水面に浮かぶ古き書庫

いろいろ書いたりとか

ポケモン二次創作小説『刹那の夢と嘘の玩具』#12-4

#12 悲歌。
  4.孤独な二重奏

 

「あなたの悲しみは、私を殺す――それであなたの悲しみが消えるの?」
 ミカンの言葉に呼応するように、カイリューは破壊光線を発した。凄まじい威力の衝撃波が、ミカンの服を引き裂きいていく。
「リンちゃん! 破壊光線!」
 正反対の方向から、別の破壊光線が発射され、カイリューの破壊光線をはじき返した。
 驚きの表情を隠さず、ミカンは即座に後ろを振り返った。衝撃波によってひび割れた大地の上に、リングマの巨躯がそびえ立っていた。裂けたように大きな口からは、白煙がもうもうと上がっている。
「ミカンさん。大丈夫ですか?」
 頭の上から声がした。ミカンは眩しそうに、日差しの強い空を見上げる。リザードンが空中を旋回しながら飛んでいた。
 そのリザードンの背中から、一人の少女が飛び降りてきた。小さく細い身体に、水色のツインテール。白く大人しい顔に、ミカンは見覚えがあった。数日前、ジムに挑戦に来たトレーナーの少女である。
「あなたは、たしか……」
「お久しぶりです」
「瑞穂さん――どうしてここに? たしか、タンバシティに向かったんじゃ」
「途中で止めました。ミカンさんに負けたままじゃ、他の街へは行けません……って、そんな場合じゃないですね」
 瑞穂は身体を捻らせ、カイリューの方向を見定めた。晴れていく白い霧の中から覗くその巨体は、悲しみと怒りを内に漲らせていた。雨で洗い流すこともできず、霧で隠すこともできなかった”それ”は、涙に含んで吐き出してしまうほかに、取り除く方法はないように瑞穂には思えた。だが、このカイリューはそれすら許そうとはしない。
 破壊光線を相殺され、通用しないと判断したのか、カイリューは上空に雷を発生させた。辺りは再び黒雲に覆われ、雷鳴が轟く。鋭い一閃がミカンと瑞穂の上空に降り注いだ。
「グラちゃん! それとポニちゃん」
 瑞穂は咄嗟にグライガーポニータを呼びだした。強烈な雷も、グライガーの皮膜に遮られてしまえば効果はない。グライガーが完全に電撃を防いだのを確認すると、瑞穂はポニータに飛び乗った。
「ミカンさんも乗ってください。ずっとこの場所にいるのは危険です」
 小さく頷き、ミカンはポニータに乗った。瑞穂はポニータに合図を送り、それにタイミングを合わせたようにポニータは短く嘶き、走り出した。
 破壊する目標を失ったカイリューは、その鋭い瞳をアサギの街へと向けた。港を跨ぎ、灯台の間をすり抜けるようにして、アサギシティに上陸した。重みで、アスファルトの地面が陥没する。
 カイリューは破壊光線を発射するために、再びエネルギーをチャージする。その頭上を旋回していたリザードンは、おもむろに火炎放射を浴びせた。
「ミルちゃん……」瑞穂が呟く。
 リザードンの背中から、ミルは大声でカイリューに叫んでいた。
「あんたねぇ、何してんのよ! 何バカなことしてんのよっ!」
 リザードンの火炎放射がまったく通用していないのと同じように、ミルの声もカイリューには聞こえていないようだった。
 カイリューは太い腕を振り上げ、うるさい蠅でも追い払うかのように、リザードンを叩き落とした。リザードンは地面に墜落し、ミルとゆかりは海へと放り投げられた。
「ミルちゃん! ユユちゃん!」瑞穂は思わず、ポニータから身を乗り出した。
 瑞穂の声に反応したのか、カイリューは疾駆するポニータの姿を目で追い始めた。口を開き、カイリューは破壊光線を乱射する。ポニータは軽い身のこなしで、次々と降り注ぐ破壊光線を避けていく。だが、避けることはできても、破壊光線を止めることはできず、辺りの地形が抉れていくだけだった。
「これじゃ、埒があかない。というより、こんな大きなポケモンを止める事なんて――」
 瑞穂は突然、ポニータから飛び降り、ポニータに叫んだ。
「ポニちゃん! せめてミカンさんだけでも安全な場所にお願い!」
 ポニータは、それに応えるかのように嘶くと、得意のジャンプで灯台を跳び越え、アサギの街の方へと走り去っていった。ミカンは懸命に何かを叫んでいたが、瑞穂は背を向け、彼女の声を聞こうとはしなかった。それどころか、瑞穂の身を案じるミカンの声を掻き消すように呟いた。
「とりあえず、犠牲は少ない方がいいから――」
 犠牲――瑞穂の中で、とても哀しい意味をもつその言葉が、胸の奥に重くのし掛かってきた。それを振り払うかのように、瑞穂は声を詰まらせながら、呟き続ける。
「もちろん、このまま死ぬつもりなんて、ないよ――」
 ポニータを見失ったことにより、カイリューは破壊の標的を瑞穂へと変更したようだった。短いが鋭い爪が、頭上から一直線に振り下ろされる。
 瑞穂は目をつむり、腕を空高く掲げ、リングマに自分の入る場所と、次の攻撃指示を出した。
「リンちゃん! 破壊光線!」
 リングマの放った破壊光線が、カイリューの腹部に命中した。カイリューは衝撃波で弾き飛ばされ、海へと転落した。
「もう、やめよう――こんなこと。こんなことしたって意味ないよ!」
 起きあがり、海から顔を出すカイリューに、瑞穂は自分の限界とも思えるほどの大きな声で話しかけた。
「こんな事したって、あなたの探しているものは、見つかりはしないよ」
 その時、瑞穂の背後でリングマが倒れた。息を呑んで、瑞穂は振り向き、リングマの重い上半身を抱き起こした。破壊光線の連続発射はリングマの身体に、瑞穂が思っていた以上の負荷をかけていたのだろう。
「リンちゃん――ごめん」
 瑞穂は、自分の全身の血液が一気に冷えていくのを感じていた。こんな巨大なポケモンにかなうはずがないことはわかっていたが、頭で考えるのと、実際に追いつめられるのとでは、だいぶ違っていた。
「リンちゃんは、もう戦えないし、いくらグラちゃんの防御皮膜でも、あの破壊光線は防げない――か」
 瑞穂は腰のポーチから、ナゾノクサイーブイモンスターボールを取り外すと、グライガーに手渡した。
「グラちゃん。ナゾちゃんとイーちゃんをお願い。私は、ここでリンちゃんを看ててあげなきゃいけないから」
 グライガーの表情が曇った。いやいやと首を横に振る。瑞穂はグライガーの態度に、戸惑いを隠さなかった。
「どうして? お願いだから、私の言うことを聞いてよ」
 グライガーモンスターボールを放り投げ、瑞穂のか細い胸にしがみついた。瑞穂が呆れ半分でグライガーの身体を引き離そうとしたも、グライガーの鋏は強く瑞穂の服を捉えて放さない。
「もう……グラちゃんったら。いいよ、もういい。グラちゃんには頼まないから」
 瑞穂はグライガーの放り投げたモンスターボールを拾い上げ、開いた。中からはナゾノクサイーブイが飛び出す。
「ナゾちゃん達だけでも逃げて!」
 ナゾノクサは瑞穂の言葉には反応しない。聞こえていないような素振りで、そっぽを向くだけで、その場から離れようとはしない。イーブイも瑞穂の言葉に耳を傾けることはなく、戸惑いながらも瑞穂の足に頬をすり寄せるだけだった。
「二人とも何してるの? どうして、私の言うこと――みんな、聞いてくれないの?」
 瑞穂の瞳は悲しみに覆われているかのように、潤んでいた。白い頬を赤く染め、精一杯の声で叫んでも、誰も動こうとはしないから。
 一方、カイリューは再び上陸し、瑞穂へ狙いを定めていた。紅蓮の炎が口の奥に広がり、そして一斉に放たれる。
 瑞穂は目前まで迫った炎に気がついた。頬がジリジリと熱くなる。咄嗟に、胸にしがみついたグライガーイーブイを庇うようにして、姿勢を低くする。全身が熱い。瑞穂は半ば諦めたように、目をつむった。
 突き刺さるような熱さが、瑞穂の身体を突き抜けた。だが、痛みはなく、意識も途絶える気配はない。瑞穂は恐る恐る顔を上げた。全身は、さっきまでの焦げるような熱さではなく、柔らかい暖かさに包まれていた。
 ゆっくりと瞳を開く。ゆっくりと呟く。自分の目の前に駆けつけてきた、ポニータへ向けて。
「どうして――戻ってきたの?」
 カイリューの大文字は、瑞穂へ到達する前に消えていた。ポニータの白い炎の前では、どんな炎であろうと効果は失われるのだ。
「ポニちゃんまで……みんな、何を考えてるの?」
「バカね――」
「え?」
 少女の声がした。瑞穂はハッとした様子で、ナゾノクサの方を見つめた。自分を睨む瞳が、そこに二つ輝いている。瞳は紅い色に染まっていた。底の見えない瞳で、瑞穂を見据え、ナゾノクサは話しを続けた。
「バカよ。こんな簡単なことに気がつかないなんて」
「簡単なこと?」
「みんな――あなたに傷ついて欲しくない。それだけよ」
 瑞穂はポカンとした表情で、呟いた。
「私に、傷ついて欲しくない?」
「あなたも、この子達が傷ついたら哀しいでしょ」
 俯き、小さな頷きを瑞穂は返した。
「それは、そうだよ――だ、だから私はみんなを傷つけたくないと思ったから、みんなを――苦しませたくなかったから――」
 言い訳しながら、瑞穂は自分の言葉に矛盾と偽りを感じていた。違う、違う、違う――私は――
「それは嘘よ。思い上がりでもある。あなたは、ただこの子達が苦しむのを見て、自分が悲しくなるのがいやだっただけ。違う?」
 瑞穂に、反論の言葉は見つからなかった。
 ナゾノクサは瑞穂に抱きかかえられているリングマに視線を移した。
「この子達が、今まで――そして今も、何のために闘っていたと思うの?」
「リンちゃん達が、闘ってた理由……」
 瑞穂はナゾノクサから眼を背けた。そんな瑞穂へ、ナゾノクサは蔑するような視線を流した。
「みんな、あなたが好きなのよ。あなたが、みんなを好きなように。だから、闘う。あなたのために」
 ナゾノクサの鋭い視線を避けるように、瑞穂は押し黙った。
「あなたにできることは、この子達を逃がす事ではなく、この子達を信じてあげることじゃないの? それが、トレーナーとして、ポケモンに対する、最低限の礼儀ではないの?」
 頬に手を当て、今にも泣き出しそうな顔で、瑞穂は一度だけ、こっくりと頷いた。
「そうだよね。私、みんなの気持ち、もっと受けとめてあげなきゃいけなかったんだ……」
 瑞穂は眼を伏せた。
「私、みんなのこと考えてるふりして、自分のことしか考えてなかったのかも――」
 項垂れる瑞穂。ナゾノクサは、少女の細い腕を優しく撫でた。
 そんな中、グライガーポニータは、カイリューの進行をくい止めるために、必死の抵抗を続けていた。カイリューの強力な攻撃を、素速い動きでグライガーが引きつけ、その隙にポニータが炎の渦で、カイリューを足止めする 。その繰り返しだった。空中、海上ではともかく、地上での動きは遅いカイリューにとって有効な戦い方ではあるものの、相手にダメージを与えるところまでは行き着かない。カイリューの分厚く強靱な表皮の前では、グライガーの爪も、ポニータの炎も圧倒的に力不足だったのだ。
「誰も、戦いたくなんかない。戦うのは、理由があるからよ。あの子達もあなたも、私も――ライムも――」
 ナゾノクサの言葉が不明瞭になり始めた。それに従い、彼女の瞳の紅い輝きが薄れていく。自分の内で張り裂けそうなほどに満ちている意志を、搾りきるようにして言葉を吐き出し、ナゾノクサは倒れた。
 瑞穂は立ち上がった。倒れたままのナゾノクサを胸に抱きかかえ、一人で呟いた。
「戦う理由――か」
 瑞穂は屈み込み、ナゾノクサリングマの横へと寝かせた。
「あなたは、何のために。どうして、暴れているの?」
 小さな声で、素速く、誰にも聞こえないような、囁きにも等しい呟きを発し、瑞穂は駆け出した。目の前で無数に転がっている瓦礫やアスファルトの破片を押しのけながら叫ぶ。
「やめて! もうやめて! こんな戦い誰も望んでない! 怒りにまかせて誰かを傷つけても、そのあとに残るのは何もない――いや、あなたには”力”がある分だけ、あなたの"力"が大きい分だけ悲しみだけが残る!」
 カイリューは咆哮した。大きな音が辺りに響いた。あの歌声のような美しい鳴き声が、どうしてここまで醜く歪んでしまわなければならないのか。瑞穂はその疑問の答えに、悲しみと怒りだけでないもう一つの感情を見つけた。
「似てる。似てるよ……駄々をこねてる子供に。子供の私が言うのも変だけど。一人で、独りぼっちで遊んでる子供に似てるよ」
 大きな叫び声で瑞穂の言葉はかき消せても、言葉の意味まではかき消せない。
「私の周りにもいた。独りぼっちで、人形を壁に叩きつけたりして、壊して遊んでる子供」
 寂しいこと、周りに誰もいないこと、孤独なこと。感情はストレートに、誰の制止も受けることなく、行動へと移る。負の感情は、直接に破壊衝動へとつながっている。
「だけど、それは本当にあなたが望んでいることじゃない! 自分の中にある殺意なら、自分で捨てることができる!」
 瑞穂は胸に手を当て、続けた。
「自分を見失ってしまったら、あなたはそこで終わってしまう」
 ――自分を見失う――
 その言葉に反応したのか、思い出したくもない過去が、瑞穂の脳裏を掠めた。まるで記憶をピンポイントに検索したかのような精度で、映像が何度も何度も切り替わる。一瞬であっても、自分を捨ててしまったあの日のこと。怒りに任せるままに、男達を半殺しにした、白銀に光る満月の夜のことを。
 甦ってくる森の空気の冷たさと、男の血糊の生臭さに手が震えていた。瑞穂が一番嫌いな類の震えだった。いずれ全身まで震えは拡がり、唇が動かなくなるから。
「私は力が無かったから、誰も守れなかったし、誰も殺せなかった。でも、あなたの悲しみは誰でも傷つけることができる、誰でも、何人でも殺すことができる。だから、こんなことはやめようよ!」
 カイリューは首を大きく横に振り、唸るような声を響かせた。瑞穂の声に動揺しているのか、それともただ単に、怒り狂っているだけなのか。
 巨大な尻尾を振り回し、カイリューグライガーポニータを弾き飛ばした。瑞穂は瓦礫の山の頂上へと飛んでいく二匹の方へ視線を移した。
「グラちゃん! ポニちゃん!」
 瑞穂は叫んだ。瓦礫で全身を傷つけ、二匹は痛みに喘いでいる。少女は瓦礫の山をよじ登り、二匹の横へ座り込んだ。先程の手の震えが、肩にまで及んでいた。耳から聞こえるのは、爆発音でも、瓦礫のはぜる音でもなく、自分の荒い呼吸音だけ。
 だがその音は、すぐに掻き消されることになる。背中の方で閃光が弾け、轟音が轟いたのだ。極太の破壊光線が、カイリューの胸を直撃していた。カイリューは前と同じように弾け飛び、地面へと叩きつけられた。
 そいつに、今、何を言っても無駄だよ。
 気を失っていたはずのリングマが目を覚まし、起きあがっていた。訥々と瑞穂へ話しかけながら、口からもうもうと沸き起こる煙を片手で払っている。
「リンちゃん。大丈夫?」
 さあ、もう駄目かもしれないよ。ただ、これだけは姉さんに聞いて欲しい。
 リングマは、起きあがろうとしているカイリューへ身構えながら、続けた。
 姉さんは力がなかったから誰も殺せなかったんじゃない。そりゃあ、姉さんは背も低いし、やせっぽちで胸もないし、腕相撲も弱いし、足が速いのだけが取り柄だけど……。
「胸はこれから大きくなるよ。たぶん……」
 だけど、姉さんは弱くはなかった。だから、誰も殺さずに済んだ。でも、あいつは姉さんほど強くない。だから、姉さんの言葉が届いていても、意味ないよ。あいつを止めるには……。
「止めるには?」
 もう殺すしかない。
「殺すのはだめ! それに、いくらリンちゃんでも、あのカイリューは倒せないよ」
 そんなことない。僕の破壊光線は、あいつに通用してる。このまま連続で攻撃すれば、あいつを殺せる。殺せるんだ。
 リングマは口を開き、大きく息を吸い込んだ。空気中に小さな光の粒が浮かび上がり、それらが口の中へと吸い込まれ集まっていく。薄い光がやがて眩いほどに濃くなり、轟音と衝撃波とともに発射された。起きあがりかけていたカイリューの頭部へ命中する。爆発音と悲鳴が混ざったような音が木霊した。
「やめて、リンちゃん。殺しちゃだめだよ。私は、これで終わりにしたいから――」
 瑞穂の言うことを無視し、リングマは破壊光線を連射し続ける。
 カイリューの充血した瞳から涙が流れ落ちた。血を含んだ、真っ赤な涙だった。同時にリングマの口からも、鮮血が流れ出た。荒い吐息と一緒に吐き出す白煙が、微かに赤みを帯びている。
「やめてよ! これ以上、破壊光線を撃っちゃだめ。カイリューだけじゃなくて、リンちゃんも死んじゃうよ!」
 瑞穂は瓦礫の山を飛び降り、リングマの肩にしがみついた。
「お願いだから、やめて……やめてよ」
 肩にしがみついた瑞穂をリングマは振り払う。反動で、瑞穂の身体にリングマの熱い鮮血が飛び散った。沸騰でもしているかのように湯気が立ち上っている。
 カイリューリングマの破壊光線に耐えながら口を開いた。リングマと同じように、口の中に光が集まっていく。泣きながら、じっとリングマと瑞穂を睨み付けながら、エネルギーを貯める。そして放つ。両者のエネルギーが空中で衝突した。
 だが、二つの破壊光線は消えた。掻き消されていた。両者は呆然とした様子で、辺りを見回した。その時、瑞穂は海上に佇むもう一つの巨体を見た。
「リンちゃん、あれ……あれを見て」
 瑞穂の指し示す方向へ、二匹が視線を移した。暗い波の上に立っていたのは、また別のカイリューだった。先程まで暴れていたカイリューとは対照的に、優しい眼をしている。
 口からは白煙があがっていた。その様子を見つめ、即座に瑞穂は気付いた。先程の破壊光線を掻き消したのが、このカイリューであると。そして、このカイリューが幻でも幽霊でもなく、実体のある存在であるということも。
 優しい眼をしたカイリューは、全身が傷だらけの鋭い目つきのカイリューを舐めるように見つめた。悲しそうに俯き、首を横に振った。鋭い目つきのカイリューは硬直したように動かないでいる。
 その優しげな瞳を閉じて、カイリューは空を仰ぎ見、透き通るような美しい声で鳴いた。歌のような鳴き声は、冷たく暗い海に響きわたった。辺りは静寂に包まれ、黒雲の隙間から差し込む日の光が、海を明るく照らした。光に導かれるように、歌声は空へと広がっていく。
 血塗れでふらつくリングマを抱きかかえ、彼を支えながら瑞穂はその美しい声に耳を澄ませた。
「優しい歌、だね」
 リングマはこっくりと頷いた。彼の首筋から、ぽたぽたと数滴、血の雫が滴り落ちる。
 凶暴な鋭い目つきが緩んでいく。カイリューは朱色に染まった涙を拭い、大きく口を開いた。相手の歌声を返すように、彼も同じく美しい声で鳴いた。先程まで、すべてを焼き尽くす破壊光線を放っていた口から、今はまったく正反対のものが流れている。
「昔話と同じ……。私やっと、ちゃんと理解できた。あのカイリューが暴れていた理由。彼は、ただ単に仲間を失ったのが悲しかったわけじゃないんだ」
 優しい瞳のカイリューは歌いながら、相手のカイリューから離れていく。戸惑うような表情を見せ、鋭い目をしたカイリューがそれを追う。だが、優しい眼のカイリューは溶けていた。まるで、自分が存在してはいけないものであるかのように、再度首を振り、白い波に溶けだすように消えていく。
「どうして、どうして溶けてるの?」
 瑞穂の呟きは、カイリューの歌声の意味とシンクロしていた。彼は歌いながら問いかけていた。いや、歌声そのものが、相手への問いかけだった。
 誰の言葉にも、歌声にも応えることなく、優しい瞳のカイリューは消えた。最後に残った泡に、柔らかい虹色の光が映りこんでいた。
「もしかして、これが、虹の瞳の力――」
 瑞穂はリングマの横に座り込むと、呆然と呟いた。呟きは歌の響きに消された。
 カイリューは消えた仲間を追いかけるようにして、海中へと沈んでいく。次第に大きくなっていく波の音、上空を旋回するヘリコプターのジャイロ音。
 やがて、カイリューの姿は完全に消えた。それでもなお、歌声は消えない。少なくとも、瑞穂とリングマの二人だけには聴こえていた。
 彼の歌を聴いたのは、少女が最後だった。

 

○●

「あーもう! 死ぬかと思った!」
 水平線の奥へ沈んでいく太陽に向かって、ミルは叫んだ。
 騒めくアサギの街とは対照的に、砂浜は、さざ波と同調でもしているかのように静かだった。今にも消えてしまいそうな細い夕日が、瓦礫に埋もれた砂浜を、血に満ちた戦場のように紅く染め上げている。
「お姉ちゃん。少し静かにしてや」
 ゆかりが、いかにも迷惑そうな表情をつくり、ミルへと訴えた。
「しかたないじゃん。恐かったんだもん――」
「なんでやの。ウチらはただ海に落ちただけやん。瑞穂お姉ちゃんなんか、もっと恐かったはずやで。そやろ? お姉ちゃん?」
 瑞穂は瓦礫の山の頂に立ち尽くしていた。胸に手を当て、次第に色を失っていく海を、ただただ虚ろな瞳で眺めているだけだった。
「お姉ちゃん?」
 ゆかりの問いかけで、瑞穂は我に返ったようだった。瓦礫の山をゆっくりと下り、薄暗くなっていく砂浜を横切り、アスファルトの段差に腰掛ける。
「お姉ちゃん、何しとったん?」
「あの歌声、まだ、聴こえるかなって思ったんだけど」
「あの歌声?」
「うん。でも、もう聴こえなかった」
 瑞穂は、ゆかりの小さな掌を握り締めた。ゆかりは瑞穂の膝の上にちょこんと座り込む。
「それにしても、あいつ……なんで、暴れたりしたんだろう。少なくとも、あたしと一緒にいたときは、あんなに大人しかったのに」
 吐き捨てるように呟き、ミルは足もとの瓦礫を蹴飛ばした。砂がはぜ、白い波の中に小さな波紋をつくる。
「霧の夜、一匹の大きなポケモンが、海を彷徨っていました――」
 瑞穂は小さく呟いた。ミルは怪訝そうに瑞穂の顔を覗き込む。
「何それ?」
「2年くらい前に、ハナダシティに旅行に行ってね、その時に教えてもらった昔話」
「こないだ言ってたやつね」
「うん。この世界で”最後の一頭”になったポケモンが、ずっとずっと自分と同じ仲間を探して、海を彷徨うお話」
「最後の一頭――」
 アサギの街に、少しずつ光が灯る。蒼く、白く、様々に彩られた光が、瑞穂の横顔を薄く照らす。
「あのカイリューも、自分と同じ仲間を探して、ずっと海を彷徨っていたんじゃないかな。その証拠に、世界各地で、大きなポケモンは目撃されているしね。それも、何百年も昔から」
「それじゃ、あのカイリューは、やっと見つけた仲間を?」
「自分の手で、殺してしまった――それに、自分の周りで、たくさんの命が消えていくのに耐えられなかったんじゃないかな。だから、壊れた」
「壊れた?」
「あの時の、私みたいに――」
 ゆかりの握り締める力が強くなった。掌には微かに汗が滲んでいる。瑞穂は静かにゆかりを抱きかかえ、立ち上がった。
「そ、それにしても凄いね。その虹の瞳の力。死んだはずのカイリューを甦らせるなんて」
「ああ、そのことなんだけどね……」
 ミルは躊躇いがちに胸の珠にふれ、小首を傾げた。
「たしかに虹の瞳には、死んだ者の意識を強くする力はあるけど、一度滅んでしまった肉体まで再生させることはできなんだよね。私みたいに、ちょっと傷ついただけならまだしも、もう何週間も経ってるわけだし、そもそも場所が違うし」
 瑞穂は息を呑んだ。ミルの言うことが正しいのならば、自分が見た、もう一匹のカイリューは何だったのだろうか。
「でも、あれは幻じゃなかったよ。実際に破壊光線の威力を相殺してたし」
「だから、これにそんな力は無いって。あの近くにカイリューの意識を実体化させることのできる媒介、もしくはカイリューの肉体そのものが存在してたのなら、話は別だけど」
 首を小さく傾げ、考え込む瑞穂とミルに、ゆかりは声をかけた。
「なあ、そんなことより、どっか行こうや。ウチ、お腹すいたんやけど」
「あ、それじゃ、今日は私の手作りスープで……」
「それは嫌や」

 

○●

 ここなら遠くまで見渡せる。
 街の光も、波の音も、ここなら届くことはない。辺りは絶無の闇に覆われていた。
 黒く灼けた灯台の、一番高い場所に瑞穂は佇んでいた。その澄んだ瞳を閉じ、風の音に耳を傾ける。だが、あの歌声が風に流されて聴こえてくることはなかった。
「リンちゃん……」
 後ろには、リングマの巨体が立っていた。彼は瑞穂のか細い背中を見つめていたが、少しだけ視線を上へと移す。
「これで、良かったのかな?」
 リングマは首を縦に振った。瑞穂は小さく肩をすくめた。
「もう誰もいないのに、ずっと仲間を探し続けるんだよ、あのカイリューは。それでも?」
 瑞穂の言葉に、リングマは何も反応を示さなかった。自分の答えを変えるつもりはないらしい。
 それきり、誰も、何も言わなかった。風の音だけが、無惨に破壊された灯台の隙間を通り抜けていく。
 瑞穂は瞳を開き、海を見つめた。少しも動くことなく、水色のツインテールだけが、風に揺られて靡いている。
 この海の、遠い何処かで、あのカイリューは自分と同じ仲間を探し続けているのだろうか。返ってくることのない歌を歌い続けながら、自分の命が尽きるまで永遠に。
 瑞穂は、リングマの方へと振り向いた。
「そろそろ、帰ろうか――」
 早足で階段を降り、瑞穂は灯台を出た。しばらく無言のまま歩き、アサギの街へ入る前に、もう一度だけ、少女は灯台の方へと振り返った。
 凪いだ海から、微かに美しい歌声が聴こえたような気がした。あのカイリューの孤独な二重奏が。
 歌声は、すぐに騒然とした街の音に紛れて消えた。
 瑞穂は海から眼を背け、その場から立ち去った。歌声は簡単に消えても、内に秘められた哀しみは、少女の胸の中で響き続ける。
 会いたい、君に会いたい――その歌詞とともに。

 

○●

※本作はウェブサイト「ポケモンセンターin19番水道」にて2007年まで掲載されていたものを

 再公開にあたり加筆・修正・改題したものです。