水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#10-3

#10 過去。
  3.死劇の発端

 

「どうして……どうして、あんなことしたの!」
 塚本大樹は、震える声で訊ねた。彼の顔は蒼白だった。せわしなく手元にある布団を握り、ひどく興奮した様子で目の前にいる瑞穂に詰め寄っていた。
 何も言わずに、瑞穂は俯いている。目に涙を浮かべ、まるで怯えてでもいるかのようにベッドに座り込んでいた。ヒメグマが心配そうに瑞穂の素足を見つめている。彼女の足の裏には、ガラスの破片で切ったとおぼしき傷があった。
「瑞穂ちゃん――大丈夫?」
 少女の足の傷に消毒液をつけながら、桃谷望は瑞穂の顔を覗き込んだ。瑞穂は何も答えない。掌で顔を覆い、肩を小刻みに震わせているだけだった。
「黙ってちゃ、わからないだろう?」
 いくらか声を落として、大樹は大きく息をついた。思わず望と目があった。彼女の右目は、大樹を鋭く睨み付けていた。
「そこまで責め立てなくてもいいでしょ、塚本君」
 望の口調は大樹を責めているようだった。
「どうして、そんな瑞穂ちゃんに、きつく当たるの? 瑞穂ちゃんは何も悪いことはしてないのに――」
「そう――瑞穂ちゃんは、何も悪い事なんてしてないよ。なのに、どうしてこんな事をする必要があるの? こんなに瑞穂ちゃんが苦しまなきゃならない理由がどこにあるの?」
「瑞穂ちゃんを苦しめてるのは、塚本君じゃない!」
「ぼくのせいにするの? あのね桃谷さん。このままにしておいたら、瑞穂ちゃんはまた同じ事を繰り返すよ? それでもいいんだね?」
「だれも、そんなこと言ってないでしょ。私はただ――」
 瑞穂は呻くような声を出した。
「やめて……やめてよ!」
 顔を上げ、愁いに満ちた瞳で望と大樹を見つめていた。目から涙が溢れ出ている。大樹は無言のまま瑞穂の方へと向き直っていた。先程よりは、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。
「あ……ごめん。瑞穂ちゃんを責めるつもりはなかったんだ。ただ――メチャクチャだよ。いくらなんでも、やりすぎだよ。わかってるの? 自分が何をしたか……」
 項垂れ、瑞穂は小さく頷いた。唇が震えている。青ざめた指先で首筋を撫でながら、焦点のあっていない瞳を泳がせていた。指の隙間から、赤く腫れた首筋が覗いている。
「自分の部屋で首を吊るなんて――ぼくと桃谷さんが来なかったら、今頃は――」
「塚本君!」
 望の怒声で、大樹は押し黙った。思わず、天井を見上げていた。白い天井から突き出た、銀色のホック。真っ赤なビニールテープの輪をくくりつけられていたそれは、まるで断頭台の刃のように、不気味な光を帯びていた。銀色のホックも、ビニールテープの輪も、瑞穂の軽い体重を支えるのには十分すぎる。
 もし――もしも自分達が、洲先邸を訪ねるのが少しでも遅れていたら――瑞穂は、確実に死んでいた。それを想像した瞬間、大樹の背筋が凍った。
「嫌だよ……」
 ポツリと瑞穂は呟いていた。ゆっくりと首筋から手を離し、頬を流れる涙を拭っている。
「もう嫌だよ。なんでこんなことになるの――? どうして、こんな目にあわなきゃいけないの?」
「瑞穂ちゃん――」
「私……何も悪いことしてないのに……こんな非道いことされる理由なんてあるの? もう、死にたいよ。このまま生きてたって、なにもいいことなんかないもの――」
 瑞穂は布団に顔を押しつけ、嗚咽しはじめた。
 無言のまま大樹は腰を上げ、窓際に立ち、カーテンの隙間から外の様子を覗いた。無数のテレビカメラが見える。そのすべてが『事件』に対してではなく、洲先邸へと向けられている。数え切れないほどの、憎悪の視線がカメラレンズの奥に潜んでいるような気がした。
 記者がマイクを片手に何かを話している。糾弾の言葉か、それとも悪意に満ちた煽動かもしれない。彼らの中で、少女――瑞穂のの心配をする人間など、いない。誰も、いない。
 何故なら彼らは、『正義』を武器にしているから。『反権力』を掲げているから。『自由』を盾にしているから――彼らの世界では、『悪』は『絶対悪』であり、『自分達』こそが『絶対正義』であるから。そう信じ込んでいるから。歪められ、原型を失った『正義』が、誰かを傷つけることになるとは、夢にも思っていないから。そもそも、自分達が歪められていることに気付いていないから。
 瑞穂の父であり、洲先クリニック院長でもある洲先祐司が失踪したことによって、各マスコミの報道合戦の矛先は、院長の戸籍上の一人娘、洲先瑞穂へと向けられることになった。
 発端は『フォックス』という週刊誌だった。瑞穂の通うトキワ大学が、洲先クリニックの付属学校である事実を取り上げ、洲先瑞穂の裏口入学だったという記事を載せたのだ。もちろん事実ではないし、瑞穂自身もそのことを否定した。だが、そんな瑞穂の訴えは、世間に届く前にマスコミによって掻き消されてしまっていた。
 陰湿な落書きで汚れたブロック塀や、テレビカメラから視線を外し、大樹はカーテンをぴたりと閉じた。泣きじゃくる瑞穂の隣に座り、際限なく震え続ける背中をさすってあげた。
 悔しい。大樹は唇を噛みしめた。何もできない自分が悔しかった。慰めてあげることもできない自分を呪いたかった。
「もう……いいよ……」
 ふいに瑞穂の震えが治まった。顔を上げ、口の端をひきつらせながら、自嘲的な口調で彼女は呟いていた。その瞳から、既に光は失われていた。
「大樹くんも……望ちゃんも……無理しなくてもいいよ。みんな……みんな私がキライなんだから。私は、いつだって嫌われるんだから……もう馴れちゃってるから、無理しなくてもいいよ」
 笑っていた。卑屈な笑いだった。思わず、大樹は瑞穂の表情を覗き込んだ。彼女が、こんな気味の悪い笑顔をしたのを、彼は初めて見た。
「大樹くんもさ、望ちゃんもさ――私が、大きな病院の院長の娘だから優しくしてくれたんでしょ? 私に媚びてたら、この先、いいことでもあると思ってたんでしょ? 無理しなくてもいいって――もうパパは……お父さんは、どこかに逃げちゃったから、いくら私に優しくしても無駄だよう?」
 次の瞬間、大樹の掌が火を噴いた。息つく暇もなく、瑞穂を張り飛ばしていた。
 瑞穂はベッドから落ちていた。紅く腫れた頬に手をあてながら。大樹を睨みながら。彼は、視線の先に呆然と立ちつくしながら、怒気をあらわにしていた。
「なんだよ、それは。おまえ……いや、瑞穂ちゃんは、いままで本気でそう思ってたの? ぼくや桃谷さんが、瑞穂ちゃんと仲良くしていたのを、そんな風に考えてたの? ふざけないでよ――ぼくは、瑞穂ちゃんのことが好きだから――」
 瑞穂は、カッと目を見開いて、叫んだ。瞳から、また涙がぼろぼろとこぼれている。
「嘘つき! みんな嘘つきだもの――だから、誰もいらない。友達なんていらない。1人でいたほうが楽だもん。裏切られるくらいなら――もう誰もいらない。みんな、いらないもん!」
 興奮している大樹を壁際に追いやり、望は瑞穂の近くに寄った。少女の頬をさすってやりながら、落ち着き払った様子で訊ねる。
「何かあったの? もしかして大学で、誰かに何か言われたんじゃないの?」
 瑞穂は急に黙り込んだ。それが答えのようなものだ。
「言われたのね?」
 ゆっくりと立ち上がり、瑞穂はベッドに座った。
「いらない、って。もう、おまえなんかいらない、って。――最初、何がなんだか分からなかった。でも、だんだん、その言葉の意味が分かってきた。気付いたときには、私、昔に戻ってた――昔と同じような、嫌われ者になってた――」
 望は目を閉じた。大樹は困惑していた。すすり泣く瑞穂を見つめ、続いて自分の掌を凝視する。声が聞こえた。大樹は恐る恐る瑞穂の顔を見つめる。涙を二の腕で拭い取ると、少女は切なげに話しはじめた。
「大樹くん……どうして私が――こんな子供が――大学にいるのか、理由を知ってる?」
「え――?」
 大樹は戸惑いを隠しきれずに後ずさった。
「それは、瑞穂ちゃんの努力で――トキワシティで有名な天才少女だからだろう?」
「違う」低い声だった「それもあるかもしれないけど……違うよ」
「どういうこと?」
「私、嫌われてたから――みんなから。小学校に入学したとき、からかわれた――かわった名字だから――おかしな名字だったから。誰かが私を悪く言うたびに――私が、それで何か言い返すたびに――みんな笑って、私のこと馬鹿にして――いつのまにか――最初からかもしれないけど――私はひとりぼっちになってた」
 冷たい口調だった。おとなしい瑞穂には似つかわしくない口調だった。誰にも触れられたくない過去――瑞穂は、心の奥にしまいこんだそれを、痛みに耐えながら必死で吐き出そうとしている。元に戻るために――自分らしさを取り戻すために。
「みんなが私を苛めた。周りの人は、みんな気付いていたのに、誰も手を差し伸べてはくれなかった。私は逃げた。適当に理由を付けて、編入試験を受けて、大学に入った。でも、そこでも何も変わらなかった。私はコドモだから――いろんな人からからかわれて――でも、それでも私を認めてくれる人が、私と友達になってくれる人がいた――」
 瑞穂は肩を落とし、小さな溜息をついた。ひどく悲しげな、寂しそうな面持ちで。
「でも――それは偽りだった。私は、まやかしの愛情に弄ばれただけだった――」
 望も大樹も、言うべき言葉を失っていた。項垂れ、ただ瑞穂の嘆きを聞き入れることしかできなかった。いつしか、黒く染まった空。沈黙は時の流れの感覚を、恐ろしいほどに麻痺させていた。
 重い空気を振り払うように、大樹は立ち上がり、窓を開いた。外に陣取っていたマスコミの数は減り、静かになっていた。冷たい風が吹く。瑞穂は身を縮め、布団の中に入り込んだ。
「ぼくを――ぼくたちを信じてはくれないの?」
「みんな、嘘つきだから――誰も、信じることできないよ。みんな、嘘つきだから。私のこと騙して、平気な顔してるから。大樹くんが、本当に私のことを好きでも、私は――」
「さっきは叩いて、ごめん。――それだけ伝えれれば、もう、ぼくは何も言うことはないよ」
「わからなくなったの――誰を信じればいいのか。自分しか信用できないような、悲しい大人にはなりたくないのに――」
 瑞穂は、大樹の胸に顔を埋めていた。隣では望が、微かな寝息をたてて眠っている。大樹の鼓動が聞こえた。息を潜め、静かな夜に身を任せながら、瑞穂は呟いた。
「私、嫌な子だよね? 性格、悪いよね……。だから、いつも嫌われる。いつも、苛められる。ずっとそうだった――なのに、どうして、大樹くんと望ちゃんは、そんな私に優しくしてくれるの? わからないよ――わからないから、本当に信じていいのかも、わからないよ――」

 

○●

「――でも、なんとなく解るようになった気がする」
 棒棒鶏を口に運びながら、瑞穂は物思いに耽っているような眼差しで語った。大樹は、彼女を正面から見据えている。ゆかりは、包子を握ったまま眠っていた。
 中国料理専門店『大梁狛』は大勢の客で賑わっていた。だが、どこかもの静かで、語らうにはもってこいの場所だった。
 空になった棒棒鶏の皿が運ばれていく。瑞穂は紙ナプキンで口許を拭い、烏竜茶の入った湯飲みに手を伸ばした。少女の瞳は、大樹を捉えて離さない。
「ユユちゃんと出会ってから、私はユユちゃんを守りたいと思うようになった。私は無力だから、誰も守れなかったけど、それでもユユちゃんのためなら、自分の命を捨ててもいいと思えるようになってた。大樹くんも――今の私と同じ気持ちだったんだね――」
 大樹の表情が緩んだ。瑞穂も微かに微笑み返し、続けた。
「大切な人を守りたいと思って、初めて解るのかもしれない――誰かを愛することで、初めて理解できるものかもしれない――人を信じること。それって、人を愛することと同じことなんだよね」
「うん――そうだね」
 烏竜茶を飲み干し、瑞穂は言った。
「だから、一番大切なことは、誰にも裏切られないような人間になること――誰からも愛されるような人間になることだよね。私もいつかは、そういう人になりたい――」
 瑞穂は、楽しそうな微笑みを浮かべた。嬉しい、楽しい――大樹の側にいると、辛いこと、悲しいこと、悪いことを、一瞬だけでも忘れることができる。瑞穂は、そう思っていた。暗く、沈んだ気持ちを明るくしてくれる。なぜだろうと、大樹と会う度に考える。だが、その考えは長くは続かない。大樹への胸の高鳴りが、瑞穂の思考を暫し止めるからだ。
「ぼくのことも、信じて――愛してくれる?」
 大樹は訊いた。瑞穂は勢い良く頷いた。
「私――人を信じてる。もう一度、信じてみようと思う。もちろん大樹くんも、望ちゃんも。――それに誰も信じないような人は、誰からも信じてもらえないしね」
 天使のような瑞穂の微笑みに、大樹は酔いしれていた。数時間前の悪夢を、ほんの少しの間だけでも忘れられるだけ、彼は幸せだった。

 

○●

 射水 氷は、虚ろな瞳で街の灯りを眺めていた。
 月の光を眺めることを好む彼女に、この光は強烈すぎた。目を閉じ、瞼の裏でなお光り輝くネオンの灯りから目を背け、小さな溜息をついた。白い肌が看板のネオンに照らされ赤や青へと二転三転し、光の途切れる一瞬だけ黒く染まる。
 側を行き交う人々は、怪訝そうに氷の顔をチラリと見つめただけで、気にすることもなく去っていく。だれも「お嬢ちゃん、どうしたの?」「迷子なのかい? お母さんとはぐれたの?」などと訊いてはこない。それがこの街、コガネシティを象徴しているな、と氷は思った。自分は自分、他人は他人。面倒なことに関わるのは、誰だって嫌なのだから。
 また光が途切れた。目の前が一瞬の間、闇に満ちた。空を見上げ、月を見上げ、氷は寂しげに肩を落としていた。
 過去とはなんなのか。自分とは何なのか。氷は少しだけでも、それらの持つ意味を考えたかった。なぜ、姉は死んだのか。なぜ、死ななければならなかったのか。なぜ、皆が殺されなければならなかったのか。なぜ自分は、こんな身体にされなければならなかったのか。
 すべては理不尽なこと。今まで「運が悪かった」の一言で済ませてきた過去の記憶の裏で、なにがあったのかを知りたくなった。
 なぜだろう。昔はこんなことはなかった。ただ、命令されるままに生きていた。それだけで精一杯だった。法柿に指摘されるまでもなく、自分が以前と変わっていることを、氷は身をもって感じていた。
 洲先瑞穂――あの少女が、自分を変えたのかもしれない。自分と同じように辛い過去を持ちながら、洲先瑞穂は過去にほとんど捕らわれていない。過去をあくまでも過去として考え、今を生きている。過去を、いつまでも今にオーバーラップさせている自分とは、生き方が根本的に異なるのだ。過去の中に生きている自分にとっての救いが、洲先瑞穂の生き方の中にあるのかもしれない。
 氷は視線をビルのガラスへと移して、ガラスに反射した自分の姿を見た。泣きはらし、赤く腫れていた瞳は、もう元の冷たい色を取り戻している。微かに頷き、やっとこれで帰れるとばかりに足を一歩前へ踏み込んだ瞬間、少女は背後から呼び止められた。
「久しぶりだね――ぼくのこと、覚えているかい?」
 氷は声のする方へ振り返った。銀色の長髪、頬に刻まれた黒いタトゥ、鍵の形をした、小さなピアスをした少年が立っている。アルフの遺跡で出会った、不思議な少年だった。
「名前、言ってなかったよね。ぼくの名前は、サリエル
「変わった名前ね――」
 表情も変えずに、氷は言い放った。彼女にとって、この広い街の中で再び出会うという偶然程度では、さして驚くことに値しないのだろう。それに、もはや氷は少年に興味などなかった。洲先瑞穂のことだけで、頭が一杯だった。
 サリエルは形だけの微笑みを浮かべながら、氷に寄り添った。
「淋しいの?」
「そうね――寂しいのかもしれない。悲しいのかもしれない。今まで、ずっと忘れていた、人の心が感じるのよ」
 横目でサリエルを牽制しつつ、氷は呟いている。白い仮面を被ったような表情の奥に、普通の女の子の、涙にまみれた泣き顔が見えた。
 彼女の手をとり、サリエルは軽く口づけをした。冷たい、夜の外気に晒されていた氷の掌に暖かみは感じられなかった。彼女は人間ではないため、普通の人のように体温を一定に保つことができないのだ。
「所詮――人間でない者は、人間にはなれない。人の愚かで醜い心を思い出したところで、キミは嬉しいかい?」
「人は――人の心は醜いだけじゃない。人は優しくもなれる。人は正しく生きることもできる。あなたの中の『人の心』が、勝手に『人の心』を醜いと判断しているだけに過ぎない」
 氷の言葉に、サリエルは気色ばんだ。怒ったような表情で、歯を剥き出しにしている。ゆっくりと顎に力を込めた。彼女の紙のように白い指先に、赤黒い血が滲んでいく。
「君は、ぼくにも――人の醜い心があると言いたいんだね? ぼくが、勝手に人を憎んでいるだけだと思っているんだね?」
「それは怒りよ――人の心がなければ、怒ることはできない」
「怒りは、すべての自我を持つ生物に存在する本能だ。心とは違う――」
 サリエルは、氷の人差し指を噛み切っていた。氷は、目を少し細めただけだった。赤黒い鮮血が、彼の口許を染めている
「たしかに、ぼくにも心はある。でもそれは、醜い人の心ではないよ。人にとって、もっとも理想的な心を、ぼくは持っているんだ」
 氷はサリエルの瞳を見つめ、そして自分の指先に視線を移した。
「人の指を平気で噛み切るような人間の台詞ではないわね――たしかに普通の人の心をもっているわけではなさそう」
「やっとわかったかい?」
「ええ――あなたが、ただのガキだということがね――あなたがもっているのは、『ただのガキ』の心よ。すべてが自分の思い通りになると思っている。思い通りにならなければ、今のように力で思い通りにさせようとする。好きな女の子に、素直に自分の気持ちを伝えられずに、ちょっかいをだす――ただのガキよ」
 サリエルは唇の端を歪めていた。今にも、殴りかかりそうな形相だった。
「それは――そうかもしれない。だけど、人間は大多数が醜い心を持っているのは事実だよ。キミの言うような、綺麗な心をもつ人間は殆どいない。だから、ぼくは人間を裁くよ。たとえキミの言うように、ぼくがただのガキでもね。ぼくには、その権利がある――」
「どうして?」
「ぼくが、『あの力』を受け継いでいるから――ぼくは、選ばれた神子だから――人間の醜さがわかるんだ。だから一度、滅ぼさなくちゃいけないんだ」
 氷は眉を潜めた。「あの力――?」
「おっと……喋りすぎたよ。でも、君もいつかは理解できるはずだ。ケガレタ人間――お互いを理解することもできない、自分勝手な人間の姿に。君から、大事なものを奪っていったのは、すべて人間のはずだ。醜い、愚かな人間のせいで、君はすべてを失ったんだから。君の姉さん。君のお父さん、お母さん。みんな――みんな、醜い心をもった人間がいるから――」
「たしかに人間は、卑怯で醜いと思う。私が言いたいのは、すべての人間が汚れているわけではない、ということよ」
 サリエルは上目遣いで氷を見つめた。彼の顔は、夜の闇のせいもあってか、不気味なほど蒼白に映っていた。口許から滴る鮮血だけが、色を帯びている。まるで、その部分だけに生命があるよかのようだった。
「キミが何を知っているんだ。キミも歴史を良く知るべきだ。そしてちゃんと考えるべきだ。人間の争いの歴史を――人間の争う理由を。争いを捨てることのできない人間など、滅ぼされるべき――浄化されるべきなんだ」
 氷は何も答えなかった。無表情のまま彼に背を向け、何事もなかったかのように歩き出した。
 サリエルは後を追いかけるようなことはしなかった。寂しげな影を帯びた表情で、氷の背中を見つめることしかできなかった。どうしてなの? と問いかけているような――理由もなく、理不尽に怒られたあとの子供のような瞳で。
「ひとつ教えて――」
 出し抜けに氷は呟いた。サリエルは小さく首を傾げる。
「何が――あなたを、そこまで歪ませたの? どうして、あなたはそこまで人間を憎むの?」
 彼は目を閉じた。氷は、背を向けたままでサリエルの言葉を待っている。ゆっくりと首を横に振り、静かな口調で彼は答えた。
「この世界は汚れている。そう――人間が汚したんだ。だから、ぼくは人間を憎む。どうだい? 簡単な理由だろう?」
「そう――たしかに、わかりやすい理由ね」
 サリエルが、感情のない微笑みを浮かべている。それが一時の別れに対する、彼なりの挨拶なのだろうか。振り向くこともなく、氷はサリエルの微笑みから遠ざかっていった。
 嫌な寒気が体中を包んでいるような感覚に襲われ、彼女は身震いした。苛立ちが、心の中で疼いている。辺りは眩しいほどに明るいのに、氷の視界は黒く塗りつぶされたように暗かった。ついに耐えきれなくなり、少女は寂しげに呟いた。
「嘘つき――」

 

○●

 ホテルに戻ると、氷はすぐに冷たいシャワーを浴び、ぐったりとした様子でベッドに横になった。
 法柿はパソコンのディスプレイから視線をそらし、氷と顔を見合わせる。小さな裸体を毛布に沈め、彼女は呟いた。
「疲れた……」
「おまえは、いつも疲れてるじゃないか――で、何かわかったのか? 洲先瑞穂のこと」
 頷く。仰向けになり、天井を眺めながら。そこに、瑞穂の可愛らしい顔を投影させながら。
「変わった娘よ。普通じゃないわ。とんでもない、お人好し」
「いや……そうじゃなくて、『あの事件』についてのことを訊いたんだが」
 きょとんとしながら、氷は横目で法柿を見やった。口許だけで笑う。
「何も知らないらしいわ。ただ、洲先祐司の失踪に疑問を抱いてはいるようだけど」
「で――その後、俺達のことも話して、ピーピー泣いたと……」
 血相を変えて、氷は飛び起きた。
「どうして、それを――まさか」
「盗聴させてもらった。余計なことまで喋られると厄介だからな」
 氷は、法柿を睨み付けた。彼は肩をすくめ、立ち上がると、氷の隣に横になる。
「悪かったよ。そんなに怒るな。おまえのためを思ったやったんだから――それよりも、あの男はなんなんだ? やけに、おまえに馴れ馴れしかったが」
「彼、頭がおかしいのよ。きっと」
 怪しむような目つきで、法柿は溜息をついた。
「なんか、おかしなこと言ってたしな……それに、あの男、おまえのことが好きみたいだぜ? 変な奴だよな」
「殺すぞ」
 無表情のままで、氷は言い放った。彼は大仰に手を振り、弁解した。
「冗談の通じない女だな……おまえ。まぁ、俺も人のことを変人呼ばわりはできないが」
「法柿も、私のことが好きだったりする?」
 冗談混じりに、挑発するような口調で氷は訊いてみた。法柿は鼻で笑うと、すぐさま翻り、相手の裸体を抱きしめた。息が詰まった。怯えるようにして氷は身をすくめ、虚ろな瞳を彼へと向けた。法柿は視線を少女へと向けたまま、怒ったように吐き捨てた。
「もっと早く気づけよ――氷」
 氷は言葉を発することができなかった。硬直したように強張った身体が、熱い。それでもなんとか腕を振り回し、法柿をベッドから払い落とした。
 少女の裸体から無数の触手が、溢れるように伸びる。幼さを色濃く残す氷の顔が、醜い獣のものへと変貌していく。咆哮。一瞬だけ、空が揺らめくような感じに襲われた。白かった触手が、不気味な紫へと色を変える。やがて、氷の身体は完全に、バケモノへと姿を変えた。
 獣の鋭い眼光が、法柿を捉えている。
「これが――私の本当の姿。それでも法柿は、私を愛してくれる? 無理よ――所詮、私は人間ではない――人間の姿を偽る、醜い獣――」
 法柿は長い間、獣の姿を見つめていた。やがて立ち上がり、無言のままで、蠢く触手の中に手を突っ込んだ。獣の触手は驚いたように激しく動く。法柿は獣を引き寄せ、抱いた。無数の触手が、法柿を取り囲む。
「恐がるなよ――怖れるなよ――」
 宥めるように法柿は囁いた。彼を締めつけていた触手が、段々と縮んでいく。鱗で覆われていた獣の皮膚が、柔らかくなっていく。
「愛されることを、恐がるなよ――」
「でも、私は……あの女に……」
「あの女のことなんか考えるな。忘れなくてもいい……でも、おまえはもう、昔のおまえじゃない。もう、怯えなくても、恐がらなくてもいいんだよ」
 いつしか氷は、もとの少女の姿に戻っていた。法柿に抱きしめられながら、彼女はか細い声で訊いた。
「私も、人でいたい……私だって、誰かを愛したいし、愛して欲しい……」
「だろ?」
 法柿の荒い息が聞こえる。氷は彼の温もりを、身体の芯まで感じていた。だがそれは、ほんの一時の安らぎに過ぎなかった。
 今という時が、永遠に続けばいい……射水 氷は、切実にそう願っていた。嫌な過去も、重苦しい未来も、何も考えずに済む、今という時間が、永遠に続いて欲しい――

 

○●

 彼は、死劇の発端となる男だった。
 だが、所詮は発端でしかない。すべては『あの御方』のために――すべては『あの御方』の言葉のままに――すべては『あの御方』の予言のままに――すべてを『あの御方』の望みのままに――
 漆黒のローブをはためかせ、男はエンジュシティへと続く道の、小高い丘に立ち、コガネシティの夜景を展望していた。涙の雫のように透き通った水晶玉を手を、その手に握りながら。
 すべてが始まろうとしている。不思議な光を放つ、水晶玉の奥底を見つめ、男は考えていた。奴等の思い通りになどさせてなるものか……と。
 荒れた荒野に、花は咲かない。一度滅びた世界は、元には戻らない。それでも、滅ぼさなければならないほど、この世界は汚れ、力の均衡を保てなくなったのだろうか。それは違う。奴等の――奴の考えは間違っている。世界など、汚れたままでいいのだ。その中で”この力”を使い、すべての者の頂点に立てばいいのだ――この、私が。
 あの御方は、それを許してくださった。それだけでなく、私にチャンスまで与えてくださった。驚くほど鮮やかな手際で。
「恐ろしい御方だ――」
 戦慄したような声で、男は小さく呟いた。ふいに吹いた突風を、彼は普段よりも冷たいと感じていた。水晶玉を懐にしまい込み、コガネシティのきらびやかな夜景に背を向け、足早に歩き出す。
 あの御方には感情というものがないのか。奴を裏切ることを、なんとも思っていないのか。そもそも何を企んで、こんな事をしたのだろうか。私はいいように、あの御方に利用されているだけなのかもしれない。だが、それでもいい。あの御方は、約束してくださった。私が”この力”をつかい、世界を治めることを許してくださった。
「それなら、あの御方は、何をしようとしている――?」
 復讐なのか、野望なのか――ありとあらゆる可能性を思い浮かべる。思考の堂々巡りだった。一向に考えは、前へ進むことはない。彼の頭では、『あの御方』の考えは絶対に理解できないものなのだから、無理もない。自分が使い捨ての人形にされていることにすら気付かないのだから。
 夜の闇に溶けこんで、男は消えた。多くの死を、引きずりながら――

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。