水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#12-3

#12 悲歌。
  3.見えない殺意

 

 ミルは月の光を背に向けて語った。
 瞼を閉じれば甦る、炎の呻きと稲妻のように鋭い閃光。沸き上がる煙の中に見えるのは、焼け爛れ助けを求める人間の姿だけ。
「あたしは、あの男を追いかけてグラシャラボラスに忍び込んだ――」
 瞼を閉じれば甦る、容赦なく人を沈めていく荒波と叫び声を掻き消す風の音。いつも、いつでも、思い起こす度に瞼の裏が熱くなるのは、あの時の熱さを思い出すからだろうか。それともただ単に、流れ出てしまいそうな涙を堪えているだけなのだろうか。
「あの男は、船を沈めた。深海の涙の力で、あのポケモンを操って」
「あのポケモン――?」
 炎の間から見える、二つの巨体。美しい歌声のようなあの鳴き声が、苦しみに悶え苦しむように歪んでいく。その歪みが限界を超え、すべてを焼き尽くす閃光が船を切り裂いていく――
 ミルの冷えた指先に、瑞穂はそっと触れた。彼女の閉じられた瞼の裏に映しだされた、哀しみの連鎖の始まりを知るためには、そうするしかなかったから。

 

○●

「あんた、まだ誰かを殺すつもりなの? どうして、こんなことするのよ!」
 船は沈みかけていた。眼下に広がる海は、大きな口をあけて悲鳴ごと人々を飲み込んでいる。
 存在する意味を失った船の残骸は、生き残ろうと、浮上しようとする者の行く手を阻み、最期の泡と一緒に、海底へと消えていく。
 運良く海面にでられた者も、高速で空回りするスクリューに巻き込まれ、紅い屑として青黒い海面を汚すだけだった。
「そんなに理由が欲しいか?」
 黒いローブの男は言った。嘲笑うかのように。あの時と同じ笑みで。あの時と同じ、余裕に満ちた眼で。
 怒りよりも、許せないという気持ちよりも、嫌悪感が真っ先に全身を包んだ。灼けるような炎の中にいてなお、鳥肌がたった。
「わけわかんないわよ……なんで理由もなしに人を殺せるの? こんなことして、あんたに何の得があるっていうのよ」
「理由は無いわけじゃない。強いて言うなら、しつこく私の後を追いかけてくる、君への見せしめだな」
 男の声に感情はこもっていなかった。いかにも頭の中で適当に並べ立てた言葉を、ぽんぽんと口から放り投げるような言い方だった。
 嫌悪の波が通り過ぎていくと同時に、怒りの感情が遅れて、ミルの胸に沸き上がってきた。歯を食いしばり、男の全身を睨み付ける。
「あんたねぇ……」
 ミルが怒りにまかせて、何かを言いかけた、その時だった。男の脇をすり抜け、ミルと同じくらいの年の少女が飛び出してきた。眼は狂ったように明後日の方向を向き、海へ向かって半身を乗り出すと、身体を捩るようにして胃の中のものを吐き出し始めた。
 泣きながら、何かを呟きながら、少女はすべてを吐き出し終えた。その名の通り、からっぽの抜け殻になってその場に座り込んだ少女は、言葉にならぬ嘆きの声に濡れていた。
「――非道い。あんた、こんなことして、本当に平気なの?」
 大きくうねる波。船は傾き、少女は海へと投げ落とされた。ぷくぷくと泡とともに少女は沈んでいく。魂の抜けた力のない瞳は、ゆらゆら揺れる海面をじっと見つめ続けていた。
 ミルは男からも、少女からも目をそらし、黒煙の中で蠢いている二つの巨体を見やった。今まで彼女が出会ったポケモンの中で、最も大きなポケモンだった。
「あのポケモン、絵本で見たことがある――たしか、カイリューって名前で」
 竜の姿をしたカイリューという名のポケモンは、お互いに争っているようだった。ただ争っているのではなく、暴れる片方を、もう片方が抑えつけているように見えた。
 その証拠に、暴れている方のカイリューの眼は、あの時――町を焼きつくした時のリザードンのそれと全く同じだった。血走った瞳に映っているのは、狂気への道しるべだけだった。
 片方の暴走を抑えていた方のカイリューが海面になぎ倒された。暴走したカイリューは口を開き、大きく息を吸い込むようにして仰け反った。
 閃光が走る。カイリューの破壊光線が船の残骸を縫うようにして、海を切り裂いた。傷痕から浮かび上がってくるのは、黒く焼け焦げた無数の屍体。その屍体の中には、さっきの少女も含まれていたかもしれない。だが、もう誰が誰なのか判別することすらできなかった。
「もう、やだ――やめさせてよ。こんなこと、こんなこと」
 呆然と呻くミルを余所に、ファルズフは静かに歩き出し、赤く滲んだ海面を覗き込んだ。愉快なショーでも見物しているかのように瞳を大きくを広げ、男は言った。
「これでわかったかい? もう、私やあの御方には関わらないことだ。虹の瞳を渡して、故郷へと帰れ」
「うるさい! みんなを焼いたのは誰よ! しらじらしい」
「だから帰れと言っている。両親の元へと」
 ファルズフは手に持った深海の涙に力を込めた。海に向かって破壊光線を乱射していたカイリューが振り向き、ミルへと標準を定めた。
 カイリューの口から光が漏れた。あまりの眩しさに、ミルは両手で眼を覆った。波が、数秒後に迫った衝撃波を予知しているかのように、静まり返る。
 だが、破壊光線はミルへは放たれなかった。光は空へと伸びていき、上空に広がる黒煙を突き抜けて消えた。ミルは恐る恐る両目を開き、カイリューへと視線を向けた。
 カイリューは動いていなかった。ただ空を見上げ、苦しそうな瞳で、もう片方のカイリューを見つめていた。
 暴走を抑えようとしていた方のカイリューの腕を、真っ赤な鮮血が滴った。その血は、暴れていた方のカイリューの喉元から流れ出ていた。カイリューの短いながらも鋭い爪が、もう片方のカイリューの喉笛を引き裂いていたのだ。
 二匹のカイリューは、もつれ合ったまま海に倒れた。その衝撃で生まれた赤い波は、グラシャラボラスに最期の時を告げた。船はこれ以上分解することもなく、消えていく波に引きずられるように、海中へと沈んでいった。
 海へと投げ出されたミルは、同じく海へと投げ出されたはずのファルズフを探した。だが、目立つはずの黒いローブは何処にも見当たらなかった。男は、深海の涙の輝きを隠したまま、どこかへと消えていた。

 

○●

「あのカイリューは、あたしを守るために――というより、これ以上、誰かを殺させないために、自分の仲間を殺した」
 握り締め、汗ばんだ掌を海水で洗い、ミルは濡れた指で火照った頬を冷やした。笑っているわけでもなく、哀しみに沈んでいるわけでもない、奇妙な表情をしていた。鬱ぎ込んでしまいそうな哀しみの気持ちと、それに拮抗するかのように明るく振る舞おうとする気持ちが入り混じっているのだろう。
 これ以上、痛々しい表情もないな、と瑞穂は思った。腰を浮かし、静かな海へ顔を覗かせる。小さな波を隔てて映りこんだ自分の表情は、ミルとは対照的に感情そのものが消えていた。
 心が沈みきっているこんなとき、どんな表情をすればいいのか、瑞穂は感覚的に知っていた。今まで何度も悲しいことがあるたびに、涙を流すたびに、少女は悲しみを最小限に抑える方法を覚えていった。
 悲しむ顔を誰かに見られるから、余計に悲しくなるのだと。いったん涙を流してしまえば、決壊したダムのように歯止めが利かなくなるのだと。射水 氷と同じように表情そのものをなくしてしまえば、悲しみは最初の一波だけで終わる。
 だが、その表情は、ミルのそれよりさらに痛々しく見えた。所詮は、涙で汚れた顔を仮面で隠しているにすぎないのだから。瑞穂は微かに瞳を細め、両手で海水をすくいあげ、顔を洗った。冷たく凍りついた自分の表情を拭い取るように。
「人のこと、言えないね」
 さっぱりとしたように、つぶらな両目を大きく広げ、瑞穂は軽く呟いた。ミルが思わず振り返り、不思議そうに瑞穂を見つめる。
「なんのこと?」
「ううん、なんでもない。それよりも、そのカイリューの話、昔話で聞いたことがある」
「昔話?」
「うん。あ、昔話っていっても、私もつい最近、知り合いに教えてもらったばかりなんだけどね」
 焦れたようにミルは首を大きく横へと振った。「誰もそんなこと聞いてない!」
「ご、ごめん……」
「それで、その昔話のこと、教えてくれる?」
「うん……それはいいけど。それよりも、あのあと、どうなったの?」
「なにが?」
「そのカイリューのことだよ。私たちの乗っていた船――フラウロスが爆発した原因は、そこにあるんじゃないかと思うんだけど」
 ミルは視線を足下にそらし、ゆっくりと立ち上がった。金色の三つ編みが、朝焼けの眩い光を反射してキラキラと揺れる。
「まだ、終わってないよ。この話は」
「終わってない? それって……」
「あいつらが、途切れてた鎖を繋ぎなおしたから」
 憎しみの連鎖という名の、鎖を。

 

○●

 空は荒れていた。蠢く黒雲が、強い潮風と止めどない雨を振り下ろしてくる。時折、雲の間が光り、轟音とともに大地を雷が貫く。
 雷鳴とともに、一斉に光を失うアサギの街を灯台より見下ろし、ジムリーダーの少女、ミカンは小さく息を呑んだ。ガラスに触れるその指先に、微かな冷汗が浮かぶ。
 焦げついたような朝焼けを見たときから、不吉な予感はしていた。ジムリーダーとしての仕事を早々に切り上げ、デンリュウの様子を確かめに灯台へ上ったとき、それは予感ではなく確信に変わっていた。
 酷く怯えるデンリュウと、灯台から見渡せる、静まり返った紫色の海。底から響く不気味な音。
「アカリちゃん」
 ミカンはデンリュウへと振り向き、ゆっくりと手を伸ばし、首筋を撫でた。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ」
 パチパチと火花をたてて放電するデンリュウを宥めながら、ミカンは再び窓の外を見やった。アサギの街は、悲鳴のような軋みをあげる窓ガラスの向こう側で、どんよりと暗く沈んでいた。
 ミカンは懐からモンスターボールを取りだし、握り締めた。デンリュウの額を撫でつつ、彼女は立ち上がり、仄かに光る海原を見つめた。
「来た……!」
 ミカンの声に呼応したかのように、海面が瞬いた。鏡が砕けたように波紋が広がり、その輪の中心から、太い光の帯が空へと放たれた。強力な破壊光線である。破壊光線の衝撃は海を沸騰させ、灯台の窓ガラスをすべて粉々に砕いた。
 ミカンは握り締めていたモンスターボールを割れた窓から外へと放り投げた。
「いくのよ!コイル!」 
 モンスターボールからあらわれたのは、磁石ポケモンのコイルだった。左右のユニットで重力を遮断し、コイルは海上をふわふわと浮遊している。
「コイル! 海の中に何がいるのかを探知して」
 指示どおりにコイルは超音波を発し、海中の様子を探った。解析が終わると、コイルは回転しながら上昇し、ミカンに金属音を出した。
「大きな……大きなポケモン……? いままでで、一番大きな……! 私のハガネールよりも?」
 コイルは頷いた。ミカンは海面を見やった。先程と同じく、眩い光が満ちている。
「次が来た! 避けて! そのあとにソニックブーム!」
 第二波が海中より放たれた。不規則な浮遊能力を活かして、コイルは寸前のところで破壊光線を避けた。遅れてやってくる衝撃波は、ソニックブームでなんとか威力を相殺した。
「コイル、大丈夫?」ミカンの問いに、コイルは金属音を返す。だが、その姿は見えない。
 いつの間にか、破壊光線の熱によって蒸発した海水が、水蒸気となってアサギの街を包んでいた。白い水蒸気の奥から響いてくる声は、歌のようでもあり、なにかの鳴き声のようにも聞こえた。
 やがて水蒸気は晴れていった。朧気だった影は、段々とその輪郭を露わにしていく。海面からあげる水飛沫の中央から顔が覗く。巨大なカイリューの姿が海の裂ける音とともにミカンの目の前に現れた。彼は何かを嘆くように咆哮し、澄んだ歌声を掻き消す。
 割れた窓から身を乗り出し、ミカンはカイリューの悲しみに満ちた瞳を見据えた。
「このポケモン――何かを悲しんでる、一体何を悲しんで――」

 

○●

 ――あんたも、一人っきりになっちゃったんだよね
 波の音が聞こえた。他には、誰も声も聞こえることなく、無数の想いが今にも海面を染め上げてしまいそうなほど、水平線は純白で、それでいて不思議なほどに動かない。
 三つ編みの少女は身体についた海水を払い落とすと、砂浜の上に仰向けに横になり、小麦色に焼けた掌で太陽の光を遮りながら、カイリューと青空を交互に見比べた。
「あたしも一人っきりなの。みんな死んじゃったからさ」
 ミルが何を話しているのか、カイリューは正確に理解することはできなかった。ただ、自分と彼女は似た境遇にあるということだけは、彼女の口ぶりからわかった。
 お互い、帰る場所もなく、これから行くあてもない、ということ。自分の居場所を失った者と、自分の居場所を探し続けて彷徨う者。少しの違いはあっても、二人を結ぶ共通点であることに違いはなかった。
 カイリューは1人で延々と話し続けるミルを眺めた。彼女が明るい少女だったのは、カイリューにとって幸運だった。内に秘めた悲しみを心の底へと押し込めながらも、絶えることのない彼女の笑顔は、カイリューの大きな心の支えとなっていたからである。この無人島へ上陸してから数日の間で、ミルとカイリューはお互いに必要な存在となっていた。
 ミルは立ち上がり、背伸びをした。背中についた砂を払い落とすと、少女は遠くへと目を凝らし、一言呟いた。
「あれ、人影だよね。小さなヨットみたいなのに、誰かが沢山乗ってる」
 カイリューは顔を上げた。ミルの視線の先には、確かにヨットのような小船に複数の人間が乗り込んで、こちらへ、かなりのスピードで向かってくるのが見える。黒いユニフォームを着た、怪しい男達だった。
「あの人らさ、どう見たって、海のおまわりじゃないような気がするんだけど」
 怪訝そうに眉をひそめ、ミルはカイリューへと振り向いた。
「おかしいじゃんね、あんな全身、黒づくめで。あたし思うんだけどさ、ああいうのって大体悪い奴等って、決まってるんだよね。そう思わな……」
 突然、ミルの声が途絶えた。同時に鋭い激痛がカイリューの足を貫いた。
 ミルの小麦色の肌から血の気が引いていく。何が起こったのかもわからずに、彼女は胸の辺りに手をやった。生暖かい液体の感触と、鼻をつく血の匂いが同じタイミングでミルを襲った。
 唇が震え始めた。感情によるものではなく、急激な出血による痙攣である。左右に泳ぐ少女の瞳は、真っ赤に充血し、その動揺の大きさを物語っていた。
「痛い……」
 搾るような声で、それだけを呟く。
 カイリューは痛みを堪え、ミルを見やった。全身を血に染め、でくの坊のように突っ立っているミルの胸元は、彼女の腕よりも太い銛によって貫かれていた。銛はそのままカイリューの足に突き刺さっていた。
「ハハッ! まさか『サンプル』採取の帰りに、こんな大物に出くわすとはな」
 黒づくめの男達が口々に叫んだ。
「もしかしたら、あいつも『サンプル』の可能性があるんじゃねえの?」
「どちらにせよ、俺らで奴を捕獲するぞ!」
 カイリューは頭を持ち上げた。男達の乗る船の先端には鋭く太い銛が数本突き出ているのが見えた。その内の一本が、ミルの身体を貫き、自分の足に突き刺さっているのだ。
 ミルは噛みしめていた口を開いた。涎とともに溢れ出てくる、真っ赤な鮮血。胸に突き刺さったワイヤーのせいで、倒れることも、しゃがみ込むこともできずに、痛みに喘いでいる。
 カイリューは、足に突き刺さった銛を抜き取り、ワイヤーを引きちぎった。荒い息づかいで男達を凝視し、大きな口をゆっくりと開く。
 支えを失ったミルは、砂浜に倒れた。白い泡を交えた波は、次第にミルの血によってピンクに染まっていく。血と海水に濡れながら、半身を起こし、カイリューと黒尽くめの男達を交互に見つめた。
「おい、あのポケモン、俺らロケット団に歯向かうつもりらしいぞ」
 男の1人が言った。カイリューの大きく開かれた口の意味にも気付かずに。
ロケット団……ロケット団が、どうしてこんなところに……」
 薄れていく意識の中で、ミルは呟いた。
「それに、『サンプル』って、一体、なんの……」
 声がでなくなった。代わりに猛烈な痛みと黒々とした血の塊が、胸の奥からこみ上げてくる。額と頬が灼けるように熱く、変に粘りけのある汗が、全身から噴き出してくる。
 だが、熱さの原因は胸の傷だけではなかった。カイリューの口から高温と眩い光が漏れていたのだ。
「まさか……」
 咄嗟に、ミルは海の中へと飛び込んだ。カイリューは破壊光線を撃とうとしているのだ。
 ミルの予想通り、破壊光線は放たれた。巨大な光と熱が、海を切り裂き、男達の身体を焼き尽くす。物凄い轟音が、男達の命と悲鳴を次々と飲み込んでいく――

 

○●

「なんで、あたしだけが生き残るのかな……」
 胸の宝玉を握り締めながら、ミルは語った。
「そりゃあ、この珠がある限り、あたしは死なないし、死ねないよ。少なくとも、もう一つの宝玉を取り戻して、お互いの力を封印するまではね。だから、グラシャラボラスが沈んだときも、カイリューの破壊光線に巻き込まれて、数ヶ月も海の中を彷徨っても、私はこうやって、とりあえずは生きてる。だけどさ──」
 ミルは力なく項垂れていた。軽く日焼けした肩に、一粒、二粒と小さな雫が降り注ぐ。どんよりと暗い空は、彼女の心を反射し映しだしている鏡なのではないか。と、瑞穂は思った。勢いを増していく雨は、歯止めの利かなくなった彼女の悲しみ、そのものなのではないか。
「なんで、あたしだけなの? あたしの行く先々で、みんな……全員だよ、死んじゃうなんてさ」
 まるで、あたしが疫病神みたいじゃない。小さく小さく呟く。
「最近、思うんだけどさ。もう、こんな面倒なこと止めて、死んじゃおうかなって思うことあるんだ。自分から死ぬのは簡単なんだよ。この珠を――手放すだけだから」
 ミルの手の中で、赤い珠は虹色の光を放っている。ネックレスから外し、拳の力を緩めるだけで珠は重力に従って落下し、海の砂へと埋もれることだろう。そして彼女は完全に消滅する。彼女の身体を生かし続けているのは、『虹の瞳』の力なのだから。
「そんなの……」
「そんなん、あかんで!」
 瑞穂が言う前に、ゆかりは言い切った。眠そうに目を擦りながらも、瞳の奥は鋭く尖っていた。
「ユユちゃん――」
「あんな、お姉ちゃん、そんなことしたって、意味ないで」
 ゆかりは雨に濡れた手で、ミルの頬をつねった。
「ちょっと! 痛いじゃないの!」
「死ぬのは、もっと痛いんやで!」
「ふたりとも、やめなよ」
 少し照れたように口許を緩め、瑞穂は二人の間に割って入った。大きく溜息をつき、ミルはゆかりと瑞穂に背を向ける。
 その時だった。ミルの胸の珠の輝きが微かに増した。彼女は胸に手を当て、激しく鼓動を続ける心臓へと珠を押しつけた。びくん、びくん、びくん。背中が一定の間隔で、大きく振れる。
「どうしたの?」
「珠が、反応してる。大きな力と、大きな悲しみに」
「大きな……悲しみ……?」
 ミルは何も言わずに、モンスターボールからリザードンを呼び出した。リザードンは雨に怯むこともなく、空へ向かって大きな炎を吹いた。
「あのカイリューが、アサギの街で暴れてる。あたしのせいだ――あたしがいるから、こうやってどんどん人が死んでいく。止めに行かなきゃ」
 痛みを堪えるように目を閉じ俯いて、瑞穂は首を横に振った。
「それは違うよ。別にミルちゃんは悪くないし……」
「それじゃ、約束して」振り向きざまに、ミルは叫んだ。
「え?」
 唐突に叫ばれ、瑞穂はどぎまぎしたように目を見開いた。ばつの悪そうに指をもじもじさせ、上目遣いでミルの怒っているような顔を見つめた。
「約束って、何を?」
「瑞穂ちゃんは、死なないでね――」
 それだけ言うと、ミルはリザードンに飛び乗った。鼻から小さく火を噴き、リザードンは背中に生えた大人二人分ほどの大きさはある羽根を羽ばたかせる。
「ちょっと待って!」リザードンの巻き起こす風に負けじと、瑞穂は声を張り上げた。
「なんで?」
 ミルの問いかけに、答える前に瑞穂はゆかりを抱きかかえ、ミルと同じようにリザードンに飛び乗った。
「ちょっと! 何考えてるのよ」
「私達も行く」
「バカ? 死ぬかもしれないのよ」
 リザードンは大きく咆哮し、飛び立った。島には、リザードンの羽ばたきによって生じた砂煙だけが残った。
「このまま、ほっとけないよ。それに、誰かを助けるのに理由はいらないでしょ」
「もう知らない。勝手にすれば?」
 呆れたように吐き捨てたあと、ミルは小さく呟いた。
「約束破ったら、ぶん殴ってやる――」

 

○●

「コイル! 電磁砲!」
 コイルはカイリューへロックオンし、電磁砲を放った。だがカイリューに決定的なダメージを与えることはできなかった。一瞬だけ身体が光り、小さな煙が上がるだけで、怯む気配はどこにもない。
「やはりコイルだと、あのカイリューには力不足のようね」
 ミカンは透けるように白い指先で、額から流れ落ちる雨を拭った。冷たい雫を振り払い、空を仰ぎ見る。
「雨……これがなければ」
 滝のような雨は、コイルの空中での移動速度を極端に低下させるとともに、電磁砲の威力を分散させてもいた。ミカンは数回の攻撃で、それを悟っていた。
 意を決したように頷くと、ミカンはもう一つモンスターボールを取りだした。コイルに合図を送り、そのまま灯台の頂上から飛び降りる。
「今よ! ハガネール!」
 モンスターボールから飛び出したのは、鉄蛇ポケモンハガネールだった。ハガネールは、カイリューに勝るとも劣らない巨大な体を捻り、カイリューへと向き直った。
 一方、ミカンは下で待機していたコイルの電磁壁によって、無事に地面へと降りていた。
ハガネール! 日本晴れ!」
 ハガネールの巨体が白く輝きだし、空を照らす。黒雲は光を避けるかのように消滅していく。眩いばかりの太陽が顔を覗かせ、あたりの日差しが強くなった。
「そのまま嫌な音で攻撃!」
 ミカンの指示どおりに、ハガネールは身体を捩らせ、全身から嫌な音を鳴らした。
「これで、あのカイリューの攻撃力を封じることが……」
 呟きながら、ミカンはカイリューを見やった。だが、カイリューの姿は見えない。強い日差しを遮るほどの、大規模な白い霧がカイリューの身体を覆っていたのだ。
 霧の奥で光が集まっていく。それまでの黄色い光ではなく、赤い炎の色をした光が。ハガネールは咄嗟に防御の姿勢をとり、ミカンを守ろうとした。
「これは、破壊光線じゃない。だめ! 逃げて!」
 ミカンの叫びも虚しく、強力な威力の炎攻撃、大文字がハガネールの身体を包み込んだ。地面に頭を何度も打ちつけ、もだえ苦しむハガネールを前にミカンは何もできずに立ちすくんだ。
 カイリューが破壊光線の体勢をとった。ミカンもろともハガネールを消し去ろうとしているのだ。ミカンは仕方なく、ハガネールモンスターボールへとしまい込んだ。これで終わり――ミカンの脳裏にその一言が浮かび上がった。目を閉じる。瞼を隔てても、破壊光線の光は眩しく、熱い。
 アサギの街を守りきれなかったという無念さから、ミカンの肩は震えていた。それと同時に、カイリューの瞳に浮かんだ、不可解な悲しみと怒りの意味を知りたかった。何故なら、自分は――アサギの街は、カイリューに殺されるのではなく、そこに秘められた悲しみと怒りによって破壊されるのだから。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。