあんな目に逢うんだ。自業自得だよ」 
 力なく項垂れたままの瑞穂の手に、傷があるのを見て、少年は語調を少しだけ弱めた。少女の後ろには、傷ついたポニータグライガーが心配そうな眼差しを向けている。 
「ふう……とにかく、ポケモンセンターに行こう。ここじゃ、ゆっくり話せないし」 
 少年が手をあげ合図をすると、オニドリルは跳び上がり虚空に消えた。それを目で追い、少女の方を見ずに、少女の手を握る。驚くほど柔らかい感触が握り返してきた。 
 蒼い雪が降り続く。地面に残る幾つもの血痕が、少しずつ消えていく。瑞穂が小さく息を吐くと、いつの間にか息は白い結晶に変わった。見つめたまま動かない。 
 それが彼との出会いだった。たった、それだけの出会い。

 

○●

「そうなのよ……。鳥ポケモンに関しては、うるさかったから。あの子は」 
 ナエは溜息をついてから、苦笑した。そこにどこか寂しげなものを感じたが、瑞穂は口には出さなかった。 
「それから、私とトウガ君は、キキョウシティのポケモンセンターに行ったんです」 
 瑞穂がそう言ったところで、ウェイトレスが注文されたコーヒーとレモンティーを運んできた。 
「はい、お砂糖、どうぞ」 
「ありがとうございます」 
 ナエは沈み込んだ瞳のまま、瑞穂にグラニュー糖の入ったスティックをを手渡した。グラニュー糖をレモンティーに入れ、掻き回す。ナエはじっと瑞穂の手元を眺めていた。カチャリと音をたてながらカップを持ち、コーヒーを啜り、ナエは仰ぐように天井を見つめる。まるで息子が天井で待っているかのような眼差しだった。瑞穂も天井をみた。 
 誰もいなかったが、心が揺らめくような不思議な感覚はした。 
「トウガ君……始めは、すごく怒ってたみたいでした。無理もないですよね。私、トウガ君の大好きな鳥ポケモンを傷つけちゃったんですから……」 
「でも、あなたが、人が相手であろうと、ポケモンが相手であろうと、暴力を振るうようには、とても見えないんだけど」 
「私、怒ると……キレちゃうと、変になっちゃうんです」 
 瑞穂は肩をすくめた。 
 こうして向かい合っていると、目の前の少女が怒るさまなど、想像もできない、とナエは思った。 
「でも、あなたが悪いわけじゃない。あなたは、助けた。守った。むしろ、正しい事をしたと思うわ」
「そうでしょうか……」 
「どうして……? それじゃ、そのままポニータを見殺しにした方が正しかったと思うの?」 
 ナエはカップを置き、レモンティーを見つめる瑞穂の顔を直視した。 
「それはそうですけど……。あのとき……言われたんです」 
「誰に……。もしかして、あの子に……?」 
 頷くと、瑞穂は胸に手を当てた。少しばかり痛みに耐えているようだった。 
「あの子に……なんて言われたの?」 
 水色をした瑞穂の髪がかすかに揺れた。レモンティーを掻き回しながら、黙ったままで、なにも言わず、頬には汗が浮いている。暑いのだ。 
 ナエは扇子を取りだして扇ぎだす。やがて、瑞穂は消え入りそうな声で語り始めた。涙声だった。胸を突かれたような痛みを、ナエも感じた。

 

○●

 キキョウシティは、普段は伝統のある美しい街なのだという。だが瑞穂自身は、そうは思えなかった。先程眺めた雪があまりに美しかった反動であろうか。車が排ガスを撒き散らし、雪をはね除け、後には黒く汚れた泥雪が辺りに散らばっている。空には黒雲が漂い、寒々とした空気が流れていた。 
 ポケモンセンターの窓から、キキョウシティの景観を眺めながら、瑞穂は溜息をついた。自分のポケモンを守るためとはいえ、この手で殴りつけたのだ、ポケモンを――。 
 傷つき、包帯を巻かれた手の甲を、瑞穂は握りしめた。痛みが頭の頂点まで響いてくる。そばにいたゆかりが、不安げに顔を覗き込んできた。 
ポニータは、たいしたケガじゃないみたいだよ」 
 声が聞こえた。瑞穂が振り向くと、少年は溶けた雪をはらいながら、歩み寄ってきた。 
「でも……」少年の顔が曇った。「オニスズメの方は……」 
「酷いの……?」 
 頷きながら少年は、口元を手で撫でた。 
「命に別状はないみたいだけど、当分は飛べないそうだよ」 
「あっ……。そ、そう……」 
 瑞穂の肩が震えていた。掠れたような声しか出なかった。 
「ごめん……」 
「ボクに謝られても……。謝るなら、オニスズメに直接、謝りなよ」 
 項垂れたまま近くのソファに座り、瑞穂はオニスズメに襲われるまでの経緯を説明した。黙ったまま、少年は瑞穂の話を聞いていた。少年は話を一通り聞くと、タオルを瑞穂へと手渡した。そこで始めて、瑞穂は自分の体が濡れていることに気付いたのだ。 
「ここ数日、変な天気が続いていただろう? だから、オニスズメたちのストレスは、頂点に達していたんだ。きっと、あのポニータは、オニスズメの縄張りに勝手に踏み込んだんだよ――だから、襲われた。」 
 少年は言ったが、瑞穂は納得できないでいた。 
「たったそれだけのことで、あんなに大勢で、たった独りのポニータを襲うの? 卑怯なんじゃないかな……そういうの。卑怯だよ」 
「敵だと思ったんだよ」少年の眉が厳しく歪んだ。 
「自分達の、一族の生命を脅かすような敵が来たと思ったんだよ。そんな敵に甘い態度で臨んだら、殺されてしまうかもしれないんんだよ? オニスズメの一匹一匹は、とても弱いんだ。敵は大勢で追い払わなければ、逆に皆殺しにされてしまうかもしれないんだよ? それでもまだ、卑怯って言うの?」 
「その……それは……」 
 瑞穂は、しどろもどろになり反論すらできなかった。少年は続ける。 
「大体、いくら自分のポケモンを守るためとはいっても、あそこまでオニスズメを傷つけるなんて、普通じゃないよ。やりすぎだ。オニスズメは、どうなっても――傷ついても――いいとでも思っているの?」 
「そやけど、あのとき、お姉ちゃんは、ああするしかなかったんや」 
 俯いたままなにも言えないでいる瑞穂を見かねて、ゆかりが口を挟んだ。ゆかりの口元は、やるせない気持ちからか、曲がっている。 
「あのとき、お姉ちゃんがオニスズメを殴らんかったら、お姉ちゃんや、お姉ちゃんのポケモンは、もっと酷いケガしてたかもしれへんのやで。そんな、偉そうにいわんといてや」 
「それじゃ、オニスズメはケガをしてもいいと思っているんだね?」 
「誰も、そんなこと言ってへんやん!」 
「そう言っているようにしか聞こえないよ。自分のポケモンだけが可愛くて、自分のポケモンだけを守って、他の可愛くもない野生のポケモンなんて、どうなってもいいって、キミは思っているんだろう? その考え方の方が、よっぽど卑怯だよ!」 
「ちゃうわい! お姉ちゃんは、卑怯やないわ!」 
「もう、やめて……。やめてよ……」 
 蹲るように頭を抱え込み、瑞穂は呻いた。 
 少年は我に返ったように辺りを見回し、瑞穂へと視線を移して頷いた。ゆかりは憤ったまま立ち上がり、ソファを蹴り飛ばすと、どこかへ走り去ってしまった。 
 気まずい沈黙が続いた。少年は沈黙を断ち切るように言った。 
「その……言い過ぎた。ごめん」 
「ううん。私がオニスズメを傷つけたのは本当のことだもの。それに、あなたの言ったことの方が、正しいと思うし……」 
 ゆっくりと少年は首を振った。瑞穂は不思議そうに少年の顔を見つめ、言った。 
「私の名前……まだ言ってなかったね。私は瑞穂。みずみずしいの瑞に、いなほの穂」 
 良い名前だね。少年は微笑み、瑞穂のかすかに濡れた髪に見惚れた。 
「ボクはトウガ。ふゆの冬に、われわれの我」 
 しばらく、お互いは顔を見つめ合う。そして、トウガはゆっくりと言い聞かせるように呟いた。 
「自分だけが、正しいとは思わない方がいいんだ。ボクも、そうだよ――」 
 瑞穂は頷く。水色の髪から澄んだ雫がしたたり落ちた。 
「キミは正しいことをしたつもりかもしれない。誰も傷つけたくないキミの気持ちは解る。ボクだって誰も傷つけたくはない。でも、結局、みんな傷ついた。キミも、キミのポケモンも、ポニータも、オニスズメも、みんな傷ついたんだ」 
 髪に染みた雫を拭いながら、瑞穂の瞳は潤んでいる。泣き出すかと危ぶんだが、意外なことに、瑞穂は口元を引き締め、はっきりした声で答えた。 
「そうだね……、絶対に間違っていることはあっても、絶対に正しい事なんて存在しないのかもしれない。みんな自分が正しいと思ってるし、みんな自分が間違っているとは思いたくないもの」 
 正論なんて所詮は虚しいもの。人間は自分だけを正しいと思っているから。 
 遠くから、ゆかりが苛立ち紛れに床を踏みならす音が聞こえてきた。 
 所詮は虚しいもの。結局は空虚なもの。いずれは消え去る、蒼い雪のように。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。